妻が乗ったタクシーの赤いテールランプが、白い雪の中で滲んで消えていった。松崎史郎はその場に立ち尽くしたまま、雪の冷たさも風の音も何ひとつ感じられなくなった。足の先から腰の辺りまで、ただ重たい何かが満ちてきて、それが自分の体なのか地面なのか、境い目が分からなくなっていた。
妻は小さなスーツケースをひとつだけ持って出ていった。捺印済みの離婚届を、夕食も出ていない食卓の上に置いて、四十年間共に歩いてきた人が、そうして消えた。この山奥に越してきたのは自分が決めたことだった。誰にも相談せず、ひとりで調べ、ひとりで決断した。老後の楽園を安く手に入れたつもりだった。だが実際には、自分の手で自分の家族を埋葬する穴を掘っていたのだと、雪の中に膝をついてようやく分かった。
二〇二六年春、東京都にある三LDKのマンションで、史郎は食卓に肘をついて伝票を叩いていた。六十六歳、元物流会社の倉庫管理部長。三十八年間、毎朝五時半に起き、毎晩九時過ぎに帰り、ベルトコンベアの音と荷物の行き先と在庫数字に囲まれて生きてきた男だった。体は痩せぎすで、額の生え際が年々後退し、今では頭頂部の半分近くが地肌になっていた。指先でテーブルを叩く癖は、倉庫勤めの長年のうちに染みついたものだった。数字を頭の中で処理している時、体が自然にリズムを取るのだ。
耳の奥で、小さくなり続けるノイズ。何年も倉庫の騒音の中で働いてきた代償として、史郎の耳には軽い耳鳴りが残っていた。静かな場所でふと気づく、高い周波数の虫の声のような音。医者は軽度だから日常生活には支障ないと言ったが、気になり始めると止まらなかった。
電卓の画面に表示された数字を、史郎はもう一度確かめた。東京の家賃が月十三万円、年間百五十六万円。退職金と年金を合わせた二千万円の貯蓄が、単純計算でおよそ十二年で底をつく。そこに光熱費、食費、医療費を加えれば、十年も持たない。インフレがさらに加速していた。スーパーの棚で値段が変わるのを毎週見ていた。去年百円だったものが、今年は百三十円になっている。政府は物価上昇は一時的と言い続けていたが、円安は止まらず、輸入品の値段は上がる一方だった。年金は月十四万円ほどで、それは変わらない。変わらない数字と上がり続ける支出の差が、毎月じわじわと貯蓄を削っていく。
史郎は電卓を置き、背もたれに体を預けた。台所では妻の千鶴が夕食の片付けをしていた。小柄な体でシンクに向かい、音を立てないように食器を洗っている。六十四歳で区役所の行政職員として非常勤で週三日働いていた。細い体に清潔感のある服を着ていて、いつも靴だけは丁寧に手入れしていた。話す時の声は低く落ち着いていて、感情の起伏が外に出にくい人だった。四十年間夫婦でいるうちに、史郎には分かっていた。怒っている時ほど声が静かになり、怒っていない時ほど言葉がはっきりする。千鶴は洗い物の手を止めずに食卓の方を見た。史郎が電卓を叩いている時は、大抵のしかかってくる前触れだった。
その夜遅く、史郎はひとりでパソコンを開いた。検索ワードは「地方」「古民家」「格安」「老後」。いくつかの不動産サイトを開き、物件を比較し、地図で距離を確かめた。マウスを操作する指先が、また無意識にテーブルを叩き始めていた。群馬県北部の山間部にある集落、築六十年の木造平屋、土地ごとで三百万円。写真を見ると、縁側のある和室が二間続きになっており、裏手に小さな畑跡があった。山を背にして立っていて、空が広かった。史郎はその物件のページを閉じることができなかった。
三百万円。今の家の六ヶ月分の家賃にも満たない金額で、土地ごと買える家。そこに移り住めば毎月の固定費を大幅に削れる。農作物を少し作れば食費も下がる。貯蓄は二千万円のまま持ち越すことができる。数字として、これは正しかった。史郎は物件の問い合わせフォームを開き、メールアドレスを入力した。
翌日の昼、不動産業者から電話が来た。史郎は妻に何も言わず、ひとりで話を進めた。三日後の夕食時、史郎は箸を置いてから口を開いた。「来月、群馬に引っ越す」と言った。千鶴は茶碗を持ったまま動きを止めた。眼鏡の奥の目が、夫を正面から見た。「どこ?」千鶴が聞いた。史郎は印刷した物件の資料を食卓の上に滑らせた。写真と地図と価格が書いてある。「山の中の、築六十年の古い家だ。三百万円で買える。これだけ出せば土地ごと買える。東京にいたら十年で底をつく。あそこなら固定費がほとんどかからない」と史郎は言った。一度も妻の目を見なかった。説明しているのではなく、決定事項を伝えていた。
千鶴は写真を手に取り、少し眺めた。それから「お医者さんはどこにあるの」と聞いた。史郎は即座に答えた。「町まで車で四十分だ。スーパーも同じく四十分」と続けた。「東京でじり貧になるのを待つだけだ」と言い切った。声に苛立ちが混じっていた。計算に基づいた選択を、根拠なく否定されることへの苛立ちだった。千鶴は眼鏡を外し、目頭をゆっくりと親指で抑えた。それから眼鏡をかけ直し、箸を持ち、食事を再開した。それだけだった。史郎は妻が同意したと思った。
引っ越しの手配は、史郎がひとりで進めた。業者に電話し、日程を決め、荷物の仕分けをした。「荷物は少なくしろ」と史郎が言い、捨てるものと持っていくものの仕分けを千鶴に任せた。千鶴は言われた通り動いた。何日かかけて使わないものを袋に入れ、業者に渡した。本棚に並んでいた本をダンボールに詰めた。ただ、全て詰めきれないものが出てきた。子供の頃から集めていた小さな陶器の置き物が数個あった。千鶴が長年かけて買い集めたものだった。持っていける数に限りがあると言われて、千鶴はそのうちいくつかを選んだ。残りはダンボールの外に出しておいた。後で廃棄業者が引き取ることになっていた。
引っ越しの前日の夜、千鶴はリビングに立って、部屋全体を見回した。史郎はすでに寝室で横になっていた。壁に残った小さな穴。カレンダーをかけていた後だった。窓の桟の角に張り付いた小さなシール。子供が小さかった頃のものが、何十年もそこにあった。千鶴は眼鏡を外し、目頭に指を当てた。目が乾いているのではなく、他の理由で当てていた。それでも涙は出なかった。出るものは何もなかった。唇をきつく結んだまま、千鶴は廊下の電気を消した。
引っ越しの当日は晴れていた。トラックが来て、家具とダンボールが積み込まれた。史郎は業者に指示を出しながら、次々と荷物を確認していた。自分の決断が形になっていくことへの達成感に、少し気持ちが浮き立っていた。千鶴は玄関の外に立って、業者が運び出す荷物を黙って見ていた。最後のダンボールが積まれ、ドアが閉められた。鍵を不動産業者に返す時、史郎は「ありがとうございました」と言って振り向いた。千鶴はもう廊下を歩いていた。
群馬の山奥までの運転で、およそ三時間かかった。高速を降りてからの道が長かった。国道から外れ、林道に入ると片側は崖で、反対側は斜面だった。すれ違いもできない幅の道が、ぐねぐねと続いた。車の中では、二人ともほとんど話さなかった。史郎は地図アプリを見ながら運転し、千鶴は窓の外の山を見ていた。木々の間から沢の音が聞こえた。
集落に入ったのは昼過ぎた頃だった。舗装が荒くなり、道端に雑草が茂り始めた。家の数が少なく、間隔が広かった。人の気配がなかった。目的の家は集落の一番奥にあった。車を止めて外に出ると、冷たい空気が体に刺さった。春のはずだが、標高が高いせいで吐息が少し白くなった。家の外観は写真より古く見えた。写真では見えなかった屋根の変色、縁側の木が割れているのが分かった。玄関の引き戸を開けると、湿った土と古い木の匂いが正面から来た。史郎は一歩中に入り、床を踏んだ。古い木の床が、体重をかけるたびにギシギシと音を立てた。廊下の床板が少し沈んで見えた。千鶴は玄関で靴を脱いでから、静かに上がった。壁の跡を見た。窓枠の隙間から、外の光が入っているのを見た。隙間風が来ていた。
史郎は奥の部屋の天窓を開けた。光が入ると、畳の上に埃が薄く積もっているのが見えた。「良いじゃないか。広いし」と史郎が言った。声が少し大きすぎた。千鶴は何も言わなかった。窓枠のところに立ち、外の畑跡を眺めた。草が腰の高さまで伸びていた。
荷物を運び入れながら、史郎が掃除を始めた。台所は壁の一面がすでに黒ずんでいた。流しの排水溝には長年の汚れが詰まっていて、最初は水が流れなかった。史郎は庭に出て、草に覆われた土地を眺めた。元の写真では畑跡と書いてあったが、耕した形跡はどこにもなかった。石が多く、根が張り出していた。スコップで少し掘ってみると、すぐに岩に当たった。史郎は腕を組み、庭全体を眺め回した。やることは多いが時間はある。計画通り進めれば問題ないと、自分に言い聞かせた。台所から千鶴が動く音が聞こえた。水を流す音、雑巾を絞る音。史郎は庭に背を向けて、家の中に入らなかった。
夕方になって照明のスイッチを入れると、廊下の蛍光灯がチカチカと点滅した。しばらくすると点いたが、一定の明るさを保てず揺れ続けた。台所の電球は切れていた。予備の電球を持ってきていなかった。千鶴がスマートフォンのライトを使って夕食の支度を始めた。持ってきた食材でできる範囲のものを作った。二人はその夜、ダンボールを食卓代わりにして食事をした。窓の外は暗く、聞こえるのは山の中の虫の声と、風が家の木を通り抜ける音だけだった。史郎は箸を動かしながら「明日から電気系統を調べる」と言った。千鶴は聞いているのかいないのか、黙って味噌汁を飲んでいた。
食事を終えて片付けをしていると、玄関の戸を叩く音がした。「こんばんは。初めまして。隣の者ですが」という声がした。史郎が戸を開けると、七十歳前後の男が立っていた。くたびれたジャンパーを着て、手に小さなビニール袋を持っていた。顔は日に焼けてシワが深く、目は細く、口元に柔らかな笑みを浮かべていた。その笑みが、どこか計算されているように見えた。温かいのだが、目の奥がわずかに冷めていた。「塚本平蔵と言います。この辺りの世話役をしています。遠いところからお越しになって」と彼は言いながら頭を下げた。声は柔らかく、話し方は丁寧だった。
史郎は少し表情をほぐして、中へ案内した。千鶴は台所から出てきて、軽く会釈した。塚本がビニール袋から焼き芋を取り出してテーブルに並べた。「山の芋を焼きました」と言いながら、手際よく包みを剥がした。「皆さんに挨拶して回っているんですか」と史郎が聞いた。「ええ、新しく来られた方には必ずご挨拶するようにしていまして」と塚本が答えた。部屋の中をさりげなく見回していた。荷物の量、家の状態、史郎と千鶴の関係を見ているようだった。「山の生活はご不便なことも多いですが、地域の人間がお世話しますので、何かあれば遠慮なく」と塚本は続けた。史郎は少し背筋を伸ばし、「東京で管理部長をしていた。家庭菜園も始めるつもりだ。こういう生活には慣れてる」と話した。塚本は柔らかく相槌を打ちながら聞いていた。
話が少し落ち着いたところで、塚本はジャンパーの内ポケットから折りたたんだ書類を取り出した。テーブルの上に広げながら「まあ、大事な話でもないんですが」と前置きをした。史郎が見ると、それは複数枚の書類だった。「うちの集落では、新しく来られた方に地域参加費というものをお願いしているんですよ」と塚本が言った。「地域の神社の修繕費と道の補修のための積み立てと、あとは地域の運営費。どれもこれだけの山奥では自分たちでやるしかない。そういう事情がありまして」史郎は書類に目を通した。合計金額のところに「百万円」と書いてあった。耳の中で、高い音が一段大きくなった気がした。
