ある日の給食の時間、俺は同級生の女の子がこっそりパンを持ち帰ろうとしているのを目撃した。かな子というその子は、給食で配られたパンを食べもせず、小さな手提げ袋に詰め込んでいる。小麦粉アレルギーなのかと思ったが、それならわざわざ持ち帰るはずがない。初めて彼女に興味を持った瞬間だった。
放課後、部活帰りに靴を履こうとしていると、玄関の前にかな子が立っていた。手提げ袋の中には給食のパンが膨らんで見えている。
「持って帰るのか?」
「うん。ちょっとね」
「わざわざ持ち帰るほどパンが好きなのか?」
かな子は少し困ったように笑いながら、事情を話してくれた。昨年両親が離婚して、弟と妹、それにかな子の三人が母親についてきたのだという。母親は朝早くから夜遅くまで働いているが、四人分の食費はかなりきつい。毎日食べるのがやっとで、給食でパンが出る日は弟と妹にやるために持ち帰っていたのだ。
「私はあんまり食べないけど、弟と妹は食べたがるの」
「弟と妹はいくつ?」
「弟は小学三年生で、妹は保育園」
「そっか。かな子はパン好き?」
「うん。好きだよ。黒わっさんとかが好き」
「パリパリして口の中にバターの香りが広がって美味しいの」
俺はその時、ふと思いついたことを口にした。
「あのさ、かな子。俺のうち、パン屋なんだ」
「そうだったの?」
「うん。それで毎日、売れ残りのパンが出るんだよ。賞味的には食べられる。だからこれから毎日、届けてやるよ」
かな子は驚いた顔をしたが、何より心配そうだった。
「でも、なんか悪いよ」
「いいって。捨てちゃうのはもったいないじゃん。うちは三人家族で食べきれないし、余っちゃうから」
「私たちだけで決めちゃっていいのかな? お父さん、お母さん、怒らない?」
「俺の親も捨てるのは心苦しいって言ってたから大丈夫だよ」
かな子はしばらく考えてから、小さくうなずいた。
「そっか。じゃあお言葉に甘えるね」
「うん。じゃあ住所教えて。店閉めたら届けるから」
「何時くらいになる?」
「店は夜の八時に閉めて、そこから閉店作業だから八時半くらいかな」
かな子は可愛いメモ用紙に住所を書いて渡してくれた。この町内なら俺の家からそう遠くない。自転車を使えば八時半前には届けられそうだ。
その日、家に帰って店を手伝うといつもより楽しく仕事ができた。両親が込めて作ったパンが、廃棄されることなく誰かの口に入る。こんな嬉しいことはない。母に何かいいことでもあったのかと聞かれたが、作り笑顔でごまかした。今は本当のことを言う時じゃない。親に怒られないとは思うが、ただで人にパンをあげるのだから、面倒なことになるかもしれない。中学生の俺にできるのは、これくらいだった。
閉店作業が始まり、売れ残りのパンを大きな袋に詰めていると、父に声をかけられた。
「修平、そろそろお時間だからパンを片付けてくれ」
「分かった」
いつものように廃棄用の袋を用意していると、俺は思い切って口を開いた。
「父さん、あのさ、このパンいくつかもらっていいかな?」
「夜食にでもするのか?」
「うん、そうなんだ」
父は黙って俺を見ていた。何か気づかれたのだろうかとドキドキしていると、父はニコッと微笑み、俺の頭を撫でた。
「いいぞ。味期限は今日だから、食べきる分だけにしとけよ」
「うん。ありがとう」
俺は別の袋にパンを詰める。かな子が好きだと言っていた黒わっさんも忘れない。するとそれを見ていた母が声をかけてきた。
「修平、それどうするの?」
「ああ、夜食にしようと思って」
「そんなに食べきれる?」
「明日の朝までには食べきっちゃいなさいよ」
「うん、大丈夫」
母はいぶかしげに俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。こそこそ選んでいたら面倒なことになりそうだと、俺は急いでパンを袋に詰め込んだ。かな子のお母さんの分も入れたら、袋はかなり膨らんだ。ちょっと入れすぎたか。でも食べ盛りの弟がいるんだから大丈夫だろう。無造作に詰めたパンが潰れないように、そっと紙袋に入れた。
かな子に渡すパンを玄関に置いて、俺はもう一度店に戻った。残っているパンを廃棄用の袋に入れて裏口へと運ぶ。そして「ちょっと散歩してくる」とだけ告げて、自転車に紙袋を積んだ。学校帰りにかな子が教えてくれた住所まで自転車を飛ばす。夜の住宅地は静かで、人通りもまばらだった。そこから十分ほど走って、着いたのは古いアパートだった。
メモに書かれた部屋番号を確認し、少し緊張しながらインターホンを押す。
「はい」
「あ、修平だけど」
