「私、ちげ鍋が好きなのに、どうして味噌鍋の店を予約したの?本当に無能なんだから。あんたみたいな無能女、ヤクザの夫に消してもらうからね。」
ママ友の太子さんは私を怒鳴りつけると、煮え立った鍋を私に向かってぶちまけた。顔にかからないようとっさに手でかばったが、焼けるような痛みが襲ってきた。
ママ友たちとの忘年会。太子さんは幹事がする仕事を全て私に押し付けたにもかかわらず、私の選んだ店に文句をつけてきた。そして怒りに任せ、私の顔に鍋をぶちまけたのだ。私は驚きと怒りの入り混じった思いを抱きながら、傷を冷やすため立ち上がる。その時、私に代わって他のママ友が立ち上がった。
まさか、このママ友の一言をきっかけに太子さんの人生が転がり落ちていくことなど、この時は予想していなかった。
私の名前は月島朱里。幼稚園に通う息子がいる、ごく普通の専業主婦だ。今はママ友たちとする忘年会の店選びをしている真っ最中である。
「本当、全く太子さんにも困ったものだわ。自分から幹事をやるって言って誘ったくせに、あとは全て私に丸投げなんだもの」
私はインターネットを巡り、色々な飲食店を見比べながらため息をつく。長倉太子さんは私と同じく息子がいるママ友だ。地域のボスママを気取っている目立ちたがり屋で、忘年会をしようと言い出したのも幹事を引き受けたのも太子さんなのだが、細かい雑務は全て他のママに丸投げし、自分は目立つところだけで人前に立ち、いいとこ取りをしていると周囲のママからも嫌われている。
嫌な性格だとは思ったが、忘年会は他のママたちも楽しみにしているのだから、私まで投げ出すわけにはいかないだろう。ああ、でも私に全部押し付けてくるなんて、さすがに腹が立つわね。そうだ、せっかくだから以前から行ってみたかった店を予約しましょう。予算的にも問題ないし、店も広いし大丈夫よね。幹事の仕事を全部押し付けられたのだから、せめて店くらいは自分の行きたかった場所にしよう。そう思い、牡蠣の土手鍋を出す居酒屋に予約を取ることにした。
そして忘年会当日。
「遅いわね。太子さんたらどうしちゃったのかしら」
集合時間になっても太子さんは現れない。他のママたちを待たせるのも悪いと思い、太子さんに連絡してみれば、太子さんは面倒そうに電話に出た。
「何よ、朱里さん。一体どうしたっていうの?こんな時間に」
「太子さんこそどうしたのよ。今日は忘年会でしょ。他のママさんたちはみんなもう来てるわよ。幹事のあなたがいなくてどうするのよ」
「え、そ、そう、今日だったわね。分かったわ。今から行くわ。先にやっててくれる?」
電話の向こうで太子さんがバタバタと騒ぐ音がする。どうやら忘年会のことすら忘れていたようだ。私は呆れながらも、他のママたちを外で待たせるわけにもいかないと思い、店に入って先に忘年会を始めることにした。そうしてみんなで鍋をつつきながら歓談を始めてから、およそ1時間ほど経った頃だろうか。
「お待たせ。ああ、もうやだ。遅くなっちゃって。私の座るところある?」
太子さんは堂々と店に入ると、何もなかったような顔で私の隣に腰かける。遅刻をしてきたのだから謝罪くらいしたらいいのに。そう思う私の隣で、太子さんは露骨に嫌な顔をして見せた。
「やだ。何これ?みんなまずそうなもの食べてるわね。田舎臭いと思ったら味噌の匂いだったんだ。私だったら絶対こんな店選ばないわ」
「そんなことないわよ。美味しいわよ。牡蠣鍋で、中にぷりっぷりの牡蠣がどっさり入っているの。味噌も自家製でとってもまろやか。牡蠣にぴったりの味で美味しいわよ」
「何よ?牡蠣だったら生牡蠣とか焼き牡蠣をレモンで絞って食べた方がよっぽど美味しいわよ。そもそも鍋とか家でもできるじゃない。ちょっと朱里さん、この忘年会の幹事、私なのよ。私のイメージが良くなるようなおしゃれなイタリアンとかフレンチの店を予約できなかったの?」
そんなこと言われても、別に太子さんからはどの店がいいかなんて希望は聞いていない。だからこそ私が以前から行きたかった店を選んだのだ。太子さんに雑務を押し付けられた上、ダメ出しされたこと、以前から楽しみにしていた料理を馬鹿にされたこと、全てがショックで、私は言い返す元気もなくなっていた。
「やだ、味噌もどろどろ。もう見た目完全に泥水じゃない。よりによって味噌鍋とか。これただの馬鹿でかい汁でしょ。こんな田舎料理、ヤクザの夫が見たら激怒するわよ。俺に泥を食わせるのかって」
