大手企業の担当者が約束をすっぽかしたうえで、とんでもないことを平然と口にする。地方の鉄鋼会社の社長である俺は、下請けの社長だと見下され、笑い者にされている。今日は契約書に判をいただきに伺うと伝えてあったのに。
「ああ、そうかもしれないね」
「お分かりですか? この案件は弊社にとっても御社にとっても重要なものなんですよ。もう何年もかけてここまでこぎつけたんです」
「たく、うるせえな。帰ったらサインしてやるよ。三時間くらい待ってろ。どうせ暇だろ」
俺が契約書へのサインを迫ると、面倒くさそうに適当なことを言い出す。コケにされ、バカにされ、俺の我慢も限界を迎えていた。念を押した俺の言葉に怒り、一方的に電話を切られてしまう。俺は確かに確認した。担当者に突っぱねられた俺は、心置きなく担当を見捨てることにした。
俺の名前は富山進。四十代半ばで父から引き継いだ鉄鋼会社を経営している。地方の街中では地元の中心企業としてやっているが、国内全体で見れば昔ながらの家族経営の町工場といった規模だ。俺は三代目社長になるが、工場は仙台の父と先々代の祖父の時代から製品の質を売りにしてきた。国内の大手に比べれば生産量も作れる製品のサイズも劣る。その代わり、小型・中型の製品の生産に力を入れ、工場独自の機材の開発も進めた。同時に営業力も強化し、数十年の時間をかけて地道に実績を重ねてきた。自分が社長になってからは、少しばかり大きな勝負に打って出た。
品質を誇る製品を武器に、国内大手の鉄鋼会社や自動車メーカーに売り込みをかけたのだ。国内最大手の鉄鋼会社は最初の交渉から興味を示してくれた。自動車メーカーからの反応も悪くなかった。父や祖父の代では実現できなかった取引先の拡大に成功したのだ。現在、会社では国内大手の鉄鋼会社と数社の自動車部品会社と契約を結んでいる。いわゆる下請けという立場ではあるが、無理を強いられない対等な関係を築いてきた。
だが、それはこれまでの話。かつて真摯に交渉の席につき、熱意を持って話をしてくれた大手鉄鋼会社の担当者。その人が退任してからというもの、今まで築き上げてきた関係が徐々に崩壊しつつある。
「五藤さん、こちらは発注通りに作業してますよ。申し訳ないが、納品数が合わないというのは御社の方で何か問題があるんじゃないんですか?」
鉄鋼会社の現担当者である五藤さんに、困惑しつつも抗議を申し入れる。この五藤さんというのが、常に何かしらのトラブルを引き起こしていた。こちらから何度も確認のメールや連絡をさせてもらったが、返事は発注に問題はないとのことだった。それなのに、この日鉄鋼会社に納品を済ませた直後にクレームが入った。納品数が足りないという電話があったのだ。発注会社とのメールのやり取りを確認する。発注にあった注文は中型サイズの鉄板を五十枚。その指示数は目を通したメールの分でも変わらない。しかし納品を終えてみれば、先方から五十枚足りないと言われてしまった。
「五藤さん、どのタイミングで注文数の間違いが分かったんですか?」
電話口で黙り込む五藤さんに、俺は粘り強く食い下がる。今回のトラブルは五藤さんの勘違いに端を発している。最初の発注を作成する際に数を打ち間違い、途中で気づいたらしいが、こちらへの連絡を怠った。五藤さんがシレッと連絡してきたのは、こちらでの作業が終わり製品の状態確認をしている時だった。こちら側の担当者の個人宛てに、深夜、適当な謝罪と訂正を記したメールを送り付けてきたのである。メールはフォルダの中に埋もれ、こちらが見つけた時には後の祭りだった。
「こんなことして何になるの? オタクはとりあえず足りない分を作るしかないんじゃない?」
俺の怒りを、五藤さんは笑いながらかわした。
「とにかく頼んだ仕事はやってもらわないと」
「でしたらまずは正確な発注メールを連絡していただけませんか? 仕事が終わってからこう言われてもこちらも困ります」
「困るってこっちが困るんだよね。スケジュールがタイトなのはこっちなんだから」
姿が見えないはずの電話越しなのに、五藤さんの表情と体勢が分かる。五藤さんはおそらく椅子にだらしなく座り、ふてくされた顔をしているはずだ。声と粘着質な口調からそれが伝わる。
「オタクはどうせ暇でしょう。地方の町に引っ越してきた程度の鉄鋼会社なんだから」
