夕方、郵便受けの底に沈んでいた赤い封筒を見つけた瞬間、私の手が止まった。市役所の印鑑。それだけで胸の奥に冷たいものが落ちてくる感覚があった。六十七歳、新潟の古い団地に夫と高校生の孫と暮らす私には、その封筒を開ける勇気がなかった。でも開けてしまった。中には娘の名前があった。五年前に姿を消した娘、美行。彼女が残した百二十万円の滞納通知だった。夫は七年前、娘の頼みで連帯保証人になっていた。私は台所…

夕方、郵便受けの底に沈んでいた赤い封筒を見つけた瞬間、私の手が止まった。市役所の印鑑。それだけで胸の奥に冷たいものが落ちてくる感覚があった。六十七歳、新潟の古い団地に夫と高校生の孫と暮らす私には、その封筒を開ける勇気がなかった。でも開けてしまった。中には娘の名前があった。五年前に姿を消した娘、美行。彼女が残した百二十万円の滞納通知だった。夫は七年前、娘の頼みで連帯保証人になっていた。私は台所...

郵便受けの底に赤い封筒が沈んでいた。チラシの束に挟まれて、まるで存在を隠すように、薄暗い金属の箱の中にあった。

松崎千津がそれを見つけたのは、夕方の買い物から戻ってきた直後のことだった。玄関ホールの蛍光灯が一本切れかけていて、チカチカと点滅を繰り返していた。そのたびに影が揺れ、封筒の赤い色が浮かび上がった。

千津は封筒を手に取ることができなかった。指先が数センチのところで止まった。市役所の印鑑が押されていた。赤い封筒に黒いハンコ。それだけで胸の奥に何かが冷たく落ちてくる感触があった。

彼女は封筒を引き抜き、折りたたんだチラシで表を覆い隠すようにして、袋と一緒に抱えて階段を登った。四階まで息を止めるようにして。

十一月十五日の夜、午後七時四十五分。新潟の初雪はその日の夕方から静かに降り始めていた。

松崎千津は地元のスーパーにいた。閉店一時間前の値引きコーナーをじっと見ていた。六十七歳。背筋を無理やりにでもまっすぐ保とうとする立ち方が、長年の癖になっていた。来ているレインコートは首元がすり切れて、洗いすぎてベージュが白に近い色に変わっていた。

酒の切り身が入ったパックに、店員が値引きシールを貼っていく。五十パーセントオフ。元値が五百九十八円だから、二百九十九円になる。千津はそのパックを手に取り、裏返して消費期限を確認した。明日の朝まで。今夜焼けば間に合う。

樹の夜食にしてやれる。

樹、松崎樹。十七歳になった孫は受験シーズンに差しかかり、毎晩十一時を過ぎても机に向かっていた。細い体で、無理にでも食べようとしない。

千津は酒のパックを買い物かごに入れ、豆腐の棚の前に立った。三十八円の絹豆腐が二丁残っている。酒と豆腐、両方かごに入れる余裕はなかった。今月の食費はすでに予算を超えていた。先週、夫の秀夫が血圧の薬を処方してもらいに行き、窓口負担が四千八百円かかった。薬込みで七千円近い出費だった。

豆腐を棚に戻した。酒を選んだ。孫のために今夜は酒を選んだ。

レジに並びながら、千津は財布の中を素早く確認した。千円札が三枚と小銭が少し。レジを打つ音が一つ一つ耳に刺さるように聞こえた。合計が三百四十二円になった時、かすかに息をついた。

袋に荷物を詰めながら、千津は周囲をさりげなく見回した。同じ団地の住人に見られたくなかった。値引きコーナーで買い物をしている自分を。

外は暗く、雪が降っていた。ごた雪ではなく細かい粉雪が風に乗って斜めに飛んでくる。千津はコートの前を合わせ、買い物袋を胸に抱えて歩いた。駅前の商店街はもう半分シャッターが降りていて、街灯の光が濡れたアスファルトに滲んでいた。

千津はスマートフォンを持っていなかった。持てなかったのではなく、持たなかった。秀夫も同じだった。二人ともガラケーも数年前に解約した。今は固定電話だけだ。

団地の敷地に入る手前で、千津は立ち止まった。コートに着いた雪を丁寧に払った。それから髪に着いた雪も。玄関ホールに入るまでに、できるだけ雪を落としておきたかった。寒さで震えているところを誰かに見られたくなかった。

四号棟の玄関ホールは、蛍光灯が一本切れかけていた。明滅する光の中で、千津は郵便受けのダイヤルを回した。四〇二号室。二十年以上同じ動作をしてきた。鍵が開き、扉を引く。中からチラシの束がこぼれ落ちてきた。ピザのデリバリー、ドラッグストアの歳末セール、地元の葬儀社の折り込み広告。それらをまとめて取り出した時、一番下に赤い封筒があった。

千津の目がその封筒の上で止まった。「市役所」と印刷されていた。差出人の欄に「新潟市役所 税政」と書いてある。

足の裏から冷たいものが上がってきた。膝ではなく、腰でもなく、胸の中心部が収縮するような感覚だった。千津はゆっくりと封筒を抜き取り、チラシの下に挟み込んだ。それから四階まで、できるだけ普通の速度で階段を登った。

ドアを開けると、テレビの画面だけが部屋を照らしていた。秀夫は座椅子に座って、消したテレビを見ていた。正確には見ていたのかどうかわからない。目がテレビの方向を向いているだけで、焦点が合っているように見えなかった。

「ただいま」

千津が言うと、秀夫は視線をこちらに向けず、低い声で「お帰り」と答えた。廊下の奥、孫の部屋のドアが少し開いていて、隙間から光が漏れていた。樹はまだ勉強していた。鉛筆が紙の上を走る音がかすかに聞こえた。

千津は台所に入り、袋から酒のパックを出した。グリルの受け皿に水を張り、網を置く。そこで手が止まった。封筒がまだ手の中にあった。

水道の蛇口をひねった。水が流れる音が台所に満ちた。千津はその音を確かめてから封筒を開けた。折りたたまれた用紙が三枚入っていた。一枚目は通知書だった。「松崎美行」と名前が印刷されていた。千津の娘の名前だった。

美行は五年前に姿を消した。借金から逃げるようにして、ある朝突然いなくなった。その時、樹は十二歳だった。

目を走らせていくと、数字が並んでいた。住民税の滞納分、国民健康保険料の滞納分、そして七年前に秀夫が連帯保証人として署名した消費者ローンの残債。合計額が一番下に太い文字で記されていた。

百二十万円。

千津は用紙を持ったまま動けなかった。視野が狭くなるような感覚があった。二枚目の用紙に納付期限が書いてあった。第一回分の支払い期限は十二月末日。期限までに対応がなければ、世帯主である松崎秀夫の年金口座に差し押さえ通知が送付されると書かれていた。

差し押さえ。その二文字が目の前でゆっくりと大きくなった。秀夫の年金は月二十四万円ほどだった。二人の国民年金と秀夫の厚生年金を合わせた金額だった。家賃が四万二千円。光熱費と食費と医療費を合わせると、毎月ほぼ使い切る。貯金は今や三十万円を切っていた。百二十万円など、どこにもなかった。

廊下から樹の足音が聞こえた。トイレに向かう音だった。千津は手の中の用紙を三つ折りにして、台所の米びつの横に置いた。それから米びつの蓋を持ち上げ、中に押し込んだ。米が少し崩れ、用紙の上に米粒がいくつか落ちた。千津はそのまま蓋を閉めた。

翌朝、千津は夫より一時間早く起きた。午前五時四十分。窓の外はまだ暗く、昨夜降り続いた雪が駐車場を白く覆っていた。

千津は台所に立ち、まずお湯を沸かした。ポットの電源を入れ、その音を聞きながら、米びつに押し込んだ封筒のことを考えた。考えないように、と考えた。秀夫を起こすわけにはいかなかった。

七年前のことを千津はよく覚えていた。美行がまだ家にいた頃、秀夫は娘の頼みを断れなかった。消費者ローンの連帯保証人になって欲しいと言われた時、秀夫は一晩で判断した。「娘のためなら」と言って署名した。千津はその場にいなかった。後から書類を見せられて初めて知った。意義を唱えようとしたが、秀夫は黙った。すでに終わったことだった。あの時から、何かが少しずつ崩れ始めていた。

