たった一言で、私は七年間勤めた会社を追い出された。「中卒の君にもう用はない」——新社長のクガレンジが、満足そうに笑いながらそう言った瞬間、私の手は小刻みに震えていた。二十七歳の私、神崎優は、朝は誰よりも早く出社し、取引先の担当者の癖を一冊のノートにまとめ続けてきた。弟の蒼衣と二人暮らしの古いアパートに帰り、父の形見の万年筆を握りしめて、明日からの生活を思って不安で眠れない夜を過ごした。それで…

たった一言で、私は七年間勤めた会社を追い出された。「中卒の君にもう用はない」——新社長のクガレンジが、満足そうに笑いながらそう言った瞬間、私の手は小刻みに震えていた。二十七歳の私、神崎優は、朝は誰よりも早く出社し、取引先の担当者の癖を一冊のノートにまとめ続けてきた。弟の蒼衣と二人暮らしの古いアパートに帰り、父の形見の万年筆を握りしめて、明日からの生活を思って不安で眠れない夜を過ごした。それで...

「中卒の君にもう用はない。」

クガレンジは満足そうに笑っていた。その一言で、私は七年間勤めた会社を追い出された。だが、それは始まりに過ぎなかった。

翌月、九十億円の契約が潰れ、会社は音を立てて崩れていく。頼みの取引先は次々と牙を向き、社員は誰一人残らず去っていった。合理的な判断のつもりだったその一言が、全ての引き金になった。そのことに、クガレンジはまだ気づいていない。

そして数ヶ月後、ハカ街の片隅で、私はすっかり変わり果てたクガレンジの姿を見ることになる。人を裏切った代償を、彼はようやく思い知ることになった。

私、神崎優は二十七歳。中卒で南雲商事の営業事務として七年間働いてきた。朝は誰よりも早く出社し、コーヒーを入れる。取引先ごとの担当者の癖や好みを一冊のノートにまとめておく。入社以来ずっと続けている習慣だ。

学歴はないけれど、そうした細やかな積み重ねが、いつしか私の武器になった。特に大口取引先である大月商事とのやり取りは、入社二年目からずっと私が窓口として任されている。本来なら営業担当者の仕事だが、大月社長がわざわざ私を名指しするようになった経緯がある。以前、担当者が急に体調を崩し入院した際、こちらから病院まで書類を届けたことがある。それ以来、大月社長本人から「あなたがいるから安心して任せられる」と直接声をかけられるようになった。年に数回、大月社長が来た際には、私が茶を出しながら世間話をする間柄でもある。

二十歳になる弟の蒼いと二人で、古いアパートに暮らす日々だ。両親は早くに亡くし、技術者だった父の形見である古い万年筆だけが、今も私の手元に残っている。軸には小さく父の名前が刻まれていた。取引先に契約書へサインをもらう時、いつもこの万年筆を貸し出すのが、私のちょっとした流儀だ。傷だらけの軸を眺めるたび、父の不器用な手を思い出す。

「ゆうナさんじゃないと話が進まないんだよな」

隣の席の先輩によくそう言われる。地味な仕事だけれど、細かい気配りは誰かの役に立つ。そう思うと、少しだけ誇らしい気持ちになった。学歴はなくても、この会社に必要とされている。そう信じて毎日を過ごしている。給料は決して高くないけれど、それで十分だと思える日々だった。この生活がずっと続いていくものだと、信じて疑わなかった。

そんな平穏を壊したのは、新しく就任した社長、クガレンジだった。先代の社長が体調を崩して退き、創業者である会長が人選の末に外部から招いた人物だという。三十三歳という若さで、整った顔立ちと自信に満ちた物言いが印象的な人だ。前職は外資系コンサルティング会社だという。企業の人員削減を数字だけで判断してきたと噂で聞いていた。

「僕はタイムパフォーマンス、タイパを何より重視してるんだ」

就任初日の挨拶で、クガレンジはそう言い切った。

「無駄な時間を使うことが、この会社にとって一番の罪だからね。会議も報告書も必要最低限でいい」

その言葉に、社内は静かにどよめく。続けて、コストパフォーマンス、コスパの話を始めた。

「貴重な人件費を、価値のない人間に使い続けるのは無意味だ。僕はそういう無駄が大嫌いでね。前の会社でも、こうした改革で数字を伸ばしてきたんだ。優秀な人材だけを集めれば、会社は自然と強くなる」

