職場に、誰もが認める美人でクールな上司がいる。名前は増田さん。口数は少なく、いつも淡々と仕事をこなす姿に、周囲は近寄りがたいと思っているようだった。けれど、彼女は本当は誰よりも細やかに気を配れる、優しい女性だった。
俺は神谷克己。シングルファーザーとして今の会社に転職してきた。数年前に事故で兄を亡くし、残された一人娘のまおを引き取って育てている。小さな子供を抱えての生活は想像以上に厳しく、料理すら満足にできない俺は、毎日コンビニ弁当で済ませる日々が続いていた。バタバタと忙しく、育児に追われるとはまさにこのことだと痛感していた。
それでも周りの人たちは、そんな俺をいつも気遣ってくれた。直属の上司である増田さんも、早退して子供を迎えに行くことを何も言わずに認めてくれる。いつも帰り際に「気をつけて」と声をかけてくれる、そんな人だった。
ある日、母がまおを連れて遊びに出かけていたのだが、途中で「どうしてもパパに会いたい」と言い出したらしく、会社の前で待っていると連絡が来た。急いで外に出ると、そこには偶然通りかかった増田さんがまおの手を引いて立っていた。どうやらまおを会社のロビーまで案内してくれたらしい。その間に、増田さんとまおはすっかり打ち解けてしまい、気がつけば三人で公園に行く約束をしていた。
「あの、増田さん。まおがわがままを言ったようですみませんでした」
「わがままなんてとんでもない。だって、私もまおちゃんと遊びたかったんだもの」
「お姉ちゃん、絶対に公園に行こうね! まおね、ブランコに乗りたいの!」
「ブランコ? 楽しみね」
まおは増田さんにすっかり懐いていた。しかも、嬉しそうに笑っている。会社で見せるクールな表情とはまるで違う、柔らかい顔だった。
数日後、増田さんが俺のデスクに来て、部内の飲み会の話を持ち出した。
「神谷さんはお子さんがいらっしゃるから、無理しなくて大丈夫ですからね」
「いいえ、こういう集まりも仕事のうちですから。まおは実家に預けるので大丈夫です」
そして当日、飲み会で増田さんは俺の隣に座り、一人での子育てについて色々と話を聞いてくれた。
「一人での子育ては大変ですよね。手助けできることがあったら、言ってくださいね」
「いつもお気遣いありがとうございます。実は、まおは娘じゃなくて姪なんです。去年、兄が亡くなったので引き取ったんですが、慣れないことが多くて、まおにはかわいそうなことをしているかもしれません」
「そうだったんですか。娘さんじゃなくて、姪御さんだったんですね。優しいおじさんがいて、まおちゃんは幸せですよ」
そう言って、増田さんは公園に行く日を決めてくれた。休日、三人で市内でも大きな公園に向かった。カジュアルな私服姿の増田さんは、会社で見る姿とはまるで別人のように柔らかくて、綺麗なボディラインに思わず目を奪われた。
公園では、まおがはしゃぎながら増田さんの手を引いてブランコに向かった。
「お姉ちゃん、どっちが高くこげるか競争だよ!」
「負けないわよ」
会社ではクールな彼女が、まおと一緒になって少女のように笑い、遊具で遊んでいる。そのギャップが、なんだか新鮮で嬉しかった。三十分ほど遊んだ頃、喉が乾いたと言うまおのために、俺が自販機に飲み物を買いに行くことにした。
「増田さんは何がいいですか?」
「じゃあ、私はお茶をお願いします」
「遠慮しないでください。こういう時くらい、男らしく奢らせてくれませんか?」
「あ、ありがとうございます」
少し照れながら礼を言う姿が、また可愛らしかった。
帰り道、人混みの中でまおが突然走り出した。慌てて追いかけようとしたその時、近くにいたおばあさんがまおを止めてくれた。
「お嬢ちゃん、パパとママとはぐれないようにね」
「あ、あの、すみません。俺と夫婦と間違われちゃって、気分悪いですよね」
「いえ、大丈夫ですよ」
彼女は笑って許してくれたけれど、心の中では少し、いや、かなり複雑な気持ちだった。彼女と夫婦に見えるなんて、そんなこと、考えただけで心臓がうるさい。
