父の誕生日を祝うために親戚が集まることになった。場所は都内の高級フレンチレストラン、メゾンドール。入り口で予約名を伝えると、奥の個室へ案内された。すでに義兄の秋葉と義姉が席についている。私が入り口に立った瞬間、義兄の視線がこちらを捉えた。
「ここは家族専用の席だ。養女は別のテーブルで。」
その言葉を聞いた三人は一斉に笑い出した。秋葉は口元を手で押さえながら肩を震わせ、義姉は顔を背けて吹き出している。紙袋を握る指先に力が入り、爪が手のひらに食い込むような痛みが走る。胸の奥で何かが沈んでいくのを感じながら、私は唇を噛んで耐えた。込み上げてくる感情が悔しさなのか悲しさなのか、自分でも判別がつかなかった。
養女として稲田に生きてきた長い年月を否定されるような感覚が、私の胸を締め上げる。
私の名前は稲田きよ子。今年で五十八歳になった。父の誠と二人で暮らしている。個人院から養女として引き取られたのは五歳の時だ。あの日のことは今でもはっきりと覚えている。大きな手で頭を撫でてくれた父の温かさ。初めて自分の部屋をもらった時の胸の高鳴り。「今日からお前は俺の娘だ」という力強い言葉。あの日から彼は私にとって本当の父親になったのだ。
朝五時の目覚まし時計が、まだ薄暗い寝室に鋭い音を響かせる。私は布団の中で一瞬身をすくめてから、慣れた手つきでアラームを止めて静かに起き上がる。隣の部屋から父の穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。八十五歳を迎えた父は最近めっきり足腰が弱くなり、夜中にトイレへ立つ回数も増えていた。毎朝父が安らかに眠っていることを確認してから台所に向かうのが日課になっている。
台所に立ち、米をといで炊飯器のスイッチを入れる。味噌汁の準備に取りかかり、豆腐と油揚げ、それに父の好きなワカメを加える。父の血圧が高めだと医者に指摘されてからは、塩分を控えた味付けを心がけてきた。朝食の支度を整え終えた頃、階段をゆっくりと降りてくる足音が聞こえる。
「おはよう、きよこ。」
杖をつきながら食卓に腰を下ろした父は、白髪の間から覗く穏やかな目元で私を見つめた。かつては建設現場で鳴らした頑健な体も、八十五年の歳月には勝てず、背中はすっかり丸くなっている。それでも茶碗を包む手つきや箸の使い方はきちんとしていて、どこか昔の面影を感じさせた。
「お父さん、今日は少し肌寒いから味噌汁を多めに作りましたよ。」
「ありがたいな。お前の味噌汁が一番うまい。」
親子二人だけの静かな朝食風景は、この家の日常そのものだ。稲田には私の他にも子供がいた。義姉にあたる長女の澄恵は六十四歳で、三十年以上前に霧谷家へ嫁いでいる。義兄にあたる長男の正志は六十二歳で、稲田建設の関連会社で課長を務めていた。二人とも出て行ってからは、ほとんど正月くらいしか顔を見せず、父の日常的な世話は全て私が担っている。
朝食を済ませ、父の薬を準備し、洗い物を片付けると、私は自転車に乗って惣菜屋へ向かった。片道二十分ほどの道のりを、朝の冷たい空気を受けながら走る。惣菜屋ひまわりは地元で三十年続く店で、私がここに勤め始めて十五年になる。唐揚げ、煮物、ポテトサラダ、きんぴらごぼう。近所の主婦や一人暮らしの高齢者が「ここの惣菜があるから助かるわ」と口を揃えるほど、素朴で丁寧な味が評判の店だ。
開店準備を始めると、同僚の孝子がエプロンを締めながら入ってきた。
「おはよう、きよこさん。今日は唐揚げ百個の予約が入ってるわよ。近所の町内会の集まりらしいの。」
「百個ね。でも下味は昨日のうちにつけてあるから、揚げるだけでしょう。大丈夫よ。」
孝子は五十六歳で私より二つ年下の気さくな女性だ。夫を五年前に病で亡くし、一人息子と二人で暮らしている。境遇は違うけれど、私の苦労をよく理解してくれる。互いの家庭の事情を知り尽くした仲だからこそ、言葉にしなくても通じ合うものがあった。
厨房に並んで立ち、大量の唐揚げを揚げていく作業は単調だが、私にとっては心が落ち着く時間でもある。油の温度を確かめ、鶏肉を一つずつ丁寧に沈めていく。狐色に揚がった唐揚げをバットに並べると、小さな達成感が胸に広がった。
「そういえば、お兄さんたちとは最近どう? まだ何か言われてるの? 」
孝子がふと話題を変えた。私の手が一瞬止まる。孝子は私が養女であること、そして兄や義姉から長年に渡って辛い扱いを受けていることを知っている。職場の中で私がその話をできるのは孝子だけだった。二年前の忘年会でつい本音がこぼれたのがきっかけで、それ以来孝子は折に触れて私を気にかけてくれている。
「まあ、いつも通りよ。顔を合わせるたびに同じことの繰り返し。正月に会った時も正志兄さんに散々言われたわ。」
あの正月の集まりは、思い出すだけで胸が締めつけられる。義兄は酒が入ると決まって私に絡んできた。「養女のくせに偉そうにするな。お前は俺たちとは違う。」義姉も同調し、義兄の妻の秋葉に至っては露骨にブランド品を見せつけながら「あなたには縁のないものでしょうけど」と笑う。
「ひどいわね。お父さんはそういう時、何も言わないの? 」
「父は最近、集まりの途中で疲れて横になることが多くて。正志さんたちも、父がいない時を狙って言ってくるのよ。」
私は菜箸で唐揚げをひっくり返しながら、小さくため息をついた。
養女として稲田に迎えられてから半世紀以上。父の愛情だけが支えだったと言っても過言ではない。義兄も義姉も、私が小学校に上がる前から血のつながらない子として扱ってきた。大人になってからもその態度は一向に変わらない。しかし私自身は、その境遇を恨んだことはなかった。個人院にいた頃の寂しさを思えば、たとえ義兄や義姉に蔑まれようとも、父に愛され温かい家で育ててもらえたことへの感謝が勝る。
惣菜屋で地道に働き、父の介護をしながら穏やかに暮らす毎日は、私にとってかけがえのないものだった。贅沢は何ひとつできないけれど、父と二人で食卓を囲み、季節の移り変わりを感じながら暮らしていく。それだけで十分だと、私は心から思っていた。
午前中の客足がひと段落した昼下がり。家では父が一人で留守番をしているため、昼をちゃんと食べたか確認するのが習慣になっている。バックヤードの小さな電話台に腰を下ろし、自宅へ電話を入れた。
「心配するな。ちゃんとお前が作ってくれた煮物を温めて食べたぞ。美味しかったよ。」
「よかった。夕方には帰りますから、無理しないでくださいね。」
電話を切ると、自分の表情が少しだけ柔らいだのが分かった。父の声を聞くだけで、張り詰めていたものが解けていくのを感じる。この穏やかな日々が、ずっと続けばいい。私はそう願いながら午後の仕込みに取りかかった。
惣菜屋の閉店作業を終え、夕暮れの商店街を自転車で走る。エプロンのポケットに入れていたスマートフォンが振動し、画面を見ると稲田正志の文字が浮かんでいた。私は自転車を止め、商店街の角にある電柱の前で深呼吸をしてから電話に出た。義兄から直接連絡が来ること自体珍しく、大抵は何か面倒な用事を押し付けられる前触れだ。体が反射的に強張るのを感じた。
「おお、きよこか。来月の十五日、空けとけ。」
挨拶もなく要件だけを告げてくる口調は、いつもの義兄そのものだ。私は自転車のハンドルを握ったまま、小さく眉をひそめた。
「何かあるんですか?

