葬儀が終わって三日目の朝、親戚が私に言い放った。「もう面倒は見られん。この家も売る。あとは自分で何とかしろ」。母を亡くした十七歳の冬、私は母の位牌と古い鞄一つで家を追い出された。行く当てもなく歩き続け、山道で力尽きて倒れた私に、見知らぬ老夫婦が差し出したのは、たった一切れの傷ついたりんごだった。「まずは食べな。話はそれからだ」。その一言が、凍りついた私の時間を動かした。あれから十五年。恩返し…

葬儀が終わって三日目の朝、親戚が私に言い放った。「もう面倒は見られん。この家も売る。あとは自分で何とかしろ」。母を亡くした十七歳の冬、私は母の位牌と古い鞄一つで家を追い出された。行く当てもなく歩き続け、山道で力尽きて倒れた私に、見知らぬ老夫婦が差し出したのは、たった一切れの傷ついたりんごだった。「まずは食べな。話はそれからだ」。その一言が、凍りついた私の時間を動かした。あれから十五年。恩返し...

「もう面倒は見られん。この家も売ることにした。母親もいないんだ。あとはお前が自分で何とかしろ」

その声には温かさのかけらもなかった。母の葬儀が終わってまだ三日しか経っていない朝のことだった。線香の匂いがまだ残る座敷で、俺は喪服のまま親戚たちに囲まれて立っていた。

父の顔は写真でしか知らない。俺の味方はこの世にたった一人、母だけだった。その母がいなくなった。だから俺には頭を下げてすがれる相手も、帰る場所も、どこにもなくなってしまった。

手に持たされたのは母の位牌と着替えを詰めた古い鞄が一つ。それだけを抱えて、俺は生まれ育った家を追い出された。十七歳の冬の入り口。俺はこの世にたった一人で放り出されたのだ。

あの日、行く当てもなく歩いた山合いの道端で差し出された、たった一切れのりんご。それが凍りついた俺の時間をもう一度動かすことになるなんて、この時の俺はまだ思ってもいなかった。

俺の名前は宮原悠人。三十二歳。ある食品会社で地方の農物を使った商品開発の仕事をしている。世の中に出回らない傷のついた果物。形が不揃いで企画から外れてしまった野菜。普通なら捨てられてしまうものを、もう一度美味しいものに変えて世に送り出す。それが俺の仕事だ。

大きな会社の役員でもないし、成功者と呼ばれるような立派な人間でもない。ただの地味な会社員だ。それでもこの仕事にだけは、人には言えない理由でこだわり続けてきた。

傷物にもちゃんと値打ちがある。捨てられるはずのものにもまだ生きる道は残されている。俺が本気でそう信じているのには、訳がある。

話は今から十五年前に遡る。あれは俺がまだ十七歳の冬になりかけた頃のことだった。

俺は母と二人きりで育った。父は俺が物心つく前に病気で亡くなったと聞かされている。写真でしか顔を知らず、その声もぬくもりも俺は知らない。俺にとっての家族は、最初から母ただ一人だった。

母は昼も夜も働いた。朝はスーパーのレジに立ち、夕方からは小さな居酒屋の厨房を手伝った。それでも暮らしはいつもギリギリで、月末になると母は台所の卓を叩きながら小さくため息をついていた。それでも母は俺の前で弱音を吐いたことが、ただの一度もなかった。

安い果物を一つ買うと、母はそれをきっちり半分に割って、必ず大きい方を俺に差し出した。

「ほら、こっちの方が大きいよ。育ち盛りなんだからいっぱい食べな」

そう言って笑うのだ。今思えば母はいつも自分の分を削っていたのだと分かる。けれどあの頃の俺は、その優しさにただ甘えていた。

母はどんなに疲れて帰ってきても、俺の話を必ず聞いてくれた。学校で会ったこと。友達とくだらないことで喧嘩したこと。母はうんうんと頷きながら、「それでそれで」と身を乗り出して聞いてくれた。

「悠人の話を聞くのが、母さんの一日で一番の楽しみなんだよ」

そう言って目を細めるのだった。あの頃の俺はそのありがたさにまるで気づいていなかった。母のいる温かい暮らしが当たり前にずっと続くものだと思い込んでいた。

母は口癖のようにこんなことも言っていた。

「世の中には辛い思いをしている人がたくさんいる。もしお前がそういう人を見かけたらね、見て見ぬふりだけはしちゃいけないよ。手を差し伸べられる人になりなさい。それが母さんのたった一つの願いだからね」

子供だった俺はその言葉の重さなんてまるで分かっていなかった。ただうんと生返事をするだけだった。

ある日、学校で父親のいないことをからかわれて、俺は泣いて帰ってきたことがあった。母は俺の話を聞くと、俺をぎゅっと抱きしめた。

「うちはお父さんがいなくてお金もない。でもね、悠人には母さんがいる。母さんには悠人がいる。それだけで母さんは世界で一番のお金持ちなんだよ」

その言葉で俺は泣きやんだ。貧しくても母さんさえいれば俺は平気だった。

母が倒れたのは、俺が高校二年の初冬のことだった。台所で夕飯の支度をしている最中に、母は音もなく崩れ落ちた。救急車で運ばれ、俺は病院の廊下で一晩中震えながら待った。

医者から病名を告げられた時、俺は言葉の意味がうまく飲み込めなかった。医者はひどく静かな声で「もう手の施しようがない」のだと言った。

頭の中が真っ白になった。何かの間違いだと思った。だって母はまだ四十を過ぎたばかりだ。俺を置いていなくなるはずがない。

母はそれから半年ほど病院のベッドで、少しずつ痩せていった。俺は毎日学校が終わるとまっすぐ病院へ通った。母は俺の顔を見るたびに、げっそりと痩せた頬でそれでも精一杯笑って見せた。

「あんたはね、優しい子だよ。人の痛みがちゃんと分かる子だ。だからきっと大丈夫。母さんがいなくなっても、お前は一人でちゃんと生きていける」

母はよく俺の手を握ってそう言った。日ごとに細く冷たくなっていく手だった。俺はその度に首を横に振った。

「そんなこと言うなよ。大丈夫だよ。母さんはすぐに良くなる。良くなって、また二人で暮らすんだ」

心にもないことを俺は言い続けた。良くならないことは本当は自分が一番よく分かっていた。分かっていて、それでも認めたくなかった。

母の入院費はわずかな蓄えをみるみるうちに食いつぶしていった。俺は学校が終わるとまっすぐ病院へ行き、母が眠りについたのを見届けてから、深夜まで近くのコンビニでアルバイトをした。同級生たちが部活や恋の話に明け暮れている間、俺は母の病気のことも家の貧しさのことも誰にも打ち明けられずに、ただ一人で抱え込んでいた。

大変だとは思わなかった。母のためならどんなことでもできると思っていた。ただ、眠る時間を削って働いても母の命が一日でも伸びるわけではない。そのどうにもならない現実だけが、俺をじわじわと追い詰めていった。

母が息を引き取ったのは、冬の初めの雪の散らつく夜だった。最後に母は俺の名前を一度だけか細い声で呼んだ。それきり二度と目を覚まさなかった。

俺は冷たくなっていく母の手を握ったまま、朝まで動くことができなかった。悲しいという言葉ではまるで足りなかった。世界から色が消えて、音が消えて、俺だけが暗い水の底に一人取り残されたような気がした。

葬儀は遠い親戚たちが集まって仕切ってくれた。俺はそれを心の底からありがたいと思っていた。母が亡くなって身寄りのいなくなった十七歳の俺を、この人たちがきっと引き取ってくれるのだろう。これからはこの親戚を頼って生きていくのだろう。そんな風にぼんやり思っていた。

