「おばさん、一時間で全部訳しといて。」
笑いながら、分厚い英語の契約書が机の上に叩きつけられた。周囲の視線が一斉に私に集まる。私は静かに資料を手に取った。この程度の書類は、もう数えきれないほど読んできた。
だが、この一枚には、この会社が三年かけて隠してきた膿が混じっている。五億円という数字を、この部屋の誰も知らない。鞄の中には、亡き父が遺した和英辞典がそっと入っている。この契約は、このまま強引に先方へ送られる予定だった。
一時間後、この部屋の空気は一変することになる。
五年前、私はベトナムの赤字会社へ、たった一人で送り込まれた。誰も行きたがらない現地で、私は帳簿と現地スタッフの名前を一つずつ覚えることから始めた。言葉も文化も違う場所で、頼れるものは机の上に置いた父の辞典だけだった。半年後、小さな黒字が生まれた。その黒字は五年かけて、会社全体を支える柱にまで育っていた。
本社への復帰命令が来たのは、先月のことだ。
迎えてくれたのは、私の経歴を知る数少ない人物、脇坂部長だった。
「高瀬君、しばらくは経歴を伏せて、一般社員として働いてもらいたい」
理由を聞くと、部長は声を落として答えた。
「海外事業部の会計に、ここ数年おかしな出入りがある。外から見えない場所で確かめてほしいことがあるんだ」
「分かりました」
私は静かに頷いた。現場に紛れて数字を見るやり方は、ベトナムで嫌というほど身につけている。
配属された日、オフィスの誰も私の名前を知らなかった。名刺すら持たされず、空いた机に座らされる私を、誰もが見て見ぬふりをしていた。そんな中、隣の席の篠田だけが、そっとお茶を出してくれた。
配属されたデスクの引き出しには、前任者の書類が中途半端に残っていた。金額の桁が一つ不自然に丸められている領収書が目に止まる。気のせいだと思うことにして、私はそれを引き出しの奥へ戻した。鞄から父の辞典を取り出し、机の隅に置いておく。これさえあれば、どんな場所でもやっていける。
まだこの時、黒木という名前も、五億円という数字の意味も知らなかった。
ーーー
休憩から十分後、フロアの奥から大きな足音が響いた。歩き方だけで、この部屋の主役だと信じている人間だと分かる。
「黒木です」
名乗りもせずに、彼は私の隣に立った。今週入社し、いきなり海外新規プロジェクトのリーダーに抜擢された社員だと部長が紹介する。理由は説明されなかったが、重役の息子だということはフロア中が知っていた。
彼は私の前で足を止め、上から下まで一度だけ視線を流した。
「この人が今日から入る新入り?」
「新入りではなく、本社に配属になった社員だ」
部長が短く答える。「ふん」と黒木は興味なさそうに息を吐いた。差し出した手を、彼は無視して横へ流した。
「名刺はいいです。時間の無駄なんで」
この程度の反応にはもう慣れている。ベトナムでも似た目に何度も会ってきたからだ。
「おばさん、後で暇な時にこのファイル整理しといて」
言い終える前に、彼はもう背を向けていた。名前で呼ばれなかったことに、周囲の誰も驚いていなかった。それがこのフロアの日常なのだと、初日にして理解する。
渡されたファイルには、海外新規契約に関わる見積書が何十枚も挟まれていた。一枚ずつめくるうちに、聞き慣れない名目の手数料の欄だけ、数字が浮いて見える。気のせいかもしれない。けれど、数字の座りが悪い場所は、現場で見逃すなと教わってきた。
周りの社員は誰も目を合わせようとせず、パソコンの画面ばかり見つめている。見て見ぬふりが染みついた部屋なのだと、その沈黙が教えてくれた。父の辞典に触れながら、私は静かに椅子へ腰を下ろした。
まだ知らない。このファイルの束が、五億円という数字に繋がる最初の一枚だということを。
ーーー
その日から私に回ってくる仕事は、雑用ばかりになった。コピー、来客へのお茶、黒木が読み終えた資料の廃棄。名前で呼ばれることはなく、いつも呼び方は同じだった。「おばさん、それやっといて」。
