「今回の相談は、中止ということでよろしくお願いします」
僕の言葉に、元同僚の顔から血の気が引いていくのが分かった。いい気味だ。僕から三億の手柄を奪って出世したとか、今日は十億の相談だとか、得意げに自慢していたのが嘘のように、彼は言葉を失っている。
「何言ってんだよ。俺への仕返しか? お前の個人的な感情で十億の相談を蹴るってのかよ」
「これは僕一人の判断じゃないよ。ちゃんと社長とも話して、会社として承談は行わないと決定したんだ」
僕の突きつけた言葉に、元同僚が膝から崩れ落ちる。三億の手柄のために、十億もの大きな手柄を失うことになろうとは、思いもしなかったに違いない。自分のやったことを存分に後悔すればいい。そう胸の中で呟いて、僕は彼に背を向けた。だがこの時、僕は想像もしていなかった。これがさらなる騒動を呼び、彼が罪を償うことになろうとは。
僕の名前は木戸悠。大学を卒業後、大手企業へ入社した。僕にとっては第一志望の会社だったので、そこで社会人としての一歩を踏み出すことができ、とても嬉しかったのを今でも覚えている。配属されたのは営業で、仕事は予想以上にハードだった。時には気持ちが折れそうになることもあったが、前向きに、嫌なことや面倒なことにもコツコツ取り組んで学び、しがみついてきた。そんな努力は少しずつ仕事に現れ始め、今ではいくつかの相談を成功に導けている。この仕事について数年、今では仕事にやりがいを感じて、自分なりに充実した日々を送っている。
そんな中で一番の悩みの種といえば、同期入社の坂口翔平だろう。僕とは正反対のタイプで、口がうまくて世渡りが上手い。人たらしなのはきっと生まれ持っての才能なのだろう。何よりうまいのは同僚の心を掴むことや、上司の懐に入り込んでうまく転がすことだった。そして当然、全てにおいて努力ありきの不器用な僕より、上司に気に入られていた。同期ということもあり、僕は彼と比較されることが多い。そんな会社の雰囲気もあって多少うんざりすることもあるが、僕はマイペースに、周囲の声に振り回されないよう自分のやるべきことに集中し、成長あるのみだと自分を奮い立たせるようにしている。
「伊藤さん、うちのような小さな会社に声をかけていただき、ありがとうございます」
その日の商談を終え、帰社するために立ち上がった僕に、商談先の社長が突然そんなことを言って頭を下げてきた。
「いえいえ、とんでもない。頭をあげてください」
慌てて促した僕に、社長がニコニコと笑って顔をあげる。
「うちのような小さな会社では、企画を持ち込んでもなかなか相手にしてもらえませんからね。木戸さんに声をかけていただけて、社員一同本当に感謝しているんです」
「そんな。私こそ、御社のような魅力的な技術を持った会社とご一緒できて嬉しいです」
僕は今、うちの会社ではやってこなかった新しい取り組みの実現に向けて日々奔走している。優れた技術や才能を持つ小規模企業を発掘し、それらの企業を結びつけて大きなことをしてやろうという計画で、僕は長い間温めていた。プライベートな時間も使って下調べを行ってきた。それがようやく動ける段階に入り、こうして商談をして回っているのだ。推定利益は三億。僕がこれまでに担当してきた中で最も大きな利益になる。これは会社にとっても大きな利益になるため、今回ばかりは上司も僕に期待してくれているようだった。全てが順調に進んでいる。そう感じていたのだが。
「うーん。それってどうなんだ? それよりこっちの方が……」
計画に大体の目途がつき、チームワークも上手く取れるようになってきた頃、急に坂口が計画の内容に口を挟んでくるようになった。僕なりのこだわりや計画を知ってか知らずか、全く別の角度からの提案を差し込もうとしてくるのだった。もっと良くなるように協力してくれているのかもしれないと多めに見ていたが、少しずつ彼の発言や態度が目に余るようになってきた。オープンスペースで行っていた会議では協力会社の悪いところを言い出したり、僕の発言の揚げ足を取るなど、メンバーでもないのに関わらず口を挟もうとしてくる。どうやら僕のペースを乱したいようだというのを感じ、僕はできるだけ相手にせず会議を進めた。そして会議後、僕は彼を呼び出して二人きりで話をしようと持ちかけた。
「さっきの態度、良くないと思うよ」
「え、俺の意見を言ったまでだよ。オープンスペースでの会議には、他の社員の意見も聞けるという利点があるんだし」
「そうだとしても、あんな噂レベルの情報で協力会社を悪く言うなんて、チームのみんなの不安を煽るだけだ。今ようやくチームが一つになってきてるのに、水を差すのはやめてくれよ」
