「食べられるだけ感謝しなさい」。婚約者の父親はそう言って、湯飲みの茶をすすった。目の前には寿司桶が二つ。刺身の大皿、ローストビーフの盛り合わせ。なのに私と息子の前には、お茶漬けの椀が一つずつしか置かれていない。椀を置いたのは婚約者の母親で、立ったまま「だって普段こんなお料理は召し上がらないでしょ」と笑った。息子の膝が座卓に当たって茶が揺れた。私が腕に手を添えると、息子は奥歯を噛んで腰を下ろし…

「食べられるだけ感謝しなさい」。婚約者の父親はそう言って、湯飲みの茶をすすった。目の前には寿司桶が二つ。刺身の大皿、ローストビーフの盛り合わせ。なのに私と息子の前には、お茶漬けの椀が一つずつしか置かれていない。椀を置いたのは婚約者の母親で、立ったまま「だって普段こんなお料理は召し上がらないでしょ」と笑った。息子の膝が座卓に当たって茶が揺れた。私が腕に手を添えると、息子は奥歯を噛んで腰を下ろし...

食べられるだけ感謝しなさい。息子の婚約者の父親はそう言って、湯飲みの茶をすすった。目の前には寿司の桶が二つ。刺身の大皿、ローストビーフの盛り合わせ。私と息子の前にだけ、お茶漬けの椀が一つずつ置かれている。椀を置いたのは婚約者の母親だ。立ったまま笑っていた。だって普段こんなお料理は召し上がらないでしょ。息子が膝を立てた。膝頭が座卓に当たって、椀の中の茶が揺れる。私はその腕に手を添えた。匠が私を見る。奥歯を噛んで、それから腰を下ろした。湧いてきたのは怒りではない。くだらない。それだけだった。だから私は箸に手を伸ばした。婚約者の父親の箸が止まった。伸ばしかけた手が寿司の手前で行場を失っている。母親の方は私の手元を覗き込んで、あら、と小さく言った。それっきり何も言わない。その二人が自分たちのしたことを知るまでに、三時間かかった。

私は五十二歳。介護の仕事をしている。旧姓は白石という。仕事では今もその名を使っていた。さきというのは、息子と二人で暮らしてきた家の名前だ。商売の看板にするには違う気がした。理由はそれだけだ。夫の修平が亡くなったのは二十三年前になる。息子の匠が五歳の年だった。病院の廊下で修平は私の手を握って言った。匠には、うちが二人で良かったと思わせてやってくれ。無茶な注文だと思った。父親のいない家を、二人で良かったと思わせろというのだから。それでも私は頷いた。頷くしかなかった。葬儀が終わってすぐ、私は介護の現場で働き始めた。朝は六時に家を出て、夜は九時を回って帰る日もあった。匠には寂しい思いをさせた。それでも家の中では笑っていた。うちは二人だから二倍楽しいね。そう言うと、匠はいつも真顔で頷いた。子供というのは、母親の嘘に付き合ってくれるものらしい。

三十三歳の年に、私は自分で小さな事業所を開いた。訪問介護の事業所だ。開いた時の職員は二人。私とかず子さんだけだった。そこから先の話はいずれする。匠には、母さんの会社を継がなくていいと言って育てた。自分の人生を生きなさい。それだけを言った。匠はその通りにした。大学を出て都内の食品会社に入り、勤めて七年目になっていた。一度だけ、息子に聞かれたことがある。大学三年の秋だ。母さんの会社、俺が入ったら助かる?助からないわね。私が即答すると、匠は口を開けたまま私を見て、それから笑った。ひどいな。あなたが入ったら周りが気を使うでしょ。気を使われる人間は仕事を覚えられないの。本当のところは違う。息子の人生を、私の名前で決めてほしくなかった。それだけだ。

その匠から電話が来たのは四月の終わりだった。母さん、結婚したい人がいる。受話器の向こうで、息子の声が裏返っていた。二十八年育てて、その声を聞いたのは初めてだ。翌週の日曜、匠はその人を連れてきた。早坂綾乃さん。二十七歳。文具の会社で経理をしているという。玄関で靴を揃え、上がり口に手をついて頭を下げた。手土産の箱には、駅の反対側にある古い和菓子屋の名前が入っていた。うちの近所の店だ。匠が行ったのだろう。食卓についてから、綾乃さんは匠の話ばかりした。会社での失敗談。休みの日に何を作るか。冷蔵庫の残り物で作るチャーハンがうまいこと。肩書きの話は一度も出なかった。たくさんから、お母様のお話をよく聞きます。どんな話でしょう?二人だったから二倍楽しかった、と。私は思わず匠を見た。息子は耳を赤くして下を向いていた。その日、綾乃さんは帰り際に一度だけ表情を曇らせた。靴を履きながら、こちらを見ずに言う。うちの両親は、少し肩書きを気にするところがあって。言葉の選び方に気を使ったのが分かった。多分、もっとひどい言い方をしたかったのだろう。結婚するのは、あなたたち二人ですから。私がそう言うと、綾乃さんは目を丸くして、から深く頭を下げた。

その夜、匠は台所で洗い物を手伝いながら言った。綾乃には、母さんの仕事のこと詳しく言ってないんだ。そう。介護関係、とだけ。私は皿を洗う手を止めなかった。息子の方が先に手を止めた。怒ってる?どうして?隠してるみたいだから。隠してるわよ。そう言うと、匠は変な顔をした。隠した方がいいの?あなたと結婚するのに、私の名刺はいらないでしょう。匠はしばらく黙ってから、皿を拭く手を早くした。翌週、匠が一人で挨拶に伺うことになった。早坂の家は世田谷にあるという。父親は医療用品の会社を経営していて、社長だと聞いた。その前日の夜、うちの電話が鳴った。綾乃さんの母親からだった。早坂のか内でございます。えみ子と申します。声は柔らかかった。上品と言ってもいい。要件は挨拶ではなかった。たくさんのことで、伺っておきたいことがあってよ。大学はどちらでしたかしら?私は大学の名前を答えた。受話器の向こうで、えみ子さんの声が弾んだ。まあ、そちらに。聞いたことがありますわ。聞いたことがある、という言い方があるのだと思った。今のお勤め先は、上場はしていらっしゃるの?していないと聞いています。そう。お給料は、その大体で結構ですのよ。大体で結構と言われても、息子の給料を口にできる母親がいるとは思えなかった。私が黙っていると、えみ子さんは笑った。うちは主人が経営者ですから。そういうことは、先に伺うことにしていますの。後で揉めるよりはね。ええ。ご兄弟は、匠さんお一人でしたわね。はい。まあ、じゃあご実家のことは、全部あの方が背負うことになりますのね。私の老後の話をしているのだと、一拍遅れて気づいた。顔合わせの前に、会ったこともない人から自分の介護の心配をされるとは思わなかった。お住まいは持ち家え。それとも賃貸でいらっしゃる?持ち家です。小さな家ですが。あら、それは良かった。何が良かったのか、私には分からなかった。失礼ですけど。お母様は今どんなお仕事?介護の仕事をしております。介護?まあ、大変なお仕事よね。大変ですよ、と私は答えた。実際そうだ。えみ子さんはそこで言葉を切った。お一人で育てられたんですってね。はい。受話器の向こうで、髪を触るような音がした。えみ子さんの声は、最後まで柔らかかった。柔らかい声のままで、これだけのことを聞ける人がいるのだと、私はむしろ関心した。電話を切る前に、えみ子さんはもう一度だけ念を押してきた。ご主人は、もういらっしゃらないのよね。

匠が挨拶に行ったのは、その翌日の土曜だった。夕方には終わると聞いていたのに、うちのチャイムが鳴ったのは夜の八時を回ってからだった。玄関を開けると、匠がスーツのまま立っていた。ネクタイの結び目が緩んでいる。ごめん。いきなり来て。構わないわよ。ご飯はまだ。上がってきた息子は、縁側のソファに座って、しばらく口を開かなかった。匠は物事をはっきり言う子だ。黙る時は言葉を選んでいる時ではない。言っていいかどうかを迷っている時だ。私は茶を入れて、湯飲みを息子の前に置いた。それで、何があったの?匠は湯飲みを持ち上げて、そのまま卓に戻した。座敷に、知らないおじさんとおばさんが二人いた。知らない人?近所の人だって。町内会の世話役をしてる人と、その奥さん。顔合わせでもない挨拶の席に、近所の人を呼ぶ家があるのだと知った。向こうのお父さんが、その人たちに俺を紹介したんだ。そこで一度息を吸った。これが娘の相手だ。まあ、母子家庭だがね。って。私は湯飲みに手を伸ばすのをやめた。その言い方だったの?その言い方だった。世話役だという人は、困ったように笑って首を振ったという。奥さんの方は、ずっと匠の腕時計を見ていたそうだ。時計?うん。俺が社会人になった時、自分で買ったやつ。二万円くらいの。いい時計じゃない?そう思ってたよ。今日までは。笑おうとして失敗した。その後、座敷では匠の勤め先の話になった。綾乃さんの父親は、匠の会社の名前を聞いて、眉を寄せたらしい。聞かない名前だな、と言われた。食品の会社は、名前を知られていない方が多いわ。俺もそう言った。そしたら、匠は湯飲みの縁を指でなぞった。うちは白石メディカルとも取引があるって。私は湯飲みに口をつけた。音を立てないように気をつけた。白石メディカル。うん。向こうのお父さんが、母さんの会社の名前を出したんだ。匠は、そこから先を言うかどうか迷う顔をした。それでも、聞かれた以上は話すことにしたらしい。その話をする時だけ、声が大きくなるんだよ。うちはあそこと直接取引してる。そこらの卸しとは違う、って。匠は肩をすくめた。悪い人じゃないのかもしれない。ただ、話の九割が会社の話だった。実際に何を聞かれたのか、私はもう一度尋ねた。匠は指を折って数え上げた。大学の偏差値。入った年の同期の人数。今の役職。三年後の役職の見込み。あと、商談が年に何回あるか。それ、全部そのご夫婦の前で。うん。面接みたいだったよ、と匠は言った。それから、面接なら合否が出るけど、あの席には合否もなかった、とも言った。途中で、その奥さんが助け舟を出してくれたんだ。若い人を困らせるものじゃありませんよ、って。いい方ね。うん。そしたら、向こうのお父さんが、これは躾です、って。躾?よその家の二十八歳に、初対面で言う台詞ではない。匠は言い返さなかった。なぜ言い返さなかったのか、この子は自分で言った。綾乃の親だから。それだけだと、息子は言った。私はその一言で、この子はもう大丈夫だと思った。綾乃さんの父親は、帰り際に匠へ紙を一枚渡したという。匠がポケットから出して、卓の上に置いた。勤め先で出してもらう書類の名前が、黒い字で書いてあった。収入を証明する書類を出してくれ、って。あなたに。うん。次に来る時までに、って。私はその紙を手に取って、もう一度読んだ。こういう紙を人に求めるのは、金を貸す時だと思っていた。あちらのお父さんは、なんて言って渡したの?うちは娘に苦労をさせたくないんでね、って。苦労。私は口の中で繰り返した。苦労をさせたくないのなら、その紙を娘の相手に押し付けるのは一番遠回りなやり方だった。出さなくていいわよ。え?必要なら、あちらが先に出すものよ。うちの娘はこういう暮らしをしています、って。匠は肩の力を抜いて、それから初めて声を出して笑った。その夜、もう一つ気になることを言った。綾乃のお姉さんがいるんだ。そう。七つ上。実家に住んでるらしいんだけど、今日はいなかった。仕事だったのだろうと、私は言った。土日に出勤する仕事はいくらでもある。それが、いないんじゃなくて、いないことになってるみたいな感じでさ。匠は言葉を探しているようだった。向こうのお母さんがこう言ったんだ。上の子は仕事が忙しくて、この二年、家に帰ってこないのよ、って。二年?うん。それで俺が、どんなお仕事ですか、って聞いたら、その質問に答えたのは綾乃さんの母親の方だったという。あの子は会社の話になると変な顔をするから、聞かないことにしてるの、って。えみ子さんはそう言って、すぐに別の話へ移したそうだ。匠の話では、その家では姉の部屋のことも出たらしい。二階の南側の部屋が空いていて、えみ子さんは、あそこは今は物置きになっているのよ、と笑ったそうだ。住んでいる人の部屋を物置きと呼ぶ母親がいるのだと、私は思った。

その夫婦が帰った後、綾乃さんが門まで送ってくれたという。電車の時間、大丈夫ですか、って聞かれた。それだけ?うん。それだけでも、玄関の外まで出てきてくれた。匠はそこで少しだけ笑った。あの家で、外まで出てきたのは綾乃だけだった。その夜遅く、綾乃さんから匠の携帯に電話があった。匠は私の前でそれを受けた。長い電話ではなかった。切った後、息子は天井を見上げた。謝ってた。ずっと。あなたは何て言ったの?綾乃が謝ることじゃない、って言った。それでいい、と私は言った。本当にそう思った。あの家で育って、あの席に自分の相手を座らせて、それでも謝れる人はそう多くない。その家には娘が二人いる。上の娘の名前だけが、その日ついに出てこなかった。

