お盆の帰省で3年ぶりに会った息子の嫁が、私が心を込めて予約した地元で評判の寿司店の前で放った第一声は「なんなの、この安っぽい店。お母さん、まさか年金暮らしの貧乏人だから、こんな程度のお店しか予約できなかったんですか?」でした。月6万円の年金から2万円を必死に捻出し、夫と朝から掃除して買い物して迎えた特別な日の、その一言で全身の血が凍りました。三十年間病院の清掃員として働いてきた私の誇りが、一…

お盆の帰省で3年ぶりに会った息子の嫁が、私が心を込めて予約した地元で評判の寿司店の前で放った第一声は「なんなの、この安っぽい店。お母さん、まさか年金暮らしの貧乏人だから、こんな程度のお店しか予約できなかったんですか?」でした。月6万円の年金から2万円を必死に捻出し、夫と朝から掃除して買い物して迎えた特別な日の、その一言で全身の血が凍りました。三十年間病院の清掃員として働いてきた私の誇りが、一...

「なんなの、この安っぽい店。お母さん、まさか年金暮らしの貧乏人だから、こんな程度のお店しか予約できなかったんですか?」

お盆の帰省で三年ぶりに会った息子の嫁、さやの第一声がそれでした。私は全身の血が凍るような衝撃を受けました。

心を込めて選んだ、地元で評判の寿司店。朝から夫の吉夫と二人で家を掃除し、息子夫婦の好きなものを思い出しながら買い物をして、特別な日のためにと奮発して予約した店でした。