「修平君。ちょっと待ってね」
インターホン越しに聞いたかな子の声は、なんだかちょっと可愛かった。玄関の扉が開くと、パジャマ姿のかな子が現れた。
「修平君、来てくれたんだ」
「うん。約束したからね。はい、これ」
「わあ、こんなにたくさんいいの? ありがとう」
「うん。売れ残りでごめんだけど、かな子が好きだって言ってた黒わっさんもあるよ」
「嬉しい。ありがとう」
パンを入れた紙袋を渡すと、後ろから小さな子どもたちがひょこっと顔を出した。弟のカ太と妹のゆ香だった。カ太は最初こそ警戒した顔をしていたが、ただパンを届けに来ただけだと分かると、すぐに打ち解けてくれた。
「お兄ちゃん、パン屋さんなの?」
「うん。そうだよ。売れ残りだけど、よかったら食べてね」
ゆ香が目をぱちぱちさせながらお礼を言ってくれた。俺は「どういたしまして。じゃあね」と手を振って、その場を離れた。自転車をこぎながら家に帰る間中、ずっとドキドキが止まらなかった。
それからというもの、俺は毎晩のように売れ残りのパンを袋に詰めてかな子の家に持っていくようになった。俺だけ頻繁に夜に出かけていたら怪しまれると思ったが、不思議なことに両親は何も言わなかった。でも、俺が何かやっているのには気づいていたと思う。毎日閉店時間になると、母は決まってこう聞いてくるのだ。
「修平、今日も売れ残りのパンいるか?」
「うん」
「袋はこれでいい? 足りる?」
「うん、大丈夫」
「早く帰ってきなさいよ。散歩から」
「ああ、うん」
どこに行っているとか、何をしているとか、一切聞かなかった。おそらく俺が何をやっていたか気づいていたのだろう。今ならわかるが、当時の俺はバレなくてラッキーくらいにしか思っていなかった。
それからかな子の家にパンを届ける生活は一年ほど続いた。最初は警戒していたカ太も、俺がただパンを届けているだけだと分かると、すぐに懐いてくれた。かな子たちには父親がいないというのもあったのかもしれない。
「修平君、毎日ありがとう。でも無理はしないでね」
「大丈夫だよ。売れ残りを食べてもらえるのは嬉しいからさ」
「私たちも美味しいパンが食べられて嬉しいよ」
俺たちの関係は良好になっていた。俺は廃棄を減らせるし、かな子は兄弟とパンを食べられる。こんな関係がこのまま続けばいいな、と思っていた。
かな子のところにパンを届けるようになって半年ほど経ち、俺たちは二年生に進級した。俺とかな子は二年生になっても同じクラスになり、以前よりも話すことが増えた。三年生になっても、悪天候でない限り俺は毎日のようにかな子の家にパンを届けていた。
かな子と出会って三度目の夏。その日は修了式で、午前中で学校は終わりだった。俺はかな子と一緒に帰っていた。
「今日も閉店後にパンを届けに行くから」
「うん」
いつもは明るいかな子が、朝からずっと落ち込んでいる。テストの結果が悪かったのか。俺たちは今年受験生だ。しかし俺の質問にかな子は首を横に振った。
「どうしたの?」
「あのね、実は引っ越すことになったの」
「え? 引っ越すの?」
かな子の母親の方の祖母が遠くで一人暮らしをしていて、怪我をして介護が必要になったという。頼れる身内もいないため、祖母と同居することになったのだという。
「いつ引っ越すの?」
「夏休みにはこっちにいないの」
「そっか。じゃあ高校もあっちなんだね」
「うん。ごめんね」
「謝ることないよ」
かな子は引っ越し日が明日だと告げた。つまり、俺が持ってくるパンを受け取れるのは今夜が最後だという。突然の知らせに戸惑ってしまった。一年以上続けていた日課が、今夜で終わってしまう。なんだか胸の奥にぽっかりと穴が開いてしまった感じがした。
「もっと早く言おうと思ったんだけど、ごめんね」
「いいよ。言い出しづらかったのは分かるからさ」
「ごめんね」
「かな子が謝ることじゃないよ」
俺たちはそのまま一旦別れて、それぞれの家へと帰った。家に着くと、俺は自分の部屋でぼんやりと過ごした。ずっとかな子の家にパンを届け続けられると信じていた。それが、あっさりと終わってしまう。心が追いつかない。親に本当のことを話すわけにはいかない。俺はずっと黙ってかな子の家にパンを届けていたのだから。
その夜、俺はいつものようにかな子の家にパンを届けた。玄関の前に立ち、インターホンを鳴らす。するとかな子が珍しく私服で出てきた。片付けの最中なのかもしれない。
「これ、ありがとう」
「修平兄ちゃん、ゆ香ね、お兄ちゃんちのパンが最後かってお姉ちゃんに聞いたよ。引っ越すんだよね?」