千津は麦茶をいっぱい飲み、昨夜の残り物を小さな弁当箱に詰めた。大根の煮物と白米だけ。それを風呂敷に包んだ。市役所に行くなら、昼前には戻ってこられるはずだった。秀夫への言い訳はすでに頭の中で用意してあった。

地域の自治会が主催する公民館の清掃ボランティアがある。今月は自分の登板だ。午前中だけで終わる。自然に聞こえるように、何度か頭の中で繰り返した。

新潟市役所の正面玄関をくぐると、千津はまず立ち止まった。広いロビーの中央に、大型のタッチパネル端末が六台並んでいた。端末の前に案内板があり、手続きの種類によって番号を取る方法が書いてあった。しかしその案内板に書かれた文字は小さく、千津には遠くからでは読めなかった。老眼鏡はコートのポケットに入っていたが、それを取り出す前に、まず何をすればいいのかわからなかった。

受付カウンターがあった頃の市役所は、入ってすぐに人がいた。どこに行けばいいか聞けば教えてくれた。今、ロビーに人間の職員は一人もいなかった。

タッチパネルの前に立ってみた。画面には六つの大きなアイコンが表示されていた。戸籍、検認、税務納税、福祉保険、建築、土地、その他の手続き。千津は税務納税のアイコンを押した。次の画面に進むと、さらに細かい分類が現れた。固定資産税、住民税、国民健康保険料、その他、相談。その他の相談を押した。

画面に文字が現れた。「この手続きにはマイナンバーカード、またはマイナンバーアプリの認証が必要です。まずマイナンバーアプリをダウンロードし、QRコードをスキャンしてから申請フォームに記入してください」

千津はしばらく画面を見ていた。スマートフォンを持っていなかった。画面を何度か触ってみたが、指が乾燥しているためか、反応しないことがあった。慢性のドライアイと同じ理由で、指先の水分も少なかった。もう一度同じアイコンを押した。同じ画面が出た。

後ろから声がした。「お困りですか」

若い男性職員が立っていた。ネームプレートに「追川」と書いてあった。二十代後半くらいで、黒いフレームの眼鏡をかけていた。笑顔ではなかった。無表情とも言うべき顔だった。

千津は素早く頭を下げた。「すみません。マイナンバーのアプリというものを持っていなくて」

追川はタッチパネルの横に設置されたスタンドを指さした。「ここにQRコードがあります。スマートフォンのカメラで読み込んでいただければ、アプリのダウンロードページに飛びます。所要時間は五分程度です」

千津は小さく息を吸い込んだ。「携帯電話を持っていないんです」

追川の表情がわずかに変わった。変わったとも言えないほどの変化だったが、千津は長年、人の表情を読む訓練をしてきた。一瞬の困惑と、それをすぐに塗り替える職業的な対応。「そうですか。ではこちらの端末では申請が難しい状況です。二階の税務相談窓口に直接お越しいただければ、担当者が対応いたします。ただし本日は混雑しておりますので、整理券をお取りいただく形になります」

千津はまた頭を下げた。「わかりました。すみません」

追川はすでに別の方向を向いていた。

整理券の番号は八十七番だった。ロビーの電光掲示板には現在六十三番と表示されていた。待ち時間の目安、八十分から一百分と書いてあった。

千津はロビーの椅子に座った。プラスチック製の硬い椅子で、背もたれが少し後ろに傾いていた。隣には杖をついた老人が座っていた。老人は目を閉じていた。千津は風呂敷包みを膝の上に乗せたまま、ロビーを見渡した。若い夫婦が幼児を連れて端末の前に立っていた。スーツ姿の男がスマートフォンで書類の写真を撮っていた。みんな手順が分かっているように見えた。どこを見れば良いのか、どのボタンを押せばいいのか、迷わずに体が動いている。千津はコートの袖口のすり切れた部分を、無意識に指でなぞっていた。

九十分後、八十七番が呼ばれた。二階の窓口はパーティションで区切られた個室のような形になっていた。担当者は四十代の女性で、名札に「林田」と書いてあった。眼鏡をかけて、パソコンの画面に向かって何かを入力していた。千津が座ると、コピーした書類のような紙を一枚カウンターに置いた。

「松崎様のお名前で滞納通知が出ている件ですね。確認させていただきますね」

林田はキーボードを叩いた。パソコンの画面を見ながら、少しの間無言だった。千津は手を膝の上で重ねたまま待った。

林田が画面から顔を上げた。「松崎秀夫様が連帯保証人として署名されたローン契約と、美行様名義の住民税及び国民健康保険料の滞納分。合計百二十万円ですね」

声の調子に変化がなかった。数字の大きさが、まるで関係ないかのような話し方だった。千津はゆっくりと頷いた。

林田は続けた。「二〇二六年の法改正により、連帯保証人による債務は本人の所得に関わらず、相続人と同等の義務が生じます。松崎秀夫様が連帯保証人として署名されておりますので、当該金額の返済義務は現時点でも有効です。十二月末日までにご対応がなければ、年金口座への差し押さえ通知を発送いたします」

「分割での支払いはできますか」

千津の声は、自分でも気づかないうちに小さくなっていた。林田はパソコンを操作した。「分割払いの申請は可能ですが、返済計画書の提出が必要です。月々の収支を証明する書類等、返済の原資となる収入の見通しが必要になります。現在の世帯の月収はどのくらいですか」

「年金が月二十四万ほどです」

林田は数秒画面を見た。「二十四万円から生活費を差し引いた余剰が、毎月どの程度か計算することになりますが、現状では分割払いの審査が通るかどうか難しい状況ですね」

それからもう一つ、と付け加えた。「美行様の現在の所在は把握されていますか」

千津は一瞬、口の動きが止まった。「わかりません。五年前から連絡が取れていません」

林田は何も言わずにパソコンを操作した。「わかりました。とりあえず今回は審査の方向で進めますが、書類が揃わなければ差し押さえを止めることはできません。後日準備が整いましたら、お電話ください」

電話番号の書かれた名刺のようなカードを差し出した。千津はそれを受け取り、頭を下げた。「ありがとうございます。すみません」

林田はすでにパソコンの画面に向き直っていた。

廊下に出ると、千津は少し早足で歩いた。トイレに入り、個室に鍵をかけた。便座の蓋の上に風呂敷を置き、しばらく壁を見ていた。蛍光灯の光が白くて、ひどく静かだった。

差し押さえを止めることはできません。林田の言い方に悪意はなかった。ただの事務的な説明だった。だからこそ、言葉が素直に体の中に入ってきた。

千津はまばたきをした。何度も、素早く。それでも涙が出ることはなかった。泣けなかった。泣いてしまえば次の行動ができなくなる。泣くのは家に帰ってからでもダメだ。秀夫に見られる。樹に見られる。

五分ほど個室にいてから外に出た。手を洗い、鏡を見た。目が少し赤かった。ドライアイのせいにする。

その頃、四号棟の四〇二室では秀夫が台所に立っていた。千津が出かけてから三時間が経っていた。昼前には戻ると言っていたが、まだ帰らない。樹はすでに登校していた。秀夫は昼に何か作ろうと思い、米びつの蓋を開けた。

白い米の中に、折りたたまれた紙が三枚沈んでいた。秀夫はゆっくりとその紙を取り出した。米粒がいくつか落ちた。紙を広げた。「松崎美行」という名前が目に入った。それだけで体の中心に何かが走った。数字を目で追った。百二十万円という太い文字を見た。差し押さえ通知という言葉を見た。「松崎秀夫 連帯保証人」という、自分の名前を見た。

秀夫はゆっくりと床に座り込んだ。正確には、よろける形で座ったのではなく、膝から力が抜けて畳の上にそのまま沈んだ。

怒りは出てこなかった。あれほど可愛がった娘だった。バスの運転手という仕事に誇りはあったが、収入は決して多くなかった。それでも美行が幼い頃、遊園地に連れて行った。高校受験の費用も何とか工面した。連帯保証人の話が出た時も、娘の頼みを断ることができなかった。今の自分には、それを責める資格があるのかどうかも分からなかった。