月六万円の年金から、必死に捻出した二万円。それは私たち夫婦にとって、決して安い金額ではありませんでした。

「さや、せっかく母さんが予約してくれたんだから」

息子の大輝が申し訳なさそうに妻をなだめましたが、その声には何の熱も込められていませんでした。

隣で吉夫が悲しそうに俯いているのが見えました。

三十年間、病院の清掃員として朝早くに起きて働き続けてきた私。その誇りが一瞬にして踏みにじられたような気がしました。

でも、この時はまだ、これから起こる出来事の序章に過ぎなかったのです。

その夜、帰宅した後も私の心は重く沈んでいました。台所で片付けをしていると、ふと壁にかけた表彰状が目に入りました。

「永年勤続二十五年表彰 黒田ノブ子殿」

病院から頂いた、私の誇りそのものでした。

思い返せば、大輝を大学に通わせるため、私は必死で働いてきました。朝四時に起きて病院へ向かい、患者さんたちが気持ちよく過ごせるよう、心を込めて清掃してきたのです。

学費四百万円、就職活動の支援、そして結婚資金として三百万円。吉夫と二人で、爪に火を灯すように貯めたお金でした。

「ノブ子、あまり気にするな」

リビングで新聞を読んでいた吉夫が、優しく声をかけてくれました。定年まで工場で働き続けた夫は、私の気持ちを誰よりも理解してくれています。

「でも、吉夫さん……私たちがどんな思いで大輝を育ててきたか……」

言葉が続きませんでした。

三年前の結婚式では、さやも「お母さん、お父さん、これからもよろしくお願いします」と涙を流していたのです。あの時の笑顔は、一体何だったのでしょうか。

清掃員として三十年。私は自分の仕事に誇りを持っています。でも、息子夫婦の目にはそれがどう映っているのか、不安が胸を締めつけました。

翌朝、朝食の準備を整えていると、さやがパジャマ姿のまま降りてきました。テーブルに並べた手作りの和食を一瞥すると、彼女は露骨に顔をしかめました。

「お母さん、こんな質素な朝ご飯しか作れないんですか? うちでは毎朝オーガニックのパンとスムージーなんですけど」

心を込めて作った味噌汁と焼き魚。それが粗末だと切り捨てられ、私は返す言葉を失いました。

「さや、母さんの料理は美味しいんだぞ」

大輝がフォローしましたが、続く言葉に私は耳を疑いました。

「まあ、清掃員なんて誰でもできる仕事してる人だから、センスがないのは仕方ないか」

息子の口から出た言葉に、私の手が震えました。あの小さかった大輝が、母親の仕事をこんな風に見ていたなんて。

「大輝、それはあまりにも……」

吉夫が止めようとしましたが、さやが遮りました。

「お父さん、事実でしょう。大体、息子さんは一流企業で働いているのに、お母さんは未だに清掃員。恥ずかしくないんですか?」

私は箸を置き、静かに答えました。

「さやさん。清掃の仕事は、誰にでもできるものではありません。患者さんが安心して治療を受けられるよう、感染症対策や専門的な知識が必要なんです」

しかし、さやは鼻で笑いました。

「そんな言い訳しないでくださいよ。要は掃除でしょ。私の実家の母は元銀行員で、今も投資で稼いでいます。それに比べて……」

朝食もそこそこに、息子夫婦はリビングへ移動しました。私が後片付けをしていると、聞こえてきた会話に愕然としました。

「なあさや、子供の教育費の話なんだけど」

「ああ、それね。月十万円は最低でも援助してもらわないと。私立の幼稚園に入れるつもりだから」

「十万か。ま、俺たちエリートの子供だから、それくらいは当然だよな」

月六万円の年金で生活している私たちに、月十万円の援助。それがどれほど無理な要求か、息子は分かっているはずでした。

午後になり、私が仏壇に手を合わせていると、さやが近づいてきました。

「お母さん、ちょっといいですか?」

振り返ると、彼女は露骨に鼻を押さえていました。

「申し訳ないんですけど、病院の清掃って、お便所とかも扱うんですよね。正直、そんな汚い仕事してる人が作った料理、食べたくないんです」

心臓を掴みにされたような痛みが走りました。三十年間、誇りを持って続けてきた仕事を、汚いと言われるなんて。

「うちの子に触らないでもらえますか? 変な病気でも移されたら困るので」

目の前が真っ暗になりました。私は感染予防のプロフェッショナルとして、誰よりも衛生管理に気を使っているのに。

夕方、大輝と二人きりになった時、私は勇気を振り絞って聞きました。

「母さんの仕事、本当にそんなに恥ずかしい?」

息子は面倒臭そうに答えました。

「正直言って、母さんは俺たち家族の恥だよ。会社の同僚に親の職業聞かれても答えられないし」

「でも、あなたを大学まで行かせたのは、この清掃の仕事で稼いだお金よ」

「それは感謝してる。でも、もう時代が違うんだ。母さんみたいな低学歴の人間には分からないかもしれないけど」

低学歴。その言葉が胸に突き刺さりました。確かに私は高卒です。でも、息子の教育のためなら何でもしてきたつもりでした。

夜、布団に入っても眠れませんでした。隣で吉夫が寝息を立てています。

「吉夫さん、私たち、何か間違えたのかしら」

「ノブ子……」

吉夫がそっと私の手を握ってくれました。でも、その温もりさえも、今は慰めにはなりませんでした。

翌日の昼食、さらに衝撃的な言葉を聞くことになりました。さやが大輝に向かって言ったのです。

「ねえ、お母さんたちの生命保険、ちゃんと確認してる?」

「ああ、もう少しで満期だよ。その金で新車でも買おうか」

まるで私たちがいないかのような会話。私と吉夫は、ただ黙って聞いているしかありませんでした。

その日の夕方、私は買い物に出かけることにしました。少しでも外の空気を吸いたかったのです。吉夫も一緒に行くと言ってくれましたが、一人で考える時間が欲しくて断りました。