綾乃さんが一人でうちに来たのは、その翌週の水曜だった。会社帰りだと言って、鞄を下げたまま玄関に立っていた。仕事のまま、髪だけ直してきたのが分かった。突然すみません。少しだけお話しさせてください。上がってもらって、居間に通した。綾乃さんは座布団に座る前に、部屋をぐるりと見た。八畳の間。二十年前に張り替えた壁紙。匠が中学の時に壊した襖を直した後。綾乃さんの肩から力が抜けるのが分かった。あの、こういう言い方は失礼かもしれないんですけど。どうぞ。ほっとしました。正直な人だと思った。たくさんに聞いたと思います。父があんな言い方をして。綾乃さんは膝の上で手を重ねて、そこからしばらく動かなかった。うちの父は人を三つで見るんです。家柄と会社と年収。三つとも、その人の中身とは関係のないものね。そうです。父は、それだけがその人の中身だと思っています。綾乃さんは顔をあげた。目が赤い。母はもっと分かりやすいんです。母子家庭の話になると、必ず苦労なさったでしょうね、って言うんです。言いながら、嬉しそうなんです。私は茶を入れた。綾乃さんが泣くなら、湯飲みがあった方がいい。姉がいます。綾乃さんはそう言って、湯飲みを両手で包んだ。七つ上で、二年前からほとんど家に帰ってきません。喧嘩はなさったの?喧嘩というか。綾乃さんは言葉を選んだ。父の会社のことで、姉が何度か意見を言ったんです。その度に父が怒鳴って。その怒鳴り方を、綾乃さんは覚えているという。女が会社に口を出すな、って。私は湯飲みを置いた。綾乃さんは膝の上を見たまま続けた。二年前の、確か秋でした。綾乃さんは湯飲みの中を見ていた。姉が夕食の席で、書類みたいなものを出したんです。父に、これを確認して欲しい、って。父は見もせませんでした。箸を裏返して、自分の膝の下に置いて、それっきりです。綾乃さんはそこで唇を噛んだ。あの日から、姉はうちで食事をしなくなりました。食卓というのは怖いものだと思った。座らせるか座らせないかで、人を並べる場所だからだ。不思議なんです。綾乃さんは首をかしげた。父は取引先の話は、自分から何時間でもするんです。近所の人にも、親戚にも、同じ話を。ええ。でも、うちが納めている品物の話を姉がしようとすると、その瞬間だけ黙らせるんです。自慢する話と触れさせない話が、同じ取引の中にある。私はその話にだけ、相槌を打たなかった。うちの取引先かもしれない、とは思った。思ったが、調べないことにした。調べれば、私はあの家へ会長の顔で行くことになる。息子の母親として行くと決めていた。みわさん。綾乃さんは畳に手をついた。顔合わせのこと、本当は両親にしたかったんです。中立の場所がいいと思って。でも、父がご自宅に、とおっしゃった。はい。うちを見てもらった方が早い、って。先方から決めた水曜の昼だという。平日ですか?父の都合で、こちらに休みを合わせてください、って。その言い方で、大体のことは分かった。見てもらいたいのは娘ではなく、家の方なのだろう。断ってくださって構いません。私からも言います。いいえ。伺います。綾乃さんが顔をあげた。匠があなたと一緒になるということは、あの家とも縁ができるということでしょう。どんな家か知らないままでは、私も困りますから。綾乃さんは何か言いかけてやめた。その代わりに、もっと言いにくそうな話を始めた。母から言い伝えがあります。はい。当日は。その綾乃さんの耳が赤くなっていく。地味なお召し物でお越しください、って。私は思わず笑ってしまった。ごめんなさい。笑うところではないわね。いえ、私も伝えながら、自分が嫌になりました。心配なさらないで、と私は言った。地味な服なら持っています。それに、その方が助かるわ。帰り際、綾乃さんは廊下の棚の写真に目を止めた。匠が小学校の運動会で走っている写真だ。一人だけ体操着の裾がズボンから出ている。たくさん、変わってないですね。顔ですか?走り方です。今も、こういう走り方をします。普段から見ている人でなければ言えない一言だった。綾乃さんは玄関の戸まで来て、靴を履きながら、こちらを振り返らずに言った。姉のことなんですけど。そこで止まった。続きを待ったが、綾乃さんは首を振って、行ってきますみたいな挨拶をして帰って行った。

翌朝、私は事務所に出た。田かず子さんが書類の束を抱えて廊下を歩いてくる。十九年前、二人で事業所を開いた時からの仲だ。あの頃は三十九歳で、今は五十八歳になった。今も週に二日は現場に出ている。会長、来週の水曜を空けてありますよ。何かあった?息子さんの顔合わせでしょ?ご自分の予定表くらい見てください。かず子さんは呆れた顔で笑った。かず子さん。はい。私、地味な服を着ていくことになったの。あら、いつも地味じゃないですか。その通りだった。会長、大手の施設から、来月の見学の日程で問い合わせが来ています。私が行くの。行くとおっしゃったのは、ご自分です。十九年前に二人で開いた事業所は、今は違う形になっている。そのことを私は匠にも細かくは話していない。話す機会がなかったのではない。話さないと決めていた。母さんの会社が大きくなったらしい、とだけ、この子は知っている。病院がいくつあるかも、職員が何人いるかも、話したことがない。聞かれたこともない。私は書類を受け取って、その日の仕事を始めた。その夜、仏壇の前に座った。写真の中の修平は、三十一歳のままだ。年を取るのは、残された方だけらしい。匠が結婚しますよ、と口に出して言ってみた。返事はない。二十三年、一度もない。それでも、私はあなたが言った約束のことを考えていた。二人で良かったと思わせてやってくれ、というあの無茶な注文のことだ。顔合わせまで、あと六日あった。