「なんか、容量悪く見えてつい口を挟んじゃうんだよね。俺なら、もうちょっとうまくできるんだけどな」
「……分かったよ。余計なことは言わないでおく。せいぜい頑張れよ」
ヘラヘラと笑って立ち去っていく坂口に、小さくため息をつく。それでもこれでひとまずは安心と思ったのだが、甘かった。
その翌日の早朝、チーム会議で集まる会議室のドアを開けた僕は、嫌な予感がした。チームメンバーの輪の真ん中に、坂口が座って談笑していたのだった。
「おっと、リーダーのお出ましだ。俺はさっさと退散しなきゃね」
「え、坂口さんもいてくださいよ。僕たちだけじゃ頼りないですよ」
そんなやり取りを僕は聞き流しつつ、「会議を始めます」と仕切り直した。彼は言葉通り退散したものの、メンバーはというと、まるで学生が人気のない授業を受けるかのような雰囲気で、それぞれが着席する。チームの輪が崩れそうだ。少しでも気を抜けば、坂口にチームを乗っ取られるのではないか。そんな不安を感じ、いつになく焦りを感じる。そう思うと僕自身のテンションも下がりそうになる。僕はそれをぐっとこらえて会議を進行した。企画の立案者でありリーダーである僕が、信念と目標を揺らがせてはいけない。この計画は僕が成功させる。自分に言い聞かせるように、気を引き締めた。
それから緊張の中で数日が過ぎていった。各企業との商談がまとまり、実現に近づいた頃、僕は突然上司に呼ばれ、人のいない部屋へ向かった。そこは上司が他の人に話を聞かれたくない、とても重要な話がある時に呼び出す部屋だ。僕は今回の計画のことで何か重要な問題が起きたんじゃないかと、落ち着かない気持ちで部屋へ向かった。部屋は薄暗く、いざ入ってみると待っていた上司の表情が、怖いくらい険しかった。
「何かありましたか?」
僕は沈黙に耐えられず上司に尋ねた。
「君と坂口君は同期だったね」
坂口の名前が上がり、そういえばこの上司は坂口と普段から仲良くしている人だと気づいた。
「はい。彼とは入社以来、切磋琢磨してきました」
「切磋琢磨、ね」
上司は眉を寄せ、片口を上げるようにして笑った。その表情に僕は思わずぞっとする。
「しかし最近は、君の態度が横暴だという噂を聞いてるんだが、心当たりはないかね」
「何のことだかさっぱり分かりません。今は自分の計画に精一杯取り組んでいますので」
とぼける僕に、部屋の空気がピンと張り詰めた。上司の真意が分からず、僕は動揺し、上司の顔を見つめることしかできなかった。
「こっちにはもう話が回ってきているんだよ。坂口を無視したり、高圧的な態度を取って、彼の手柄を横取りしてるって言うじゃないか。同期とはいえ、そんなのは立派なハラスメントだろう」
「そ、そんな。全然心当たりがありません。全くの濡れ衣です」
僕は驚いて、うまく言い訳もできなかった。
「こういうのはいじめと同じでね。ハラスメントというのは、本人がそうだと感じたらハラスメントなんだよ。やってる方は自覚が薄いんだろうがね」
まるで目の敵のように、上司が僕を睨みつける。心当たりといえば、先日の会議後の話し合いくらいだった。
「もし彼に注意したことを言っているのであれば、嫌がらせで言ったのではありません。彼があまりにも不適切な発言をして会議中に口を挟んでくるので、チームワークを乱して欲しくないと注意したまでです」
「君がどんな風にののしったのかは、坂口君も口をつぐんでいるが、相当に彼は参っていると言っていたよ。今は精神科に通っているそうだが、このままでは会社を辞めてしまうかもしれない」
参っている精神か。注意した翌日にもケロッとして談笑していた坂口とは、到底結びつかないような言葉に驚く。そんなはずはない。彼が僕の言葉に傷つくなんてありえない。そう思った。僕が中心になって三億規模の大きな計画を進めることになってからというものの、それが面白くないという態度を坂口が取っているのは感じていた。それだけではなく、チームにちょっかいを出してみたり、果ては手柄を横取りしようという坂口の根性も見え見えだった。だから警戒していたが、まさか坂口が自分に靡いている上司にあることないこと吹き込み、しかもそれを上司に信じさせるとは思わなかった。
誤解を解こうと何度となく上司に説明し、坂口の言い分を否定する。しかし上司には全く取り合ってもらえなかった。それどころか、信じられないことを言い出す。
「今君が進めている計画も、元々は坂口君が計画していたものを奪ったそうだね」