紙を三つ折りにして胸ポケットに入れた。立ち上がり、台所の窓から外を見た。駐車場の雪はほとんど溶けていて、アスファルトの黒が見え始めていた。

秀夫は着替えた。普段のズボンに厚手のフリースを着た。それから玄関で靴を履き、外に出た。目的地は決めていなかった。ただ何かをしなければ、という気持ちだけがあった。

団地を出て、駅前の商店街を歩いた。シャッターの目立つ通りの中で、まだ開いている店が点在していた。コンビニエンスストアが一件、ドラッグストアが一件、小さな弁当屋が一件。

コンビニの前に立った時、入り口のドアに求人の張り紙があった。「スタッフ募集中 時給九百五十円」

秀夫は店に入った。若い女性の店員がレジに立っていた。外国人のようだった。秀夫は彼女に近づき、「求人の件で相談したいんですが」と言った。店員は丁寧な日本語で答えた。「少々お待ちください」と言って、店の奥に引っ込んだ。

しばらくして、三十代くらいの男性店長が出てきた。白いシャツにネクタイをしていた。「求人の件ですか? ありがとうございます」と言った。それから秀夫の顔を見た。年齢を聞かれた。「六十九です」と答えた。

店長の表情がわずかに変わった。変わったとも言えないくらいの変化だったが、秀夫には見えた。「えっと……ありがとうございます。ただ、うちの場合、新しいレジシステムへの対応が必要でして、スマートフォンの操作が前提になるんですよ。最近、外国人スタッフを優先的に採用しているのは、アプリの操作が得意な方が多いので。高齢の方にはちょっと難しい部分もありますし。もし他にもう少し体力を使わないお仕事があれば、そちらの方がご本人様にとっても……」

言いかけて言葉を止めた。「お気持ちは分かりますが、今回は見送らせてください」

秀夫は頷いた。「そうですか」と言って、頭を下げた。店を出た。

次にガソリンスタンドに入った。セルフ給油の隣に、手洗いの洗車サービスがあった。そこにも求人の張り紙があった。若い男性スタッフに声をかけると、「上野と変わります」と言われた。しばらくして出てきたのは、秀夫よりは若いが六十前後に見える男だった。悪そうな顔はしていなかった。むしろ申し訳なさそうだった。

「うちの洗車スタッフは今、外国人実習生が多くて。コミュニケーションの面で難しい部分もあるので、同年代の方を入れることで雰囲気が違ってきてしまうというのもあって。本当にすみません」

謝られることが、採用を断られることよりも辛かった。秀夫は礼を言って、また外に出た。

駅前まで戻ってきた時、バス停の前に立った。四十年以上、このバス停の前を毎日通った。運転席から見ていたこの道が、今は歩く道になっている。

バス停のベンチに座り、手を膝の上に乗せた。バスを待っている老女が二人、スマートフォンを見ながら座っていた。しばらくしてバスが来た。新型の低床バスだった。秀夫が現役の頃に乗っていた車両とは形が全く違った。自動ドアが静かに開き、乗客が降りてきた。運転手の顔が見えた。四十代くらいの男だった。秀夫はその顔を知らなかった。

バスは走り去った。排気ガスの薄い匂いが残った。秀夫はその匂いを鼻の奥で感じながら、ベンチに座り続けた。誰もいなくなったバス停で、灰色の空の下で、自分がどこにも属していないことを改めて確認した。怒りではなく、諦めでもなく、ただの確認だった。社会は自分を必要としていなかった。そのことを今日、何度も教えてもらった。

千津が帰ってきたのは午後五時を少し回った頃だった。ドアを開けると、部屋が暗かった。電気がついていなかった。秀夫が窓際の椅子に座っていた。外はすでに暗く、窓から灰色の空と駐車場の街灯だけが見えていた。テレビはついていなかった。麦茶のコップもなかった。秀夫はただ、薄暗い部屋の中に座っていた。

千津は電気をつけようとして、手を止めた。茶ぶ台の上に紙が伏せてあった。三枚、折りたたんで、米びつから出したものだった。

千津はコートも脱がずに茶ぶ台の前に立った。秀夫は動かなかった。どちらも口を開かなかった。封筒の存在を認めることは、同時に千津が一人で抱えようとしていたことを認めることだった。秀夫が紙を見つけたことは、千津が失敗したことだった。しかし今はそれを責める気力もなかった。

千津は座椅子の前に座った。秀夫は窓の外を見たまま動かなかった。部屋の中に二人の人間がいた。四十年以上、同じ屋根の下で生きてきた二人が、互いに何も言えないまま、ただそこにいた。廊下の奥の部屋からは、まだ樹の鉛筆の音が聞こえていた。

窓の外で、雪がまた降り始めていた。

十二月に入った最初の月曜日の朝、四号棟の玄関ホールに一枚の紙が張り出された。A3サイズの白い紙に、黒い文字が印刷されていた。見出しには「建物解体及び退去に関するお知らせ」と書いてあった。新潟市と市勢局の印鑑が押されていた。

四号棟は二〇二七年六月を持って解体工事を開始する。現居住者は同年五月末日までに退去を完了すること。一号棟への移転を希望する場合は、所定の申請書に記入の上、来年二月末日までに管理事務所に提出すること。ただし、移転審査には安定した収入の証明が必要であること。

千津はその紙を一度読んだ。二度目は読まなかった。ホールを出て階段を登りながら、手すりを握る指に力が入っていた。安定した収入の証明。その一文が頭の中でゆっくりと繰り返された。月二十四万の年金は、市の基準では安定した収入に分類されるのかどうか、千津には分からなかった。分からないまま四階まで登った。

その週の木曜日、四号棟の自治会が主催する居住者説明会が、一号棟の集会室で開かれた。集会室は畳敷きの十畳ほどの部屋で、折りたたみ椅子が並んでいた。午後二時に始まった説明会には十五人ほどが集まっていた。ほとんどが六十代から八十代の住人で、中には一人で来ている老人もいた。千津は部屋の隅に背筋を伸ばして座った。秀夫は来なかった。体調が優れないと言ったが、千津には本当の理由が分かった。人前に出たくなかったのだ。

自治会長の山内という七十代の男性が、市から配布された資料を読み上げた。解体の理由は老朽化と都市再整備計画で、代替住居として一号棟の空き室を優先的に案内するとのことだった。ただし、申請者が多い場合は審査を行うと書かれていた。

山内が読み上げを終えると、室内に声が上がった。隣に座っていた白髪の女性が口を開いた。「審査って何を審査するんですか? 住んでいる人を追い出して、どこへ行けと言うんですか」声が少し上ずっていた。山内は申し訳なさそうな顔をして、「詳しくは管理事務所で確認してほしい。自分も詳細は聞いていない」と答えた。

別の男性が続けた。「年金だけで生活している者は、一号棟への移転も認めてもらえないのか」

その言葉が出た瞬間、室内が少し静かになった。誰もが聞きたかった質問を、誰かが代わりに口にした。こういう沈黙だった。山内はもう一度、申し訳なさそうな顔をした。

説明会が終わり、人々がバラバラと席を立ち始めた時、千津の背後で声がした。二人の女性が話していた。千津より少し歳下に見える女性と、もう少し若い女性だった。千津はその二人を知っていた。三階と五階にそれぞれ住んでいる住人だった。

「松崎さんのところ、移転できるのかしら」と一人が言った。声を落として話していたが、集会室の中では十分に聞こえた。

もう一人が「どうだろうね」と答えた。「娘さんが借金のことで逃げたって話でしょう。旦那さんが保証人になってたって聞いたよ。あれで年金差し押さえになったら、もう終わりじゃない」

最初の女性が「そうよね」と相づちを打った。「お孫さんが高校生だから、ご本人たちも大変でしょうけど。でも、自業自得っていう気もするわよね。子供の育て方が悪かったんだって、うちの主人も言ってたし」

千津は背中を向けたまま動かなかった。椅子の背もたれに手をかけていた。指先に力が入っていた。立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。立ち上がれば、聞こえていたことが相手に伝わる。聞こえていたことが伝われば、惨めさが倍になる。