「三十分ほどで戻ります」

玄関を出る時、リビングから息子夫婦の会話が聞こえてきました。立ち聞きするつもりはありませんでしたが、聞こえてきた内容に足が止まりました。

「大輝、本当にお母さんの生命保険、来月で満期なの?」

「ああ、確認したよ。二千万円だ。母さんには内緒だけどな」

「それって、お母さんが死んだら入るお金よね」

「そうだよ。ま、清掃員なんて病気になりやすい仕事だし、時間の問題じゃない」

血の気が引いていくのを感じました。まさか、私の命をそんな風に考えているなんて。

「正直、早く死んでくれないかな。そうすれば、この汚い家からも解放されるし」

さやの言葉に、私は玄関の壁に手をかかりました。足に力が入りません。

「それに、お父さんも一緒にいなくなってくれれば、土地も売れるでしょう。ここ駅から近いから、結構な値段になるはずよ」

「さや、それは……」

「まあ、確かにそうだけど」

「何をグズグズしてるの? あんな貧乏臭い親のこと?」

「いや……そんなことはない」

「俺にとって、本当の家族はさやと子供だけだ」

決定的な一言でした。

三十八年間育ててきた息子が、私たちを家族と思っていない。それどころか、死を願っている。

震える手でドアノブを握り直し、私は静かに家を出ました。涙が止まりませんでした。

通りを歩きながら、これまでの人生を振り返りました。大輝が生まれた日のこと。初めて「母さん」と呼んでくれた日。熱を出した夜、一晩中付き添ったこと。受験の朝、お弁当に「頑張れ」のメッセージを入れたこと。

全部、全部、無駄だったのでしょうか。

スーパーについても、何を買いに来たのか思い出せません。ただ呆然と商品棚を見つめていました。

「黒田さん?」

振り返ると、病院の同僚の村田さんが心配そうに見ていました。

「大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ。え、ちょっと、息子さん帰省されてるんでしょう。楽しいはずなのに、どうしたんですか?」

