雪の降りしきる中、玄関のチャイムが鳴った。時刻は夜の八時。こんな大雪の夜に訪ねてくる者など思い当たらない。夫と顔を見合わせ、私は重い腰を上げて扉を開けた。
誰もいない。見回しても人影はない。閉めようとしたその時、足元からか細い声がした。
「お、おばあちゃん……」
信じられなかった。そこには、生まれたばかりの妹を背負ったまま倒れ込んでいる孫のユトがいた。足には靴を履いておらず、穴の開いた靴下だけ。寒さで唇は紫に変わり、全身が震えている。
「ユト!? 」
私は急いで抱き起こした。夫も駆けつける。ユトは震える声で言った。
「妹にミルクを……あと、僕も風邪を引いたみたいなので、病院代を貸してください。お願いします」
頭を何度も下げるユト。その姿に息が詰まった。だが、その瞬間、奥から夫の怒鳴り声が響いた。
「金を貸せだと? ふざけるな。貸すわけがないだろう」
夫が近づくと、ユトの顔が絶望に染まる。彼は必死に妹をかばうように抱きしめた。夫は赤ん坊をユトから引き剥がし、私に渡す。そしてユトの手を引き、吹雪の外へ連れ出そうとした。
私には夫の意図が分かっていた。急いで準備をし、二人の後を追う。ガレージに走り込み、ユトと妹のマイを車に乗せると、夫は勢いよくエンジンをかけた。
「安心しろ。ユト、すぐに病院へ連れて行ってやるからな」
夫がユトの頭を乱暴に撫でると、ユトは驚いたように目を丸くした。怒られると思っていたのだろう。私はブランケットで二人を包み込んだ。
こんな小さな子が、靴も履かずに、大人でさえ耐えられない吹雪の中を、妹を背負って二時間近くも歩いてきたというのか。ユキヤとアズサは一体何をしているのだ。
怒りが込み上げる。バックミラーに映る夫の眉間には深いしわが刻まれていた。
途中、夫は自販機で車を止め、温かいコーンスープを買ってユトに飲ませた。安心したのか、ユトは病院に着く前に眠ってしまい、寝言で何度もこう言った。
「ママ、ごめんなさい。ごめんなさい……」
こんなに妹思いで優しいユトが、一体何を謝ることがあるのか。私はこれまで感じていた違和感に、何かと理由をつけて目をそらしていた自分を責め続けた。
数十分後、私たちは近くの診療所に駆け込んだ。診療所の先生は私たち夫婦とほぼ同じ時期にこの町へ移住してきた仲間だ。夫が車の中で先に電話を入れていたのだ。
先生はユトをベッドに寝かせ、診察を終えると険しい表情で私たちに向き直った。
「高熱ですが、熱はもうすぐ下がるでしょう」
ほっと胸を撫で下ろす私たちに、先生は「しかし」と続けた。
「ユト君は深刻な栄養失調です。おそらく日頃から満足に食事を与えられていなかったと思われます」
その言葉に、私は全身の血が引いていくのを感じた。
「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか? 」
先生の厳しい視線が私たち夫婦に注がれる。その通りだ。どうして今まで気づいてやれなかったのか。どうして昨日、扉を壊してでも部屋の中に入らなかったのか。
「おっしゃる通りです。こんな時間に診察してくださり、ありがとうございます」
深く頭を下げた。だが、私は頭を上げることができず、そのまま両手で顔を覆って泣いた。
すると、ユトがうっすらと目を開け、頼りない声で言った。
「お医者さん、おじいちゃんとおばあちゃんは悪くないんだ。僕が悪い子だから、ママにご飯をもらえなかったんだ」
「何言ってるの?