自慢げに語るクガレンジの言葉を、誰も遮ることができない。営業部長がおずおずと質問を挟もうとしたが、クガレンジはそれすら「無駄な質問はタイパを下げる」と一笑した。

クガレンジは社員名簿を持ってこさせ、それをめくりながら独り言のようにつぶやく。

「学歴は数字と同じで、判断材料として一番分かりやすいからね。面倒な面接なんてしなくても、これだけで大体のことは分かる」

隣にいた総務の女性が思わず私に目配せをしてきた。「なんだか値踏みされてるみたいで嫌ですね」と誰かが小声でこぼす。誰もが薄気味悪さを感じながらも、新社長に逆らうものはいない。その視線が、名簿の中の私の欄でぴたりと止まったのを、私はまだ知らなかった。

オフィスの空気は、その日を境に少しずつ張り詰めていった。

その日の午後、クガレンジが私の席の近くに立っていたことに、私は気づいていなかった。取引先への確認伝票の入力作業に、ただ集中していただけだ。

「一時間ほど、君の仕事ぶりを見せてもらったよ」

不意に声をかけられ、振り返ると、クガレンジが薄く笑っている。

「え? 一時間も?」

「驚かせたなら悪かったね。でも、僕が怖いんじゃなくて、君の能力の方が問題なんだ」

意味が分からず黙っていると、クガレンジは手にした社員名簿を軽く叩いた。

「中卒の君にもう用はない。今日で結構だ」

頭が真っ白になる。手が小刻みに震えているのが、自分でも分かった。

「あの、理由を聞いてもいいですか?」

「理由も何も、コスパの問題だよ。中卒に給料を払い続けるなんて、僕の美学に反するんだ。他にいくらでも代わりはいるだろうしね」

淡々とした声。まるで不要になった備品をそのまま処分するかのような、そんな言い方だった。七年間の勤続年数さえ、クガレンジにとっては何の意味も持たないらしい。周りの同僚たちも言葉を失って立ち尽くしている。

「社長。それはさすがに」

誰かが小さく口を挟んだが、クガレンジはそれを軽く手で制した。

「口を挟むなら、君も一緒に考えてもらおうか」

その一言で、誰もそれ以上何も言えなくなる。堪え上げてくる涙をこらえながら、私は自分のデスクの写真立てを静かに鞄にしまった。七年間の記憶が、あっという間にダンボール一箱分になってしまう。何人かの同僚が無言で机を下げてくれた。エレベーターの前で先輩がそっと肩に手を置いてくれたのが、せめてもの救いだ。

夕暮れの中、重くなった鞄を抱えて歩く帰り道は、いつもよりずっと長く感じられた。営業事務という肩書き一つで、七年分の仕事がなかったことにされた気がした。

その夜、蒼いに解雇されたことを話すと、弟は驚いた顔をしてから、私を励ますように笑う。

「ユナがいなきゃ回らない仕事、絶対あるでしょ。だからすぐ呼び戻されるって」

その根拠のない自信に、少しだけ救われた気がした。蒼いはいつもこうして私の背中を押してくれる。

「そんな都合よく行くかな」

「絶対そうだって。言うなね。いつも大月さんって人からの電話、真っ先に取ってたじゃん」

弟の言葉に、ふと大月商事とのやり取りを思い出す。蒼いは大学に通いながら、夜はコンビニでアルバイトをしていた。学費の足しと無理に稼ごうとする弟を、いつも私が止めている。

「俺のバイト代も増やせるから、無理しないでね」

そう言って笑う蒼いの優しさが、今は少し胸に染みた。夕食の鍋をつつきながら、蒼いが明るく大学の授業の話を続けてくれるのが、今はありがたい。それでも、明日からどうやって生活していくかを考えると、不安の方が大きかった。中卒という経歴で、次の仕事はすぐに見つかるだろうか。奨学金の返済も、蒼いの学費も、これからのことを思うと胸が重くなる。