」
「何かって、親父の八十五の誕生日だろうが。忘れたのか。親戚みんな集まって食事会をやるんだよ。場所は銀座の高級フレンチだ。」
その言葉に私は少なからず驚いた。いつもの稲田の集まりと言えば、父の自宅か近所の料理屋が定番だ。わざわざ銀座まで足を運ぶことなど、これまで一度もなかった。
「俺が全部手配してやったんだ。店の名前はメゾンドール。予約は八名で取ってある。お前も来いよ。まさか親父の誕生日に顔も出さないなんて言わないよな。」
言葉の端々に、有無を言わせない圧力が滲んでいる。義兄が自分の功績を誇示したいだけなのだろう。私にはその計算が手に取るように分かった。
「分かりました。お父さんの誕生日ですから、もちろん出席します。」
「澄恵にも声をかけてある。恥ずかしい真似はするなよ。あと当日はちゃんとした格好して来いよな。恥ずかしいから、惣菜屋の油臭い服で来るのはやめてくれ。」
私は唇を閉じたまま、声を出さずに頷いた。スマホを持つ手がかすかに震えているのを、もう片方の手でそっと抑える。義兄の「恥ずかしい」という言葉には、常に私への軽蔑が含まれている。養女であること自体が恥と言わんばかりの口調を、何十年も聞き続けてきたのだ。
一方的に用事を言い放つと、義兄は返事も待たずに電話を切った。夕焼けに染まる空を見上げる。父の誕生日を祝えること自体は嬉しいけれど、義兄夫婦や義姉と同じ空間で食事をすることを考えると、胃の奥がキリキリと痛み、不安が込み上げてくる。
帰宅すると、父は居間のテレビの前でソファに腰かけていた。時代劇の再放送が流れている。父の穏やかな横顔を見るだけで、緊張で強張っていた肩の力が少し抜ける。
「おう、お帰り。正志から電話があっただろう。誕生日の食事会のことだ。」
「ええ、聞きました。銀座のフレンチだそうですね。」
父はリモコンでテレビの音量を下げ、少し困ったような顔で苦笑した。
「おう。本当は静かに過ごしたかったんだがな。正志が勝手に決めてしまったんだ。」
その表情を見て、食事会の手配が義兄の独断で、父の望みには背いているということを改めて悟る。父自身は派手な祝い事を好まない人間で、本当なら私と二人で穏やかに過ごす方がよほど性に合っているはずだった。実際、去年の誕生日は私の手料理を囲んで二人きりで祝ったのだ。賑やかではなかったけれど、穏やかでいい思い出だ。
食事会の日が近づくにつれ、私の心は揺れ動いていた。惣菜屋の厨房で黙々とコロッケの種を丸めながらも、頭の中では正月の集まりでの出来事が何度も再生される。今年の正月、義兄は居間の上座に陣取り、日本酒を片手に大声で笑っていた。おせち料理を作ったのは私で、朝から台所に立ち続けて煮物、伊達巻き、黒豆、筑前煮と十五品以上を準備した。その隣で秋葉がブランドの紙袋をこれ見よがしにテーブルの上に並べ、「これ限定品なのよ」と自慢の蓋を開けて見せる。私が台所から煮物の大皿を運んできた時、酔いの回った赤い顔でこちらを見据えていた義兄が、冷たい口調で声をかけてきた。
「お前さ、自分がどういう立場か分かってるよな。俺たちは血のつながった家族だ。だが、お前は違う。」
秋葉が鼻で笑い、義姉が「そうそう。勘違いされちゃ困るわ」と追い打ちをかける。父は奥の部屋で横になっており、その場にはいなかった。私は煮物の皿を食卓に置く手が震えるのを必死にこらえ、何も言い返せないまま台所へ戻った。その背中に向かって義兄が投げつけた言葉は、半年近く経った今でも胸の奥に棘のように刺さっている。
「養女ってのは所詮、他人だからな。」
あの時の屈辱がまた繰り返されるのではないか。銀座の高級フレンチという場所で、親戚の前でもっとひどいことを言われるのではないか。義兄は人が集まると悪辣さがエスカレートする質がある。酒が入ればなおさらだ。いつものように義姉も秋葉も義兄の暴言に便乗して嫌味を重ねてくるだろう。三人が揃うと、私への攻撃は相乗効果のように膨れ上がっていくのだ。
不安に駆られ、コロッケの種を握る指先に無意識に力が入り、形が歪んでしまった。
「きよこさん、そのコロッケ、ちょっと力入りすぎじゃない? 」
隣で天ぷらの衣を作っていた孝子が、心配そうな目を向けてきた。私は慌ててコロッケの形を整え直しながら、口元だけで曖昧に笑って見せる。
「ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてたわ。」
孝子は菜箸を置き、エプロンの裾で手を拭いた。
「嘘おっしゃい。ここ何日かずっと元気ないじゃない。食事会のこと、まだ悩んでるんでしょ。」
私は観念したように小さく頷いた。先日食事会の話を孝子にした時、「行きたくない」とは言えなかったのだ。父の誕生日を祝いたい気持ちは本物だからこそ、義兄たちへの恐れとの間で板挟みになっている自分が情けない。
「正志兄さんたちに会うのが怖いの。また何を言われるか分からないし。銀座なんて間違いない場所で恥をかかされるんじゃないかって考えるだけで、胃が痛くなるのよ。」
「それは確かに心配よね。でもね、きよこさんが行かなかったら、お父さんはきっと寂しいと思うわ。だって、一番そばで支えてくれてる娘が誕生日にいないんだもの。それにお兄さんたちが何を言おうと、あなたのお父さんはあなたの味方よ。それだけは間違いないでしょ。」
その言葉が私の胸に深く染み込んでいく。父は毎日のように「お前がいてくれて助かる」と言ってくれる。朝食の味噌汁を「美味しい」と言い、夜は私が編み物をする傍らで穏やかにテレビを見ている。あの優しい父の八十五歳の誕生日に、自分だけがいないなんてことがあっていいはずがない。
その夜、私は夕食の片付けを終えた後、居間でいつものように編み物を始めた。父の誕生日に送るつもりで一ヶ月前から少しずつ編み進めていた紺のマフラーが、ようやく完成に近づいている。毛糸は惣菜屋の帰りに商店街の手芸店で選んだもので、上質なウールの風合いが指先に心地よかった。
「まだ編んでるのか。目が疲れるから早く寝ろよ。」
テレビのニュースを見ていた父が、老眼鏡越しにこちらを見上げた。私は毛糸を解しながら口元を緩める。
「もう少しで終わるから大丈夫です。お父さんこそ夜更かしは体に毒ですよ。」
「お前に言われると、ぐうの音も出んな。」
