「あなた誰? そのブレスレット、どうしてつけているの?」
その瞬間、佐藤健二の心臓は止まった。八歳の少女の手首で輝く銀色のブレスレット。それは十年前に彼自身がデザインし、愛する女性に贈った世界に一つだけのものだった。
健二がこの場所に来たのは、わずか三十分前のことだった。横浜の三月の風はまだ冷たく、彼は黒のBMWから降りて、坂道の多い古い町を見上げた。三十七歳の彼は黒いコートの襟を立て、大きくため息をついた。
「なんで俺が直接来なきゃいけないんだ」
運転手が慎重に言った。「社長、家賃が六ヶ月も滞納しているそうなので、直接行ってみては」
「分かってるよ」
健二は手を振り、路地へと歩き始めた。冷たい風に指先が冷えたが、それ以上に冷たいのは彼の心だった。一年前に買収したこの古い町の一帯は再開発予定地だった。いつかは金になるだろうという考えで安易に購入したが、管理には全く気を配っていなかった。健二にとってそれはただの投資用不動産の一つに過ぎなかった。
しかし経営陣から家賃の管理をするように咎められ、今日自ら足を運んだのだった。普段の健二はこのようなことに直接乗り出すタイプではなかった。三十七年間生きてきて、貧しさとは何か、家賃を払えないのがどんな気持ちなのか、一度も経験したことがなかったからだ。
古い家々の間の狭い階段を登りながら、健二は住所を確認した。手にした書類には「田中」という名前が記されていた。その名前を見た瞬間、胸の片隅が妙にざわついたが、健二はその感情を無視した。まさかあのみ咲のはずがないだろう。十年という歳月が流れ、「みさき」はありふれた名前だった。それにあの女性がこんな場所に住んでいるはずがないと彼は思った。
「ここか」
ドアの前に立った健二の手は自然と拳を握っていた。そして乱暴にドアをノックした。
「誰かいませんか? 大家です」
その声には苛立ちと権威的な響きが混じっていた。しかし、待っても誰も出てこない。ドアのノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。
「入りますよ」
ドアを開けて中に入ると、湿っぽい匂いと共に狭いワンルームが現れた。キッチン兼リビングの小さな空間に、八歳くらいに見える女の子が座っていた。少女はラーメンを作っていたが、健二を見ると驚いて後ずさった。その瞬間、健二の胸が妙にドキリとした。少女の顔に何か見覚えのある感じがしたからだ。
「おじさん、誰?」
少女の声は震えていた。警戒心に満ちた目で健二を見つめ、小さく身を縮こませた。
「ここの大家だ。お前のお母さんはどこにいる?」
「お母さん、病院に行ったの」
健二が少女をよく見ようとした。その時だった。少女の手首に光る何かが目に留まった。銀色のブレスレットで、独特な紋様と共に小さな星型の飾りがついていた。その瞬間、健二の全身に戦慄が走った。指先が冷たく震え、急に喉が詰まった。無意識のうちに一歩近づいた健二。そのブレスレットは間違いなかった。十年前に自分が田中み咲に贈ったあのブレスレット。世界に一つだけの、彼自身がデザインしてオーダーメイドしたまさにそのブレスレットだった。
そして、まさにその時、運命的な質問が口をついて出た。
「あなた誰? そのブレスレット、どうしてつけているの?」
少女はさらに身を縮こませ、ブレスレットを隠すように腕を抱えた。
「これ、お母さんがくれたの?」
「お母さんがそう」
「お母さんの名前は……」
健二の声は次第に震え始めた。胸がドキドキし、口の中がカラカラに乾いた。
「知らない人には言っちゃダメだって言われたの」
その瞬間、健二の頭の中に十年前の記憶が駆け巡った。み咲にブレスレットを贈ったあの夜、彼女がどれほど喜んだか。そしてその数日後、突然連絡が途絶えたこと。健二の心臓は早鐘を打ち始めた。少女の年齢を計算してみると八歳。自分がみ咲と別れてから十年が経っているから、時期がぴったりと合う。まさか、本当にまさか。この子が……全身が震えた。少女をもう一度よく見ると、どこか見覚えのある感じがさらに強くなった。その目元、その唇の形、どこか自分に似ているような気もする。
その時だった。玄関のドアが開く音がした。
「そら、お母さん帰ったわよ」
その声を聞いた瞬間、健二は全身に電流が流れるような感覚に襲われた。十年経っても決して忘れられない声。田中み咲の声だった。手に持っていた書類が震えた。足がガクガクし、胸が張り裂けそうだった。健二はその場で動けなかった。ついに、十年ぶりの再会が始まったのだ。しかし、この出会いが健二の人生を完全に変えてしまうことになるとは、彼はまだ知らなかった。
田中み咲はドアを開けて入ってくるなり、健二を見て凍りついた。手に持っていた買い物袋が床に落ちる音が狭い部屋の中に響いた。
「……健二?」
彼女の声は信じられないというように震えていた。健二も言葉を失った。十年前よりずっと痩せて疲れ果てて見えたが、それでもなお美しいみ咲の顔。そして彼女の隣にいる少女。時が止まったかのようだった。部屋の中の空気さえも苦しかった。
み咲の最初の反応は、娘を守ることだった。
「そら、部屋に入ってなさい。ママ、このおじさんとは大丈夫だから、入ってて」
み咲の声は震えていた。そらは心配そうな目で母親を見つめた後、小さな部屋へと入っていった。ドアが閉まる音と共に、気まずい沈黙が流れた。健二はその短い瞬間にも少女の名前を記憶した。そら。そして、その少女が自分を見つめていた眼差しも。
健二が先に口を開いた。
「み咲……本当に君だったんだな」
「どうしてここに……」
み咲の声には警戒心がいっぱいだった。十年という時間の間に積もった傷と恨みが感じられた。
「俺はここの大家だ。家賃をもらいに来たんだが」
その言葉で、み咲はやっと状況を理解したように頷いた。
「そうだったのね。六ヶ月分の滞納家賃のことね」
健二の胸がずきりと痛んだ。み咲がこんな場所で、こんな状況で暮らしているという現実が信じられなかった。
「み咲、その話は後だ。……あの子は、もしかして」
健二は部屋の方を見ながら慎重に訪ねた。喉がカラカラに乾き、指先が冷たく震えた。
「ええ、私の子よ」
み咲はきっぱりと言った。まるでもう隠すことも、隠したいとも思っていないかのように。
「でも心配しないで。あなたに何かを期待しているわけじゃないから」
その言葉に健二は頭を抱えた。現実が信じられなかった。自分に娘がいるということ。それも八年間も知らずに過ごしてきたということ。
「なぜ? なぜ言わなかったんだ? 十年間、一人で育ててきたのか?」
健二の声には戸惑いと恨みが混じっていた。
「言うべきだった。あなたが他の女の人と幸せそうにしているのに」
「他の女?」
「何を隠してるの? 妊娠したって伝えに行った時、あなたは綺麗な女の人と一緒にいたじゃない」
み咲は目を閉じた。十年前のあの辛い記憶が再び蘇った。
「その時、悟ったの。私がいなくても、あなたはうまくやっていけるんだって」
健二は十年前を思い出した。み咲が突然連絡を絶って消えた後、傷ついた心で母親が紹介した女性と会った時のこと。その時は本当に何も考えずに、ただ会っただけの席だったのに。み咲がそれを見ていたというのだ。全身が冷たくなっていくのを感じた。どれほどの誤解が積み重なっているのかを悟ったからだ。
「み咲、それは誤解だ。俺は……」
「もういいの」
み咲は手を上げて話を遮った。
「もう全部終わったことよ。それに、あなたもうすぐ結婚するんでしょう? 新聞で見たわ」
健二は言葉に詰まった。二ヶ月後に予定されている伊藤雪との結婚式。その事実をみ咲が知っていることが、胸を押し潰すようだった。
「それは……家賃はもう少しだけ待ってほしい。足を怪我して仕事ができなかったんだけど、来週からまた働けそうだから」
健二はみ咲の足を見た。ギプスは外れていたが、まだ不自由そうだった。胸が痛んだ。
「怪我したのか? どうして?」
「バイクで配達中に。大したことないわ」
その言葉に健二は喉が詰まった。み咲がどれほど苦労して生きてきたのか、想像がついたからだ。
その時、そらが部屋から顔を覗かせた。
「ママ、ラーメンが伸びちゃった」
