トイレ掃除をしていたら、突然「おい、白川君じゃないか」と声をかけられた。振り返ると、そこにはかつて俺を退職に追い込んだ元同僚の安野さんが、見下すような笑みを浮かべて立っていた。「君、あの会社辞めてどうしてるのかと思ったら、こんなところで清掃員なんてしてたのか」——作業着姿の俺を見て、彼は嬉しそうにそう言った。何も言い返さずその場を去ろうとした俺に、安野さんはさらに畳みかけてきた。「君にはスー…

トイレ掃除をしていたら、突然「おい、白川君じゃないか」と声をかけられた。振り返ると、そこにはかつて俺を退職に追い込んだ元同僚の安野さんが、見下すような笑みを浮かべて立っていた。「君、あの会社辞めてどうしてるのかと思ったら、こんなところで清掃員なんてしてたのか」——作業着姿の俺を見て、彼は嬉しそうにそう言った。何も言い返さずその場を去ろうとした俺に、安野さんはさらに畳みかけてきた。「君にはスー...

会社を辞めてどうしているのかと思えば、清掃員なんてやっていたのか。かつての同僚が、見下すような顔でニヤニヤと笑う。トイレの清掃作業に励んでいた俺は、これ以上絡まれたくない一心で無難な挨拶を済ませ、その場を去ろうとした。だが彼は、獲物を見つけた爬虫類のような視線を俺へと向け、まったく逃がそうとはしなかった。

「君はスーツより、その清掃員姿が似合ってるよ。ほら、人間適材適所って大事だと思うしね。」

ねちねちと絡んでくるところは、本当にあの頃と変わらないのだなと、俺は呆れ返ってしまう。だがそんな態度が伝わったのか、元同僚は明らかに不満そうな顔を浮かべ、俺を睨みつけてきた。

「おい、なんだよその態度。それがあれだけ世話になった相手に対する態度か。」

「え、お世話になった?」

自分の仕事を押し付けて、こき使うだけ使って辞めさせたの間違いではなくて。俺は思わず拍子抜けして、ぽかんと口を開けてしまった。しかしそんな俺の反応は、さらに相手を怒らせたらしい。怒りで顔を赤く染めると、彼はバケツから雑巾を掴み取り、俺目がけて投げつけてきた。濡れた雑巾は俺の胸元にヒットし、汚れた水をまき散らして、顔や髪までもびしょ濡れにした。

その姿を見て、元同僚はひいひいと苦しそうに笑い続ける。「ああ、これは本格的に痛い目を見ないと分からないらしいな。」そう呟きながら、俺は内ポケットからスマートフォンを取り出し、ある人物へ電話をかけた。

俺の名前は白川ハメ。システム開発の会社で働いている。高校の授業で初めてプログラミングに触れ、その面白さと奥深さにすっかり魅了された。高校を卒業した後は専門学校でスキルを磨き、今の会社に就職した。納期や顧客の無茶ぶりなど大変なことも多いが、好きなプログラミングに触れていられるので、今の仕事は楽しい。だが、俺には一つ困ったことがあった。

今朝も俺が早めに出勤して仕事に取りかかっていると、出勤時間ギリギリでのんびり職場へ現れた人物が、早速俺へ突っかかってきた。

「へえ。今日も早いね。白川君、仕事大好きじゃん。それとも暇なの?」

「おはようございます。安野さん、昨日ちょっとやり残したことがあって。」

「あなたは今日も遅いですね」とは言えず、俺は曖昧な笑みを浮かべてそう答える。彼は俺の同僚の安野さん。一年先輩にあたる人物だ。すると俺の返事を聞いて、安野さんは何とも嫌らしく口の端を吊り上げた。

「ああ、そうなの。まあ、専門学校卒の白川君には、ここの仕事は少しレベルが高く感じるかもね。そりゃ頑張って人より倍働かないと。」

遅刻寸前で顔を出した割には、急いで仕事に取りかかる様子も見せず、安野さんはニヤニヤと俺を眺めながらそんなことを言ってくる。そう、俺が困っていること。それは、この安野さんが何かとあれば、こうしてしつこく俺へ絡んでくることだった。

「ちなみに、俺くらいになったら、そんな仕事片手間で終わっちゃうけどね。なんせ俺は名門大学卒の仕事ができる男だからさ。」

安野さんは自分が名門大学を卒業したことを自慢に思っているらしい。だからこそ、専門学校卒の俺とこうして同じデスクを並べて働くのが面白くないのだろう。何がいいが、本当に仕事ができる人間は、自分からそんなことを言わないに違いない。それに、実は俺が今やっている仕事は、本来なら安野さんが受け持たなければいけない類のものだった。それなのに、いつまで経っても報告が上がってこないものだから、上も痺れを切らして俺へと仕事を回してきたのだ。

