あの夜、高級ホテルのバーで一人グラスを傾けていた。取引先との打ち合わせが急に流れ、明日は工務店も休みだから、久しぶりにゆっくりしようと二杯目を頼んだ矢先だった。騒がしい集団が入ってきて、中心にいたのは得意先の御曹司・平松慎吾さん。俺を見つけるなり「誰かと思えば、そこにいるのは狼社長じゃないですか」と店内に響く声で呼んだ。仕方なく近づくと、彼は連れの女性たちに「こいつ、俺の小番ざめな」と紹介し…

あの夜、高級ホテルのバーで一人グラスを傾けていた。取引先との打ち合わせが急に流れ、明日は工務店も休みだから、久しぶりにゆっくりしようと二杯目を頼んだ矢先だった。騒がしい集団が入ってきて、中心にいたのは得意先の御曹司・平松慎吾さん。俺を見つけるなり「誰かと思えば、そこにいるのは狼社長じゃないですか」と店内に響く声で呼んだ。仕方なく近づくと、彼は連れの女性たちに「こいつ、俺の小番ざめな」と紹介し...

ある日、俺は高級ホテルのバーで一人、グラスを傾けていた。少し前まで取引先の担当者と打ち合わせをしていたのだが、相手に急なトラブルが入って早々に帰ってしまい、一人残された形だ。明日は工務店も休みだし、久しぶりにゆっくりしていこうと、俺はもう一杯だけ飲むことにした。

その矢先だった。洗練されたバーの雰囲気に似つかわしくない、騒がしい集団がどやどやと入ってきた。俺が思わず眉を寄せて見やると、その中心にいるのはなんと平松慎吾さん。大手ハウスメーカーの社長の息子で、俺の工務店の得意先の担当だ。彼の周りには男が二人、女が三人ばかりいて、全員が彼に必死に媚びへつらっているのがありありと分かった。彼が何か言うたびに大げさなほどキャッキャと盛り上がっている。

ここで見つかったら絶対に面倒なことになる。俺はそう思って、こっそり立ち上がろうとした。しかし、こういう時に限って平松さんは目ざとい。誰かと思えば、そこにいるのは狼社長じゃないですか。

店内に響き渡るような声で呼ばれてしまっては、無視するわけにもいかない。俺は仕方なく愛想笑いを浮かべて振り返った。

ああ、これは平松さん。お久しぶりです。

すると彼は、子犬でも呼ぶようにちょいちょいと手を招く。仕方なく近づくと、彼は連れの女性たちに俺を紹介した。

こいつ、俺の小番ざめな。

そのあんまりな言い草に、隣に座っていた女性が高い笑い声をあげた。

え、何それ?でも慎吾さん、さっきこの人のこと社長って呼んでたでしょう?それに、こんないいスーツ着てるし。

まあ確かに、あんなボロい工務店でも社長は社長だよな。でも実際は俺の親父の会社の下受けで、なんとか食いついてる肩書きだけの社長だけどな。

平松さんがそう言うと、周囲の連中もそれに続いて笑い出した。

そうだ。あんた、今日から社長って名前にしろよ。そしたらみんなに社長って呼んでもらえるぜ。

俺は何も言わず、ただ薄く笑みを浮かべていた。彼は得意げに胸を張り、嫌な笑いを浮かべながらさらに続ける。

ってことで、こいつ俺に頭が上がんねえのよ。だから小番ざめ。あんたもなんだよ、そんなスーツなんか着ちゃって。ああ、こういうホテルのバーにでも憧れてた口か。は、貧乏人はこれだから。

彼の目が、俺を完全に見下すように細められた。そして、バーのメニュー表を指差しながら言った。

なあ、小番ザメ君、もっと仕事が欲しいなら、この100万円のシャンパン奢ってくれよ。

彼は横にいる女性に下顔で話を振る。

なあ、お前らも飲みたいだろ?100万円のシャンパン。

飲みたい、飲みたい。小番社長さん、俺らも飲みたいっす。

すでに酔っ払っている連中の言葉に、周囲はわあっと騒ぎ出した。他の客への迷惑も考えない姿に、俺は呆れてしまう。それでこの場が収まるなら、彼らの言う通り払ってやってもいいのだが。俺は薄く笑みを浮かべたまま、静かに口を開いた。