父は笑いながらソファの背もたれに身を預けた。テレビの音量を少し下げると、穏やかな沈黙が部屋を包む。私はマフラーの編み目を一つ一つ確かめながら、幼い頃のことを思い出していた。孤児院から引き取られたばかりの五歳の冬。何もかもが怖くて泣いてばかりいた私を、父は毎晩のように寝室まで来ては背中をさすってくれた。「明日はもっといい日になるぞ」と支えてくれた声が、今も耳の奥に残っている。あの朝から始まった二人の食卓は、今日までずっと途切れることなく続いてきた。
マフラーの最後の一目を編み終えると、私は毛糸を切り、丁寧に始末をした。手に取って広げてみると、深い紺の生地に銀色のラインが一本入った落ち着いた仕上がりになっている。何度もほどいて編み直した箇所もあるけれど、その分だけ思いが込められているのだ。父の白髪にきっと似合うだろう。
「お父さん。食事会、楽しみにしていてくださいね。私、ちゃんと行きますから。」
「当たり前だ。お前が来なかったら、誕生日の意味がない。」
父の言葉はさりげないけれど、そこに込められた思いの深さを私は知っている。義兄がどんな態度を取ろうと、義姉や秋葉がどんな嫌味を口にしようと、私は父のために誕生日の席に座るのだ。完成したマフラーを丁寧に紙袋にしまいながら、静かに決意を固めた。もう迷わない。これは父の誕生日なのだから。
食事会の前日、惣菜屋の閉店作業を終えた私と孝子は、店の裏口に並んで腰を下ろしていた。夕方の風が商店街を吹き抜け、どこかの店から焼き鳥の匂いが漂ってくる。自動販売機で買った缶コーヒーが、二人の手の中で白い湯気を立てていた。
「明日でしょ? 食事会。準備は大丈夫? 」
「ええ、手持ちの中で一番無難な紺のワンピースを出して、アイロンをかけたわ。十年以上前に買ったものだけど、まだ着られるから。プレゼントのマフラーも包装してあるし。」
孝子は缶コーヒーを一口飲み、私の方にそっと体を寄せた。
「きよこさん、一つだけ言わせて。」
私は静かに頷いた。孝子の目が、いつもの柔らかさとは違う真剣な色を帯びている。
「明日、何を言われても、絶対に自分を卑下しちゃだめよ。あなたは養女だからどうとか、関係ない。八十五年間生きてきたお父さんが一番大切にしている娘があなただっていう事実は、誰にも覆せないんだから。」
孝子はさらに続ける。
「私の亡くなった主人がよく言ってたの。家族ってのは血じゃない。心だって。主人はね、実の父と折り合いが悪い人だったけど、血のつながった息子より、義理である自分の方がよっぽど尽くしたって胸を張ってたわ。あなたとお父さんの絆を見てると、本当にそう思うの。」
亡き夫との思い出を語る孝子の声は穏やかだが、そこには揺るぎない確信が込められている。五年前に夫を亡くし、一人息子を育てながら惣菜屋で働く孝子は、誰よりも家族の形について考えてきた人間なのだろう。彼女の言葉を聞き、目頭がじわりと熱くなった。私は日々の仕事に追われる中で、自分の存在価値を見失いかけていた。義兄や義姉の言葉が棘のように心に突き刺さり、いつの間にか「養女なんだから」と自分に言い聞かせる癖がついてしまっていたことに気づく。
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強いわ。」
「私はいつでもあなたの味方よ。明日、胸を張っていってきなさい。何があっても、月曜日にはここで待ってるから。」
夕焼けが商店街のシャッターをオレンジ色に染めていく中、私は小さく頷いた。明日はきっと辛いことがある。それでも父のそばにいたい。その気持ちだけは、誰にも奪われたくなかった。
食事会の当日は、十一月にしては温かい穏やかな日和だった。私は朝の支度を終えてから、クローゼットの奥にしまってあった紺のワンピースを取り出した。薄手のカーディガンを羽織り、鏡の前で何度も襟元を直す。年に数回しか着ないよそ行きの服は、どうにも体に馴染まない。少し遅れてくるという父にもう一度店への道を伝えてから、家を出た。父へのプレゼントの紙袋を抱え、地下鉄に乗り込む。車窓に映る自分の顔は強張っていた。
表参道の駅を出ると、欅並木が秋の陽光を受けて金色に輝いていた。地図を確かめながら裏通りに入り、目的地の前で立ち止まる。都内の高級フレンチレストラン、メゾンドールは、一軒家を改装した隠れ家のような佇まいだった。白い漆喰の壁に蔦が絡まり、アイアンの門扉の奥にはアプローチの石畳が続いている。門柱には控えめな金文字で店名が刻まれ、一輪のバラが添えられていた。
私はこの手の店に足を踏み入れたことがない。惣菜屋のパート仲間と行くのはファミレスか定食屋で、一食に千円以上かけることすら珍しい生活だった。門扉の横にはランチの小さな看板が置いてあり、コース料理の最低価格が一人一万五千円と記されている。間違いない場所だと自分を戒めるように、私は周囲を見回してから門をくぐった。アプローチの石畳を歩く自分の靴音が、妙に大きく響いた気がした。
ドアの前で一度深呼吸をしてから、真鍮の取っ手に手をかける。重い木製のドアを押し開けると、柔らかな照明とクラシック音楽が迎えてくれた。天井の高い店内には白いクロスのかかったテーブルが並び、銀食器がシャンデリアの光を静かに反射している。思わず足がすくみそうになったが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。入り口でスタッフに予約名を伝えると、スタッフは予約台帳に目を落とし、穏やかに頷いた。奥の個室に案内されると、すでに義兄、秋葉、義姉が席についていた。テーブルの上にはワイングラスが並び、義兄は赤い顔でグラスを傾けている。
私が入り口に立った瞬間、義兄の視線がこちらを捉えた。
「おお、来たか。」
声には歓迎の色など微塵もない。すでにテーブルの上には食前のシャンパンが並んでおり、義兄たちは私が来る前から飲み始めていたようだ。秋葉がちらりと私を見て鼻で笑う。今日もまたブランド品のスカーフを首に巻き、指先にはダイヤの指輪が光っていた。義姉は目も合わせようとせず、メニューに視線を落としたまま水を飲んでいる。私は「こんにちは」と挨拶をしたが、返事をした者はいなかった。まるで見えない壁があるかのように、私の言葉は誰にも届かずに個室の天井に吸い込まれていく。
紙袋を胸に抱え直し、大テーブルの端にある空席に向かおうとした。
「おいおい、どこに座るつもりだ?