「片手間でも両手間でもいいのだが、ちゃんと締め切りを守って仕事をしてくれ。」と心から思ったが、それを実際に口にするのはさすがに憚られ、俺は「それはすごいですね」などと適当な相槌を打つ。だが、何事も調子に乗りがちな安野さんは、どうやらそれを真っ直ぐ褒め言葉として受け取ったらしい。

「まあまあ、白川君が俺に憧れるのはよく分かるよ。なんせ俺は、仕事もできれば顔もイケメンで、実家も裕福だからね。女の子にもモテちゃって大変なわけよ。」

月に一度は美容室に通っているという、おしゃれパーマをかけた髪を見せつけるように彼はかき上げ、得意顔でうんうんと頷く。そして安野さんは、ご自慢ついでにさも親切そうな顔をして、こんなことを言ってきた。

「俺的にさあ、白川君はとにかく経験が大事だと思うわけよ。だから、A社からの修正依頼。あれ? 白川君に任せてあげるよ。まあ、ちょっと大変だとは思うけど、何事も経験だからさ。」

俺は思わず目を見開く。A社からの修正依頼。そもそもその発端は、ろくな確認もせずに納品した安野さんが原因なのである。言葉では最もらしいことを言っているが、要は自身の仕事、それも雑な納品をやらかした尻拭いを、俺へ押し付けているだけだ。

「えっと、俺も納期が近い案件もありますので、それは……」

俺は遠回しに断りを入れようとした。実際、今抱えている仕事だけでも手一杯で、その上安野さんの仕事の片付け代わりまでしているので、ただでさえしばらくは残業決定だった。だが、そんな俺を安野さんは途端に怖い顔をして睨みつけてくる。

「はあ? 何? 何? 白川君って、先輩の親切を仇で返すタイプなわけ? この俺がせっかく君を指導しようとしてあげているのに。」

突然の大声に、何事かと周囲の視線が集まる。安野さんはさらに周りに聞こえるように、より大きな声で嫌味を口にした。

「白川君も随分と偉くなったもんだね。俺の指導はいらないって。へえ。君って案外そういうことを言う人だったんだ。俺、傷ついちゃうなあ。」

大げさに驚きながら、口にした覚えもない暴言を宣伝するかのように安野さんが騒ぐため、それを受けた周囲がひそひそとざわめき出す。やがて、突き刺さる視線に耐えかねて、俺は頷かざるを得なくなってしまった。

「……分かりました。やります。」

そう言って項垂れる俺を一瞥して、安野さんはふんと鼻を鳴らした。「分かればいいんだよ。分かればいいんだ。これからも先輩であるこの俺の、ありがたい指導はしっかりと受けるようにね。」

そこでようやく、安野さんは俺を解放してくれた。だが、それからというもの、彼は何かにつけて自身の仕事を俺に押し付けてくるようになる。そのせいで俺は勤務時間内に自分の仕事を終わらせることさえままならなくなり、それを挽回するために朝は誰よりも早く出勤し、夜は誰よりも遅く退社することを余儀なくされた。そうして俺は、いつしか肉体的にも精神的にも、ギリギリまで追い詰められてしまった。

「初め、あなた、無理をしすぎじゃない? このままだと倒れてしまうわよ。」

「母さんの言う通りだ。仕事は他にもいろいろある。今の会社にこだわる必要はないと思うぞ。」

「母さん、父さん。うん。ありがとう。」

ついには、顔を見るたびに衰弱していく俺を心配した実家の両親に勧められ、ほどなくして会社を退職することとなってしまったのだった。

退職後、俺はしばらく休んだ後、縁あってセキュリティ会社に再就職することとなった。実はこのセキュリティ会社は、俺の専門学校時代の友人である三井が社長を務めている。元々は三井の父が立ち上げた会社で、それを息子である彼が継いだのだ。俺が前の会社を辞めてしばらく経った頃、専門学校の友人たちとの飲み会に誘われたことがあった。その場には、社長になったばかりの三井の姿もあり、そこでたまたま彼の仕事の話となった。彼の会社は元々防犯カメラの開発販売が主体だったが、彼はそれだけでなく、防犯システムやサーバーセキュリティの方面にも力を入れていこうと考えていたらしい。そのため、腕のいいシステムエンジニアを探していたそうだ。そしてこちらの現状を知った彼が、「是非うちに来てくれ」と俺を誘ってくれたのだ。