み咲は急いでキッチンへ行き、ガスの火を消してそらをなだめ始めた。健二はその姿を眺めながら、胸が締めつけられる思いだった。
「そらちゃん、お腹空いたろ? おじさんがご飯買ってあげようか」
そらが顔を上げて健二を見た。その瞬間、健二は気づいた。そらの目が自分の目とそっくりだということ。そして何か温かい感情が胸の奥から込み上げてきた。これは単なる偶然の出会いではなかった。運命が彼らを再び引き合わせたのだ。
健二は家を出て、路地をぶらつきながら携帯電話を取り出した。手が震えて、番号を押すのもやっとだった。頭の中が真っ白になったようだった。
「もしもし、雪か? 健二だけど」
「健二さん? どこにいるの? 今日ドレスの試着に行く約束だったじゃない」
伊藤雪の明るい声が聞こえてきた。しかし健二にはその声が遠くに聞こえた。さっき見たそらの澄んだ瞳と、み咲の疲れた顔が何度も頭に浮かんだからだ。
「ああ、ごめん。急用ができてしまって。明日に伸ばせないかな」
「何なのよ。結婚式まであと二ヶ月しかないのよ」
雪の声にはわずかに苛立ちが混じっていた。しかし健二はどう説明していいかわからなかった。今日、俺の娘に会ったんだなどと言えるはずもなかった。
「ちょっと会社の仕事でね」
「分かったわ。じゃあ明日は必ずよ」
電話を切り、健二は空を見上げた。自分に娘がいるなんて。それも八年間も知らずに過ごしてきたなんて。胸の片隅が妙に痛んだ。
翌日、健二は再びあの家を訪れた。今回は食べ物をたくさん抱えていた。チキン、ピザ、果物まで。まるで何かに取り憑かれたかのように、あれこれと買い込んだ。
「何しに来たの?」
み咲がドアを開け、警戒心を露わにした。
「そらちゃんにご飯を。昨日ラーメン食べられなかっただろう」
「そんなこと気にしないで。私たちのことは私たちで何とかするから」
み咲の声は冷たく痛かった。しかし健二は引き下がらなかった。
「み咲、俺は知らなかったんだ。本当に知らなかった」
「知らなかったからって、何が変わるの? あなたはもうすぐ結婚する人で、私は一人でそらを育ててきた。これまでもそうだったし、これからもそうやって生きていくわ」
その時、そらが食べ物の匂いにつられて出てきた。
「ママ、チキンだ!」
少女の目は輝いていた。どれだけ長い間、こんなご馳走を食べていなかったのだろうか。
「そら、部屋に入ってなさい」
「ママ、なんでチキン食べないの? お腹空いたよ」
結局、三人は小さな食卓を囲んでチキンを食べることになった。健二の胸が不思議と温かくなった。こんな平凡な食事がこれほどまでに尊く感じられたのは初めてだった。そらは最初人見知りしていたが、健二が面白い話をしてやると、次第に笑い声をあげるようになった。
「おじさんは何をしている人なの?」
「うん、家を建てる仕事をしているんだ」
「わあ! じゃあ大きなお家も建てられるの?」
「もちろん。そらちゃんはどんな家が欲しいんだい?」
そらは目を輝かせながら言った。
「お庭のあるお家。それから、ママが病気にならないお家」
健二の胸が締め付けられた。八歳の子供が願うことが、それほど大きくないこと。ただ母親が病気にならないでほしいと願う心が、健二の心を揺さぶった。
「そら、部屋に行って宿題しなさい」
み咲の言葉に、そらは名残り惜しそうに立ち上がった。
「おじさん、明日も来る?」
健二が答える前に、み咲が言った。
「明日は来ないわよ」
そらはがっかりした表情で部屋に入っていった。そらが部屋に入ると、み咲が言った。
「もう帰ってちょうだい。そらが勘違いしてしまうから」
「何の勘違いだ?」
「お父さんができたって。勘違いよ」
健二は言葉を失った。彼は本当にそらの父親だったが、同時に他の女性と結婚を控えた男でもあったからだ。胸の奥で何かが唸った。これまで感じたことのない感情だった。責任感とでも言うべきか、それとも愛とでも言うべきか。
健二は家に帰る車の中でずっと考え込んでいた。そらの笑顔、み咲の痩せた姿、そしてあの小さな家のぬくもり。全てが何度も頭に浮かんだ。運転手がバックミラー越しに健二を見つめ、慎重に尋ねた。
「社長、大丈夫でございますか? お顔の色が優れませんが」
「大丈夫だ」
しかし、全く大丈夫ではなかった。三十七年間生きてきて、これほど心が乱れたことはなかったからだ。家に到着した健二は書斎に一人で座っていた。ウイスキーグラスを手に窓の外を眺めながら、複雑な心境に沈んだ。俺が本当に父親だなんて。その言葉が胸の奥深くに突き刺さった。そらが自分を見つめていた純粋な眼差し。そして「おじさん、明日も来る?」と尋ねた声が何度も耳元で響いた。しかし現実は冷酷だった。二ヶ月後には雪と結婚しなければならず、両社の合併もその結婚にかかっていた。健二は初めて、自分の人生で本当に大切なものは何かを考え始めた。
翌日、健二は再び横浜のあの町へと向かった。み咲の家の前に着くと、そらが一人で遊んでいるのを見つけた。
「おじさん、本当に来てくれた!」
そらが寄ってきて、健二の足にしがみついた。その瞬間、健二の胸が温かくなった。こんな感情を味わったのはいつ以来だろうか。
「ママは薬局に行ったの。足がまだ痛いんだって」
健二はそらと一緒に座って話をした。少女は自分の夢について話し、母親がどれほど大変かについても話した。
「ママね、夜によく泣いてるの。私が知らないと思ってるけど、全部聞こえるんだ」
その言葉に健二の心は傷んだ。指先が冷たくなっていくのを感じた。
「どうして泣くんだろう?」
「お金がないからだと思う。ママ、いつも電卓はじきながらため息ついてるもん」
八歳の子供がこんな心配をしているなんて。健二は喉が詰まった。自分は三十七年間、お金のことで心配したことなど一度もなかったのに。その時、み咲が帰ってきた。健二を見て顔をこわばらせた。
「また来たのね」
「み咲、俺たち少し話をする必要があると思う」
「話すことなんてないわ」
「俺が……俺が助ける」
み咲はきっぱりと首を振った。
「助けなんていらない。あなたが助けてくれたからって何が変わるの? あなたは結婚する人で、私は一人で生きていく人よ」
「それでも、そらは俺の娘じゃないか」
「ええ、娘よ」
み咲は悲しげに笑った。
「八年間、どこにいたの? 今更になって自分の娘だなんて。そらにはあなたがいなくたって大丈夫だった。これまでもそうだったし、これからもそうよ」
健二は言葉を失った。み咲の言う通りだった。自分は八年間、父親としての役割を果たしてこなかったのだ。胸が息苦しく、呼吸がしづらかった。
その夜、健二は眠れなかった。そらの笑顔が何度も頭に浮かんだ。そしてみ咲の痩せた姿も。ベッドに横になり、天井を見つめながら考えた。これまでの自分の人生は何だったのだろうか。会社、金、社会的地位。そんなものばかりを追いかけてきたが、本当に大切なものを見失って生きてきたのではないだろうか。
翌日、会社で健二は秘書を呼んだ。
「横浜の、うちが持ってるあの古い町の件だが、そこに住んでいる人たちの生活環境を改善してやれないか」
「社長、どうせ再開発予定地ですので、わざわざ投資する必要は……」
「いいからやれ。特に田中み咲さんの家、そこを修理して、生活費も支援してやれ」
秘書は驚いた表情をした。
「急にどうされたのですか?」
「聞かずにやれ」
健二は初めて、心が命じるままに行動し始めた。
数日後、み咲は家に訪ねてきた作業員たちを見て驚いた。
「どちら様でしょうか?」
「家の修理に参りました。大家さんからのご指示で」
み咲の眼差しは複雑になった。大家さんとは誰のことを言っているのか、明らかだった。その時、健二が現れた。
「み咲」
「健二、あなた何してるの?」
み咲の声には戸惑いと怒りが混じっていた。
「ただ家が寒すぎるだろう。そらちゃんが風でも引いたらと思って」
健二の声は慎重だった。実は彼はここ数日間、そらのことばかり考えていたのだ。あの小さな子が寒い家で過ごしていると思うと、心が休まらなかった。
「私がいつこんなこと頼んだ? 私たちは私たちだけでやっていけるって言ったはずよ」
み咲は怒鳴った。しかしその声の裏には、感謝の気持ちも混じっていた。その時、そらが学校から帰ってきた。家を修理している様子を見て、不思議そうにした。