翌日、俺は少し緊張しながら出勤した。しかし増田さんはいつもと変わらずクールな態度で、「今日から新規プロジェクトが始まりますから、頑張りましょう」とだけ言った。あの日、親子と間違えられたことを、彼女は本当はどう思っているんだろう。昼休み、増田さんが俺のデスクに来て、まおの誕生日が近いことを話し出した。
「よかったら、一緒にお祝いしませんか?」
「え、増田さんがですか?」
「私、まおちゃんともっと仲良くなりたいと思ってまして。実は、まおちゃんも私に来てほしいってずっと言ってるんですよ。きっと喜びます」
「嬉しい。それじゃあ、当日はまおちゃんの好きなものをたくさん作っていきますね」
クールな態度の裏で、彼女はまおのことを本当に考えてくれている。そのことが、たまらなく嬉しかった。
当日、増田さんは俺のアパートを訪ねてきた。会社で見る凛とした姿も綺麗だけど、今日の彼女はとても華やかで、まるでお人形さんのようだった。まおは目を輝かせて駆け寄る。
「わあ、お姉ちゃん可愛い!」
「まおちゃん、お誕生日おめでとう。はい、これプレゼントよ」
「わあ! お姫様のドレスだ!」
増田さんは、公園でまおが話していたアニメのお姫様の服をプレゼントしてくれたのだ。それだけでなく、紙袋からはハンバーグや唐揚げ、オムライスにフルーツサラダと、子供が好きそうな料理がぎっしり詰まったタッパーが次々と出てきた。どれも絶品で、久しぶりの手料理が心にしみた。俺は料理ができないから、実家に帰った時くらいしかちゃんとした飯を食べられない。
食後、まおが何気なく口にした。
「お姉ちゃんが、おじちゃんと結婚してくれたらいいのに」
「ちょ、まお! 何を言ってるんだ!」
「ずっとこのままがいいなあ……」
俺と増田さんは、二人とも顔が赤くなった。慌ててケーキの話題に話をそらしたが、心臓はまだうるさいままだ。三人でバースデーソングを歌い、まおがろうそくの火を吹き消した。壁に貼ってある去年の写真を見る。まおを引き取ったばかりで四歳の誕生日を迎えた時は、ただがむしゃらだった。あの時もまおは笑っていたけれど、今日は飛び切りの笑顔だ。増田さんが来てくれたおかげで、今年の誕生日はとても温かく、華やかになった。
次の日、俺は増田さんを廊下に呼び出して、お礼に三人で食事に行きたいと伝えた。彼女は「私の方がまおちゃんと会えて嬉しかったから、気を使わないでください」と言ったが、結局お言葉に甘えて、翌週三人でグリーンファームに行くことになった。うさぎの赤ちゃんと触れ合ったり、牛の搾乳体験ができるから、まおが喜ぶだろうと増田さんが提案してくれたのだ。夜は近くのレストランで食事をしたが、はしゃぎ疲れたまおはデザートを食べながら眠ってしまった。増田さんにもたれかかるようにして。
「まおちゃんの寝顔、可愛いですね」
「すみません、起こしますね」
「大丈夫ですよ。せっかく気持ちよく寝てるんだから、かわいそうですよ。それより、今日はありがとうございます」
「こちらこそありがとうございます。お礼をしようと思っていたのに、結局まおと遊んでもらっちゃって、申し訳ありません」
「私、神谷さんたちと一緒にいるのが、心地いいんです。実家ではいつも家族と一緒にいたのに、大学に進学してからは一人暮らしだったから、寂しかったんですよ。友達を作るのは苦手なんだけど、二人といると、実家に帰ったような安心感が得られるんです」
「うちでよければ、いつでも来てください。俺たちは大歓迎ですから」
それから増田さんは、本当に週に一度は家に来るようになった。彼女の影響で、俺も苦手だった料理に挑戦し始めた。レシピ本を読み、スマホで簡単な料理のノウハウを学び、少しずつ手作りの食事を振る舞えるようになった。
「神谷さん、美味しいです」
「美味しいでしょ? おじちゃん、ずっと頑張って練習してるんだよ」
「お姉ちゃんは、おじちゃんと結婚するの?」
まおの突然の質問に、またしても空気が凍った。
「だって、まおはお姉ちゃんにママになって欲しいんだもん。そしたら、三人でご飯食べられるんだもん」