食事の後、机の引き出しから父の形見の万年筆をそっと取り出した。技術者だった父が、退職の記念にもらったものだと聞いている。

「お父さんなら、こんな時どうしたかな?」

独り言のように呟いてみたが、当然答えは帰ってこない。それでも、この万年筆を握っていると、不思議と背筋が伸びる気がした。明日、静かに退職の手続きを済ませようと決め、書きかけの履歴書を鞄の隅にしまう。蒼いが寝た後も、しばらく暗い天井を見つめていた。七年間当たり前のように続いていた日常が、こんなにもあっけなく崩れるものかと思う。窓の外では、いつもと変わらない夜が静かに更けていく。

それから数日、私は退職の手続きを済ませ、次の仕事を探す日々を過ごしていた。求人サイトを眺めても、学歴の欄で立ち止まってしまう自分がいる。面接を受けても、「経験は申し分ないんですが」と、最後は歯切れの悪い言葉で断られることが続いた。履歴書の学歴欄を書くたび、指先が少し重くなる。それでも蒼いの前ではなるべく明るく振る舞うようにしていた。焦る気持ちを見せまいと、無理に笑顔を作る日もあった。

そんなある日、私のもとに一本の電話が入る。九十億円規模の契約が進んでいる大月商事の大月正一郎社長からだった。もうほぼ契約は決まっているようなものだから、話すことなんてないだろうけどな。クガレンジはそう呟きながら応対に出た。

「お電話変わりました。クガレンジです」

「おお、社長さんですか? 契約の件で一つ確認したいことがありまして」

「確認したいこととは、何でしょう?」

「神崎さんはお元気にされていますか?」

その名前には、一瞬言葉に詰まる。

「神崎ですか? 彼女なら先日退職しましたが、それが何か?」

「退職? どうしてですか?」

「中卒でしたのでね。コストパフォーマンスを考えての判断です」

クガレンジはむしろ得意げに答えた。この程度のことで契約が揺らぐはずがないと確信していたからだ。電話の向こうが、しんと静まり返る。何かまずいことでも言っただろうかと、クガレンジは初めてわずかな不安を覚えた。長い沈黙の後、声が再び聞こえてくる。

「なるほど。それは残念です」

その声のトーンは、はっきりと分かるほど変わっていた。受話器越しに伝わる冷たさに、クガレンジはまだその意味に気づいていない。契約はもう決まったも同然だと高をくくっていたからだ。窓の外の景色を眺めながら、クガレンジは次の予定の確認を秘書に指示していた。

「では、契約について改めてご相談したいのですが」

大月の声は静かだったが、抗えない響きがある。

「九十億円ではなく、三十億円でいかがでしょう」

「三十億円? それは一体どういう?」

「神崎さんがいらっしゃらないのであれば、その程度の価値しかない取引ですから」

クガレンジは反論しようとしたが、言葉がうまく出てこない。

「うちとしては、あの方に恩を返しておきたかった。それだけの話です」

電話を切った後、クガレンジは初めて焦りを覚えた。九十億円の契約を前提に、社内の予算も人員配置もすでに動かし始めている。今更三十億円に減らされては、六十億円もの穴が開くことになる。財務担当者はシミュレーションを確認し、半ば青ざめた顔で頭を抱えた。

「このままでは今期の決算が大幅な赤字になります。すでに発注してしまった設備投資の分も回収できません。借入金の返済計画も、根本から見直しが必要です」

その報告に、クガレンジの額に冷や汗が滲む。就任してまだ日も浅いのに、最初の仕事でこの低評価では示しがつかない。

「なぜあの女がそこまで重視されるんだ?」

クガレンジは秘書を呼びつけ、神崎ユナの連絡先をすぐに調べさせた。苛立ちを隠せないまま、結論を出す。契約を守るためだけに、あの中卒を呼び戻す。ただそれだけの、極めて合理的な判断のつもりだった。プライドを飲み込み、翌朝一番に私のアパートへ向かう手配を整えさせる。秘書は少し驚いた様子だったが、何も言わずに指示に従った。数日前まで解雇したはずの相手を自ら迎えに行くという矛盾には、触れずに置く。社内には決してこの経緯を漏らすなと、クガレンジは強く釘をさしていた。自分の失態を誰にも知られたくなかったのだ。プライドだけは人一倍高い男だった。