「わあ、うちのお家が綺麗になるの? おじさんがしてくれたの?」
そらの目は輝いていた。八年間、こんな温かい配慮を受けたことがなかったからだ。健二はそらの頭を撫でた。
「うん。そらちゃんが温かく過ごせるようにね」
「ありがとう」
そらは健二にぎゅっと抱きついた。その瞬間、健二は不思議な感情に包まれた。胸の奥から熱い何かが込み上げてきた。この小さな子供が自分を信じ、頼ってくれていることが、これほどまでに胸を打つことだとは知らなかった。三十七年間生きてきて、こんな純粋な感謝を受けたことがあっただろうか。金や地位のためではない。本当の心からの感謝を。み咲は複雑な表情でその様子を眺めていた。健二の眼差しが以前とは違うことに気づいていたからだ。
作業員たちが帰った後、健二とみ咲は静かに話をした。
「どうして……本当にどうしてこんなことをするの?」
「分からない」
健二は正直に言った。
「俺にも、どうしてこうするのかわからないんだ。ただ、そらのことを思うと胸が痛むんだ」
「胸が痛むって?」
「ああ。俺が八年間してやれなかったことが多すぎて。それに、そらが笑うと心が変になるんだ」
み咲の目元が潤んだ。これは健二が演技でできる感情ではなかったからだ。その夜、三人は一緒に夕食を食べた。そらが学校であった出来事を楽しそうに話した。
「今日、書き取りで百点取ったんだよ」
「本当か? うちのそらは本当に賢いな」
健二が心から喜ぶと、そらは嬉しそうにした。
「おじさん、明日も一緒にご飯食べられる?」
その質問に健二の胸は高鳴った。こんな平凡な日常が、これほど尊いものだとは知らなかった。健二は帰り道で悟った。自分が本当に望んでいるものが何かを。会社も金も社会的地位も重要だが、そらの笑い声とみ咲の温かい眼差しの方が、もっと尊いのだと。
しかし現実は複雑だった。雪との婚約、会社の未来、母親の期待。全てが絡み合っていた。
同じ頃、雪は友人とカフェでコーヒーを飲んでいた。
「健二さん、最近おかしいの。何か隠していることがあるみたい」
「それなら調べてみないと。結婚まであと二ヶ月なのに」
雪は頷いた。彼女は健二を逃す気は全くなかった。翌日、雪は探偵を雇った。健二の最近の行動を全て調査するように依頼した。彼女の直感は間違っていなかったのだ。健二さんが何か隠してる。絶対に突き止めないと。雪の眼差しには執着に近い色が宿っていた。彼女は健二を絶対に手放すつもりはなかった。
一週間後、探偵が報告書を持ってきた。
「横浜の古い町に頻繁に行かれているようです。そこに田中という女性と、そらという子供が住んでいます」
雪は写真をめくりながら顔をこわばらせた。健二が子供と一緒に笑っている写真、み咲と話している姿。全てが明白だった。
「この女は誰?」
「調査したところ、十年前に佐藤社長と恋人関係にあったようです。そして、この子は……」
「この子は何?」
探偵は慎重に言った。
「年齢から見て、佐藤社長のお子さんである可能性が高いです」
その言葉に雪の顔は冷たく凍りついた。指先が冷たく震え、胸の奥から怒りが込み上げてきた。
翌日、雪は横浜のあの町を訪れた。み咲が洗濯物を干している時だった。
「田中み咲さんですね」
み咲が振り返ると、華やかな身なりの女性が立っていた。本能的に危険な気配を感じた。
「どちら様でしょうか?」
「伊藤雪です。佐藤健二さんの婚約者です」
その言葉にみ咲の顔が固まった。胸がずきりと痛んだ。
「どうしてここまで?」
雪の眼差しは冷たかった。
「お話があって。少しお茶でも飲みながら話しませんか?」
二人の女性は近くの小さなカフェに座った。雪が先に口を切った。
「健二さん、最近よくここに来ているそうですね」
「それは、大家さんだからです」
「大家さん」
雪は嘲弄した。
「まさか、その理由だけで毎日のように来るわけではないでしょう? 特に、自分の娘に会うために」
み咲はぎくりとした。すでに全てを知っていたのだ。
「驚きました。全部知っています。そらちゃんが健二さんの娘だということも」
「それで、どうしろと?」
み咲は冷静に尋ねた。しかし心の中では全身が震えていた。雪はハンドバッグから小切手を一枚取り出した。
「このお金を受け取って、ここから消えてください。そうでなければ、少なくとも子供と一緒に健二さんの前に現れないで」
「なんですって……」
み咲の声が震えた。
「健二さんは私と結婚しなければならない人なの。二ヶ月後には結婚式で、もう全てが決まっている状況なのよ。それなのに急に現れて、気を乱させるのはやめていただきたいわ」
み咲は小切手を押し返した。
「お金を受け取るつもりはありません」
「じゃあ、どうするつもり? まさか健二さんを取り戻そうなんて思ってないでしょうね」
「私は何も望んでいません。ただ、そらが父親を知る権利はあると思っています」
雪の顔が歪んだ。
「けれど、八年間も一人で育てておいて、今更権利だなんて笑わせるわ」
その言葉にみ咲の胸は痛んだ。事実だったからだ。み咲は立ち上がった。
「これ以上話すことはありません」
「田中さん」
雪の声が冷たく変わった。
「私がどんな人間かご存知? 私が本気になれば、あなたたちがここで暮らすこともできなくしてやれるのよ」
み咲は背を向けた。
「脅迫ですか?」
「脅迫じゃなくて警告よ。賢明な選択をしなさい」
雪の声には確信が込められていた。彼女にはそうするだけの力があったのだ。
その夜、健二がみ咲の家に行くと、み咲は荷造りをしていた。
「何してるんだ?」
「引っ越しの準備を」
健二の胸がドキリとした。
「引っ越し? どうして?」
み咲は荷造りの手を止めた。
「あなたの婚約者が来たわ」
健二の顔が固まった。
「雪が? 私たちに消えろって。あなたの結婚の邪魔をするなって」
「み咲……」
「彼女の言う通りよ」
み咲は顔を上げた。目元が赤くなっていた。
「私は本当に、あなたたちの結婚の邪魔になっているだけ。そらも勘違いさせてしまっているし」
「勘違いじゃない。そらは本当に俺の娘だ。そして俺は……」
「あなたは何? 愛してるとでも言うの?」
み咲は自嘲気味に笑った。
「十年前もそうだったじゃない。愛してるって言っておきながら、結局私を捨てたじゃない」
「あの時は誤解があったんだ」
健二は絶望的に叫んだ。
「誤解? 何の誤解よ。あなたが他の女の人と一緒にいるのを、この目で見たのに。何の誤解があるっていうの?」
み咲も叫んだ。
「もういい。説明なんて聞かない。あの時も今も、結局同じじゃない。あなたは他の女の人と結婚する人で、私は一人でそらを育てなきゃいけない人なのよ」
健二は言葉を失った。十年前の誤解が、こんなにも大きな壁となって彼らの間に立ち塞がっていた。雪の脅しは単なる脅迫ではなかった。現実だったのだ。み咲とそらが本当に消えてしまうかもしれないという現実に、健二は打ちのめされた。
その時、そらが部屋から出てきた。大きな声に驚いて出てきたようだった。
「ママ、なんで荷造りしてるの?」
そらの声は不安に震えていた。
「そら、私たちお引っ越ししないといけないの」
「どうして? 私ここが好きなのにおじさんもよく来てくれるし」
そらは健二を見上げた。その純粋な瞳には混乱と恐怖が満ちていた。
「おじさん、私たちお引っ越ししちゃダメ?」
その質問に、健二の心は引き裂かれそうだった。健二は膝をつき、そらの目を見た。その澄んだ瞳を見た瞬間、全てが明確になった。
「そらちゃん、おじさんはね、おじさんは君のお父さんなんだ」
「え?」
そらの目が大きくなった。
「本当だよ。おじさんが君のお父さんで、君は俺の娘なんだ」
「本当? 本当に? 私のお父さんなの?」
健二は頷いた。喉が詰まって言葉が出なかった。
「うん。本当だよ」
「じゃあ、じゃあ一緒に住めるの?」
その質問に、み咲も健二も言葉に詰まった。そらの純粋な眼差しが、二人の大人を見つめていた。
「そら、それは複雑なの」
み咲が慎重に言った。
「どうして複雑なの? パパとママと私が一緒に住めばいいじゃない」
八歳の子供には、あまりにも簡単な話だった。愛する人たちが一緒に暮らすこと。それ以上に当たり前のことがあるだろうか。健二は立ち上がり、み咲を見つめた。