「そんなことはありませんよ。すみませんが、こちらも作業日程に余裕はありません」
「まあ、そんな見え張らないで。足りない分はよろしく。日程は後で連絡させるから。じゃあ、終わり次第納品しておいて」
五藤さんは素早く勝手に電話を切り、いつものように逃げた。連絡手段が電話でもメールでも、五藤さんのやり口はそれが当たり前。雑な態度。都合が悪くなればヘラヘラと謝る。五藤さんはどのタイミングでもうちを舐めてふざけて接していた。五藤さんにとってうちはあくまでも下請け。それも地方の弱小鉄鋼会社。どのくらいの認識なのだろう。馬鹿にされたことはこれまでにもあるが、前任者の姿勢を知る俺にしてみれば、現状はやりきれないとしか言いようがない。
一週間後、俺は大手鉄鋼会社を訪れていた。五藤さんの会社との新規の相談。これまでの一部製品の委託製造契約の他に、新分野での製品製造契約の締結を間近に控えていた。誠実だった前任者時代からのこの案件は、時間をかけて両者で進めてきた。
「社長、これで一区切りですね」
俺に同行していた若手営業の部下は、会社の大きな節目に立ち会えると興奮気味だった。
「そうだな。でも実際はここからだ」
出来上がった契約書を携えて大手鉄鋼会社を訪問する。契約書に必要なのは、大手鉄鋼会社の担当者である五藤さんの判。五藤さんが契約書に判を押し、その後は相手側の上層部に契約書が上がっていく。その流れに乗って、新規契約は早々に無事に済むはずだった。だが実は、これまでにも五藤さんに判を押してもらうという機会はあった。五藤さんが珍しくうちに顔を見せた時や、こちら側から出向いたタイミング。こちらはその度に五藤さんに判を頼んでいたのだが、適当な五藤さんに拒否されたまま今に至っていた。
「ああ、今は忙しいからまた今度」
五藤さんはそっけなくそう言うこともあれば、半ば怒りを見せて断りもした。
「うるさいな。せかされるのは嫌なんだよ」
五藤さんの人となりはよく分かっていただけに、契約書に対しても適当にしか考えていない様子に驚きはしなかった。だが、予定やこれからの進捗を考えているこちらは焦る。待ち時間の限度を考え、俺は自らが五藤さんの元へ向かうと決めた。事前に連絡を入れ、五藤さんと電話で打ち合わせもした。アポイントメントもしっかり取り付けて準備万端。ところが、約束の時間に会社を尋ねると五藤さんは不在だと言われてしまった。受付で「五藤は外出中です」と言われ、俺と同行の部下は呆然となる。
「アポは取ったよな」
「ええ、そうですよね。あの人はどこまでいい加減なんだよ」
俺と部下は鉄鋼会社を出て、しばらく二人で取り留めのない会話を繰り返した。そしてそのまま五藤さんの携帯を鳴らす。五藤さんは数コールで面倒くさそうに電話を取ると、珍しく上機嫌だった。
「ああ、どうも。何? どうかした?」
軽く笑いながら平然と言い放たれた。
「どうかしたも何も。五藤さん、今日は契約書に判をいただきますよね」
「ああ、そうかもしれないね」
「そうかもしれないって。そうなんですよ。今日の午後二時にアポを取らせてもらってます」
五藤さんとの温度差に少し打ちのめされそうになったが、俺はただ淡々と怒りを伝えた。
「お分かりですか? この案件は弊社にとっても御社にとっても重要なものなんですよ。もう何年もかけてここまでこぎつけた。それなのに窓口役でもあるあなたは何をしているんですか?」
「何してるって? そうだなあ」
これはさすがに、と言いたいところだった。これまでの五藤さんの姿勢を非難したかった。日頃のやり取り、仕事への取り組み方。言いたいことはもっとあったがこらえて、重々しくまとめていた。五藤さんは俺のそんな心の中を見透かしたのか、これまで以上に大きく笑うと、俺を馬鹿にするように答えた。
「今は仕事の話をしながら取引先の担当者とお茶してるんだよね。彼女と仕事でのデートって感じだね。まあ、有意義な時間を過ごさせてもらってるよ」
わざとらしい愚かな五藤さんの甲高い声が耳に残る。彼女とデートと言われたことも含めて、俺は五藤さんに挑発されていた。俺が本格的に怒れば負けてしまう。そう思った俺は深く息を吸い込み、自分の目的だけを告げた。
「でしたら五藤さんがどこにいるか教えてもらえますか? 私がそこに行きますので、すぐに契約書に判を押していただきたい」