顔合わせの当日は、朝から晴れていた。私は言われた通りの服を着た。濃い灰色のワンピースに、同じ色の上着。真珠の粒が小さい方のネックレス。鏡の前で襟元を直しながら、これで文句を言われたら、その時はその時だと思った。手土産は、駅前の店で焼き菓子の詰め合わせを買った。値段は控えめにした。高いものを持っていけば、また別の意味がつく。匠とは世田谷の駅で待ち合わせた。改札を出たところに、匠と並んで綾乃さんが立っていた。朝から家を出て、匠を迎えに来たという。みわさん、おはようございます。ごめんなさいね。迎えに来ていただいて。私が来たかったんです。その言い方で、綾乃さんが家にいづらいのだと分かった。約束は昼の十二時だった。歩いて十分ほどの住宅街に、早坂さんの家はあった。門から玄関まで敷石が続いていて、その脇に大きな石が据えてある。植え込みは手入れされていた。車庫には車が二台。どちらも国産の大きな車だ。玄関のベルを押すと、綾乃さんが、私が、と言って先に鍵を開けた。玄関で靴を脱いでいると、家の奥から煮物の匂いが流れてきた。奥の方で水の音と、皿の触れ合う音がする。お母さん、着いたよ。綾乃さんが声をかけると、返事の代わりに締め切る音がした。私と匠は廊下に立って待った。綾乃さんが小さく頭を下げる。すみません。すぐ来ると思います。一分ほどして、奥の襖が開いた。出てきたのは男の人だった。背が高く、腹が出ている。会釈のシャツにベストを重ねていて、髪は綺麗に撫でつけてあった。綾乃さんの父親、早坂信夫さん。六十歳。医療用品の会社の社長だと聞いていた。ああ、どうも。早坂さんは私を上から下まで見た。足元まで見てから、視線を戻した。さきさんね。さき美と申します。本日はお招きいただいて。まあまあ、そういうのはいいから上がって。私が手土産を差し出すと、早坂さんは片手でそれを受け取った。箱の重さを確かめるような持ち方だった。そのまま廊下の隅の台に置く。台所から声がした。あなた、お客様は上がってもらってるよ。早坂さんはそう答えてから、私の上着に目をやった。随分落ち着いた色のお召し物で。そのように伺いましたので。ああ、かみさんが余計なこと言いましたか。余計なこととは思っていない口ぶりだった。廊下を歩きながら、早坂さんは壁を指した。これ、去年のです。取引先の会社でもらったやつ。額に入った写真だった。ゴルフ場の芝の上に、十人ほどが並んで写っている。真ん中にいるのが早坂さんだ。その隣が、うちの卸し先の部長でね。匠が丁寧に相槌を打っていた。通されたのは南向きの広い部屋だった。床の間には掛軸がかかっていて、その前に壺が置いてある。窓際のガラス棚には、表彰状のようなものが額に入って並んでいた。どれも会社の名前が入っている。感謝状と読める字が見えた。その棚のは、うちが表彰されたやつでね。早坂さんは顎で戸棚を示した。納品先がどうこうって、取引先から毎年もらうんです。中身は知らんが。中身は知らん。その言い方が引っかかったが、その時は聞き流した。感謝状というのは、渡した会社の名前と部門の名前しか入らない紙だ。中身を知らなくても飾れる。どこの会社の名前が並んでいるのか、私は近づいて読まなかった。その日は、息子の母親として来ていた。部屋の真ん中に大きな座卓があった。その上を見て、匠の足が止まった。寿司の桶が二つ。握りの並んだ大きい方と、巻き物の方。刺身の大皿。マグロと鯛、それに甘エビが放射状に並べてある。ローストビーフの盛り合わせ。天ぷらの鉢。煮物の重箱。どれも料亭の器だった。頼んだものだと分かる。大したものはあがせませんがね。早坂さんはそう言って、床の間を背にした席に腰を下ろした。まあ、うちはこういう家だから。こういう家。その言い方だけが耳に残った。綾乃さんが、私と匠の席を示してくれた。入口に近い方の、二人並びの席だ。綾乃さんは私の斜め向かい、母親の隣に座ることになっていた。早坂さんが顎で台所を示した。綾乃、お茶。うん。綾乃さんが立ち上がった時、廊下から声がした。あら、いらしてたの。盆を持った女の人が入ってきた。細い体に明るい色の上下。髪を綺麗に結っている。電話の声の通りの人だった。早坂のです。えみ子と申します。私は座り直して頭を下げた。先日はお電話をいただきまして。ええ、色々伺ってしまってごめんなさいね。えみ子さんは笑いながら、盆を座卓の脇に置いた。そこからは、しばらく普通の顔合わせだった。匠は背筋を伸ばして、綾乃さんとの結婚の話をした。式は年内にしたいこと。住まいは二人で借りること。綾乃さんは、人のことをちゃんと見る人です。息子はそう言った。俺が仕事で失敗した日に、何があったかを聞かないで、飯を食えって言うんです。そういう人と暮らしたいと思いました。綾乃さんが下を向いた。耳まで赤い。えみ子さんは、まあ、と笑って手を振った。若い人はいいわね。早坂さんは腕を組んで聞いていた。それから、私の方へ顎を向ける。で、さきさんはお仕事は介護の方だと伺ったが。はい。介護の仕事をしております。現場に出られる。今は少なくなりましたが、出ることもあります。立派なもんだ。うちも施設さんとは長い付き合いでね。早坂さんは湯飲みを置いて、指を三本立てた。うちは社員は三十人、年商は十億。中堅ですがね、納めてる先が違う。そうですか。白石メディカルってご存知ですか?私は湯飲みに手を伸ばした。病院と介護施設の。そう。全国にね。うちはそこと直接取引してるんです。売上の四割ですよ。四割。そう言って早坂さんは、自分の言葉に自分で頷いた。そこらの卸しとは違う。えみ子さんは、綾乃さんの子供の頃の話をした。ピアノを七年習わせたこと。私立の学校に入れたこと。綾乃は七年で、上野子は十年やったのよ。上の子、という言葉がそこで初めて出た。お姉様もご一緒でしょうか?私がそう聞くと、えみ子さんの手が止まった。あの子は仕事ですのよ。夜には帰ると思いますけど。帰ると思う、という言い方だった。えみ子さんは、上の娘の帰る時刻を、娘に聞いていないらしかった。途中で綾乃さんが、手伝う、と言って立ちかけたが、えみ子さんに止められた。いいのよ。台所はお母さんの場所だから。綾乃さんは座り直した。その家では、台所に入れる人間が決まっているらしい。私は相槌を打ちながら、一つだけ気になっていた。座卓の上の料理が、まだ誰の前にも配られていない。そして、取り皿が六枚あった。この部屋にいるのは五人だ。六枚目は、上の娘さんの分だろう。夜には帰る、とさっき聞いたばかりだった。ただ、その席にだけ座布団が敷かれていない。用意はしてある。座る場所だけがない。さきさんのところは、お仏壇は。えみ子さんがそう聞いた。ございます。そう。ご主人の。お寂しいわね。毎朝手を合わせております。まあ、ご立派。立派と言われるようなことではない。二十三年、ただの習慣になっている。そろそろいただきましょうか。えみ子さんがそう言って立ち上がった。台所へ行き、盆を持って戻ってくる。盆の上には、椀が二つ。その二つが、私と匠の前に置かれた。湯気が立っていた。白い飯に緑色の粉と、細かく切った海苔。その上から茶がかけてある。乗っているのは、あられが数粒。お茶漬けだった。私の前に置かれた椀を、えみ子さんは指先で少しだけ回した。椀の絵柄の正面を、こちらに向けたのだと分かった。そこまでは、きちんとする人なのだ。匠が椀を見て、それから座卓の上の寿司を見た。もう一度、椀を見た。これ、何ですか?声は低かった。息子が本気で怒る時の声だ。綾乃さんが座ったまま体を起こした。お母さん、何これ?綾乃さんの顔が白くなっていく。本当に知らなかったのだと、その顔で分かった。何これ、って?あの。えみ子さんは自分の席に戻って、袖を直した。お茶漬けよ。そんなこと聞いてるんじゃない。あの、声が大きい。早坂さんはそう言って、箸を取った。自分の前の皿に、大きい方の寿司桶から中トロを取る。まあ、食べなさい。早坂さんは中トロを口に入れて、二度噛んでから飲み込んだ。冷めるぞ。そっちは。えみ子さんは笑っていた。用意しておいた台詞を読むような笑い方だった。だって普段、こんなお料理は召し上がらないでしょ。えみ子さんは湯飲みを両手で包んで、首をかしげて見せた。無理に召し上がって、お腹を壊されても困りますもの。うちにも責任がありますから。責任、という言葉が出た。人にお茶漬けを出すことに、責任を感じる人がいるのだと、私は思った。お口に会わなければ、残してくださって結構ですのよ。残していい、と言われて残せる人はいない。言った本人が一番よく分かっているはずだ。お母さん、ふざけないでよ。綾乃さんの声が震えていた。顔合わせだよ。お客様だよ。お客様だから、お口に合うものをお出ししたのよ。お茶漬けが口に合うって、誰が言ったの?あなたが言わなくても、分かることってあるでしょ?えみ子さんは笑ったままだった。その笑い方が、人を怒らせるのに一番効くやり方だと知っている人の笑い方だった。早坂さんが箸を置いた。音は立てなかった。立てない方が効くと分かっているのだろう。綾乃、もういい。これは家の話だ。そして、私の方は見た。さきさん。気を悪くしないでいただきたいんですがね。気を悪くしないでいただきたい。で、始まる話に、いい話は一つもない。うちはね、こういうことをはっきりさせておきたいんです。後で揉めるのが一番良くない。はい。匠君。早坂さんは息子の方へ向き直った。先日お願いした書類、持ってきてくれましたか?匠が息を吸うのが分かった。持ってきていません。あの書類は、必要のないものだと思いましたので。早坂さんは片方の眉をあげた。それから胸のポケットから、四つに折った紙を取り出した。まあいいでしょ。こちらで調べましたので。そう言ってから、早坂さんは私の方を見た。さきさんのことは、調べました。さきさんの方は介護と伺ったので、それ以上は調べる必要がない。という意味だった。紙を広げて、老眼鏡をかける。座卓の上の料理は、早坂さんの前の皿の他には、まだどこにも配られていない。匠君の会社は、上場していない食品会社。従業員は四百二十人。三十歳前後の平均年収は、同じ規模の同業で大体このくらい。早坂さんは金額を読み上げた。読み上げる時、早坂さんは顔をあげなかった。つまり、その金額を聞かせたい相手は匠ではなかった。この部屋にいる全員に聞かせたかったのだ。そんなの、平均でしょう。綾乃さんが言った。平均で構いませんよ。大体の暮らしぶりが分かる。老眼鏡を外して、早坂さんは紙を畳んだ。そこで匠が口を開いた。その数字で合っています。早坂さんが顔をあげた。ほう。うちの会社の三十歳の平均は、多分そのくらいです。俺は今年、それより下です。息子は嘘をつかなかった。隠すつもりも、大きく見せるつもりもありません。正直なのはいい。早坂さんは頷いた。頷きながら口の端で笑った。正直なだけで暮らせるならね。うちの娘はね、ピアノを七年やらせて、私立に入れて、車も持たせて育てたんです。その娘が、この金額で暮らすことになる。綾乃さんが顔をあげた。私は、お父さんの車いらないって言った。いるかいらないかじゃない。持たせられる家かどうかの話をしてるんだ。綾乃さんが黙った。あんたが勤めているような会社なら、代わりはいくらでもある。早坂さんは寿司桶の方へ顎をやった。うちはそうはいかん。うちが一日止まれば、施設さんの手が止まるんだ。そういう仕事をしてるんですよ。一日止まれば手が止まる。その通りだと、私は思った。だからこそ、その仕事は正確でなければならない。代わりがいくらでもある仕事。私は二十三年、その言葉で数えられる側にいた。夜勤の代わり、休みの日の代わり、やめた日の代わり。代わりがいる人間の手で、この国の年寄りの背中は毎朝起こされている。そのことを、この人は多分一度も考えたことがない。さきさん。早坂さんは私を見た。うちは反対しません。二人が好き合ってるならね。そこで一度、湯飲みの茶をすする。ただ、結婚したら身の程というものを覚えてもらわないとなあ。身の程。私はその言葉を口の中で、もう一度言ってみた。仕置きのいい言葉だと思った。言葉を選ぶ。匠さんは、本当に立派に育ってらっしゃるわ。えみ子さんが目を細めた。片親でいらしたのにね。の、その一言を言うために、前の言葉があったのだと分かった。お茶漬けはね、日本の文化ですのよ。えみ子さんが急に言った。お客様にお出しして、失礼なものじゃありませんわ。お店だって、シメにお出しするでしょう。締めに出すものですね。そう、締めに。では、これは何の締めでしょうか?私がそう聞くと、その人は答えなかった。私と匠の膝の前には、空いた取り皿が一枚ずつあるだけだった。そのお皿もね。えみ子さんが言い直した。意地悪でお出ししたんじゃありませんのよ。お宅は、ご自分たちだけでお食事をなさるお家でしょ。うちみたいに、人を呼んでお出しするお家とは、暮らしが違いますでしょ。それを最初に分かっていただいた方が、綾乃のためだと思って。うちも、自分の分は自分で用意しますが。あら、そういう意味じゃなくて。どういう意味でしょう?私が聞くと、えみ子さんは初めて言葉に詰まった。それから立ち上がって、台所から小鉢を二つ持ってきた。これ、お付けしますわ。うちで漬けたの。沢庵が三切れずつ入っていた。お茶漬けには、これがないと寂しいでしょ。匠が小鉢を見た。見ただけで、手は動かさなかった。そこへ、早坂さんが割って入った。食べられるだけ感謝しろ。部屋の空気が止まった。早坂さんは自分でも驚いた顔をした。言うつもりのなかった言葉が出たのではない。思っていた通りの言葉が、思っていたより大きな声で出たのだ。いや、失礼。ただね、そういうことなんですよ。お母さん。綾乃さんが母親の方を向いた。私、この席にいられない。綾乃。いられないよ。えみ子さんは娘の腕を掴んで、下へ引いた。匠が立ち上がった。椅子ではなく座布団だったから、音はしなかった。それでも、部屋の全員がその動きを見た。母さん。私は息子の顔を見上げた。唇の色がなくなっていた。手は体の横で握られている。匠がこんな顔をするのを、私は初めて見た。母さん、帰ろう。ここにいる必要ない。私は息子の袖に手をかけた。匠、少し待ちなさい。匠が私を見た。なんで?座って。母さん、座りなさい。息子は奥歯を噛んで、それから座布団に戻った。膝が震えている。怒りで震えているのだと分かった。私はその袖から手を離した。そして、椀に手を伸ばした。蓋はない。湯気はもう弱くなっている。箸を取って、飯を一口入れた。熱い。塩が強い。海苔は安いものだ。それでも、米は悪くなかった。炊いた人が下手ではないのだと分かる味だった。二口目を入れた時、えみ子さんがあら、と言った。それっきり何も言わない。早坂さんは寿司をもう一つ取ろうとして、その手を途中で止めていた。綾乃さんは自分の膝を見ている。スカートの布を、指が白くなるほど握っていた。匠は箸を持たなかった。持たないまま、私が食べるのを見ていた。柱時計が一つ鳴った。その部屋で音を立てるものは、その時計しかなかった。ここで名乗ることはできた。名刺は鞄の中にある。一枚出せば、この部屋の空気は十秒で変わっただろう。けれど、それをしたら何が起きるか、私には分かっていた。この人たちは謝る。手をついて謝る。そして、匠と綾乃さんの結婚は、その日から白石メディカルの会長と息子との結婚になる。息子が働き始めてから自分で作ってきたものが、全部その一言の下に入ってしまう。私は二十三年前に、この子の父親と約束をしている。うちが二人で良かったと思わせてやってくれ、と言われた。肩書きで守られた息子に、それは思わせられない。だから、私は飯を噛んで飲み込んだ。私が椀を空けていく間、向いの二人の箸は止まったままだった。この人たちは、思い通りにならないのが何より気に食わないらしい。私が椀を半分ほど空けた頃、早坂さんは話を先へ進めた。さて、せっかくお集まりいただいたんだ。決めることを決めましょう。手元の湯飲みを脇へ寄せ、座卓の空いた場所に指を置く。仕事の癖なのだろう。ここに書類がある、という置き方だった。まず、式のことです。はい。うちで仕切ります。匠が顔をあげた。あの、式は俺たちでやりたい。早坂さんは手のひらをこちらへ向けた。うちは取引先が多い。呼ばなきゃならん相手が四十人からいるんです。会場も席の順も、こちらで組まないと収まらない。取引先を。俺たちの式です。あんたたちの式でもあるが、うちの家の式でもあるんだ。綾乃さんが口を開こうとして、母親に腕を抑えられた。早坂さんは私の方へ体を戻した。費用はうちが持ちます。ご心配なく。そこでは早坂さんは一度間を置いた。さきさんのご負担は、ゼロで結構です。負担をゼロにすると言われて助かる人もいる。ただ、この言い方は違った。出す側と出さない側を、その場で分けるための言い方だった。ありがとうございます。ただ、うちの分はうちで出します。いやいや、いいんですよ。息子の式ですから。そういうことでいいじゃないですか。私は椀を置いた。そういうことでは、ありません。親が出すものだと思っているだけです。早坂さんは何か言いかけて、鼻から息を出した。その話はそこで終わりにしたらしい。早坂さんはベストの内側から、折りたたんだ紙を出して広げた。招待する人の名前が、四段に分けて書いてある。一番上の段が、一番字が大きかった。これが、うちから呼ぶ方々です。私は目で追った。会社の名前と役職と苗字。四十に届いていた。早坂さんが顔をあげた。新郎側は、何名になりますか?まだ決めていません。まあ、そちらはそう多くはならんでしょうな。早坂さんは紙を畳んだ。うちで足しておきますよ。席が空くと見栄が悪い。足しておく、と言われた。私の息子の席まで、この人が足すという。次に、住まいのことです。はい。うちの近くにいい賃貸がある。知り合いの持ち物件でね。お父さん、それは私たちで探すって。綾乃。お前は口を出さないでいい。綾乃さんが黙った。その黙り方に慣れがあった。何度も繰り返してきた黙り方だ。それと、結納のことですが。早坂さんが指を折った。うちは形はきちんとあります。仲人は、お得意先の専務さんにお願いしてある。もうお願いなさったんですか?先週ね。決まった話を報告されているだけだった。相談ではない。私は聞かされる側で、この席はそのための席だったのだ。それからね、さきさん。えみ子さんが茶杓の位置を直しながら言った。当日のお召し物ですけど、留め袖はお持ちかしら?持っております。まあ、良かった。もしなかったら、貸衣装屋のいいところをご紹介しようと思っていたの。持っていなければ紹介する。持っていても聞くことに意味がある。匠君。早坂さんは箸を置いて、息子を正面から見た。あんたは、うちに来なさい。匠がまた瞬きをした。うちというのは、うちの会社です。早坂医療機。早坂医療機。月に一度、納入業者の一覧に目を通すことにしている。数が多いので、名前だけ追う。その一覧にあった名前だった。調べないと決めていたことが、向こうの口から先に出てきた。私は湯飲みに手を伸ばして、思い出した顔をしないようにした。早坂さんは腕を組んだ。営業からやってもらう。今の会社よりは出せます。ずっとね。いえ、俺は三年もすれば、うちの内側は分かる。そこから先は、あんた次第だ。言い方は誘いだったが、中身は違った。娘の相手を自分の会社に入れれば、その人間の給料も休みも将来も、全部この人の手の中に入る。そういう話をしているのだと、私には分かった。匠は考えてから、背筋を伸ばした。ありがたいお話ですが、お断りします。なぜ。俺は今の仕事が好きなので。好き嫌いで飯が食えるのは、若いうちだけですよ。そうかもしれません。匠君。あんた、お母様に楽をさせたいと思わんのか?その一言で、息子の眉が動いた。思います。だったら。だから、自分で稼いだ金で楽をさせたいんです。早坂さんは黙った。それから、話を自分の会社の方へ戻した。うちはね、仕入れたものをそのまま右から左へ流すんじゃないんです。指で四角を描いてみせる。うちの倉庫で、品目ごとに仕分けて箱に詰め直すんですよ。だから手間がかかる。その箱は、どちらでご用意されるんですか?うちで作ってます。品番も入れてね。早坂さんは満足そうに頷いた。それから笑いながら、余計なことを言った。まあ、手間はかかるが、気を使うところは少ないんだ。私は椀の中を見ていた。早坂さんは構わず続けた。例えばね、うちは白石メディカルと直接やってる。先ほど伺いました。あそこは大きい会社だが、意外と細かいことは言わんのです。そこでは早坂さんは少しだけ声を落とした。自慢を打ち明け話に変える時の落とし方だった。書類さえ通っていればね、品物の方まで、一つ一つ見に来る会社じゃない。検査はなさらないんですか?私が聞くと、早坂さんは手を振った。するにはするが、書類の照合ですよ。紙と紙を合わせるだけだ。紙と紙だと思われているのか。自分の会社のことを言われているのに、私は他人の話を聞いている顔をしていなければならなかった。悪い気分ではなかった。人の本音は、こちらが誰でもない時に一番よく出る。えみ子さんの手が動いた。あなた。なんだ。そういうお話は、お食事の席では。これは仕事の話だ。若いものに教えてやってるんだよ。ですけど。えみ子さんは笑顔のまま、夫の湯飲みに茶を注いだ。注ぎながら、話を切った。

さきさんは、お仕事はいつまで続けられるおつもり?続けられるうちは、続けます。まあでも、お独りじゃないでしょう。そのうち、お体を悪くされたら。その時は、その時です。そうよね。頼れるのは、匠さんだけですものね。えみ子さんはそう言って笑った。匠さん、お漬け物はお口に合いまして?合うも合わないもない。匠は箸を膝の上に置いたままだった。私は箸を止めた。書類さえ通っていれば。その言い方が耳の奥に残った。書類が通る、というのは、書いた通りの品物が届いているという意味だ。その二つを別のものとして話す人は、普通いない。

綾乃、と呼ばれて顔をあげた。綾乃さんが立っていた。座卓に箸を伸ばし、次々と寿司を取って、自分の取り皿を両手で持ち上げる。皿の上には、五貫乗っていた。こんなの、顔合わせじゃないです。綾乃さん。私は名前を呼んだが、綾乃さんは止まらなかった。座卓を回って、私の横に膝をつく。そして、皿を私の椀の隣に置いた。私のを、食べてください。部屋から音が消えた。綾乃。あなた、何よ。お母さんは黙ってて。綾乃さんは母親の方を見なかった。私だけを見ていた。目が真っ赤だ。二人の親がしたことは、私が謝っても消えません。でも、この席で私にできることは、これしかないんです。私は皿を見た。中トロ、エビ、卵、イカ、それにカンパチ。どれも綾乃さんが自分で選んで取ったものだろう。卵が入っているのが、なんだかその人らしかった。ありがとう。私はそう言って、皿を綾乃さんの方へ静かに押し戻した。でも、これはあなたが食べなさい。みわさん。私はもう半分、いただきました。それに。私は綾乃さんの目を見た。あなたが自分の分を人に渡すところは、この家の人たちに見せなくていいの。綾乃さんの目から涙が落ちた。落ちてから、慌てて手の甲で拭った。匠が綾乃さんの背中に手を置いた。ありがとう。息子はそれだけ言った。綾乃さんは頷いて、皿を持って自分の席へ戻った。戻る途中で一度だけ父親の方を見たが、その視線は受け取られなかった。早坂さんは天井を見ていた。えみ子さんは笑っていたが、目だけが動いていなかった。私はその二人を見ながら、一つ決めた。この家とは付き合えないけれど、この娘さんとは付き合っていける。紙と紙を合わせるだけ。そう言って笑った人の顔が、まだ目に残っていた。