しばらくして、千津はゆっくりと立ち上がった。折りたたみ椅子が床に擦れる音がした。振り返らずに集会室を出た。

廊下に出ると、コンクリートの壁が冷たかった。千津は一度だけ深く息を吸った。それから、「お腹が痛い気がする」と独り言のように小声で言った。誰もいない廊下で、自分に言い訳を作った。具合が悪くなったから帰った。それだけだ。聞こえていたから逃げたのではない。

階段を登りながら、唇の裏を歯で噛んだ。血の味はしなかった。

部屋に戻ると、玄関の上がりかまちに樹の靴があった。今日は部活がない日だったと思い出した。千津がコートを脱いでいると、奥の部屋から廊下に出てきた樹が「お帰り」と言った。それからすぐに「あのさ」と言いかけて止まった。

「何?」と千津は聞いた。樹は廊下に立ったまま、手に折りたたんだ用紙を持っていた。高校のロゴが印刷された用紙だった。

「共通テストの受験料と、冬季講習の費用の通知です」と樹は言った。普段より声が小さかった。それから続けた。「合計で八万三千円」

千津は上がりかまちに座ったままの姿勢で手を差し伸べた。樹が紙を渡してきた。千津は紙を読んだ。受験料が一万八千円。冬季講習が六万五千円。合計八万三千円。支払い期限は十二月二十日。

体の中の何かが、また一段沈んだ。

樹は靴下の爪先で廊下の板を踏みながら言った。「友達はみんな予備校に行ってて、僕だけ行ってないから、授業のペースについていくのがきつくて。冬季講習に一回だけでも行けたら、少しは違うと思うんだけど」

目線を下に向けたまま言った。千津に要求しているのではなく、自分に言い訳をしているような言い方だった。「もし行けなかったら」と続けた。「来年、多分受からないと思う。受からなかったら進学できないから、どこかで働くしかないけど。高卒で雇ってくれるところって、今あんまりないから。結局、倉庫とかしかなくて。それでもいいけど……」

でも、といったところで止まった。その先は言わなかった。

千津は紙を持ったまま樹の顔を見た。十七歳の顔だった。眼鏡の奥の目がまっすぐではなく、少し斜め下を向いていた。本当は受験したい。本当は進学したい。その気持ちを、この子は自分で押し殺している。

「大丈夫よ」と千津は言った。声が思ったより平然としていた。樹は顔を上げ、千津を見た。「本当に?」

千津はもう一度「大丈夫」と言った。紙を膝の上に乗せたまま、もう一度だけ笑顔を作った。樹は「うん」とだけ言って、部屋に戻った。ドアが静かに閉まった。

千津は上がりかまちに座ったまま、しばらく動かなかった。紙を膝の上に持ったまま、廊下の壁を見ていた。八万三千円。貯金残高は三十万を切っていた。十二月末には第一回分の返済をどうにかしなければならない。家賃も光熱費も、来月も出ていく。どこに八万三千円があるのか。

夕方、台所から食事の支度の音が聞こえていた頃、部屋で何かが起きた。千津が鍋に火をかけながら廊下の声に気づいた。秀夫の声だった。最初は何を言っているのか聞き取れなかった。石油のガスコンロの音と外の風の音に紛れていた。しかし、言葉の調子は明らかにこれまでと違った。低く、張り詰めていた。

千津が火を止めて廊下に出ると、秀夫が部屋と樹の部屋の間の廊下に立っていた。手に樹の通知の紙を持っていた。千津が上がりかまちに置いておいたものを見つけたのだった。樹の部屋のドアが半分開いていて、樹が椅子を引いて立ち上がる音がした。

秀夫がそのドアの前で言った。「大学って何だ? 大学行ってどうする?」

樹は何も言わなかった。秀夫の声が続いた。「こっちがどれだけ苦しい状況か分かっているのか? お前の母親が残した借金で、もう年金も差し押さえになるかもしれないんだぞ。それで大学受験だ。どこにそんな金があると思ってるんだ」

千津は廊下の途中で立ち止まった。樹が部屋から出てきた。眼鏡をかけていた。目がまっすぐ秀夫を見ていた。秀夫は樹の顔を見た。それから手に持っていた紙を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てた。

「大学なんか行くな」と秀夫は言った。声が低く、乾いていた。「これだけ食わせてやっているだけで十分だろう。お前の母親が散々迷惑かけて、まだ足りないのか」

その言葉が出た瞬間、廊下の空気が変わった。千津は息を止めた。樹は動かなかった。しかし、目の色が変わった。怒りではなく、何か深いところに刺さったような顔だった。母親のことを言われるたびに、この子はどこかが削られる。千津にはそれが見えていた。

秀夫は握りしめた紙を廊下の床に叩きつけた。紙が床に落ち、広がった。樹は一秒だけ秀夫を見た。それから視線を床の紙に落とした。それから顔を上げて千津を見た。千津と目があった。樹は何も言わなかった。玄関に向かい、フックにかけてあったダウンジャケットをひっつかみ、靴を踏みつけるようにして履いた。玄関ドアを開けた。外から冷たい空気が廊下に流れ込んできた。ドアが閉まった。

廊下に秀夫と千津だけが残った。秀夫は廊下の壁に手をついた。千津は動かなかった。秀夫を責める言葉が出てこなかった。出てこないのは責める資格がないからではなく、秀夫の言葉が怒りから出たものではないとは分かっていたからだった。あの言葉は、自分自身に向けた怒りだった。何もできない自分への。七十年近く生きてきて、今更足元が崩れていく自分への叫びだった。樹にそれをぶつけてはいけなかった。しかし、千津にもそれを今すぐ秀夫に伝える言葉がなかった。

秀夫は壁から手を離し、部屋に戻った。座椅子に座り、テレビをつけた。音量を普段より少し大きくした。千津は廊下の床に落ちた紙を拾い上げた。くしゃくしゃになっていた。丁寧に広げようとしたが、折り目がついてしまっていた。それでもゆっくりと手のひらで紙を伸ばした。台所に戻り、止めていた火を再びつけた。鍋の中の水が少し蒸発していた。水を足した。外の風が、窓に雪を叩きつける音がした。

樹は夕食の時間になっても戻ってこなかった。千津は三人分のうどんを作り、樹の分はラップをかけて台所に置いた。秀夫と二人で茶ぶ台に向かった。秀夫は箸を持ったが、最初の一口を食べてから、それ以上進まなかった。千津も食べなかった。うどんが冷めていった。

秀夫が先に箸を置いた。台所に行き、コップに水を入れて飲んだ。それから部屋に戻らず、廊下を歩いて樹の部屋の前で止まった。ドアは閉まっていた。秀夫はドアに手を当てた。そのまましばらく動かなかった。千津は茶ぶ台の前から、廊下の秀夫の背中を見ていた。秀夫は何も言わなかった。ドアの取っ手に手をかけることも、ノックすることもしなかった。ただドアに触れたまま立っていた。

やがて秀夫は部屋に戻ってきた。座椅子には座らず、茶ぶ台の前に座った。千津の向かいに、冷めたうどんを見た。それから千津を見た。千津は秀夫の目を見た。

秀夫が口を開いた。「すまなかった」とだけ言った。声は低く、かすれていた。千津は何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ秀夫の顔を見ていた。秀夫はまたうどんの方に目を落とした。二人の間に、何も置かれていなかった。言葉も、説明も、言い訳も。四十年以上一緒にいた人間が、互いに謝ることも責めることもできずに、ただ冷めたうどんの前に座っていた。

夜の十一時を過ぎた頃、千津は布団の中で目を覚ました。眠れていたわけではなかった。横になって目を閉じていただけだ。天井の木目を暗がりの中で追っていた。樹はまだ帰っていなかった。友人の家に泊まっているのだろうとは思っていた。思っていたが、確認する方法がなかった。

台所から音がした。ガラスの割れる音ではなく、床に落ちる音だった。千津は布団から出た。廊下に出ると、台所の電気がついていた。秀夫が台所の床にしゃがんでいた。麦茶のコップが床に落ちて割れていた。白地に青い線が入った、二人で長く使ってきたコップだった。破片が三つ、四つに割れて床に散らばっていた。

秀夫はしゃがんだまま、破片を素手で拾い始めた。千津はすぐに台所に入った。「素手で触ったら切れる」と言って、流し台の下からほうきを出した。秀夫の手を払いのけるようにして、破片を集めた。秀夫は手を引っ込めなかった。すでに小さな破片を二つ、指に乗せていた。