ユトみたいな優しくていい子を、おばあちゃんは見たことがないわ」
必死に言い聞かせる私を見上げ、ユトは首を振った。
「僕が、金ずるの仕事をうまくできないから……」
金ずる。その言葉に私は絶句した。七歳の子供が口にしていい言葉ではない。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい。本当はリュックも水筒もランドセルも、なくしてなかったんだ。嘘ついてごめんなさい」
ユトは鼻をすすりながら泣いた。
「嘘をつきたくなかったんだけど、ママに足を殴られて……」
あの時、ユトが何かに耐えるような表情を浮かべていたのは、そういうことだったのか。ランドセルをなくしたと言った時の、ショックを受けたあの表情も。
「違うわ。悪いのはおばあちゃんよ。ごめんなさい。もっと早く気づくべきだった」
「ユト、じいちゃんが悪かった。許してくれ」
夫と二人でユトのそばにひざまずき、小さな手を握ると、ユトは私たちを安心させるように力なく笑った。
私たちはユトの負担にならない程度に、家で何が起こっていたのかを聞いた。一通り聞き終える頃には、私は体中の体温が奪われたかのように青ざめ、夫は激しい怒りで顔を真っ赤にしていた。
アズサはユキヤと付き合っている時は、ユトにとても優しかった。だが結婚するや態度が百八十度変わった。新婚当初はユキヤがいる時だけ作っていた食事も、今では自分の食べたい物だけを買ってきて、ユトにはその残りを与えるだけ。栄養を考えた食事などなく、炭水化物ばかりの食事がユトの体を蝕んでいった。
ユトが助けを求めるようにユキヤを見ても、ユキヤは目をそらす。それどころか、ユキヤは嫌な雰囲気に耐えられなくなり、今では食事を済ませてから帰ってくるようになった。
ユトの唯一の楽しみは学校での給食だけだったが、妹が生まれてからはそれすらも奪われた。アズサはマイが泣き止まないと「うるさい」と怒り、ベランダに締め出してしまうのだ。マイはまだ生まれたばかり。吹きさらしのベランダに長時間放置されるなど、何が起きてもおかしくない。七歳のユトにもそれは分かった。ユトはマイが連れて行かれないように抱きしめると、アズサは「私が悪いっていうの!? 」とヒステリーを起こし、ユトも一緒にベランダに放り出した。
ユトは自分が家にいない間にマイに何かあったらと思うと気が気でならなくなり、一度学校に行ったふりをして公園で時間を潰し、家の様子を見に行った。すると、派手な格好をしたアズサが家から出てきて鍵をかけてどこかへ行ってしまった。部屋の中からマイの鳴き声が聞こえる。
その日からユトは学校に行くふりをして、こっそり家に帰るようになった。それを知ったアズサは「いいベビーシッターができたわ」と笑みを浮かべるようになったそうだ。
「本当はおじいちゃんと畑に行ったり、お皿を作ったりしたかったんだけど、ママに服を汚すなって言われて……ごめんね。おじいちゃん、おばあちゃん」
そう話し終えると、ユトはすやすやと眠り始めた。
先生はユトとマイを預かると言ってくれた。私は夫と深く頭を下げ、診療所を後にした。向かう先は決まっている。
大雪の中、車を走らせ一時間後、私たちはユキヤのアパートに到着した。声を出すと録音されるかもしれないので覗き穴から見えないように気をつけ、無言で思いっきりドアを叩き続けた。五分ほどして、のろのろと扉が開いた。
「誰だよ。二日酔いで頭痛いんだけど」
夫がわずかに開いた隙間に足を入れ、ドアを力づくで開いた。その勢いでアズサは室内から放り出されるように夫にぶつかり、雪の上につっぷした。
艶のない金髪に濃いメイク。ほぼ下着のような服装。いつもの地味な印象と似ても似つかない姿だった。あの黒髪はかつらだったのか。
「お母さんとお父さん、どうされましたか? 急に」
アズサは動揺しているのか、いつもの疲れ切った口調で喋った。口調と格好のアンバランスさで、それが芝居だとすぐに分かった。
「どうしたんだよ」
ユキヤも部屋の奥から、めんどくさそうに頭を掻きながら出てきた。
「ユトがこの寒さの中、靴も履かずにマイを背負ってうちに来たのよ。何やってるのよ、あなたたちは」
冷静に追い詰めたかったが、口に出すと感情が溢れ出し、私は泣きながら叫んでいた。ユキヤが驚き、どもりながらアズサを見る。
「アズサ、二人はお前の実家に行ってるんじゃなかったのか? 」
「知らないわよ。帰ったらいなくなってたの」
アズサの口調は間延びした怠惰なものに変わり、指で長い髪を弄りながらユキヤを睨んだ。どうやら演技が通じないと判断し、開き直ったようだ。
「ユキヤ、あなた、ユトが一日に六食も食事をしていないことを知っているのに、一人だけで外で済ませてるって本当?