皆さんがどうしてもとおっしゃるのなら、ここで奢ることもやぶさかではありません。ですが、平松さん。

俺の冷静な視線に、平松さんがわずかにたじろぐ。そんな彼をまっすぐに見ながら、俺は続けた。

小番ざめというのは撤回してください。私はあなたの小番ざめではないので。

ぽかんと口を開けていた平松さんだったが、やがて顔を真っ赤にさせて立ち上がった。

お前、高が下受けの癖して、そんな口聞いていいと思ってんのか?いいか?俺が親父に一言言えば、あんなボロい工務店なんてすぐに吹っ飛ばせるんだぞ。

そう言って彼は俺の胸ぐらを強く掴んできた。さすがにこれには周囲も慌て始め、店員が割って入った。

他のお客様のご迷惑になりますので。

そうそう、ね。別のところで飲み直そうよ、慎吾さん。

周囲の言葉に平松さんは舌打ちを落とし、ようやく俺の胸ぐらから手を離した。だが怒りは収まらない様子で、俺を睨みつけながら「覚えてろよ」とお決まりの文句を残して立ち去っていった。

俺の名前は岡井涼介。祖父の代から続く工務店の社長だ。社長といっても小さな店で、仕事は主にハウスメーカーの下請けだ。大学を出て社会人になってからしばらくは他の工務店で営業として働いていたが、一年前に父から実家の工務店を継いだ。父は今も現役で、どちらかといえば職人気質で現場に出ていたいタイプだ。社長をしていた時は現場仕事を減らしていたが、俺に社長の座を譲ってからは毎日、それこそ鬼のように現場をかけ回っている。

とある日、見慣れてはいるがあまり会いたくない人物が工務店を訪れた。祖父の代から付き合いのある得意先の大手ハウスメーカーの担当、平松慎吾さん。彼は高そうなスーツにピカピカに磨いた靴でばっちり決めていたが、古くて小汚いこの工務店にはいささか不釣り合いな存在でもある。

どうも。もう本当に、ここはいつ来ても埃っぽいな。ねえ、社長。ここ、ただでさえ狭くて古くて汚いんだから、たまには掃除でもしたらどう?

ご自慢のブランドグッズが汚れるのが気に入らないらしく、平松さんはこれ見せにハンカチで靴を磨きながら、ため息混じりにそう言った。もちろん言われなくても掃除は毎日している。だが、建設に直接関わる大工や現場監督がしょっちゅう出入りするため、どうしても土や埃は溜まってしまう。汚れるのが嫌なら、そんなにピカピカの靴を履いてこなければいいのに。内心そう思いながらも、彼がこの工務店や俺のことを馬鹿にするのはいつものことなので、俺は笑顔を浮かべてさらりと本題に入った。

それは失礼しました。以後気をつけますね。ところで平松さん、今日はどのようなご用件で?

ああ、今日はこの件でな。納期が早まったから、一応連絡しといてやるよ。

そう言って平松さんは鞄の中から書類を取り出すと、ほとんど投げるようにして俺に渡してきた。しかしその書面を見て、俺は思わず声をあげた。

平松さん、これはさすがに……納期が当初より一週間も早いじゃないですか。ただでさえスケジュールがきついのに。

ああ、うるさい。

俺の抗議を面倒くさそうに遮り、平松さんは嫌味な仕草で肩をすくめた。

仕方ないだろうが、それが客の要望なんだから。休みなしで行けば余裕で間に合うだろ。

当たり前の顔をしてひどいことを言う彼に、俺は呆気に取られてしまった。そもそも、彼の父が社長を務める大手からの発注は、不当な金額や無理なスケジュールが多い。それでも受けてしまうのは、祖父の代に遡る因縁があった。

祖父がこの工務店を始めた時、大手ハウスメーカーの当時の社長、つまり平松さんの祖父がその仕事ぶりを気に入ってくれて、優先的に仕事を回してくれたのだ。祖父はもう亡くなってしまったが、最後までそのことを大変恩義に思っており、息子の父や孫の俺にも恩を忘れるなとよく言い聞かせていた。そのこともあって、どんなに無茶な依頼でも、父も俺もできる限りこなしてきた。だがそれが、かえって会社側の要求をエスカレートさせたのだろう。担当がこの平松さんになってからは、特に仕事の内容がどんどん酷くなっていった。

人を人とも思わないような平松さんの発言に、俺が無言でも納得していないことは伝わったのだろう。彼は一度睨むようにして俺を見やると、口の端を吊り上げてせせら笑った。

狼社長、あんたは黙ってうちからの依頼をこなせばいいんだよ。というか、こんなパッとしない工務店、うちからの発注がなければすぐにでも潰れるだろう。仕事を回してもらえることに感謝しないと。

そして、あんたはせいぜい俺のご機嫌取りをしてください、と言い残すと、話は終わりとばかりに立ち上がって帰っていってしまった。彼の鳴らす近所迷惑な車のエンジン音にため息をつきながら、俺は仕方なく工事の組み直しを検討するのだった。

バーでの騒動から数日後、俺は平松さんに呼び出されて彼の会社を訪れていた。応接室にはすでに平松さんと、彼の父である会社の社長が二人して俺を待ち構えていた。しかし二人ともどこか顔色がさえない。そして俺が席に着いた瞬間、平松さんが一枚の書類を俺に見せてきた。

どういうことだ?