だが通夜の晩から、親戚たちの態度は少しずつ変わっていった。俺のいないところで大人たちがひそひそと何かを話し合っている。障子の向こうから漏れ聞こえてくるのは金の話ばかりだった。母がわずかに残したお金のこと。この古い家を売ればいくらになるか。俺を引き取ればこれから何年、いくらかかることになるか。

俺は縁の影で息を殺してその声を聞いていた。体の芯がじわじわと冷えていった。生きていた頃、あの親戚たちは母にも俺にもそれなりに優しかった。正月にはお年玉をくれた。困ったことがあったらいつでも言いなさいと、そう言ってくれる人もいた。

俺はその言葉を本気で信じていた。けれど母という繋がりが消えた途端、その優しさはまるで潮が引くように綺麗に消えてなくなった。母の残した数少ない着物や、俺と母が写った古いアルバムまでも「もういらないだろう」とまとめてゴミ袋に詰められていくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。

人の優しさというものがこんなにもあっけなく裏返るものだということを、俺はその時初めて知った。

そして葬儀が終わって三日目の朝、あの言葉が俺に投げつけられた。

「もう面倒は見られん」

「この家も売ることにした」

「うちにもうちの生活があるのよ。悪く思わないでちょうだいね」

「母親もいないんだから。これからは自分でなんとかするんだな。それが世の中ってもんだ。甘えるんじゃないぞ」

俺は何も言い返せなかった。ただ俯いて、拳を握りしめることしかできなかった。

俺はいらない子なんだ。誰も俺を必要としてなんかいない。母がいなくなった今、俺の居場所はもうこの世のどこにもないのだ。

俺は母の位牌を胸に抱え、着替えの詰まった鞄を持って生まれ育った家の玄関を出た。誰一人引き止めなかった。振り返ると家の窓はもう俺の方を見てはいなかった。

その日から俺は行く当てもなくただ歩き続けた。財布の中には母の枕元に残されていたかわいらしい小銭にしか入っていなかった。それを握りしめて電車に乗り、バスを乗り継いだ。どこへ向かうという当てもなかった。ただ、俺のことを誰も知らない場所へ行きたかった。

気がつくと俺は名前も知らない山合いの町にたどり着いていた。十一月の終わりの風は刺すように冷たかった。喪服のジャケット一枚では体の熱がどんどん奪われていく。それでも俺は当てもない道をひたすら歩いた。

どれくらい歩いたのか、もう時間の感覚さえなくしていた。俺は朝から何も食べていなかった。いや、思い返せば母が倒れてからこの半年、まともに食事を取った記憶がほとんどなかった。腹の減りと寒さと、それ以上に深い心の疲れとで、俺の足はもう棒のように重くなっていた。

ふと遠くの民家に、温かそうなオレンジ色の明かりがともっているのが見えた。その家の中ではきっと家族が食卓を囲んでいるのだろう。湯気の立つ温かい夕飯を囲んで。俺にはもう二度と手に入らない当たり前の風景だった。その明かりを見ていたら、なぜだか涙が滲んできた。

どのくらい歩いただろう。西の空に日が傾き始め、山の稜線が燃えるように赤く染まり出した頃だった。不意に俺の視界がぐらりと大きく揺れた。足に全く力が入らない。

あ、と思った時にはもう遅かった。膝から崩れ落ちるように、俺はその場に倒れ込んだ。冷たいアスファルトがひやりと頬に触れた。体は鉛のように重かった。もう指一本動かせなかった。

誰も俺を探してなんかいない。俺がここで消えても悲しむ人は一人もいない。そう思うと不思議と心は静かだった。ああ、ここで終わるのか。薄れゆく意識の中で俺はぼんやりとそう思った。不思議と怖くはなかった。むしろ少しほっとしていた。ここで力尽きれば、母のところへ行ける。もう寒さも孤独もあの冷たい言葉も感じなくて済む。

俺は目を閉じた。まぶたの裏に母の笑顔が浮かんだ。唐揚げを俺の皿に乗せてくれた母。うさぎのりんごを切ってくれた母。母さん、俺、そっちへ行くよ。もう疲れちゃった。頑張ったけど、もう無理みたいだ。ごめんね。そう、心の中で呟いた。

どれくらいそうしていただろう。遠くの方で車のエンジンの音が聞こえた気がした。それから砂利を踏む慌てたような足音。そしてしわがれたけれど驚くほど温かい声が、俺の耳のすぐそばで響いた。

「あんた、大丈夫かい?しっかりしな。おい、じいさん、早く来とくれ。子供が道で倒れてる」

かすんだ視界の隅に、小柄な老女の顔が見えた。しわの刻まれた、よく日に焼けた顔。心配そうに眉を寄せて俺の顔をじっと覗き込んでいる。続いて、ごつごつとした大きな手が俺の背中を支えて静かに起こしてくれた。振り向くと、白髪の、がっしりした体つきの老人が立っていた。

「おい、坊主、意識はあるか?喋れるか?どっか痛いところはあるか?」

俺は答えようとしたが、口がうまく動かなかった。ただ、俺の背中を支えるじいさんの手が驚くほど硬くて、そしてじんわりと温かかったこと。それだけは俺は今でもはっきりと覚えている。

薄れゆく意識の中で俺はぼんやりと思った。どうしてこの人たちは、こんな赤の他人の俺を助けようとするんだろう。放っておけばいいのに。何の得にもならないのに。今まで出会った大人はみんな俺を都合よく見捨ててきた。それなのにこの二人の手は、俺の体をまるで壊れ物みたいに扱う。

「顔が真っ青じゃないか。手も足も氷みたいに冷え切ってる。じいさん、これはいけない。うちまで運ぶよ。軽トラをここまで回してくれ」

「おう、分かった。坊主、もう心配いらんぞ。じっとしてろ。すぐに温めてやるからな」

俺はされるがままだった。抵抗する力も残っていなかった。ばあさんが自分の羽織っていた綿入れを脱いで、俺の方にかけてくれた。ふわりと日向のような匂いがした。誰かにこんな風に触れられたのは、母が倒れて以来初めてのことだった。張り詰めていた何かが、俺の中でふっと緩んだ。

次に目を覚ました時、俺は知らない天井を見上げていた。古い太い木の梁がそのまま剥き出しになった天井だった。体にはずしりと重いけれど心地よい布団と毛布が何枚も重ねてかけられていた。頬に触れる畳の匂い。そしてどこか近くから味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。その匂いはなぜかひどく懐かしかった。母が生きていた頃のあの狭い台所の匂いにどこか似ていた。

指先をそっと動かしてみる。かじかんでいたはずの手にしんわりと血が通っている。体は布団の中でぽかぽかと温かかった。生きている。俺はまだ生きているんだ。

体を起こそうとすると、障子がすっと開いた。あの小柄な老女が顔を覗かせた。手には湯気の立つ盆を持っている。俺と目が合うと、老女はしわだらけの顔をぱっと明るくほころばせた。

「おや、目が覚めたかい?よかった。よかった。あんた、丸一日も眠ってたんだよ。よっぽど疲れが溜まってたんだね。どこも痛くないかい」

そう言いながら盆を枕元に置いた。白い皿の上には、皮を向いたりんごがうさぎの形に綺麗に切り揃えられて並んでいた。つやつやと光る真っ赤なりんごだった。ただ、よく見るとその一つ一つに茶色い傷や小さなへこみがあった。

「これ、うちで作ってるりんごでね。傷がついちまって店には出せないやつなんだけど、味だけは一等品なんだよ。ほら、遠慮しないで。まずは食べな。話はそれからだ」

俺はためらった。この人たちが誰なのか、ここがどこなのかもまだ何も分からない。それに俺にはこの親切に報いる金など一円もない。俺は布団の上で身を固くして、消え入りそうな声で言った。