千鶴はその書類を横から静かに見た。眼鏡の奥の目が、紙の上を動いた。「これは全員が払うものですか」と千鶴が聞いた。「ええ、集落に来られた方は皆さん」と塚本が答えた。声の柔らかさは変わらなかった。千鶴が夫の方を見た。その視線は何も言わなかった。ただ向いた。それだけだった。
史郎の中で、いくつかのものが同時に動いた。百万円は想定外だった。電卓の中に入っていなかった数字だった。問い合わせのやり取りでも、不動産業者との話でも、こういう費用の話は一度も出てこなかった。だが同時に、別の思いが頭をよぎった。ここで断ればどう見られるか。東京からやってきて地域のルールに背く者として。部長として三十八年間、現場の指示系統を守ることで組織が動くのを見てきた。そのルールを守ってきた自分が、最初の夜に地域の顔に逆らうのか。
そして千鶴がいた。千鶴が見ていた。越してくる時、千鶴は何も反対しなかった。いや、反対できる雰囲気を作らなかったのは自分だった。だからこそ、ここで弱みを見せるわけにはいかなかった。百万円払えないような人間に見られるわけにはいかなかった。この決断が正しかったと、今すぐ証明する必要があった。耳の音が大きくなった。「分かりました」と史郎は言った。声が出るより先に、言葉が出ていた。塚本は目を細めた。その表情はそのままだった。
通帳を取り出すのに、史郎は一度寝室に戻った。荷物はまだダンボールの中だったが、通帳だけは手提げに入れて持ってきていた。廊下を歩く間、耳の音がうるさかった。視野の端が少し揺れているように感じた。それでも引き返す気にはなれなかった。引き返すことは、自分の判断が間違っていたと認めることだから。テーブルに戻り、通帳と印鑑を取り出した。書類に署名し、金額を書き込んだ。百万円。三百万円で買った家の三分の一。
塚本が両手で書類を受け取り、丁寧に折りたたんだ。「よろしくお願いいたします」と頭を下げながら言った。焼き芋の袋を持って立ち上がり、「また何かあれば遠慮なく」と言いながら玄関へ向かった。扉が閉まった。部屋の中に、史郎と千鶴と、点滅し続ける蛍光灯の光だけが残った。千鶴はテーブルの上を見ていた。焼き芋が一本。まだそこにあった。史郎はそちらを見なかった。指先がまたテーブルを叩き始めていたが、今度は計算のためではなかった。
千鶴が椅子を引いて立った。台所へ行き、湯を沸かす音がした。史郎は椅子に座ったまま、暗い窓の外を見た。山の輪郭が、夜空を切り取るように黒く立っていた。百万円。今夜、初日に。その数字が頭の中でゆっくりと沈んでいった。計算ではなく、感覚としてその重さが体にのしかかってきた。千鶴が戻ってきて、湯飲みを一つ史郎の前に置いた。自分の分は持たなかった。そのまま奥の部屋へ歩いていった。廊下の先で布団を広げる音がした。
史郎は湯飲みを両手で包んだ。お茶が熱かった。指先が少しだけ温かくなった。外では風が鳴っていた。薄い木の壁の隙間を、冷気がすり抜けてくる音がした。史郎は電気のスイッチを切るために立ち上がった。蛍光灯が消えると同時に、耳の中の音だけが部屋に残った。
夜が明けても、山の中の朝は遅かった。東向きの窓から光が入り始めるのは、東京に住んでいた時より一時間以上遅かった。山の稜線が日の出を遮るからだ。薄暗い中で目を覚ました千鶴は、しばらく天井を見上げていた。古い木の梁が二本。部屋を横切っている。板の目地から細い隙間が走っていた。千鶴は布団の中で体を起こし、眼鏡を手探りで取った。かけると、薄暗い部屋の輪郭がはっきりした。昨夜は布団に入ってから三時間近く眠れなかった。眠れなかった理由を、千鶴は自分でよく分かっていた。ただ、それを言葉にするつもりはなかった。
台所へ行くと、板張りの床が踏む度に音を立てた。慣れていない音だった。流しの蛇口をひねると、水が茶色く出た。しばらく流し続けると透明になった。土管の錆がまだ抜けていないのだろう、と思った。炊飯器をセットし、昨日のうちに出しておいたフライパンを棚に並べた。動きに無駄がなかった。四十年間、どんな場所でも千鶴はまず台所の秩序を作ることから始めた。そうしないと、自分がどこにいるのか分からなくなる気がした。
越してきて一週間が経った。千鶴の目の乾きが悪化していた。焚き火ストーブの煙が室内にこもり、目の粘膜を刺激した。換気のために窓を開けると、今度は冷気が入ってきた。どちらかを選ぶしかなかった。千鶴は目薬を一日に何度も差しながら、それでも台所に立ち続けた。スーパーが車で四十分先にあると史郎は言っていた。だが車を運転するのは史郎だけだった。千鶴は免許を持っていなかった。東京では地下鉄と徒歩でどこへでも行けたから、必要がなかった。つまり千鶴は、史郎が連れて行く時にしか買い物に出られなかった。
史郎は朝から庭に出て、草を刈り、土を掘り、種の袋を広げて眺めた。夕方が近づいてくると疲れて戻り、風呂に入って早く寝た。「買い物に行こう」という言葉は出なかった。千鶴は越してきた日に買い込んだ食材をやりくりして食事を作った。米、味噌、調味料。一週間持てばいいと思って買ったものが、二人分では日に日に減っていった。食材が心細くなってきた五日目の夜、千鶴は史郎にスーパーへ連れて行ってほしいと言った。史郎は「明日は庭の整地を終わらせたいから、週末にしよう」と言った。千鶴は週末まで何日あるかを頭の中で数えた。四日あった。「分かった」と千鶴は言って、翌日から一人分の量に戻した。史郎には言わなかった。
越してきて十日ほどが過ぎた頃、塚本平蔵が再び訪ねてきた。今度は昼過ぎで、千鶴が一人で家にいる時間だった。史郎は庭にいたが、塚本は勝手口の方から来て、千鶴が流しに立っているのを見て声をかけた。窓の外から突然話しかけられて、千鶴は体が少し固まった。塚本の表情はいつも通り穏やかだった。「近所付き合いのことで少しご相談が」と言いながら、集落の女性会のことを話し始めた。声の調子は勧めているのではなく、「そうするものだ」という前提で話していた。「今月の寄り合いは再来週の土曜日で、新しく来られた方には参加をお願いしているんですよ」と塚本が言った。千鶴は手を拭いてから、「出ます」と答えた。塚本が帰った後、千鶴は窓枠に手をついて外の山を見た。断る理由も、断れる立場もなかった。
土曜日の午前十時、千鶴は集落の集会所に出向いた。集会所は道沿いの小さな平屋で、引き戸を開けるとすでに七人ほどの女性たちが畳の上に座っていた。年齢は千鶴より上の人が多く、六十代後半から七十代が中心のようだった。一人だけ若い女性がいたが、端に座って黙ったまま俯いていた。千鶴が入ると、数人の視線が一度集まった。そして素早く戻った。上座の方に座っていた品の良い女性が仕切り役のようだった。富沢という苗字の七十代の女性で、声が大きく、話す時に周りをよく見回した。「まあ、東京から来たって言うからどんな人かと思ったけど」富沢が言った。言葉の意味は曖昧で、続きはなかった。笑いが少し起きた。千鶴は軽く頭を下げた。「お世話になります」と言った。声は聞こえるくらいの大きさだった。方言が難しかった。富沢の話す言葉は、単語は理解できても文の意味を掴みにくかった。他の女性たちも似たような話し方で、千鶴には半分ほどしか分からなかった。
寄り合いの後半は、来月の地域の祭りの準備の話になった。千鶴は割り振りを聞いていた。料理の担当、飾り付けの担当。それぞれに作業が割り振られていった。「千鶴さんは食器の洗い場をお願いしようかしら」と富沢が言った。千鶴は「分かりました」と答えた。富沢が千鶴と目を合わせた。その一瞬のやり取りを、千鶴は見ていた。何かを確認したような視線だった。
祭りは晴れた日曜日だった。集落の広場に長テーブルが並べられ、料理が運ばれ、子供たちの声があった。千鶴は朝から集会所の裏手の洗い場に立っていた。洗い場は屋外で、水道の蛇口につないだホースと、プラスチックの洗い桶が三つあった。祭りが始まると、料理の鍋や皿が次々と運ばれてきた。油汚れの熱い鍋が多く、一つ洗い終わる間に次が来た。水は冷たかった。五月だというのに、山の水は底冷えして、手が赤くなってきた。洗剤を足し、擦り、流す。その繰り返しを二時間続けた。富沢が一度裏手を通りかかった。千鶴が洗い続けているのを見て、「あら、まだやってるの」と言った。千鶴が「はい」と答えると、富沢は別の方向へ歩いていった。午後になって、一度洗い場に来た女性が、桶の水の中に野菜を捨てた。こぼしたのではなく、意図的に捨てたように見えた。千鶴は桶の水を全部入れ替えた。何も言わなかった。
夕方近く、後片付けが始まった頃には、千鶴の手の感覚がほとんどなかった。指の皮がふやけて白くなっていた。他の女性たちは広場の方で残りの片付けをしながら世間話をしていた。千鶴は洗い場のホースを巻いてから、頭を下げて帰路についた。声をかけてきた人はいなかった。帰り道は一人だった。集落の端から端まで歩いて十分ほどだった。道の横の用水路に水が流れていて、山から降りてくる水の音がした。
家に着くと、史郎は縁側に座って足を投げ出し、疲れた顔で麦茶を飲んでいた。庭仕事で疲れたのだろう。千鶴は靴を脱いで上がりながら、「今日は洗い場の担当だった」と話した。特に何かを訴えるつもりではなかった。ただ、自分の一日を伝えた。史郎は麦茶のコップを持ったまま、「そうか。大変だったな」と言った。それから庭の隅の土が思ったより柔らかいところを見つけた、種を蒔けるかもしれない、と続けた。千鶴は台所へ入り、夕食の準備を始めた。史郎が付け加えた。「せっかく来たんだから、ちゃんと地域に溶け込まないとな。田舎はそういうもんだ」千鶴は何も返さなかった。包丁がまな板の上で、一定のリズムを刻んでいた。
史郎は庭仕事を始めてから一ヶ月が経った。最初の二週間は意欲が高かった。朝から夕方まで出て、スコップで土を掘り返し、石を除け、雑草の根を引き抜いた。腕が日に焼けて黒くなり、手のひらに豆ができた。その変化を、史郎は少し誇りに思っていた。だが結果は出なかった。種を蒔いたトマトが芽を出したが、数日で枯れた。キュウリの苗を植えたが、根が張らなかった。土の表面だけを耕しても、深いところに石の層があって根が伸びられないのだと、後から調べて分かった。史郎はスマートフォンで農業の解説記事を読み漁った。山間部の土壌の特性、土壌改良のやり方、肥料の種類。読むほど、自分が見落としていたことの多さが分かった。それは史郎を苛立たせた。現場の管理者として、準備不足は失態だった。
そこへ塚本が来た。ある昼下がり、史郎が庭でしゃがみ込んで土を触っていると、塚本が道沿いを歩いてきた。立ち止まり、「いやあ、うまくいきそうですか」と声をかけた。史郎は立ち上がり、「土が固くて難しい」と正直に答えた。塚本は庭の端まで入ってきて、しゃがんで土をひとつまみ取り、匂いを嗅いだ。それから「なるほど」と言いながら立ち上がった。「ここの土は山の土でして、腐植度が薄いんですよ」と塚本が言った。「都会からいらした方はご存知ないことも多いですからね。実はここらでは、土地を生かすのに専用の農業機械と特殊肥料を組み合わせて使うんです。うちの集落で共同購入しているものがあって、よそより安く手配できますよ」金額を聞いた。「五十万円」と言った。史郎は一拍置いてから、「検討します」と答えた。塚本は頷き、「ただ、あまり遅くなると今期の作付けには間に合わないんですが」と言いながら帰っていった。史郎はその後ろ姿を見ながら、指先でズボンの縫い目を叩いていた。