千津が破片を集めていると、秀夫がそのまま床に両膝をついた。しゃがんだ姿勢から、そのまま膝が床についた。千津は手を止めた。秀夫の肩が動いていた。見えたのは肩の動きだけだった。声は出ていなかった。それでも肩が、数秒に一度、小さく揺れた。

千津はほうきを流し台に立てかけた。秀夫の隣にしゃがんだ。床の冷たさが、薄い靴下越しに足の裏に伝わってきた。何も言わなかった。秀夫の肩に手を触れることも、しなかった。ただ隣にしゃがんでいた。

秀夫は手のひらの破片をゆっくりとゴミ袋に入れた。それから顔を、濡れた袖で乱暴に拭った。千津はほうきで残りの破片をちりとりに集めた。二人は無言のまま、台所の床を片付けた。破片を捨て、モップで床を拭いた。それが終わると、秀夫は台所を出て部屋に向かった。千津は電気を消した。廊下が暗くなった。

樹の部屋のドアはまだ閉まったままだった。外の雪は降り続いていた。

樹が戻らなかった。二日目の朝、千津は台所に立って、いつもと同じ時間に三人分の朝食を作った。ご飯を炊き、味噌汁を作り、納豆を小皿に出した。それから樹の分をラップで覆い、冷蔵庫に入れた。帰ってくるかもしれないと思った。思っていただけで、帰ってこないことは分かっていた。

秀夫は朝食を半分だけ食べて、座椅子に戻った。テレビをつけたが、やはり音は消した。画面の中でアナウンサーが口を動かし続けていた。

二日目も同じだった。千津は樹の友人の名前を二人ほど知っていたが、電話番号を知らなかった。電話しかなかったから、掛けようにも掛けられなかった。樹がどこにいるか確認する方法が、この家にはなかった。

二日目の夕方、千津は樹の部屋に入った。書斎兼の部屋だった。机と本棚と薄い布団が一組。本棚には教科書と参考書が詰まっていて、机の上には消しゴムのカスが散らばっていた。ノートが数冊、開いたまま置かれていた。最後に勉強していた形跡が、そのまま残っていた。

千津は部屋の真ん中に立って、少しの間、何も動かさずにいた。机の引き出しに小さな缶があった。蓋を開けると、千円札が二枚と小銭が入っていた。樹が自分で少しずつ貯めていた小遣いだった。千津はその缶を元の場所に戻した。部屋を出て、ドアを閉めた。廊下で一度だけ、目を強く閉じた。それから台所に戻り、夕食の支度を続けた。

その夜、千津は布団の中で天井を見ながら計算した。頭の中に数字を並べた。預金残高、二十七万円台。十二月末の第一回返済分として最低限必要な額、四十万から六十万の間。家賃と光熱費の来月分で六万円ほど。樹の受験料と冬季講習費、八万三千円。どこをどうしても足りなかった。

一つだけ、思い当たるものがあった。三十年以上、毎月少しずつ払い続けてきた生命保険だった。千津が三十代の半ばに加入した保険で、死亡時に四百万円が支払われる契約だった。自分の葬式代と、残された秀夫の少しの備えのために、長年かけて積み上げてきたものだった。それを解約すれば、まとまった現金が手に入る。しかし、解約返戻金がいくらになるかは分からなかった。契約から何年も経ち、途中で一度、保険料を減額した覚えがあった。満期前の解約は必ず元本割れする。どのくらい目減りするのか、見てみなければ分からなかった。

千津は暗闇の中で目を開けたまま、しばらくそのことだけを考えた。秀夫に言うかどうか迷った。言えば、秀夫は止めるかもしれなかった。「お前の葬式代だぞ」と言うかもしれなかった。あるいは何も言わずに、ただ黙って俯くかもしれなかった。どちらにしても、秀夫に言う意味がなかった。決断するのは千津自身だった。三十年間、保険料を払ってきたのも千津だった。朝になったら行こう。そう思った時、やっと少し眠れた。

翌朝、千津は保険証書を引き出しの奥から取り出した。薄い紙袋に入っていた。中を開くと、契約書と証書と、何年も前に届いた案内の封書が重なっていた。証書に記載されている数字を確認した。保険会社の名前と、最寄りの営業所の住所が書かれていた。市内中心部の、バスで行ける場所だった。

秀夫には今日も公民館の用事があると言った。秀夫は頷いた。それ以上何も聞かなかった。

バスの時刻表を玄関の棚から出した。紙の時刻表だった。スマートフォンを持っていないから、紙の時刻表だけが頼りだった。九時十二分のバスに乗れば、中心部には十時前に着く。コートを着て、証書の入った紙袋をトートバッグに入れた。財布を確認した。往復のバス代と少しの余裕。

ドアを開けると、外は晴れていた。雪はやんでいたが、空は青かった。十二月の新潟に青空が見えることは珍しかった。千津はその空を一秒だけ見上げた。それから歩き始めた。

バスは空いていた。千津はバスの中ほどの席に座った。窓の外を雪景色が流れていった。田んぼのあぜ道が白く覆われ、電線に雪が積もっていた。信号の柱の根元にも、雪が半分ほど積もっていた。バスが停留所に止まるたびに、乗り降りする人が少しずついた。老人が多かった。杖をついた男性、大きな荷物を持った女性、マスクをしたまま外を見ている老女。みんなそれぞれの用事を持ってこのバスに乗っていた。

窓ガラスに千津の顔が薄く映っていた。六十七歳。自分でもこんな顔になったのかと思うことがある。頬の肉が落ち、目の下に薄い影がある。唇が乾いている。コートの襟元がすり切れているのが、映り込んだ姿でも分かった。千津は視線を窓の外の雪景色に戻した。

保険を解約することへの迷いが、全くないわけではなかった。三十年という時間を千津は覚えていた。働いていたスナックの小さな給料から、毎月決まった額を引き落としてきた。秀夫が定年になってからは、年金の中からひねり出してきた。それが今日、終わる。亡くなった後のことは考えないことにした。

営業所は小さなビルの二階にあった。エレベーターを使わずに階段で上がると、ガラス張りの入り口があった。中に入ると受付カウンターがあり、三十代くらいの女性社員が二人いた。一人が立ち上がり、「いらっしゃいませ」と言った。千津は証書の入った紙袋をカウンターに置き、「解約の手続きをしたいのですが」と言った。

女性社員の表情がほんのわずかに変わった。笑顔は保ったまま、しかし目の動きが少し止まった。「解約のお手続きでございますか」と繰り返した。「はい」と千津は答えた。「少々お待ちください」と言って、女性社員は奥に引っ込んだ。

しばらくして奥から別の女性社員が出てきた。四十代半ばくらいで、眼鏡をかけていた。名札に「木村」と書いてあった。「松崎様でいらっしゃいますか」と木村は言った。「はい」と千津は答えた。木村は椅子を引いて千津の向かいに座り、証書を開いて確認した。それからパソコンの画面を見て、また証書を見た。

「この度は解約のご希望ということで」と木村は言った。「いくつかご確認させてください。現在のご契約内容の確認と、解約返戻金の説明をさせていただきます」

木村が説明を始めた。「ご加入は三十二年前。途中、十八年前に保険料を月払いから年払いに変更され、さらに十一年前に保険金額を四百万から三百五十万に減額されておりますね。現在の解約返戻金は計算が必要ですので、少しお時間をいただきます」

木村は電卓を操作した。パソコンに何かを入力した。数分、無言だった。千津はその間、木村の手元を見ていた。指が素早く動いていた。計算が終わるまで、千津は背筋を伸ばしたまま待った。

木村が顔を上げた。「現時点での解約返戻金は、四十二万三千円になります」

千津の頭の中で、すぐに計算が始まった。払い込み総額は、三十二年間の保険料だから、ざっと計算して百五十万円は超えているはずだった。「これが四十二万……」途中での減額と前払い変更の際にいくらかの費用が発生しておりまして、と木村は続けた。「また解約の場合は、契約年数に関わらず解約手数料として返戻金の一部が差し引かれます。今回は五パーセント相当になります。手数料を引いた後の実際の受け取り額は、四十万一千八百五十円になります」