「こんなこと、ありえません。激しく首を横に振って否定する。間違いなく僕が一から準備してきた計画です。協力企業の方々に聞いていただければ分かるはずです」
この計画だけは何が何でも死守しなければと思い、必死に訴える。しかし僕の言葉に、上司は大きなため息をついてかぶりを振った。
「この件に関する企業にも確認は取ってあるんだ。最初は坂口君から話があったと言っている」
「そんな……ありえない」
僕はすぐにスマホを取り出すと、協力企業へ電話をかけた。いつもならすぐに出てくれる電話になかなか出てくれず、焦る。
「はい」
ようやく繋がったが、帰ってきたのは短く元気のない返事だった。そこに異変を感じながら話しかける。
「ああ、社長さん、お世話になっております。木戸です。あの、お尋ねしたいことがありまして……」
「うちの上司から申し訳ない」
え? こちらの言葉を遮るように、先方の社長が謝罪してきた。
「うちも経営が厳しいんだ。少しでも利益を出したいんだよ。木戸さんには本当に感謝しているんだが、本当に申し訳ない」
そう言って一方的に電話を切られた。それから複数の会社にかけてみたが、「申し訳ない」と言われるばかりだった。その反応から察するに、僕との間にまとまっていた契約より分配金を多くすると、坂口に持ちかけられていたようだ。
「どうだ? どこか一つでも君の言い分に同意する企業はあったか?」
電話を切り肩を落とす僕に、上司が冷たく声をかける。僕は何も答えられずに上司を見た。
「さて、話を戻すが、坂口君のような優秀な人材を君のような社員が追い込んでくれるとは、やってくれたな。どう責任を取るつもりなんだ?」
協力企業にも見放され、もはや僕が何を言っても無駄なのだと悟った。もう僕が計画を進められないのは確かで、たとえ計画から降りたとしても、この先いくら努力をしても僕に未来はない。この上司の元では正当な評価は受けられないだろうと思うと、絶望した。
「分かりました。責任を取り、この会社を辞めさせていただきます」
僕の言葉を聞いた上司は、待ってましたとばかりに席を立った。
「しかるべき手続きをして、荷物をまとめなさい。できるだけ早急にな」
引き継ぎなど提案する気力もなくなってしまっていた。会社というのは、誰かが急にいなくなったとしても、その仕事は残った者が対応する。決して、この人がいなければ会社の動きが止まってしまうというようにはできていないのだ。おそらく僕の仕事は坂口が引き継ぐことになるだろうし、僕の温めてきた計画に対する信念や目標は、あっという間に彼の色に染められるのだろう。そう考え始めると、これまでのチームや自分自身の努力、頑張りはどうなるのだろうと、僕は再び悔しくてやるせない気持ちになるのだった。
こうして僕は会社を辞めた。
「それじゃあ、先方にしっかり伝えてくれ」
「はい。お任せください」
退職してからあっという間に数年の月日が過ぎた。あれから気落ちして、廃人のようになりかけたが、周囲の助けもあり、今では転職もしてしっかり働けている。社長の言葉に力強く頷いて、僕は会社を出発した。今日はとある企業との商談予定で、僕は担当者として商談所の老舗料亭へ向かう。
料亭の玄関前で、見覚えのある顔とばったり出会った。坂口翔平だ。時間が止まるかのような瞬間が訪れ、二人の視線が交差した。坂口は見知った顔でニヤリと笑う。
「久しぶり。元気そうだな」
「ああ、久しぶりだね」
僕は素っ気なく言葉を返す。不思議と、悔しさを彼に感じない。そのことに気づき、どこかほっとした。
「まさかこんなところで会うとはな。仕事か?」
「ああ、まあね」
「ちゃんと働けてるんだな。引きこもりにでもなってるんじゃないかって心配してたんだぞ」
全く心配していなかったことが丸分かりの、楽しげな口調で言う。僕は冷静にじっと坂口を見つめて聞いていた。そんな僕に、坂口が鼻を鳴らす。
「あの計画のことを覚えてるか?」
僕が辞めた時の、あの計画のことか。彼は案の定、僕が辞めた後計画を引き継いだようだった。そしてその計画が大成功したおかげで出世できたのだと、自慢気に話した。
「あの後、大変だったんだよ。色々と俺なりに、穴がある部分を改善してさ。そのおかげであれだけの成果が出せた。お前には悪いけど、やっぱりあの計画は俺の方が向いてたんだと思うよ」
穴のある部分。それを聞いて、凍りついていた心が急にざわっと騒いだ。こんな部分、あったか? ざわざわと、未練がましい考えが膨らみそうになる。しかし、人に奪われた計画など、もう興味を持っても仕方がないことだ。そう思うと、自然と心はまた静かになった。