夜、史郎は布団の中で天井を見ながら計算した。五十万円。通帳の残高はすでに百万円以上減っている。先月の参加費が百万円。それに引っ越しの費用。越してきた目的は支出を抑えることだった。それなのに、来て一ヶ月も経たないうちに百五十万円近く出て行っている。理屈では、ここで止めるべきだった。だが史郎の中で、別の声があった。今年の作物が育てば食費を大きく削れる。農業は初期投資がかかるものだ。最初の年は赤字でも、軌道に乗れば利益が出る。物流の現場でも、新しいシステムを入れる年は赤字が出る。二年目、三年目から回収していく。それと同じだ。それに、ここでやめれば千鶴に何を言われるか。史郎は翌朝、電話をかけた。千鶴には言わなかった。
越してから三ヶ月目に入った、ある平日の午後のことだった。史郎が車で集落の外に出ている間、千鶴は部屋の整理をしていた。まだ完全に開けていないダンボールが二箱あり、その中の書類を引き出しに分けて入れようとしていた。引き出しを開けると、奥の方に通帳が一冊入っていた。千鶴はそれを取り出した。表紙を見ると、史郎の名義で、二人が長年使ってきた普通預金口座のものだった。開く気はなかった。ただ手に取った。それを引き出しに戻そうとした時、通帳の間に別の紙が挟まっていることに気がついた。折りたたまれた一枚の領収書だった。「農業機械と特殊肥料 五十万円」と金額が書いてあった。
千鶴は通帳を開いた。残高の並んだ数字を、上から順に追った。越してくる前の金額から始まって、段階的に減っていく数字が並んでいた。引っ越し、百万円の出金。そして五十万円の出金。数ヶ月で、二百万円近くが出ていっていた。千鶴は通帳を持ったまま台所の椅子に座った。目を閉じた。眼鏡の上から指を当てた。目が乾いているのとは違う力で、鼻の付け根を抑えた。しばらくそのままでいた。
史郎が帰ってきたのは、夕方四時過ぎだった。玄関を開けると、台所の椅子に千鶴が座っていた。手に通帳を持っていた。史郎は靴を脱ぎながら車の中で聞いていたラジオの話を続けようとして、千鶴の様子を見て止まった。千鶴は通帳をテーブルの上に置いた。音はほとんどしなかった。それから史郎を見た。眼鏡の奥の目が、いつもより小さく見えた。「三ヶ月で二百万円」千鶴は言った。声は静かだった。史郎は廊下の途中に立ったまま、返す言葉を探した。「越してきた目的は何だったの?」千鶴が続けた。「節約のためでしょう。でも三ヶ月で二百万円出て行ってる。東京にいた時より早いペースで減ってる。農業機械に五十万円払ったのも、今日初めて知った」史郎は台所の入り口で止まった。靴下のままだった。「投資だ」と史郎が言った。「農業は最初に費用がかかる。二年目からは食費が浮く。物流でも同じことはある」千鶴はテーブルの上の通帳を見てから、また史郎を見た。「農業機械を買ったのは、あの塚本さんから?」千鶴が聞いた。「先月だ」と史郎が答えた。「どうして言わなかったの?」と千鶴が言った。史郎は一瞬黙った。黙り方が、考えているのではなく苛立ちを抑えているのだと、千鶴には分かった。
「俺が稼いだ金だ」と史郎が言った。声に力が入っていた。これまでの会話の柔らかさが、一段落ちた。「三十八年間、俺が稼いできた。その俺が老後の設計をするのに、いちいち許可がいるか」千鶴は椅子から立たなかった。視線を外さなかった。「二人の貯蓄でしょう」と千鶴が言った。声はそのままの静かさだった。「私も働いてきた。区役所での収入もある。二人の老後のためのお金のはずだった」史郎は台所に踏み込んできた。テーブルの前に立ち、通帳を手に取った。それからそのまま、食卓の端に置いてある茶碗を押した。押すというより、力を入れすぎた。茶碗がテーブルの端を超えて床に落ちた。陶器が硬い板の床に当たり、綺麗に割れた。二つに。「投資だと言っている」と史郎が言った。「文句を言うなら結果が出てから言え。俺は考えてやってる。お前はただ文句を言うだけだ」千鶴は割れた茶碗を見た。それから立ち上がり、台所の戸を開けて箒を取り出した。史郎は自分が言い終わったことの後に、何かを言う隙を見つけられなかった。千鶴が床の破片を箒で集めた。音は小さかった。破片の大きさが揃っていなかったので、細かいものは指でつまんで拾った。史郎は見ていた。見ていることしかできなかった。千鶴はゴミ袋に破片を入れ、箒を戻し、手を洗い、夕食の準備を始めた。一言も言わなかった。史郎は縁側に出て、外を見た。庭の土が、夕方の光の中で灰色に見えた。
その夜から、千鶴の沈黙の質が変わった。以前の沈黙は、耐えているものだった。受け止めて飲み込んで、それでも次の日に備えるための沈黙だった。今の沈黙は違った。感情が外に出なくなったのではなく、内側で動くものが少なくなったように見えた。朝起きて食事を作り、食器を洗い、洗濯をし、夕食を作り、寝る。その一連の動作に、以前あったわずかな余白がなくなった。千鶴はスーパーへ行く時も、もう史郎に頼まなくなった。週に一度史郎が買い物に出る時に、同乗するだけにした。それ以外は、家にある食材で組み合わせた。目薬を差す頻度が増えていた。煙と乾燥と、目を使いすぎる環境が続いているせいだった。一本使い切るのが、東京にいた時より二倍早かった。史郎はそのことに気づかなかった。
夏が来て、史郎の庭は相変わらずだった。機械と肥料を入れたが、土の状態は劇的には変わらなかった。トマトは数個だけ実をつけたが、色が薄く、スーパーで買う方がはるかに良かった。キュウリは二本だけ収穫できたが、曲がっていた。ナスは途中で実が落ちた。それでも史郎は毎朝庭に出た。作業を続けることで、自分の判断が正しかったという感覚を保っていた。結果がまだ出ていないだけで、方向性は合っている。そう思い続けることが、今の史郎には必要だった。
塚本が時折立ち寄り、庭を眺め、問題を指摘し、解決策を提案した。その度に費用が発生した。土壌改良の追加資材、水はけを良くするための資材、山側からの獣害問題に対応するための反射シート。それぞれの金額は、五万円から二十万円の範囲だった。一度で大きな金額を要求するのではなく、小額を何度も積み重ねていく方法だった。史郎は毎回少し迷って払った。払わなければ今期の作物が全滅するという話の後に来るので、断りにくかった。千鶴には毎回言わなかった。
夏の祭りの準備が始まった。千鶴は再び集会所に呼ばれた。今回は富沢から直接電話がかかってきた。短い電話で、「土曜の朝十時に来てください」それだけだった。集会所に行くと、今回は料理の下準備が主な作業だった。大量の野菜を切り、煮物の仕込みをし、当日の段取りを確認した。千鶴は指示された通り動いた。野菜の切り方が富沢の好みと違うと言われてやり直した。出汁の濃さについて指摘が来たので薄めた。それでも「だめ」と言われたので、さらに薄めた。「どうも東京風ね」と富沢が言った。笑いながら言ったが、笑いの方向が親しみではなかった。千鶴は聞こえていたが、返事をしなかった。
三時間の作業の後、一息つく場面になった。他の女性たちはお茶を飲みながら近況を話し合っていた。千鶴の方に向けられる話は特になかった。千鶴もそちらへ入っていかなかった。壁側に立ったまま、自分のお茶を飲んでいた。方言の会話が続いていた。笑いが起きる場面があった。千鶴には聞き取れない部分の方が多かった。端にいた若い女性が一度だけ千鶴を見た。困ったような目をして、また視線を戻した。帰り際、富沢が千鶴に言った。「当日は早めに来てもらわないといけないから、九時には集会所に来て」「分かりました」と千鶴は答えた。外に出ると日差しが強かった。山の中でも夏の日差しは強く、道がじりじりとした。千鶴は日傘を広げながら歩いた。手のひらの感覚が、あの冬の洗い場のことを思い出させた。
夜、史郎と二人で食卓についていた。「今日、集会所に行ってきた」と千鶴が言った。史郎は茶碗のご飯をかき込みながら「ああ、そうか」と言った。「方言が難しくて、半分くらいしか意味が分からない」千鶴が続けた。「そんなもんだ。慣れるしかない」と史郎が言った。「俺も最初は近所の人と話が合わなかった。今は少しずつ分かってきた」千鶴は箸を持ったまま、少しの間史郎を見た。史郎はそのまま食事を続けた。千鶴は目を伏せて、味噌汁を飲んだ。食事が終わり、千鶴が片付けを始め、史郎が新聞を手に取った。部屋の中が、ただの日常的な夜になった。
八月の末、千鶴は再び引き出しの通帳を手に取った。前回から二ヶ月以上経っていた。あの夜の茶碗の破片の後、千鶴は通帳を確認することをやめていた。確認しても変えられないものがあると分かっていたから。だが今日は、なぜか手が伸びた。ページを開いた。数字が続いていた。六月の出金、七月の出金、八月の出金。金額はまちまちだったが、方向は一つだった。越してきてからの合計を千鶴は計算した。三ヶ月で二百万円という数字が、今や四ヶ月半で三百万円に近くなっていた。千鶴は通帳を静かに閉じた。眼鏡を外した。指で鼻の付け根を抑えた。今回は涙が来た。ただ、音は出なかった。廊下を史郎が歩く音がした。千鶴は眼鏡をかけ直し、引き出しに通帳を戻した。立ち上がって台所に入り、夕食の米を取り始めた。水の音だけが、しばらく続いた。
その日の夕食は、昆布の佃煮と漬物とご飯だけだった。食材が底をついていた。次の買い出しは明日の予定だったが、今日の分が足りなかった。千鶴は冷蔵庫の中と物置棚を組み合わせて、作れるものを作った。史郎は食卓を見て、「これだけか」と言った。「今日はこれだけ」と千鶴が答えた。声に抑揚がなかった。史郎は箸を取りながら、また文句を言い始めた。「この生活をもっとうまく回せないのか?野菜は庭から取ればいいだろう」千鶴は箸を持ったまま、史郎の言葉が終わるのを待った。「庭から取れた野菜は、二週間前に食べ終わった」と千鶴が言った。それから通帳を出して、テーブルの上に置いた。史郎の手が止まった。「越してきてから四ヶ月半で、三百万円近くが出て行ってる。今の家を買った金額と同じだけ」と千鶴は言った。「もう出て行った。払い続けているものは、全部塚本さんから来た話でしょう。農業機械、肥料、資材。私には報告がなかった。一度も」史郎の顔が硬くなった。「投資だと何度も言っている」と史郎が言った。「来年は収穫量が増える。今の数字だけ見ても意味がない」千鶴は史郎を正面から見た。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと動いた。「来年、塚本さんからまた何か話が来た時、断れる?」千鶴が聞いた。「断れる自信があるなら、続けてください」史郎は椅子を引いて立った。「俺のやり方に口を出すな」と言った。声が上がった。指先でテーブルを叩いた。三回。強く。千鶴は動かなかった。「お前は東京の感覚が抜けないから、何も見えないんだ。ここは違う。俺はここのやり方で生きようとしている。それを邪魔するな」と史郎が続けた。千鶴は箸を静かに置いた。それから通帳を取り、引き出しに戻しに行った。史郎は縁側の戸を開けて、外に出た。夏の夜の虫の声が、部屋の中に入ってきた。