太子さんはその後もビールを傾けながら文句を言うだけで、鍋には手をつけようとしない。同じテーブルのママたちは気まずそうに顔を見合わせるので、私は太子さんに大ぶりの牡蠣を取り分けた。
「想像していた料理と違ったみたいね。ごめんなさい。でもこの牡蠣鍋もとっても美味しいわよ。よかったら食べてみない?」
私が差し出した小鉢を見て、太子さんは露骨に舌打ちをすると、大声で怒鳴りつけた。
「いいわ。私はこの忘年会を仕切る幹事なの。幹事としておしゃれな料理店を手配する予定だったのに。あんたと来たらこんな地味な料理の店を予約して、全く空気読めない人ね」
「ごめんなさい。でも事前にどんな店がいいとか言ってなかったでしょ」
「言い訳しないで。大体、私は鍋ならちげ鍋が好きなの。予約するなら幹事である私の好みを聞いてからするのが当然でしょ。そんなこともできないの?いい加減にしてよ」
「だったら自分で店を選んだりスケジュールを管理するのが普通でしょう。太子さんは幹事を引き受けたのに何の仕事もしなかったじゃない。それなのに店が気に入らないからって怒るのはどうかと思うわよ。それに私、事前にこのお店にするってちゃんと連絡も入れておいたわよね。確認してなかったのは太子さんの方でしょ」
「もううるさいわね。あんたみたいな無能、夫に言いつけて消してやるからね。私の夫はヤクザなの。赤頭組って知ってる?極悪非道の武闘派として有名なのよ。まあ、あんたなんて雑魚。私が処分してやるけどね」
太子さんはそう言うと、熱々の鍋を持ち上げて私の頭にぶちまけた。私はとっさに顔をかばったが、鍋の一部が顔に触れ、じわりと皮膚が焼ける音がした。
「痛い。何するのよ、太子さん」
ああ、もう。私は慌てて立ち上がり、顔を冷やすためお手洗いへと向かう。その時、同じ席にいたママ友が声をあげた。
「太子さん、女性の顔に傷をつけるなんて、どういうおつもりですか?」
声をあげたのは慧さんだ。普段から凛とした美しい人で、その上品な立ち振る舞いから、本当はセレブのママさんなのではと噂になっている人でもある。
「何よ、慧さんだったわよね。私のやることに文句があるっていうの。あなたも夫に頼んで消してもらおうかしら」
「そのように振る舞うのもどうかと思いますわ。あなたもご主人がヤクザなら、片務の前では大人しく振る舞うのが礼儀ではなくて?」
「だからなんだって言うのよ。言っておくけど私は悪くないわよ。元を辿ればこんなダサい店を選んだ朱里さんが悪いんだから」
「それですけれども、この忘年会で幹事を買って出たのは太子さんではなかったかしら。それなのにどうして朱里さんがお店を選んでいるの?そもそもこの忘年会のスケジュール調整も予算のお知らせも、全て朱里さんからしか頂いていないけれど、太子さん、あなたは幹事なのに何をなさっていたの?」
「嫌だわね。私が幹事をやるっていうだけで一目置かれるでしょ。だから私は幹事ってだけで価値があるの。その他の雑用は朱里さんにお任せしただけよ」
「つまり、何もしてらっしゃらないのね。それなら朱里さんにとやかく言うのは筋違いだと思いますよ。それ以前に、太子さんは朱里さんの顔に傷をつけたんだから、まず朱里さんに謝るのが筋じゃないかしら。その後、お店選びやスケジュール調整をしてくれた朱里さんに感謝をするのが当然だと思いますよ。さあ、まずは朱里さんに謝罪なさい」
「嫌よ。私は別に悪くないもの。悪いのは奴隷のくせに役立たずの朱里さんでしょ」
慧さんの言葉を、太子さんは鼻で笑う。その様子を見て慧さんは、呆れと諦めが入り混じった様子でため息をついた。
「全くお話になりませんね。こんな頭の悪い人が身内にいるなんて、赤頭組も最難なんですね」
「ちょっと、あんた今何か言った?」
「もう結構です。太子さんじゃお話になりませんから、是非ご自慢の旦那様を呼んでくれませんか?」
「なんでわざわざうちの夫を呼ばないといけないのよ」
「聞こえませんでした。あなたじゃお話になりませんので旦那様を呼べと言ったんです。それとも、ヤクザの旦那様がご自慢のようですが、実際は気軽に旦那様を呼べるほど偉くもなければ仲もよろしくないのかしら」
「私を舐めてるの?いいわよ。すぐに夫を呼んであげるわ。うちの夫は本当にヤクザなんだから覚悟しなさいよ」