「あの、俺、お金がないんです。何も払えません。だから、こんなによくしてもらっても、俺何もお返しできなくて」

すると老女はぷっと吹き出すように笑った。しわに埋もれた目が細く、優しく垂れた。

「お金?あんた、何を言ってるんだい?誰がお金が欲しいなんて言ったのさ。道で倒れてる子を助けるのに、お礼をもらってどうするんだい?そんなもの、いるわけないだろう。いいから、つべこべ言わずにお食べ」

俺は恐る恐る一切れを手に取り、口に運んだ。しゃくりと澄んだ音がした。次の瞬間、冷たくて甘い果汁が口いっぱいにじゅわりと広がった。瑞々しくて驚くほど甘い。その甘さが舌から喉へ、喉から胸へとゆっくり降りていった。

その瞬間だった。俺の両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。自分でもどうしてなのかまるで分からなかった。ただ、一旦溢れ出した涙はもう止まらなかった。

母をなくしてから、俺は誰にも優しくされていなかった。「いらない」と言われて、追い出されて、捨てられて。もう自分にはこの世に居場所などないのだと思い込んでいた。それなのに、名前も知らないこの人たちは、俺が何者かも聞かずにりんごを向いて布団を敷いて、味噌汁を温めて、俺が目を覚ますのを待っていてくれた。何の見返りも求めずに。

ただそれだけのことが、氷のように凍りついていた俺の心をじわりと溶かしていった。りんごの甘さと涙の塩辛さが口の中で混ざり合った。それでも俺は食べる手を止めなかった。一切れ、また一切れと夢中でりんごを食べた。美味しかった。ただただ美味しかった。生きていてよかった。そう思えたのは、随分久しぶりのことだった。

俺は声を上げて泣いた。りんごを握りしめたまま、まるで小さな子供みたいにわーわーと泣きじゃくった。老女は何も聞かなかった。どうして倒れていたのか。どこから来たのか。何も聞こうとしなかった。ただ、俺の背中にそっと手を当てて、ゆっくりと何度もさすってくれた。

「いいんだよ。泣きたいだけお泣き。我慢なんかしなくていい。腹が減ってるとね、人は余計に悲しくなるもんなんだよ。だからね、まずは食べる。腹が膨れりゃ少しは元気も出る。難しいことはそれから考えりゃいいのさ」

俺はしゃくり上げながら、それでも名前だけは告げた。

「宮原悠人です」

老女は「悠人かい。いい名前だね」と目を細めた。そこへ、あの白髪の老人が部屋に入ってきた。俺が泣いているのを見ても驚いた顔一つしなかった。ただどっかりと俺のそばに膝をかいて、皿の上のりんごを一切れ、きいっと自分の口に放り込んだ。そしてうまそうにしゃくしゃくと噛んだ。

「うまいだろう。うちのりんごは日本一だ。傷はついてるがな」

俺は涙を拭いながらこくりと頷いた。それがおかしかったのか、じいさんはふっと口の端で笑った。

その日の夜、俺は生まれて初めて他人の家で夕飯をご馳走になった。焼きたての白い飯。熱々の味噌汁。ぬか漬けと、こんがり焼いた魚。どれも涙が出るほど美味かった。老女は俺の茶碗が空になるたびに、何も言わずに黙って飯をよそってくれた。三杯、四杯。俺は夢中でかき込んだ。

食事の後、ばあさんは俺のすり切れた喪服の袖口を見つけると「ちょっと貸してごらん」と、その場で針と糸を持ってきて縫ってくれた。俺のために誰かが針を動かしてくれる。ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。ばあさんの手はしわだらけで節くれ立っていたけれど、その手つきはとても優しかった。母が生きていた頃、俺のズボンの穴をこうやって縫ってくれたことを思い出した。

その夜、俺は敷いてもらったふかふかの布団に潜り込み、泥のように深く眠った。久しぶりに夢を見た。母が出てくる夢だった。母はあの優しい笑顔で俺の頭を撫でてくれた。「よかったね。優しい人たちに会えて」そう言って母は笑っていた。目が覚めたら枕が少し濡れていた。それは悲しい涙ではなかった。久しぶりに流した、温かい涙だった。

翌朝、目が覚めると俺は自分の置かれた状況を改めて思い知らされた。ありがたい。本当にありがたい。けれど同時に、俺の胸には冷たい不安が広がっていた。俺はいつまでここにいていいのだろう。いや、いていいはずがない。俺はこの人たちにとって赤の他人だ。しかも一円も持っていない。ただの厄介者だ。

俺はそっと布団を抜け出し、音を立てないように身支度を整えた。母の位牌を鞄にしまい、忍び足で玄関へ向かった。黙って出ていこうと思った。礼も言えないまま去るのは身を切られるように心苦しかったけれど、あの優しい二人の顔をもう一度見てしまったら、俺はきっとまた甘えてしまう。離れられなくなってしまう。だから今のうちに。

玄関の引き戸に手をかけた、その時だった。

「おい、坊主。こんな朝っぱらからどこへ行くつもりだ」

背後から低い声がした。振り返ると、腕を組んだじいさんがじっと俺を見ていた。

「お世話になりました。本当にありがとうございました。俺、そろそろ行きます。これ以上ご迷惑はかけられませんから」

「行くって、どこへ行くんだ?当てはあるのか?」

俺は答えられなかった。当てなどあるわけがなかった。じいさんは俺の顔をしばらくじっと見ていた。それから大きくため息をついて、台所の方へ声を張り上げた。

「おい、ばあさん。この坊主、黙って出ていこうとしてるぞ」

奥から前掛けで手を拭きながら、あの老女がばたばたと出てきた。そして俺が抱えた鞄を見るなり、腰に両手を当ててぷりぷりと本気で怒ってみせた。

「全く、水臭い子だね。朝ご飯も食べずにどこへ行くつもりだ。当てもないくせに。だめだめ。そんなの、ばあちゃんが許さないよ。いいから荷物を置きな。話はそれからだ」

俺はその場に立ち尽くした。優しくされることが辛かった。俺なんかにそんな価値はない。二人の親切を受け取れば受け取るほど、いつか捨てられた時がもっと怖くなる。喉の奥からこらえていたものがぐっと競り上がってきた。俺は俯いたまま、絞り出すように言った。

「どうして……どうしてそんなによくしてくれるんですか?俺は傷物なんです。血の繋がった親戚にさえ『いらない』って捨てられた。何の値打ちもない傷物なんです。だから俺なんかに優しくしたって……」

するとじいさんは何も言わずに台所へ歩いていった。そして木箱の中から一つ、りんごを手に取って戻ってきた。それは大きな傷のついた真っ赤なりんごだった。じいさんはそれを俺の目の前にぐいっと差し出した。

「坊主、このりんごをよく見てみろ。ここにでかい傷があるだろう。木から落ちて枝にぶつかった後だ。こういうのはな、店には出せん。世間ってやつは、傷がついてるってだけでこいつを弾いて捨てちまう。値なしだと決めつけてな。だがな、坊主。かじってみりゃ分かる。中身は傷のないやつと何にも変わりません。いや、こういうやつの方が枝の先で太陽をたっぷり浴びて育って、よっぽど甘かったりするもんだ。傷があっても甘さは変わらん。人も同じだ。表面の傷を見て値を決めるやつの方が、よっぽど間違ってるのさ。覚えとけ、坊主」

その言葉を、俺は胸の奥で何度も繰り返した。傷があっても甘さは変わらない。人も同じだ。誰かにそんな風に言ってもらえたのは、生まれて初めてだった。母が亡くなってからの俺は、ずっと自分のことを値打ちのない人間だと思い込んでいた。傷物だから捨てられたのだ。誰にも必要とされないのは、俺という人間に何の価値もないからだ。そうやって自分で自分を責め続けていた。

それなのに、この昨日あったばかりのじいさんは、俺の傷ごと俺という人間を丸ごと認めてくれた。傷があったって、お前にはちゃんと甘さがある。値打ちがあるのだと。

俺の頬を涙が伝った。今度は悲しみの涙ではなかった。張り詰めていたものが緩んで溢れ出す、そういう涙だった。俺は生まれて初めて、ありのままの自分を丸ごと受け止めてもらえた気がした。

