病院の門をくぐった瞬間、三年ぶりの外の空気が肺に染みた。ようやく家に帰れる。夫の証吾と、もう一度やり直せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた私を、玄関の光景が嘲笑った。「あら、お帰りなさい。奥様って言うべきかしら」階段の上から、白いローブに金髪を揺らした女が私を見下ろしている。夫の愛人、野田カトリーヌ。入院していた三年の間に、この家に住み着いていたのだ。夫はその隣で、気まずそうに視線を…

病院の門をくぐった瞬間、三年ぶりの外の空気が肺に染みた。ようやく家に帰れる。夫の証吾と、もう一度やり直せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた私を、玄関の光景が嘲笑った。「あら、お帰りなさい。奥様って言うべきかしら」階段の上から、白いローブに金髪を揺らした女が私を見下ろしている。夫の愛人、野田カトリーヌ。入院していた三年の間に、この家に住み着いていたのだ。夫はその隣で、気まずそうに視線を...

病院の門をくぐった瞬間、久しぶりの外の空気が肺に染みた。三年ぶりの春だった。私は笠原直子。長い闘病生活を終え、ようやく自宅へ戻る。あの家で、夫の証吾と、新しい生活をやり直せるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた自分を、玄関の光景が嘲笑った。

「あら、お帰りなさい。奥様って言うべきかしら」

階段の上から、白いローブに金髪を揺らした女が私を見下ろしている。夫の愛人、野田カトリーヌ。入院していた三年の間に、この家に住み着いていたのだ。夫の証吾はその隣で、気まずそうに視線をそらしている。昔からこういう男だった。決断の場では必ず他人の顔色を窺う、優柔不断な男。

「図々しいわね。退院したその足で戻ってくるなんて」

私はハンドバッグからタブレットを取り出した。震える声を押し殺して、再生ボタンを押す。画面に映し出されたのは、夫と愛人の姿。証吾の顔から血の気が引いていく。愛人の悲鳴が響き、夫は膝から崩れ落ちた。

私は笠原ホールディングスの社長。亡き父から受け継いだ会社を、これまで一人で支えてきた。証吾は婿養子として迎えられ、今は役員の一人に過ぎない。経営の実権は常に私にあった。彼の小さな嘘や弱点を見抜きながらも、表に出したことはなかった。息子の優馬は大学で一人暮らしをしており、帰ってくるのは長期休暇だけ。穏やかな日常のはずだった。

その年の春、私は心臓の病気を宣告された。手術と治療をすれば回復の見込みはあると言われたが、会社を、社員を、家庭を支えてきた私が倒れるわけにはいかない。入院を決めた私に代わり、証吾が形式的に社長代理に就任した。だが、その「形式的」という言葉の意味を、彼は理解していなかった。

病室のベッドで、私は毎日ノートパソコンを開いた。抗がん剤治療が始まると、副作用は容赦なく私を襲った。吐き気、倦怠感、脱毛。鏡を見るたびに、そこにいるのは別人のようだった。それでも化粧をし、帽子で頭部を隠し、リモート会議を続けた。社員が心配そうに尋ねる。「社長、大丈夫ですか」と。私は笑って見せた。「心配しないで。経営に病はないのよ」と。

息子の優馬は、授業が終わると毎日見舞いに来てくれた。「母さん、無理しないで。顔色が悪いよ」と心配する。しかし私はパソコンに向かったまま答える。「後回しにできるような仕事じゃないの。あなたも社会に出たら分かるわ」と。優馬はアルバイトがあるため、いつも心配そうに病室を後にしていた。

一方の証吾は、見舞いに来るものの、そわそわと時計を見ては早々に帰っていく。「悪いな。後から会議なんだ」と。私の体調を気にかけることも、仕事の話をすることもない。医者の説明にも「よくわからんな。任せる」と生返事。無責任に去っていく夫の背中を見送りながら、私の中に冷たい感情が広がり始めていた。

ある日、優馬が私の着替えを取りに自宅へ戻ると、玄関に見慣れないハイヒールが転がっていた。「なんだこの靴は」と首をかしげる。リビングから女の笑い声。そっと覗くと、金髪の若い女と証吾がソファに寄り添っていた。「ねえ、本当にあなたが社長なの?」「もちろんさ。この家を見ろよ。立派だろう」証吾の声が聞こえる。息子は怒りに震えたが、冷静にスマートフォンの録画ボタンを押した。二人は気づかず、密着を続けている。