村田さんの優しさに、また涙が溢れそうになりました。でも、息子のことを悪く言うわけにはいきません。

「いえ、何でもないんです。ありがとうございます」

家に戻ると、吉夫が心配そうに玄関で待っていました。

「ノブ子、遅かったな。何かあったのか?」

私は首を振りました。あの会話のことは、吉夫には言えません。彼もきっと深く傷つくでしょうから。

夕食の準備をしていると、大輝が台所にやってきました。

「母さん、ちょっと話があるんだ」

嫌な予感がしました。

「ノブ……実は、子供の教育資金で、まとまったお金が必要なんだ。五百万円ほど、てもらえないか」

「大輝、そんな大金、どこにあると思っているの?」

「母さんたち、コツコツ貯金してるんだろ。俺のために使ってくれてもいいじゃないか」

「あなたのためには、もう十分にしてきたはずよ」

息子の顔が急に険しくなりました。

「なんだよ、その言い方。親が子供に金を出すのは当たり前だろ」

「当たり前? 私たちはもう年金生活なのよ」

「だから何? 清掃員の仕事、まだ続けてるんだろ。死ぬまで働けばいいじゃないか」

死ぬまで。その言葉が、先ほどの会話と重なりました。

「それに、母さんの生命保険があるじゃないか。満期になったら二千万円だろ」

ついに本音が出ました。私は震える声で聞きました。

「まさか、それを当てにしているの?」

「何が悪い? 俺は長男だぞ。相続する権利がある」

「大輝、私は生きているのよ」

そう言った私を見て、息子は冷たい目をしました。

この子はもう、私の知っている大輝ではない。いや、もしかしたら最初から、こういう子だったのかもしれません。

その時、私の中で何かが切れました。プツンと音を立てて。

「もう出ていって。この家から出て行きなさい。今すぐに」

大輝は鼻で笑いました。

「何言ってんだよ。俺は客じゃない。息子だぞ」

「息子? さっき、本当の家族はさやさんと子供だけだって言ったじゃない」

息子の顔色が変わりました。

「聞いてたのか?」

「ええ、全部聞きました。私の死を願っているってことも。それはもういいです。私にはもう、息子はいません」

震えが止まりませんでした。でも、言うべきことは言わなければ。三十年間、人のために尽くしてきた私にも、怒りがあります。

「お母さん、何を興奮してるんですか?」

騒ぎを聞きつけたさやが現れました。その顔には、薄笑いさえ浮かんでいます。

「更年期障害かしら? それともボケが始まってる?」

侮辱的な言葉に、私の決意は固まりました。

「私は正気です。そして、はっきり言います。もう我慢はしません」

「我慢? 何を我慢することがあるんですか? ただの清掃員のくせに」

「その清掃員を、あなたたちは侮辱し、金をせびり、死を願った。絶対に許しません」

私は立ち上がり、まっすぐ二人を見つめました。

「なら、あなたたちに思い知らせてやります。人を見下すことの報いを」

大輝とさやは顔を見合わせ、そして笑い出しました。

「母さん、何ができるって言うんだよ。ただの清掃員が」

「そうですよ。社会的地位も財産もない人間に、何ができるんです」

二人の笑い声を背に、私は寝室へ向かいました。ドアを閉める前に振り返って言いました。

「すぐに分かります。私が三十年間、何を積み上げてきたか」

部屋に戻ると、吉夫が心配そうに待っていました。

「ノブ子、大丈夫か? かなり大きな声が聞こえたが」

私は夫の手を握り、全てを話しました。生命保険の話も、死を願われていることも。

吉夫の顔が青ざめ、そして怒りに震えました。

「あの子が、まさかそんなことを」

「吉夫さん、もう我慢できません。私たちの誇りを守りましょう」

夫は力強く頷きました。そして、私は机の引き出しから一通の封筒を取り出しました。

翌朝、私は息子夫婦より早く家を出ました。向かった先は、三十年間勤めている病院。まだ誰も来ていない理事室の前で、私は深呼吸をしました。

午前八時、理事長の山神先生が出勤されました。

「おはようございます。黒田さん。どうしたんです? こんな朝早くから」

「山神先生、お話があります。少しお時間をいただけませんか?」

理事長室に通された私は、これまでのことを全て話しました。山田理事長は、じっと聞いてくださいました。

「黒田さん、あなたは本当によく我慢されました。でも、もう我慢する必要はありません」

理事長は立ち上がり、金庫から書類を取り出しました。