「み咲、俺たち本当に話をしないと」
「話すことなんてないわ」
「ある。十年前のことから、今までの全部を話さないと」
健二の声には絶望と懇願が混じっていた。
「そら、部屋に入ってて」
み咲の言葉に、そらは名残惜しそうに部屋に入っていった。ドアが閉まると、健二が言った。
「み咲、十年前に君を手放したこと、本当に後悔している」
「後悔したって何になるの? もう全部終わったことじゃない」
「終わってない。そらがいるじゃないか」
健二はみ咲に近づいた。
「俺はまだ君を愛してる」
「愛してる? 今何を言ってるの? あなたは二ヶ月後に結婚するんでしょ」
み咲は後ずさった。
「その結婚、キャンセルする」
「なんですって? できるわけない。他の女と結婚なんて……」
「俺が愛しているのは君だけだ」
健二の声は震えていた。こんな感情を言葉で表現するのが、これほど難しいとは思わなかった。
「それに十年前のこと。君が見たあの女性は、母さんが無理やり紹介した人だったんだ。俺は全く興味がなかったのに、君が突然消えてしまって」
み咲の目に涙が溜まった。
「健二……もう遅すぎるわ。本当にもう、遅すぎたの」
「遅くない。俺たちやり直せる」
「どうやって? あなたのお母さんがまた反対するでしょうし、あなたの会社はその結婚で得られるはずだったものを全て諦められるの?」
み咲の声には、十年間積もった傷が滲んでいた。健二はみ咲の手を握った。
「諦められる。君とそらより大切なものなんて、何もない」
「本当にそんなことができるの?」
み咲は疑いの眼差しで健二を見つめた。一度裏切られた心は、簡単には再び信じることができなかった。
「み咲、俺はやっと分かったんだ。本当に大切なものが何かを。そらが俺をパパと呼んだ時、君と再会した時、俺の心は完全に変わったんだ。三十七年間見失って生きてきたものを見つけた気分なんだ」
み咲の目元が潤んだ。しかし現実は――。
「現実が何だって言うんだ。愛する人たちと一緒にいることより、重要な現実なんてあるか」
その時、そらがそっとドアを開けて顔を覗かせた。
「ママ、パパ、仲直りした?」
二人の大人はそらを見つめた。少女の顔には不安と期待が同時に浮かんでいた。
「そらちゃん、ママ少し考えてみるわ」
「本当? じゃあ私たち本当に家族になれるの?」
そらの声には切実な願いが込められていた。健二はそらとみ咲を見つめた。この二人こそが自分の本当の家族なのだと、全身で感じた。
「み咲、今度は絶対に君を離さない。約束できる」
「約束する」
健二の眼差しには確信が宿っていた。しかし彼らの前には、まだ超えなければならない山がたくさんあった。雪の反発、母親の反対、そして社会的な圧力。それでもこの瞬間だけは、三人とも希望を抱くことができた。真実の愛が全てを乗り越えられると信じながら。
翌日、健二は雪に会いに行った。雪は結婚式場で最終チェックをしていた。
「健二さん、来てくれたのね。これ見て、お花の飾り付け。どう?」
雪の明るい声が聞こえてきた。しかし健二の表情は暗かった。
「雪、話があるんだ」
「何の話?」
雪の顔から笑みが消えた。健二の真剣な表情を見た瞬間、不吉な予感がした。
「結婚のことだ」
「まさか……まさかあの女のせいで結婚を取りやめるなんて言わないわよね」
雪の声が震えた。健二が答えないでいると、彼女は叫んだ。
「本当にどうかしてるわ。八年間も放っておいた女のところに戻るっていうの?」
「放っておいたんじゃない。知らなかったんだ」
「知らなかっただろうが何だろうが、今重要なのは現実よ」
雪は健二の腕を掴んだ。指先が冷たく震えていた。
「健二さん、目を覚まして。あの女とやり直したって、何が変わるの? あなたは企業の後継ぎなのよ。責任があるの」
「責任……」
健二は呟いた。
「そうだ。俺には責任がある。でもその責任は、会社に対してじゃない。俺の娘に対してなんだ」
「娘? あの子が本当に健二さんの娘かどうかも確かじゃないじゃない」
「確かだ。DNA鑑定なんてする必要もない。そらを見れば分かる」
健二の声には確信が込められていた。そらの眼差し、笑う姿。全てが自分に似ていたからだ。雪は崩れ落ちた。
「健二さん、私はどうなるの? 私は本当に健二さんを愛してるの。あなたがいなきゃ、私……」
健二は雪の隣に座った。
「雪、ごめん。本当にすまない。でも俺はみ咲を愛してるんだ。十年前も、今も」
「じゃあ、私は? 私の気持ちは?」
「君も本当の愛を見つけられるはずだ。俺じゃなくて、本当に君を愛してくれる人」
雪の目から涙が溢れた。雪は泣きながら立ち上がった。
「いいわ。分かった。でも後悔しないで。あの女が健二さんに何をしてあげられるっていうの? 貧乏な女が」
「金が全てじゃない」
「金がなきゃ、愛だって続けられないわ」
雪は最後にそう言い放ち、飛び出していった。健二は一人、結婚式場に座っていた。二ヶ月後、自分が立つはずだった場所を眺めながら。
その夜、健二の携帯が鳴った。母親からだった。
「健二、雪さんが泣きながらうちに来て、結婚を取りやめるって言っている。どういうことなの?」
「母さん、俺、結婚できません」
「なんですって? 気は確かなの?」
母親の声は、電話越しにも分かるほど激昂していた。
「正気に戻ったんです。十年ぶりに」
「佐藤健二、今すぐ家に帰ってきなさい」
しかし健二は携帯の電源を切り、み咲の家へと向かった。み咲の家に着いた時、彼女はもう荷造りをしていなかった。そらは宿題をしていて、み咲は夕食の準備をしていた。
「まだ引っ越すつもりか?」
健二は訪ねた。
「雪さんと話したの?」
「ああ、結婚は取りやめにした」
み咲の手が一瞬止まった。
「本当にいいの?」
「本当だ。これで俺も自由だ」
「健二……」
み咲は振り返った。
「本当に後悔しないの? お母様も反対するでしょうし、会社のことも複雑になるわよ」
「大丈夫だ」
健二はみ咲に近づいた。
「俺が本当に欲しいのは、君とそらだけだ。み咲、俺はやっと気づいたんだ。三十七年間、何をして生きてきたのか分からない。でもそらが俺をパパと呼んだ瞬間、君と再会した瞬間、俺の人生が始まったような気がしたんだ」
その時、そらが宿題を終えて出てきた。
「パパ、今日も来てくれたんだ」
そらが健二に駆け寄って抱きついた。その瞬間、健二は確信した。これこそが自分が本当に望んでいた人生なのだと。
「そらちゃん、パパはこれから毎日来られるかもしれないよ」
「本当?」
「うん。これからはパパが君たちと一緒に住めるかもしれない」
そらの目が輝いた。
「わあ、本当に家族になるの!」
その夜、三人は一緒に夕食を食べた。健二はこんな平凡な日常が、これほど幸せなことだとは初めて知った。
「み咲、明日から少し忙しくなると思う」
「どうして?」
「母さんを説得しないといけないし、会社のことも整理しないと。簡単じゃないだろうな」
み咲は健二の手を握った。
「大丈夫。私たちが待ってるから」
「本当にいいのか?」
「ええ、今度は逃げたりしないわ」
健二の胸が温かくなった。いよいよ本当の戦いが始まるのだ。しかし今回は一人ではなかった。愛する人たちが自分を信じて待っていてくれているのだから。
健二は翌日、実家へ向かった。東京の高級住宅街に佇む二階建ての邸宅。ドアを開けると慣れ親しんだ香りと共に、執事が迎えた。
「若様、お久しぶりでございます。奥様は大書斎室におられます」
健二は深呼吸をし、足を踏み出した。胸が高鳴り、指先が冷たく震えた。大書斎室に入ると、ソファに座っていた母親が新聞を畳み、顔を上げた。
「来たのね」
冷たい声。変わらない表情だった。健二は席にも座らず、立ったまま言った。
「母さん、話があります。み咲さんのことです」
母親の手が一瞬止まった。
「その名前、また聞くことになるとは思わなかったわね」
「十年前、母さんはみ咲さんに何と言ったんですか?」
健二の声は震えていた。
「彼女がどうやって生きてきたか、ご存知ですか? そして彼女の娘、俺の娘が今どれだけ苦労して生きているか」
「今更、何の意味があるというの?」
母親の声は依然として冷たかった。
「俺があの子に、責任を取ろうと思います」