」
ユキヤは目を泳がせ、最後にアズサを見た。
「それはあの子が色気づいて勝手にダイエットしてるだけ」
アズサの無理のある言い訳に、ユキヤも頷いた。私が抗議すると、アズサは立ち上がって腕を組み、顎を上げて威嚇した。
「本当だし。てか、私が食事を与えていなかった証拠でもあるんですか? 」
その悪びれない態度に、私は悔しさで震えた。
すると次の瞬間、意外なところから助け舟が出た。
「その女、嘘ついてるわよ」
はっと声のした方を見ると、隣の部屋の住人と思われる女性が立っていた。アズサが目を泳がせ、焦りを見せる。女性は以前から聞こえてくる子供の鳴き声を不審に思っていたという。日中は延々泣き続け、親がかまう様子がない。夜はベランダから泣き声が聞こえてくる。苦情を言うと最初は謝っていたが、赤ん坊をほったらかして外出しているのを見たと告げると態度が一変し、逆に「変な噂を流すと訴える」と脅してきたという。
「何が訴えるだ。これを聞きな」
女性が手にしていたスマホの画面をタップし、掲げる。するとスピーカーから赤ちゃんの鳴き声が流れた。続いてベランダが開く音。「ママ、やめて」というユトの必死な声。「うるせえんだよ。お前も一緒に出て泣き合わせとけよ」とヒステリックに叫ぶアズサの声。ベランダが閉まる音まで、全て録音されていた。
地獄絵図のような光景が頭に浮かび、私は悔しさと悲しさで崩れ落ちそうになった。
「今日は全く赤ん坊の鳴き声が聞こえないから、それはそれで不安で、明日朝一で児童相談所か警察に通報しようと思ってたんだよ」
「やめろ! 」
その言葉を聞いたアズサは叫びながら女性のスマホを奪おうとする。もみ合いになろうかというその時、反対方向からも声がした。
「こっちにも証拠があるぞ」
いつの間にか左隣の部屋の前に、私と同じ年くらいの男性が立っていた。手には茶封筒を握りしめている。
「俺も、赤ん坊を置いて日中いなくなるこの女を不審に思っていたんだ。これを見てくれ」
男性が茶封筒から何枚もの写真を取り出す。私と夫が覗き込むと、息を飲んだ。派手な格好をしたアズサが中年男性と手を組んでラブホテルに入っていくところだった。写真には時間が記されており、入ったのは午前十時。出てきたのは午後四時。その間マイが放置されていたことになる。他にも車中で密着している写真や、スーツケースを引きながら二人で新幹線に乗り込む瞬間まで捉えられていた。調査報告書には密会していた日が詳細に記されている。
これにはユキヤが飛びついてきた。
「な、なんだよこれ。おい、アズサ、どういうことだ? この男は誰だ?
」
「なんだよ。全然関係ないじじいが出しゃばってんじゃねえよ。プライバシーの侵害だ」
アズサはユキヤなど目に入っていない様子で、ユキヤの体を押しのけ男性の方へ走った。しかしパニック状態の上、ヒールのサンダルを履いたアズサは足元がおぼつかず、足をひねって転んでしまった。地面に這いつりながら顔だけを上げ、プライバシーの侵害だと何度もわめき散らす姿は、まるで狂った蛇のようだった。
私は男性に尋ねた。
「どうして他人の家庭のためにそこまで? 」
男性はぐっと唇を噛み、悔しそうな顔で教えてくれた。男性にはユトと同じくらいの年の子供を病気でなくした過去があるという。このアパートに引っ越してきた頃は、ユトは顔を見るたびに元気よく挨拶してくれた。男性もユトに亡くなった子供を重ね、毎日元気な顔を見るのを楽しみにしていた。しかしだんだんとユトの表情が暗くなり、体も痩せていく。見ていられなかった男性がおにぎりを差し出すと、ユトはその場でむしゃむしゃと食べ出した。「また明日も食べにおいで」と言うと、ユトも嬉しそうに笑った。しかし翌日からユトは「ママに怒られるから」と男性を避けるようになったという。
「この女は、わざと顔色の悪い化粧をして、あんたたち夫婦の同情を誘い、金を巻き上げてたんだ」
男性がアズサを指差すと、アズサは反論の材料を探すように目を泳がせ、口をぱくぱくと動かした。
「金を巻き上げてただって。俺はそんなの聞いてないぞ」
「あなた、仕事でミスして処分されたんでしょ? 夫婦の口座に毎月お父さんが仕送りをしてるじゃない? 」
「は?