「実は来月の創立記念日に発表する予定でしたが、今お伝えします。黒田さん、あなたには永年勤続三十年の特別表彰と、特別退職金二千万円が決定しています」

私は言葉を失いました。

「あなたはただの清掃員ではありません。院内感染ゼロという当院の誇りは、あなたのような方々の献身的な仕事があってこそです。理事会でも満場一致で決まりました」

涙が溢れました。認めてくださる方がいる。それだけで、心が救われました。

「それに、黒田さん。実は患者さんたちから、こんなものが届いています」

理事長が見せてくださったのは、分厚いファイルでした。中には、退院された患者さんからの感謝の手紙が、何百通も綴じられていました。

「黒田さんの笑顔に励まされました」「いつも清潔な病室で、安心して治療を受けられました」「黒田さんは病院の天使です」

手紙を読みながら、私は泣いていました。こんなにも多くの方が、私の仕事を見ていてくださった。

「黒田さん、今日は特別に、全部門の責任者を集めましょう。みんな、あなたに感謝を伝えたがっています」

一時間後、会議室に医師、看護師、事務職員など病院の主要メンバーが集まりました。

「皆さん、今日は黒田さんへの感謝の会です」

外科部長の佐藤先生が口を開きました。

「黒田さん、手術室の清潔管理、いつも完璧です。あなたのおかげで、安心して手術ができます」

看護部長も続きました。

「患者さんが一番最初に褒めるのは、病室の清潔さです。それは全て、黒田さんたちのおかげです」

次々と感謝の言葉が続きました。そして最後に、理事長が立ち上がりました。

「黒田さん、あなたは正愛病院の宝です。清掃という仕事を、プロフェッショナルの域にまで高めてくださった。心から感謝しています」

会議室に温かい拍手が響きました。私はもう、言葉が出ませんでした。

その後、理事長は個人的に相談に乗ってくださいました。

「息子さんの件、本当にお辛いでしょう。当院の顧問弁護士を紹介しましょうか」

「いえ、まずは自分の力で対処してみます」

私は、息子夫婦の暴言を録音したスマートフォンを取り出しました。実は、あの日から全ての会話を記録していたのです。

「これはひどいですね。侮辱罪に該当する可能性があります」

「でも、息子を訴えるつもりはありません。ただ、思い知らせたいんです」

理事長は深く頷きました。

「わかりました。何かお手伝いできることがあれば、遠慮なく言ってください」

病院を出ると、同僚の村田さんが待っていました。

「黒田さん、聞きました。特別表彰のこと、本当におめでとうございます」

「ありがとうございます。でも、まだ正式発表前なので、もちろん内緒にします」

「でも、本当に嬉しいです。黒田さんの仕事ぶりは、私たちの誇りですから」

仲間の温かさに、また涙が込み上げました。

帰宅すると、息子夫婦はリビングでくつろいでいました。私を見ても、挨拶一つありません。

「今日は朝早かったのね。お母さん」

さやが嫌味を言いました。

「ええ、大切な用事がありましたので」

「大切な用事? 清掃員に何の大切な用事があるの?」

私は微笑みました。もう彼らの侮辱は、私の心に届きません。

「そうですね。あなたたちには関係のないことです」

夕方、私は重要な電話をかけました。相手は大輝の務める会社の人事部長でした。実はその方は、正愛病院で治療を受けた患者さんでした。

「黒田さん、お久しぶりです。お電話いただけるとは」

「突然すみません。実はご相談があります」

私は息子の職場での評判を聞きたいと伝えました。

「大輝さんですか? 正直に申し上げて、少し問題があります。部下への態度が横柄で、パワハラぎりぎりの言動もあると聞いています」

やはりそうでした。家での態度は、職場でも同じだったのです。

「それと、これは言うべきか迷いますが」

「何でしょうか」

「大輝さん、社内で親の職業を偽っているようです。母親は専業主婦だと」

胸が痛みました。そこまで私の仕事を恥じるとは。

電話を切った後、私は最後の準備を始めました。録音した音声を整理し、必要な書類を揃えました。

明日、全てが動き出します。三十年間積み上げてきたものの重さを、息子夫婦に思い知らせる時が来たのです。

翌朝、息子夫婦がまだ寝ている時間に、私は行動を開始しました。

まず、大輝の会社の人事部に一通の書類を送りました。それは息子の家庭での言動を記録したものでした。もちろん脅しや告発ではありません。ただ「このような価値観を持つ人物が御社で働いていることをお知らせします」という内容でした。