千津は一度、まばたきをした。四十万円。百五十万以上払ってきて四十万。三十二年間が、四十万円になる。しかし、今はその四十万円が必要だった。

「解約をお願いします」と千津は言った。声は揺れなかった。木村は少し間を置いてから、「わかりました。書類をご用意します」と言って、席を立った。

手続きが終わり、現金は後日振り込みになるという説明を受けて、千津は営業所を出た。階段を下り、ビルの外に出た。外の空気が冷たかった。晴れていた空に、いつの間にか薄い雲がかかっていた。

バス停まで歩こうとして、曲がり角を曲がった時、前から歩いてくる女性と目があった。一瞬で誰かは分かった。木下とし子。千津がかつて働いていたスナックの女将だった。千津が辞める前に店を畳んで、今は別の場所で暮らしていると聞いていた。とし子は千津より三つ歳上で、七十になっているはずだった。しかし上等なコートを着て、髪を綺麗に整えていた。一緒に歩いている女性がいた。娘だろうか、同世代の知人だろうか。どちらにしても千津の知らない顔だった。

「あら、千津さん」

とし子が声を上げた。声が大きかった。通りを歩く人が少し振り向いた。千津は立ち止まり、頭を下げた。「とし子さん、お久しぶりです」

とし子は千津の前に立ち、足を止めた。「まあ、久しぶりね。お変わりなく」

言葉は親しみがあったが、視線が千津の全身をさりげなく見回していた。髪を、靴を、トートバッグを。千津はそれを感じながら、「ええ、おかげ様で」と答えた。

「そう。あのね、聞いたわよ。松崎さんのところ、四号棟の解体で出て行かないといけないんでしょう。大変ね。お嬢さんがどこかに行ってしまったとかで、色々難しいことになってるって。自治会の山口さんから聞いたわ」

千津の唇が一度だけ、小さく動いた。とし子は続けた。「お嬢さんね、昔から少し気になってたのよ。お金の使い方が荒かったでしょう。千津さんがスナックでせっせと働いてるのに、あの子はブランド物のバッグ持ってねえ。子育てって難しいわよね。本当にうちの子は幸い、ちゃんとした会社に就職してくれてるんだけど」

「そうですか」と千津は言った。とし子は一緒にいた女性を振り返り、「ほら、行った人」と声をかけた。それから千津に向き直り、「まあ、体に気をつけてね。大変な時期でしょうけど、なんとかなるわよ」と付け加えた。

その「なんとかなるわよ」という言葉が、一番刺さった。

千津は九十度に近い角度で頭を下げた。「ありがとうございます。色々とご心配いただきまして」顔を上げると、とし子はすでに歩き始めていた。連れの女性と何か話しながら、遠ざかっていった。

千津はその場に少しの間立っていた。足元のアスファルトが午後の光を反射していた。雪解けが側溝に流れる音がした。歩き始めた。バス停に向かって、一歩ずつ。唇の裏を、歯で噛んでいた。血の味が、今度は少しした。

バスで帰り着いたのは午後三時を過ぎた頃だった。団地の玄関ホールに入ると、足音が聞こえた。階段の上から降りてくる足音だった。樹だった。二日ぶりに見た顔だった。ダウンジャケットを着て、リュックを背負っていた。目の下が少し赤かった。眠れていなかったのかもしれなかった。あるいは、泣いていたのかもしれなかった。千津と目があった。樹は階段の途中で止まった。どちらも最初は何も言わなかった。樹が先に口を開いた。

「荷物取りに来た」と言った。声が普段より低かった。千津は樹の顔を見た。「どこに行くの」と聞いた。

「しばらく友達のとこにいる」と樹は言った。千津は一歩、階段の方に近づいた。樹はわずかに体を引いた。千津は止まった。それから「来なさい」と言った。命令ではなく、懇願に近い声だった。樹は少しの間、千津を見た。やがて階段を降りてきた。玄関ホールの床に立った。

二人は並んで、階段を登った。四階まで、何も言わずに登った。

部屋に入ると、秀夫が座椅子にいた。樹が入ってくるのを見て、立ち上がった。立ち上がって、それから何も言えない様子で、また半分座り直した。樹は秀夫を見た。秀夫も樹を見た。

千津は台所に向かった。お湯を沸かすために、何かをしていないとこの沈黙に耐えられなかった。お茶を三つ、茶ぶ台に並べてから千津は座った。樹と秀夫も座った。三人が三角形に向かい合う形になった。

千津は膝の上で手を重ねた。それから、「今日、保険を解約してきた」と言った。秀夫が顔を上げた。「三十年続けてきたやつだ」と千津は続けた。「受け取れる金額は四十万ちょっと。振り込みは来週になる。半分は十二月の返済に当てる。残りは……」

樹の方を向いた。樹が千津を見ていた。「残りは、樹の受験費用と講習代に使う」と千津は言った。

秀夫が口を開いた。「お前の葬式代だぞ」と言った。声が低かった。怒っているのではなく、確認しているような声だった。千津は秀夫を見た。「分かってる」と言った。「でも、今はこれしかない」

秀夫は何も言わなかった。目を茶ぶ台の上に落とした。千津は樹に向き直った。樹は俯いていた。膝の上で両手を組んでいた。

「ごめんね」と千津は言った。樹が顔を上げた。「うちは貧乏だ」と千津は続けた。「樹が生まれた時から、ずっとそうだった。ばあちゃんもじいちゃんも、大したことができなかった。それは本当のことだ。でも」

千津は一度、まばたきをした。「でも、あなたには言って欲しい。勉強を続けて欲しい。うちの代わりに、ちゃんとした場所に立って欲しい」

声が最後だけ、少し揺れた。揺れたが、千津は最後まで言い切った。樹の目が赤くなっていた。しばらく、誰も動かなかった。

それから樹がゆっくりと前に傾いた。膝をつき、床に両手をついた。そのまま額を床に近づけ、千津の足元に頭を下げた。声が床の方から聞こえた。「ありがとう」という言葉だった。それから「ごめん」と続いた。

千津の膝の上に、何かが落ちた。涙だった。千津は自分が泣いているとは気づかなかった。気づいたのは、視界がぼやけた時だった。まばたきをしても、うまく乾かなかった。秀夫は座ったまま壁の方を向いていた。肩が、小さく揺れていた。

その夜、樹は自分の部屋に戻った。ドアの隙間から、明かりが漏れていた。鉛筆の音が、また聞こえてきた。それだけで、千津の胸の中の何かが少し緩んだ。緩んで、痛くなった。

台所で食器を洗いながら、千津は今日使い果たしたことを改めて確認した。三十二年かけて積んできた保険が、今日終わった。四十万円が来週振り込まれる。それを使えば、手元にほとんど残らない。自分が死んだ時、秀夫には何も残らない。

蛇口から水が出ていた。千津はその水で食器を流しながら、それでもいいと思った。今夜、樹が部屋に戻った。それで、今夜はそれだけで十分だった。

部屋では秀夫がテレビをつけていた。今日は音を出していた。天気予報の声が廊下まで聞こえてきた。「明日も雪の見込みです」と女性の声が言った。千津は食器を拭いて、棚に戻した。手を拭き、電気を消した。廊下を歩くと、樹の部屋の明かりがまだついていた。鉛筆の音がまだ続いていた。千津はドアの前で一瞬だけ立ち止まり、それからまた歩いた。

寝室に入り、布団を敷いた。横になって、天井を見た。保険の証書は、今日で終わりになった。三十年分の備えが消えた。葬式代のない老婆が、雪の降る新潟の古い団地の六畳の寝室に横になっている。

それでも、今夜は昨夜より少し眠れる気がした。廊下の向こうから、樹の鉛筆の音が聞こえていた。その音を聞きながら、千津は目を閉じた。

五月の末、四号棟の電気が止まった。正確には、止まったのではなく切られた。市の都市整備局から事前通知が来ていた。退去期限は五月三十一日。電気と水道の供給は、同日の正午を持って停止すると書かれていた。

その朝、千津は午前五時に起きた。最後に使えるうちに、と思って湯を沸かした。ポットに湯を満たし、魔法瓶にも移した。それから台所の引き出しを一つずつ開けて、中身を確認した。ざる、おたま、計量スプーン。三十年近く使ってきた道具たちが、ダンボール箱の中にすでに半分ほど収まっていた。