その日の夕方、クガレンジは自ら私のアパートを訪れた。

「戻ってきてくれないか?」

いきなりそう告げられて、私は驚く。

「解雇したのは、あなたですよね」

「悪かったよ。中卒だからと決めつけたのは、僕の落ち度だった。だから頼む。戻ってきてくれ」

謝罪の言葉に誠実さは感じられなかった。それでも、蒼いの顔とこれからの生活費が頭をよぎる。しばらく黙って考えた後、私は静かに口を開いた。

「分かりました。戻ります」

翌日、私は何事もなかったかのように自分の席につく。同僚たちも驚きながら、温かく迎えてくれた。

「お帰りなさい。待ってましたよ」

その一言に、少しだけ気持ちが軽くなる。大月商事との契約書は、私の万年筆でサインが交わされ、無事に九十億円で成立した。ようやく肩の荷が降りた気がして、目頭が少し熱くなった。サインを終えた大月は、万年筆をしげしげと眺めてから、静かに私へ返す。

「いいですね。大切にされているのが分かります」

その言葉に、少しだけ誇らしい気持ちになった。

契約成立の一方で、社内は安堵の空気に包まれる。誰もが笑顔で拍手をする中、私も少しだけほっとしていた。だが、その輪から少し離れた場所で、クガレンジだけが一人、薄く笑っている。

「これでようやく契約は取れた。もうあの女に用はないな」

誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。その視線は、すでに私の方を見てはいない。書類を片付けながら、クガレンジは次の段取りをもう頭の中で組み立て始めていた。その笑みに気づいたものは、まだ誰もいなかった。契約成立の余韻に浸る社内で、次に何が起きるかを知るものは誰もいない。

契約成立から一週間ほど過ぎた朝、私はクガレンジに呼び出された。

「もう用済みだから、消えてくれ」

あまりに唐突な言葉に、意味を飲み込むのに数秒かかる。

「契約が取れた。今、君のことはもう必要ない。それだけの話だ」

まるで使い終わった道具を捨てるような、平然とした言い方だった。

「大月さんとの契約は、私が窓口だったから成立したのでは?」

「契約さえ取れたなら、誰がやったかなんて関係ないだろう。タイパを重視する僕としては、無駄な人件費はさっさと削るべきなんだ」

二度目とあって、驚きよりも諦めの方が先に来る。むしろどこか醒めた気持ちで、クガレンジの顔を見つめている自分がいた。この人に何を言っても無駄だと、心のどこかで悟っていたのかもしれない。

私は何も言い返せないまま、自分の机に戻り、私物をダンボールに詰める。長年使っていたノートも、その中に並べてしまった。近くにいた同僚たちは、気まずそうに視線をそらすだけで、誰も声をかけてはくれない。誰もが、次は自分の番かもしれないと怯えているようだった。

それでも、荷物を抱えて会社を後にする足取りは、初めて解雇された時よりもなぜか軽い。もうこの会社に未練はない。今度こそ、ここに戻ることはないだろう。

そう思っていた矢先、鞄の中で携帯電話が震えた。画面には、大月商事の社長の名前が表示されている。今度は何の用事だろうと、少し戸惑いながら私は駅前のベンチに腰を下ろし、通話ボタンを押した。空は、いつの間にか夕暮れに染まり始めている。会社を出てから、まだ数分しか経っていなかった。今度は何を言われるのだろうと、少しだけ構えてしまう自分がいる。

「神崎さん、今、大丈夫ですか?」

電話越しの大月の声は、静かな怒りを含んでいる。

「実は噂で聞いたんです。あなたがまた解雇されたと」

隠すことでもないと思い、私は正直に事情を話した。

「そうですか。よく分かりました」

大月はそれだけ言うと、静かに電話を切る。その日の夕方、大月商事の電話は鳴り止まなかった。大月商事だけでなく、複数の取引先が次々と契約打ち切りを告げてきたのだ。

「神崎さんがいないなら、うちも契約を続ける理由がありません」

ある取引先の社長は、電話口でそう言い切った。長年付き合いのあった別の会社の担当者からも、「今回の契約はなかったことにさせてください」と同じような連絡が相次ぐ。相談中だった会社からも、見積もりの依頼が立て続けに取り下げられた。中には「神崎さんが担当なら、この話を進めたいと思っていたのに」と正直に打ち明ける担当者もいる。