「健二。あの子があなたの子だという確かな証拠でもあるの?」
「証拠? そらを見れば分かります」
健二の眼差しは断固としていた。
「あの子の眼差し一つで十分です」
「感情で人生を判断するとでも言うの?」
母親は小さく笑った。
「あなたも感情に振り回される人間になったのね」
健二は、言いたかった言葉を口にした。
「十年前、母さんはみ咲さんに何と言ったんですか? 本当にお金を渡して去らせたんですか?」
母親は答えなかった。その沈黙が答えだった。健二は長く息を吐き、ソファに腰を下ろした。
「母さんは、どうしてそこまでしたんですか?」
「家柄よ。み咲さんという、ただそれだけの理由で。佐藤の名前は誰にでも与えられるものではないの」
母親の言葉はまるで宣言のようだった。
「母さんは俺の母親だったけれど、俺にとっては一度も家族のように感じられませんでした」
健二の声には、十年間積もった恨みが滲んでいた。
「俺が愛した女性を追い出し、子供にまで合わせなかった」
「私はあなたのために最善の選択をしただけよ」
「最善?」
健二は自嘲気味に笑った。
「俺が平凡な人生を送っていたら、今のように会社の社長の座にいられたでしょうか? 雪さんとの結婚で、もっと大きな事業ができる機会を逃すというの?」
「会社の社長になるために、父親になることを諦めなければならなかったのなら、そんなものは何の価値もない人生です」
その瞬間、母親の眼差しが揺れた。しかし、すぐにまた凄味を取り戻した。
「あの子、本当に受け入れるというのね」
「どんな非難も甘んじて受けます」
「あなたをただでは置かないでしょうね。雪さんのお父様がどれだけ怒っているか知っているの? すでに準備していた事業が全て白紙になったのよ」
「俺は社会の一員である前に、あの子の父親です」
その言葉に、母親は初めて息子を正面から見据えた。彼女の息子ではなく、一人の大人として向き合った男。しばらくして彼女は席を立った。
「結局、あなたのやり方でやるというのね」
「今回は最後までやり通します」
健二は背を向ける母親を見つめながら、静かに言った。
「今からでも謝ってください。み咲さんに。そらに」
しかし母親は立ち止まらなかった。そして答えもしなかった。
同じ頃、雪は父親のオフィスにいた。
「お父様、佐藤健二が私を捨てて他の女のところへ行ったこと、ご存知ですよね」
「それで、どうしろと?」
「うちの会社と取引のある全ての業者に、佐藤健二の会社とは取引を中止するように伝えてください」
「雪、それはあまりにも……」
「お父様、私がどれだけ恥をかかされたか分かりますか? 結婚式を二ヶ月前に控えて、婚約破棄だなんて」
雪の眼差しには復讐が燃え上がっていた。
数日後、健二の会社に打撃が及び始めた。いくつかの建設プロジェクトが中止になり、協力会社が契約を破棄した。
「社長、このままでは会社が大変なことになります」
専務が心配そうに言った。健二はストレスで頭がずきずきと痛んだ。会社も問題だし、母親も反対しているし、全てがうまくいかなかった。
「どのくらい持ちこたえられそうだ?」
「この状態ですと……一ヶ月が限界かと」
その夜遅く、健二がみ咲の家に行った時、そらはすでに眠っていた。
「大変そうね」
み咲が慎重に言った。
「大丈夫だ」
「嘘。顔に全部書いてあるわ」
健二は苦笑いを浮かべた。
「会社が少し苦しくなってな」
「私のせいね」
「違う。俺の選択のせいだ」
み咲は健二の手を握った。
「後悔してる?」
「絶対にしない」
健二はきっぱりと言った。
「君とそらを得たんだ。何を後悔することがある」
しかし健二の心の片隅には不安が渦巻いていた。果たしてこの選択は正しかったのだろうか。全てを失うことになるのではないか。それでもそらの笑顔を見ると、全ての心配が消え去った。これこそが本当の愛なのだと悟ったからだ。
数日後、健二は会社の仕事で数日間、東京に滞在しなければならない状況になった。新しいプロジェクトのために投資家たちとの重要なミーティングが立て続けに組まれたのだ。
「み咲、ごめん。今週は東京で仕事をしなくちゃいけないみたいだ」
「大丈夫よ。仕事の方が大事じゃない」
み咲は理解していると言ったが、心の片隅では「やっぱり仕事が優先なのね」という思いがよぎった。その間、雪の父親がさらに強い圧力をかけてきた。健二が横浜にいない隙を狙って、み咲の周りの商店主たちに圧力をかけ始めたのだ。
「み咲さん、悪いんだけど、ここで商売するのは難しくなったみたいなんだ。上から色々言われてね」
市場の店主たちが、一人、また一人と距離を置き始めた。み咲は生活の手段を失い、途方に暮れた。さらに追い打ちをかけるように、そらが学校で「お父さんはお金持ちなのに、どうしてママは市場で働いてるの?」とからかわれ、泣きながら家に帰ってきた。
「ママ、私のせいでパパが大変なの?」
その言葉を聞いたみ咲は決心した。やっぱり私たちは、健二の足手まといになるだけだわ。み咲はそらと一緒に静かに荷造りを始めた。健二が東京から帰ってくる前に去ることにしたのだ。
「これが健二のためなの。そら、私たち別の場所で新しく始めましょう」
数日間、健二はみ咲とそらを探し回った。しかし横浜の家はもぬけの殻だった。近所のおばあさんの話では、数日前に荷物をまとめてどこかへ行ってしまったという。
「おばあさん、どこへ行ったかご存知ありませんか?」
「さあね。ただ朝早くに、子供の手を引いて出て行って、それっきり帰ってこないんだよ」
健二の胸がドキリとした。指先が冷たく震え、全身から力が抜けるような感覚だった。その間、会社の状況はさらに悪化した。雪の父親が業界での影響力を使い、健二の会社を完全に孤立させていたのだ。
「社長、今週末までに資金調達ができなければ、本当に危険です」
専務の声には絶望感が滲んでいた。健二はオフィスの椅子に座り、頭を抱えた。会社も崩壊寸前で、愛する人たちも消えてしまった。全てが一度に崩れ落ちていくようだった。健二は一人オフィスに残り、酒を飲みながらそらを恋しがった。あの小さな子が「おじさん、明日も来る?」と言った姿。自分をパパと呼んだ瞬間が何度も頭に浮かんだ。三十七年間生きてきて、こんな虚しさを感じたことがあっただろうか。金も地位も全てを手に入れたと思っていたのに、本当に大切なものは全て失ってしまった気分だった。机の上に置かれた、そらと一緒に撮った写真を見つめながら、健二は悟った。これこそが本当の愛であり、本当の家族なのだと。
一週間後、健二は偶然、横浜駅の近くでみ咲を見つけた。み咲は小さな市場で果物を売っており、そらはその隣で宿題をしていた。健二の胸が高鳴った。やっと見つけたという安堵感と共に、み咲のさらに痩せた姿に心が痛んだ。
「み咲」
み咲は顔を上げた。驚いた表情だったが、同時に複雑な感情がよぎった。
「どうしてここまで……君たちを探していたんだ」
「どうして?」
「何も言わずに消えたんだ」
健二の声には切実な思いが込められていた。
「言ったって仕方ないじゃない。どうせ私たちは住む世界が違うのよ」
そらが健二を見て駆け寄ってきた。
「パパ!」
「そらちゃん!」
健二はそらを抱き上げた。その瞬間、全ての心配と悩みが消え去るような気がした。この子のぬくもりだけが、自分を生かしてくれているようだった。
「会いたかったよ」
「私も会いたかったよ。どうして来なかったの?」
健二はみ咲を見つめた。
「み咲、一緒に帰ろう」
「だめ」
み咲は首を振った。
「あなたのお母様の言う通りよ。私はあなたの家にはふさわしくない。それに、今あなたの会社が大変なのも全部私のせいでしょう」
「そんなことは関係ない」
「関係あるわ。あなたのせいで、何人の人が職を失うことになるか分かってるの?」
健二は言葉を失った。み咲の言う通りだった。自分の選択のせいで、会社の従業員たちが被害を受けていたのだ。
「じゃあ、じゃあどうすればいいんだ?」
「あなたはあなたの場所に戻るの。雪さんに謝って、お母様に許しを乞うのよ」
み咲の声は断固としていたが、震えていた。
「じゃあ君は? そらは?」
「私たちは私たちなりに生きていくわ。これまでもそうだったように」