その夜、優馬が私にその動画を見せてくれた。画面の中で証吾はふんぞり返り、若い女の肩を抱いている。「社長は俺だ。奥さんは入院中の役立たずだ」と。優馬は「父さんを問い詰めないと」と怒るが、私は静止した。「落ち着いて。物事には準備が必要なのよ。絶対に逃さない。私たちの戦いはこれからよ」と。息子には何も知らないふりを続けてもらい、私はその夜、探偵を雇った。

一週間後、報告書が届いた。相手は野田カトリーヌ、二十六歳。人気上昇中のモデルで、所属事務所は裕子モデルズ。その名前を見た私は、わずかに眉を動かした。裕子モデルズの社長、本間裕子は学生時代からの友人だった。「偶然ね」と私は口元に笑みを浮かべた。

入院生活が二年目に入った頃、午後の診察が終わった静かな病室に、突然ドアが開いた。「ごめんください。あら、ここが笠原さんちの奥様のお部屋」白いワンピースにサングラス、派手な金髪のカトリーヌが現れた。「あなた、誰の許可で」「ご挨拶に来ただけよ。私、あなたの旦那様とお付き合いしてるから」私は表情を変えずに言った。「そうなの。わざわざ妻の見舞いに来るなんて、随分余裕なのね」彼女は自分の美貌に自信があるのだろう。「あなたこそ鏡を見てみたら。髪もなくて、顔色も死人みたい。もう女として終わってるじゃない」と挑発する。「働きもしないで旦那に治療費を出させてるって聞いたけど、図々しいにもほどがあるわ。何もできない専業主婦のくせに」

専業主婦。私は思わず苦笑した。どうやら証吾は、己が社長で、私は専業主婦だと説明しているらしい。カトリーヌはバッグから離婚届を取り出し、ベッドに投げつけた。「かわいそうだから離婚してあげなさいよ。それが惨めなあなたのためにもなるわ」と。私はしばらくそれを見つめ、やがて微笑んで言った。「いいわ。でも、私が退院する日まで待ってちょうだい」「は? 何それ? 時間稼ぎ?」「いいえ、準備もあるし、きちんと手続きを踏むだけの話よ」彼女は面食らったように病室を出ていった。私はふっとため息をつき、鏡の中の痩せ細った自分を見つめた。「私を終わった女にしたつもりなら、大間違いよ」

退院の日、私は深く息を吸い込んだ。体はすっかり細くなっていたが、その瞳にはかつての社長としての眼光が戻っていた。自宅の門をくぐると、使用人たちが知らない顔に入れ替わっている。彼らはどこか気まずそうに目をそらした。「今日からまたこの家に戻るわ」と言った瞬間、玄関の奥で誰かの笑い声が響いた。カトリーヌが階段の上から私を見下ろしている。以前と変わらぬ挑発的な笑みだが、その頬にはかすかに疲れの影が見えた。

「随分活躍しているみたいね。テレビや雑誌でたまにあなたの顔を見かけるわよ」「ふふふ。ありがとう。おかげ様で売れっ子なのよ。事務所の稼ぎ頭なの」「まあ、忙しいこと」「これでも苦労人なのよ。長い下積み時代があったんだから」

そこに、証吾が現れた。かつての堂々とした姿はなく、スーツはしわだらけで、目の下には深い隈ができている。「お、お帰り。体はもういいのか?」入院中は私の体調を気遣う発言など一切なかったのに。私は静かに言った。「ええ。あなたが代理を務めてくれたおかげで、ゆっくり療養できたわ」証吾の眉がぴくりと動く。「で、約束通り離婚してもらえるの? さっさと返事して終わりにしましょう」とカトリーヌが急かす。

「その前に、これを見てもらえる」私は鞄からUSBを取り出し、リビングの大型モニターに差し込んだ。画面が映し出された瞬間、空気が凍りついた。映っていたのは、私の会社、笠原ホールディングスの取締役会議の映像。総務部長が淡々と報告を読み上げていく。「笠原社長代理における背任行為及び職務怠慢の件。社長代理の権限を乱用し、関連企業である渡辺工業への優先発注を繰り返し、自社の利益を著しく損ねた」証吾の顔から血の気が引いていく。渡辺工業とは、証吾の悪友の会社。仕事の質が悪いため、私は取引を避けていた。私が不在の隙に、彼が勝手に契約をしていたのだ。

「これはどこで手に入れたんだ?」証吾が青ざめた顔で尋ねる。「人事には、時間と正当な手続きが必要だったのよ」私は画面を一時停止させ、彼に視線を向けた。「あなたが不倫で浮かれている間、私は病室で証拠を集めていたの。取引記録、出勤ログ、交際費の不正使用。全部をね。この一年、あなたがどんな風に社長代理を楽しんでいたか、全部見せてもらったわ」証吾の口が止まった。カトリーヌが青ざめた顔で立ち上がる。「待って。社長代理ってどういうこと? あんたが社長じゃなかったの? ねえ、証吾、説明してよ」「あれ? 代理って言わなかった? ほら、代理、つまり臨時の…」「聞いてないわよ。嘘ついてたの? 私ずっと社長夫人になるって信じてたのに」