綾乃さんが席に戻ってから、早坂さんは携帯電話を取り出した。というから、うちの弟にも顔を見せてやろう。そう言って、私に断りもせず番号を押した。弟夫婦がすぐそこに住んでてね。娘の相手くらい、見ておきたいでしょう。呼び出しを待つ間、早坂さんは弟さんの話をした。弟は市議を二期やりました。今は講演会の世話をしてましてね。顔が広い。私は相槌を打った。ご立派なことですね。うちは、そういう家なんです。呼び出し音が漏れて聞こえる。五回、六回、七回。早坂さんは眉を寄せて、もう一度かけ直した。二度目も同じだった。出ませんねえ。お休みの日ですから。私がそう言うと、早坂さんは携帯を持ち直した。まあいい。写真を撮っておこう。こちらの返事を待たずに、画面をこちらへ向ける。そこに並んで。ああ、お椀を持っていただきましょうか。匠の顔色が変わった。母さん。いいのよ。私は椀を持ち上げて、カメラの方を向いた。撮らせておけばいい。この写真がいつか誰の側の証拠になるかは、撮った本人が決めることではない。シャッターの音がした。私は椀を座卓に戻した。早坂さんは画面を確かめて、満足そうに頷いた。えみ子さんが横から覗き込む。あら、よく撮れてるじゃない。早坂さんは携帯を自分の方へ引き戻した。後で、弟に送っておきます。弟さんは電話に出なかったのに、写真だけは送ることになった。そして、携帯を座卓に伏せておいた。そのまま、話をこちらへ戻す。うちは、社員を大事にしますよ。早坂さんはそう言った。三十人ですがね。一人もやめさせたことがない。立派なことです。その代わり、口答えをする人間はおか。一人もやめさせたことがない、と。口答えする人間はおかない。この二つは、同じ口から出てくる話ではない。その矛盾を、この人は考えたことがないのだろう。それでね、さきさん。もう一つ、はっきりさせておきたいことがある。はい。うちは娘が二人です。早坂さんは指を二本立てた。上と下。二人とも、いずれはうちの面倒を見る。それが、娘というものです。綾乃さんが顔をあげた。お父さん。その話は。聞きなさい。早坂さんは娘の方を見なかった。私だけを見ていた。私はその視線を受けて、口を開いた。二年、お帰りになっていないと、息子から聞きました。その上のお嬢さんにも、こちらの面倒を見ていただくおつもりですか?早坂さんが顎を引いた。答えはなかった。匠君と一緒になるのは構わん。ただし、うちの娘の手は、うちのために使ってもらう。そこは譲れません。私は湯飲みに手を伸ばした。茶はもう冷めていた。座卓の下で、綾乃さんの手が動いた。匠の手がその上に重なるのが見えた。二人とも、前を向いたままだった。私はそれを見なかったことにした。それはつまり、綾乃さんにこちらの家を見ていただきたい、ということでしょうか。そういうことです。では、うちの方はどうなりますか?早坂さんの眉が動いた。うちの方、というのは、私です。私は湯飲みを置いた。私にも、いずれ手がいる日が来ます。その時に、綾乃さんの手をお借りしたい、という話ではありません。ただ、今この場で片方の家の分だけが決まるのは、順番が違うと思いまして。早坂さんは口を開けて、すぐ閉じた。そして笑った。そりゃあ、あんたんところは、あんたの息子が見るでしょう。はい。うちの娘に、負担をかけないでいただきたい、と言ってるんです。匠が座り直した。母のことは、俺が見ます。息子ははっきりそう言った。それは俺の役目なので、綾乃には求めません。ただ。匠はそこで一度、綾乃さんの方を見た。綾乃がこちらの家を見るなら、俺も一緒に見ます。そういう約束をしています。綾乃さんが小さく頷いた。早坂さんの顔から、表情が抜けた。あんた、うちの家のことに口を出す気か。口ではありません。手を出す話をしています。小僧が生意気を言うな。生意気でしょうか。口を慎め。声が大きかった。座卓の上の湯飲みが震えたように見えた。匠は膝の上で拳を握ったが、言い返さなかった。綾乃さんの父親だからだ。息子はもう一度、その理由を自分に言い聞かせていた。綾乃さんが顔をあげて、父親を見た。なんで怒鳴るの?匠さんは、お父さんとお母さんの世話をするって言ってくれたんだよ。それを、どうして怒るの?そういう問題じゃない。どういう問題なの?早坂さんは答えなかった。答えのない問いに、この人は口を閉じる。黙ったまま押し通せば勝ちだと思っている人だ。代わりに出てきたのは、答えではなく娘への指図だった。これからな、綾乃。早坂さんは娘の方へ顎をやった。向こうの家とのお付き合いは、ほどほどにしておきなさい。綾乃さんが父親を見た。向こうの家、って、匠さんのことだよ。本人を前にして、その言い方をした。結婚したら、あんたの家はうちだ。あっちに入り浸るのは違う。入り浸る、って。この家のことは、わしが決める。綾乃さんは何か言おうとして、そのまま口を閉じた。それから、膝の上で両手を組んだ。組んだ手が震えている。私は何も言わなかった。言うべきことがなかったからではない。この人たちは、放っておけば自分で全部喋る人たちだと分かったからだ。綾乃は、結婚したら仕事はどうするんです?早坂さんが匠に聞いた。綾乃さんが決めることです。続けるなら、続けるでいい。ただし、うちの用がある時は、休ませてください。綾乃さんが顔をあげたが、何も言わなかった。言っても同じだと知っている顔だった。上のお姉さんは、どちらにお勤めなんですか?匠がそう聞いた。悪気はなかったはずだ。えみ子さんがあら、と言って、夫の方を見た。早坂さんは天井を向いていた。大きい会社よ。えみ子さんの答えは、それだけだった。会社の名前は出てこなかった。後で綾乃さんに聞いた話では、姉が入った会社の名前は、この家では言わないことになっていたらしい。父親が自分の口利きだと言い張って、娘に否定されてからだという。そこへ、えみ子さんが場を取り繕おうとかかった。まあまあ、お父さん。今日はおめでたい席なんですから。そうだな。綾乃のお父さんはね、あなたが上の子みたいになったら困るから、言ってるのよ。上の子。その言葉に、部屋の空気が半拍動いた。えみ子さんがまた、上の娘の話に戻った。あの子だってね、さきさん。悪い子じゃないんですよ。頭もいいし、大きな会社に勤めていて。ただ、父親に逆らってばかりで。そうですか。小さい頃から理屈っぽくてね。何を言っても、根拠は、根拠は、って。しっかりした方なんですね。しすぎるのも、女の子は損ですのよ。損。その言い方を、私は覚えておくことにした。上のお子さんは、こちらにお住まいなんですよね。私がそう聞くと、えみ子さんは首をかしげた。住所はこのままですけど、帰ってこないんですよ。あの子の部屋は、もう物置きですわ。物置き。たから、聞いた通りの言葉が本人の口から出た。この家では、食卓に座らない人の話が、いつも笑い話になるらしい。座らせなかった側が、笑い話にする。えみ子さんが茶を注ぎながら言った。二年前もね、うちが納めている品のことで、お父さんと揉めてね。早坂さんが顔をあげた。見たのは私ではなく、妻の方をだった。目つきが変わっていた。この部屋で初めて見る目だった。都合の悪い話が外へ出かかった時に、人が見せる目だ。えみ子。あ。えみ子さんの口が止まった。その話はいい。ええ、つまらない話ですから。えみ子さんは笑って、両手で口元を隠した。隠しながら湯飲みを取ろうとして、茶托ごとずらした。綾乃さんが母親を見て、それから父親を見た。その顔に、私は初めて怯えを見た。娘の怯えではない。何かを察してしまった人の顔だった。匠さん。えみ子さんが話を変えにかかる。お仕事、お忙しいんですって。うん。まあ、若いうちは働けるだけ働いた方がいいわね、あなた。そうだな。早坂さんは湯飲みを持ち上げた。持ち上げたが、口はつけなかった。中身が冷めていたのだろう。私は自分の椀に目を落とした。底が、もう見えかけていた。茶を吸って、粒が崩れかけていた。この椀を出した人と、この椀のことを何も聞かされていなかった娘さんが、同じ食卓に座っている。それを二時間見ていて、私はようやく分かった。この家の問題は、お茶漬けではない。納めている品のこと。さっきえみ子さんが言いかけて、口元を隠した、あの一言だ。

綾乃さんが立ったのは、母親が三度目に話をそらした時だった。お母さん。低い声だった。えみ子さんがあら、何でしょう、と笑いかけて、その笑いが途中で止まった。綾乃さんは母親の前に立ったまま、動かなかった。さっきから、何の話をしてるの?何のって、お仕事の話でしょ?違う。綾乃さんは首を振った。私は今日、匠さんとみわさんに、うちの家族を見てもらう日だと思ってた。匠が綾乃さんを見上げた。綾乃さんはその視線に頷いて、両親の方へ向き直った。見てもらった。もう、たくさん。綾乃さんの声は震えていなかった。座っている間は、ずっと震えていたのに。立ち上がった途端に、止まっていた。あの、座りなさい。早坂さんが言った。話は終わってない。終わってるよ、お父さん。綾乃さんは父親の方へ体を向けた。お父さんの話は、最初から一つしかなかった。うちの方が上だ、って話。なんだと?違うなら、聞かせて。今日、この二時間で、匠さんのことを何か聞いた?早坂さんが口を開いた。会社を聞いた。会社は聞いたよ。匠さんのことは。早坂さんは黙った。お母さん。綾乃さんは母親の方へ向き直った。みわさんに、何を聞いた?お仕事は続けられるの、って聞いたよね。あれ、心配で聞いたの?えみ子さんは笑った顔のまま言い返した。綾乃。お客様の前で、何を言ってるの?お客様にお茶漬けを出したのは、誰?あの。その時、匠が動いた。音を立てずに立って、座卓の橋まで進み出る。ここから先は、綾乃さんの言葉を自分が引き取る、という立ち方だった。早坂さん。匠の声は怖いくらい落ち着いていた。今日は、俺と綾乃さんの話をしに来ました。俺の家のことも、綾乃さんの家のことも、それでいい分だけ話せばいいと思っていました。そのつもりだ。では、伺います。息子は座卓の上の椀を指した。これは、何のために出したものですか?早坂さんは椀を見た。それから、私を見た。食事ですよ。食事なら、寿司が余っています。それは余っているのに、母の前にはお茶漬けが出ました。それは、何のためですか?言い方は静かだった。だからこそ、答えられなかった。早坂さんは椀ではなく、妻の方を見た。自分で決めたことではない、と目で言っていた。えみ子さんはその目を受けて、奥義のように手を振った。夫婦の間で、責任が一つ動いた。これは、私が決めたことよ。えみ子さんが口を挟んだ。主人は関係ありません。私が、その方がいいと思ったの。なぜ、その方がいいと思われたんですか?匠が聞いた。なぜって、あなた。理由があるから、そうなさったんですよね。その理由を、伺いたいんです。えみ子さんは口を開けたまま、しばらく止まった。だって、その方が身の程が分かるでしょう。初めて、本当のことを言ったのだと思う。匠が早坂さんの方へ向き直った。食べられるだけ感謝しろ、とおっしゃいましたね。匠は続けた。母は感謝しません。俺もしません。これは、感謝を求めていい食事じゃない。あんた、親に向かって。あなたは、俺の親ではありません。誰も息をしなかった。今日はまだ、という意味ではありません。この先もずっと、俺の親にはなりません。匠はそう言って、頭を下げた。私は息子の背中を見ていた。二十八年、この子が誰かに向かって頭を下げるのは、何度も見てきた。断るためにそうするのは、多分初めてだった。匠はもう一度、顔をあげた。母を侮辱するなら、この話はここまでです。早坂さんが立ち上がった。背が高い分、こうして立つと人を抑えつける形になる。そういう立ち方を選んだのだろう。あんた、うちがどういう会社と付き合ってると思ってる?早坂さんは私の方を指した。白石メディカルだ。あそこの仕事を回してるんだ。うちの娘と一緒になるってことが、どういうことか分かっとらんだろう。分かっていない、という言い方だった。分かっていないのはどちらなのか、この人は考えたこともないのだろう。早坂さんは匠の方へ向き直った。あんた、自分が何をしてるか分かっとるのか。分かっています。綾乃と、結婚できなくなるんだぞ。それは、綾乃さんが決めることです。匠は綾乃さんの方を見ながら言った。見ないで言ったから、その言葉は本当だと分かった。早坂さんが娘の名を呼んだ。聞いたか?この男は、お前を捨てる気だ。違うよ。綾乃さんは即答した。匠さんは、私に決めさせてくれてるの。お父さんが一度も、しなかったこと。早坂さんの顔が赤くなった。わしは、お前のためにやってきたんだ。知ってる。私立に入れて、ピアノを習わせて、車まで買ってやった。知ってるよ。全部知ってる。だから、今まで黙ってた。綾乃さんは息を吸った。でも、今日は無理。そして、はっきり言った。こんなことをするなら、私はこの結婚をやめるんじゃない。この家族から、離れる。えみ子さんが立ち上がった。何よ、それ。バカじゃないの?早坂の家を出るっていうの?仕事だって。これから、お金だって。お姉ちゃんは、出たよ。その一言で、えみ子さんが止まった。お姉ちゃんは、二年前に出た。誰も止めなかった。誰も迎えに行かなかった。綾乃さんの目に、また涙が溜まっていた。私はずっと、あれを見てた。次は自分の番だって、ずっと思ってた。綾乃さんは自分の指を見ていた。二年前のあの日、お姉ちゃんは荷物を持って玄関に立ってた。お母さんは台所にいて、出てこなかった。お父さんは、新聞を読んでた。早坂さんが座卓に手をついて、身を乗り出した。綾乃。その話は。私だけ、玄関まで行ったよ。そしたら、お姉ちゃんが言ったの。綾乃は残りなさい、って。残りなさい。私、その意味が二年前から分かってた。分かってて、残ってた。私は綾乃さんの横顔を見ていた。この人は、自分が損をする方を選べる人だ。損をする方を選べる人が、この家に一人だけいた。それが分かっただけで、その日ここへ来た甲斐があったと思った。早坂さんが何か言おうとした。言葉が出る前に、えみ子さんが手を叩いた。もう、やめましょうね。皆さん。明るい声だった。今日は疲れちゃったのよね。お父さんも言いすぎ。部屋の。もう、お茶漬けだって、ちょっとした冗談じゃないの?冗談。その言葉が出るのを、私は待っていた。じゃあ、私が悪いっていうの?えみ子さんは自分の胸に手を当てた。朝から支度して、掃除もして。それで悪いのは私。綾乃さんが椀を指した。お母さんが用意したのは、その二つだけでしょう。あとは全部、お店の人が作ったものだよ。えみ子さんは口を開いたが、言葉は出てこなかった。その代わり、腰を下ろして、私の方へ体を向けた。さきさん、あなたからも言ってやってくださいな。若い子は、勢いで物を言いますでしょう。私は湯飲みを取り上げて、口をつけずに戻した。私が申し上げられることは、一つだけです。綾乃さんは、勢いで物を言っていません。えみ子さんが黙った。綾乃さんは二時間、ずっと我慢していらっしゃいました。我慢の終わりを、勢いとは言いません。えみ子さんは、私の言葉を聞かなかったことにした。そういうことができる人なのだと分かった。さ、ごめんなさいね。うちの人は、ああいう言い方しかできない人で。ほら、寿司、余ってますから、召し上がって。えみ子さんは寿司桶を私の方へ押した。桶の底が畳をこすって、嫌な音がした。結構です。私はそう言った。今、いただいている途中ですので。私が言い終わる前に、綾乃さんが座卓を離れた。母親の手がその袖を掻こうとして、空を切った。匠が座布団に座るのと入れ違いに、綾乃さんは座卓を回って、私と匠の側に座った。こちら側に三人、向こう側に二人。その部屋の座り方が、そこで変わった。早坂さんはようやく腰を下ろした。下ろしてから、誰にともなく言った。こんな顔合わせは、聞いたことがない。それは私も同感だった。ただ、そうしたのはこちらではない。早坂さんがまた何か言いかけたが、綾乃さんはもう聞いていなかった。