新しい会社で働き出してから、俺の体調は見る見るうちに回復していった。職場の雰囲気も良く、何よりプログラミングに再び触れられる機会を得て、「やはり俺はこの仕事が大好きなんだな」と改めて実感したものだ。

それからあっという間に数年が経った。その日、俺は社内のトイレ掃除に励んでいた。仕事に詰まると、俺は時々こうして社内のトイレを掃除している。もちろん、元々入ってもらっている清掃員も了承済みの行動だ。ちなみにこれは前の職場を辞めた後、しばらく通っていた精神科の医師から勧められたストレス発散方法でもあった。体を動かすことで思考の整理にもなるし、何より自分の手で綺麗になっていく空間を見ると、まるでプログラミングを前にしたような気持ちにもなる。俺にとっては一石二鳥のリフレッシュ方法なのである。

「よし、こんなもんかな。」

俺は清掃員から借りた作業服姿で、曲げていた腰を伸ばし、ぐるりと辺りを見回す。おかげで、どうにも引っかかっていた案件を解決するアイデアも浮かんだ。「お掃除様々だな」と浮かれながら片付けを始める。だがその時、トイレに誰かが近づいてくる足音がした。ここは会議室に近い場所なので、社員以外にも時々商談に来た取引相手なども利用する場所だ。

相手は俺を清掃員だと思っているのか、特に警戒することもなくそのまま中へと入ってくる。しかし相手は俺の姿を見て、一度驚いたように目を見開くと、立ちまち鋭い声をあげた。

「おい、白川君じゃないか。」

「……安野さん。」

なんとそこには、前の職場で俺を退職にまで追い込んだ先輩の姿があったのだ。最初の驚きが過ぎ去ると、安野さんは早速目を細めて、じろじろと俺を眺め回してくる。

「へえ。君、あの会社辞めてどうしてるのかと思ったら、こんなところで清掃員なんてしてたのか。」

いつもの見下した様子でニヤニヤと笑う安野さんに、俺はこれ以上絡まれたくない一心で無難な挨拶をしてその場を去ろうとした。

「安野さんはお元気そうで。相変わらず髪から靴までピカピカに整えているんですね。」

あれから数年が経ち、さすがに少し太ったせいか、どうにも若者ぶりたいおじさんの痛々しさみたいなものが全面に出てしまっている。だが本人はそんなことつゆほども思っていない様子で、獲物を見つけた爬虫類のような視線を俺へと向けてきた。

「そうだな。おかげ様で俺はこの通りって感じかな。ああ、君が辞めてからさ、あっちこっちから頼られちゃって。もう仕事のできる男は辛いよね。」

言いながら、その目にはどうやって俺をいびってやろうかという期待が浮かんでいる。よくよく見覚えのあるその眼差しに、俺は嫌悪感を覚えずにはいられなかった。だが、俺の気持ちなど知ったこっちゃないとばかりに、安野さんは間違いないほど明るい口調でとくとくと続ける。

「そうかそうか。白川君は、うちを辞めてから清掃員に華麗なる転身をしたってわけか。まあ、専門学校卒の君には、うちのハードルは高かったものね。そうだよ。人間、無理しないのが一番。」

嫌味にしか聞こえない。そんなことを口にして何が楽しいのか、彼はくすくすと肩を揺らす。

「うん。君にはスーツより、その清掃員姿が似合ってるよ。ああ、清掃員をバカにしてるわけじゃないからな? ほら、人間適材適所って大事だと思うし。」

「……はあ、そうですか。」

どうでもいいが、彼はここに用を足しに来たのではなかったのか。それなのに目的も達成しないうちから、こうやって元同僚へネチネチと絡んでくるところは、本当にあの頃と変わらないのだなと、俺は呆れ返ってしまった。だが俺のそんな態度が伝わったのか、安野さんはそのうち明らかに不満そうな顔を浮かべ、俺を睨んでくる。

「おい、なんだよその態度。それが、あれだけ世話になった先輩にしていい態度だと思ってるのか?」

「え、お世話になった? 自分の仕事を押し付けて、こき使うだけ使って辞めさせた、の間違いではなくて?」

俺は思わず拍子抜けして、ぽかんと口を開けてしまった。しかし、そんな俺の反応はさらに相手を怒らせてしまったらしい。

「だから、お前のそういう態度のことを言ってんだよ。本当に低能はどこまで行っても低能のままだな。バカはバカなりに、先輩に対して気を使えって言ってんの。」

安野さんは怒りで顔を赤く染めると、地面を蹴るかのごとくその場で床を踏み鳴らして大声で怒鳴る。その時、ふと安野さんが目線を動かした。どうやら足元に置かれていた掃除用のバケツが視界に入ったようだ。瞬間、にやりと彼が笑った。彼の手が、トイレ掃除に使ったばかりの濡れた雑巾をぐいっと掴む。そして俺がはっと身構えたと同時に、彼は暴言を叫びながら雑巾を投げつけてきたのだった。