俺が」
ユキヤがぽかんと口を開ける。
「まさか俺が処分されて給料が下がったと嘘をついて、共有口座とやらに金を振り込ませてたってことかよ」
ユキヤは怒りに震え、強く拳を握りしめた。
「それと、この女は不倫しているんだ。不倫していたのは、あんたと結婚する前からだよ」
男性が調査報告書をユキヤに差し出す。ユキヤはわなわなと震え、報告書を地面に叩きつけた。
「騙しやがって」
ユキヤがアズサの髪を掴み、アズサも負けじとユキヤの脛を蹴飛ばした。
「お前みたいな無能と結婚してやったんだろうが。不倫くらい許せよ」
いつの間にかアパートの全ての部屋から住民が出てきて、二人の取っ組み合いを見学している。スマートフォンを掲げて撮影までしている人もいるが、私には止める気も起きなかった。子供のことなんて誰も頭にない二人に、私が頭を抱えていると、沈黙を保っていた夫が一歩前に出た。
「お前たち、いい加減にしろ」
夫の怒鳴り声に、二人は動きを止めた。あまりの剣幕に、周囲のざわめきも静まり、一瞬夜の静寂が戻った。アズサはよろよろと立ち上がり、足取りもおぼつかず室内に逃げ込んだ。ユキヤは自分の指を噛み、ぶつぶつと独り言をつぶやき出す。
「こんなことが会社にバレたら、俺は……」
翌日、私と夫は隣人が集めてくれた証拠を持って警察へ向かった。実の息子であっても、いや実の息子であるからこそ、罪を認め、償ってほしい。二人で話し合って決めたのだ。
隣人たちの証拠が決め手となり、ユキヤとアズサは児童虐待及び保護者遺棄の罪で、懲役五年の実刑判決を受けた。アズサの不倫相手は高校時代の恩師だったそうで、警察の事情聴取には「卒業後一度も会っていない。名前も覚えていないし、人違いだ」と一点張りだった。だが不倫相手に見捨てられたことを週刊誌で知ったアズサは、発狂しながら刑務所へ移されたという。
私たち夫婦はユトとマイを引き取った。アパートの大家さんに迷惑をかけたことを詫び、部屋から荷物を運び出していた時、隣の部屋の男性が現れた。自分のせいでユトから両親を奪ったのではと、落ち込んだ様子の男性に、ユトがかけ寄って抱きついた。
「おじちゃん、あの時おにぎりありがとう。お礼が言えなくてごめんね」
にっこり笑うユトに、男性の目尻が緩んだ。
「元気になったんだな。良かったよ」
頭を撫でられたユトが嬉しそうにする。子供嫌いだと言っていた、泣き声を録音してくれていた女性にも、ユトは笑顔で「おばちゃん、バイバイ」と手を振った。女性はまんざらでもないような笑みを浮かべた。
五年後、ユキヤとアズサが刑期を終えて出所した。アズサはその後どこへ行ったのか分からないが、ユキヤは私たちの家にやってきた。生活費もままならず、資金援助してほしいと玄関の石畳に土下座する。夫も私も事前に話し合った通り、援助を断った。
「子供を見捨てるのか! 」
ユキヤは態度を一変させ、立ち上がって逆切れした。しかし夫は冷静にユキヤの肩を掴み、まっすぐ目を合わせた。
「お前は、助けを求めるユトに手を差し伸べたのか」
ユキヤは呆然とした表情を浮かべ、その場に崩れ落ちた。私たちは、背中を丸めて去っていく息子の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。
「おばあちゃん、おじいちゃん」
沈んだ雰囲気を一変させるように、可愛い声が聞こえてくる。振り向くと、裏庭の方からユトとマイが駆けてきた。
「ねえ、野菜、採ろう! 」
マイが鼻の頭に土をつけて大きな笑顔を見せる。ユトとマイは今、私たちの養子だ。二人とも自然の中ですくすくと育ち、素直で優しい子になってくれた。
私たちは可愛い子供たちの手を引き、今日も畑へ向かう。