「え、ちょっと冗談でしょ?」
「冗談ではありませんよ。もし私が出向かれるのを拒否されるようなら、一度会社にお戻りいただきたい。そこで判をいただければ結構です」
いつまでも半笑いの五藤さんに要求を伝え、どうにかして目を覚まさせようとする俺。しかしそれも俺の一人相撲に終わる。五藤さんは仏頂面で電話口でブツブツとごね、契約書への判は面倒くさいとぼやくばかり。
「そんなもん、何が大事なんだか分からないね。どうせあのバカ真面目の前任者が勝手に大事だって騒いだだけなんだろう」
五藤さんの愚痴の最後は、特大のため息と前任者への暴言で締めくくられた。
「五藤さん、本気でそうおっしゃるんですか?」
「本気だよ。あのね、俺はバカ真面目な前任と違って要領がいいの」
「はあ。そうでしたか」
「そうなの。前任はバカで要領が悪いから、神経質な下請けにも丁寧に相手してやってんだよ」
五藤さんの暴言は抑えられなくなっていたようだ。バカとか下請けとか、滑らかに口から出てくる。どう考えても仕事相手との電話で使うような言葉ではない。
「俺はそうバカじゃない。だから神経質な下請けとはまともに付き合う気がないんだ。時間も無駄になるし」
「では契約はどうなさるおつもりですか?」
五藤さんは前任者、そして俺と俺の会社を盛大にコケにする。俺はそんな五藤さんに、契約はどうなるのかを確認した。それは最後通牒のつもりでもあった。
「とても重要な確認です。契約書への判は、いつ、どうなさるおつもりですか?」
「ああ、どうしても俺の判が欲しいなら、あと三時間待ってくれ。デート終わって外回りした後だったら、話を聞いてやってもいいや」
どこまでも高圧的な五藤さんに、何の手立ても思いつかなくなる。唯一俺が打てる手は、五藤さんを本当に見放すかどうか決めることだけ。
「では、今この時点での判はしないということでよろしいですか?」
「しつこいね。そうだって言ってるだろう」
「本当によろしいですね」
「ああ、もういいって。それで。たく、うるせえな」
俺の念を、五藤さんはたった一言で断ち切った。うるさいと俺を一喝すると、そのまま電話を切る。
「社長、あの、五藤さんは?」
俺と五藤さんのやり取りに耳を済ませていた部下の顔には、緊張が浮かんでいた。
「ああ、契約はもうどうでもいいらしい」
「え、嘘ですよね」
俺があっさり答えると、部下は呆然として固まってしまった。俺はそんな部下の肩を叩くと、ひとまず地元に戻ろうと声をかけた。五藤さんに待っていろと命じられたのは三時間だが、三時間後には俺は自分の会社の自分のデスクにいた。机の上の契約書を見ながら、どうしたものかと考え込む。
行かせたい業務でありながら、誰にとっても魅力的な案件だ。だから俺は、これを新企画として持ち込む先を考え直していた。
「おい、邪魔するよ。あの契約書、どうなった?」
突然耳に届いた呑気な声に顔を上げると、いらだたしそうにこちらに来る五藤さんと目があった。
「上に契約書ってうるさく言われて、しょうがねえから来てやったんだよ。相変わらずここは遠いよな。一泊して帰ろうにも、ろくなホテルもありゃしない」
五藤さんは窓の外を眺めて顔をしかめる。
「ああ、契約書。判持ってきたから押してやるよ」
半ばいらついているらしい五藤さんは、片手を俺に伸ばして契約書をよこせというジェスチャーを見せた。
「早くしろよ。つまらねえからすぐ帰りたいんだよ」
「でしたら、お帰りください。判も結構です。もう不要ですので」
俺は五藤さんの顔の前に手のひらを突きつける。五藤さんの申し出には意味がないという意思を示した。
「残念ですが、契約書には日時まで指定した期限を設けていました。その期限が二時間前です」
俺は契約書を取り出し、注意書きの欄に記載してあった詳細な契約期限を五藤さんに差し示した。契約日時を厳密に取り決めた契約書を作成した理由。それは今回の案件がうちの会社にとって超重要なものだったからだ。締結する予定だった契約とその後の業務には、うちの会社が持つ特許技術が必要になる。五藤さんのいる大手鉄鋼会社と特許技術を共有し、その使用の許可も与える。契約内容にはそんな文言も含まれていた。そして、うちの技術を使わなければ大手鉄鋼会社は新製品を製造できない。