「先輩に対する相応しい態度も分からないなんて、バカでその頭の中。この雑巾で隅々まで綺麗に掃除してこいよ!」

びちゃり、と彼の投げた雑巾が俺の胸元へヒットする。それも水気を絞る前のそれは、汚れた水をまき散らして、俺の髪や顔までもをびしょ濡れにしたのだった。まさか人に対してこんなことをしてくる人間がいるとは、さすがに信じられず呆然とする俺を尻目に、安野さんはその光景を見て腹を抱えて笑っている。

「やっぱ、白川君って超面白いわ。もっと一緒に働きたかったのに、辞めちゃったのが本当に残念だなあ。まあ、君レベルのおつむじゃしょうがないか。」

ひいひいと苦しそうに笑い続ける安野さん。それを横目に、俺はひとまず床に落ちた雑巾を拾い上げ、淡々とそれをバケツの中に戻すと、持っていたハンカチで汚れた顔と髪を拭き、手も綺麗に洗う。ついでに、内ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、電話をかけた。相手は、この会社の社長である三井だ。

「ああ、仕事中にごめん。例の防犯システムの件で、ちょっと話があって。そう。今日、うちに相手方の担当が来てる。うん。その安野さん。ああ、悪いんだけど、契約、白紙撤回させて欲しいんだ。」

電話口では、突然のことに三井が戸惑うような声を出している。だが、それ以上に大きな反応を見せたのは、先ほどまで遠慮なく俺をこけにしていた安野さんであった。

「え、ちょ、お前、何の話だそれ? その電話、誰にかけてんだよ。おい。自分の居場所、分かってるのか?」

安野さんは青い顔をしながら俺をきょときょと見上げてくる。

「お前、ここの清掃員じゃないのか? いや、その前に、白紙撤回とか言ったか? おいおい、マジで言ってんの? あれ、十億の契約なんだぞ。」

ことの次第を理解するに従い、ぶるぶると震え出した安野さんを一瞥し、俺は静かに頷いた。

「ええ、もちろん分かっております。申し遅れましたが、弊社の防犯システム開発の総責任者は、この私なので。ああ、今はこんな格好なので名刺も持たずに失礼。」

そう言って軽く会釈する俺に、安野さんはいよいよ目を見開く。「嘘だろ?」「そう言われましてもね。こればかりは、動かし様のない事実ですから。」そう言って、俺は苦笑して首をかしげた。

そうなのだ。俺はこの会社に転職した後、拾ってくれた三井への恩もあり、自分の持てる力を全て使ってがむしゃらに働いた。そうして会社の事業拡大に一役買ったとして順調に出世し、気づけば防犯システム開発部のトップとなっていたのである。そしてこの度、新たなシステムの開発を進めるにあたり、会社ではそのシステム構築の一部を外部に委託する予定となっていた。その委託先の候補であったのが、俺の元職場だったというわけだ。俺は契約について直接関わっていないため、誰が担当として入るのかは当日まで知らなかったのだが、まあこれもまた因縁というものなのだろう。

そのうち、俺の突然の申し出を不審に思ったのか、社長の三井が社長室から駆けつけてきた。

「おい、白川、一体どういうことだ?」

「え? 安野さん……」

まさかこの場に取引先の担当がいるとは思ってもみなかったのか、三井は拍子抜けしたように安野さんを見た。それも安野さんといえば、とても用を足しに来ただけとは思えない。尋常じゃなく青ざめた様子で、固まっているのである。三井はわけが分からないと言った顔で、俺に問いかけてきた。

「なんだよ。何があったんだ。というか、お前、どうした? びしょ濡れじゃないか。それに顔も髪も汚れてるみたいだし。」

俺は苦笑して答える。

「ああ。うん。ちょっとね。そこの安野さんに、絞る前の濡れた雑巾を投げつけられて。」

「は?」

俺の返事に、今度は三井が鋭い声をあげた。

「雑巾って。何をどうしたら、他人に雑巾なんて投げつけるシチュエーションになるんだよ。」

「だよね。普通はね。」

「おい、当人が他人事みたいに言うな。」

いい加減話が見えずに苛立ってきたらしい。俺は事情を簡潔に話した。ちなみに安野さんは、その間完全に機能停止したかのように、隅で突っ立ったままである。やがて俺の話を聞き終わった三井は、顔を引き締めて安野さんに向き直った。