次に、さやの実家にも連絡を取りました。彼女の両親は、地元では名の知れた元銀行員と聞いていました。

「突然のご連絡、申し訳ございません。大輝の母の黒田です」

電話に出たさやの母親は、最初は友好的でした。しかし、私が録音を聞かせると、声が変わりました。

「まさか、うちの娘がそんなことを……申し訳ありません」

「でも、これが現実です」

「黒田さん、本当に申し訳ございません。すぐに娘と話をします」

午前十時、息子夫婦が起きてきました。朝食も用意せず、私はリビングで待っていました。

「母さん、朝飯は?」

「今日は用意していません。それより、大切な話があります」

私は昨日病院で受け取った書類を見せました。

「これは私の永年勤続三十年の表彰と、特別退職金の通知書です」

大輝の目が、金額を見て見開かれました。

「二千万円……」

「そうです。ただの清掃員が、三十年間真面目に働いていた評価です」

さやが書類を奪い取るように見ました。

「嘘でしょ……そんな大金が」

「清掃員をバカにしていたあなたたちには、信じられないでしょうね」

その時、大輝の携帯が鳴りました。会社からでした。

「はい……え、今すぐ出社? でも有給を……はい、分かりました」

電話を切った大輝の顔は青ざめていました。

「どうしたの?」

「人事部に呼び出された。すぐに来いって」

私は静かに言いました。

「あなたの日頃の行いが、会社に知られたようね」

「まさか、母さん」

「私は事実を伝えただけです。職場での差別的言動、パワハラ行為。全て報告されているはずです」

大輝は怒りで顔を真っ赤にしました。

「余計なことを!」

「余計なこと? 自分の行いを省みなさい」

続いて、さやの携帯も鳴りました。

「もしもし……お母さん? え、今すぐ実家に? 録音? 何の話?」

さやも顔色を失いました。電話の向こうから、怒声が聞こえてきます。

「あなたの暴言も、ご両親にお伝えしました」

「お母さん、なんてことを!」

「なんてこと? あなたが言った言葉を、そのまま聞いていただいただけです」

二人は慌てて支度を始めました。その様子を見ながら、私は続けました。

「それから、もう一つ。生命保険の受け取り人を変更しました。もう、あなたたちには一円も入りません」

「そんな!」

「当然でしょう。私の死を願うような人に、保険金を渡すわけにはいきません」

その後、大輝から連絡がありました。声が震えていました。

「母さん……会社で降格処分を受けた。部下への差別的言動、ハラスメント行為が認定されたって……全部、母さんのせいだ」

「違います。あなた自身の行いの結果です」

「お願いだ。会社に取り消してくれ」

「できません。私は事実を伝えただけです」

続いて、さやからも電話がありました。泣き声でした。

「お母さん……実家から勘当されそうです。お願いです。なんとかしてください」

「できません。あなたの言葉の責任は、あなたが取るべきです」

夕方、二人が家に戻ってきました。土下座をして謝り始めました。

「母さん、本当にすみませんでした。反省しています」

「お母さん、お願いです。許してください」

私は冷静に見下ろしました。

「今さら、何を言っているんですか?」

「お願いです。せめて、金銭的な援助だけでも」

「援助?」

私は立ち上がりました。

「あなたは何と言いましたか? 『貧乏臭い親』と言いましたよね。貧乏臭い親には、お金はありません」

「そんな……」

「それに『外の人』とも言いましたね。外の人に頼むのは、おかしいのではないですか」

大輝が顔を上げました。

「母さん、親子じゃないか」

「いいえ。あなたは『本当の家族は妻と子供だけ』と言いました。もう家族ではないと、おっしゃいましたよね」

二人は言葉を失いました。

「あなたたちは清掃員をバカにしました。でも、その清掃員は三十年間、誇りを持って働き、多くの人に感謝され、認められています。一方、一流企業に務めていると言っていたあなたは、その地位を失いかけている」