「あなたを中卒だからと切るような会社と、これ以上お付き合いはできませんね」

社内は騒然となった。誰もが顔面蒼白で、電話の鳴る方向を気にしていた。クガレンジは電話を掴み、声を荒げて食い下がっていたが、相手はすでに切った後だ。取引先が一つ一つ離れるたび、クガレンジの顔から血の気が引いていく。机に差し出される解約通知の束が、見る見るうちに厚みを増していった。担当者に食い下がろうにも、もう誰も電話口に出てはくれない。次々と積み上がる解約通知の山を、クガレンジはただ眺めることしかできなかった。廊下からは、社員たちがひそひそと交わす不安げな声が漏れ聞こえてくる。誰もがこの会社の行く末を案じ始めていた。合理的だったはずの判断が、たった数時間で音を立てて崩れ始めている。

取引先の離反は、社内の空気を一変させた。

「私たち、やめます」

経理を担当する若い社員が、退職届を握りしめてクガレンジの前に立つ。

「なんだと? どうしてだ?」

「神崎さんがこの会社で頑張って来られたんです。あの人を切れるような会社に、私たちはもういられません」

一人が言い出すと、次々に同じ声が上がった。

「私も同じ気持ちです」

「私もです。失礼します」

「お世話になりました」

次々と続く声に、クガレンジはしばらく声も出せずにいた。総務、営業、経理、部署を問わず、退職届が机の上に山のように積まれていく。中には、入社したばかりの新人社員の姿もあった。

「まだ半年ですが、神崎さんに仕事を教えてもらった恩を返したくて」

その新人は静かに頭を下げる。ベテランの営業部長までもが、机の上に退職届を置いていった。長年会社を支えてきたその背中を、クガレンジは呆然と見送るしかなかった。

「勝手なことを言うな。僕は社長だぞ」

クガレンジは声を張り上げたが、誰も足を止めない。数日のうちに、あれほど賑やかだったオフィスは、がらんとした空間に変わっていた。電話を取る人間すら、もう誰もいない。書類は誰にも処理されないまま、机の上に積み上がっていく。掃除業者すら契約を打ち切ったと聞き、クガレンジは失笑を漏らした。誰もいない廊下に、クガレンジの足音だけが虚しく響く。灰皿の吸い殻の数だけが、日に日に増えていった。

かつて自分が名前すら覚えようとしなかった社員たちが、今の自分をどれほど支えていたか。クガレンジはようやく、自分が何を失ったのかに気づき始めている。それを認めることだけは、どうしてもできなかった。

経営が急速に傾き始めた頃、緊急の役員会が招集された。議長を務めるのは、創業者である会長自身だった。クガレンジを招いた張本人が、今度は自らの手で危機の側に回ることになる。

「社長、あなたの独断で九十億円の契約を失いかけた。その後も社員を大量に流出させた。これはもう看過できません」

会長は資料を突きつけながら、静かにそう告げた。

「僕はタイパとコスパを考えて、合理的に判断しただけです」

クガレンジはなおも自分の正しさを主張しようとした。

「無駄な人件費を削ることの、どこがいけないんですか?」

「合理的ですか? あなたが解雇を決めた神崎さんの後任は、まだ誰も見つかっていない。彼女がいなければ回らない業務が、山ほどあったそうですね」

クガレンジは何も答えられない。さらに調査の中で、クガレンジが過去の業績報告に自分の手柄を水増しして記載していた事実も発覚した。他の社員がまとめた成果を、自分一人の実績のように書き換えていたのだ。役員の一人が、証拠となる資料を静かに机に並べる。

「これが、あなたの言う合理性の中身です」

重い沈黙が室内を包んだ。誰一人として、クガレンジを庇うものはいない。就任時にはあれほど期待していた顔ぶれだったのに、今は誰もが疎ましそうだ。かつてクガレンジが出資していた役員でさえ、目を合わせようとしなかった。

「あなたには、代表取締役を辞任していただきます」

全会一致の決議に、クガレンジの顔から初めて余裕という余裕が消える。抗議の言葉さえ、もう出てこなかった。会議室を出るクガレンジの背中を、誰も見送らない。自ら招いた会長でさえ、最後まで一声をかけることはなかった。すでに会社は、九十億円の穴を自力で埋められるところまで、時間が残されていなかった。