それからの一時間が、その日で一番長かった。追い詰められた人は、大抵二つのうちどちらかをする。黙るか、一番言ってはいけないことを言うかだ。早坂さんは、後の方を選んだ。さきさん。わしはね、あんたに同情してるんですよ。うちは、綾乃の実家が助けてくれたが、あんたは一人でしょ?金の苦労が違う。ええ。大学まで出したのは、立派だ。奨学金でしょう。いえ、私が出しました。ほう。褒めるつもりで出した話に、褒め所がなくなったらしい。そこへ、えみ子さんが割って入り、私の方へ膝を向けた。そして、一番言いたかったことを言った。母子家庭なんて、苦労なさったでしょうね。来た、と思った。電話の時から、この人はこの一言を言いたかったのだろう。ご主人を亡くされたのは、匠さんが小さい頃ですって。五歳でした。まあ、それは大変。私だったら、生きていけないわ。生きております。ええ。だから、偉いって言ってるの。偉い。でもね、さきさん。子供って、やっぱり両親が揃っていないと。えみ子さんはそこで声を落とした。声を落とすと、その言葉が親切に聞こえると思っているらしい。どこか、抜けてしまうところがあるでしょう。匠が息を吸った。私はその膝に手を置いた。例えば、どの辺りでしょうか?私が聞くと、えみ子さんは笑った。口の聞き方とか。ほら、さっきから匠さん、目上の方に向かって。息子は、目上の方に椀を出された理由を伺っただけです。そこですのよ。そういうところを、お父様がいらしたら教えてくださるでしょう。父親がいれば、教えてくれる。何をだろう?理不尽に黙っていることだろうか?匠さんはね、悪くないのよ。育ててくださった方が、一人だったんだから。仕方ないわ。仕方ない。その言い方を、私は二十三年で何度聞いてきただろう。学校の面談で。近所の人に。役所の窓口で。仕方ない、という人は、大抵何も見ていない。えみ子さんが体をこちらへ寄せた。ご主人の葬式は、どのくらいの規模でしたの?身内だけです。まあ、そうでしょうね。うちは、主人の父の時に、二百人お見えになりましたのよ。二百人。私の夫の葬式に来たのは、十一人だった。十一人が、最後まで残ってくれた。数えるほどしかいなかったから、私は今でも全員の顔を覚えている。二百人来た葬式で、その人は何人の顔を覚えているのだろう。うちの人はね、綾乃には別のお話もあったんですのよ。えみ子さんは手のひらを顔の前でひらひらさせた。よそのお取引先の御曹司と息子さんのお話とか。あら、綾乃が嫌だって言うから、無理には言わなかったので。でも、こういうことになるなら。綾乃さんが顔をあげた。お母さん。その人、私に一度も会いに来なかったよ。忙しい方なんですよ。早坂さんが引き取った。向こうは、会社を持ってるんだ。会いに行くのは、こっちの仕事だ。そして私を見た。さきさん。あんたのところは、その辺が分からんでしょうな。はい、分かりません。私は正直に答えた。うちは、会いに行く方も行かない方も、二人で決めております。早坂さんは鼻で笑った。そして、一番まずい話の入り口を開けたのは、えみ子さんの方だった。匠さんは、ご実家に入られるおつもり?いえ、二人で借ります。あら、じゃあお母様はお一人に。はい。そう。それはね。その人は心配そうな顔を作った。作った顔だと分かるのは、目が笑っているからだ。そこへ、早坂さんが口を挟んだ。そもそもね、介護っていうのは。その一言で、部屋の温度が下がったのが分かった。下がったのは、私の側の温度だ。早坂さんは続けた。あれは、誰にでもできる仕事でしょう。早坂さんは湯飲みを回した。資格だっていらんのでしょう。人手が足りんから、誰でも入れるって聞きますよ。えみ子さんが、夫の袖に指を触れた。早坂さんは手を振った。事実を言ってるんだ。悪く言ってるんじゃない。わしはね、施設に納めてるから、見てるんですよ。ああいうところの人は。まあ、なんというか。私は先を促した。なんというか、何でしょうか?他に行くところがなかった人が、多いでしょう。私は湯飲みを持った。手は震えていなかった。震えなかったことに、自分で驚いた。事実を言っている、と本人は思っている。そこが一番厄介なのだ。匠君もいずれ分かる。金のない家で育つと、金のない考え方が身につくんだ。私は早坂さんの方へ顔を向けた。例えば、どんな考え方でしょう?人に借りを作らん、というやつだ。あれは一見立派だが、商売にはならん。借りを作らない。その通りだと思った。私はこの二十三年、誰にも借りを作らずに来た。そのおかげで、今の会社がある。うちの上の子なんて、大きな会社にいても、あの調子ですものね。えみ子さんが割り込んだ。調子とおっしゃいますと。正しいことばかり言うんですよ。正しいことは、家では役に立たないのにね。正しいことは、家では役に立たない。それが、この家の理屈だった。下の世話をするお仕事でしょ。えみ子さんが小さな声で言った。小さな声の方が、はっきり聞こえた。私、無理だわ。他人のあれを触るなんて。私の頭に浮かんだのは、かず子さんの手だった。指の関節が太くなって、爪をいつも短く切っている手だ。十九年前、その手と私の手で、最初の利用者さんの背中を起こした。八十九歳の男の人で、起き上がるのに四分かかった。四分かけて起こしたその背中を、この人たちは見たことがない。見たことがないまま、誰にでもできる、という。お母さん、もうやめて。綾乃さんの声が裏返った。お願いだから、やめて。早坂さんが娘の方へ顔を向けた。綾乃は、黙っていなさい。匠が動いた。私は息子の腕をそっと抑えて止めた。母さん。いいから。良くない。匠。私は息子の目を見た。食べ終わるまで、待ちなさい。匠が私を見返した。なんで、食べるの?出されたからよ。そういう問題じゃない。そういう問題なの。息子は意味が分からない、という顔をして、それでも座り直した。私は湯飲みを茶托に戻し、椀を持ち上げた。残っていたのは、崩れた飯が二口分ほどだった。茶はとうに冷めている。海苔は椀の縁に張り付いていた。一口。早坂さんが何か言ったが、聞いていなかった。二口。えみ子さんがあら、というのが聞こえた。私は椀の底に箸を入れて、崩れた粒を集めた。米を残すのは、私の育ちでは許されない。それに、米を捨てさせるために出された椀でも、米に罪はない。椀の中が、白い底だけになった。そこに、あられが一粒だけ残っていた。私はそれも取って、口に入れた。沢庵も三切れとも食べた。全部食べた。椀を座卓に下ろし、箸を置く。音がしないように、そっと置いた。湯飲みの茶を一口飲んで、私は座り直した。そして、両手を膝の上に置いて、頭を下げた。ごちそうさまでした。部屋が静まり返った。えみ子さんの作った表情まで、落ちていた。早坂さんは湯飲みを持ったまま、口を開けていた。綾乃さんが小さく息を吸うのが聞こえた。匠は見ていた。先に声を出したのは、早坂さんだった。あんた。早坂さんの声が、少し枯れていた。あんたは、何を考えてる?何も考えておりません。腹が立たんのか?立ちますよ。だったら、なぜ食う?立ったからと言って、米を捨てる理由にはなりません。私は顔をあげた。ただ、私は出されたものを残さないだけです。それだけのことです。早坂さんは何か言い返そうとして、言葉が見つからなかったらしい。自分が用意した侮辱が、こちらに届かなかった時の顔だった。侮辱というのは、受け取ってもらえないと成立しない。受け取らずに、器だけ綺麗にして返す。それが、その日の私にできる唯一のことだった。綾乃さんが両手で顔を覆っていた。匠はその肩に手を置いて、何も言わなかった。言わないでいてくれたことが、私にはありがたかった。お茶を、もう一杯いただけますか?私がそう言うと、えみ子さんが弾かれたように立ち上がった。ええ、今入れます。その人が急須に手を伸ばした時だった。ごちそうさまでした。私がそう言ってから、まだ五分と経っていない。玄関の鍵が回った。廊下を歩く音がした。ハンガーをかける音。それから、こちらへ来る足音。ただいま。遅くなって、ごめん。明るい声だった。その家で聞いた声の中で、一番普通の声だった。あら、まゆ。早かったじゃないの?えみ子さんが急須を持ったまま、振り返った。早くないよ。半休なんだから。これでも、遅いくらい。もう三時だよ。襖が開いた。入ってきたのは、背の高い女の人だった。髪を後ろで一つに束ねて、コートの上着を腕にかけ、鞄を下げている。顔立ちは綾乃さんに似ていたが、目つきだけが違った。物を見る時に、細かいところから見る人の目だ。顔合わせ、どうだった?その人はそう言いながら、部屋の中を見た。寿司の桶、刺身の大皿、座卓の橋の、空になった椀と、手のつけられていない椀。座卓を挟んで、こちら側に三人、向こう側に二人。そして、私の顔を見た。止まった。本当に、その場で止まった。見ている間に、その人の顔から血の気が引いていった。腕にかけていた上着が、畳に落ちた。本人は、それに気づいていなかった。まゆさんですね。初めまして。私はそう言って、頭を下げた。匠の母の、さきと申します。その人は、返事をしなかった。後で聞いた話だが、まゆさんは妹から、綾乃さんの相手はさきという家の人だとだけ聞いていたという。私が旧姓で仕事をしていることは、うちの社員なら誰でも知っている。ただ、家での苗字までは、誰も知らない。だからまゆさんは、私の顔を見るまで、さきという苗字と会長を結びつけようがなかった。一歩、こちらへ近づいた。それから、もう一歩。綾乃さんが立ち上がった。お姉ちゃん、どうしたの?まゆさんは妹を見ていなかった。私だけを見ていた。目が大きく開いて、また瞬きも止まっている。あの。やっと出た声が、枯れていた。失礼ですけど。その人はそこで一度、唾を飲んだ。白石、会長。部屋の音が消えた。早坂さんが顔をあげた。え?えみ子さんが急須を置いた。置き損ねて、蓋がずれた音がした。まゆ、あなた、何を言ってるの?こちらは、さきさんよ。知ってる。まゆさんは母親の方を見ずに答えた。さきさんでしょ。でも、白石会長です。早坂さんが笑った。その日一番、大きな笑い方だった。おい、まゆ。お前、疲れてるんじゃないか。疲れてない。この方は、匠君のお母様だ。さきさん。介護のお仕事をされてる。早坂さんは私の方へ手を向けた。まるで、そこに証拠があるかのように。えみ子さんが座卓の脇に膝をつき、椀に手を伸ばした。これ、下げますわね。そのままで、結構です。私がそう言うと、その手が止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。早坂さんがおっしゃった通りです。私は介護の仕事をしております。私はそう答えた。まゆさんの唇が、震えた。三年前の、十一月の改善報告会。その人はそう言った。本社の大会議室で、私、部門の代表で発表しました。壇上で、会長から直接、表彰をいただきました。私は記憶をたどった。毎年やっている会だ。何人にも渡している。品質管理の方でしたね。私がそう言うと、まゆさんの目に涙が浮かんだ。覚えていらっしゃるんですか?発表の内容は覚えています。受け取りの記録の用紙を、現場で直した、という話でしたね。はい。いい発表でした。あれは、現場の人にしか書けない内容です。綾乃さんが匠の袖を掴んだ。匠さん、今の。うん。知ってたの?知ってた。綾乃さんの手が止まった。なんで、言ってくれなかったの?言う必要がなかったから。匠はそう答えた。綾乃が俺と結婚するのに、母さんの会社は関係ないだろう。綾乃さんは口を開きかけて、何も言わなかった。それから、小さく頷いた。その頷き方で、この二人は大丈夫だと思った。まゆさんの膝が、その場で折れかけた。綾乃さんが慌てて、姉の腕を掴んだ。お姉ちゃん、ちょっと、何なの?さっきから。まゆさんは妹の手を握り返した。握り返しながら、両親の方を向いた。お父さん。その声が、さっきまでとは別人のものになっていた。この方、白石メディカルグループの会長。創業した人、白石美さん。早坂さんの笑いが、途中で止まった。何を言ってる?さきさんだと言ってるだろう。仕事では、旧姓を使ってるの。まゆさんが叫んだ。私が知っているのは、壇上で発表していた時の声だけだ。その人が声を荒げるのを聞いたのは、この時が初めてだった。うちの会社を作った人だよ。うちは、社長の上に会長がいるの。その会長。全国に病院と施設を持ってる会社の。えみ子さんが口を開けたまま、夫を見た。早坂さんは動かなかった。うちが。早坂さんの喉が動いた。うちが、納めてる。あの。そう、あの、白石メディカル。早坂さんは私を見た。それから、座卓の橋の、空になった椀を見た。また、私を見た。さっきまで人を上から下まで見ていた目が、どこを見ればいいのか分からなくなっていた。嘘だろ。早坂さんは携帯を取った。指が滑って、二度ほど画面を叩き直している。やがて、その目が一点で止まった。この写真の人は、私です。うちの会社のホームページには、会長の写真が一枚だけ載っている。小さい写真だ。十年前に撮ったもので、そろそろ差し替えようと思っていた。あんた、なんで黙ってた?早坂さんが言った。言う機会がなかったのではありません。言わないことにしていました。なんでだ?息子の結婚の話をしに来たからです。早坂さんは携帯を持ったまま、動かなくなった。唇だけが動いている。声にならない言葉を、二つか三つ、口の形だけで作っていた。多分、数字を数えていたのだと思う。お父さん、数えてるんでしょ?四割がいくらか。まゆさんが言った。まゆさんは鞄の口に手を入れて、名刺入れを出しかけて、途中でやめた。勤め先が同じ人間に、名刺を出しても意味がないと気づいたのだろう。その手が行場を失って、膝の上に落ちた。