」
義兄がグラスをテーブルに置き、椅子の背もたれに体重をかけて振り返った。大きな声で笑いながら、個室の隅にある小さな二人がけのテーブルを指さす。あれは本来、荷物やコートを置くために用意された補助テーブルだろう。
「ここは家族専用の席だ。養女は、別のテーブルで。」
その言葉を聞いた三人は一斉に笑い出した。秋葉は口元を手で押さえながら肩を震わせ、義姉は顔を背けて吹き出している。個室の中に下品な笑い声が反響し、壁際の花瓶の百合がかすかに揺れる。私は足が止まった。紙袋を握る指先に力が入り、爪が手のひらに食い込むような痛みが走る。胸の奥で何かが沈んでいくのを感じながらも、私は唇を噛んで耐えた。ここで言い返せば、父の誕生日が台無しになる。
「分かりました。」
小さな声で答え、私は隅のテーブルに腰を下ろした。大テーブルからは三メートルほど離れていて、壁際の観葉植物に半分隠れるような位置だった。椅子は硬く、クロスもかかっていない。ナイフやフォークも置かれておらず、テーブルの上には何もない。大テーブルの華やかさとの落差が、私の胸をえぐるように痛めた。紙袋を膝の上に置き、背筋を伸ばして座った。孝子の言葉を思い出す。「胸を張っていってきなさい。」今の自分は胸を張れているだろうか。答えは出なかったが、少なくとも逃げてはいなかった。
「あら、素直で助かるわ。やっぱり養女は弁えてるのね。」
「弁えてるっていうか、元から家族じゃないんだから、当然でしょ。」
義姉と秋葉の言葉が耳に届くたび、私の胸は鋭い棘が刺さるように痛んだ。しかし私は膝の上で拳を握りしめたまま、正面を見据えて動かなかった。
義兄がスタッフを呼び、革張りのメニューを広げた。金の箔押しがされた分厚いワインリストを慣れた手つきでめくり、一本五万円のブルゴーニュの赤を指で差す。迷うそぶりもなく二本注文し、さらにシャンパンの追加も頼んだ。五万円が二本で十万円。私の半月分の給与に相当する金額が、ワインだけで消えていく。
父が遅れることを伝えると、義兄は料理の注文を始めた。主役である父が来る前に食事を始めようとする姿勢には、言葉も出なかった。前菜にはフォアグラのテリーヌとキャビアのプリントリフ、コンソメスープ。メインにはオマールエビのロティとシャトーブリアンステーキ。値段を確認するそぶりも見せず、義兄は次々と高額な料理を注文していく。当然のように、私の分は注文の数から外されていた。
「これも追加で。デザートは全種類くれ。」
注文するたびに秋葉は嬉しそうに手を叩く。義姉がメニューの端を指で叩きながら「チーズの盛り合わせもちょうだい」と注文を追加した。メニューの価格欄は、私が日頃買い物をするスーパーのチラシとは桁が二つ違う世界だ。惣菜屋で一パック三百円のコロッケを黙々と揚げている毎日とは、まったく別の次元の空間に自分はいる。義兄たちが一口で食べるフォアグラの値段が、私の一日分の食費を超えているのだ。その事実が、隅のテーブルに座る自分の存在を一層小さく感じさせた。
スタッフは「かしこまりました」と繰り返しながらも、一瞬だけ隅のテーブルに座る私の方に視線を送った。何か注文はないかと聞きたげな表情だったが、義兄の「全部こっちのテーブルに持ってきてくれ」という一言で、私は完全に注文の外に置かれる。個室の隅で一人座る私の存在を、義兄は意図的に無視している。いや、無視しているのではない。私がそこにいることを十分に意識した上で、見せつけるように贅沢を重ねているのだ。
「あなた、こんなに頼んで大丈夫なの? 」
「いいんだよ。親父の誕生日だからな。俺が幹事なんだから、好きに頼め。」
義兄は得意げに胸を張った。この食事会の段取りは全て自分が仕切っていると、信じて疑っていない。予約の電話も店の手配も全て自分の手柄だと思い込んでいるのだろう。でも私だけは知っている。レストランの予約確認のメールは父の名前で届いていたこと。父が先週の夕食時に「予約は済ませたからな」とぽつりと口にしていたこと。
「ねえ、正志。あっちのテーブルにもメニュー持っていってあげたら。」
義姉が私の方を顎でしゃくった。からかうような口調に、義兄は手をヒラヒラと振る。
「いらないだろ。養女にフレンチなんて、猫に小判だ。」
笑い声が再び個室を満たした。私のテーブルには、水すら運ばれてこない。スタッフが水を持ってこようとしたが、義兄が「あっちはいい」と手で追い払ったのだ。料理は次々と運ばれてきた。義兄たちは歓声をあげながら次々にフォークを伸ばしていく。秋葉はスマートフォンで料理の写真を撮り、SNSに投稿しているようだった。「主人が予約してくれた高級フレンチ」とつぶやきながら指を動かしている。義兄が「おい、俺も一緒に撮れ」と言い、秋葉と二人で自撮りをする光景が私の目に入った。
私は硬いテーブルに両手を置いたまま、じっとしていた。壁際に置かれた椅子は硬く、背もたれに体重をかけるときしむ音がする。大テーブルから漂ってくる料理の香りだけが、嫌でも鼻先に届く。空腹で胃がキリキリと痛むのを、テーブルの下で腹を押さえて必死にごまかす。喉も乾いていた。水の一杯すら出されない状況が、じわじわと体から力を奪っていく。
「このフォアグラ、すっごく美味しいわ。ねえ、あなた食べた? 」
「うん。こういう本物の味を一緒に楽しめるのは、やっぱり血のつながった家族よね。」
義姉と秋葉はわざと大きな声で話しながら、チラチラと私を見る。私の悔しがる様子を楽しむかのように、秋葉はワイングラスを優雅に持ち上げて一口含んだ。
食事が後半に差しかかった頃、義兄の携帯電話が鳴った。画面を見て「親父だ」と言い、ワイングラスをテーブルに置いて電話に出る。短いやり取りの後、義兄は電話を切って首をかしげた。
「親父、遅れるってさ。病院の検診が長引いてるとか言ってたぞ。」
「あら、大丈夫かしら? 」
「大丈夫だろう。毎月の定期検診だし。年寄りは検査に時間がかかるんだよ。」
私は心の中で違和感を覚えた。父の定期検診は先週終わったばかりだ。毎月第一水曜日に決まった病院へ通っているのだが、今日は第二土曜日だった。検診というのは嘘かもしれないけれど、父が嘘をつく理由が分からず、私はそのまま黙っていた。
食事が終わりに近づいた頃、義兄がスタッフに手を上げた。指を鳴らすような傲慢な仕草で会計を催促する。テーブルの上にはデザートの空皿とエスプレッソカップが散乱していた。
「おい、お勘定頼むわ。」
スタッフが黒い革のフォルダーに請求書を挟んで持ってきた。義兄はそれを受け取り、中身をちらりと見る。この二時間で注文した品々の合計が、そこに記されていた。義兄は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに薄笑いを浮かべた。
「おい、これ、あっちのテーブルに持っていけ。」
義兄は私の方を顎で示した。スタッフは困惑の色を隠せない表情を浮かべていたが、客の指示には逆らえず、黒いフォルダーを私の小さなテーブルに運んでくる。開くと中には三十一万四千八百円の請求書が入っていた。その数字を見た瞬間、目の前が真っ白になった。月収二十万のパート勤務で三十一万など払えるはずがない。請求書を持つ手が細かく震え始め、紙の端がかすかな音を立てた。ページの上に並ぶ品目と金額が、まるで自分への判決文のように感じられる。
「養女なんだから、恩返ししろよ。五十年以上も稲田にぶら下がってきたんだ。これくらい当然だろう。」
義兄は椅子の背もたれに体を預け、足を組んで余裕たっぷりに私を見つめていた。その傲慢な姿勢に、秋葉が便乗するように身を乗り出す。
「ただで育ててもらったんだから、当然でしょ。感謝の気持ちを形で示しなさいよ。」
二人の言葉が耳の奥で反響する。私は請求書の数字から目を離せなかった。自分は水の一杯すら飲んでいないのに、この場にいた全員分の贅沢の代金を一人で背負わされようとしている。惣菜屋で一日中揚げ物して汗だくになって働いて手にする日給は八千円。三十一万を稼ぐには四十日近くかかる。目の前の人間たちがわずか二時間で消費した金額を、私は四十日間汗を流し続けなければ手にできない。
「まさか払えないとか言わないよな。養女のくせに。育ててもらった恩を返すチャンスじゃないか。ありがたく思いなさいよ。」
義姉はナプキンで口元を拭いながら、まるで当然のことを述べるような口調で言った。恩返しという言葉を自分たちの暴食の代金に使う傲慢さに、吐き気すら覚える。私は唇を開いたが、声にならなかった。
「私にはそんなお金、ありません。」
か細い声がやっと出た。義兄が大げさに両手を広げて「はっ」と声をあげる。秋葉は呆れたように首を振り、義姉は腕を組んで冷たい視線を投げかけた。個室の空気が凍りつく中、シャンデリアの光だけが何事もなかったかのように降り注いでいる。
「払えない?
