夫が何を言ったのか、私は一瞬耳を疑った。聞き返すと、夫はため息混じりにもう一度繰り返した。
「だからさ、そろそろ許してやれないのか。母さんも反省しているんだからさ」
世界がぐらりと揺れた気がした。
夫のかずと結婚したのは四年前。当時私は二十六歳だった。在宅で働く私と、会社員の夫。昼間は私一人だから、夫婦で暮らす賃貸マンションへ、義母は連絡もなく度々訪れてきた。
「嫁としてあなたがきちんとしているかチェックしに来たわ」
そう言って部屋中を引っかき回し、家事の粗探しをするために仕事中の私を呼び出すのだ。掃除してあげたと私物を捨てられたこともあった。冷蔵庫の中身を使われ、作り置きはまずかったからと勝手に処分されたこともある。
夫がいる休日は手土産を持参してやってくる。人間性を疑うほど性格が悪いくせに、夫の前では猫をかぶり、「平日はともかくお邪魔だから休日に押しかけるしかなかったのよ」と平気で嘘をつくのだ。
親戚の奥様連中に「家事もできず自分をいじめるひどい嫁」と悪評を立てられた影響はひどかった。結婚当初の親戚の集まりでは冷たい視線を向けられて足がすくみ、家に逃げ帰ったこともある。
そう、私は気が弱かった。学生時代から悪口を言われても我慢して耐える。それしかできない質だった。
半年もすれば親戚の一部が私の性格を察してくれたのは幸いだった。特に義父の妹のかよ子さんは義母の性格を理解していて、「みんながあの人の話を鵜呑みにするバカじゃない」と慰め、いつでも相談してと言葉をかけてくれた。親戚の目から冷たさが薄れたのは、かよ子さんが気を配ってくれたおかげだと思う。
しかし結局、私は限界まで我慢して法子の席で累積が崩壊し、親戚の前で泣き出してしまった。母の形見の真珠のネックレスを義母に「あんたにアクセサリーなんて」と怒鳴られた挙げ句、引きちぎられたのだ。控えめな一連のデザインのネックレス。親戚を見回しても同じような予備珠の着けている人はたくさんいたのに、どうして私だけがこんな目に遭うのか。
号泣する私と散らばった真珠の現場を目撃した親戚たちは、義母の仕業だと察した。かよ子さんも駆けつけてくれ、夫と義父にようやく私が義母にいじめられている事実が知らされたのだった。
「大事な形見を壊された。もうお母さんの顔は見たくない」
義母との絶縁を希望した私に、夫は「今まで気づかなくてごめん」と私が黙っていたことに触れず、何度も謝り慰めてくれた。義父は申し訳なさそうにうつむき、「もう二度と会わないよう徹底して管理する」と約束してくれた。
義母は責められて震えていたが、「非常識なかが悪いのよ」と私を責めるばかりで一言の謝罪もなかった。義父に促されてようやく、ネックレスの弁償だけ口にしたのだ。
そんな義母の態度に夫は呆れ、「ふざけるな。俺の嫁を何だと思っている」と怒りを露わにした。その姿に確かな愛情を感じて、この人と結婚してよかったと思ったのに。
義母と絶縁してから三年。たった三年の月日で「もう許してやれ」だと。
私の肩を抱き「もう二度と辛い目には合わせない」と約束してくれた夫が、今は何を言っているのだろう。
呆然とする私を置き去りに、夫は「なあ、父さんが亡くなって母さんも心細いんだよ」と哀願するような口ぶりで語り始めた。
一年前に倒れた義父は、入院したまま帰らぬ人となった。義実家には義母が一人で住んでいる。私との絶縁状態は続いていたが、夫はたまに連絡を取り合っていたようだ。
義父がいなくなって半年、義母から同居を頼まれたのだと夫は遠回しに伝えてきた。私ができないと答えると、「だからさ、そろそろ許してやれないのか。母さんも反省しているんだからさ」——冒頭のこの言葉に至ったのだ。
絶縁を突き返しても謝罪はなく、私への仕打ちなどなかったかのように振る舞う義母が、反省しているとはどうしても思えなかった。かけがえのない母の形見を壊されたのに、どうして許してやれなどと言えるのだろう。弁償はされたが、形見は戻ってこない。
気が弱い私でも、そこは譲るつもりはない。許す気持ちなど到底湧かなかった。
正直にそう返すと、夫は不機嫌な面持ちになる。