その夜、千鶴は寝室の押入れの中から小さなボストンバッグを引っ張り出した。押入れを開けると、引っ越しの途中で入れたままになっていた荷物があった。整理しきれなかったダンボールの中に、服がいくつか畳まれていた。千鶴はその中から何枚かの服を取り出し、ボストンバッグに入れた。そのまま使う服ではなかった。区役所に勤めていた頃に着ていたスーツと、綺麗めのブラウスが二枚。ボストンバッグを押入れの奥に入れ、ダンボールで隠した。今すぐ使う気はなかった。ただ置いておきたかった。史郎が縁側から戻ってきた音がした。廊下を歩いてくる足音が、板の床でギシギシとなった。千鶴は押入れを閉め、布団の上に座った。部屋の電気を消すと、虫の声が壁の外から近く聞こえた。山の夜は、音が近かった。暗い部屋の中で千鶴は天井を見た。梁の影が、薄い月明かりの中でうっすらと見えた。今日自分が何かを決めたのかどうか、千鶴には自分でも分からなかった。ただ、ボストンバッグが押入れの中にある。その事実だけがあった。廊下の先で、史郎が歯を磨く音がした。それから静かになった。
秋が来るのが早かった。九月の半ばを過ぎると、山の稜線の木々が先端から色を変え始めた。赤と黄が混じり合い、晴れた日の午後には光を受けてキラキラとした。それだけを見れば美しい景色だった。だが松崎史郎には、その色が冬の予告のように見えた。山の冬がどれほど厳しいかは、越してきた当初は分かっていなかった。地元の人間から聞いたりネットで調べるうちに、少しずつ輪郭が見えてきた。この標高では雪が一メートル以上積もることもある。水道管が凍る。道が閉ざされる日がある。冬の間は薪を大量に用意しておかなければ、暖房が追いつかない。庭の土はまだ思うようになっていなかった。夏に収穫できたものは、家族二人の食費を補うには遠く及ばなかった。史郎はそれを自分の中で数字に直さなかった。数字にすると、答えが出てしまうから。
千鶴は毎日決まった時間に起き、決まった手順で家の中を動いていた。余分なことを話さなくなって久しかった。必要なことだけを言い、それ以外は沈黙だった。史郎はその沈黙の重さに、以前より鈍くなっていた。慣れというのは、人を都合よくさせる。
十月に入って最初の週、塚本平蔵が史郎を誘った。「今夜、集落の男たちで一杯やるんですが、よかったらどうですか」と塚本が言った。昼間に庭先で声をかけてきた。顔の深いシワの笑みはいつも通りだった。史郎は一瞬考えた。越してから半年近く、男同士でゆっくり話した機会がなかった。物流の現場にいた頃は、仕事の後に同僚と飲みに出ることが月に何度かあった。そういう時間が、ここにはなかった。「行きます」と史郎は答えた。千鶴には夕食前に伝えた。「今夜は、塚本さんたちと飲みに出る」と言った。千鶴は台所に立っていた。振り返らず、「分かった」と言った。史郎はその返事に何かを感じたが、特に言葉を足さなかった。
集落から車で十五分ほどだった場所に、看板も出ていない小さな飲み屋があった。引き戸を開けると、カウンター席と小上がりが一つあるだけの狭い店だった。煤けた天井に、裸電球が一つ下がっていた。すでに塚本ともう二人の男が来ていた。一人は五十代後半で農家をしている男。もう一人は、史郎より年上に見える小柄な男だった。二人とも、史郎が挨拶すると短く頷いた。それ以上のことはしなかった。史郎は塚本の隣に座った。安い瓶ビールが運ばれてきた。乾杯して口をつけた。少し温かかった。最初の話題は天気と冬の準備についてだった。薪の量、屋根の雪下ろし、水道管の保温。史郎は聞き役に回った。知らないことばかりだったから、聞く方が自然だった。農家の男が史郎の庭の話を少し聞いてきた。「作物はどうですか」と。史郎は「少しずつ改善してるところだ」と答えた。男は特に何も言わなかった。
二本目のビールになった頃、塚本が話の向きを変えた。「ところで」と塚本が言った。声が少し落ちた。二人の男は手元の杯を見ていた。「集落でちょっとした話が出ていまして」と塚本が続けた。「地域の防災整備のことなんですが、この辺りは山が崩れやすい地形でして、去年も隣の集落で土砂が出た。国の補助が今年度末までに申請できれば、堤防強化と斜面の整備が進む。ただ、工事に使う重機を一台、地元で持っておく必要がある。補助の条件が、地元負担として機材を確保していることなんですよ」史郎は聞きながらビールを口に含んだ。「その機材を有志で共同購入しようという話が出ています。出資した方は名誉組合委員になって、機材を近隣の集落に貸し出した時の収益を、出資割合に応じて分けることができる。山の集落は重機の需要が高いですから、稼働率は見込めます。松崎さんに声をかけたのは、先日の参加費の件でも誠実に対応していただいたし、地域の人間として認めているからです」と塚本が言った。カウンターの奥で店主が黙って食器を磨いていた。史郎の耳の中で、薄い音が動いた。静かな場所でだけ聞こえる、高い周波数の虫の声。「金額は?」史郎が聞いた。「三百万円です」と塚本が答えた。「ただ、松崎さん一人にお願いするわけではなくて、複数の方から集めますので、実質的には連名での出資になります。書類上の扱いを一本にまとめた方が補助申請がしやすいので、代表として松崎さんのお名前を使わせていただければと」史郎は杯をテーブルに置いた。隣の農家の男が初めて口を開いた。「俺も少し出すつもりだ」とだけ言った。短い言葉だったが、史郎の中でそれが何かの重みを持った。地元の人間も出資するということだった。
史郎の頭の中で、いくつかのことが同時に動いた。三百万円は大きかった。貯蓄はすでに大きく減っている。残高を正確には確認していなかったが、今の時点で一千万円を割っているかもしれなかった。そこからさらに三百万円を出すのは、数字として無謀だった。だが「名誉組合委員」という言葉が、史郎の中の別の部分に触れた。三十八年間、物流会社の管理部長として働いた。定年退職の時、部下たちが寄せ書きを送ってくれた。会社の中では一定の地位があった。だが退職した瞬間、それは何もなくなった。名刺がなくなり、役職がなくなり、ただの老人になった。この集落に来て半年、史郎は何者でもなかった。庭仕事もうまくいかない。地域にも溶け込めていない。妻との間には、冷たい空白がある。塚本の「地域の人間として認めている」という言葉は、その空白に直接触れた。「考える時間をください」と史郎は言った。塚本は頷き、「ただ、月末には申請の締め切りがありますので」と付け加えた。
帰り道の車の中では、塚本から聞いた話の細部を頭の中で繰り返した。窓の外は暗く、ヘッドライトが林道を切り取っていた。耳の音が、エンジンの音に重なっていた。カウンターの隣のテーブルにいた若い男たちが、途中から笑い声をあげていたのを思い出した。内容は聞き取れなかった。自分の耳が悪いからだ、と史郎は思った。
千鶴が動いたのは、史郎が飲みに出た夜ではなく、その三日後だった。区役所で長年働いてきた経験は、書類の読み方と、書類の裏側の読み方の両方を千鶴に教えていた。住民票の動き、土地の名義変更、補助金の申請履歴。窓口に来る人間の話の表側と、届け出の数字のずれ。そういうものを、長年仕事の中で見てきた。塚本平蔵という人間について、千鶴はずっと引っかかりを持っていた。最初の夜に持ってきた焼き芋と書類。その後の農業機械の話。史郎に対する接し方の柔らかさの奥にある計算。千鶴には言語化できないものだったが、区役所の窓口で様々な住民を見てきた経験が、何かを感じ取っていた。
「腰の具合が悪いから、整形外科に行きたい」と千鶴は史郎に言った。史郎は「じゃあ、連れて行くか」と言った。特に疑う様子はなかった。翌日の朝、史郎の車で山を下り、町の病院の前で下ろしてもらった。「診察の後は自分で帰ります。バスがあるから」と千鶴は言った。史郎は「分かった」と言って走り去った。千鶴は病院には入らなかった。病院の前を通り過ぎ、そのまま歩いて十分ほどの場所にある町の図書館へ向かった。建物に入ると、平日の昼まで人は少なかった。閲覧室の蛍光灯が一本、微妙に点滅していた。千鶴は係の窓口で、地域の土地登記の閲覧ができるか確認した。公開情報は誰でも閲覧できると言われた。手続きをして、閲覧室に資料を持ってきてもらった。千鶴は手帳を開き、ボールペンを取り出した。調べ始めたのは、塚本平蔵の名義で登録されている不動産だった。
最初の一時間は、土地の名義と移転の履歴を追った。塚本の名義で登録されている土地が、集落内に複数あった。それ自体は珍しいことではない。問題は、その土地の取得時期と、前の所有者の名前だった。千鶴はいくつかの名前を書き留めた。前の所有者の住所が、東京や埼玉や神奈川の都市部になっているものが複数あった。次に、千鶴は住民票の移動記録を確認できないか聞いた。個人情報に関わる部分は見られないと言われたが、公開されている範囲で、集落に転入してきた記録の概要は確認できた。二〇二〇年から現在までの間に、集落への転入記録が七件あった。そのうち六件が、世帯主の年齢が六十代から七十代の夫婦世帯だった。
千鶴は書き留めた名前と土地の移転記録を照合した。六件のうち五件で、土地の名義が転入から一年から一年半の間に、前の所有者から塚本平蔵に移っていた。夫婦が来て、夫婦が土地を手放した。買い取ったのは、塚本だった。閲覧室の蛍光灯がまた点滅した。千鶴は眼鏡を外し、指で鼻の付け根を抑えた。しばらくそのままでいた。目が乾いているのとは別のことで、抑えていた。それから眼鏡をかけ直し、残りのページをめくった。塚本が買い取った価格を調べようとしたが、売買金額は必ずしも公開されていなかった。ただ、固定資産税評価額は確認できた。老夫婦たちが買った家の評価額と、それに近い評価額の土地が、塚本名義で複数あった。千鶴が確認できた範囲では、評価額に対して著しく低い金額での取引が行われていることを示す間接的な記録があった。区役所での経験から、そういう記録の読み方は知っていた。つまり塚本は、人を費用で疲弊させ、土地を手放さざるを得ない状況に追い込み、そこを安値で買い取っていた。
千鶴は手帳に日付を書き込んだ。それから名前をもう一度確認した。自分たちが七組目だった。時計を見ると、二時間半が経っていた。資料を返却し、図書館を出た。外の光が眩しかった。サングラスをかけたまま、千鶴は少しの間入り口の前に立った。体の中に、重たいものが沈んでいく感覚があった。驚きではなかった。予感が確信に変わる、あの感覚だった。帰りのバスは一時間に一本だった。千鶴は停留所のベンチに座って待った。山から降りてくる風が、少し冷たかった。コートの前を合わせた。バスが来て乗った。乗客は千鶴の他に老人が一人だけだった。窓の外に山が続いた。史郎にどう話すか、バスの中で考えた。証拠を見せれば動くか。あの男の性格を、千鶴は四十年間見てきた。誰よりもよく知っていた。論理を持ち込めば受け入れる人間ではなかった。特に、自分が間違っていると示す論理に対しては。だが、話さなければならなかった。バスの窓に自分の顔が映っていた。サングラスをかけたまま、目の下に疲れが滲んでいた。千鶴は手帳を膝の上で閉じた。