冗談だろ。五十三年間、飯食わせてもらって、学校にも通わせてもらって、それで三十一万も払えないのか。どんだけ感謝がないんだよ。」
義兄は薄笑いを浮かべながら椅子の肘掛けを叩いた。まるで法廷で判決を下す裁判官のような態度だ。自分は一銭も出す気がないくせに、私の経済力を侮蔑し、払えないことを嘲笑っている。
「そもそも、なんでこの人はこの場にいるの? 家族の食事会なんだから、本当の家族だけでいいのに。」
「お父さんが可哀想だと思って呼んであげたんでしょうけど、恩返しもできないんじゃね。」
秋葉がワイングラスを片手に首をかしげて見せた。わざとらしい声は、私に聞かせるためのものだ。
「まあ、そう言わないであげてよ。惣菜屋のパートじゃ三十一万は無理よね。月のお給料より高いんですもの。」
義姉の言葉は、慰めのふりをした棘だった。私の収入を正確に把握した上で三十一万の請求書を突きつける。計画的な嫌がらせだと気づいても、私にはそれを口にする気力が残っていなかった。
「大体、親父の面倒を見てるのだって、結局は財産が目当てだろ。介護してればいくらかもらえると思ってるんだ。見えてんだよ。」
「そんなことは考えていません。お父さんの介護は当然のことです。」
私の声は細かく震えていたが、それでも精一杯の反論を口にした。顔をあげて義兄を見返すと、義兄は嘲るような顔で唇の端を歪めた。
「何が当然だ。血のつながってないお前が介護する義務なんて、どこにもないだろう。義務もないのにやってるってことは、見返りを期待してるってことじゃないか。」
「そうよ、そうよ。」と秋葉が相槌を打ち、義姉も頷いている。三人の言葉が四方から私を取り囲むように降り注ぎ、逃げ場を奪っていく。
「正志の言う通りよ。純粋な善意なら、相続を放棄しますって一筆書けばいいじゃない。それができないなら、やっぱり財産目当てってことでしょ。」
思わず爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走った。長年の介護を財産目当てと決めつけられたのだ。しかし私は相続など一度も考えたことがなかった。父のそばにいること自体が当たり前で、誰かに頼まれたから介護をしているわけでもない。朝の味噌汁を「うまい」と笑ってくれる父の顔が見たくて、毎朝五時に起きている。通院の付き添いも薬の管理も、全て私にとっては日常の一部であり、義務でも取引でもなかった。けれどそんな思いを義兄たちに伝えたところで、理解されることはないだろう。彼らにとっての家族とは、血のつながりこそあれ、利害で結ばれた関係でしかないのだ。
「おい、黙ってないで何か言えよ。図星だから何も言えないんだろ。」
義姉がテーブルを手のひらで叩いた。グラスが跳ね、赤ワインの染みがクロスに広がる。銀の食器がぶつかる音に、思わず体を震わせたが、声は出なかった。
秋葉は義兄の隣でスマートフォンを操作していたが、ふと思いついたようにスタッフを呼び止めた。薄笑いを浮かべながら、私のテーブルを指差す。
「すみません。お会計はあちらのお客様がまとめてお支払いになりますので、よろしくお願いしますね。大丈夫ですよ、家族の間のことですから。」
スタッフは困惑した表情で私と秋葉を交互に見たが、秋葉の有無を言わせない笑顔に押し切られた。私が口を挟む間もなく、スタッフは小さく会釈して去っていく。秋葉が勝手に宣言したことで、支払いは私の責任として強制事実化されてしまった。
義兄は満足げに頷き、ブランデーの残りを飲み干す。
「よし、話は決まりだな。じゃあ俺たちはそろそろ行くか。」
ナプキンをテーブルに無造作に放り投げ、椅子を引いて立ち上がる。秋葉もコンパクトを閉じてバッグにしまい、席を立つ準備を始める。義姉はすでにコートの袖に腕を通していた。このまま三人が帰れば、私は一人で三十一万の請求書と向き合うことになる。財布の中身は交通費と合わせても一万円に満たない。カードの限度額では到底足りない。貯金を全て崩しても、来月の家賃と光熱費が払えなくなる。父の薬代にも困るだろう。
「待ってください。」
私の声に義兄たちが動きを止めた。わずかに驚いたような表情を見せたのは、養女が声をあげるとは予想していなかったからだろう。私は膝の震えをこらえながら、背筋を伸ばして三人を見据えた。
「この食事会はお父さんの誕生日のためです。お父さんがまだ到着していないのに、帰るんですか? 」
義兄は鼻で笑い、腕時計に目を落とした。
「親父は遅れるって言ってただろ。いつ来るか分からないのに待ってられるか。こっちにも予定がある。」
「そうよ。お父さんが来たら、あなたが相手をしてあげればいいじゃない。それが養女の役目でしょ。」
秋葉はハンドバッグの金具を鳴らしながら、口の端だけで笑った。その嘲笑に乗じるように、義姉が畳みかけてくる。
「食事代で恩返しもできて、お父さんの面倒も見られて、一石二鳥じゃない。」
三人は顔を見合わせて笑った。私の抵抗など、彼らにとってはさしたる痛みもなかったようだ。
「それからな、きよこ。もう一つ言っておく。」
義兄は立ったまま、見下ろすような目つきで私を睨んだ。アルコールで赤くなった顔に、冷たい計算が透けて見える。
「子は所詮、他人だ。相続だって本来はお前に一銭も渡す必要はないんだよ。親父がお前に甘いのをいいことに、あんまり調子に乗るなよ。」
「あなたは稲田に置いてもらってるだけなの。それを忘れないでちょうだい。」
秋葉が最後の一撃を加えるように言い放つと、義兄は満足げに顎を引いた。
「ああ、あと親父にはちゃんと伝えておけよ。今日は楽しかったってな。はっ、お前の分の料理はなかったけどな。」
言い残して、義兄は個室の出口へ向かった。秋葉が続き、義姉も満足げに歩き出す。個室のドアが閉まり、廊下を遠ざかる足音と笑い声が次第に小さくなっていく。玄関のドアが開閉する重い音がして、ようやく完全な静けさが訪れた。
私は一人残された小さなテーブルで、三十一万四千八百円の請求書を見つめた。個室には静寂が戻る。大テーブルには食べ散らかした皿とグラスが乱雑に残されている。ナプキンは丸められ、パンくずがクロスの上に散らばっていた。空になったワインボトルが三本、無造作に並び、食べかけのデザートが白い皿の上で溶け始めている。贅沢の残骸が、宴の後の虚しさを静かに物語っていた。
一口も食べていない料理の代金を、自分が払わなければならない。私の月収一ヶ月半分が、わずか二時間の宴会で消えるのだ。空腹と疲労が同時に押し寄せ、視界がぼんやりと霞む。朝から食パン一枚しか口にしていない体が、限界を訴え始めていた。私の目から、ついに涙が一筋こぼれ落ちた。人前では絶対に泣かないと決めていたし、義兄たちの前では涙を見せなかったけれど、一人になった今、堰が切れるように感情が溢れ出すのを止められない。紙袋の中のマフラーに手を伸ばし、そっと抱きしめた。父にプレゼントを渡すこともできないまま、この場に一人取り残されたのだ。
私は財布を開いてみた。中には千円札が五枚と小銭が少し。銀行のキャッシュカードは持っているが、口座の残高は来月の家賃と父の薬代でほとんど消えてしまう。
スタッフが個室のドアを遠慮がちにノックし、会計について尋ねてきた。私は声を絞り出し「連れがまだ来ていないので、少しだけ待ってほしい」と頼んだ。スタッフは一瞬だけ同情的な目を見せたが、すぐに営業用の微笑みに戻って下がっていった。ドアが閉まると、再び静寂が個室を包む。