「はあ。なんでそんなに頑固なんだよ。あの時と今じゃ状況が違うだろ。三年も前のことを根に持つなんてもう少し大人になれないのかな。母さんは心細いんだよ。口には出さないけど、ともか苦しく当たったことはちゃんと反省してるんだ。同居を頼んできたのはその証拠だろ。仲良くしたいっていう意思表示じゃないか」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
「気持ちが弱くなっている母さんを、嫁のお前が支えないで誰が支えるんだ。三年間嫁の役目を免除してやったんだ。もういい加減意地を張らないで嫁の仕事をしろよ」
信じられない言葉ばかりで目まいがする。どうしてそんなことが言えるのだろう。
「もう関わらないでいいって。辛い目には合わせないって、そう言ったじゃない」
乾き切った口でそれだけやっと言えた私に、夫は猫目を見開き怒鳴り上げた。
「グダグダうるせえな。過去は忘れてさっさと仲直りしろって言ってるんだよ。いつまでもウジウジと暗いんだよお前は。俺の言うことに従えないなら出ていけよ」
ぐわんと頭が揺れ、足元が崩れていく心地がした。それと同時に、ストンと胸に何かが落ちるものがあった。
かつての優しい夫は、もういないのだ。
「分かったわ」
か細い声でそう返した私に、夫は表情を一変させ満足げに頷く。
「分かればいいんだよ。あ、言ってなかったけど、明日から俺、大学の先輩と旅行に行くから」
ちらっとカレンダーを見て、夫は付け加えた。在宅で働いていると祝日の存在が薄くなるが、明日からゴールデンウィークだ。久しぶりに再開した大学の先輩と意気投合したらしく、ここ一年、夫は頻繁に家を開けていた。
「帰って来るまでに色々整理しておけよ。仕事だって、母さんを受け入れるならお前のスケジュールも色々変わるだろうし。調整の時間をやるんだ。感謝しろよ」
言いたいことだけ口にした夫は、翌日の朝にはもう外出し、影も形も見えなかった。
半日くらいぼんやりしていたと思うが、かよ子さんからの着信で我に返った。義母と絶縁し、同時に親戚付き合いも最低限に減った私だが、かよ子さんとの付き合いは続いていた。自己主張が苦手な私と、グイグイ引っ張ってくれる彼女は相性が良かったのだろう。かよ子さんに振り回されるのは思いのほか楽しく、ショッピングや食事に連れ出された日はあっという間に時間が過ぎていく。
今回の電話も、ゴールデンウィークこそモールを制覇しようというお誘いの内容だった。しかし、その後ふと声を潜めて、「昨日聞いた話なんだけど」と言うかよ子さん。話してくれたのは、親戚の一人から伝え聞いた義母の近況だった。
いつ頃の出来事か時期ははっきりしないが、義母は最近階段から落ちて、それから具合が悪いらしい。心配の言葉をかけると「息子に頼んであるから介護の心配はしていない。嫁に世話をさせるつもりだ」と自信満々に返されたそうだ。私と義母の絶縁を知るその親戚は、大変驚いたらしい。
「私も驚いたよ。あの人のことは知りたくもないだろうから言うか迷ったけど、ともちゃんに何か問題が起こってないか心配でさ。余計なことだったらごめんね」
明るいかよ子さんの声に、私は思わず笑ってしまった。笑ったのと同時に、夫の魂胆に気づいて呆れてしまったのだ。
夫は私に仕事を辞めさせ、義母の介護をさせるつもりなのだろう。自分の利益のために約束を破り、私の思いを踏みにじったのだ。
つい先ほどまで夫の裏切りに悲しみと虚しさでいっぱいだったのに、「あの義母の息子なんてそんなものだ」という気分になった。
決めた。離婚しよう。夫の望み通り、出て行ってやる。
かよ子さんに事情を話し、離婚の意思を告げると、「かずのやつ、そんなクソ野郎だったなんて。財産はギリギリまで絞り取ってやりなさい。手伝いが必要なら任せなさい」と応援してくれた。
電話を切り、私は離婚の準備を開始した。荷物を整理し、弁護士を探して連絡し、「あなたの考えはよく分かりました。後の手続きは弁護士に電話させます」と書き置きし、記名済みの離婚届と共にリビングのテーブルに置いた。