バスを降りる前に、千鶴は一度メモを確認した。図書館で閲覧した書類の内容を、できる限り書き写してあった。完全なコピーではなかったが、土地の名義の変遷、前の所有者の名前、塚本の関与を示す日付と金額の概算。集落に戻ってから、史郎が庭に出ている間に、千鶴はその手帳のページをスマートフォンで撮影した。画像を見直した。文字が小さくて読みにくい箇所があったが、重要な部分は読み取れた。スマートフォンをエプロンのポケットに入れ、台所に戻った。夕食の準備をしながら、今夜の話の順序を頭の中で組み立てた。感情的にならないこと。数字と記録だけを出すこと。千鶴は自分がどんな状況でも、書類の話を感情なしにできると知っていた。区役所で、窓口に怒鳴り込んでくる住民に対しても同じことをしてきた。今夜も同じようにやれると思った。
夕食が終わり、史郎がお茶を飲んでいる時間に、千鶴は手帳を持ってきた。テーブルの上に置いた。音は出さなかった。史郎が手帳を見た。「何これ」と言った。千鶴は向かいに座り、「町の図書館で調べてきたこと」と言った。それから、調べて分かったことを順番に話し始めた。感情は抑えていた。声の調子は、区役所の窓口で説明する時と同じだった。数字を言い、名前を言い、日付を言った。「二〇二〇年から現在までの間に、この集落に来た夫婦が六組いた。そのうち五組が、一年以内に土地を手放した。買い取ったのは、全部塚本さん。私たちが七組目で、来てからまだ五ヶ月しか経っていない」史郎はコップを持ったまま千鶴を見ていた。千鶴は続けた。「最初の夜の参加費百万円。機械と肥料の五十万円。その後の資材。合計して、どれだけ出て行ったか、史郎さん正確に把握してる?」史郎は答えなかった。「今、塚本さんから重機の共同購入の話が来てる。三百万円。これも同じ流れだと思う。払えば払うほど、やめられなくなる。最終的に土地を手放すまで続く。それが、この人のやり方だった」千鶴は言った。声の最後の部分だけ、わずかに揺れた。史郎はコップをテーブルに置いた。置いた音が、少し大きかった。「図書館の書類が証拠になるのか」と史郎が言った。「証拠です」と千鶴が答えた。「でも、確実とは言い切れない。土地を売ったのは、向こうの都合かもしれない。体の具合が悪くなったとか、家族の事情とか。お前の解釈を、証拠みたいに言うな」千鶴は史郎を見た。反論ではなかった。史郎の言葉の選び方が、可能性を探しているのではなく、否定する理由を探しているのだと、千鶴には分かった。それが史郎という人間の、千鶴がよく知っている部分だった。
「でも、三百万円の話は止めてほしい」と千鶴が言った。「理由がどうであれ、今の貯蓄でそれは無理だから」史郎が椅子を少し引いた。腕を組んだ。「それは、俺が判断する」と言った。「二人の貯蓄でしょう」と千鶴が返した。「俺が働いて作った金だ」と史郎が言った。千鶴は返す言葉を止めた。この言葉が出た後は、どんな議論も届かないことを知っていた。四十年間で、それを何度か経験していた。それ以上話しても、消耗するだけだった。史郎は手帳を手に取った。中のページをぱらぱらとめくった。書き込まれた名前や日付を見た。「それを返して」と千鶴が言った。史郎は手帳を持ったまま立ち上がった。焚き火ストーブに近づいた。「やめて」と千鶴が言った。史郎は焚き火ストーブの扉を開けた。中には火が入っていた。手帳を開いたまま、火の中に差し込んだ。ページの端から火がついた。千鶴が立ち上がった。ストーブに向かいかけて、止まった。手帳は二十秒ほどで燃えた。史郎が焚き火ストーブの扉を閉めた。部屋の中が静かになった。
千鶴はストーブの前に立っていた。史郎はその横に立っていた。二人の間に、一メートルほどの間があった。千鶴はストーブを見た。扉の隙間から、かすかに火の明かりが漏れていた。眼鏡を外した。指で鼻の付け根を抑えた。それから眼鏡をかけ直した。史郎が先に部屋から出た。廊下を歩く音がして、寝室の引き戸が閉まった。千鶴はしばらく焚き火ストーブの前に立っていた。燃やされたのは手帳だった。調べたことは、まだ自分の頭の中にある。それは燃やせない。だが、問題はそこではなかった。千鶴はゆっくりと台所に戻り、椅子に座った。手帳を燃やしたことの意味を考えた。史郎は証拠を消そうとしたのではなく、見たくないものを視界から消したかっただけかもしれない。結果として同じことだったが、動機としては違う。どちらが正しいかは、千鶴には分からなかった。だが、分かったことがあった。この人は変わらない、ということだった。外からどんな議論を持ち込んでも、どんな証拠を見せても、自分の決断を守ることの方が、二人の生活を守ることより優先される。それは史郎という人間の根本にあることで、千鶴が四十年間付き合ってきた部分だった。若い頃は、それを頼もしいと思った時期もあった。決断が早く、ぶれない。管理部長として組織を動かすのに、その性質は役に立った。だが今は違った。今、その性質が向かっている方向に、千鶴はいなかった。
千鶴は台所を出て、寝室の押入れに向かった。引き戸を静かに開けた。史郎が寝ている部屋の隣だったが、気づかなかった。奥の方に手を入れ、ダンボールを少しずらした。ボストンバッグが出てきた。中を確認した。二ヶ月前に入れたスーツとブラウスが、そのままあった。千鶴はバッグの中にもう少し足した。下着を何枚か、区役所に使っていた眼鏡ケース、通帳の一冊。通帳は、自分名義の別の口座のものだった。史郎は知らない口座だった。千鶴が区役所で働いていた間、毎月少しずつ積み立てていたものだった。大した金額ではなかったが、ゼロではなかった。バッグを締め、ダンボールを元に戻した。押入れを静かに閉めた。廊下に出ると、寝室の向こうで史郎の寝息が聞こえた。もう眠っているようだった。千鶴は台所に戻り、椅子に座った。手を膝の上で組んだ。目を閉じた。今すぐどこかへ行くつもりはなかった。まだその段階ではなかった。ただ、準備だけはしておく必要があった。それだけのことだった。
史郎は布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。千鶴が動く音が廊下から聞こえた。引き戸が開く音、ダンボールを動かすような音。史郎は動かなかった。手帳を燃やした後、史郎の中に何かが残っていた。充実感でも解放感でもなかった。粘りつくような重いものだった。千鶴の書き留めていた名前と日付。老夫婦の夫婦。塚本の名義に変わった土地。あれが全部正確な情報だとしたら、史郎はその先を考えかけて止めた。考え始めると、三百万円の話の前に持ち込まれた機械の話、肥料の話、参加費の話。それぞれが一本の線で繋がってくる。その線の先に何があるかを考えることは、自分が今まで何をしてきたかを認めることを意味した。史郎にはできなかった。
翌週、月末の期限を前に、史郎は塚本に電話をかけた。「重機の件、進めましょう」と言った。電話を切ってから、史郎は窓の外の暗い山を見た。耳の音が、低くなっていた。台所で千鶴が動く音がしていた。水の音、包丁の音。何を作っているのか、史郎には聞こえなかった。三百万円を用意するためには、年金の一部担保での借入れという形を使った。翌日の朝、史郎は一人で車に乗り、町の銀行へ向かった。千鶴には「車の点検に行く」と言った。銀行の窓口で書類を書いた。担当者が何度か確認の質問をしてきた。史郎は答えた。声は平静だった。手が少し震えていた。気づいているのに、止められなかった。手続きが終わり、外に出た。秋の日差しが強かった。目を細めた。駐車場に戻る途中、自販機の前で少し止まった。缶コーヒーを一本、その場で飲んだ。甘かった。普段は飲まない甘さだったが、その時は何も感じなかった。車に乗り、エンジンをかけた。ルームミラーに自分の顔が映った。見覚えのある顔だったが、どこか遠かった。
林道を登りながら、史郎はラジオをつけた。天気予報が流れていた。今週末から気温が下がると言っていた。山沿いでは初雪の可能性もあると。史郎はラジオを消した。静かになると、耳の音だけが残った。
その夜は、夕食の後に千鶴が焚き火ストーブの前に座った。史郎はすぐに寝室に引っ込んだ。ここ最近、夕食後に長く起きていることが減っていた。千鶴はストーブの扉の隙間から、火の揺れを見ていた。手帳を燃やされてから三週間が経っていた。調べた内容は覚えている。だが、覚えていることにはもう意味がなかった。あの夜、千鶴の中で何かが終わった。終わったというよりも、長い時間をかけて薄れていたものが、とうとう形を失ったという感覚だった。四十年間、千鶴は史郎の隣にいた。良い時も、普通の時も、こういう時も。大きな判断はいつも史郎がした。千鶴はそれに合わせてきた。それが夫婦というものだと、どこかで思っていた。だが、合わせることと消えることは違う。千鶴は自分がここ数ヶ月で何をしたかを思い返した。区役所の仕事をやめ、住み慣れた東京を離れ、友人もなく、交通手段もなく、冷たい山の中で毎日誰かのために動いた。その誰かは、千鶴の話を最後まで聞かなかった。ストーブの火が低くなった。千鶴は立ち上がり、薪を一本足した。扉を閉めると、また明るくなった。寝室へ向かう前に、押入れの前で一度立った。引き戸には触れなかった。ただ、そこに立った。それから廊下の電気を消して、布団に入った。史郎の寝息が、暗い部屋に聞こえていた。千鶴は目を閉じたまま、長い時間眠れなかった。
その年の冬は、例年より三週間早く来た。十一月の頭に初雪が降り、積もって解けないままの雪が重なった。山の稜線が白くなり、道の端から雪が張り出してきた。集落の家々の屋根が、一晩ごとに白さを増した。松崎史郎が朝、天窓を開けると、庭が完全に雪に覆われていた。夏の間に手を入れた畑の跡も、秋に積み上げた石の山も、全て白い平面の下に消えていた。温度計を見た。氷点下二度。玄関の引き戸が、凍り付いて開きにくくなっていた。古い家は寒かった。壁の薄さと窓の隙間と床下からの冷気。東京のマンションでは経験したことのない種類の寒さだった。体の芯から冷えていく、じわじわとした寒さだった。史郎は三枚重ねた上着を着て、焚き火ストーブに薪を足した。火がついてから部屋が温まるまで、三十分近くかかった。千鶴はすでに台所にいた。吐息が白かった。越してきた時に購入した薪が、想定より早く減っていた。山の冬を舐めていた。史郎は内心認めていた。東京では暖房をつければ部屋が温まった。ここは違った。焚き火ストーブ一台では、六部屋ある家全体を温めることができなかった。使わない部屋は締め切り、ストーブのある居間だけを温める生活になった。薪の追加を業者に頼もうとしたが、林道が雪で使えにくくなっており、配達が来週になると言われた。千鶴は台所で作業する時、厚手のコートを着たままだった。目の乾きは、薪の煙のせいでなく、冷気でも悪化した。目薬の残りが少なくなっていたが、今の状況では簡単に買いに行けなかった。食料の備蓄も心細くなっていた。雪が降り始めてから、史郎は町まで降りることを何度か躊躇した。林道の雪が怖かった。タイヤチェーンは持っていたが、慣れない道でチェーンを使って走ることへの不安があった。千鶴は残った食材を計算しながら、毎日の食事を組み立てていた。史郎にはそのことを言わなかった。言っても変わらないと分かっていたから。