部屋の中は、骨だけになっていた。家具のほとんどは処分した。引っ越し先は六畳一間の古いアパートで、今の部屋の半分以下の広さだった。持っていける家具は限られていた。秀夫の座椅子はフレームが傷んでいたから、粗大ごみに回収に出した。茶ぶ台は樹が捨てるのを嫌がったから、持っていくことにした。

千津はダンボール箱の横に座って、台所の残りの荷物を確認した。この部屋に越してきたのは、秀夫が路線バスの運転手になった翌年のことだった。美行がまだ二歳だった。四十五年が、このダンボール箱の中に収まっていた。そのことを千津は、なるべく考えないようにした。考えれば手が止まる。手が止まれば、荷造りが終わらない。

秀夫は朝から無口だった。いつもより無口だったというわけではない。元々無口な男だった。しかし、今日の無口は質が違った。黙っているのではなく、黙るしかないという沈黙だった。秀夫はダンボール箱を次々と運んだ。六十九歳の体で、一人で黙々と運んだ。廊下に出し、階段を下り、玄関ホールの前に積み上げた。引っ越し業者は頼めなかった。費用が出なかった。代わりに、自治会の山内が軽トラックを一日貸してくれると言ってくれた。

秀夫は汗をかきながら箱を運んだ。千津がそれを見て「重いものは私が手伝う」と言ったが、秀夫は首を振った。何も言わずに首を振った。千津はそれ以上言わなかった。秀夫が自分でやりたいことを、止めてはいけなかった。今の秀夫に残っているわずかばかりの意地を、千津は知っていた。

引っ越し先の家賃も、生活費の計算も、全部千津が段取りをつけた。秀夫はそのことを黙って受け入れた。受け入れた代わりに、体を使う仕事は自分でやりたかった。それが、今の秀夫の最後の矜持だった。

千津は台所の窓を拭いた。もう誰も使わない台所の窓を、丁寧に拭いた。

樹は朝から自分の荷物を一人で片付けていた。参考書と教科書をリュックに詰め、残りをダンボール箱に入れた。机は処分することになっていた。引っ越し先の部屋に、机を置く場所がなかった。樹は机の前に立って、しばらく何かを考えていた。千津が廊下を通りかかった時、樹の部屋のドアが開いていて、その姿が見えた。樹は机の天板を一度だけ手のひらで触れた。それからダンボール箱を持ち上げ、廊下に出た。

「千津さん」と声がした。千津は振り返った。樹が廊下に立っていた。「共通テスト、一次通った」と樹は言った。

千津は一瞬、言葉の意味を確認した。一次、通った。大学の二次試験に進めるということだった。「それはいつ?」

「昨日、学校で発表があって。引っ越しのことで忙しそうだったから、言いそびれてた」と樹は続けた。千津は樹の顔を見た。報告するのが照れ臭いのか、それとも引っ越しの場所でそれを言うことへの複雑な気持ちがあるのか。樹の表情は、どちらとも取れた。

「よかった」と千津は言った。声が思ったより小さく出た。「うん」と樹は言って、ダンボール箱を持ち直した。それから廊下を歩き、階段に向かった。

千津は廊下に一人残った。一次、通った。その言葉が胸の中でゆっくり広がった。四十万円が、今はそこにつながっていた。

正午が近づいてきた。部屋はほとんど空になっていた。畳の上に、家具を置いていた後が残っていた。四十五年分の後だった。茶ぶ台を置いていた場所は、周囲より畳の色が濃かった。座椅子を置いていた場所は、畳が少し沈んでいた。

千津は空になった部屋の真ん中に立って、部屋を見渡した。秀夫が後ろから入ってきた。二人で並んで、空の部屋を見た。何も言わなかった。言う必要もなかった。この部屋でどんなことがあったか、二人とも知っていた。樹が生まれて、美行が育って、美行がいなくなって、樹を引き取って、借金の通知が来て、保険を解約して。それでもここに住んでいた。四十五年が、この部屋にあった。

秀夫が先に部屋を出た。千津は一人、もう少しだけ立っていた。それから「ありがとうございました」と声に出した。部屋に向かって言った。誰かに聞かせるためではなく、自分の中の何かに向けていった。それから千津も部屋を出た。ドアを閉めた。鍵を管理事務所に返しに行くために、階段を降りた。

翌朝、秀夫が千津に言った。「スーツを出してくれ」

千津はダンボール箱の中を探した。引っ越しの荷物はまだ半分ほどしか開いていなかった。スーツは一番下の箱に入っていた。それは秀夫が美行の結婚式に着たスーツだった。型は古く、今となっては時代がかった。クリーニングには出していなかったから、折り目が甘くなっていた。千津はハンガーにかけて、しばらく蒸気を当てた。ポットの口から湯気を出して、生地に当てた。アイロンの代わりだった。

秀夫はそのスーツに着替えた。鏡を見た。首元のシャツが、首との間に少し隙間ができていた。痩せたからだった。それでも秀夫はネクタイをきちんと締めた。「行こう」と秀夫は言った。

千津はコートを着た。トートバッグに必要な書類をまとめて入れた。年金の通知書、預金残高の証明、住民票、健康保険証、医療費の明細。林田に言われたことを、千津は全てメモして準備してきた。樹は学校だった。今日のことは、樹には言っていなかった。

二人でアパートを出た。外は曇っていた。梅雨の前の、湿り気を帯びた空気だった。五月の末日だというのに、肌寒かった。バスに乗り、市役所に向かった。

市役所の二階。福祉の窓口は、税務相談窓口から廊下を挟んだ反対側にあった。千津は以前ここに来たことを思い出した。半年前、税務相談の番号札を取るために並んだ、同じ建物だった。あの日は一人だった。今日は、秀夫がいた。

受付で、秀夫が言った。「生活保護の申請をしたいのですが」

秀夫が言った。千津ではなく、秀夫が窓口に向かって言った。千津はその一瞬、秀夫の横顔を見た。顎の線が硬くなっていた。声は低く、しかしはっきりしていた。受付の若い職員が「少々お待ちください」と言って、奥に引っ込んだ。

千津と秀夫は、廊下の椅子に並んで座った。秀夫は膝の上に両手を置いていた。大きな手だった。四十年間、バスのハンドルを握ってきた手だった。指の関節が太く、皮膚が荒れていた。その手が、膝の上でじっとしていた。

担当者が出てきた。三十代前半に見える男性で、名札に「岡田」と書いてあった。パーティションで仕切られた小さなスペースに通された。テーブルを挟んで、岡田が向かいに座った。

「まず、現在の状況を教えていただけますか」と岡田は言った。語り口は穏やかだったが、手元のファイルに次々とメモを取っていった。秀夫が話した。年金の金額、残債の額、引っ越したばかりであること、孫が受験生であること。千津が時々、数字を補足した。書類や書類を取り出して、岡田に見せた。

岡田はメモを取りながら、いくつか確認した。「お嬢様とは、現在も連絡が取れない状況ですか」

「はい」と秀夫が答えた。「ご親戚の方で、援助が可能な方はいらっしゃいますか」

秀夫の兄が一人いるが、長野に住んでいて、自身も年金生活者で余裕がないと秀夫は答えた。岡田は頷いて、メモを取った。それから少し違う角度の質問をした。「資産についてですが、土地や不動産、預金、株券類はお持ちですか」

「ありません」と秀夫は答えた。「生命保険は」と千津が答えた。「昨年末に解約しました」

岡田が顔を上げ、千津を見た。「解約の理由は」「生活費と、孫の受験費用のために」と千津は答えた。岡田は一秒ほど千津を見てから、「わかりました」とだけ言って、また手元のファイルに目を落とした。「車はお持ちですか」と岡田は続けた。「ありません」と秀夫は言った。

「腕時計や指輪など、換金できる貴重品は」

その質問が出た時、千津の手が少し動いた。左手の薬指に、細い銀色の指輪があった。結婚指輪だった。四十年以上、ずっとつけていた。千津はその指輪に触れなかった。秀夫も、千津の手を見なかった。