健二の目に涙が溜まった。
「俺は君とそらがいないとダメなんだ」
「言わないで。あなたは十分にうまくやっていける人よ」
そらが二人の大人を交互に見ながら尋ねた。
「ママ、パパ、どうして泣いてるの?」
健二はそらをぎゅっと抱きしめながら言った。
「そらちゃん、パパが今ちょっと辛いだけなんだ。でも、そらちゃんを愛してる気持ちは変わらないよ」
「じゃあ、一緒に住めばいいじゃない」
それが、それが簡単じゃないんだ。そらの純粋な言葉が、健二の胸をさらに痛めつけた。
その夜、健二は一人ホテルの部屋に座り考え込んでいた。愛する人たちを守るためには、何かを諦めなければならない状況。しかし何を諦めるべきなのか、どの選択が正しいのか分からなかった。窓の外には横浜の夜景が見えた。きらめく光が星のようだったが、健二には全てが冷たく感じられた。健二は財布から、そらが描いてくれた絵を取り出した。パパ、ママ、そらが手をつないでいる絵だった。その瞬間、悟った。これまで自分が追い求めてきた全てのもの。会社、金、社会的地位。その全てが、この小さな一枚の絵ほどには尊くないのだと。俺が本当に守るべきものは何だ? 健二は心の中で誓った。今度は本当に、本当に大切なものを選択しようと。たとえ全てを失うことになっても、後悔しないように。夜が更けるに連れて、健二の決意はますます固まっていった。いよいよ本当の選択の時が近づいていた。
健二は数日間悩み抜いた末、決心を固めた。彼はまず、伊藤雪に会いに行った。
「健二さんから連絡くれるなんて。気が変わったの?」
雪の顔が明るくなった。もしかしたら健二が戻ってきたのではないかという期待感が眼差しに宿っていた。
「雪、すまなかった。本当に申し訳ない」
「じゃあ、また結婚してくれるの?」
雪の声が弾み始めた。
「いや」
健二は首を振った。
「謝りに来たんだ。君を傷つけたこと。そして君のお父様が、うちの会社に圧力をかけていることも知っている」
雪の表情が固まった。
「じゃあ、何? それでもあの女を選ぶっていうの?」
「ああ。俺はみ咲とそらを選ぶ」
「どうかしてるわ。会社はどうするの? お父様が圧力をかけ続けたら、持ちこたえられると思ってるの?」
健二の眼差しが変わった。
「持ちこたえる。いや、乗り越えて見せる」
「何ですって?」
「これから本気で事業をやってみようと思うんだ。今まではただ受け継いだ会社を適当に経営してきただけだった。でも今回は違う。そらとみ咲のためにも、本当に成功したくなったんだ」
健二の声には、以前にはなかった確信が込められていた。
「三十七年間、目的もなく生きてきたけど、やっと本当に生きるべき理由を見つけたんだ」
雪は信じられないという表情をした。
「本当に、あの女と子供のせいでそんなに変わったの?」
「ああ。そらがパパと呼んだ時、俺が守るべき人たちがいるんだって気づかされたんだ」
雪は涙を流した。
「健二さん、本当に私のこと、愛してくれたことなんて一度もなかったのね」
「すまない。でも君も、本当に君を愛してくれる人に出会えるはずだ」
「そんな慰め、いらないわ」
雪は立ち上がり、最後に言った。
「お父様を説得してみる。でも簡単じゃないわよ。健二さんも覚悟して」
「ありがとう。そしてすまない」
雪は背を向けながら呟いた。
「後悔するわよ。絶対に」
次に健二は母親を尋ねた。
「母さん、俺、これから本気で仕事します」
「急に何を言い出すの?」
「今までは母さんが作ってくれた土台の上で安住して、適当に生きてきました。これからは、本当にちゃんとやってみます」
母親は驚いた表情をした。三十七年間で初めて見る息子の姿だった。
「み咲さんとそらちゃんのためね」
「はい。守るべき人たちができましたから」
「母さん、雪さんのお父様がうちの会社に圧力をかけていること、ご存知ですよね」
「それで、どうするつもりなの?」
「乗り越えます。精一杯。新しい協力会社も見つけて、もっと良いプロジェクトも取ってくる。これから、本当に必死に生きてみます」
母親は、息子の変わった姿に驚きながらも、一方では嬉しかった。
「本当にそんなことができるの?」
「できます。いえ、やらなければならないんです」
健二は会社に戻り、従業員たちを集めた。
「皆さん、正直に話します。今まで私は無責任でした」
従業員たちがざわついた。
「しかし、これからは違います。この会社を、本当に最高のものにしてみたいんです」
専務が慎重に訪ねた。
「社長、現在の危機的状況はどう解決なさるおつもりですか?」
「新しい道を探します。もっと創造的で、もっと差別化されたプロジェクト。低所得者層向けの住宅事業なんてどうだろう」
健二はホワイトボードにアイデアを書き始めた。
「横浜のあの町のような場所で見たんだが、人々が本当に必要としているのは高価な高級マンションじゃない。温かくて安全な家なんだ」
従業員たちの眼差しが変わり始めた。
「社会的価値も生み出し、収益性も確保できる方法を探しましょう」
その夜、健二は一人オフィスに残り事業計画を立てた。しかし、最も急がれるのはみ咲とそらを見つけ出すことだった。これで本当に堂々と会える気がする。健二は思った。もはや「ボンボン」ではなく、本当に責任感のある事業家としてみ咲に会いたかったのだ。そらにも誇れる父親になりたかった。健二は財布から、そらが描いてくれた絵を取り出した。パパ、ママ、そらが手をつないでいる絵だった。
「そらちゃん、パパが本当にかっこいい男になるからな」
健二は誓った。今度は逃げない。事業も成功させ、愛する人たちも守り抜くと。翌日から健二は完全に別人のように働き始めた。従業員たちも協力会社も、皆その変化に驚いた。健二は早朝から深夜までオフィスで新しいプロジェクトを準備した。
「社長、本当に変われましたね」
専務が感心していった。
「今まで眠っていたのかもしれません」
健二は笑って答えた。
「やっと本当に目が覚めました。守るべき人たちがいると、力が湧いてきますね」
しかし、最も重要なのはみ咲とそらを見つけ出すことだった。健二は事業の準備と並行して、み咲を探すために横浜中を駆け回った。食堂、古い町並み、そらがいそうな場所、全て探し回った。何日も探し続けた末、ついに横浜駅近くの在来市場でみ咲を見つけた。相変わらず果物を売っており、そらはその隣で本を読んでいた。健二の胸が高鳴った。今度は本当に違う姿で、彼らの前に立てる気がしたからだ。
「み咲」
み咲が顔を上げた時、健二の姿は以前とは違って見えた。眼差しに確信が宿り、全体的にさらに重厚に見えた。
「また来たのね」
み咲の声にはまだ警戒心があったが、健二の変化を感じ取っていた。
「パパ!」
そらが寄ってきて、健二に抱きついた。
「そらちゃん、会いたかったよ」
「私も。どうしてこなかったの?」
「パパ、忙しかったんだ。でも、これからはもっと頻繁に来られると思うよ。み咲、俺、今新しい仕事を準備しているんだ」
「どんな仕事を?」
「低所得者向けの住宅事業だ。横浜のあの町のような場所で思いついたんだ。人々が本当に必要としている家を建てたいんだ」
み咲の眼差しが変わった。以前の健二なら、絶対に考えもしなかったことだったからだ。
「あなた、本当に変わったのね」
「ああ。そらと君に出会ってから、全てが変わったんだ」
その時、健二の後ろから一人の女性が現れた。健二の母親だった。
「お母様……」
み咲は驚いた表情をした。
「み咲さん、久しぶりね」
母親の声は十年前とは違って柔らかかった。しかし依然として、彼女ならではの威厳は保たれていた。
「どうしてここまで……」
「そらに会いに来たのよ」
そらが好奇心に満ちた眼差しで祖母を見つめた。
「おばあちゃんなの?」
「そうよ。おばあちゃんよ」
母親は、み咲に向かって頭を下げていった。
「み咲さん。私が間違っていました。十年前にあなたを追い出したこと、そして今まで孫の存在に背を向けていたこと。全て、私の過ちでした」
み咲は戸惑った。あれほど冷たかった母親が、こんな風に出てくるとは夢にも思わなかったからだ。
「お母様、そんなこと……」
「いいえ。私が謝らなければならないの」
母親の声には心からの謝罪の気持ちが込められていた。そらが祖母に近づいていった。