私は静かに紅茶を口に運んだ。「退院後に離婚の話が出ることは、最初から計算していたわ。それによってあなたたちが調子に乗れば、必ずボロを出すと思っていたの。そして、その通りになった」カトリーヌは震える声で叫んだ。「こんな茶番、信じない。どうせでっち上げでしょ。それにあんた、まだ病み上がりのくせに、そんな嘘で私を脅そうとしても」「嘘だと思うなら、確認してみなさい」私は机の上に封筒を置いた。人事移動通知と書かれている。カトリーヌが震える手で中身を引き抜くと、そこにはこう記されていた。「笠原証吾、社長代理職解任並びに東北営業所長への天任」「そんな嘘でしょ?」「正式な取締役会決定よ。あなたがその動画で見ていた通り」カトリーヌは唇を引きつらせた。「ちょっと、証吾が社長じゃないって」「お、俺だって知らなかったんだ。こんな決定が下るなんて」

「ふざけないで」と、私はゆっくり立ち上がった。「あなたたち二人には、それぞれ請求書を送るわ。証吾には慰謝料と背任に対する損害賠償。カトリーヌには、不貞行為による慰謝料」「慰謝料…」カトリーヌが青ざめた顔で呟く。「そうよ。慰謝料よ。二人合わせて、そうね。家一軒分くらいは覚悟しておきなさい」二人はさらに血の気を失った。

「もう一つ、大事なことを忘れていたわ」「な、なんだよ。まだ何かあるのか」証吾がうろたえた声で言う。私はゆっくりと部屋の中央に立ち、壁際の大きな肖像画に目を向けた。亡き父、創業者の笠原大造の姿だ。「この家は、私の父からの相続物件なの。つまり、所有権は私にあるの。その意味が分かるかしら」二人の顔色が同時に変わった。「ええ、そういうこと。話が早いわね。仮に離婚したとしても、出ていくのはあなたの方よ。婿養子であるあなたには、この家の権利は一切ないの」カトリーヌが絶望したように口を開けた。「そんなのずるいじゃない? これは二人で築いた家でしょ?」「二人で築いたですって? いえ、ここは元々私のもの。そこをあなたたちが踏み荒らしただけよ」

証吾は唇を震わせ、ようやく小さく口を開いた。「俺は、お前がもうすぐ死ぬと思っていたんだ。だからつい…」その瞬間、時間が止まった。「今、何て言ったの?」「お前が病気で長くないって聞いて。だから、お前が亡くなったら家も会社も自然に俺のものになると思ってたんだ」カトリーヌですら息を飲み、視線をそらした。「まさか、そんな浅墓な計画で人の人生を踏みにじったの? 私の会社、私の家、私の命まで」証吾は顔を覆い、ただ俯いている。「あなたは私を愛していなかったのね」「ち、違う。最初は本当に愛してたんだ。でも、お前はどんどん年を取っていくし。そこで若い彼女と出会ってしまって。しかも、お前は病気で入院したから、これは好機だと調子に乗った」「病人は経営者じゃないとでも思った? あなたに任せた三年間、私はずっと見ていたのよ」

私はスマートフォンを取り出し、ある場所へ電話をかけた。「何をしているの?」カトリーヌが面食らったように尋ねる。コール音が響き、すぐに相手が出た。「もしもし。裕子です」友人の声に、私は穏やかに微笑んだ。「ご無沙汰しています。裕子さん。入院中はお見舞いありがとう。例の件、今も進めてくださってるかしら?」その名を聞いた瞬間、カトリーヌの顔がぴくりと震えた。「ま、待って。裕子さんって、まさか…」「あなたの所属しているモデル事務所の社長さんよ」私はスマホをカトリーヌの前に差し出した。「裕子さん、ちょうど所持場で本人がここにいるわ。代わるわね」カトリーヌは怯えたように電話を受け取る。「もしもし。裕子さん」「カトリーヌさん。あなた、一体どういうこと? スポンサー企業の社長の夫に手を出したって本当なの?」「ち、違うんです。誤解です。私、そんなつもりじゃ…」「もういい。重大なコンプライアンス違反と判断したわ。本日付けで契約を解除します。所属からも削除しますので、明日以降の仕事には来なくて結構です」「ま、待って。やっと私の名前も売れ始めたところなのに。お願い。仕事だけは…」「今の世の中の流れが分かっているの? 世間は不倫に厳しいのよ。それに、あなたの代わりなんていくらでもいるんだからね」通話は無常にも切れた。カトリーヌは震える手でスマホを私に返す。その顔は真っ白だった。「どうしておばさんが、社長の番号を知ってるのよ」私はスマホのアルバムを開いた。病室で撮られたツーショット写真。ベッドの上で笑顔を見せる私と、その隣で花束を抱えたモデル事務所社長、本間裕子。「裕子さんは古くからの友人なの。会社の大口スポンサーでもあるから、私が病気の時もずっと支援してくれていたわ。だから、あなたが彼女の事務所にいると分かった時、どう対応するかは最初から決まっていたのよ」「そんなの、卑怯よ」「卑怯? 逆に、あなたたちがやってきたことのどこに卑怯じゃない部分があったの?」カトリーヌは目を見開き、ふらつきながら叫んだ。「いやよ。こんなの間違いよ。せっかくここまで来たのに」「いいえ、間違いじゃないわ。自分の過ちの責任をしっかり取ってもらっただけよ」カトリーヌはその場に崩れ落ちた。