「これは弊社の社長としてではなく、ここにいる白川の友人としての言葉です。ですが、同時に、白川はこういった場でくだらない嘘をつくような、せこい人間ではないということを、俺は重々承知しています。そして、こんなに真面目で人のいいやつに対して、安野さん、あなたは酷いことをした。」

三井は、俺が前の職場を辞めた経緯なども知っている。その時は安野さんの名前こそ出さなかったが、今のこの状況を見て、彼は早々にその元凶の先輩が安野さんであることを察したようだった。また今回の契約で前の職場が取引先の候補に上がった際も、三井は事前に俺へと話をしてくれていた。だから俺は、「あくまで一人のエンジニアとしての観点から、会社同士の契約なら俺がとやかく言う筋合いのものではない」と、そう返事をしたのだ。だが、その担当が安野さんならば、少し話が違ってくる。根本的な彼の人間性、そして仕事に対して雑なところや責任感がないところは、後々必ず厄介な問題の種になると俺は踏んだのだ。実際、彼は前の職場でもその尻拭いを俺に押し付けていたわけだし。

「恨まれようが、俺は大事な友人をこんな目に合わせた社員が働く会社とは取引をしたくない。白川の提案通り、契約は白紙撤回します。」

そう宣言した三井に、ようやくフリーズ状態から覚めたらしい安野さんが、今更ながらあたふたと慌て出す。

「そ、そんな! 俺は別に、白川君を馬鹿にしたわけじゃなくてですね。そう。ちょっと手が滑って。偶然。そう、偶然。雑巾が飛んでしまっただけで……」

この後に及んでまだそんな言い訳を口にする安野さんに、三井が呆れ顔になっている。偶然手が滑って、相手に雑巾が飛んでいくシチュエーションなど、俺も三井も生まれてこの方遭遇したことはない。だが、俺に視線を送って指示を仰ぐ三井の姿に、何を思ったのか安野さんがさらに畳み掛けた。

「あ、謝ればいいんですか? 白川君。ごめんな、すまなかったね。その作業着も弁償するし、なんなら慰謝料だって払ってもいい。だから、お願いだ。契約だけは。」

しまいには、米つきバッタのごとくその場でぺこぺこと頭を下げ始める彼であったが、砂粒ほどの誠意も見られない薄っぺらなその謝罪は、ふわふわと宙に浮いたまま、トイレの窓から外へ流れ出ていくだけであった。

「一応聞くが、白紙撤回は変わらずでいいんだよな?」

呆れた顔でそう確認してきた三井に、俺は頷く。そして安野さんのことを真っ直ぐにとらえて、口を開いた。

「ということなので、安野さん、ご足労おかけしました。もう二度とお会いすることもないと思いますので。どうぞ、お気をつけてお帰りください。」

諭すように、言い聞かせるようにしてかけられたその言葉に、やがて安野さんはがっくりと肩を落とした後、すごすごと帰っていったのだった。

その後のことである。安野さんとの遭遇があった翌日、俺とは面識がなかったが、彼の上司にあたる人物が改めて飛んできて謝罪に来た。だが時すでに遅し。その件は昨日の出来事を受けてもう別の会社と契約を交わしてしまったのだ。幸いというか、謝罪に訪れた上司は安野さんのようにごねることなく、謝罪だけを繰り返すと静かに帰っていった。ちなみに十億の契約をみすみす逃した安野さんは、懲戒免職になる前に自ら退職したそうで、今はどこにいるかも分からないそうだ。そしてこれは三井が聞いてきたことだが、そもそも安野さんは俺以外にも部下や後輩に自身の仕事を押し付ける上役だったらしく、匿名の密告でそれが社内にバレてからは、かなり身の置き所がなかったらしい。それにあの契約の件で弊社を訪れたのも、元々担当者として決まっていた自身の後輩から強引に仕事を奪い取った結果だったというではないか。出世だなんだと言っていたが、ここまで来るとその執着がなんだか少し哀れにも思えてしまった。

一方、俺はといえば、相変わらず仕事漬けの毎日であるし、リフレッシュがてらのトイレ掃除も未だ続けている。そして今日も、俺はトイレの床を磨きながら、人々がより安全な暮らしを送れるよう、日々アイデアを練っているのであった。

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