「おばあちゃん、どうして謝るの? おばあちゃん、何か悪いことしたの?」
「おばあちゃんはね、おばあちゃんはあなたのことを、長い間知らないふりをしてたのよ」
「でも、今は知ってるじゃない。これから一緒に遊べばいいでしょう」
子供の純粋な言葉に、母親の目元が潤んだ。
「本当に天使のような子ね」
「おばあちゃんも、良い人みたい」
み咲は、健二と母親の変わった姿を見て心が揺れた。特に健二の眼差しが、以前とは全く違っていたからだ。
「健二、本当に変わったのね」
「ああ。君とそらのおかげだ。会社は……雪さんとは完全に終わった。そして会社は、これから本気でちゃんとやっていく」
健二の声には自信が満ち溢れていた。
「み咲、俺たちやり直せないか?」
「健二……」
「今度は違う。約束する」
み咲がためらっていると、母親が言った。
「み咲さん。私も、今度は心から受け入れたいの。あなたも、そらも」
「おばあちゃん、本当?」
そらが輝く目で尋ねた。
「本当よ。おばあちゃんがこれから、そらのことをたくさん愛してあげるからね」
その夜、四人は静かなレストランで一緒に夕食を取った。まだぎこちなさはあったが、そらの明るい笑い声が雰囲気を温かくした。
「パパ、おばあちゃん、ママと私、本当に家族になるの?」
「ああ、俺たちは本当の家族だ」
健二はそらの頭を撫でながら言った。み咲はまだ慎重だったが、心の片隅で希望が芽生え始めていた。十年ぶりにやり直す機会が訪れたような気がしたからだ。母親も孫を見つめながら、満足げな表情を浮かべていた。こんなに可愛らしくて優しい子が自分の孫だなんて。十年間失った時間が惜しかったが、今からでも会えたことが幸いだった。新しい始まりのための準備が、少しずつ。しかし確実に始まっていた。
数日が過ぎた。健二は東京と横浜を往復し、会社とみ咲の世話に集中した。しかし、み咲はまだ完全に心を開いてはいなかった。
「こんなに頻繁に来て、会社の仕事はどうするの?」
「大丈夫だ。今は従業員たちが、自分の仕事は自分でちゃんとやってくれている」
健二はそらと一緒に宿題を見ながら言った。
「それにしても、あなたがここまでしなくても」
み咲の声にはまだ距離があった。母親も、ほとんど毎日横浜に滞在し、孫との時間を過ごそうと務めていた。
「そらちゃん、おばあちゃんが新しいお洋服買ってあげようか」
「本当? ありがとう、おばあちゃん」
そらは祖母にすっかりなついていたが、み咲は母親の変化を完全には信じきれていなかった。
「お母様、こんなことなさらなくても、私たちは大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないわ。私が十年間も孫に会えなかったことが、大丈夫なわけないのよ」
母親の声には、心からの後悔が込められていた。
その夜、そらを寝かしつけた後、み咲は一人で座って考え込んでいた。健二の変わった姿、母親の謝罪、そらの明るくなった表情。全ては良かったが、それでも不安だった。十年前も、こんな風に幸せになれるはずだったのに。過去の傷は、簡単には癒えなかった。再び信じて、また捨てられたらどうしよう。そらが傷ついたらどうしよう。怖かったのだ。
翌日、健二はみ咲と二人きりで話す機会を作った。
「み咲、俺は本当に変わったんだ。今度は違う」
「その言葉、十年前にも聞いたわ」
「あの時と今は違う。あの時は俺は若くて未熟だった。今は本当に何が大切なのか、分かっているんだ」
健二の声は切実だった。
「そらを見て悟ったんだ。俺が父親であることの意味。君を愛することの責任を」
「でも、現実はどうかしら?」
み咲は自嘲気味に言った。
「あなたのお母様がまた心変わりしたら。会社に問題が起きたら。その時も、私たちを守れるの?」
「守る。何があっても」
「言うのは簡単よ」
み咲の声には、十年間積もった傷が滲み出ていた。
「一人で子供を育てて、どれだけ大変だったか分かる? 毎晩泣きながら『パパはいつ来るの?』って聞くそらを見て、何て答えたらいいか分からなかった」
その時、そらが現れた。少女は、二人の大人の真剣な雰囲気を察したようだった。
「ママ、パパ、どうしてそんなに深刻なの?」
「ううん、そらちゃん、大丈夫よ」
「嘘。ママ、悲しそうだよ」
そらはみ咲に近づいて抱きついた。
「ママ、もうパパもいるし、おばあちゃんもいるじゃない。もう私たち、一人じゃないよ」
その瞬間、み咲の目から涙が溢れた。母親が入ってきて、その様子を見て静かに言った。
「み咲さん、私が正直に話すわ」
「お母様……」
「十年前に私があなたを追い出したのは、本当に間違ったことだった」
母親の声が震えていた。
「私が家の体面ばかりを考えて、本当に大切なものを見失っていたの。健二の幸せも、あなたの心も、そしてこの可愛いそらの存在も。今まで生きてきて、一番後悔しているのがそれなのよ」
母親はそらを見つめながら言った。
「こんなに可愛くて優しい孫に、十年間も会えなかったことが」
「おばあちゃん」
そらが祖母に近づいた。
「おばあちゃん、泣かないで。今からでも一緒にいればいいじゃない」
「そうね。今からでも」
み咲は、健二と母親とそらを交互に見つめた。そらの明るい表情。健二の切実な眼差し。母親の心からの後悔。全てが本物だった。
「健二、本当に今度は違うのね」
「約束する。今度は絶対に、君たちを一人にはしない」
健二はみ咲の手を握った。今度は、み咲は手を振り払わなかった。
「じゃあ……少しずつ、始めてみようかな」
み咲の声はまだ慎重だったが、希望が込められていた。
「本当か!」
健二の顔が明るくなった。
「ええ。でも、ゆっくりね。そらが混乱しないように」
「もちろんだ。そらが一番大事だ」
そらが三人の大人の間に入って、笑った。
「わあ! 本当に私たち家族になるの?」
「ああ。俺たちは、本当の家族だ」
母親は孫を抱きしめながら言った。
「おばあちゃんがこれから、そらとママとパパ、みんなのことをちゃんと見ててあげるからね」
その夜、四人は初めて心穏やかに一緒に時間を過ごすことができた。まだ完全ではなかったが、本当の家族になるための第一歩を踏み出したのだった。
一ヶ月が過ぎた。み咲とそらは、東京に引っ越してきた。健二が用意してくれた都心の綺麗なマンションだった。そらは自分だけの部屋ができて大喜びし、み咲も久しぶりにちゃんとした家で暮らせることになった。
「ママ、このお家すっごく素敵! それにパパの会社も近いね」
そらが新しい部屋で楽しそうに走り回った。
「そうね。これで私たちも、ちゃんとしたお家に住めるのね」
み咲は窓の外を眺めながら、感慨に浸っていた。健二はこれで毎日、仕事の後に家に帰れるようになった。会社の新しいプロジェクトも順調に進んでおり、何よりもみ咲とそらと過ごす時間がずっと増えた。
「パパ、今日新しい学校で発表、上手にできたよ!」
そらが嬉しそうに駆け寄ってきて、だきついた。
「本当か? うちのそらは最高だな。東京の学校はどうだ?」
「楽しい! お友達もたくさんできたよ」
健二は娘を抱き上げ、笑った。こんな平凡な瞬間が、彼にとっては最も大切なものだった。み咲も東京での生活に、少しずつ慣れていっていた。健二の変わった姿が本物だと、毎日確認できたからだ。
「健二、会社は本当に大丈夫なの? 毎日早く帰ってきて」
「むしろ、もっとうまくいってるよ。従業員たちも頑張ってくれてるし、新しいプロジェクトの評判もいい」
健二の眼差しには、自信と安定感が同時に宿っていた。
「本当に変わったのね」
「ああ。君とそらのおかげで、本当の大人になれた気がするよ」
母親とみ咲の関係も、徐々に回復していった。母親はほとんど毎日、新しい家を訪れ、そらとの時間を過ごした。
「み咲さん、そらちゃん、風邪気味だけど病院には連れて行ったの?」
「はい、お母様。昨日行ってきましたが、大丈夫だそうです」
「それでも気をつけないと。子供は風邪がすぐにひどくなることがあるから」
母親の声には、本当の祖母としての心配が込められていた。
「お母様、こんなに毎日来たら、お疲れになるでしょう」
「いいえ。十年会えなかったことを考えたら、毎日会っても足りないくらいよ」