「そんなことないわよ。まおちゃんが私の子供なら、すごく嬉しいわ」
「じゃあ、なんでおじちゃんと結婚しないの?」
「ちょ、まお、もうこの話はおしまいにしような」
心のどこかで、何度も思ったことはある。増田さんが奥さんになってくれたら、どんなに幸せか。だけど俺は子持ちだ。子供がいない男の人と結婚した方が、彼女は幸せになれるはずだ。そう言い聞かせていた。
そんなある日の帰り道、偶然増田さんと一緒になったので、勇気を出して聞いてみた。
「増田さん、俺たちによくしてくれるのは嬉しいけど、彼氏とかが寂しがってるんじゃないですか?」
「そんな人、いませんよ。でも、私好きな人がいるんです」
「ああ、やっぱり好きな人くらいはいるよな」
「神谷さんは、彼女とかいないんですか?」
「いるわけないでしょう。子持ちの上に、何の取り柄もない俺に」
「そんなことないです。神谷さんは優しいし、包容力があるじゃないですか」
まさか、その好きな人が俺だなんて、その時は思ってもみなかった。
数日後、思い詰めた様子の増田さんから呼び出された。
「神谷さん、今週末、お時間ありますか? まおちゃんにも、話しておきたいことがあるんです」
「大丈夫ですけど、急に改まって、どうしたんですか?」
「実は、転勤の話が出てまして。所長に昇進できるようなんです」
その言葉に、俺の心は複雑に揺れた。彼女のためなら、その方がいいに決まっている。子持ちの男と一緒にいるより、キャリアを選ぶべきだ。そう思った。週末、三人で集まって話すことにした。まおに、お姉ちゃんが大切なお話があると言って聞いてほしいと伝えた。
「まおちゃん、ごめんね。お姉ちゃんね、お仕事で遠くに行くかもしれないの」
「え、お姉ちゃんともう会えないの? 寂しいなあ」
「まおちゃんは、本当に私がママになってもいい?」
「うん! だって、お姉ちゃんがママになったら嬉しいもん」
「それでね、三人で一緒に遊びに行ってご飯を食べて、あと弟か妹ができたら、一緒に遊んであげるの」
「そう、それは嬉しいわ。ありがとう、まおちゃん」
まおは何も分かっていない。いや、分かっているのは俺の方が馬鹿だった。増田さんが言いたいことは、はっきりしていた。
「神谷さん。私はこの一週間ずっと考えていたの。転勤の話を聞いた時、全く嬉しくなかった。神谷さんとまおちゃんと一緒にいる、この場所が本当に居心地よくて。私、好きな人がいるって言ったでしょう。それは、神谷さんのことですよ。転勤に乗り気じゃなかったのも、神谷さんたちと離れたくなかったからです。だから、みんなで幸せになりたい。それじゃあダメですか?」
「……そんなことない。ありがとう。増田さんの意思が硬いなら、全力で、あなたを幸せにします」
数ヶ月後、俺とまおは香織の両親に挨拶に行った。俺の両親は驚いたが、それと同時に心底喜んでくれた。彼女の両親には反対されるだろうと思っていた。子持ちだし、彼女より役職は低いから。でも、彼女の両親はそんなことを気にする様子もなく、温かく歓迎してくれた。これで最大の難関はクリアだと思ったが、香織は不安な表情をしていた。
「かおさん、どうしたの?」
「あの、私、男性経験がなくて、すごく不安なの」
「それは俺も同じだよ。俺はあなたがとても大切なんだ。だから、あなたの不安がなくなるまで、いくらでも待つよ」
「かつきさん、ありがとう。そんなあなただから、私はずっと一緒にいたいと思ったの。かつきさん、大好きよ」
「俺も、愛してるよ」
今、俺と香織、そしてまおの三人で暮らしている。俺とまおの二人だけの時は、食事もコンビニ弁当で、会話も少なく、面白みのない毎日だった。だが今は違う。料理も香織と一緒に作るし、会話も弾む。香織の存在が、生活に色を添えた。そして来年には、新しい家族が加わる。まだ性別は分からないけれど、まおは姉になるのが楽しみで仕方ないらしく、毎日香織のお腹に手を当てて話しかけている。香織のおかげで、俺とまおはようやく家族の形を手に入れることができた。そんな中で、新しい家族を迎えるのが、心から楽しみだ。