私は請求書から目をそらし、窓の外に視線を向けた。表参道の欅並木が秋風に葉を揺らしている。金色の葉が一枚、また一枚と舞い落ちて、歩道を淡い金色に染めていった。あの美しい並木道を歩いてこの店に来たことが、もう随分昔のことのように感じられる。五歳で稲田に来た日も、こんな秋の日だった。孤児院のバスを降りた私の手を、大きくて温かい手が握ってくれたのだ。あの日から半世紀以上、ずっと「養女」という言葉がまとわりついてきた。小学校の授業参観で同級生に「お前のお父さん、本当のお父さんじゃないんだろ」と囁かれた日。私が泣きながら家に帰ると、父は黙って頭を撫でてくれた。中学の卒業式で義兄に「お前が卒業しても、誰も嬉しくない」と吐き捨てられた。しかし父は式が終わった後、校門の前で私の写真を何枚も撮り「立派になったな」と目を細めた。その写真は今も居間の棚に飾られている。
就職して家を出ようとした時、父が「行くな」と言ってくれた。「お前が出て行ったら、この家は暗くなる。」あの言葉に甘えて、私はずっと稲田にいたのだ。結婚もしなかった。三十代の頃に一度、惣菜屋の常連客から紹介された男性と交際したことがある。穏やかで誠実な人だったが、同居している父を一人にはできないと私が告げると、相手は静かに身を引いた。義兄と義姉は好きなように生き、好きなように家を出て、好きなように帰ってきては私を踏みつけにする。父だけが、いつも私の味方でいてくれた。その父すら、今日は来ない。本当に検診が長引いているだけなのか。もしかして体調が急変したのではないか。不安が胸の底から湧き上がってくる。
私はテーブルに額を落とすようにして目を閉じた。朝自転車で走る時に頬を掠める風。惣菜屋に満ちる馴染みの油の匂い。そして家に帰れば父の穏やかな笑顔がある。そうだ。自分の居場所はあの日常の中にある。こんな場所にいるべきではなかったのだ。
もう帰ろうか。このまま席を立って、請求書を残して店を出てしまおうか。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。そんなことをすれば、義兄の「養女は非常識だ」という主張を裏付けることになる。そして何より、店にも迷惑がかかってしまう。自分はそんな無責任な人間ではないはずだ。惣菜屋で働いて十五年。一度も商品をごまかしたことはない。お客さんから余計なお金をもらったら、走って追いかけて返した。地味で目立たない人生だけれど、正直にまっすぐに生きてきたのだ。その誇りだけは、義兄夫婦にも義姉にも壊させない。
私はテーブルに残された請求書を置いたまま、化粧室へ向かった。廊下は静かで、厨房からかすかに食器の音だけが聞こえてくる。壁にかけられた小さな風景画が照明に照らされて、穏やかな色彩を放っていた。化粧室のドアを開けると、大理石の洗面台と全身鏡が迎えてくれた。こんな場所に自分がいること自体が間違いに思えて、私は視線をそらした。
洗面台の前に立ち、鏡を見上げると、そこには五十八年分の疲労が刻まれた顔があった。目尻の皺は深く、頬はやつれ、唇は血の気を失って白い。今朝丁寧に整えたはずの髪が乱れ、寝癖の跡がサイドに筋を残している。惣菜屋で働く日々を過ごしてきた手は荒れて赤く、短く切り揃えた爪も乾燥して所々割れていた。秋葉のマニキュアが光る指先とは対照的な、働く手そのものだ。
水を出して両手で救い、顔を洗った。冷たい水が肌を打つたびに、記憶の底から古い光景が浮かんでくる。五歳の秋、孤児院の先生に連れられて大きな家の門前に立った。赤い屋根の二階建て。知らない男の人が膝を折って、私の目の高さまで顔を下げてくれた。ゴツゴツした大きな手が小さな肩にそっと触れる。
「今日からお前は俺の娘だ。もう一人ぼっちじゃないぞ。」
その声の温もりを、私はずっと覚えている。孤児院では毎晩一人で布団にくるまり、天井のシミを数えながら眠った。誰にも「おやすみ」と言ってもらえない夜が、何百日も続いたものだ。でも稲田に来た最初の夜、怖い夢を見て泣いた時、父は枕元に来て頭を撫でてくれた。
「怖くない、怖くない。俺がいるから大丈夫だ。」
その手の温もりに包まれて初めて、安心して眠れた夜のことを、今でも鮮明に覚えている。父は小学校の運動会で、誰よりも大きな声で応援してくれた。徒競走でビリになっても「よく走った」と褒めてくれた。父は建設会社の社長として忙しい日々の合間を縫って、小学校、中学校の行事には必ず顔を出してくれた。義兄と義姉にしない特別な愛情を注いでくれたわけではない。ただ同じように、分け隔てなく三人の子供を育ててくれたのだ。違いがあるとすれば、義兄と義姉は父の愛情を当然のものとして受け取り、私だけがその重みを知っていたということだ。血のつながりがないからこそ、父が選んで自分を家族にしてくれたことの意味を、私は深く理解している。
高校を卒業した時、父は私の手を握って言った。
「よく頑張ったな。お前は俺の自慢の娘だ。」
あの言葉を胸に、私はこれまでの人生を歩いてきた。惣菜屋の仕事も父の介護も、全てはあの言葉が原点にある。鏡の中の自分に向かって、小さく語りかけた。
「お父さんは、私を娘だと言ってくれた。」
声は震えていたが、言葉にすることで胸の奥に灯りがともった。義兄が何を言おうと、秋葉がどれだけ嘲笑おうと、父の言葉だけは本物だ。私は乱れた髪を手で整え、背筋を伸ばした。一つ深呼吸をして、扉を押し開けた。
化粧室を出ると、廊下の奥からかすかに話し声が聞こえた。誰かが入り口付近で言葉を交わしている。男性の低い声が二つ、重なるように響いていた。足を止め、耳を済ませたが、声の主までは判別できない。スタッフ同士の会話かもしれないと思い直し、個室へ足を向けた。
個室に戻ると、食べ散らかされたテーブルはそのままだった。私は自分の小さなテーブルに腰を下ろし、請求書をもう一度手に取った。三十一万四千八百円。数字は変わらない。だが化粧室で流した涙と一緒に、胸を覆っていた黒い靄が少し晴れていた。払えないものは払えない。それは事実だ。けれど払えないからと言って逃げる人間には、私はなりたくない。私には私の誇りがある。スタッフにこの状況を正直に説明しよう。分割でもいい、後日でもいい。誠意を見せてきちんと話をすれば、分かってもらえるかもしれない。惣菜屋の仕事を増やして少しずつ返していけばいいし、必要なら貯金を切り崩すことも覚悟しよう。
膝の上の紙袋にそっと手を置いた。マフラーの柔らかな感触が指先に伝わる。これを父に渡すまでは、絶対にここを離れない。たとえ三十一万の借金を背負うことになっても、父の顔を見てプレゼントを渡す。それだけが、今の私を支えている唯一の目的だった。
私が立ち上がろうとしたその時、個室のドアが開く音がした。重厚な木のドアが内側に押され、外の廊下から柔らかな照明の光が差し込んでくる。振り返ると、入り口に二人の男性が立っていた。一人は杖をついた老人。黒髪を短く刈り込み、グレーのジャケットに白いシャツという質素な装いだった。背筋は年齢の割にしっかりと伸びている。もう一人は四十代ほどのスーツ姿の男性で、黒い革のブリーフケースを手にしていた。
「お父さん。」
私が声を上げるのと同時に、父がゆっくりと個室に足を踏み入れた。杖をつく音が静かな部屋に響く。大理石の床を打つ規則正しいリズムが、張り詰めた空気の中で不思議な重みを持って響いた。父の視線はまず、食べ散らかされた大テーブルを捉えた。それから視線がゆっくりと移動し、私が座っている隅の小さなテーブルにたどり着いた。クロスもかかっていない簡素なテーブルに、一人ぽつんと座る娘の姿。父の表情が一瞬で変わった。穏やかだった目元に厳しい光が宿り、口元がきつく結ばれる。八十五年の人生で培われてきた威厳が、老いた体の内側から立ち上がるようだった。建設会社の創業者としていくつもの困難を乗り越えてきた男の気迫が、静かに、しかし確かに部屋の空気を変える。