ある夜、健二とみ咲は二人きりで川べりを散歩した。そらは、母親と一緒に家にいた。
「み咲、十年前のこと、もう一度だけ話したいんだ」
「また、君が俺の女と一緒にいるのを見たって言ったんだろう」
「あの女性は、本当に母さんが無理やり紹介した人だったんだ」
健二は切実に言った。
「俺はあの日、君を探してたんだ。急に連絡が取れなくなって、心配してたんだ。そしたらあの女性が突然現れて、食事でもしようって言ってきたけど、俺は全く興味もなかった。でも、その瞬間を君が見てしまったんだ」
み咲の目元が潤んだ。
「それで、あなたは私を捨てたんだと思って」
「ああ。そして、そのショックで君から逃げてしまったんだ」
「バカね。本当にバカ」
み咲は健二の胸を軽く叩いた。しかし、その手付きには恨みよりも切なさが込められていた。
「み咲、君も、どうしてあの時言わなかったんだ? 妊娠してるって」
「どんな顔して言えるの? あなたが他の女の人と幸せそうに見えたのに」
「幸せじゃなかった。一度も」
健二はみ咲の手をしっかりと握った。
「君のいない十年間が、どれだけ空っぽだったか分からないだろう。ただ息をして生きていただけだった」
「私も同じだったわ。そらがいなかったら……」
二人の目から、同時に涙がこぼれた。
「もう、もう本当にやり直せるのかな?」
み咲が慎重に尋ねた。
「できるさ。いや、絶対にやらなきゃ」
健二はみ咲を抱きしめた。
「俺たちのそらのためにも」
「うん。そらのために」
み咲も、健二の腕の中で抱きしめられた。十年ぶりの本当の抱擁だった。
「健二、じゃあこれから……どうするの?」
「結婚しよう」
健二が突然言った。
「え?」
「正式に結婚して、本当の家族になろう。そらも堂々と、パパがいるって言えるように」
み咲の胸が高鳴った。
「でも、急すぎないかしら。そらも混乱するかもしれないし」
「ゆっくりやろう。そらが準備できるまで」
家に帰ってきた二人を見て、そらが訪ねた。
「ママ、パパ、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「そらちゃん、ママとパパね、本当に家族になることにしたんだよ」
「わあ! 本当!」
そらの目が輝いた。
「じゃあ、パパが毎日私たちと一緒に住めるの?」
「ああ、毎日一緒に住むよ」
母親もその知らせを聞いて、心から喜んだ。
「良かったわ。本当に良かった」
「お母様……」
「み咲さん、今度は私が本当に、嫁としてあなたを受け入れるわ。すまなかったわね」
「お母様、私も申し訳ありませんでした。あの頃は若すぎて……」
「いいえ、全部、私の過ちだったわ」
母親はみ咲をぎゅっと抱きしめた。十年ぶりに、本当の家族になる瞬間だった。その夜、四人は一緒に座って未来の計画を立てた。結婚式はいつにするか。そらの学校はうまく適応しているか。全てが幸せな悩みだった。ついに全ての誤解が解け、真心が伝わった瞬間だった。これで本当に、新しい始まりのための準備が整った。
半年が過ぎた。再び春が訪れ、健二とみ咲は静かな結婚式の準備をしていた。華やかな式場ではなく、小さな教会で、家族と親しい人たちだけを招く温かな結婚式だった。
「ママ、ウェディングドレス、すっごく綺麗!」
そらが目を輝かせながら言った。み咲は、シンプルだが上品なドレスを着ていた。
「そらちゃんも、とっても可愛いわ。今日、お花を巻いてくれるの、覚えてる?」
「うん! たくさん練習したよ」
そらは淡いピンクのドレスを着て、花かごを持っていた。健二は鏡の前でネクタイを締めながら、考えに浸っていた。三十七年間生きてきて、これほどまでに緊張し、同時に幸せな瞬間があっただろうか。
「社長、準備はよろしいですか?」
専務が入ってきて尋ねた。彼は今日、健二の付き添いを務めていた。
「ああ。これで本当に幸せになれそうだ」
「本当に変われましたね。以前の社長とは、全く別人のようです」
「愛する人たちができると、世界が違って見えるものだな」
小さな教会は、温かい雰囲気に満ちていた。健二の会社の従業員たち、み咲の数少ない友人たち、そして母親が前の席に座っていた。牧師が言葉を始めた。
「今日のこの場は、単に二人の結びつきだけではありません。十年という時間を耐え抜いた真実の愛の結晶であり、一人の子供に完全な家庭を贈る日であります」
健二とみ咲は、互いを見つめ微笑んだ。
「佐藤健二さん、あなたは田中み咲さんを生涯愛し、守り抜くことを誓いますか?」
「はい。誓います」
健二の声は確信に満ちていた。
「田中み咲さん、あなたは佐藤健二さんと共に、幸せな家庭を築いていくことを誓いますか?」
「はい、誓います」
み咲の目には涙が溜まっていた。指輪を交換する瞬間、そらが花びらを巻きながら拍手をした。
「ママ、パパ、おめでとう!」
結婚式の後、三人は一緒に家族写真を撮った。健二がみ咲の肩を抱き、そらが二人の前に立っている姿だった。
「はい、いち、に、の、さん」
写真家がシャッターを切った。その瞬間に納められた写真には、三人とも心からの笑顔が満ち溢れていた。
「パパ、これで本当に私たち、家族だね」
「ああ、永遠に家族だ」
母親も隣で孫を見つめながら、満足そうに微笑んでいた。一年後、健二の新しい事業は大成功を収めた。低所得者向けの住宅事業は、社会的にも大きな反響を呼び、経済的にも安定した収益を上げていた。
「社長、今回のプロジェクトのおかげで、百世帯が新しい家を手に入れることができました」
「よかった。これこそが、本当に意味のある仕事だと思う」
健二は、横浜のあの町に似た地域に建てた新しい住宅団地を眺めながら、誇らしく思った。み咲とそらに出会わなければ、絶対にできなかったことだった。そらは東京の新しい学校にもすっかり慣れた。性格も明るくなり、成績も上がった。
「パパ、今日先生に褒められたんだよ。絵を描くので一番になったんだって」
「本当か? うちのそらは天才だな」
「それにね、お友達に自慢したんだ。うちのパパはお家を立てる仕事をしてるんだよって。貧しい人たちを助けてるんだよって」
健二の胸は誇らしさでいっぱいになった。娘が自分を誇りに思ってくれていることが、これほど嬉しいことだとは知らなかった。母親もすっかり変わった。以前のような権威的で冷たい姿はどこにもなく、孫に夢中な「おばあちゃん」になっていた。
「おばあちゃん、今日何して遊ぶ?」
「そらちゃんがしたいこと、全部しましょうね。遊園地に行く? それともお買い物に行く?」
「わあ! おばあちゃん最高!」
み咲を見る母親の視線も、すっかり変わっていた。
「み咲さん、ありがとう。そらをこんなによく育ててくれて」
「私の方こそ、ありがとうございます。こうして受け入れてくださって」
夕食の時間、四人は一緒に食卓を囲んでいた。そらが学校であった出来事を嬉しそうに話し、健二は会社の話を、み咲は家の話を、母親は孫自慢をした。
「パパ、明日土曜日だから、遊びに行こうよ」
「どこに行きたいんだ?」
「ううん。最初にパパに会った横浜に行ってみるのはどうかな?」
「横浜か」
「うん。そこで私たちが、初めて家族になった場所じゃない?」
健二とみ咲は、互いを見つめ笑った。その夜、そらと母親が眠った後、健二とみ咲はベランダに出て夜景を眺めていた。
「幸せ?」
健二が訪ねた。
「うん。幸せすぎて、夢みたい」
「俺も同じだ。三十七年間生きてきて、こんな幸せがあるなんて知らなかったよ」
み咲は健二の腕に自分の腕を絡めた。
「ありがとう。また、見つけに来てくれて」
「俺の方こそ、ありがとう。待っていてくれて。そしてそらを、こんなによく育ててくれて」
遠くから、そらの寝言が聞こえてきた。
「ママ、パパ、大好き……」
二人は笑い合い、互いを見つめた。
「うちの娘が一番幸せそうだ」
「当たり前でしょ。本当に、完全な家族なんだから」
そらの上では、星が輝いていた。十年という長い時間を経て再び出会った愛。そして、彼らが作り上げた真の幸せが、その星の光のように美しく輝いていた。時には遅すぎたように思える愛も、本物であれば、いつでも新しい始まりになり得るのだと、彼らは全身で証明してみせたのだった。