「うん、そうだよ。またこっちに戻ってきたら、うちの店に来てくれよな」
「うん、絶対に行く。ゆ香も行くよ」
「待ってるからな」
かな子が言った。
「修平君、今までありがとう」
「かな子、向こうに行っても頑張れよ」
「うん。本当にありがとう」
これで最後か。子供の俺たちには、親の都合に従うしかなかった。寂しいけど、仕方ないのだ。
翌日から、かな子は学校に来なくなった。夏休み明けには、もうあの教室に彼女の姿はなかった。かな子が引っ越してから、俺の心に開いた穴はなかなか埋まらなかった。それでも俺は地元の高校に合格し、卒業後は大学には進学せずに実家のパン屋に就職した。父の後を継ぐつもりで、パン職人としての修行に励んだ。
それから数年が経った頃のことだ。俺が一人で店番をしていると、一人の女性が店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
俺が声をかけると、女性は軽く会釈をした。この辺りでは見かけない人だなと思いながら、俺は焼き上がったパンを並べ続けた。女性はたくさんのパンをトレーに乗せてレジに来た。
「お会計お願いします」
「はい」
あまりの量の多さに驚きながらレジを打っていると、女性が声をかけてきた。
「修平君」
「え?」
「久しぶりね。覚えてる? かな子よ」
俺は手を止めて、目の前の女性をじっと見つめた。
「かな子? あのかな子?」
「そうだよ」
あの日から一度も会っていなかった。約十年ぶりの再会だった。
「帰ってきたのか?」
「うん。会社の転勤で、先月からこっちで暮らしてるの」
「そうなんだ」
「懐かしくてぶらっと散歩してたら、そこのガラス窓から修平君が見えたの。お店、まだやっててよかったよ。これからはいっぱい通うね」
かな子は、あの頃の面影を残しつつ、可愛いというより綺麗な女性になっていた。俺は連絡先を交換し、それから毎日のように会うようになった。会社からうちの店は近いらしく、かな子は毎日仕事帰りに寄ってたくさんパンを買ってくれる。
「あの頃とは真逆だな」
「そうだね。あの頃は修平君が毎日ここのパンを届けてくれて、懐かしいな」
「本当にね」
かな子が来るのはいつも夜の八時前だった。閉店作業を済ませて、俺は彼女を送るようになった。そうして一緒に帰るのも懐かしい。
俺たちが再会して一年が経った頃、いつものように閉店間際に来たかな子を送っていると、彼女が言った。
「修平君ちのパンは、冷めても美味しいね」
「そりゃ嬉しいね」
「これからもずっと、修平君が作ったパン食べたいな」
その言葉に、俺は思わず足を止めてしまった。
「修平君?」
「かな子、結婚しよう」
俺は十年間抱えていた気持ちを吐き出した。かな子が引っ越すと分かった時、すごく辛かった。もう会えないんだなと思って。それで大学も行かずに実家のパン屋を継いで、ずっとパンを焼いてきた。いつかかな子が来てくれるかもしれないと思って。そしたら本当に来てくれて、すごく嬉しかった。開店してから毎日また会えるようになって、どんどんあの頃の気持ちが蘇ってきたんだ。
俺の言葉に、かな子は涙を浮かべながらうなずいた。
「私も引っ越してからずっと寂しかった。もう二度と修平君に会えないんだなって。それがずっと心残りだったの」
「かな子がここに転勤になってよかった」
「うん。私でよければ、喜んで」
この日、俺たちは十年越しの思いを互いに打ち明けた。こうして交際が始まり、一年後には互いの家に挨拶に行った。
「そうか。君がかな子ちゃんか。修平がずっとパンを届けてた」
「お父さん、知ってたの?」
「当たり前だ。お前が何かやっているのは気づいてたよ」
さすが親だなと思った。俺なりに隠していたつもりだったが、二人は気づきながら見守ってくれていたのだ。かな子のお母さんにも会ったが、遺伝子はすごいなと思うほどの美人だった。その日、カ太とゆ香にも再会した。
「修平兄ちゃんが姉ちゃんの結婚相手か」
「わあ、おめでとう」
「修平兄ちゃんが本当のお兄ちゃんになるんだね」
「また兄ちゃんちのパンを食べに行くから」
「俺も待ってるからな」
その半年後、俺とかな子は結婚した。入籍後、実家近くのマンションで暮らし始めた。そしてかな子は結婚を機に会社を辞め、パン屋の手伝いに入ってくれた。
「かな子、これからもよろしく」
「こちらこそ」
中学生という子供の頃の思いが実り、十年の時を超えて実ったのは奇跡だったと思う。俺のことを見守ってくれていた両親には感謝しかない。あの頃の思いを大切にしながら、これから家庭を築いていくつもりだ。