ある日、来客の前で盆を落としそうになった私を、黒木は口元だけで笑った。
「その程度もできないんじゃ、現場に出す意味ないですね」
「現場」という言葉の使い方に、彼の中の序列がそのまま透けて見えた。
夜、「明日の朝一で仕上げて」と押し付けられた資料を、私は残業して整えた。翌朝渡すと、黒木はちらりとも見ずに机へ滑らせた。
「もういいや。方針変わったんで」
使った時間のことは、聞かない方がいいと分かっている。
ある日、机の隅の辞典に、彼の視線が止まった。
「何ですかこれ? まだこんな紙の辞書使ってる人いるんだ。古いだけで捨てるタイミング逃したゴミですよね」
彼はページをパラパラとめくり、机の上へ乱暴に置いた。父の字で書き込まれたページが、折れ曲がったまま開いている。私は何も答えず、辞典をそっと引き寄せて折り目を伸ばした。
黙ってやり過ごす私を見て、隣の篠田だけが小さく眉を潜めていた。
「高瀬さん、言い返さないんですか?」
「言い返す時間があったら、確かめたいことがあるので」
その答えに、彼女はそれ以上何も聞かなかった。
その週の会議には、案の定呼ばれなかった。「おばさんが聞いても分からないでしょう」という一言だけが理由だった。その週の終わり、黒木はフロア全体に聞こえる声で言い放った。
「この契約、来週の月曜には締結する」
誰も文句を言わなかったが、何人かは顔を見合わせていた。締結までの日数を、私は頭の中でそっと数え始めた。
ーーー
月曜の朝。黒木は分厚い英語の契約書を私の机に叩きつけた。
「おばさん、一時間で全部訳しといて」
せせら笑う声に、フロアの空気が一段と冷えた。私は資料を持ち上げ、表紙をめくった。形式の決まった契約書は、読むというより置き場所を確かめる作業に近い。当事者、対象、数量、納期、金額。順番はベトナムの現場で嫌というほど体に叩き込まれている。数字の頭に何がついているかを先に見る癖は、父の辞典の余白に書かれていた教えだ。
指で行をなぞりながら、日本語がそのまま口から流れ出た。一分ほどで最後のページまでたどり着く。
「早くないですか?」
誰かが小さく漏らした声が聞こえた。
「一通りの書式なので、止まる場所がないだけです」
答えながら、私はある一箇所に指を戻した。コンサルティング料という名目で、聞いたことのない海外法人に送金する項目がある。金額は五億円。振込先はシンガポールの、聞き覚えのない法人だった。
「これは何ですか」
聞くと、黒木の顔から一瞬で笑いが消えた。
「そんなの知らない。俺は契約書の中身までは見てない」
「見ていないものに、あなたはさっき署名しろと言っていましたね」
静かに指摘すると、彼は口を開けたまま言葉を失った。フロアの誰かが息を止める気配が伝わってくる。離れた席にいた脇坂部長が、立ち上がりかけて動きを止めた。
「署名はまだ、と確認する」
「はい。この項目がある限り、署名を止めるべきだと思います」
言い切った瞬間、黒木の手から資料が滑り落ちそうになった。まだこの情報が、重役の名前とどう繋がるのか、私は知らなかった。
黒木は我に返ったように、資料を私の手から奪い返した。
「契約はもう決まってるんだよ。余計なこと言うな」
言い方が敬語から崩れたことに、彼自身は気づいていないようだった。
「内容を確認せず署名すれば、あなたの名前で責任を追うことになります」
「そんなの知ったことか? 俺には重役がついてる」
その一言で、彼と重役の距離がどれほど近いのかが分かった。
部長が間に入り、今日の署名は見送ると静かに告げる。
「待ってください、部長」
黒木の声が初めて上擦った。
「今この件を止めたら、俺の評価はどうなるんですか」
「評価より先に、確かめることがあるだろう」
部長の声は低く、それだけで黒木は言葉を止めた。
私はノートを開き、送金先の法人名を書き写しておいた。名前には見覚えがある。前任者の机に残っていた領収書と同じ宛名だった。偶然にしてはできすぎている。確かめるべきことが、また一つ増えたことになる。