夫が出ていけと言うから出ていく。私の意思だけではないと示すために書いた一文だったが、まさか夫が別の意味に捉えるとは、この時はまるで予想していなかった。
家を出たのは、夫が帰宅予定と話した日の前日だった。かよ子さんが「うちにおいで」と誘ってくれたので、お言葉に甘えてしばらく滞在することに決めた。旦那さんには報告済みで、快諾してもらったとのことだった。
翌日の昼過ぎ、夫から着信があった。一瞬迷ったが、応答した。第一声から怒鳴り声を覚悟したが、聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「ちょっとした出来心だったんだ。許してくれ。浮気なんてもう二度としない」
浮気ってどういうこと? そんな疑問をぐっと飲み込んだ私に、夫は勝手に事情を話し始めた。
ざっくりとまとめると、夫は一年ほど前から職場の同僚と不倫関係にあったらしい。大学の先輩の正体はその相手で、今回の旅行も彼女と一緒だったようだ。巧妙に隠していたため、私が気づいたことに驚いたと締めくくった。
「言われなければ気づかなかった」というほど、私はバカではない。
「無理よ。弁護士にはきちんと慰謝料の件も相談しているの。財産分与とは別にきっちり請求するわ」
少し声は震えたが、夫の話に合わせてそう答えた。一度離婚すると決心してから、自分に甘えていてはダメだと痛感していたのだ。
「はあ。ふざけんなよお前。人が下手に出たら生意気言いやがって。離婚したら母さんは誰が見るんだ? 嫁としての義務を果たせよ」
追い詰められると逆切れする夫。小さい男だ。
「だから何」
冷たく言えば、夫はひるんだようだった。
「『俺の言うことに従えないなら出ていけ』って、あなたそう言ったわよね。望み通り家を出たわ。嫁の義務? そっちこそふざけないで。約束を破るあなたにそんなことを求める権利はない」
「なんだと?」
「お母さん、転んでから具合が悪いそうね。その介護を私に押し付けようとしたのは、もう分かっているわ。介護を丸投げして、自分は浮気相手と楽しむつもりだったんでしょう。全部お見通しよ」
言い返せないのか、夫は押し黙った。
「あなたは私を尊重してくれると思っていた。でも自分の都合で裏切った。あなたもお母さんも、絶対に許さない」
「ま、待ってくれよ。離婚だけはやめてくれよ。俺には仕事があるから介護なんて無理だ」
「明日には弁護士に連絡をしてもらうから。慰謝料の額は私に決定権があるわ。離婚手続きが遅れたら、額が増すかもしれない。ひどいことになるとだけ覚悟して」
つがる夫を無視し、私は通話を切った。
一週間もすれば、夫は弁護士によくよく説得されたのか、慰謝料請求も財産分与も抵抗なく一括で受け取り、離婚は成立した。
離婚後、私は連絡先を変えたので、その後のことは全てかよ子さんに教えてもらった。
私は相手の女性にも慰謝料を請求し、相応の金額を受け取っていたが、元夫は悲惨な状況になっていた。相手の家庭にも不倫がばれて、旦那さんに高額の慰謝料を請求されたのだ。相手が既婚者だとは知らなかったらしく、元夫が「私と離婚したから結婚して欲しい」と告げたことで発覚したそうだ。
驚くべきは、その旦那さんが元夫の取引先の上役だったこと。担当案件から外され、花形部署から事務職へと移動になり、手取りは格段に減った。社内の噂もひどいから、首になるのも時間の問題かもしれないと言われていた。
当然、住んでいた賃貸マンションは引き払い、実家に身を寄せた元夫。「浮気がバレたのも金がないのも嫁が出ていったのも、全部母さんのせい」という怒鳴り声が聞こえたと、噂好きの親戚が口にしていたそうだ。
先日法事があったが、親子は互いに話もせず険悪な雰囲気で、顔色も悪く別人のように見えたとのこと。義母が「息子にいじめられている」と泣きわめき、「ふざけんな。お前の介護なんてしないぞ」と元夫が暴れ、大騒動になったと聞いた。
かよ子さんがしっかりと私の離婚劇について親戚中に宣伝してくれたから、二人をまともに相手する人は誰もいない。
落ちるところまで落ちたな。
私の感想は、それだけだった。