証吾は唇を噛みしめながら、震える声を絞り出した。「あのさ。離婚はなかったことにできないか」私はゆっくりと彼を見た。「離婚届けなら、さっき役所に出してきたところだけど」証吾の顔から完全に色が消えた。「そんな。俺はお前とやり直したいと…」「やり直し? あなたが今更何を言っても、私を利用しようとしているとしか思えないわ」私は離婚届の控えをバッグから取り出し、机に置いた。証吾が震える手でそれを見つめる。記された日付は、まさに今だった。「私ね。証吾。三年間の闘病の間、何度も考えたの。死ぬかもしれない私が、なぜこんなにも生きたいと思うのかって」証吾は黙って聞いていた。「それが今日、分かったわ。あなたたちのような人間に復讐するまで、私の人生を終わらせるわけにはいかないと思えたからよ」証吾は何も言えず、ただ視線を落とした。カトリーヌは泣きながら床に散らばった書類を掻き集めている。

私は玄関へ向かった。夕日の光が背中を照らす。その影は、病室での痩せ細った影とはまるで違っていた。力強く、堂々と。まるで新しい人生を迎えるかのように。ドアの把手に手をかけながら振り返る。「さようなら。証吾。カトリーヌさん。後のことはよろしくね」そして、扉を閉めた。

私が去った家の中では、全てを失った証吾とカトリーヌの背後で、亡き父の肖像画が無言のまま二人を見下ろしていた。

そこからの証吾の転落は早かった。左遷先の地方営業所で慣れない重労働を強いられ、腰を痛めて長期休職。そのまま退職した。退職金を手にすると、彼は何も告げず姿を消した。ただし、逃げる直前に証吾はカトリーヌの名義で闇金から多額の借金を重ねていった。もちろん本人には一切知らせずに。数ヶ月後、カトリーヌの元に借金の取り立てが押し寄せた。「何よ、あんたたちは!」自分の名義で借りられた金額を知り、彼女は顔面蒼白になる。仕事を失った彼女は、最後の望みとばかりに私の元を訪れた。「全部あんたのせいよ。あんたが私たちを潰したんだ。責任を取りなさいよ」私が冷たく一瞥をくれる。「あなた、まだ分かっていないのね。私はもう証吾とは離婚しているの。あなたも証吾も、赤の他人よ」冷たくそう言い放つと、扉を閉めた。

その後、カトリーヌは行方をくらました。夜の町で彼女の姿を見たという噂もあったが、確かな消息を知る者はいない。

一方、私の人生は輝きを取り戻していく。退院後、社長として完全復帰した私は、闘病中に練り上げていた戦略を実行した。会社の業績は過去最高益を記録し、業界内では「復活の女帝」と呼ばれるようになった。そして、私は自らの経験を糧に、講演会や患者支援のボランティア活動を始めた。病と戦うことは、負けないことではなく、受け入れて歩き出すこと。息子の優馬もまた、立派に成長した。大学を卒業後、私の会社で経営を学び、やがて自分の事業を立ち上げた。その傍ら、私のボランティア活動を手伝う中で知り合った女性と交際を始め、結婚を視野に入れている。

ある日、私は優馬のオフィスを訪れた。机の上には、かつて私が病室で書いた経営ノートが飾られている。「お母さん。これ、俺の原点なんだ」優馬の言葉に、私は静かに微笑んだ。「人生って、捨てたものじゃないわね」長い闘病生活を終えて完全復活した私の人生は、これからなのかもしれない。息子の活躍を応援しつつ、私は充実した日々を送っているのであった。

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