全てを失った私に、大月から連絡が来たのは、それから間もなくのことだった。

「神崎さん、一度お会いできませんか?」

指定された喫茶店に向かうと、大月は私の手元にある万年筆に、懐かしそうに目を細める。

「その万年筆、見覚えがあります」

「これは、亡くなった父の形見です」

「やはりそうでしたか。あなたのお父さんには、昔うちの会社の危機から救ってもらった恩があるんです。当時、資金繰りに行き詰まっていたうちの工場設備を、無償で直してくれましてね。あの人がくれた設計図と、その万年筆で書かれた一枚の手紙は、今も大切に保管しております」

知らなかった父の一面に、胸の奥が熱くなる。父はいつも無口で、仕事の話を家庭に持ち込まない人だった。まさか、こんな形で見ず知らずの会社を支えていたとは思いもよらない。大月は続けて、当時の父の写真を鞄から取り出し、そっと私に見せてくれた。若い頃の父が、油まみれの作業着で笑っている写真だ。

「あなたのお父さんは、恩を着せるようなことは一切せず、ただ黙って去っていかれました。だからこそ、忘れられなかったんです」

その言葉に、涙が溢れそうになった。優しかった父の背中を、思い出せる限りたどってみる。

「あなたを支えるのは、その恩返しでもあり、私自身の意思でもあります。よければ、うちと一緒に新しい会社を立ち上げませんか?」

南雲商事をやめた元同僚たちも、すでに賛同していると聞く。まさか、こんな形で父の縁が繋がるとは思ってもいない。中卒という肩書きだけで測られてきた自分が、初めて肩書きの外側で必要とされている気がした。父の万年筆をそっと握りしめ、私は静かに頷いた。

それから一ヶ月と経たないうちに、南雲商事は債務超過に陥り、事実上の倒産となった。クガレンジは代表取締役を解任された。さらに業績水増しの件も明るみに出ている。背任行為として、株主から三十億円の損害賠償を請求される。財産のほとんどを失ったクガレンジは、業界からも完全に追放される形になった。もう二度と、経営に携わることは許されないだろう。かつての取引先も、クガレンジの名前を聞くだけで顔を顰めるようになったという。

「僕はただ、合理的に判断しただけなのに」

誰もいなくなった、がらんとしたオフィスで、クガレンジはそう呟いていたそうだ。マンションも手放し、荷物を一つの鞄にまとめて出ていく姿を、最後まで見送る人はいなかった。かつて自分が切り捨てた人間たちの方が、今はずっと幸せそうに働いている。皮肉にも、クガレンジの耳にその噂だけは届いているという。

一方、大月商事の後押しを受けて立ち上げた新しい会社は、着実に軌道に乗り始めていた。私は営業窓口として、以前よりずっと多くの取引先を任されるようになった。後輩の指導も任されるまでになる。かつて共に退職した仲間たちも、それぞれの持ち場で活躍していた。学歴でなく、これまでの仕事ぶりを見て採用してくれる会社ばかりだった。事務所には、あの頃と同じように、誰かの笑い声が響いている。

契約書にサインをする時、私は今もいつも父の万年筆を使っていた。人を数字でしか見ず、大切にしなかった代償は大きい。タイパもコスパも、クガレンジにはもう何の意味も持たなかった。かつての肩書きも財産も、クガレンジの手元にはもう何も残っていない。

新会社を立ち上げて数ヶ月が過ぎたある日、私は取引先との打ち合わせを終えた帰り道を歩いていた。ハカ街の裏路地で、見覚えのある背中を見かけた。薄汚れた身なりで、道端にうずくまるように座り込んでいる。かつての自信に満ちた姿は、もうどこにもない。目が合った瞬間、その人物は弾かれたように顔を伏せ、逃げるように路地の奥へと消えていった。クガレンジだった。かつて人を数字とコスパでしか見なかった人が、今はその日を生きることに精一杯なのだろう。追いかけて声をかける気にはなれなかった。私はただ静かに、その場を後にする。

その夜、帰り道で見たことを蒼いにそのまま話した。弟はしばらく黙った後、ぽつりと言った。

「ユナは何も変わらなくてよかったよ」

その言葉に、少しだけ救われた気がする。人を平気で裏切れば、いつか自分がその代償を払う番になる。クガレンジは、そのことをようやく身を持って知ったのだろう。父の万年筆を握りしめ、私はそう思いながら、明日も続く新しい仕事へと、まっすぐ歩き出した。

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