「おばさんが余計な口を挟むから、こんなことになるんだ」
黒木は捨て台詞のように言い残し、席を立って廊下へ出ていった。戻ってきた篠田が小さな声で教えてくれる。
「廊下で電話してました。“おじさん、まずいことになった”って」
その言葉に、フロアの空気がもう一段冷たくなった。「おじさん」という呼び方が誰を指すのか、この部屋で知らない人はいない。
確かめる方法はまだ手元にない。だが、疑う理由ならもう十分すぎるほど揃っていた。父の辞典を鞄にしまいながら、私は次に何を確かめるべきかを考え始めた。まだ証拠と呼べるものは、名前が一つ重なっただけだった。それでも、確かに何かが動き始めていた。
ーーー
翌日、私は人事記録を閲覧できる権限を借り、前任者の名前を調べた。田島聡。五年間このデスクで働いていた社員だった。半年前、突然地方の倉庫管理へ移動になっている。本人希望と記載されているが、希望した本人の署名欄は空白のままだった。空白の署名欄は、この会社ではもう見慣れた景色になっている。
倉庫の番号を頼りに、私は昼休みに電話をかけた。
「田島さん、本社の高瀬と申します。少しお伺いしたいことがあります」
しばらくの沈黙の後、疲れた声が返ってきた。
「あの案件のことなら、もう話さないと決めたんです」
「話さないと決めた理由を聞いてもよろしいですか?」
また沈黙があって、それから彼はぽつりとこぼした。
「気づいた次の週には、異動が出ていました」
「気づいたのは、コンサル料の名目で消えていくお金のことですよね」
電話の向こうで、息を飲む気配がした。
「よく分かりましたね」
「数字は同じところをぐるぐる回るので、辿ればすぐに見えてきます」
田島は少し笑い、それから声を低くして続けた。
「一つだけ言えるのは、重役のところで止まっているということです。その先は、誰も見たことがない」
「怖くないんですか」と彼が逆に尋ねてきた。
「怖いですが、黙って引き下がって後悔するよりマシだと思っています」
「その言い方、前にもどこかで聞いたことがある気がします」
「父の口癖でした」
答えると、田島は少しだけ声を柔らげた。
「無理はしないでください。あそこは、一人で挑む場所じゃない」
「気をつけます。教えていただき助かりました」
電話を切ってから、私はノートに新しい行を書き出した。確かめるべき先が、ようやく一つの名前にたどり着こうとしていた。
ーーー
その夜、私は脇坂部長と二人、閉じた会議室で三年分の経理データを洗い直した。シンガポールの法人への送金は、今回の一件だけではなかった。毎年十二回のペースで、同じ名目の送金が繰り返されている。積み上げた金額は五億円どころか、二十三億円に達していた。
数字を読み上げる私の声を、部長は最後まで黙って聞いていた。
「これは……」
部長が口を開きかけて、続く言葉が出てこない。静けさの中で、時計の音だけがやけに大きく聞こえた。
金曜の取締役会で、重役は代表権を拡大する人事案にかけられる。その情報は、来客用の掲示板に貼られたままの議題表で確認していた。可決されれば、この会社の決済は全て重役を通ることになる。通ってしまえば、証拠を消す権限まで彼のものになるということだ。
「社長に直接伝えれませんか」
聞くと、部長は苦しそうに首を振った。
「社長も重役の派閥に顔が利く。簡単には動けない。社内には、彼を止められる人間がもう誰もいない」
その言葉が、静かな部屋の中に長く残った。
「誰も止められないなら、外から止めるしかありません」
私がそう言うと、部長は驚いた顔でこちらを見た。
「外部の監査法人に心当たりがあります。ベトナムの立て直しで世話になった社外の会計士です」
連絡先を確かめるふりをして、私は古い名刺入れを開いた。名刺入れの隅に、父の辞典の余白と同じ教えが書いてある。「困った時に頼れる人の名前を書き込んでおけ」。その中の一つに、今なら手が届く気がした。