俺は鞄を床に置いた。そして二人に向かって深く頭を下げた。

「もう少しだけ、ここにいさせてください。お願いします」

それだけ言うのが精一杯だった。ばあさんは「よし、それでいい」と大きく頷いて、俺の背中をぽんと叩いた。その手のひらの感触がじんわりと温かかった。

その日から俺は大葉さんの家に、しばらくの間置いてもらうことになった。じいさんの名は大葉幸吉。ばあさんの名は大葉千代。二人はこの山合いで代々りんご農園を営んできた夫婦だった。子供はいなかった。だからだろうか。二人は俺をまるで昔から知っている孫のように、当たり前の顔をして家に置いてくれた。

俺はただ食べさせてもらって寝させてもらうだけというのが、どうにも落ち着かなかった。せめて何か手伝いをさせてほしい。そう頼むと、幸吉じいちゃんは「なら、ついてこい」と俺を果樹園へ連れ出した。家の裏手の斜面いっぱいに、りんごの木が段々になって並んでいた。ちょうどその年の収穫の終わりかけの時期だった。

じいちゃんはりんごの採り方を一つ一つ丁寧に教えてくれた。

「いいか、坊主。りんごはな、ぎゅっと握って力任せに引っ張るんじゃない。手のひらで下から上に持ち上げてな、こう、くるっと手首を返すんだ。そうすりゃ枝を痛めずに実だけがもげる。枝を大事にしてやりゃ、木は来年またいい実をつけて返してくれる」

俺はひどく不器用で、最初は何度も枝を折りかけた。それでもじいちゃんは決して怒ったりしなかった。ただ「違う違う、そうじゃない」と言いながら、ごつごつした手で俺の手を取って、根気よく何度でも教えてくれた。

落ちて傷をつけてしまったりんごも、じいちゃんは決して捨てなかった。

「これはジュースにする。これはばあさんがジャムにしてくれる。傷がついたって、うまいもんはうまい。捨てるところなんか一つもありゃせん」

そう言って、傷物のりんごにもちゃんと居場所を作ってやっていた。俺はそのことにいちいち胸を打たれた。この果樹園では、傷物にも不揃いなものにもちゃんと役目があった。誰も弾かれたりしなかった。

ある日、俺は大きな失敗をした。収穫したりんごを詰めた木箱を運ぶ途中で足を滑らせて、ひっくり返してしまったのだ。せっかくのりんごが坂道をころころと転がり落ちていく。俺は真っ青になった。弁償なんてできるわけがない。また追い出される。そう思うと体が震えた。

ところがじいちゃんは、転がったりんごを拾いながら大声で笑い出した。

「わはは、派手にやったな。気にするな。傷がついたらジュースにすりゃいい。若い頃は、わしもしょっちゅうこうやってばあさんに叱られたもんだ」

「さあさあ、この人と来たら、昔はもっとどん臭かったんだから」

二人は顔を見合わせて笑った。俺はあっけにとられて、それから釣られて笑った。失敗しても怒られない。笑って許してもらえる。そんな当たり前のことが、俺には涙が出るほどありがたかった。

昼になると、ばあちゃんが大きなおにぎりを竹の皮に山ほど詰めて、果樹園まで運んできてくれた。塩のよく効いた握りたてのおにぎりだった。それを果樹園の端っこの切り株に腰かけて、三人で並んで食べた。山の空気はぴりっと冷たかったが、日向はぽかぽかと温かかった。

俺はこの数日で、母をなくしてから初めて腹の底から笑えるようになっていた。

ある日の昼下がり、果樹園で草を取っていると、隣の畑の方から一人の女の人が野菜の籠を抱えてやってきた。田辺静さんという、大葉さん夫婦の古い友人だった。静さんは俺の姿を見て目を丸くした。

「あら、千代さん。この子はどなた?」

「うちでちょいと預かってる子でね。悠人って言うんだ。よく働く、いい子だろう」

静さんは何か事情があるのだと察したのか、それ以上は何も聞かなかった。ただにっこりと笑って、籠の中から大きな大根を一本、俺に差し出した。

「はい。これ、うちの畑のだよ。よかったら食べてくれ。千代さんの作る煮物は絶品だからね」

俺はこの山合いの人たちの温かさに、また少し驚いた。ここでは誰もが当たり前のように人に手を差し伸べる。困っている人がいたら、黙って野菜を分け合う。それがこの土地の当たり前の暮らしなのだった。

ふと母の口癖が頭をよぎった。困っている人を見かけたら、手を差し伸べられる人になりなさい。母が願っていたそういう人というのは、きっと幸吉じいちゃんや千代ばあちゃんや静さんのような人のことなんだろう。俺はそう思った。

夜、ばあちゃんの作る夕飯はいつも品数が多かった。煮物に焼き魚に漬け物に汁物。「たくさんお食べ」がばあちゃんの口癖だった。俺が遠慮していると「男の子がそんな小食でどうするんだい」と、次々に俺の茶碗におかずを乗せた。じいちゃんはその横で黙って酒を飲みながら、時々「うまいか」と不器用に聞いてきた。俺が「はい、すごく」と答えると、じいちゃんは満足そうに頷いた。

温かい湯気の向こうで笑い合う二人の顔。それは俺がずっと欲しくてたまらなかった、温かい食卓の時間だった。俺はその光景をいつまでもずっと見ていたいと思った。

俺が大葉さんの家に来て一週間ほどが過ぎた頃だった。ある晩、夕飯の後で幸吉じいちゃんが湯のみを置いて、静かに切り出した。

「お前のことを、役場に相談してきた」

俺の胸がどくんと大きく跳ねた。

「お前はまだ十七だ。本当ならちゃんとした大人の元で守られて暮らす権利がある。学校にも行かにゃならん。このままうちにいちゃ、お前の将来がダメになっちまう。町には、身寄りのない子供を預かって育ててくれる施設がある。役場の人がそこでちゃんと面倒を見てくれるそうだ。飯も腹いっぱい食える。高校にもちゃんと通える。お前の未来のためには、その方がずっといい」

分かっていた。頭では痛いほど分かっていた。俺のような子供を、この歳になった老夫婦がいつまでも面倒を見られるわけがない。二人だって決して楽な暮らしをしているわけではないのだ。

それでも俺は込み上げてくるものをどうしても抑えられなかった。

「俺、ここにいちゃだめですか?じいちゃんとばあちゃんのそばにいたいんです。邪魔はしません。何でも手伝います。だから、お願いします。ここに置いてください」

言いながら、俺は自分がぼろぼろと泣いているのに気づいた。ここを離れたら、俺はまたたった一人になる。それが怖くてたまらなかった。

千代ばあちゃんが静かに俺の手を握った。ばあちゃんの目にも涙がいっぱいに溜まっていた。

「ばあちゃんたちもね、本当はずっとお前とここにいられたらどんなにいいかと思うよ。毎日賑やかで楽しくて。でもね、それはお前のためにならないんだよ。ばあちゃんたちはもうこんな年寄りだ。あと何年、お前のそばにいてやれるか分からない。お前にはこれから長い長い人生があるんだ。この大事な人生を、こんな山の中だけで終わらせちゃいけないよ。広い世界へ出て、いろんな人に会って、いっぱい傷ついて、それでも大きくおなり」

言葉がなかった。二人が俺のことを本気で思ってくれているのが、痛いほど伝わってきたからだ。ここで俺がわがままを言えば、二人を困らせるだけだ。俺は袖で涙を拭って、小さく頷いた。