十一月の中旬、史郎は塚本に電話をかけた。重機の購入から一ヶ月以上が経ち、何の連絡もなかった。防災整備の話も、その後進展した様子がなかった。補助金の申請はどうなっているのか。機材の納品はいつになるのか。収益の分配の見込みはどうなのか。電話は三回目で繋がった。塚本の声は、最初の夜に焼き芋を持ってきた時とは違っていた。柔らかさはあったが、薄かった。水で薄めたような柔らかさだった。「重機の件ですが」と史郎が切り出した。「ああ、そのことなんですが」と塚本が言った。一拍置いた。「運搬中に機材に不具合が出まして、今修理に出しているところなんです。修理が終わり次第、進めますよ」「修理費はどこから出るんですか?」と史郎が聞いた。「そこなんですが、修理費用が想定より高くついていて、出資金の一部を修理費に当てることになりまして。来年の春までには稼働できると思いますよ」と塚本は言った。声が少し急いでいた。「春」と史郎が繰り返した。「はい。雪が溶けてからになりますね。まあ、それまでの間にもう一点お願いがありまして。集落全体の雪かき費用を、今年から徴収することになりまして、一家族あたり五十万円をお願いしたいと思っているんですが」と塚本が続けた。史郎は電話を持ったまま、動けなかった。「雪かき費用」と史郎が言った。「はい。業者に頼むと高くつくので、集落でまとめて払う方式にしたんですよ。屋根の雪下ろしも含めての金額ですので、お安いくらいですよ」と塚本は言った。それから「では、振り込み先をメッセージで送りますので」と言って、電話を切った。史郎はしばらく電話を持ったまま、立っていた。耳の中の音が、高くなった。それだけではなかった。頭の中で数字が動き始めた。止めようとしても止められない、機械的な計算だった。越してきた当初の貯蓄二千万円。参加費百万円。機械と肥料五十万円。その後の資材、合わせて七十万円ほど。そして三百万円の重機の出資。この数ヶ月で、合計五百万円以上が出て行った。三百万円は銀行からの借入れだった。年金を担保にした借入れで、利子がついた。来月から返済が始まる。貯蓄の残りは、一千万円を割っていた。そこに借入れ金の返済が、毎月加わる。塚本への支払いは、まだ終わっていなかった。雪かき費用と称した五十万円が、また来た。
史郎はスマートフォンを手に持ったまま、ゆっくりと居間の床に座り込んだ。焚き火ストーブの火が、静かに燃えていた。頭の中の計算が終わった先に出てきた数字の意味を、史郎はしばらくの間受け入れることができなかった。四十年間積み上げてきたものが、半年で半分になろうとしていた。老後のために節約しようとして、老後の資金を溶かしていた。床が冷たかった。座っていると、その冷気が骨盤から背骨へと伝わってきた。焚き火ストーブの方を見た。火の色が揺れていた。史郎は動けなかった。しばらく経ってから、立ち上がった。春になれば重機が稼働する。収益が入れば回収できる。今年の損失は、来年で埋めればいい。そういう思考が、もう一度頭の中に戻ってきた。だが、それが嘘だとは分かっていた。分かっていたというより、分かりかけていた。まだ完全には分かりたくなかった。分かってしまうと、この半年間の全部が崩れる。崩れたものを前にして、千鶴の顔を見ることができるかどうか、自信がなかった。台所から千鶴の包丁の音がしていた。史郎は縁側の方に向かい、外を見た。雪が降り続けていた。庭の木の枝に、雪が重く積もっていた。一本の枝が、重さに耐えきれず小さく折れて、雪の上に落ちた。史郎はそれを見ていた。
夕食の時間になった。千鶴が運んできたのは、里芋の煮物と麦飯だった。残っていた食材で作れるものを、丁寧に作っていた。史郎は箸を取りながら、「今日、塚本から電話があった」と言った。千鶴は向かいに座り、箸を持ったままだった。「重機が修理中で、春まで稼働しないそうだ」と史郎は続けた。声が平静だった。平静を保つために、何か力を使っていた。千鶴は何も言わなかった。「雪かき費用で、また五十万円の請求が来た」と史郎が言った。千鶴の手が止まった。箸を持ったまま、食卓の上の一点を見ていた。史郎は以上、何も言わなかった。千鶴も言わなかった。二人は静かに食事をした。煮物の汁が、器の中で小さく揺れた。この沈黙は、以前の沈黙とは種類が違った。お互いが何かを知っている。その上での沈黙だった。史郎は言えず、千鶴は言わなかった。食事が終わり、千鶴が片付けを始めた。史郎は湯飲みを持ったまま、座っていた。片付けが終わり、千鶴が居間を出ようとした時、史郎が口を開いた。「来年には回収できる」と史郎が言った。千鶴は廊下の入り口で立ち止まった。史郎の方を向かなかった。少しの間があった。それから千鶴は、部屋から出た。足音が廊下を遠ざかった。
十一月の下旬に入り、本格的な吹雪が来た。前日の夜から風が強くなり、朝には窓の外が白い壁になっていた。道が見えなかった。庭の木々も、隣の家の輪郭も、全てが雪と風の中に溶けていた。電気は朝から何度か瞬断した。その度に、焚き火ストーブの炎だけが残り、家の中が揺れるような暗さになった。史郎は外に出られなかった。千鶴も出なかった。二人は居間で過ごした。史郎はぼんやりとスマートフォンを触り、千鶴は手を動かしていた。縫い物だった。昼過ぎに、屋根の雪下ろしをしなければならないかもしれないという話になった。積雪が重なると屋根が痛む。史郎は外を見て、「今日はまだ持つだろう」と判断した。千鶴は特に返事をしなかった。
午後三時頃、玄関の戸を叩く音がした。吹雪の中で来る人間がいるとは思わなかった。史郎が玄関を開けると、塚本が立っていた。頭に雪を積もらせ、コートが白くなっていた。「少し話せますか?」と塚本が言った。史郎は中に入れた。千鶴は居間から廊下を見ていた。塚本が入ってくるのを見た。表情を動かさなかった。塚本は靴を脱いで上がり込み、居間に通された。焚き火ストーブの前に座った。服から水気が蒸発して、白い湯気が立った。「雪かき費用の件で、直接来ました」と塚本が言った。「メッセージの返信がなかったので」千鶴が向かいに座った。千鶴は居間の端に立ったままだった。「今すぐは難しい」と史郎が言った。塚本は頷いた。「それは構いません。ただ、支払いが続くと、屋根の雪下ろしの順番が後になってしまいまして。集落全体でローテーションを組んでいますので、払っていない世帯は後回しになるんですよ」と、さらっと言った。史郎は塚本を見た。塚本の表情は穏やかだった。何かを脅しているような口調ではなく、ただ事実を説明しているような話し方だった。その話し方が、余計に不快だった。「払います」と史郎が言った。塚本がわずかに目を細めた。「ありがとうございます」と言った。千鶴はその一部始終を見ていた。何も言わなかった。
塚本が帰った後、史郎は椅子に座ったまま動かなかった。居間の中に、吹雪の音だけが聞こえていた。窓が風で揺れていた。焚き火ストーブの火は、相変わらず静かに燃えていた。千鶴が寝室に向かった。史郎はそれを見ていなかった。しばらくして、千鶴が戻ってきた。手に一枚の紙を持っていた。テーブルの上に置いた。史郎が見た。離婚届だった。すでに千鶴の欄には、署名と捺印がされていた。史郎は紙を見たまま、顔を上げなかった。千鶴は史郎の向かいに座った。背中がまっすぐだった。「話をしたい」と千鶴が言った。史郎はようやく顔を上げた。千鶴の目を見た。眼鏡の奥の目が、静かだった。静かすぎて、史郎には何の感情も読み取れなかった。「今、この状況でこれを出すのか」と史郎が言った。「今出なければ、いつ出すの」と千鶴が返した。「吹雪の日に」と史郎が言った。声に力が入った。「嫌がらせか。今日でなくても良かっただろう」「でも、今になった。それだけのことだよ」と千鶴は言った。声が静かだった。責めていなかった。それが余計に、史郎には重かった。史郎は離婚届から目を離した。立ち上がり、縁側の方に向かった。外は吹雪だった。窓ガラスの向こうが白く渦を巻いていた。「俺が悪かったとは思っている」と史郎が言った。窓の外を見たまま言った。千鶴は何も返さなかった。「金のことは整理する。借金もなんとかする。来年の春になれば、もう少し動きやすくなる。だから、今はまだ」と史郎は言いかけた。千鶴の声が遮った。「『来年の春』という言葉を、あなたは何度言った?」千鶴が言った。史郎は黙った。「夏の終わりにも言った。秋にも言った。今も言っている。来年になれば、春になれば、軌道に乗れば。その言葉の後に来たのは何だった?毎回何かが出て行って、毎回説明がなかった。私が数字を見せても、手帳を燃やした。それで、今度はどう整理するの?」と千鶴は言った。感情的ではなかった。怒っている声ではなかった。区役所で長年事実を積み上げて話してきた人間の話し方だった。史郎は窓の外を向いたまま、答えられなかった。千鶴が続けた。「貧しくなることは覚悟していた。東京を出る時から、そういう可能性があることは分かっていた。お金がなくても、一緒にやっていくことはできた。そのつもりだった」史郎は振り返らなかった。「できなかったのは、別のことだった」と千鶴が続けた。「四十年間、私はあなたの隣にいた」千鶴の声が少し変わった。低くなった。感情を抑えている声ではなく、感情がそもそもその奥の方に沈んでいる声だった。「あなたが決めたことを、私はほとんど全部受け入れてきた。転勤の度に環境を変えた。子供の学校のことも、実家との付き合いのことも、あなたのペースで動いてきた。それが家庭というものだと思っていた。妻というのは、そういうものだと、どこかで思っていた」史郎はようやく振り返った。千鶴の顔を見た。千鶴は続けた。「ここに来ることを、私は反対しなかった。正確には、反対できなかった。あなたの話し方が、最初から決定事項だったから。ここでも、機械のことでも、重機のことでも、いつも事後報告だった。相談したふりをして、最初から決まっていた。私の意見を聞く形だけ作って、聞く気はなかった」史郎の手が脇で拳を作った。「それでも、まだ一緒にいられると思っていた。お金のことは、二人で直せるかもしれないと思っていた。でも」千鶴は言って、一度止まった。「手帳を燃やした時、終わったと思った」史郎は何も言わなかった。「あれは書類だったけれど、燃やしたのは私の話だった。私が時間をかけて調べて、必死に持ち帰ったものだった。それを、聞かずに燃やした。今まで何度もそういうことがあった。ただ、あの夜が一番はっきりしていた」千鶴は離婚届の方を見た。「お金が戻ってくるかどうかは分からない。でも、それとは別の話だよ」と千鶴が言った。史郎の目が赤くなった。「こんな時に出ていくのか」と史郎が言った。声が割れた。千鶴は答えなかった。「俺が悪かった。謝る。だから」と史郎が続けた。声が続かなかった。千鶴は史郎を見た。泣きかけている顔を見た。「こうなるまで、謝らなかった」千鶴が言った。静かだった。史郎は何も返せなかった。「私のことを、ずっとそこにいる人間だと思っていた。何をしても、いなくならない人間だと。違うよ」と千鶴は言った。立ち上がり、寝室に向かった。