金曜まであと三日しかない。父の辞典を鞄から取り出し、私はページの隅に日付を書き込んだ。残された時間の中でできることを、一つずつ数え始める。
ーーー
その夜、私は会社を出てから稲川に連絡を取った。ベトナムの再建時、帳簿の読み方を一から教えてくれた恩人だ。事情を話すと、稲川は翌朝一番でカフェを指定してきた。
テーブルに広げた資料を、彼はページごとに丁寧にめくっていく。
「送金の周期、名目、金額の桁。どれも典型的な手口ですね」
「典型的というのは?」
「つまり、架空のコンサル料を装った資金の抜き取りです」
はっきりと言葉にされると、覚悟していたはずの胸が重くなった。
「これを内部監査に出しても、握り潰される可能性がありますよ」
「だから、金曜より前に外の目に届く形にしておきたいんです」
「監査法人への通報と、証券取引等監視委員会への相談窓口。両方使いましょう」
稲川さんはその場でメモを取り、必要な書類まで教えてくれた。書類を整えながら、彼はふと手を止めて私を見た。
「高瀬さんは変わりませんね」
「何がですか」
「数字の裏に人がいることを、いつも忘れない」
その言葉に、父の辞典を鞄に入れてきた自分を、少しだけ誇らしく思った。
昼過ぎ、田島から届いた小包を篠田が預かっていると知らされた。中には送金記録のコピーと短い手紙が入っていた。
「危なくなったら使ってください。ずっと黙っているのが怖かったので」
震える文字で書かれたその一言に、私はしばらく手を止めた。
会社に戻ると、黒木の机の周りに見慣れない書類の束が積まれていた。シュレッダーの音が、いつもより長く続いている。何を捨てているのか聞いても、彼は目を合わせなかった。
証拠はもう十分すぎるほど揃っている。残りは、金曜までにどう届けるかだけだった。
ーーー
木曜の朝、フロアに人事部長のアナウンスが響いた。
「黒木聡を本日付けで謹慎処分とする。取引先との契約に関する、不適切な独断行為のためだ」
連行されるように会議室へ向かう黒木の背中を、社員たちが遠巻きに見つめている。
「おばさんのせいだ。覚えてろよ」
すれ違い様に投げられた言葉には、もう誰も驚かなかった。
「これで終わりですね」
隣で篠田がほっとした顔をする。私はうまく頷けなかった。
処分の書面には、黒木の名前としか書かれていない。シンガポールの法人名も、重役の名前もどこにも出てこなかった。脇坂部長を捕まえて確かめると、彼の表情も硬いままだった。
「上は、黒木一人を切ってこの一件を終わらせるつもりらしい」
「重役は、明日の取締役会に何事もなかった顔で出るつもりですか?」
「そういうことになる」
黒木を切り、叔父が生き残る形か。綺麗な幕に見えて、これはただの仕切り直しだと分かった。
昼、経理システムの更新作業が入るという告知が全社に流れる。更新前にデータを整理すると書かれているが、整理の意味はもう分かっている。強制的に消えるものがあるとすれば、それは今夜が最後の機会になる。
父の辞典の余白には、「大きい方から片付ける」とだけ書いてあった。黒木を切って終わりにするのは、小さい方を片付けにすぎない。本当に片付けるべき相手は、まだ何の傷も追っていなかった。
「今夜、正式なコピーを取り、監査への提出書類を仕上げます」
私がそう告げると、部長は少し驚いてから深く頷いた。
「明日の朝一で、これを取締役の前に届ける」
終わったふりをした部屋の中で、私だけがまだ終わっていなかった。
ーーー
午後八時。フロアに残っているのは私一人だけになっていた。システム更新まで、残り二時間を切っている。経理サーバーにアクセスし、三年分のデータを一つずつ外部媒体へ移し始めた。
コピーが半分ほど進んだ時、エレベーターの音が止まった。足音は一つ。静かで、急いでいる気配がまるでない。
「夜更かしだね、高瀬君」
振り返ると、初めて顔を合わせる重役、黒木静雄がそこに立っていた。穏やかな声と、笑っていない目。その隙間が、部屋の温度を下げる。