吉夫も隣に立ちました。

「大輝、さやさん、もう出て行ってください。二度と、この家の敷居をまたがないでください」

「父さんまで……」

「私たちは、あなたたちにお尊厳を踏みにじられました。もう、親子ではありません」

息子夫婦は泣きながら荷物をまとめ始めました。その姿を見ても、もう心は痛みません。

「最後に言っておきます」

私は背筋を伸ばして言いました。

「これが、人を職業で差別することの報いです。清掃員をバカにしたあなたたちは、その清掃員に完全に敗北したのです」

玄関を出ていく二人を見送りながら、私は清々しい気持ちでした。三十年間の誇りが、やっと報われた気がしました。

その夜、吉夫と二人で静かな夕食を取りました。

「ノブ子、よく頑張ったな」

「吉夫さんがいてくれたからです」

私たちは手を取り合いました。息子は失いました。でも、私たちにはお互いがいます。そして、これからも胸を張って生きていけます。

後日、病院の同僚たちから聞いた話では、大輝は会社での立場を完全に失い、さやと離婚することになったそうです。因果応報とは、まさにこのことでしょう。

私は今日も朝四時に起きて、病院へ向かいます。清掃員として、誇りを持って。

あれから三ヶ月が経ちました。

私と吉夫は、特別退職金を使って駅近くの新しいマンションに引っ越しました。バリアフリーで、掃除がしやすい明るい住まいです。

「ノブ子、今日は病院のOB会だろう」

「ええ、月に一度の楽しみです」

正愛病院を定年退職した後も、私は週に三日、後輩の指導員として病院で働いています。時給も上がり、何より「黒田先輩」と呼ばれることが嬉しいのです。

OB会の会場に着くと、懐かしい顔ぶれが集まっていました。元看護師長の高橋さんが手を振ってくれます。

「黒田さん、お元気そうで何よりです」

「高橋さんも。今日は理事長もいらっしゃるそうですね」

「ええ、黒田さんの表彰式の正式な日程を発表したいそうです」

会が始まると、山田理事長が立ち上がりました。

「皆様、本日は特別なお知らせがあります。来月の病院創立五十周年記念式典で、黒田ノブ子さんに『医療貢献特別賞』を授与することが決定しました」

会場に温かい拍手が響きました。医療貢献特別賞は、医師や看護師以外では初めての受賞でした。

「黒田さんは、清掃という仕事を通じて、三十年間患者さんの命を守ってきました。院内感染ゼロという当院の誇りは、黒田さんのような方の献身があってこそです」

涙が止まりませんでした。「ただの清掃員」と見下された私が、こんな評価をいただけるなんて。

会の後、同僚だった村田さんと喫茶店によりました。

「黒田さん、息子さんとは、その後どうですか?」

正直に答えました。

「音信不通です。でも、それでいいんです」

「寂しくないですか?」

「最初は寂しかったです。でも、今は違います。私には……病院の仲間がいて、誇れる仕事があります」

村田さんは優しく微笑みました。

「黒田さんは、本当に強い方です。私も見習いたいです」

帰宅すると、吉夫が夕食の準備をしていました。定年後、料理を趣味にした夫の腕前は、なかなかのものです。

「今日は鰻のつけだ。お祝いだからな」

「まだ正式な表彰式は来月よ」

「毎日が祝いさ。ノブ子と一緒にいられることが」

私たちは顔を見合わせて笑いました。

夕食後、ポストを確認すると一通の手紙が入っていました。差出人は、大輝でした。

震える手で封を開けました。

――母さんへ。

三ヶ月ぶりです。今さらこんな手紙を送る資格はないと分かっています。でも、どうしても伝えたくて。

会社での降格後、僕は多くのものを失いました。妻も、プライドも。でも、それで初めて気づいたんです。本当に大切なものを。

母さんが三十年間続けてきた仕事の尊さが、今なら分かります。毎朝四時に起きて、人のために働く。それがどれほど立派なことか。

僕は今、小さな清掃会社で働いています。母さんと同じ、清掃員として。

最初は屈辱的でした。でも、今は違います。綺麗になった場所を見ると、達成感があります。「ありがとう」と言われると、嬉しいんです。

母さん、ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさい。いつか許してもらえる日が来ることを願っています。でも、今は遠くから、母さんの幸せを祈らせてください。――

手紙を読み終えて、複雑な気持ちになりました。吉夫に見せると、彼も黙って読みました。

「ノブ子、どうする?」

「今はまだ、会えません。でも、大輝が本当に変わったのなら、いつか……」

「そうだな。時間が解決してくれることもある」

その夜、私は久しぶりに大輝のことを思い出していました。小さかった頃の、素直で優しかった息子の姿を。

翌日、病院での指導中、新人の清掃員さんに聞かれました。

「黒田先輩、この仕事を三十年も続けられた秘訣は何ですか?」

私は微笑んで答えました。

「誇りです。どんな仕事も、人のためになれば尊い。それを忘れなければ、続けられます」

「でも、清掃員って、見下されることもありますよね」

「ありますよ。でも、それは見下す人の問題です。私たちは胸を張っていい。患者さんの命を守る、大切な仕事をしているんですから」

新人さんは目を輝かせて頷きました。

週末、吉夫と散歩していると、公園で母親が子供を叱っている場面に遭遇しました。

「お掃除の人みたいになりたくなかったら、勉強しなさい!」

思わず立ち止まりました。吉夫が私の手を握ってくれます。

でも、私は大丈夫でした。その母親に近づき、優しく声をかけました。

「失礼ですが、お掃除の人も立派な職業ですよ。私は三十年間、清掃員として働いて、今は医療貢献特別賞をいただくことになりました」

母親は驚いた顔をしました。

「え……」

「どんな仕事も、誰かの役に立っています。お子さんに、職業で人を差別しないことを教えてあげてください」

その母親は恥ずかしそうに頷き、子供に謝っていました。

家に帰ると、吉夫が言いました。

「ノブ子は変わったな。前なら、黙って通り過ぎていた」

「ええ、もう黙っていられません。私には、伝える使命があります」

来月の表彰式では、スピーチをすることになっています。私は清掃という仕事の尊さを、多くの人に伝えたいと思っています。

今、私は本当に幸せです。お金や地位ではない、本当の幸せを手に入れました。それは、自分の仕事に誇りを持ち、愛する人と共に生き、正しいことを貫いた先にありました。

窓の外を見ると、夕日が美しく輝いていました。明日も朝四時に起きて、病院へ向かいます。でも、それは苦痛ではありません。私の誇りある仕事が、そこで待っているからです。

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