寝室で千鶴は押入れを開けた。ボストンバッグを引き出した。中身を確認した。服、眼鏡ケース、通帳、目薬の残り。十分だった。それからスマートフォンでタクシーを呼んだ。山の中まで来てくれるか確認してから予約した。一時間後に来ると言われた。吹雪の中でも来てくれることを、千鶴は少し意外に思った。来てくれるなら、それで十分だった。コートを着て、スカーフを巻いた。鏡を見た。目の下に疲れがあった。それは今日始まったものではなかった。荷物を持って廊下に出た。史郎が居間から出てきた。千鶴のボストンバッグを見た。「今日出るのか」と史郎が言った。「タクシーが来るから」と千鶴が答えた。「この吹雪の中を」と史郎が言った。「来てくれるって言ってた」と千鶴が言った。史郎は見ていた。軽装だった。それだけの荷物で出て行く気なのかと思った。「行くな」と史郎が言った。千鶴は玄関の方に向かった。史郎が後を追った。一時間後、エンジン音が遠くから聞こえた。史郎は玄関で千鶴の前に立った。「出るな」と繰り返していた。声が途切れ途切れだった。泣いていた。千鶴は正面を向いていた。史郎の顔を見ていたが、感情が動く様子がなかった。「もう一度だけ考えてくれ」と史郎が言った。タクシーのライトが、雪の中で近づいてきた。千鶴は史郎の横をすり抜けて、玄関の引き戸を開けた。冷気が一気に入ってきた。外は真っ白だった。吹雪が風に煽られて、横向きに飛んでいた。千鶴はコートの前を抑えながら、雪に足を踏み入れた。靴の先が沈んだ。一歩ずつ踏みしめながら、タクシーに向かった。史郎も外に出た。「千鶴」と呼んだ。千鶴は振り返らなかった。「待ってくれ」と史郎が言いながら駆け出した。庭の石に足を引っ掛けた。前に傾いた体を立て直せず、雪の上に両手をついた。膝まで雪に沈んだ。立ち上がろうとした。手が雪の冷たさでかじかんだ。もう一度、千鶴の名前を呼んだ。タクシーのドアが開いた。千鶴がバッグを後部座席に押し込み、乗り込んだ。ドアが閉まった。史郎は雪の上で両手をついたまま、タクシーを見ていた。車が動き始めた。雪道をゆっくりと、カーブの向こうに消えていった。赤いテールランプが、雪の中で滲んで消えた。史郎はその場に座り込んだままだった。雪が降り続けていた。コートに積もった。手が痛かった。耳の音が高くなっていた。庭の木が、風に揺れていた。どれだけの時間が経ったか分からなかった。体が冷え切ったところで、史郎はようやく立ち上がった。家に入った。引き戸を閉めた。居間のストーブがまだ燃えていた。食卓の上に、離婚届が残っていた。千鶴の署名と捺印が、そのままそこにあった。史郎はテーブルの前に立ったまま、離婚届を見た。手に取らなかった。椅子を引いて座った。濡れたコートを着たままだった。ストーブの火が静かに燃えていた。外の吹雪の音が、薄い壁を超えて聞こえていた。部屋の中には、史郎だけがいた。そのしんしんとした静けさの中で、史郎はようやく自分が今どこにいるのかを正確に知った。金がなかった。家は借金の担保に入っていた。妻は出て行った。そして今夜、この吹雪の山の中に、一人でいた。焚き火ストーブの薪が一本、燃え尽きて崩れた。小さな音がした。史郎はそれを聞いた。それだけだった。
千鶴が出て行ってから三ヶ月が経った。松崎史郎はまだその家にいた。他に行く場所がなかった。東京の知人に連絡することはできなかった。部長として働いていた頃の同僚に、今の状況を話す言葉が見つからなかった。三十八年間積み上げてきた体裁というものが、そこだけ残っていた。残っているというより、捨てる力も残っていなかった。家の中は、千鶴がいた頃と物の配置は変わっていなかった。だが、家の中が変わった。台所の流しに食器が溜まった。脱いだ衣服が椅子の背にかかったまま、何日も残った。掃き掃除をしなくなって、床の隅に埃が溜まり始めた。千鶴がいた頃には気づかなかった。清潔さは、誰かが維持するものだったのだと、千鶴が消えてから初めて分かった。体重が十キロ近く落ちた。食欲がなかったわけではなかった。食材を買いに行く気力と手段が、じわじわと失われていった。雪が溶けるまでは林道が危なかった。溶けてからも、町まで降りて買い物をして戻る。その一連の動作が、途方もなく遠く感じた。集落の畑の端に、冬起こしした大根が何本か残っているのを見つけた。霜にやられて表面がやけていたが、中はまだ食べられた。農家の男が春の準備で出してきた廃棄物だった。誰も使わないものを、史郎は黙ってもらっていった。それと残っていた味噌で、毎日同じような食事をした。鏡を見る回数が減った。見ても、そこに映る顔をどう扱えばいいか分からなかった。頬が落ち、目の下がくぼみ、髭が伸びていた。整える理由が見つからなかった。音がなかった。千鶴がいた頃は、台所から常に何かの音がしていた。水の音、包丁の音、食器が動く音。史郎はそれを意識したことがなかった。空気のようなものだった。消えて初めて、あれが家の音だったと分かった。今は、風の音だけがあった。壁の薄さから来る冷気の音。夜中に屋根の板が気温の変化で鳴る音。それと、耳の奥の高い虫の声。史郎は夜、布団に入っても長く眠れなかった。眠れないまま天井を見ていると、千鶴の声が戻ってきた。声そのものではなく、言葉の内容が。「手帳を燃やした時、終わったと思った」。その一言を、何度も頭の中で繰り返した。あの夜、焚き火ストーブの扉を開けて手帳を入れた時、自分は何を守ろうとしていたのか。千鶴が積み上げたものを燃やすことで、何が変わるつもりだったのか。答えは出なかった。ただ、そういうことをする人間だったのだと、今は思った。
雪が溶けて道に泥が残り始めた頃、塚本が来た。今度は一人ではなかった。一人は史郎の知らない若い男で、もう一人は集落の端に住んでいる農家の男だった。三人で玄関先に立っていた。史郎は戸を開けた。三人の顔を見た。「話があります」と塚本が言った。声に柔らかさはなかった。今日は仕事の話で来たという顔をしていた。家の中に通した。居間の様子を見て、若い男が視線を動かした。塚本は見なかった。農家の男は床を見ていた。三人が座った。史郎も向かいに座った。「率直に言います」と塚本が切り出した。「重機の出資金の件ですが、返済の目処が立たない状況です。加えて、参加費や資材費などの未払い分を合計すると、現時点で相当な金額になっています」史郎は言葉を出せなかった。「うちとしても、これ以上待つのが難しい状況でして」と塚本が続けた。「一つ、提案があります。この土地と家を、うちで引き取らせてもらえれば、現在の未払い分と相殺するということで、どうでしょう?」史郎は塚本を見た。「引き取るとは、どういう意味ですか」と史郎が聞いた。「買い取るということです。評価額で計算すると、未払い分と相殺しても、ある程度残りますので、そちらはお渡しします」と塚本は言った。金額を聞いた。「五十万円です」と塚本が答えた。史郎は計算した。三百万円で買った家。五十万円で売る。二百五十万円の損。それに出て行った費用を合わせると、この半年で失ったものの総額が見えてきた。銀行への借入れはまだ残っていた。毎月の返済が続いていた。貯蓄は、ほとんどなかった。断るという選択肢があるかどうかを考えた。断って、このまま住み続けて、借金の返済をしていく。収入はなかった。年金が月十四万円ほどあったが、借金の返済と生活費で消えた。この家にいる限り、食材を得るために山を降りる必要があった。車の維持費がかかった。断れなかった。
史郎はペンを取った。書類に目を通した。塚本が丁寧に準備してきた書類だった。必要な箇所に付箋が張ってあった。手が震えていた。止めようとしたが、止まらなかった。ゆっくりと署名した。捺印した。塚本が書類を受け取り、確認した。若い男が隣でそれを見ていた。「ありがとうございます」と塚本が言った。それから「来月末までに、引き渡しをお願いします」と付け加えた。三人は立ち上がり、玄関に向かった。史郎は座ったままだった。引き戸が閉まる音がした。しばらくして、史郎は縁側に出た。庭を見た。春の光が差していた。土は雪解けを含んで、泥になっていた。夏の間に植えた野菜の枯れた茎が、まだそこに残っていた。抜かなかった。抜く気になれなかった。スコップが庭の端に刺さったままだった。秋から放置していた。刃の先が錆びていた。この土地に来て、何をしたかを史郎は思い返した。草を刈った。土を掘った。種を蒔いた。費用を払った。そして、失った。作れたものは、曲がったキュウリが二本と、色の薄いトマトが数個だった。庭の木が一本。春の光の中で、小さな芽をつけ始めていた。史郎が植えたものではなかった。最初からあった木だった。史郎はそれを少しの間見てから、縁側に戻った。
引っ越しの荷造りを、史郎は一人でした。越してくる時は業者を使った。今回は金がなかった。ダンボールを集めて、自分で積んだ。何を持っていくかを決める作業が、想像より早く終わった。半年の間に、物が減っていた。使わなくなったものを捨てたわけではなかった。ただ、持っていく気になれないものが多かった。千鶴の荷物がまだいくつか残っていた。引っ越しの時に持ちきれなかったダンボールが、押入れの奥にあった。中を開けると、衣類と小さな陶器の置き物が数個入っていた。越してくる前に千鶴が選んで残していったものだった。廃棄業者に渡すつもりだったのが、結局そのままになっていた。史郎はそのダンボールを積んだ。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、捨てる気になれなかった。
群馬の山を下り、高速に乗り、東京に近づくにつれて景色が変わった。山が消え、田んぼが消え、住宅が密集し、看板が増え、車の量が増えた。東京に入ると、音が変わった。エンジン音、クラクション、工事の音。三十八年間過ごした場所の音だった。懐かしいとは思わなかった。ただ、ここに戻ってきたという事実があった。千鶴がどこにいるかは、まだ知らなかった。離婚届は、あの夜以来食卓の上に置いたままにしていた。引っ越しの荷造りをする時、ダンボールに入れた。提出していなかった。提出するという行動が取れなかった。取れないまま、荷物の中に入っていた。
東京に戻ってから、史郎はしばらく知人の家の離れを借りた。物流の同僚で、今も近所に住んでいる男だった。事情を全部は話さなかった。「一時的に身を置く場所が必要だ」と言うと、離れを貸してくれた。広さは四畳半だった。千鶴の居場所を探した。最初は連絡先に電話した。出なかった。メッセージを送った。返信がなかった。区役所の知人に聞いた。「個人情報だから教えられない」と言われた。千鶴の実家の方向に連絡した。千鶴の兄と、数十年ぶりに話した。短い電話だった。兄は「妹から話は聞いている」とだけ言った。居場所は教えてくれなかった。それでも諦めなかった。諦める理由を持てなかった。一ヶ月ほどかけて共通の知人を辿り、千鶴が東京の北部に住んでいることを知った。駅名まで聞けた。その駅の周辺を、何日か歩いた。