「ありません」と千津は答えた。岡田は顔を上げなかった。「はい」とだけ言って、書類にチェックを入れた。

それから岡田は少し声の調子を変えた。「いくつか、確認が難しい質問をさせていただきます」と前置きをして続けた。「お嬢様が戻られた場合、同居の可能性はありますか」

秀夫は即答しなかった。少しの間があった。三秒か、四秒か。岡田はその間、ペンを持ったまま待った。「ありません」と秀夫は言った。声は低く、そこには感情の色がなかった。ただの確認としていった。岡田は「わかりました」と言って、チェックを入れた。

面談が一時間近く続いた後、岡田が書類をまとめた。「審査には二週間ほどかかります。承認された場合、翌月から支給が始まります。支給額は世帯の収入と地域の基準によって決まりますので、今日の段階では正確な金額はお伝えできません。ただ、現在の状況を拝見する限りでは、申請は通る可能性が高いと思います」

秀夫は頷いた。岡田は続けた。「一点だけご確認ですが、生活保護を受給されている間は、新たな借り入れはできません。また、収入が一定額を超えた場合は申告が必要です。お孫さんがアルバイト等で収入を得た場合も同様です」

「分かりました」と秀夫は言った。「では、こちらに署名をお願いします」と岡田が書類を差し出した。秀夫はペンを受け取った。書類を手に持ち、一箇所ずつ確認した。それからゆっくりと名前を書いた。「松崎秀夫」と。字がわずかに震えていた。震えていたが、最後まで書いた。

署名が終わった。秀夫はペンを返した。それから椅子から立ち上がった。岡田も立ち上がった。秀夫は岡田の顔を正面から見た。それから、体を前に折った。深く、深く。六十九歳の男の、九十度に近い礼だった。

「お世話になります」と秀夫は言った。声は低かったが、はっきり聞こえた。「私どもにはもう何もありません。どうか、よろしくお願いします」

岡田は少しの間、秀夫を見た。それから岡田も頭を下げた。「精いっぱい対応させていただきます」と言った。

千津は立ったまま、秀夫の背中を見ていた。九十度に折れた背中を見ていた。四十年間、バスのハンドルを握ってきた男の背中が、今日、窓口の若い職員に向かって九十度に折れている。それが恥ずかしいことだとは、千津には思えなかった。それが惨めなことだとも、思えなかった。ただ、見ていた。その背中を、まばたきもせずに見ていた。

市役所を出ると、外は曇ったままだった。梅雨の前の湿った空気が、体に絡みついた。千津と秀夫は並んで歩いた。バス停まで五分ほどの距離だった。二人は何も言わなかった。

途中、商店街の中を通った。シャッターの多い商店街だったが、一軒だけ開いているパン屋があった。ガラス越しに、クリームパンが並んでいるのが見えた。秀夫が立ち止まった。千津も立ち止まった。秀夫を見た。秀夫はしばらくショーウィンドウを見ていた。それから「入るか」と千津に言った。千津は一瞬、財布の中を思った。バスの往復代と、少しの余裕しかなかった。それでも「うん」と千津は言った。

二人でパン屋に入った。小さな店だった。老婦人が一人で切り盛りしていた。クリームパンを一つずつ買った。百二十円が二つで、二百四十円。外のベンチに座って、二人で食べた。秀夫がクリームパンを食べながら、空を見た。雲が厚かった。バスの時刻まで、まだ少し時間があった。

「美行のことは、もういい」と秀夫が言った。突然の言葉だった。千津は秀夫の横顔を見た。秀夫はまだ空を見ていた。怒っているわけではなかった。恨んでいるわけでもなかった。諦めているとも、違った。ただ、区切りをつけようとしているような顔だった。

「あの子はもう来ない」と秀夫は言った。「それは分かってる。俺がそれを認めるのに、五年かかった。もっと早くに認めていれば、もう少し違ったかもしれない。でも、遅かった。遅かったけど、今日、認めた」

それだけ言って、また黙った。クリームパンの残りを食べた。

千津は「そうね」と言った。それだけ言った。秀夫の言葉に何かを付け加えることが、千津にはできなかった。付け加えなくてよかった。秀夫は千津の返事を求めていなかった。ただ、誰かの隣で言いたかっただけだった。

バスが来た。二人は立ち上がり、乗り込んだ。

二ヶ月後の七月。梅雨の終わりかけの頃だった。引っ越した先は、同じ市内から少し外れた町の古いアパートだった。築三十七年の木造二階建てで、一階の各室が松崎の新しい住まいだった。六畳と四畳半の二間に、小さな台所と浴室がついていた。押し入れが一つ、窓が二つ。家賃は三万八千円だった。団地より安かったが、壁が薄く、隣の部屋の音が聞こえた。

七月の雨は静かに降っていた。梅雨の終わり頃の雨は、冬の雪のように音がなく、ただ絶え間なく続く。窓ガラスに雨粒が伝って、細い筋になっていた。

樹が学校から帰ってきた。玄関のドアを開ける音がして、「ただいま」という声がした。千津は台所で夕食の支度をしていた。今夜はうどんだった。昨日の残り野菜を刻んで、入れた。シンプルな夕食だったが、生活保護の支給が始まってから、野菜を少し多く入れるようになっていた。

樹が台所に顔を出した。「今日、二次の出願書類を郵便局から送ってきた」と言った。「そう」と千津は言って、鍋をかき混ぜた。「うん」と樹は言った。それから「お腹減った」と言って、台所から出ていった。

千津はその後ろ姿を見た。冬より少し背が伸びていた。肩幅も、少し広くなっていた。気づいていなかったが、今日、気づいた。

隣の部屋から、ダンボールを潰す音がした。秀夫が床に座って、ダンボール箱を解体していた。近所のスーパーから使い終わった箱をもらってきて、それを折りたたんで資源ごみの業者に渡すという仕事だった。数円にしかならなかったが、地区の福祉担当者が紹介してくれた内職だった。秀夫は黙々と箱を折っていた。大きな手で、慣れた動作で、ダンボールの折り目に沿ってたたんでいった。

千津はその音を台所で聞きながら、うどんの味見をした。少し薄かった。醤油を足した。ダンボールを潰す乾いた音と、雨の音と、鍋のぐつぐつという音が、六畳の部屋と台所を満たしていた。テレビはついていなかった。静かだった。しかし、無音ではなかった。

うどんが出来上がった頃、秀夫が台所に来た。手を洗いながら、「今日は十二枚折れた」と秀夫は言った。「昨日より三枚多い」と言った。声に、少しだけ何かがあった。自慢でも、誇りでもなく、ただの報告だったが、その報告の仕方が、少し軽くなっていた。千津は「そう」と言って、器を持つ。

三人分を茶ぶ台に並べた。引っ越しの荷物から、この茶ぶ台だけが変わらずにあった。新しい部屋の六畳に、団地の頃と同じように置かれていた。畳の色は違ったが、茶ぶ台は同じだった。三人で座った。手を合わせた。「いただきます」という声が、三人分重なった。うどんをすする音が、部屋に広がった。

樹が「ねえ」と言った。二人が顔を上げた。「受かったら、奨学金借りるつもりだから」と言った。「返すのは自分でやる。二人には迷惑かけない」と続けた。

秀夫が黙って、うどんをすすった。千津が「当たり前でしょう」と言った。声は少し笑っていた。笑っていたが、目は笑っていなかった。笑えなかった。でも、声だけは笑った。樹が「うん」と言って、また箸を動かした。

三人で、うどんを食べた。雨の音が窓を打っていた。

借金はまだ残っていた。生活保護の支給額は月に十万を少し超える程度で、家賃と食費と医療費を引けば、ほとんど残らなかった。秀夫の年金は差し押さえ寸前のところで何とか保留になったが、来年の審査でどうなるかは分からなかった。樹が受験に通れば、奨学金という新しい借金が始まる。何ひとつ、解決していなかった。

しかし、うどんがあった。温かかった。三人が、ここにいた。

秀夫が「おかわり」と言った。千津は立ち上がり、秀夫の器にうどんを足した。それから自分の器にも足した。樹も「もう一杯」と言った。台所で鍋から器に注ぎながら、千津は窓の外の雨を一秒だけ見た。梅雨の雨が、細く、静かに、止むことなく降り続いていた。

明日のことは、明日考えればいい。今夜は、うどんをすする音だけが、この家にあった。

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