「何をお探しですか? 重役」
「探し物は君の方だろう。随分熱心にサーバーを覗いているようだ」
私は手を止めなかった。止めれば、それだけで負けを認めることになる気がした。
「黒木は謹慎だ。これ以上は、誰のためにもならないよ」
「“これ以上”というのは、“あなたのためにならない”の間違いでは」
重役の口元が初めてわずかに歪んだ。
「若い頃は、こういう真面目さが評価されたが、今は違う」
「評価は求めていません。ただ確かめたいだけです」
「契約が揉め始めてから、君の経歴くらいは調べさせてもらったよ」
「調べていただいたなら話が早いです。数字は嘘をつきませんから」
言い切ると、重役はしばらく私を見つめてから背を向けた。
「明日の朝、後悔しても知らないよ」
遠ざかる足音を聞きながら、私は指先の震えを深呼吸でなめた。怖くないと言えば嘘になる。それでも手は止まらなかった。
足音が完全に消えるのを待ってから、コピーの最後のファイルを保存し終えた。外部媒体のデータを、稲川さんと監査法人、両方のメールへすぐに送信する。送信完了の表示を確認してから、私はようやく肩の力を抜いた。これでもう、決して消えないものになった。
ーーー
金曜、午前八時半。私は稲川さんの名刺と証拠のコピーを鞄に入れ、役員フロアへ向かった。鞄の底には、父の辞典もいつも通り収まっている。隣には脇坂部長。少し遅れて、監査役の柚月さんも合流する。
「昨夜のメールは届いています。詳しい話を聞かせてください」
柚月さんの声は落ち着いていたが、目の奥には確かな緊張があった。
役員会議室の前には、重役の秘書が壁のように立っていた。
「本日は、関係者以外の入室をお断りしております」
「監査役として、緊急の確認事項があります」
柚月さんが一歩前に出ると、秘書は言葉を失って扉を見た。
扉の脇の長椅子には、謹慎中のはずの黒木聡が青い顔で座っていた。
「呼ばれたので来ました。俺は関係ないというために」
その声には、いつもの勢いがどこにもなかった。
「あなたが関係あるかどうかは、この後の話し方次第だと思います」
私がそう言うと、黒木は驚いた顔でこちらを見た。
扉の向こうでは、代表権拡大の案がまさに読み上げられている最中だった。
ーーー
私たちが入ると、役員たちの視線が一斉にこちらを向く。議長席の隣で、重役がゆっくりとこちらを見た。昨夜の穏やかな声とは違う、初めて見る硬い表情だった。
「何のつもりだ? 今は審議の最中だぞ」
「その審議の前に、確認していただきたいものがあります」
私は鞄から資料を取り出し、テーブルの中央へ静かに置いた。表紙には、送金記録と法人名の一覧が印刷されている。社長がそれを手に取り、一枚目をめくった瞬間、部屋の空気が固まった。
「これは、数字が全て語ってくれます」
「はい。これから順にご説明します」
私は資料を一枚ずつ差し出しながら、三年分の送金の流れを説明した。名目はコンサルティング料。送金先はシンガポールの法人。法人の設立には、重役の親族名義の住所が使われていた。
「親族の住所を使っただけだ。それだけで、私が関わった証拠にはならない」
重役は椅子の背に体を預け、落ち着いた声で言い返した。
「では、設立時の保証人はどう説明されますか?」
柚月さんが差し出した別の書類に、重役の視線が止まる。その書類には、彼自身の署名が薄く残っていた。
「これは私の名前を、誰かが勝手に……」
「勝手に使われたと主張されるなら、筆跡鑑定にも応じていただけますね」
重役は答えず、ただ指先で机を小さく叩き続けていた。
「高瀬君。これは君一人の手柄にはならないよ。悪いようにはしない」
声のトーンが変わり、値踏みするような目がこちらへ向く。
「役員待遇での昇進を、今この場で約束してもいい」
その提案に、部屋の空気がわずかに揺らめいた。
「私が求めているのは待遇ではなく、事実です」
はっきり答えると、重役の顔から愛想笑いが完全に消えた。