それからの数日はあっという間に過ぎた。俺は二人と過ごす一瞬一瞬を、目に焼きつけるように大切に過ごした。最後の日、千代ばあちゃんは俺のために、一晩で糸の手袋を編んでくれた。「町はここよりずっと寒いだろうからね」と言って。少し不格好だけれど、温かそうな手袋だった。

幸吉じいちゃんは俺を果樹園へ連れ出して、斜面の一番上に立つ一本の大きなりんごの木の前で足を止めた。

「この木はな、わしがちょうど今のお前くらいの年の頃に、死んだ親父と一緒に植えた木だ。もう五十年以上、毎年欠かさず実をつけとる。この果樹園で一番古くて、一番甘い実をつける木だ。木ってのは大したもんだよ。人よりずっと長く生きて、文句一つ言わずにずっと実りを分け与え続ける。お前もこういう木みたいな人間になれよ。自分が苦しくても、誰かに甘い実を分けてやれるそういう人間にな」

俺はその木をしっかりと目に焼きつけた。ごつごつと太い幹。空へ向かって力強く枝を広げた堂々とした姿。この木のように強く、優しく生きよう。俺はそう心に誓った。

別れの朝が来た。その朝は皮肉なほどよく晴れていた。ばあちゃんは朝早くから台所に立って、俺のために握り飯をたくさん握ってくれていた。じいちゃんはいつもよりずっと口数が少なかった。ただ黙々と俺の少ない荷物を車まで運ぶのを手伝ってくれた。

やがて役場の人が俺を迎えに来た。旅立ちの支度をした俺は、玄関の土間で二人に向かって深く深く頭を下げた。

「幸吉じいちゃん、千代ばあちゃん。本当に、本当にお世話になりました。俺、このご恩は一生忘れません。いつか必ず立派になって、恩返しに来ます。約束します。だからそれまで、二人とも元気でいてください」

するとばあちゃんは、あの傷のついたりんごをいくつもいくつも俺の鞄に詰め始めた。鞄が膨らんで閉まらなくなるほど、たくさん持たせてくれた。

「これ持っておいき。お腹が空いたら食べな。辛くて苦しくなったら、このりんごを一口かじって、ここのことを思い出せばいい。いいかい?お前には帰って来られる場所がちゃんとあるんだ。それだけは何があっても忘れるんじゃないよ」

俺はりんごの詰まった鞄を胸にぎゅっと抱きしめた。その鞄はずしりと重かったけれど、その重さが俺には二人の優しさの重さのように感じられた。

じいちゃんは少し離れたところで腕を組んで立っていた。そして俺と目を合わせないまま、不器用にこう言った。

「恩返しなんぞしなくていい。そんなもの、これっぽっちも期待しとらん。ただな、ちゃんと生きてくれ。腹いっぱい飯を食って、たまには笑って、達者で生きてくれ。それだけでわしらは十分なんだ。それがわしらへの一番の恩返しだ」

俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も頷いた。ちゃんと生きる。腹いっぱい飯を食って、笑って達者で生きる。それが二人への恩返しになるのなら、俺は絶対に生き抜いてみせる。どんなに辛くても。心の中で俺は固く誓った。

俺を乗せた車がゆっくりと動き出した。振り返ると、二人はりんごの果樹園を背にしていつまでもいつまでも手を振っていた。小柄な千代ばあちゃんと白髪の幸吉じいちゃん。その二つの姿が、山の坂道のカーブの向こうに消えて見えなくなるまで、俺はずっと後ろの窓ガラスに額を貼り付けていた。

施設に引き取られた俺は、そこで高校を卒業した。神矢先生という施設の職員の人が、俺を親身に支えてくれた。神矢先生はいつも俺にこう言っていた。

「お前はちゃんと人に大事にされてきた子だ。その顔を見れば分かる。だから、自分を安売りするんじゃないぞ」

施設での暮らしは決して楽なものではなかった。親のいない子供たちが身を寄せ合うようにして暮らしていた。誰もが俺と同じように、心のどこかに深い傷を抱えていた。夜になると、小さな子の押し殺した泣き声が聞こえてくることもあった。俺は年長として、そういう子たちの面倒をよく見た。怯えている子の背中を、あの日千代ばあちゃんがしてくれたようにさすってやった。

不思議なもので、そうやって誰かを慰めていると、俺自身の心の傷も少しずつ癒えていくようだった。人に優しくするということは、巡り巡って自分を救うことでもあるらしい。

高校を出た俺は、就職先を探す時、迷わず食品会社を選んだ。それも地方の農物を扱う小さな会社だった。理由は自分でもよく分かっていた。あの日の、傷ついたりんごが忘れられなかったからだ。世間から弾かれ捨てられるはずだったりんご。けれどその中身は驚くほど甘かった。捨てられるはずのものにもう一度光を当てたい。俺はそう思っていた。

入社してからの数年はがむしゃらだった。安い給料で、失敗も山ほどした。それでも俺はこの仕事が好きだった。市場で弾かれた果物や野菜が、俺の手でまた誰かの食卓に並ぶ。その一つ一つが、まるであの日の自分自身のように思えたからだ。捨てられかけていた俺をあの老夫婦が拾ってくれたように、俺も捨てられかけたものを拾い上げたかった。

ある日、会社で新しい商品開発の企画会議があった。その席で開発部の先輩、寺田さんが俺にこう訪ねた。

「宮原、お前どうしてそんなに傷物とか企画外にこだわるんだ?お前の作るものには、なんていうか妙な熱があるよな。その熱はどこから来てるんだ?」

俺はうまく答えられなかった。ただ、その問いは俺の心の一番奥の蓋をそっと開けた。俺の熱の源。それは間違いなく、あの山合いの果樹園と、傷のついたりんごと、二人の老夫婦だった。

俺はその夜、久しぶりにあの日のことを夢に見た。夢の中で千代ばあちゃんが、うさぎの形に切ったりんごを差し出して笑っていた。「まずは食べな。話はそれからだ」。目が覚めた時、俺の頬は涙で濡れていた。

もう、これ以上先延ばしにしてはいけない。俺はそう思った。

ちょうど次の週、俺はあの果樹園の近くの地域へ出張で行く予定が入っていた。これは何かの導きかもしれない。俺は十五年ぶりにあの場所を訪ねる決心をした。

出張の仕事を終えた俺は、レンタカーを借りて山合いの町へと車を走らせた。記憶を頼りに、細い山道を上へ上へと登っていく。カーナビはいらなかった。目をつむっても道が浮かぶほど、俺はこの道を覚えていた。

俺は二人への土産に東京の菓子を買った。それから、自分が開発に関わった傷物のりんごのジュースも鞄に詰めた。「あなたたちのりんごが、俺をこういう仕事に導いてくれたんです」。それを伝えたかった。二人はどれだけ驚くだろう。どれだけ喜んでくれるだろう。その顔を早く見たかった。

車を走らせながら、俺はあの数日のことを一つ一つ思い返していた。うさぎの形に切ってくれたりんご。塩の効いた大きなおにぎり。いろりでのじいちゃんのあの昔話。ばあちゃんの縫い物の針の音。旅立つ日に編んでくれた、少し不格好な糸の手袋。

坂を登り切った。その瞬間、俺は思わずブレーキを踏んだ。そして車から降りた俺の足は、その場に凍りついたように動かなくなった。声も出なかった。

目の前に広がっていたのは、俺の記憶の中のあの景色ではなかった。斜面いっぱいに実っていたはずのりんごの木は、見る影もなかった。枝は伸び放題に伸び絡み合い、幹には蔦草がびっしりと巻きついていた。畑には腰の高さまで枯れた雑草が生い茂り、かつて甘い香りに満ちていたはずの果樹園は、見渡す限り荒れ果てていた。