差し出された書面には、「今後この会社とは取引しない」という旨が記載されていた。見覚えのあるそれに、俺は同じ内容を繰り返すだけだった。

ですから、書面通りの意味です。今月で本社との契約は打ち切りということで。

実はその書類、俺が彼らに送ったものだったのだ。すると横でイライラしていた平松社長が、たまらず割って入ってきた。

銀行から受けられる予定だった百億の融資が白紙になったんだぞ。これは一体どういうことなんだ。

その融資の件も把握しています。この会社は近々事業拡大をする予定で、大手銀行と多額の融資契約を交わしていた。だが、どうやらその契約が白紙にされてしまったらしい。

なぜかは知らんが、銀行が提示してきた契約内容には、お前のとこの工務店への継続的な発注が必須となっていたんだ。それを、お前がこんなことをするから……

察するに、うちの工務店との契約が切れるのであれば融資はできないと言われたのだろう。父の言葉に、息子の平松さんも焦ったように身を乗り出す。

なんでだ?なぜあんな大手の銀行が、お前のボロ工務店にこだわるんだ?

信吾、そんなことは後でいい。とりあえず今は契約継続が先だ。お前のとこだって、うちから仕事が来なくなったら困るだろうが。今なら何も言わず元に戻してやるから、これを破棄しろ。

平松社長が俺を脅すかのように、対面からずいっと迫ってくる。息子も負けじと俺を睨んできた。

そうだ。なんだよ、この前のこと怒ってんのか。じゃあ、お前がうちと契約を続けるなら謝ってやる。だからお前は黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ。

そんな二人の言葉に、俺は思わず失笑を禁じ得なかった。俺は昔から、父が開発した家作りの技術はもっと高く評価されるべきだと考えていた。そこで実家の工務店を継ぐと決まってから、俺は父の下で勉強しながら地道に営業を重ねていた。その取り組みが実り、最近は複数の大口取引が立て続けに決まっていた。ちなみにバーにいたのも、取引先の担当者との打ち合わせの帰りだったのだ。

俺はごく小さなため息を漏らし、淡々と答えた。

私の意思は変わりません。御社からの不当な金額や無理なスケジュールでの発注を、これ以上受ける理由もないので。書面通り、契約は終了にします。

二の句が継げない様子で、目の前の親子はぐっと息を詰まらせた。やがて平松社長が吼えるように訴える。

この恩知らずが!わしの父がいなかったら、あんな工務店なんてとっくに潰れておったくせに。くそう、うちと契約したいという工務店なら、他にいくらでもあるんだぞ!

祖父の昔話には、当時の社長と酒を酌み交わした思い出もよく出てきていた。父も俺も、平松親子と確かな絆を結ぶことに、密かに憧れていた時期もあった。ちいちゃん、ごめんな。俺は心の中でそう呟いた。

今までお世話になりました。

立ち上がって彼ら親子に一礼し、俺はそれ以上何も言わず、ただ静かに退出した。

それから数ヶ月が経った。平松親子の会社は、結局融資が白紙のままで事業拡大も暗礁に乗り上げてしまったらしい。さらに、彼らの手掛ける物件はどれも急激に質が落ちたと噂され、業績は下がり続ける一方だという。そのニュースを聞きながら、俺は当然だと思った。父の職人としての技術を生かした高断熱・高気密の家づくりは、そう簡単に真似できるものではない。融資先の銀行がうちの工務店との継続契約を条件に入れたのも、その技術を銀行側が高く買ってくれていたからだ。平松親子は知らなかっただろうが、実はその大手銀行とうちは、祖父の代から続く長い付き合いなのである。

その後、俺は一度だけ平松親子と話す機会があった。業績悪化で追い詰められた二人が工務店へ押しかけてきて、工場案件での再契約を持ちかけてきたからだ。だが、それほどになっても彼らの高慢な態度は全く変わらず、そのしつこさにうんざりしてしまった俺は、「次からは警察を呼びます」と告げて、なんとか彼らを追い出した。

一方で、おかげさまで複数の取引先に父の技術は高く評価され、業界外にも広く認知されるようになった。工務店には注文がひっきりなしに入り、今はありがたくも嬉しい悲鳴をあげている。

俺は思う。もちろん過去は大切だけれど、そこに立ち止まってばかりでは成長がないのもまた事実だ。まさしく恩は報いるためにある。俺はこれからもその信念を胸に、日々の仕事へ邁進していこうと誓ったのだった。

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