まゆさん、どうぞお座りください。私がそう言うと、その人は首を振った。いえ、私は。お仕事帰りでしょ。立ったままで済む話ではなくなりました。綾乃さんが私たちの側の座布団に戻り、その隣を空けた。まゆさんは畳の上着を拾い、しばらく迷ってから、そこへ座った。座布団はなかった。座ってからも、その人の背筋は伸びたままだった。まゆさんは震えていた。怒りではない。恐れでもない。もっと別のもので、震えていた。その人だけが、自分の家で起きたことの大きさを、正確に測れていたのだ。お父さん。まゆさんは膝を正した。そのまま、両親を見上げた。よりによって、この人なの?早坂さんは目をそらした。今日、この人に、何をしたの?でもね、まゆ。お仕事のことと、ご家庭のことは、別でしょ。えみ子さんがそう言った。まゆさんは母親を見た。お母さん。今日、この家で、この方に何をしたか、分かってる?だから、ちょっとした冗談で。冗談って、何のこと?えみ子さんが、椀の方へちらりと目をやった。まゆさんはそれを見た。見た瞬間、その人の顔から色が抜けた。まゆ。あれはね、冗談で。冗談。冗談で、人にお茶漬けを出す家が、どこにあるの?まゆさんは自分の膝を掴んだ。私たち、潰される。綾乃さんが息を飲んで、それから姉の背中に手を回した。まゆさんはその手を掴んで、離さなかった。匠が小さく、息を吐いた。母さん。あの、ごめん。俺のせいだ。あなたのせいではないわ。息子は首を振った。自分が母親の名前を隠していたことと、この家がしたことを、同じ天秤に載せようとしている。そういう子だ。だから、私は名乗らずにいたのだ。私は膝の上で手を組んだ。ここまでは、私が決めた通りに進んでいた。自分の名前を出さない。息子の話だけをする。それだけを決めて、私はこの家へ来た。けれど、ここから先は違う。この家で何が起きるかは、もう私が決めることではなかった。潰される、と娘が言ったのに、父親の顔にはまだ何も浮かんでいなかった。会長ってのは、名前だけの会長じゃないのか。早坂さんがそう言った。本気で聞いているのだと、声の調子で分かった。この人は、自分が毎日名前を出している会社の中身について、多分一度も調べたことがない。お姉ちゃん。名前は毎日聞いてたけど、そんなに大きい会社なの?綾乃さんが小さな声で聞いた。この人も、名前しか聞いたことがなかったのだ。お父さん。まゆさんは妹に答えず、姿勢を正した。白石メディカルグループ。病院が十一、介護施設が八十六、職員は七千二百人。早坂さんの口が、半分開いた。匠が息を止めたのが、横で分かった。まゆさんは父親に向かって続けた。うちの会社は、十九年前に訪問介護の事業所を一つ作ったところから始めてる。職員二人で。まゆさんは私の方を見た。確かめるような目だった。私は頷いた。その後、続けられなくなった病院を引き受ける形で、病院を持った。十年前。その通りだ。潰せば、地域から医者がいなくなる場所だった。引き受けたのは、慈善のためではない。他に手をあげる人がいなかったからだ。そういう話を、私は人にしない。どうしても、立派に聞こえてしまう。立派に聞こえた瞬間から、人は本当のことを言わなくなる。それで、お父さんの会社が。まゆさんは父親を見た。その病院と施設のうち、関東一円のところへ、衛生材料一式を納めさせてもらってる。早坂さんが目をそらした。まゆさんはその横顔に向かって続けた。お父さん、いつも言ってるよね。年商十二億のうち、四億八千万はあそこだって。売上の四割が一社。その数字を、私は会社で見たことがない。さっきこの部屋で、本人の口からも聞いた。近所でも、親戚でも、言い続けてきた数字だ。娘が覚えているくらいだから、よほど言っていたのだろう。なぜ、うちみたいな小さいところと取引を?早坂さんがそう聞いた。今更の質問だった。決めたのは、私ではありません。私は答えた。品目ごとに、購買部の担当が条件と実績で選びます。早坂さんが身を乗り出した。会長は、決めないんですか?決めません。私が一社ずつ決める会社は、私がいなくなると止まります。早坂さんは、その答えの意味を図りかねる顔をした。社員三十人の会社が、四割を一社に預けてる。まゆさんの声が低くなった。それがどういうことか、お父さんはずっと分かってなかった。まゆさんは指を一本立てた。一社が抜けたら、社員三十人のうち、十二人分の仕事がなくなる。そういう数字だよ。そんなことには、ならん。ならないって、誰が決めるの?早坂さんは口を閉じた。部屋が静かになった。今度は、誰も取り繕わなかった。早坂さんが唾を飲んだ。あの、白石会長のところは、その。何人くらい?さっき言ったよ。七千二百人。まゆさんがそう答えた。私は何も言わなかった。娘の口から出た七千二百という数字は、この人にはまだ大きさとして届いていないようだった。うちは、三十人です。存じております。私がそう答えると、早坂さんは驚いた顔をした。仕入れ先の会社の規模くらい、こちらの購買部は見ている。見ているつもりでいた、と言い直すべきかもしれない。先に動いたのは、えみ子さんだった。あ、あの。さきさん。いえ、会長。その人は膝をついたまま、座卓の方へにじり寄った。私ったら、存じあげなくて。さきで結構です。そんな、とんでもない。えみ子さんは私の手を取ろうとして、途中でやめた。その手が行場を探して、自分の襟元で止まった。あの、お寿司を召し上がってくださいませ。握りの方から、どうぞ。えみ子さんは夫を振り返った。あなた。お寿司。お寿司を出して。おお。早坂さんが腰を浮かせた。綾乃、取り皿。いや、新しいのを持ってこい。綾乃さんは動かなかった。えみ子さんが台所の方へ体を向けた。お、お茶を入れ直しますわ。ああ、この急須じゃなくて、いい方のを。二人が同時に動いた。さっきまで座ったまま人を値踏みしていた二人が、同じ座敷を小走りに動き回っていた。結構です。私は言った。いえいえ、そういうわけには。えみ子さんが言った。本当に、結構です。私は自分の前の椀を見た。そこが、白い。あられも、海苔も、もう一粒も残っていない。その隣に、匠の椀が手つかずのまま置いてあった。これは、もういただきました。えみ子さんの動きが止まった。私はお茶漬けを出していただいて、残さずいただきました。それで、終わりです。後から別のものが出てくるのは、順番が違います。その人は、何も言えなかった。早坂さんは携帯を座卓に戻して、座り直した。座り直してから、私の斜め前まで膝を進めてくる。声を落とした。人に聞かれたくない時の、落とし方だった。白石会長。はい。あの、仕事の方には。そこで一度、唇を舐めた。影響は、ありませんよね。私はその人の顔を見た。娘の結婚の話をしていた部屋で、その人が最初に確かめたのは、娘のことではなかった。綾乃さんが、父親の背中を見ていた。その目を、私は覚えている。自分の父親が何を大事にしているのかを、二十七年目に知ってしまった。そういう目に見えた。匠が私の横で、拳を膝の上に置いた。何も言わなかった。綾乃さんが傷つくのを、分かっていたのだろう。今日のことで、取引をどうこうするつもりはありません。私はそう答えた。本当ですか?本当です。私は、そういうやり方をしません。早坂さんの肩から、目に見えて力が抜けた。そうですか。いや、それを聞いて安心しました。その人は膝を叩いた。そうですよね。仕事は仕事、家は家だ。ええ、当然です。ただ、一つだけ申し上げます。はい。なんなりと。仕事は仕事と分けられるのは、仕事の方がきちんとしている場合だけです。早坂さんは笑ったまま頷いた。頷きはしたが、答えにはなっていなかった。いや、今日は本当に失礼しました。うちのかみさんも、悪気はないんですね。えみ子。ええ、もう、私ったら、気が利かなくて。早坂さんがベストの内側から、名刺入れを出した。改めて、ご挨拶をさせてください。差し出された一枚を、私は両手で受け取った。顔合わせが始まって三時間。そこで初めて、早坂さんは私に名刺を差し出した。私は今日、名刺を出さないつもりで参りましたので。そう言うと、早坂さんは慌てて手を振った。いえ、とんでもない。存じあげておりますから。さっきまで、存じあげなかった人が、そう言った。二人は顔を見合わせて笑った。その笑い方が、私には一番恐ろしかった。この人たちは、その日のことを乗り切ったと思っていた。茶を入れ直せば済むと思っていた。それに、この人たちは一度も謝っていない。失礼しました、とは言った。何が失礼だったのかは、まだ一度も言っていない。お父さん。まゆさんが言った。早坂さんが振り返った。なんだ。安心するのは、まだ早いよ。早坂さんの口の端が上がりかけたまま、止まった。何を言ってる?取引のこと。今、会長がおっしゃっただろう。今日のことでは、どうこうしない、と。うん。今日のことでは、しない。まゆさんは自分の膝の上で両手を重ねた。でも、今日より前のことが、ある。お姉ちゃん、それって、二年前の?綾乃さんが言いかけた。まゆさんは妹を見て、小さく首を振った。今、話す。えみ子さんが夫を見た。夫は、娘を見ていた。私はその時初めて、背筋が冷たくなった。その日より前のことがある、とその人は言った。この人は、私の知らない何かを知っている。そして、それを私に言うために帰ってきたのでもないらしい。半休で帰ってきたら、たまたま私がいたのだ。まゆさんは鞄を引き寄せた。そして、鞄の口を開けたままにした。二年前の十月に、こちらの施設へ行きました。まゆさんはそう切り出した。あの記録の用紙が全社に広がって半年ほど経った頃で、現場で使えているかを見に行ったんです。会長から表彰していただいた、あの用紙です。私は頷いた。まゆさんは続けた。そこで、現場の人から、うちが納めている品のことを聞きました。早坂さんが顔をあげた。うち、というのは、早坂医療機。お父さんの会社。まゆさんは父親を見なかった。私だけを見て、話していた。仕事の報告をする時の、目だった。品物は、一つずつ袋に入った消毒綿です。肌に直接当てるもので、病院でも施設でも毎日使います。はい。二年前の秋から、府中と川越で同じ苦情が増えました。綿が切りにくい。湿り気が足りない、と。私はまゆさんの方へ目を向けた。こちらから品を変えて欲しいと申し入れた覚えは、ありません。はい。だから、おかしいと思ったんです。書いてないのに、苦情だけが増える。その苦情は、どう扱われていましたか?使い勝手の話として、処理されていました。品物が違うかもしれない、とは、誰も書かなかった。まゆさんの口調は変わらなかった。それで、その施設の倉庫で、箱を開けました。指で綿を切って、皮膚を拭って捨てる。それだけのものだから、変わればすぐに分かる。綿の切れ方、湿り気の加減。現場は、毎日それを手で確かめている。まゆさんは鞄から、黒い表紙の手帳を出して、膝の上で開いた。仕事で使うものらしく、付箋がいくつも張ってある。外箱の表示は、契約の品物の番号通りでした。納品書も、同じです。そこで、まゆさんは一度言葉を切った。でも、箱の内側に、小さい紙が一枚だけ張り付いていました。えみ子さんが、紙、と言った。まゆさんは母親の方を見なかった。詰め替えの作業で使う紙です。倉庫で箱に貼って、出荷前に剥がすもの。剥がし忘れでしょう。早坂さんの顎の線が、硬くなった。その紙に印刷されていた品番が、契約書にある品番と違いました。私は膝の上の手を、組み直した。違う、というのは、別の番号でした。桁の数も、頭の記号も違います。打ち間違いでは、ありません。まゆさんは私の目を見た。もう一つ、あります。そう言って、手帳をめくった。購入の度に、試験の成績表という紙を頂いています。中身の量と、アルコールの濃度の数字が書いてあります。ええ。あれは本来、作ったメーカーが出す紙です。でも、二年前の秋から、発行元がメーカーの名前ではなく、早坂医療機の名前に変わっていました。それは、書類を見れば分かることでは?以前は、受け取りの記録に発行元を書く欄がありませんでした。まゆさんはそう言った。私が直した記録の用紙で、初めてその欄ができたんです。私は、湯飲みへ伸ばしかけた手を引いた。箱に詰め替えるだけの会社に、中身の量は測れない。測れない会社が出した成績表とは、何なのか。つまり、その紙は最初から、早坂医療機が自分で作った紙だ。まゆさんが手帳の数字の欄を指した。数字も、その秋からほとんど動かなくなりました。同じ値が並びます。測った数字は、普通そこまで揃えません。揃えすぎた数字は、現場で一番先に疑う数字だ。隣で匠が息を詰めるのが分かった。まゆさんは手帳の付箋の一つに指をかけて、開いた。中ほどのそのページに、透明の袋が挟まれていた。袋の中に、小さな紙が一枚入っている。縦が四センチ、横が七センチほど。角が一つ折れている。そこに、番号と日付らしい数字と、担当者の判を押す枠が印刷されていた。これが、二年前の一枚です。この紙は、二年前からずっと私が持っていました。まゆさんは袋ごと、座卓の上に置いた。それから、手帳の後ろのページから、もう一つ袋を出した。これは、同じ箱から抜いた品物、そのものです。小さな袋の消毒綿が、一つ、透明の袋に入っていた。裏の表示を見てください。契約書に書いてある製造販売業者と、お名前が違います。透明の袋に、ボールペンで日付と施設の名前と、まゆさんの名前が書いてある。抜いた日、抜いた場所、抜いた人。それだけは、その場で書きました。早坂さんは、どちらも見なかった。見ないようにしているのが分かる、目の動きだった。そんなもの、うちが作ってるわけじゃない。その人は、やっとそれだけ言った。仕入れたものを、詰めてるだけだ。うん。だから、品物そのものを持ってきた。まゆさんは袋を、父親の方へ滑らせた。箱の表示は契約通り、中の袋の表示は別の会社。詰めたのは、誰?早坂さんは袋に触らなかった。お父さん。触らなくていいから、見て。まゆさんの声は、落ち着いていた。誰が、どの品を詰めたのか。それを聞いてる。早坂さんが黙った。二年前の夏に、原価が上がったよね。あの時、仕入れ先を変えた。なぜ、それを。原価が上がったって、この家で何度も聞いた。品物が変わったのは、そのすぐ後だよ。仕入れ先を変える時は、購買部に変更届を出して、承認をもらう決まり。その手続き、どうした?早坂さんは、畳の目を数えるように下を向いた。まゆさんは、父親の返事を待たなかった。出てないよ。私が調べた。二年分、一件も出てない。あなた。そんな話、私は聞いてませんよ。えみ子さんが小さな声で言った。うるさい。早坂さんが、その日初めて妻を怒鳴った。私はまゆさんの方へ向き直った。なぜ、その時言わなかったんですか?私はそう聞いた。聞かなければならなかった。二年は、長い。言いました。まゆさんは即答した。その週に、父に電話しました。うちが納めているものの品番が、違っているかもしれない。確認して欲しい、と。早坂さんが口を開いた。そんな電話は、三回した。まゆさんの声が、そこで崩れた。三回目に、お父さんは言った。女が会社に口を出すな、って。綾乃さんが両手で口を抑えた。じゃあ、二年前の夕飯の時、お姉ちゃんが出したのって。あの紙のことだよ。元の紙は、私が持ってた。綾乃さんの顔が歪んだ。匠が綾乃さんの背中に手を当てた。その手を、綾乃さんは払わなかった。二年前のあの夜、早坂さんはその紙を膝の下に敷いたのだという。その紙は、それっきり誰の目にも触れなかったのだろう。まゆさんが顔をあげた。会長。その人の声が、改まった。私は品質管理の人間です。おかしいと思ったら、書類にして会社へあげるのが仕事です。そうです、と私は答えた。でも、私は書類にしてあげませんでした。その人の目から、涙が落ちた。匠が綾乃さんの手を握るのが、視界の端に入った。まゆさんは膝の上の手を握った。取引先が、自分の実家だからです。私は何も言わなかった。言えることが、なかった。まゆさんは目を伏せたまま言った。自分が書けば、実家への恨みで書いたと思われる。逆に、私が黙っていれば、身内をかばったことになる。どっちに転んでも、私の名前が真ん中に来る。その通りだった。その立場に置かれた人が、二年動けなかったことを、私は責められない。二年、父を信じようとしました。まゆさんは自分の手を見た。そのうち、直すだろうって。それが、一番の間違いでした。早坂さんが何か言いかけた。まゆさんは父親をまっすぐ見た。その代わり、二年間、その品目の受け取りの記録だけは、自分で確かめ続けていました。毎回ですか?毎回です。関東の物流センターに入る日は、朝から記録を見ていました。まゆさんはそこで一度、口を閉じた。今から思えば、それも間違いでした。身内が相手の時は、担当を外れる申告を出す決まりがあります。それを出さないまま、自分だけで見ていたんですから。その人は、二年の間、実家に帰らず、納品物だけは毎回自分の手で確かめていた。家に帰らなかったのは、父親に腹を立てていたからではない。帰れば、同じ話をしてしまい、話せば、次は自分が黙れなくなる。黙れなくなる自分を、この人は二年間、怖がっていたのだと思う。そうしたら、先月。まゆさんは息を吸った。同じ紙が、また出ました。物流センターの受け入れで、箱の内側に張り付いていたんです。部屋の空気が動いた。二枚目です。番号も、二年前と全く同じでした。早坂さんが、こちらを向いた。その顔は、もう反論する人の顔ではなかった。まゆさんは手帳を閉じた。私は、その日のうちに、社内の相談窓口へ届け出ました。取引先のことでおかしいと思ったら、誰でも出せる、社内の届け出です。二枚目の紙と、二年前の一枚。この品物を撮った写真。それを、全部つけました。二年前のことは、自分の名前も、実家が当事者であることも、隠さずに書きました。出せば、その人は担当から外れるが、隠したことにはならない。窓口に出した後、どうなりましたか?私はそう聞いた。三日で、受付の連絡が来ました。担当から外れる手続きも、その週に済みました。では、今は。今は、私はこの件に関われません。関われない側から、見ています。届け出の行方を、外から見ているだけの、この一月余り。その長さがどれだけのものだったかは、この人の顔を見れば分かった。先月の、いつ頃でしょうか?先月の、初めです。私はまゆさんの顔を見た。先月の初め。その時期に、心当たりが一つあった。品質保証部が、取引先の納入品のことで調査に入っている。納めてもらった品が、契約通りかを調べる部署だ。任せているのは藤堂部長で、私に届くのはそこまでだ。窓口を預かっているのは、グループの社長と法務部で、私ではない。届け出た人の名前も、相手の名前も、結論が出るまで会長には知らせない決まりだ。途中で私が何か言えば、それだけで調査の色が変わる。月に一度、私の机に乗るのは、調査の一覧だけだ。案件名と進み具合と、次の期限。先月から乗っている案件が、あった。取引先の納入品に関する調査、と書いてあった。私はその紙に、継続、と書いて返した。それ以上のことは、していない。あの調査は。私はそう言った。あなたの届け出でしたか?まゆさんが、頷いた。その瞬間、私の中で二つの話が、一つになった。その日、この家で私が座らされた席と、先月から動いている調査。別々のところで起きた二つが、この家にとって一番悪い形で出会った。会長。誤解しないでください。まゆさんは私に向かって、はっきり言った。これだけで言えることは、多くありません。ええ。言えるのは、調べる理由がある、ということだけです。その通りだ。証拠があっても、それだけでは何も決まらない。決めるのは、納品書と現物の突き合わせと、成績表の数字だ。まゆさんが口を開いた。私は今日、この話をするつもりはありませんでした。窓口に出した以上、これは会社の手続きです。私が個人で同行する話じゃありません。私は頷いた。そうです。まゆさんは続けた。でも、この部屋に入って、あの椀を見て。その人はそこで、言葉を切った。黙っていたら、私も同じだと思いました。分かっています。私はそう答えた。調べているのは、うちの品質保証部です。あなたの部署でも、私でもありません。それから、一つだけ聞いた。まゆさん。私が今一番知りたいのは、契約のことではありません。はい。その二年で、うちの利用者さんに何か起きていなかったか、です。まゆさんは背筋を伸ばした。そこは、届け出る前に、一番先に確かめました。二年分の事故の報告を、全部見ました。それらしいものは、一件もありませんでした。そうですか。私は息を吐いた。その一言を聞くまで、私は自分がどれだけ息を止めていたか、気づかなかった。座卓に並べられたのは、透明の袋が二つ。中身は、小さな紙と消毒綿だけだった。それでも、その紙を貼ったのは、この家の会社だった。