その時、長椅子にいた黒木聡が立ち上がり、震える声で口を開いた。
「証明しろと言われたのは、俺です。重役に何も知らないまま、契約書を運び役としてやらされていただけです」
「黒木、お前は黙っていろ」
重役が初めて声を荒らげたが、黒木聡はもう止まらなかった。
「中身を見るなと言われたのも、“おばさん”に押し付けろと言われたのも、全部本当です」
社長が椅子から立ち上がり、重役を厳しい目で見下ろした。父の辞典の教え通り、大きい方から片付ける番がようやく回ってきた。
社長の一声で、緊急動議として重役の解任が図られることになった。
「賛成多数。重役、黒木静雄を本日付けで解任する」
議長の宣言に、誰も異を唱えなかった。架空のコンサル契約による資金の流出は、業務上横領の疑いで警察へ通報する。重役は最後まで「そんなつもりではなかった」と繰り返していた。
「そんなつもりでなければ、二十三億円は動かないと思います」
私が静かに答えると、彼は反論の言葉を失ったまま連れて行かれた。
ーーー
数週間後、重役は業務上横領と特別背任の容疑で書類送検された。二十三億円のうち個人の口座に流れていた分は、民事でも返還を求められている。気づきを無視した役員としての立場も、業界内での信用も、まとめて失われた。
移動先の倉庫で電話を受けた田島は、短く一言だけ返してきた。
「やっと終わりましたね」
残されたのは、長椅子で肩を落とす黒木聡だった。
「黒木聡についても、処分委員会で正式に検討する」
社長の言葉に、黒木は青白い顔で頷いた。数日後、彼には懲戒解雇の通知が出された。署名の共謀と証拠隠滅への関与は、正直に話しても消せる罪ではなかった。それでも最後に真実を話したことは、記録に残しておく。脇坂部長がそう言い添えたことだけが、彼に残された唯一の償いだった。
荷物をまとめて出ていく日、黒木聡は私の前で足を止めた。
「高瀬さん」
初めて名前を呼ばれたことに、私は少し驚いた。
「あなたに向かって言うべき言葉が、他にもあった気がします」
それだけ言って、彼は深く頭を下げてから去っていった。「おばさん」という呼び方は、この日を最後にもう聞かなかった。ガランとした隣の席を、私はしばらくの間そのままにしておいた。
ーーー
あれから三ヶ月が経った。オフィスの空気は、あの日を境に少しずつ変わっていった。会議に呼ばれない社員はいなくなり、決まったことは誰でも見られる形で残る。田島は本社へ呼び戻され、今は経理部で若手の指導に当たっている。篠田は監査室への異動願いを出し、来月から新しい仕事が始まるそうだ。
「部長さんみたいに、数字の裏を見られる人間になりたくて」
そう言った時の彼女の顔は、初めて出会った日よりずっと強く見えた。脇坂部長は相変わらず口数が少ないが、朝のすれ違い様に名前を呼んでくれる。「高瀬部長」。その一言だけで、この会社に居場所ができたことを実感する。
黒木聡がその後どこでどうしているかは、風の噂で少し聞いただけだ。地方の小さな会社で、経理の下働きからやり直していると耳にした。それ以上は、私が確かめることではない。
私はといえば、海外事業部長という肩書きを任されることになった。経歴を伏せていた期間の話は、社内報に短く紹介されただけだった。派手な扱いを望んでいなかったので、その静かさがちょうど良かった。
デスクの上には相変わらず、父の辞典が置いてある。表紙は薄くなり、余白の書き込みもほとんど埋まってしまった。ある日、残業を終えた私は、その最後の余白に短く書き足した。
「数字の裏には、いつも人がいる」
父が教えてくれた言葉に、自分の言葉を一行だけ重ねた形になる。辞典を閉じ、鞄にしまいながら、窓の外の夜景を少しの間眺めた。
「おばさん」と呼ばれた日々も、今ではもう懐かしい話になっている。呼び方がどうであれ、確かめることをやめなければ、道は開けるらしい。
明日もまた、誰かの名前をきちんと呼ぶところから始めようと思う。