四月の末の夕方、スーパーの前で千鶴を見た。レジ係りの制服を着ていた。ベージュのエプロンに名札がついていた。史郎の立っていた位置からは名前は読めなかったが、千鶴だとすぐに分かった。小さな体、背中の真っすぐさ、眼鏡のかけ方。千鶴はレジで客に対応をしていた。史郎のいる入り口の方は見ていなかった。史郎はしばらくその場に立っていた。入っていくことも、離れることもできなかった。千鶴が客を送り出して、次の客に向き直った時、視線が入り口の方に向いた。史郎と目があった。一秒ほど、二人はそのままでいた。千鶴はすぐに、次の客の対応に戻った。史郎は立っていた。一時間ほどして、千鶴がエプロンを外して出てきた。コートを着て、小さな鞄を肩にかけていた。目の下に、深いシワがあった。疲れていた。疲れ方が、山にいた頃とは別の種類だった。千鶴は史郎を見た。驚いた様子はなかった。「どこで調べたの」と千鶴が言った。「人を辿った」と史郎が答えた。千鶴はため息をついた。小さなため息だった。「話があります」と史郎が言った。千鶴は少しの間、史郎の顔を見ていた。それから、少し先のベンチに向かって歩き始めた。駅前の小さな広場に、金属のベンチがあった。千鶴が座った。史郎も隣に座った。二人の間に、少し距離を置いた。夕方の光の中で、駅に向かう人々が前を通り過ぎた。誰も二人のことを見なかった。史郎は膝の上に手を置いた。何を言うか、考えてきた言葉があった。一ヶ月かけて用意してきた言葉だった。だが、今千鶴の横に座ると、それが正しいかどうか分からなくなった。「謝りたい」と史郎は言った。千鶴は前を向いたまま聞いていた。「全部、俺のせいだった。群馬に行くと決めたのも、塚本の話を聞き続けたのも、お前の話を聞かなかったのも、手帳のことも、全部、俺だった」千鶴は何も言わなかった。史郎は続けた。言葉を選ばなかった。用意していたものを使わずに、そのまま出てくる言葉を言った。「お前が出ていった夜、雪の中に倒れて、タクシーのライトが消えて、それで初めて分かった。遅すぎた。それは分かってる。でも、分かった」千鶴は視線を少し落とした。史郎が続けた。「お前が区役所をやめたのも、東京を離れたのも、友人と離れたのも、俺が言ったからだった。俺はそれを当然だと思っていた。家族のためにやってると思っていた。でも、違った。お前のことを、いなくならない前提で動かせる人間だと思っていた」車が一台、前を通り過ぎた。千鶴は黙っていた。少しの間が経って、千鶴が口を開いた。「謝ってくれて、よかった」と千鶴は言った。「ありがとう」とも言った。だが、続けた。「それで、どうしたいの」と千鶴が聞いた。史郎は答えられなかった。戻ってほしいという言葉が喉まで来た。だが、それを言える立場かどうか、分からなかった。千鶴が続けた。「謝られても、それが事実を変えるわけではない。あなたが間違えたことは間違えたし、私が出ていったことも事実で、今私がここで働いていることも事実。それは全部、変わらない」史郎は頷いた。「あなたが今どんな状況なの」と千鶴が聞いた。声が少し実務的になった。感情ではなく、状況を確認している声だった。史郎は正直に話した。群馬の家は手放した。五十万円で売った。借金がまだ残っている。知人の離れに、今は住んでいる。仕事を探している。千鶴は聞いていた。「いくら残ってるの」と千鶴が聞いた。史郎は金額を言った。千鶴は少しの間黙った。それから、目を前に向けたまま、「分かった」と言った。
千鶴が住んでいるのは、駅から歩いて七分の集合住宅だった。十五平米。六階建ての二階。千鶴が連れて行って、中を見せた。狭かった。玄関を入るとすぐに台所があり、その奥に居室があった。収納が一つ。窓からは、隣のビルの壁が見えた。史郎はその部屋を見た。千鶴が毎日過ごしている場所だった。一人で住むには十分で、二人には狭い場所だった。「ここに来ていいとは、言っていない」と千鶴が先に言った。史郎は頷いた。「ただ、あなたの今の状況を聞いて、このまま放っておくこともできない」と千鶴は続けた。「知人の離れに、いつまでもいるわけにもいかないでしょう」史郎は何も言わなかった。「ここに来てもいい。ただし、条件がある」と千鶴が言った。千鶴はコートを脱ぎながら、淡々と話した。「借金は自分で返す。私は助けない。私の口座には手をつけない。家のことは自分でやる。私が帰ってきた時に食事があるとか、そういうことも期待しない。ここは私の部屋で、私のやり方で動いている。あなたはその中に入ってくる。干渉はしない」史郎は聞いていた。「仕事は自分で見つける。いつまでも無職でいるなら、出ていってもらう。生活費は折半。それだけのことだよ」と千鶴は言った。感情がなかった。怒りも、哀れみも、懐かしさも、声の中にはなかった。ただ、これが条件だという声だった。史郎はしばらく部屋を見回した。窓のそばに小さなテーブルがあった。椅子が一つ。隅に積み重なったダンボールがあった。「分かった」と史郎は言った。千鶴はエプロンを洗濯機に入れながら、「離婚届はどうした」と聞いた。「荷物の中にある」と史郎が答えた。「出してきて。役所に出してくるから」と千鶴が言った。史郎はその言葉を聞いて、一度止まった。千鶴は洗濯機の蓋を閉めながら、史郎の方を見なかった。史郎は「分かった」と言った。
仕事を見つけるのに、一ヶ月かかった。六十七歳。物流の管理職あり。体力仕事は難しい年齢ではなかったが、事務系の求人はすぐにはなかった。ハローワークに何度も通い、担当者と話し、書類を出した。最初に内定をもらったのは、道路工事の交通整理の仕事だった。夜間作業が多かった。交通量の少ない工事現場で、誘導棒を持って立つ仕事だった。史郎は断らなかった。初日に現場に行き、反射ベストを着て、担当者から誘導棒の使い方を教わった。隣に立った同僚は、史郎より十歳以上若かった。特に声をかけてこなかった。史郎も声をかけなかった。最初の夜、立っている間に耳の音が変わった気がした。車のエンジン音と誘導棒の光の中で、高い音が一段大きくなった。体が慣れるまで、時間がかかった。帰り道の電車の中では、座席に深く座って目を閉じた。疲れていた。全身の疲れだった。部屋に帰ると、千鶴はすでに寝ていた。十五平米の部屋で、二人は生活した。二人というのは正確ではないかもしれなかった。同じ空間に、別々に住んでいた。千鶴は朝早く出勤した。スーパーの早番がある時は、まだ眠っている時間に出て行った。史郎が夜間作業から帰る頃には、千鶴が寝ていた。ずれた時間の中で、二人が同じ部屋にいる時間は短かった。食事は別々に作った。千鶴が先に何かを作って食べ、史郎は帰ってから、残りがあれば食べ、なければ自分で何か作った。冷蔵庫の中で、どちらのものか分かるように場所が自然に別れていった。言葉は最低限だった。「明日は何時に帰る?」「洗濯機は今日使った」「この棚のものを動かしたのは誰か」そういう言葉だけが、二人の間にあった。
夜の工事現場に立つのが、史郎の日常になった。誘導棒を持って立ち、車を止め、作業員に合図を出し、また車を通す。その繰り返しだった。考えることは何もなかった。体がその場にあればよかった。物流の管理部長として、棚卸しの計画を立て、人員配置を組み、トラブルに対処した三十八年間。それが今、誘導棒一本になっていた。史郎はそのことを最初の頃は考えた。考えるたびに、胸の中に重いものが動いた。だが三週間も経つと、考えなくなった。考えることと現実は別のことだった。今夜もここに立つ。それだけだった。給料日に、借金の返済口座に振り込んだ。残りで生活費を払い、食材を買い、交通費を出した。残る金額は少なかった。千鶴に渡す生活費の封筒を用意する時、史郎は金額を確認する指先が、以前の癖でテーブルを叩きかけて止めた。叩く必要がある計算は、今の生活にはなかった。
ある夜、珍しく二人が同じ時間に起きていた。千鶴が早番を終えて戻り、史郎が出勤前の食事を作っていた時間が重なった。千鶴はコートをかけ、手を洗い、テーブルに座った。史郎が味噌汁を鍋で温めていた。余分があったので、千鶴の分も碗に入れた。テーブルに置いた。千鶴はそれを見て、「ありがとう」と言った。史郎は何も言わずに、自分の分を持って座った。二人でしばらく無言で食べた。窓の外から、電車の音がした。六階建ての二階から見える景色は、ビルと電線だった。千鶴が箸を置いて、「今日は何時から?」と聞いた。「十一時から」と史郎が答えた。「そう」と千鶴が言った。それだけだった。千鶴が食器を持って、流しに立った。史郎は残りの味噌汁を飲んだ。出かける前に、史郎はリュックを背負いながら、「うまかった」と言った。千鶴は流しで食器を洗いながら、聞こえていたが返事をしなかった。史郎は玄関を出た。
十一月に入り、東京の夜が冷えてきた。史郎は工事現場に立っていた。反射ベストの上に、厚手のジャンパーを重ねていた。誘導棒のライトが、手の中で点滅していた。道路の向こうで、アスファルトを削る機械が唸っていた。作業員が数人、ライトに照らされながら動いていた。史郎の仕事は、その間一般車両を止めることだった。鼻の先が冷えていた。息が白くなった。耳の音が、今夜は少し静かだった。機械の音が大きすぎて、相対的に薄まっているのかもしれなかった。トラックが一台来た。史郎は誘導棒を横に向け、止めた。運転手が窓を開けずに、中からこちらを見た。史郎は合図を送り、トラックを通した。そういうことを、夜の間に何十回か繰り返した。休憩の時間になって、史郎はコンビニで温かい缶コーヒーを買った。指先に当てると、少しだけ暖かくなった。去年の秋、群馬の林道を車で走りながら、窓の外に山の景色を見たことを思い出した。あの頃はまだ、この先の展開が自分の手の中にあると思っていた。今は違った。手の中には、誘導棒があるだけだった。それが無駄だとは思わなかった。ただ、結果だと思った。自分が選んだことの積み重なった結果が、ここにある。それだけのことだった。
夜中の三時に作業が終わり、史郎は電車に乗った。深夜の電車は空いていた。座席に座ると、体の疲れが一度に来た。目を閉じた。乗り換えを一度して、駅に着いた。改札を出ると、夜の空気が冷たかった。歩いて七分のアパートまで、史郎は一定のペースで歩いた。部屋の鍵を開けて入ると、暗かった。千鶴はもう眠っていた。電気をつけなかった。台所の小さな手元灯だけつけた。リュックを玄関に置いた。コートをかけた。手を洗った。冷蔵庫を開けると、ラップをかけたおにぎりが二個あった。千鶴が作ったものかどうかは分からなかった。自分で作った記憶がなかったので、千鶴が置いていったのだろうと思った。一個取り出して、ラップを外した。テーブルの前に座り、食べた。味は塩だった。奥の部屋で、千鶴が壁に向かって眠っていた。布団の形が、薄明かりの中でうっすらと見えた。史郎は食べながら、その布団の形を見た。起こすつもりはなかった。起こす理由がなかった。おにぎりを食べて、皿を洗った。水の音を立てないように気をつけた。電気を消して、布団を出した。居室の端の方に敷いた。千鶴との間には、畳二枚分ほどの距離があった。横になった。天井を見た。東京の夜は、山の夜と違って完全には暗くならなかった。窓の外の光が、カーテン越しに部屋の中を薄く照らしていた。千鶴の寝息が聞こえた。静かで、一定だった。史郎は目を閉じた。耳の音がした。高い、薄い音だった。何年も前から鳴っている音だった。これからも鳴り続ける音だった。眠れるかどうか分からないまま、目を閉じたままでいた。二人の間の暗さが、音もなく続いていた。朝になれば、また始まる。それだけのことだった。