先に立ち上がったのは、早坂さんだった。お前。娘を指す指が、震えていた。お前、家族を売ったのか?まゆさんは顔をあげた。売ってない。売っただろう。自分の親の会社を、勤め先に告げ口したんだ。告げ口じゃない。同じことだ。その人は、座卓を叩いた。湯飲みが跳ねて、茶が零れた。綾乃さんが小さく、悲鳴をあげた。まゆさんは立たなかった。座ったまま、父親を見上げた。お父さん。その声は、落ち着いていた。あれ、患者さんや利用者さんの肌に、直接当てるものだよ。早坂さんの動きが、止まった。まゆさんは続けた。採血して、血糖を測って、点滴の針を刺してお腹に入れた管の周りを拭いて。白石の施設には、皮膚の薄い人がたくさんいる。だから、なんだ。何かあってからじゃ、遅いでしょ。その一言は、大きな声ではなかった。それでも、部屋のどこにも逃げ場がない、言い方だった。何かあってからじゃ、遅い。まゆさんは繰り返した。私は毎日、それを言う仕事をしてる。それを、家では言っちゃいけないの?早坂さんは、答えなかった。答えられなかったのだと思う。その代わりに出てきたのが、この言葉だった。うちが儲からなきゃ。お前らだって、困るんだ。私は湯飲みに目を落とした。早坂さんの声は、止まらなかった。その金で、学校へ行かせたんだ。ピアノも、車も、家も。全部、わしが稼いだ金だ。知ってる。知ってるなら。知ってるから、二年黙ってた。まゆさんの声が震えた。知ってるから、一番苦しかった。まゆさんは息を吸い直した。お父さんは、会社の社員のことを言うよね。まゆさんは、声を落とさなかった。その社員の人たちは、自分が箱に詰めてるものが、どこで誰に使われてると思ってるの?そんなこと、聞いたことある?倉庫で詰めてる人に、これは何に使われるんですか、って。早坂さんの口が動いたが、声にはならなかった。お父さん。二年前、なんで変えたの?原価が上がったからだ。上がった分を、購買部に言えば良かったじゃない。値上げの相談は、普通のことだよ。早坂さんが黙った。まゆさんの答えは、短かった。言えなかったんだ。その一言で、私は早坂さんの会社に何が起きていたかを、理解した。まゆさんは言葉を継いだ。値上げを言い出したら、白石メディカルと直接やってる、っていう自慢が、少し安くなるから。えみ子さんが、両手で顔を覆った。泣いているのか、隠れているのか、私には分からなかった。早坂さん。私はそこで初めて、その人の名前を呼んだ。早坂さんが振り返った。その考え方で、医療に関わっていらしたんですか?座敷の空気が、硬くなった。誰も、動かなかった。早坂さんの口が、開いて閉じた。私は、あなたの会社の帳簿のことは知りません。売上のことも、社員の給料のことも。それは、私が口を出すことではありません。はい。ですが、今おっしゃったのは、そういう話ではありませんでした。私はその人の目を見た。儲からなければ困る。だから、中身は問わない。そういう順番で、お仕事をされていたんですか、と伺っています。早坂さんの喉が動いた。いや、わしは、そんなつもりでは。つもりの話をしているのではありません。私は続けた。うちの施設には、寝たきりの方が何千人といます。自分で痛いと言えない方もいます。その人たちの皮膚に、あなたの会社が箱に詰めたものが、毎日当たっています。早坂さんの膝から、力が抜けた。畳に手をついたのは、その次の瞬間だった。六十歳の男の人が、畳に手をつくのを、私は正面から見ていた。見ていて、気持ちのいいものではなかった。人が畳に手をつくのは、悪いと思った時か、怖いと思った時だろうと思っていた。この人がどちらなのかは、次の一言で分かった。申し訳、ありませんでした。額が畳につくほど、下げた。本当に、申し訳ない。今日のことも、仕事のことも、全部わしが悪いですから。顔をあげないまま、その人は言った。調査を、止めていただけませんか?綾乃さんが、息を飲んだ。まゆさんは、父親の後ろ姿を見たまま、動かなかった。早坂さんは額を畳につけたまま、続けた。お願いします。うちには、社員が三十人います。家族も、いる。今の時期に取引を切られたら、本当に終わるんです。私は、黙っていた。早坂さんは、匠の方へも体を向けた。匠君。あんたにも、謝る。今日は、本当に。やめてください。匠はそう言った。あなたが今謝っているのは、俺たちにじゃありません。取引にです。早坂さんは口を閉じた。息子は続けなかった。続けなくても、伝わったからだ。私はその横顔を見ていた。二十三年前、この子の父親が病院の廊下で言ったことが、もう一度蘇っていた。うちが二人で良かったと思わせてやってくれ。思わせてやれたかどうかは、まだ分からない。ただ、この子は頭を下げる相手と、下げない相手を、自分で選べる大人になった。それだけは、あの人に報告できると思った。早坂さんが、畳に手をついたまま言った。悪いところは、直します。すぐ直します。仕入れも、元に戻します。私は聞き返した。元に戻す、というのは。契約通りのものに、です。自分で言ってから、その人は初めて、自分の言葉に気づいたようだった。契約通りのものに戻す。それはつまり、契約通りでないものを納めていた、ということだ。畳についた手が、わずかに滑った。うちの倉庫の連中は、何も知らないんです。早坂さんはそう言った。詰めろと言われたものを、詰めただけで。あの子たちに罪はない。そうでしょうね。だから、どうか。箱に詰めている人たちのことを持ち出したのは、その時が初めてだった。持ち出す順番が、一番最後だった。これから、親戚になる中じゃないですか。早坂さんは、そう前置きした。私は、その言葉をしばらく口の中で転がした。早坂さん。はい。今日、この部屋に上がってから、あなたはずっと、私たちを貧乏人扱いしていらっしゃいましたよね。早坂さんの動きが止まった。食べられるだけ感謝しろ、とおっしゃいました。うちはこういう家だから、ともおっしゃいました。あれは、その。今は、親戚だから、とおっしゃる。私はその人の顔を見た。こういう家と、親戚。どちらも、同じ口から出た言葉ですね。早坂さんは、何も言えなかった。それにもう一つ、伺います。私はそう前置きした。今、親戚だから、仕事で手心を加えろ、とおっしゃいましたか。部屋の空気が、そこで完全に止まった。早坂さんの目が、こちらへ動いた。その顔は、自分が何を言ったかを、ようやく理解した人の顔だった。違います。そんなつもりでは。では、どういう意味でおっしゃったのでしょう?ただ、その情けを。情け。情けというのは、こちらが自分の意思で差し出すものだ。差し出せと言われて出すものを、情けとは言わない。うちの取引先の数は、正確には私も知りません。八百を超えていると聞いています。私は言った。そのどこかで、うちの身内が、誰かの親戚になっているかもしれません。私はそれを知りません。知らないまま、契約の通りに続けています。はい。もし親戚だから手心を加えろ、という話が通る会社なら、その八百を超える会社は、何を信じて品物を納めればいいんでしょうか?早坂さんは、目を伏せたままだった。あなたが今おっしゃったのは、あなたの会社を助けてください、という話ではありません。私は最後にそう言った。うちの会社を、そういう会社にしてください、という話です。えみ子さんが顔をあげた。そして、まゆさんの方を向いた。あなたのせいよ。その声は、震えていた。えみ子さんが腰を浮かせた。まゆ。あなたが余計なことをしなければ、こんなことには。お母さん、やめて。綾乃さんが母親の腕を掴んだ。やめてよ。お姉ちゃんが悪いんじゃない。二年前に確認してれば、済んだ話でしょ。誰が確認しなかったの?そんなこと、お母さんに聞いたって分からないわよ。分からないままでいられたのは、誰のおかげだと思ってるの?えみ子さんが黙った。うちは、去年車を変えたよね。綾乃さんの声が低くなった。その前の年に、リビングを直した。私の学費も、お姉ちゃんのピアノも、全部そのお金でしょう。綾乃。あなた、何を言い出すの?私が言いたいのは、私たちも同じお金で育ったってことだよ。綾乃さんの目から、涙が落ちた。だから、お姉ちゃんを責める資格、家の誰にもない。えみ子さんは、口を開けたまま答えなかった。その家で、その日一番最後まで謝らなかったのは、この人だった。