あの木の香りのする温かい家も、今は雨戸が硬く閉ざされ、屋根の一部が朽ちて落ちかけていた。庭先の大葉さんの表札は文字がかすれて、ほとんど読めなくなっていた。

あまりの変わりように、俺はしばらく言葉を失っていた。「そんな」。俺の口からやっと、かれた声が漏れた。「何があったんだ?どうしてこんなことに?」

俺は荒れ果てた斜面を呆然と見渡した。膝から力が抜けていくのが分かった。まさか、二人に何かあったのか?いや、そんなはずはない。きっと体を悪くして、しばらく畑を休んでいるだけだ。俺はそう自分に言い聞かせようとしたけれど、この荒れ果てようは一年や二年でできるものではなかった。

その時、背後から声がした。

「あんた、もしかして悠人ちゃんかい?」

振り返ると、そこに一人の老女が立っていた。腰の曲がった白髪の女の人。俺はその顔に見覚えがあった。田辺静さんだった。あの大葉さん夫婦の友人。十五年の歳月が静さんをすっかり小さくしていたが、その優しい目はあの頃のままだった。

「静さん、お久しぶりです。宮原悠人です。覚えていてくださったんですか?」

「覚えてるよ。忘れるもんかね。千代さんがいつもあんたの話をしてたんだから。よく帰ってきてくれたね」

静さんの目に、みるみる涙が溜まっていった。俺は嫌な予感がした。心臓がざわざわと騒ぎ出した。

「静さん、あの……幸吉じいちゃんと千代ばあちゃんは……お二人は今、どこに?体でも壊されて、施設かどこかに?」

静さんはしばらく何も言わなかった。ただ悲しそうに俺を見つめて、それから静かに首を横に振った。

「悠人ちゃん、落ち着いて聞いておくれ。幸吉さんはね、四年前に亡くなったんだよ。畑仕事の途中に、ぽっくりとね。眠るように行ったよ。そして千代さんも、その後を追うように三年前に……悠人ちゃん、二人とももうこの世にはいないんだよ」

俺はその言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。頭が真っ白になった。亡くなった。二人とも、もういない。会って頭を下げて「ありがとうございました」ということも、あのうさぎのりんごをもう一度食べさせてもらうこともできない。

俺はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。荒れ果てた果樹園の前で、俺は両手で顔を覆った。間に合わなかった。会いに来るのが遅すぎた。俺はなんてバカなんだ。もっと早く来ればよかった。立派になんてならなくてよかったのに。ただ顔を見せに来れば、それでよかったのに。

静さんはしゃがみ込んだ俺の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。それからぽつりぽつりと、二人の晩年のことを話してくれた。幸吉さんは亡くなるその日までこの果樹園に立ち、りんごの木の世話を続けていたこと。千代さんは一人になってからも、体が動くうちは畑に出て木に話しかけていたこと。そして二人が口を開くたびに、俺の話をしていたこと。「悠人は元気にしとるかな。いつかひょっこり帰ってくるかもしれんね」と。

静さんの話を聞きながら、俺の胸は何度もえぐられるようだった。俺が忙しさを言い訳にして来なかったその日々。二人は一日も欠かさず、俺のことを思ってくれていた。

静さんはそんな俺を見て、静かに首を振った。

「悠人ちゃん、自分を責めるんじゃないよ。あんたが来なかったこと、二人は一度も恨んじゃいなかった。それどころか、あんたが元気でいてくれること。ただそれだけを祈ってたんだから。ただね……ただ一目でいいから、大きくなったあんたの顔を見たかったろうね。それだけは叶えてやれなくて、私も悔しいよ」

その言葉に、俺はまた俯いた。荒れた果樹園に、冷たい風が吹き抜けていった。

やがて俺が少し落ち着くと、静さんは静かに言った。

「悠人ちゃん、少しうちに寄っていきなさい。あんたに渡さなきゃいけないものがあるんだよ」

俺は静さんに連れられて、隣の静さんの家へ向かった。静さんは仏壇のある部屋に俺を通すと、古い桐の箱を大切そうに持ってきた。そしてその中から、一冊の古びたノートを取り出した。表紙がすっかり色あせて、角がすり切れた分厚いノートだった。

俺にはそれに見覚えがあった。あの夜、縁側で千代ばあちゃんが鉛筆で何かを書きつけていた、あの日記だった。

「これは千代さんがずっと書いていた日記だよ。千代さんが亡くなる前にね、私にこう言って預けていったんだ。『いつか悠人が訪ねてくることがあったら、これを渡して欲しいって。あの子は律義な子だから、きっといつか来てくれるって』。千代さんは最後まで、あんたが来るのを信じてたんだよ。さあ、開いてご覧。あんたのことが何度も書いてあるから」

俺は震える手でその日記を受け取った。そしてページをめくった。ばあちゃんのあの、少し右上がりの素朴な字がそこにあった。

最初に俺のことが綴られていたのは、俺がこの家を出ていったあの年の暮れのことだった。

「今日、悠人が施設へ行った。寂しくなった。あの子はいい子だった。よく食べてよく笑うようになった。どうかあの子の人生に、これから先たくさんのいいことがありますように」

俺の目からまた涙が溢れた。ページをめくる。次の年の同じ季節に、また俺のことがあった。

「悠人は元気にしているだろうか?ちゃんとご飯を食べているだろうか?あの子がどこかで辛い思いをしていませんように」

次の年も、また次の年も。ばあちゃんは毎年、俺のことを書いていた。

「悠人が自分のことを、誰かに捨てられた子だなんて思っていませんように。あの子は捨てられたんじゃない。ちゃんと愛されているんだと、いつか気づいてくれますように」

「今日、りんごをうさぎの形に切った。悠人は元気だろうか。あの子はうさぎのりんごを美味しそうに食べてくれた。あの顔を思い出すと、今でも胸が温かくなる」

「じいさんがまた悠人の話をした。『あいつ、今頃何をしとるかな』って。口では恩返しなんかいらないと言っておきながら、本当はあの子に会いたいんだ。私も会いたい。もう一度あの子に、うちのりんごを食べさせてやりたい」

ページをめくるたびに季節が、年が映り変わっていった。ある年の記述には、こうあった。

「今日は悠人の誕生日だ。あの子はいくつになっただろう。どこかで、うちのりんごみたいにまっすぐ育っていてくれたら」

その行の日付は、確かに俺の誕生日だった。ばあちゃんは俺の誕生日まで覚えていてくれたのだ。

ページの所々には、押し花が挟んであった。白い小さな花びらがセロハンテープで丁寧に止めてある。りんごの花だろうか。

そして日記の終わりの方に、こんな一節があった。じいちゃんが亡くなった後、ばあちゃんが一人で書いたものだった。字が随分弱々しくなっていた。

「じいさんが逝ってしまった。一人になった。畑も、もう私一人では手が回らない。荒れていくのを見ているのは辛い。でもいいんだ。悠人がどこかで幸せに生きていてくれたら、それだけで私は十分だ。もしいつかあの子が、このりんごを食べに帰ってきてくれたら。そんな日が来たら、どんなにか嬉しいだろうね」

その最後の一行を読んだ時、俺の中で何かが大きく動いた。俺は日記をぎゅっと胸に抱きしめた。ばあちゃん、じいちゃん、ごめんなさい。遅くなって、本当にごめんなさい。でも俺、帰ってきたよ。約束を守りに、帰ってきたよ。

俺はその日、日が暮れるまで荒れた果樹園の前に座り込んでいた。日記を胸に、ただ二人のことを思い続けた。

ばあちゃん、俺は帰ってきたよ。それなら、俺にできることはたった一つだ。俺は涙を袖でぐいっと拭った。そして荒れ果てた斜面を、まっすぐに見つめ直した。

その夜、俺は静さんの家に泊めてもらったけれど、一睡もできなかった。ばあちゃんの日記を繰り返し読み返した。読むたびに胸が締めつけられた。

朝が明ける頃、俺はそっと家を出て、もう一度あの荒れ果てた果樹園の前に立っていた。俺はその光景をじっと見つめた。そして思った。悲しんで後悔しているだけでは、何も変わらない。俺に今できることは何だ?