「出世したおかげで、今日は十億の商談を任されてさ、ここに来たってわけ」
坂口が自慢に胸を張っている最中、僕はどこか上の空で坂口の話を受け流し、あの屈辱をバネにこれまで必死になって頑張ってきたことを振り返っていた。
「それで、お前は会社辞めてから何してんの?」
懐かしさからなのか、以前とは違い、彼は僕に興味心の様子だった。
「他にやってみたいこともあったし、まだ若かったから、他の会社を探して就職したよ」
「へえ。やりたいことって何? お前みたいな能力のない奴が、どうせ大した仕事じゃないんだろう」
僕の含みのある言い方が気に入らなかったのか、嫌味を隠さぬ口調で言う。
「やっぱり君はそういう奴だよ」
僕は坂口に聞こえないくらいに、小さく呟いた。
「え、何か言った?」
僕は返事の代わりに、名刺を差し出した。
「何これ?」
「僕が十億の商談の担当者だよ」
彼の顔色が、面白いくらいにみるみる青ざめていくのが分かった。
「わざわざ席に着く必要もないから、うちの決定をここで伝えさせてもらうね。今回の商談は、中止ということでよろしく」
「は? 何言ってんだよ。あれか? 俺への仕返しか? お前の個人的な感情で十億の相談を蹴るってのかよ」
「これは僕一人の判断じゃないよ。ちゃんと社長とも話して、会社として承談は行わないと決定したんだ」
僕の以前の会社は大手企業だ。そこから持ち込まれた十億もの相談だったので、初めはうちの会社も前向きだった。だが僕は不審に思って待ったをかけた。特に、担当者が坂口だったことが大きい。幹部とも話し合い、最終的には社長が承談は行わないという決定を下した。僕が前の会社を辞めることになった理由を、社長が細かに知ってくれていたのも、この決定に至った理由だと思う。僕は付き合いがあった得意先に今の会社の社長を紹介してもらったおかげで転職できたのだが、その際に全てを打ち明けていたのだ。百パーセント僕の言い分を信じてくれていたわけではなかったと思う。それでも社長は僕を受け入れてくれた。その恩に報いるために僕は懸命に働き、会社も僕の能力を高く評価してくれて、現在では営業課長を任されている。
「十億もの大きな商談の相手として、君は信用に足らない。それが理由だよ」
「そんな……」
突然の展開に戸惑い、膝から崩れ落ちる坂口を置いて、僕は料亭を後にした。
「前の会社、ちょっとした騒動になっているようだね」
料亭での一件から一ヶ月が過ぎた頃、社長がどこかおかしそうに声をかけてきた。
「何かありましたか?」
首をかしげる僕に、社長がくっと笑い声を漏らす。
「坂口だったか? 君の元同僚は、首になったようだよ」
「え? うちが十億の商談を蹴ったからですか?」
「ああ、そこを突かれて干されたらしい。これほど大きな会社からの、これまた大きな話だ。それがまともな対応もされずに流れたものだから、色々と憶測を呼んだらしい」
「なるほど……」
「私の元にも、君の前の会社の社長さんや、話を聞きつけたあちらと取引のある企業から問い合わせが来たよ。もちろん、正直に話しておいた」
「え、ご迷惑をかけて申し訳ありません」
頭を下げると、社長は「なんてことはない」と笑ってくれた。
坂口のことを聞かされた前の会社の社長は、すぐさま坂口とその上司を呼び出し、問い詰めたらしい。もちろん坂口は否定し、上司も彼をかばったようだ。だが、取引先にも話が広がり、信用問題に発展することを恐れた社長は社内調査を実施。その結果、坂口の信用を裏切る行為や不正など、数々の悪業が次々に明らかになったそうだ。こうして坂口は即刻首になり、残された上司や社員は、坂口の悪業の尻ぬぐいに振り回されることになったらしい。
「君に申し訳ないことをしたと、謝罪があったよ」
「そうでしたか」
僕は姿勢を正し、社長と正面で向かい合うと、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「うん。急にどうした?」
「僕のことを信用して、十億もの相談を断ると決断してくださった社長のおかげです。本当に感謝しています。雇ってくださったことも」
礼を言うと、社長が僕の肩をポンと叩いた。顔をあげると、機嫌が良さそうに笑っていた。
「木戸君、これは君の力だ。君のここでの働きぶりが、私にその決断をさせたんだ」
社長の言葉に、胸が熱くなった。そして、自分を拾ってくれ、信頼してくれた社長と会社へ恩返しがしたい。より一層ここで懸命に働こうと、力が湧いてくる。
「これからもよろしく頼むよ」
「はい。お任せください」
社長の言葉に、僕は力強く答えた。