私は立ち上がった。父の姿を見た瞬間、張り詰めていたものが一気に緩み、膝から力が抜けそうになる。杖をつく父の歩みは確かだが、いつもより表情が硬い。隣の男性は面識のない人物で、その場にいる理由が分からなかった。
「お父さん、遅かったですね。正志さんたちはもう帰りました。」
言いかけた私を、父が手で制した。その目は、私の小さなテーブルの上にぽつんと置かれた黒いフォルダーを捉えている。その横には水の一杯すら置かれていないことを、父は見逃さなかった。
「きよこ、それを見せろ。」
低く静かな声だった。怒りを必死に抑え込んでいる声だと、私にはすぐに分かる。私はためらいながらも請求書を差し出した。父は老眼鏡をかけ、ゆっくりと数字を確認していく。品目を一つ一つ目で追い、最後に合計金額を見た父の顔に、怒りの色がゆっくりと広がっていった。
父は請求書を握りしめたまま、ゆっくりと大テーブルの方へ歩いた。食べ散らかされた皿、空になったワインボトル、脱ぎ捨てられたナプキン。宴の後の無惨な光景が、父の目の前に広がっている。フォアグラのテリーヌはほとんど手をつけられておらず、高級食材が無駄になっている。
「正志たちはどこだ? 」
「もう帰りました。お父さんが来る前に。」
言いかけて、私は声が詰まった。父の目に浮かんでいるのは怒りだけではない。深い悲しみと、そして子供たちへの絶望が、皺の刻まれた顔に影を落としていた。父の握った杖の先が、わずかに震えている。八十五年間生きてきた父が見せるこの静かな怒りは、叫び声よりもはるかに重い。
隣のスーツの男性が一歩前に出た。整った顔立ちの男性で、穏やかだが誠実さのある目をしている。名刺を差し出し、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、きよ子さん。弁護士の宮原と申します。お父様から半年前にご依頼を受け、手続きを進めてまいりました。」
私は目を見開いた。弁護士。しかも半年前から。父が何をそんな前から弁護士に依頼していたのか、理解が追いつかない。今日の食事会の遅刻も、検診ではなくこの弁護士との打ち合わせだったのだろうか。
「きよ子、座りなさい。話がある。」
父の言葉に促され、私は椅子に腰を下ろした。父も向かいの席に座り、杖を脇に立てかける。弁護士は少し離れた椅子に控えた。
「俺はな、少し前からここに着いていたんだ。」
私は思わず息を呑み、椅子の肘掛けを握りしめた。父がこの店に着いた時間は、義兄たちが料理を注文し、私を隅のテーブルに追いやった直後だった。
「検診が長引いたと嘘をついたのは、ここでお前たちの様子を見たかったからだ。入り口の裏手にバーカウンターがあるだろう。あそこから個室の中が見えるんだよ。」
父の声には、長い間ずっと胸に溜め込んできた苦さが滲んでいた。義兄たちの振る舞いを薄々感じ取りながらも、直接目にするまで行動に移せなかった自責の念が見え隠れする。
「全部見ていた。正志がお前を隅のテーブルに追いやった場面も、秋葉や澄恵が嫌味を並べ立てた場面も、水の一杯すら出されなかった場面も、そして三十一万の請求書がお前の前に置かれた場面も。全部、見えていた。あいつらの腐った根性を、一部始終な。」
父の声は低く、地の底から響くような重みがあった。私は言葉を失い、ただ父の顔を見つめる。
「宮原先生、電話をかけてくれ。」
弁護士が携帯電話を取り出し、番号を押した。スピーカーに切り替えられた電話から、コール音が二回鳴って繋がる。
「もしもし。親父か。食事会、楽しかったぞ。勘定は俺が全部やったんだ。感謝してくれよ。」
義兄の声は上機嫌だった。背後に街の雑音が聞こえる。
「お前ら、いい加減にしろ。」
電話の向こうが、一瞬で静まり返った。父の声には、怒りだけではなく深い失望が滲んでいる。我が子として育ててきた実子への、取り返しのつかない失望。
「親父、何の話だ?
」
「今すぐ店に戻れ。三人とも、全員だ。十五分以内に来なければ、二度と俺の前に顔を見せるなよ。」
そう言うと、父は電話を切った。テーブルの上に両手を置き、深く息を吐く。弁護士が黙って水を差し出すと、父はゆっくりと口に含んだ。
十分後、個室のドアが乱暴に開いた。義兄が息を切らして入ってくる。ネクタイが曲がり、額に汗が滲んでいる。秋葉が後ろに続き、義姉も少し遅れて姿を見せる。三人とも顔から血の気が引いていた。先ほどまでの余裕など微塵もなく、義兄は目を泳がせながら父の顔色を伺った。
「親父、さっきの電話、」
「座れ。」
一言で、義兄の口が閉じた。建設現場で何百人もの職人を従えてきた声は、八十五歳の今もなお、人を従わせる力を持っている。三人はおずおずと大テーブルの椅子に腰を下ろした。父の前に並んだ三人の顔には、先ほどまでの傲慢さのかけらもない。秋葉は義兄の隣で肩を縮め、義姉は顔を上げることすらできずにいた。
「まず一つ。この食事会の予約は、俺がした。店も俺が選び、支払いも俺の名義で手配してある。お前は幹事でも何でもない。ただの客だ。」
義兄の顔が引きつった。自分が幹事として仕切ったと言いふらしていた食事会が、父の手によって準備されたものだったと明かされ、顔色が青ざめていく。秋葉が不安げに義兄の袖を掴んだ。
「二つ目。三十一万の勘定は、俺がすでに支払い済みだ。レストランに確認してもいい。予約と同時に、俺のカードで前払い手続きをしてある。お前らは俺の金で飯を食って、俺の金で酒を飲んで、その請求書をきよ子に押し付けようとしたんだ。」
義兄が何か言おうと口を開きかけたが、父の鋭い視線に遮られた。先ほど「育ててもらったんだから当然」と言い放った口が、今は何も捨て台詞を吐けなくなっている。義姉も唇を噛み、テーブルの上に目を落としていた。
「三つ目。宮原先生、お願いします。」
弁護士がブリーフケースの止め金を外し、書類を取り出した。遺言書と書かれた表紙が、テーブルの上に静かに置かれる。義兄の目が大きく見開かれ、椅子の肘掛けを掴む指が白くなった。
「稲田誠様の公正証書遺言について、概要をご説明いたします。遺言は今年六月に公証役場にて正式に作成されたものです。二人の証人立ち合いのもと、公証人が作成した正式な遺言書であり、法的効力に一切の疑いはございません。」
弁護士は淡々と、しかし明瞭に述べた。
「自宅及び土地、評価額約二億円は、全て養女のきよ子様に相続させます。稲田建設の保有株式も、同様にきよ子様へ。正志様と澄恵様には、法定の遺留分のみを現金で支払い、それ以外の財産は一切相続させない、という内容です。」
「ちょっと待ってくれ、親父。なんで養女に全部やるんだよ。俺は長男だぞ。」
「お父さん、そんなの、血のつながった子供より養女を取るなんて。」
「黙れ。」
父の一喝が個室の空気を震わせた。義兄も義姉も、反射的に背筋を伸ばした。
「お前たちは知らないだろうが、この十五年、俺の面倒を見てくれたのはきよ子だけだ。毎朝五時に起きて朝飯を作り、俺の薬を一日三回管理し、週二回の通院には必ず付き添ってくれた。三年前に肺炎で入院した時、二週間ずっと病室にいてくれたのもきよ子だ。お前たちは一度でも俺の体調を気にかけたか? 一度でも俺のために手を動かしたか? 」
父はゆっくりと言葉を選びながら、一つ一つ事実を並べていった。その声は低く静かだが、一つ一つに揺るぎない重みがこもっている。義兄が「それは仕事が忙しくて」と口を開きかけたが、父の厳しい目つきに遮られた。