二人にはもう恩返しできない。でも、二人が生涯をかけて守ってきたこの場所なら、この果樹園なら、まだ救えるかもしれない。荒れ果て朽ちかけているけれど、この土の下にはまだ二人の思いが生きているはずだ。

俺は荒れた斜面へ足を踏み入れた。腰の高さまで伸びた枯草をかき分けて奥へと進む。ほとんどの木は枝が枯れ、幹が朽ちていた。もうダメかもしれない。そう思いかけた、その時だった。

斜面の一番上。俺の目に一本の大きな木が飛び込んできた。それはあの五十年の古木だった。幸吉じいちゃんが父親と一緒に植えたという、あの木。他の木が枯れていく中で、その古木だけはまだしっかりと立っていた。

近づいて枝に触れてみる。指先に、かすかな命の手応えが伝わってきた。根元の土を手で掘ってみると、太い根がまだしっかりと大地を掴んでいた。枝の先をよく見ると、硬い冬芽がいくつもしっかりと結ばれていた。春を待つ、確かな命の証だった。

この木はまだ諦めていなかった。手入れをするものがいなくなっても、たった一本で必死に生き延びていた。じいちゃんの声が耳の奥で蘇った。「木ってのは正直なもんだ。手をかけて可愛がってやりゃ、ちゃんと答えてくれる」

俺は決めた。俺がやる。この果樹園をもう一度蘇らせる。それが俺にできる、たった一つの恩返しだ。

東京へ戻った俺は、会社で一つの企画を立ち上げた。あの果樹園を、会社の正式な事業として再生させる。荒れた土地を借り受け、木を手入れし、実ったりんごで商品を作る。無謀な計画だと周りは言った。採算が合わないと。

けれど俺の話を最後まで黙って聞いていた先輩の寺田さんが、静かに言った。

「宮原、お前の熱の源がやっと分かったよ。やってみろ。俺も手伝う。うちの会社はそういう捨てられそうなものにもう一度命を吹き込むのが仕事だろう。木も果樹園も同じだ。会社を俺が説得してやる」

土地のことは静さんが力を貸してくれた。大葉さん夫婦には身寄りがなかった。もちろん、後を継ぐ者もいない。空いた果樹園は町が管理する行き場のない土地になっていた。俺は町の役場に何度も足を運び、頭を下げた。二人の思いを絶やしたくない。ここをもう一度、りんごの実る場所にしたい。その一心だった。

とはいえ、道のりは平坦ではなかった。会社の中には最後まで渋い顔をする人もいた。そんな金にもならない果樹園に、なぜそこまで入れ込むんだと。俺はその度に必死で頼み込んだ。数字だけでは割りきれないものが、この世にはある。それを俺はあの果樹園で教わったのだ。

季節も俺の味方をしてはくれなかった。冬の山の作業は想像を絶する寒さだった。かじかむ手で凍った土を掘り返し、雪の重みで折れた枝を切り落とす。春が来ても生き返るかどうか分からない木を、俺はただ信じて世話をし続けた。不安で眠れない夜もあった。そんな時、俺は決まってばあちゃんの日記を開いた。そこにある言葉が、俺を何度も立ち上がらせてくれた。

俺は休みの度に山合いの町へ通った。まず、あの腰の高さまで伸びた枯れ草を刈るところから始めた。慣れない鎌を握り、汗をかき、半日もすると手のひらは豆だらけになって、潰れて血が滲んだ。それでも俺は手を止めなかった。少しずつ、少しずつ、荒れた斜面の下から埋もれていたりんごの木が姿を現していく。

生きている木も、少しずつ見つかった。あの古木を筆頭に、古い木の中にはまだ命を繋いでいるものが何本かあった。俺はじいちゃんに教わったやり方を思い出しながら、絡まった蔦草を取り、枯れた枝を切り落とし、根元に肥料を入れてやった。

作業は遅々として進まなかった。一本の木を蘇らせるのに、何週間もかかった。それでも、手をかけた木が春に小さな芽を吹いた時のあの喜びは、何者にも代えがたかった。

ある日、草を刈っていると、一人の若者が恐る恐る俺に声をかけてきた。二十歳そこそこの痩せた青年だった。名前は渡と言った。

「あの、ここ、りんご畑にするんですか?俺、俺、農業がやりたくて。でも家を継げなくて、行き場がなくて。手伝わせてもらえませんか?給料なんかいりません。ただ、ここにいさせて欲しいんです」

その思い詰めたような目を見て、俺ははっとした。それは十五年前の俺自身の目だった。行き場をなくし、居場所を求めて彷徨っていた、あの日の俺の目と同じだった。

俺はじいちゃんが俺にしてくれたように、渡の肩をぽんと叩いた。

「給料はちゃんと出す。行き場がないなら、ここにいろ。一緒にこの果樹園を蘇らせよう。腹は減ってないか?まずは飯だ。話はそれからだ」

その言葉が自分の口から自然に出てきたことに、俺は自分で驚いた。ああ、そうか。二人が俺にくれたものは、こうやって俺の中で生き続けていたんだ。そして今、また次の誰かへと渡されようとしている。

手入れを始めて一年が過ぎ、二年の季節が巡ってくる頃には、生き残った木々がぽつりぽつりと赤い実をつけ始めた。もちろん、傷だらけの不揃いなりんごばかりだったけれど、かじってみると驚くほど甘かった。あの日の、あの味だった。

俺はそのりんごを使って商品を作ることにした。派手な再開発なんてするつもりはなかった。ただ、二人の名前と思いを残せる形にしたかった。

商品作りは試行錯誤の連続だった。会社の仲間にも手伝ってもらい、何度も試作を重ねた。傷物のりんごは見た目こそ悪いが、味は本当に驚くほど甘い。その甘さをそのまま瓶に閉じ込めたかった。絞り方を変え、煮る時間を変え、砂糖の量を少しずつ調整する。ようやく納得のいく味にたどり着いた時には、季節が一つ巡っていた。

ラベルのデザインにも俺はこだわった。派手なイラストはいらない。ただ、この果樹園の物語を静かに伝えられる素朴なものがいい。夜、俺はラベルの裏に載せる文章を何度も書き直した。あの日、道端で倒れていた俺のこと。名前も聞かずにりんごを向いてくれた老夫婦のこと。書いていると、あの日の光景が次々と蘇ってきた。

俺はその商品に名前をつけた。ばあちゃんのあの言葉から取った名前だ。

「まずは食べな」

小さな地味な商品だったけれど、そのラベルの裏にはあの日の物語が静かに息づいていた。道端で倒れていた一人の子供を救った老夫婦のこと。あの日じいちゃんが俺にかけてくれた忘れられない言葉のこと。

その小さな物語は、口コミで少しずつ、少しずつ広がっていった。道の駅に置かれ、地元の店に並び、やがて遠くの人たちも「まずは食べな」を買い求めるようになった。

「まずは食べな果樹園」。そう名付けた木札を、俺はあの五十年の古木のそばに立てた。どんな名前にしようかと、渡と二人で散々悩んだ。立派で格好いい名前もいくつか候補に上がったけれど、最後に俺が選んだのは、あのばあちゃんの飾らない一言だった。腹をすかせた者に、まず食べさせる。難しいことはそれから考える。何よりも先に、まず手を差し伸べる。それがこの果樹園の始まりだった。だから、この名前より他に考えられなかった。

渡はすっかり一人前の農家になっていた。最初はりんごと雑草の区別もつかなかった青年が、今では俺よりも木の扱いが上手になっていた。

「悠人さん、この木、来年はもっと実をつけますよ。根が元気になってきてる。俺、ここに来られて本当に良かった。行き場のなかった俺を拾ってくれて、ありがとうございます」