早坂さんは、まだ畳に手をついたままだった。頭を下げたまま、その人は返事を待っていた。頭をあげてください。私はそう言った。早坂さんは、動かなかった。あげていただかないと、話ができません。その人はゆっくり、体を起こした。額に、畳の跡がついていた。私は、何もしません。私は言った。早坂さんの目が、開いた。えみ子さんが息を吸うのが、聞こえた。早坂さんが膝で、じり寄った。ほ、本当ですか?はい。あ、ありがとうございます。ありがとうございます。その人は両手を合わせて、拝むような形になった。私は、まだ言い終えていなかった。調査の結果に、従うだけです。早坂さんの手が、止まった。問題がなければ、今まで通りです。問題があれば、契約に書いた通りに、対応します。それだけです。私が止めることも、進めることもしません。はあ。私が何もしない、というのは、助けないという意味でもあります。そこは取り違えないでください。早坂さんは口を開いた。会長なら、一言おっしゃれば。私は続けた。それに、今日から私は、当事者の身内です。その人は、呆然とした顔で私を見た。息子が、こちらのお嬢さんと結婚するかもしれません。そうなれば、私はあなたの親戚です。親戚になった人間が、その会社の調査に口を出すわけにはいきません。では、私はこの件から離れます。帰ったら、私自身の利害関係についても、書面で申告します。決めるのは私ではありません。グループの社長と法務です。早坂さんの顔から、また色が引いた。止めてくれる人がいなくなった、という意味だと分かったのだろう。けれど、それは同時に、こちらの都合で潰される心配もなくなった、という意味でもあった。その人の耳には、後ろの方の意味までは届かなかったらしい。では、どうすればいいんです?早坂さんが聞いた。うちは、何をすれば。調査に、協力なさってください。私は答えた。聞かれたことに、本当のことを答える。記録が残っていれば、全部出す。それだけです。それで、助かりますか?分かりません。私は正直に言った。ただ、隠したら、確実に終わります。それだけは、分かります。早坂さんは、畳を見ていた。早坂さん。一つだけ、申し上げてよろしいですか?はい。身の程というものを、覚えてもらわないと、とおっしゃいましたね。早坂さんの肩が、動いた。私も、そう思います。私は座り直した。ですから、会社のことは会社の決まり通りに。家のことは、子供たちに任せます。その人は、何も言えなかった。それが、私の考える、身の程です。えみ子さんが、小さく、そんな、と言った。私は二人の方へ、体を向けた。早坂さん。それから、奥様。えみ子さんが背筋を伸ばした。は、はい。いくつか、お返ししておきたいことがございます。えみ子さんの喉が動いた。一つ目。奥様がお電話でお尋ねになった、年収のことです。答える義務のないことをお聞きになるのは、これからはおやめになった方がいいと思います。あれは。二つ目は、ご主人に申し上げます。私は早坂さんに向き直った。息子に、収入を証明する書類を求められましたね。あれをお出しするのは、お金を借りる時です。結婚の挨拶で求めるものではありません。早坂さんが、下を向いた。三つ目。ご近所の方の前で、これが娘の相手だ。母子家庭だがね、とおっしゃったそうですね。早坂さんの肩が、丸くなった。あれは、息子が私に言わないでおこうとした話です。私が持ち出すのも、今日で終わりにします。私はえみ子さんを見た。奥様。四つ目です。これで、最後にします。お電話の最後に、ご主人はもういらっしゃらないのよね、と念を押されました。えみ子さんが、顔をあげた。私はその目を見て、答えた。はい。おりません。二十三年前に、亡くなりました。私は間を置いた。その二十三年の間、私はあの人がいなくて困ったことは、何度もあります。でも、恥ずかしいと思ったことは、一度もありません。えみ子さんは、何も言わなかった。その人が黙ったのは、その日で何度目だっただろう。匠がお茶漬けをお出しになった意味を伺った時だった。そして、今黙る理由が、その間に入れ替わっていた。それだけです。私は膝に手を置いて、一礼した。それと、お願いが一つだけあります。早坂さんが、伏せたまま口を開いた。何でしょう?今日のことで、綾乃さんとまゆさんを、責めないでください。早坂さんが、こちらを見た。お二人は、この家で一番まともなことをなさいました。それを責めるような家でしたら、私はお付き合いの仕方を考え直します。その日、私がその家に向けた、脅しめいた言葉は、それだけだった。自分のためには、一言も言わなかった。あの二人のためなら、使う。それだけは、決めていた。下げた頭を上げてから、匠の方を向いた。うん。帰りましょう。息子は座卓の椀に目をやった。母さん、あれ。置いていくのよ。でも、私たちが下げるものじゃないの?息子が立ち上がった。その時、まゆさんが口を開いた。私、今の部屋は、引き払わない。えみ子さんが、娘の名を呼んだ。まゆ。ここには、戻らないよ。今まで通り。まゆさんは父親を見た。それと、会社はやめない。品質管理のままでいる。それが、私の仕事だから。早坂さんは、何も言わなかった。匠に続いて、綾乃さんも立った。待ってください。綾乃さんは、両親の方を向いた。お父さん、お母さん。私は、匠さんと結婚します。えみ子さんが、綾乃、と言いかけた。でも、二人とは、距離を置く。綾乃さんははっきり言った。今日みたいなことがあったから、じゃない。初めて、見えたから。距離って。あなた。連絡はする。何かあれば、行く。でも、しばらく実家には帰らない。えみ子さんの顔が、歪んだ。綾乃。親を捨てるの?綾乃さんは首を振った。捨てないよ。私は、捨てない。そして、座卓の上を指した。椀が二つ、まだそこにあった。一つは、空で。一つは、手つかずのままだった。あの食卓を分けた時に、家族を壊したのは、そっちだよ。えみ子さんの口が、閉じた。それから、また開いた。私は、あなたたちのためを思って。知ってる。綾乃さんは頷いた。お母さんが本気で、そう思ってるのは知ってる。それが、一番怖いの。綾乃さんは座卓の方へ目を落とした。私、ずっと自分に言い聞かせてた。うちの家族は、四人で一つだって。綾乃さんの声が震えた。でも、今日この部屋には、五人いたのに、椀が二種類あった。誰も、何も言わなかった。それを見て、分かったの。この家は、人を数えるんじゃなくて、人を分ける家なんだって。匠が、綾乃さんの隣に立った。早坂さん。奥様。息子はそう言った。綾乃が親と縁を切る必要は、ありません。それは、俺が望むことじゃない。早坂さんが顔をあげた。ただ、俺の母を、二度と侮辱させません。その言い方は、お願いではなかった。それだけは、この先ずっとです。早坂さんは、畳の縁を見ていた。言えることがなかったのだと思う。匠はもう一つ、思い出したように言った。さっきの写真、消してください。早坂さんが、座卓の携帯を見た。あれは、その弟さんに送るとおっしゃった写真です。母が、お茶漬けの椀を持っているところの。早坂さんは携帯を取って、震える指で画面を触った。消えたかどうかを、私は確かめなかった。確かめるようなことをする家だと思われたくなかった。最後に、私はまゆさんの方を向いた。その人は、まだ座ったままだった。父親に家族を売ったと言われた人が、その部屋で一番、背筋を伸ばしていた。まゆさん。はい。あなたは、会社を裏切ったんじゃありません。その人の肩が、動いた。守るべき人を、守ったんです。まゆさんの顔が、崩れた。声を出さずに泣く人だった。多分、この家でそう覚えたのだろう。よく、二年持ちこえましたね。私は声をかけた。あなたのなさったことは、手続きとして正しいことです。あとは、会社が判断します。私は、口を出しません。はい。それから、これは会長としてではなく、匠の母として申し上げます。まゆさんが、目をあげた。あなたが家を出た日、玄関で妹さんに、綾乃は残りなさい、とおっしゃったそうですね。まゆさんの目が、揺れた。妹さんは、その日から今日まで、ずっとあなたを見ていました。まゆさんは畳に手をついて、頭を下げた。その頭を、私は最後まで見ていた。顔をあげた、まゆさんは、座卓の上の袋を二つとも取って、手帳に挟み直した。座卓の椀は、そのままにしておいた。下げるのは、出した人の仕事だ。廊下を歩きながら、私はもう一度、あの写真を見た。ゴルフ場の芝の上で笑っている十人。真ん中に、早坂さんがいる。その頬を通りすぎながら、私は座敷の戸棚を思い出していた。表彰状が額に入って並んでいた、あの棚だ。中身は知らんが、と早坂さんは言った。中身を知らないままもらった表彰状が、その家にはいくつも飾ってあった。綾乃さんが戸まで降りてきて、私の靴を揃えてくれた。その靴を履く時、後ろでえみ子さんが何か言った。聞き取れなかった。聞き返さなかった。綾乃さんが小さな声で、私を呼んだ。みわさん。はい。今日は、本当に。もういいのよ。私はその人の肩に手を置いた。あなたが自分の皿を差し出したところから、私はずっとあなたの味方です。駅までの道を歩いた。来た時と同じ道なのに、歩き方が違って見えた。お母さん。怒ってる?怒ってるわよ。見えないけど。見せる相手がいないもの。匠が短く笑った。笑ってから、また黙った。門を出る時、匠が私の腕を取った。その手は、まだ震えていた。

三週間後、品質保証部の藤堂部長から報告が上がった。会長がお聞きになる前に、契約の担当と法務部で結論は出しております。この件から離れると私が伝えたのを、守ってくれたのだと分かった。消毒綿だけではなかった。ガーゼも、体を拭くタオルも、契約とは違うものが混ざっていた。納品のたびに出される試験の成績表にも、実際には測っていないと見られる数字が並んでいた。問題になった品目は、結論が出たその日に止め、使ったところまで遡って確かめてあった。まゆさんが言った通り、体に異常が出たという届けは、一件もなかった。箱の表示と中身が違う話なので、役所への届けでも済んでいた。他の品目は、代わりの納入先が決まるまで、契約通り納めてもらった。現場を止めるわけにはいかない。切り替えが済んだのは、六週間後だった。早坂医療機との取引は、そこで、契約に定めた手続き通りに終わった。取引を終える書類に、私の名前を書く欄はなかった。私は、報告を受け取っただけだ。その後のことは、聞いた話でしか知らない。この案件を、私はどこへも話していない。それでも、うちが代わりの納入先を探し始めれば、理由は想像される。早坂の他の得意先も、納められた品を自分たちで確かめ始めたそうだ。社員は三十人から十五人になり、あの家は売りに出たそうだ。箱に詰めていた人たちのことを、考えた。詰めろと言われたものを、詰めただけの人たちが、一番先に仕事を失う。それが、隠すことの値段だった。電話が、一度だけかかってきた。あんたのせいで、会社が潰れる。早坂さんの声だった。違います。私はそう答えた。あなたの会社を追い込んだのは、私ではありません。じゃあ、誰だ?あなたが、今までしてきた仕事です。しばらく、息の音だけが聞こえて、それから切れた。かけ直しは、しなかった。早坂さんは、自分で頭を下げて取引先を回っているという。名前だけ使ってきた人が、今は中身の話をして歩く。えみ子さんから、手紙が来た。最後の行に、こう書いてあった。綾乃と匠さんが結婚すれば、私たちは家族でしょう。少しくらい、助けていただいてもよろしいのではないでしょうか。私は、返事を書いた。結婚するのは、子供たちです。私の会社と、そちらの会社が親戚になるわけではありません。それっきり、手紙は来ていない。綾乃さんは、月に一度、実家に電話をかけている。出るのはいつもえみ子さんで、話すのは天気のことばかりだという。顔合わせの日から五ヶ月後、匠と綾乃さんは式をあげた。親族と友人だけの、小さな式だった。会場を選んだのは、二人だ。まゆさんはコートの上着で来て、後ろの席に座ろうとし、綾乃さんに前へ引っ張られた。かず子さんも来た。式の間中、ハンカチを握りしめていた。早坂さんとえみ子さんは、招待状を受け取ったが来なかった。そのことを、綾乃さんは責めなかった。披露宴の途中で、私は綾乃さんと二人になった。あの日、あなたは自分のお皿を、私にくれようとしたでしょう。綾乃さんは顔を赤くした。あれ、後から考えたら、失礼だったかもって。いえ。だって、施しみたいで。こんなの顔合わせじゃないです、と言ってくれたでしょう。あれは、施しの言葉ではありません。私はその人の手を取った。だから、私はあなたなら、匠を任せられると思ったの。綾乃さんの目に、涙が浮かんだ。その日、その人が泣いたのは、それが最初だった。披露宴の後、かず子さんが隣に来た。会長。泣かないんですね。泣くところが、なかったのよ。ありましたよ。三回くらい。その人はまだ、ハンカチを握っていた。息子が選んだのは、肩書きではなく、人を見ることのできる相手だった。顔合わせで出された、あのお茶漬けのおかげで、それだけはよく分かった。分かったのは、私だけではない。あの椀を運んできた人も、それでいいと言った人も、椀一つで、自分の中身を見せてしまった。二人は、匠の会社の近くに、部屋が二つある住まいを借りた。引っ越しの日、綾乃さんは炊飯器を最初に出した。匠は、今も同じ会社にいる。調査が終わった後、まゆさんは元の担当に戻った。異動も、なかった。私は、何もしていない。私は、相変わらず、さきとして家に帰り、白石として事務所に出ている。これからも、そうやって暮らしていきたいと思っている。ちなみに、あの日以来、食べられるだけ感謝しろと言われたあの家で、食卓を囲んだことは、一度もない。

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