「四つ目だ。正志、お前の会社が成り立っているのは、俺が稲田建設を通じて融資をしているからだ。年間三千万、十年間で合計三億。それがなければ、お前の会社は三ヶ月で手形の不渡りが出て潰れる。」
義兄の顔から、一切の表情が消えた。自分の会社が父の融資で成り立っていたことを、本当に知らなかったのだろうか。あるいは薄々気づいていながら、目をそらしていたのかもしれない。秋葉は義兄の腕にすがりつき「嘘でしょ」と繰り返している。先ほどまでの傲岸不遜な態度は完全に剥がれ落ち、青ざめた顔で義兄の顔を覗き込んでいた。
「補足いたしますと、融資の契約書には、誠の判断により随時返済を求めることができる条項が含まれております。法的にも問題ございません。」
弁護士の冷静な補足が、義兄にとどめを刺す。義兄は椅子の背もたれに体を預けたまま、天井を仰ぐように頭を垂れた。
「融資は来月末で打ち切る。自分の力で会社を回せないなら、潰れても仕方がない。六十二にもなって親の顔を当てにしている方が恥ずかしい。俺はもう、甘やかさん。」
「お父さん、私は何も、」
「澄恵、お前も同じだ。正月と盆に顔を出すのは、金の無心の時だけだろ。きよ子に血のつながりがないことを言ったな。俺の耳に入っていないとでも思っていたのか。」
義姉は唇を噛んだ。
「最後に、一つだけ言っておく。」
父は杖に両手を重ね、まっすぐに三人を見据えた。八十五年の歳月を生きてきた男の目には、怒りを超えた覚悟の色が宿っている。
「養女だろうが何だろうが、関係ない。俺にとってきよ子は、紛れもなく俺の娘だ。五十三年前にあの子の手を握った日から、一度もそれは変わっていない。お前たちがどれだけ血のつながりを振りかざそうと、きよ子と過ごした五十三年の日々は消えない。」
父の声が震えた。怒りではない。長年胸の中に溜め込んできた思いが、堰を切ったように溢れ出しているのだと分かった。
「五歳のあの子を初めて抱き上げた時、こんなに軽いのかと驚いた。孤児院で痩せ細った小さな体が、俺の腕の中で震えていたことは、今でも覚えている。それからずっと、この子だけは俺が守ると決めたんだ。」
父は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。肩が小さく上下している。
「正志、澄恵。お前たちが子供の頃に、きよ子を泣かせるために叱ったのを覚えているか?
俺はお前たち三人を、同じように育てたつもりだ。なのにお前たちは、人の痛みが分からない人間になってしまったんだな。」
義兄が何か言おうと口を開いたが、声にならなかった。父の言葉の重さに押し潰されたように、喉から音が出ない。
「正志、澄恵。お前たちは俺の実の子供だ。愛していなかったわけじゃない。だがお前たちは、俺を失望させた。金のことしか考えず、家族を踏みにじり、弱い者をいじめる。俺が育てた子供は、こんな人間じゃなかったはずだ。」
それは、六十二年間長男として生きてきた義兄の誇りが、粉々に砕かれた瞬間だった。自分は跡取りだ。父に最も信頼されている。養女とは格が違う。そう信じて疑わなかった全てが幻想だったと、今ようやく突きつけられたのだ。秋葉が「あなた、何か言ってよ」と義兄の腕を揺さぶったが、義兄は反応できなかった。秋葉は下を向き、唇を噛みしめている。自分が最も信頼されていたという世界が一瞬にして崩れ去った。義姉も声もなく俯き、テーブルの上に目を落としたまま微動だにできなくなっていた。
私は席から立ち上がり、父のそばに駆け寄った。父の手が震えている。怒りだけでこれだけの言葉を発する体力が、八十五歳の体に残っていたことが信じられなかった。額に薄く汗が滲み、呼吸がわずかに荒くなっている。
「お父さん、もう十分です。座ってください。お水を飲んで。」
私は父の腕をそっと支え、椅子に導いた。テーブルの上の水を差し出すと、父は一口含んで深く息を吐いた。
「すまなかったな、きよこ。もっと早くこうするべきだった。お前が辛い思いをしているのを知りながら、俺は見て見ぬふりをしてきた。年を取って、弱気になっていたんだ。情けない話だろ。」
父の大きな手が、私の頭をそっと撫でた。五歳のあの日と同じ、温かくてゴツゴツした手。長年の建設業で鍛えられた太い手のひらが、今はわずかに震えている。私は視界がぼやけるのを感じた。今度の涙は悲しみではなく、父の思いの深さに胸を打たれた涙だ。
義兄は椅子の上で、崩れ落ちるように項垂れていた。融資の打ち切りと財産配分の現実が、少しずつ頭の中で形を成し始めたのだろう。会社の資金繰りは父の融資に完全に依存していた。取引先への支払い、社員の給与、事務所の家賃。全てが崩れ去ろうとしている。秋葉は義兄の背中に手を置いたまま、呆然と空中を見つめている。先ほどまでSNSに高級フレンチの写真を投稿していた手が、力なく膝の上に落ちていた。義姉は声もなく俯き、テーブルの上に目を落としたまま、動きが取れなくなっていた。夫の家にこの一件が知れたらどうなるか。父を侮辱し、養女をいじめ、財産の独占を画策していたことが露見すれば、嫁としての立場は根底から崩れる。
個室に沈黙が降りた。シャンデリアの明りだけが変わらず輝き、テーブルの上の空になったグラスを照らしている。直前まで響いていた傲慢な笑い声は、跡形もなく消えていた。
後日、義兄の会社は資金繰りが急速に悪化したと聞いた。父の融資がなければ手形の決済すらままならなかったのだ。義兄は青ざめた顔で取引先への支払い延期の電話に追われ、銀行へ融資の相談に駆け込んだが、担保になるものがなく門前払いを食ったらしい。秋葉のクレジットカードは利用限度額に達し、引き落とし口座の残高も心もとなくなっていく。ブランド品を買い取り業者に持ち込む秋葉の姿を、近所の住人が目撃している。あれほど見せびらかしていたバッグもダイヤの指輪も、一つまた一つと手放さなければならなくなったのだ。義姉は夫にこの一件の顛末を知られ、激しく叱責されたそうだ。「父に恥をかかせるような真似をするとは。霧谷家の名に泥を塗るつもりか」と言われた義姉は、何も言い返せなかったという。実家に帰るために偉そうに振る舞っていた姿が嘘のように、義姉は霧谷家の中で小さくなって暮らしている。
三人は揃って父に謝罪の手紙を送ったが、帰ってきたのは一行だけだった。
「まず、きよ子に謝れ。」
それは、父の最後の愛情のようにも思える。私は彼らに、父の愛が少しでも伝わればいいと願うしかない。
父の八十五歳の誕生日は、結局二人きりで祝うことになった。私が腕によりをかけた手料理がテーブルに並び、ささやかだが温かい食卓が出来上がる。
「お父さん、お誕生日おめでとうございます。これ、受け取ってください。」
私は紙袋から、紺のマフラーを取り出した。銀色のラインが一本通った、落ち着いた仕上がり。父はマフラーを手に取り、丁寧に広げて首に巻いてみせた。
「暖かいな。いい出来だ。毎晩、少しずつ編んでいたのを見ていましたよ。お父さんの白髪に会うかなと思って。」
父は目を細め、マフラーの端をそっと撫でている。食卓の上に並んだ手料理の湯気が、二人の間をゆっくりと立ちのぼっていった。
「お前がいてくれて、俺は幸せだ。」
「お父さんの娘でいられて、私も幸せです。」
私は明日も朝五時に起きて、父の朝食を作る。味噌汁を丁寧に漉し、父の好きなワカメをたっぷり入れる。変わらない日常がこれからも続くけれど、その日常を支えているのは、五十三年間途切れることのなかった、血よりも確かな絆だった。