「礼なんかいらないさ。俺も昔、同じことをしてもらったんだ。ただお前がちゃんと生きて、いつかまた次の誰かに同じことをしてやれば、それでいい。それが一番の恩返しだ」

その言葉は、あの日幸吉じいちゃんが俺に言ってくれた言葉と、そっくりだった。俺は知らず知らずのうちに、じいちゃんの言葉をなぞっていた。優しさというのは、こうやって渡されていくものなのだと、俺は初めて実感した。

静さんは果樹園の一角に小さな休憩所を作って、そこで訪れる人たちにお茶を出す役を引き受けてくれた。夫を早くに亡くし、一人で暮らしてきた静さんにとっても、この果樹園は新しい大切な居場所になったようだった。

「悠人ちゃん、私はね、この年になってまたこんなに賑やかな毎日が過ごせるなんて、思っても見なかったよ。千代さんがあの世できっと喜んでるよ。悠人が帰ってきてくれた。約束を守ってくれたって。ありがとうね」

果樹園にはいろんな人が訪れるようになった。近所のお年寄りが縁台代わりの休憩所で静さんとお茶を飲んでいく。学校帰りの子供たちがりんごをもらいに寄っていく。無口な酒屋のじいさんも、豆腐屋のばあさんも、収穫の時期には手伝いに来てくれた。誰かが困っていれば黙って手を貸す。この土地の温かい習慣は、大葉さん夫婦が生きていた頃と何も変わっていなかった。

渡は今では、地元の農業高校から実習の若者を受け入れるまでになっていた。あの行き場をなくして俺に声をかけてきた青年が、今度は若い子にりんごの木の世話を教えている。「違う違う。枝はもっと優しく持つんだ」なんて、俺やじいちゃんの口ぶりをそっくり真似て偉そうに教えている。その姿がおかしくて頼もしくて、俺は思わず笑ってしまった。

収穫の時期になると、果樹園は朝から大賑わいになる。子供たちのはしゃぐ声。いっぱいのりんごを運ぶ若者たちの掛け声。静さんの休憩所からは、湯気の立つお茶とふかした芋のいい匂いが漂ってくる。かつて荒れ果てて静まり返っていた斜面が、今はこんなにも人の声と笑い声で溢れている。

俺は千代ばあちゃんの日記を、いつも胸のポケットに入れて持ち歩いていた。辛いことがあった時、迷った時、俺はその日記を開いた。そこにはいつも、俺を信じ、俺の幸せを願ってくれたばあちゃんの言葉があった。二人はもうこの世にはいない。けれど二人が残してくれた優しさは、この果樹園に、この商品に、渡の笑顔に、そして俺の心の中に、確かに生き続けていた。

収穫を終えたある秋の夕暮れのことだった。俺は斜面の一番上の、あの五十年の古木の前に一人で立っていた。夕日が、たわわに実った赤いりんごを金色に照らしていた。俺は胸のポケットからばあちゃんの日記を取り出して、静かに胸に当てた。

じいちゃん、ばあちゃん、見ていますか?あなたたちの果樹園は、こうしてもう一度実をつけましたよ。俺はあの古木のごつごつとした幹に手を当てた。そして静かに言った。

「あの日、二人が俺に食べさせてくれたあのりんごの味を、今度は俺が誰かに届けていきます。だから、どうか安心してください」

その時、一陣の風が枝をさらさらと揺らした。それはまるで、二人が天国で「よし」と頷いてくれたような、そんな優しい風だった。

それから数年が流れた。「まずは食べな」は、今ではこの地域を代表する小さな名物になっている。秋になると道の駅の一角に、ジュースとジャムがずらりと並ぶ。それを手に取ったお客さんがラベルの裏の物語を読んで、時々涙している姿を俺は何度も見かけた。派手な宣伝は一つもしていない。ただ、いいものを心を込めて作る。その物語が静かに伝わっていく。それが俺の望んだ形だった。

先日、道の駅で一人の若い母親が「まずは食べな」のジュースをじっと見つめていた。聞けば、その人も幼い頃に親をなくし、施設で育ったのだという。ラベルの裏の物語を読んで、涙が止まらなくなったのだと。そう言って俺の手を握った。

「私も、いつか誰かに優しくできる人になりたい」

その言葉を聞いた時、俺はあの日の母の口癖を思い出した。困っている人を見かけたら、手を差し伸べられる人になりなさい。母が願っていたことが。そしてあの老夫婦がしてくれたことが。今、俺の作った小さな一本のジュースに乗って、こうしてまた誰かの手に届いていく。それがたまらなく嬉しかった。

ある日、一通の手紙が会社に届いた。差出人は、遠い町に住む一人の高校生だった。手紙にはこう書かれていた。

「僕も両親がいなくて、施設で育ちました。でも、このジュースのラベルの物語を読んで、僕にも生きる道があるって思えました。ありがとうございます」

俺はその手紙を何度も読み返した。あの山合いの老夫婦の優しさが、会ったこともない遠くの誰かの心にまでこうして届いている。じいちゃん、ばあちゃん。あなたたちが道端で拾った一人の子供は、今こうしてあなたたちのくれたものを、たくさんの人に手渡していますよ。

俺はその手紙を大切に、ばあちゃんの日記の間にそっと挟んだ。ばあちゃんの日記は、俺がこの果樹園を続けていく限り、これからも少しずつ厚くなっていくのだろう。俺が新しく出会った人たちのこと。果樹園で起きた小さな出来事。あの高校生からの手紙のこと。ばあちゃんが亡くなるその日まで俺のことを書き続けてくれたように、今度は俺がこの日記の続きを書いていく。二人が残してくれたこの一冊に。

去年の秋には、渡に赤ん坊が生まれた。小さな女の子だ。渡はその子を大事そうに抱いて、果樹園に見せに来た。俺はそのふにゃふにゃの小さな手に触れた。この子もいつかこのりんごを食べて大きくなるのだろう。そして、この果樹園の物語を聞いて育つのだろう。道端で倒れていた一人の子供を、名前も聞かずに救ったあの老夫婦の話を。

俺はその子に心の中でそっと語りかけた。ようこそ、この温かい場所へ。ここには、お前を大事に思う人がたくさんいるからね。

先日、施設の神矢先生がこの果樹園を訪ねてくれた。先生はたわわに実ったりんごを見上げて、目を細めた。

「お前はちゃんと、あの日の約束を果たしたんだな。立派になったとは言わないでおくよ。お前は昔から、ちゃんと優しい子だったからな」

俺は照れ臭くて俯いた。これから収穫したばかりの傷のあるりんごを一つ、うさぎの形に切って先生に差し出した。あの日、母が、そして千代ばあちゃんがしてくれたように。神矢先生はそのうさぎのりんごをしみじみと味わってくれた。「うまいな」と一言。俺はなんだか幸吉じいちゃんに褒められたような気がして、また目の奥が熱くなった。

この果樹園で過ごす日々は、俺にとっていつか失った家族を少しずつ取り戻していくような、そんな時間だった。血の繋がりはなくても、この場所には俺の帰るべき家族のようなものが確かにできていた。静さん、渡とその家族、手伝いに来てくれる地域の人たち。そして天国のじいちゃんとばあちゃんと、母。

俺はもう、一人ではなかった。

十五年前、俺は母を失い、家を失い、道端で倒れていた。誰にも必要とされない傷物だと、自分を責めていた。そんな俺にあの老夫婦は、名前も聞かずにたった一切れの傷のついたりんごを差し出してくれた。「まずは食べな。話はそれから」と。

その一切れのりんごが、凍りついた俺の時間をもう一度動かしてくれた。恩返しには間に合わなかった。二人はもういない。けれど、二人が残してくれた優しさは、まだこの果樹園に生きている。だから俺は今日も、あの日の言葉を胸にりんごを届ける。誰かの冷えきった心をもう一度温められるように。

まずは食べな。話はそれからだ。

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