「先日、山中でちょっとした冗談の感覚で聞きましたけどね。うちの技術が使えないなんてことになれば、御社は二十億損をしてしまうらしいと」
「俺はそんなこと知らないぞ」
「ああ、本当に休憩所で聞いた冗談ですからね」
俺が五藤さんの上司から聞かされたことは、冗談では済まない本音だろう。だからこそ、五藤さん以外の人たちは真剣に商談に望んでいたのだ。けれど、それほど重要な契約書が蔑ろにされたとは。俺は慌てる五藤さんを少しからかった。今までそうされたことへの、ささやかな仕返し。重々しく、わざとらしく俯く。すると五藤さんは慌てて俺に頭を下げた。
「悪かった。申し訳ない。これは全て私の責任だ」
短い謝罪の間、五藤さんの頭は上がらなかった。
「これまでのことはお詫びする。だから、どうにか契約をもう一度話をさせてもらいたい」
「申し訳ありませんが、もうできません。御社とはこれ以上話すことはない」
俺は五藤さんに顔を上げさせると、改めて契約拒否を突きつけた。そして五藤さんから離れようと腰を上げる。
「おい、待てよ。契約しろとうるさかったのはあんたの方だろうが」
五藤さんは俺の前に立ちはだかると、猫をかぶった態度を捨て、元の高慢な姿を見せつけた。
「うちがいなけりゃ、あんたの会社は潰れるんだろう。だからあんなにしつこく追いかけてきやがって。契約してやるって言ってるんだよ。うちと仕事させてやるよ」
俺の進路を塞ぎ、五藤さんは数時間ぶりにヘラヘラと笑う。
「自惚れないでいただけますか? 私どもは、別に五藤さんの手を借りなくても自立してますよ」
五藤さんの笑いには付き合わず、俺はどこまでも冷たく五藤さんに真実を告げる。俺の会社は大手鉄鋼会社以外にも多くの取引先を抱えている。最近では海外の企業にもアプローチをかけ、さらなる業務拡大を狙っていた。そしてそれを支えているのは例の特許技術だ。俺は父から会社を引き継ぐ前から、一人で鉄鋼について勉強と研究を続けてきた。大学の工学部を出て同業他社に入社したのもそのため。実家に戻ってからは海外の大学にも留学した。事業を存続させ強い会社にするため、強みを作ろうとした結果が俺をそうさせた。特許を取得した技術は、鉄と異素材を掛け合わせる工程にまつわるもの。開発には多額の資金と膨大な時間を費やしたが、今やそれを回収してあまりあるほどの利益を生んでいる。そしてその技術は、会社が誇る武器になった。特許があるからこそ、うちは大企業や海外の企業とも対等に競えるようになった。
「あなたに情けをかけていただかなくても、私と会社は自己努力でしっかりと実績を積んでいます」
「ああ、何だよ。嫌味か」
「そう思うならばそれで結構。どうぞ今日はお引き取りください」
俺は最後に契約拒否を明確に伝え、近くの社員に呼びかけて五藤さんを追い出す。社員に連れ出されていく五藤さんは、冷や汗を流しながら何度も俺を振り返った。その目は俺に助けを求めているようにも見えたが、無視をして見送るだけだった。
五藤さんとのやり取りから一ヶ月が経ち、俺は改めて大手鉄鋼会社と新規案件の交渉をやり直し、契約を締結した。
「この度は誠に申し訳ありませんでした」
鉄鋼会社は社長自らが交渉の席に姿を見せ、俺に直接謝罪をした。それから、五藤さんがあの後どうなったのか、その報告も受けた。五藤さんは、俺から契約拒否を告げられたその責任を取らされた。会社に短期的に多額の損失を発生させることになった罪も背負った五藤さん。その他にも、うちを含めた下請け企業へのパワハラ行為と理不尽な契約の強要も、罪状として追加されたそうだ。その結果、やむなく一発解雇。鉄鋼会社は、今、五藤さんの後任人事を考え、改革を進めている。
「御社の担当者には、前任の者を彼が海外から戻り次第、挨拶に参らせます」
鉄鋼会社の社長は真摯に俺とその会社に向き合い、契約内容に関しても熱心に練り直しを図ってくれた。俺もその熱意に答え、もう一度交渉に臨み、契約書に署名と押印を行った。仕事とは中身もそうだが、人付き合いもついて回るとつくづく思う。ビジネスライクという言葉はあるが、相手に対しての礼儀や尊敬は必要だ。契約成立の握手を鉄鋼会社の社長と交わしながら、俺はこれからも仕事とその相手に敬意を払って生きていこうと誓った。