太子さんは吐息を荒くしながら夫へ連絡する。数分後、黒いスーツ姿の男が姿を表した。どうやら太子さんの夫のようだ。
「おい、何の用だ?こんなところにいて、また子供の寝かし付けは俺の親に頼んだのか?」
「ちょっとあなた、聞いてよ。それどころじゃないの」
そう言いかけた太子さんの前に、太子さんの夫は慧さんを見つけると、驚いたように目を見開いた。
「失礼ですが、あなたはひょっとして九州組のお嬢さんではないですか?」
「はい、その通りです。さすが赤頭組の幹部である長倉さんは、私の顔もご存知のようですね」
「当然です。この町を取り仕切っているヤクザで、お嬢さんの顔を知らない人はいませんよ。それでこの店で一体何があったんでしょうか?まさかうちのやつが何かしましたか?」
「ええ、実はあなたの奥様があちらにいる朱里さんを火傷させたんです。しかも赤頭組の名を使い、朱里さんや他のママさんを脅す真似までし始めたので、さすがにどうかと思い、あなたをお呼びしましたの」
「それはそれは、非常に申し訳ありませんでした。太子は片務ですからヤクザの事情がよく分かってないんです。私からしっかり言い聞かせておきますので」
「ちょっと、どうしたのあなた?あなたヤクザでしょ?それなのにどうしてこの女の言いなりになっているのよ。バカ」
「バカはお前だ。この人はな、組員総勢1万人、参加組織は80組にも及ぶ九州組組長のお嬢さんなんだよ。ご自身も組長をしているんだ。俺の組のような弱小組織では、とても立ち打ちできる相手じゃない。格が違うんだよ」
「嘘。この人ヤクザなの?どう見たって普通のママにしか見えないんだけど」
驚く太子さんを前に、慧さんは静かに頭を下げて笑った。
「太子さん、私たちヤクザが本職の人間は、人前に出る時はそう振る舞うのが当然なんです。ましてや子持ちの親御さんたちの集会。こんなところで片務の人たちを脅して不快な思いをさせるのは、悪目立ちするだけですよ」
「何よ、格好つけちゃって。それで、本当は強いのに私たちを見下してたの?この卑怯者」
すっかり頭に血が登った様子で慧さんを怒鳴りつける太子さんを見て、太子さんの夫は慌てて2人の間に入ると丁寧に頭を下げる。
「すいません。うちのが騒がしくて。それで怪我をなさったママさんはどちらにいらっしゃいますか?こちらからも謝罪したいのですが」
「長倉さん、女性の顔に傷をつけたんです。謝罪だけで済むと思いですか?」
「当然、治療費もお支払いしましょう。いかほど必要でしょうか?」
「そうですね。慰謝料と迷惑料、治療費など全て入れて、3000万ほど出していただけばよろしいんじゃないかしら」
「わかりました。すぐにお支払いしましょう」
太子さんの夫は控えていた部下から小切手帳を受け取ると、それに3000万円と記入して慧さんに渡す。慧さんは額面を確認すると、私を見て言った。
「どうぞ、朱里さん。取っておきなさいな。色々と物入りでしょ」
微笑みながら私へ小切手を渡した。いくら何でも3000万円は多すぎると思ったが、ここで私が断ったら太子さんの夫も慧さんも引っ込みがつかなくなるだろう。そう考えた私は、後で小切手を慧さんに返すつもりで、一応形だけ受け取ることにした。
「ところで、さっきから旦那さんばかりが謝ってますが、肝心の奥様は一切謝ってませんが、どういうおつもりかしら」
そこで慧さんは鋭い視線を太子さんに向ける。太子さんは納得していないように口を尖らせていたが、太子さんの夫は慌てて太子さんの頭を押さえ、無理やり頭を下げさせた。
「すいません。こいつも反省してます。二度とこのような真似はさせません。本当に申し訳ありませんでした」
「何よ、やめてよ。私は悪いことなんてしてないって言ってるでしょ」
「お前、まだそんなこと言ってるのか。もういい。こっちへ来い」
結局太子さんは夫に捕まると、そのまま引きずられるように店から連れ出された。その後、私たちは忘年会を終え、各々家路につく。幹事であった太子さんがいなくなってしまったため、結局会計まで全て私がやることになったが、太子さんがあんなことになってはもう怒る気もなかった。それより、まだしみるように痛む火傷の様子を見てもらわなければ。
そう思い、負傷者を受け付けている病院へと向かう途中、慧さんに言いがかりをつける太子さんの姿が見えた。
「待ちなさいよ、慧さん。でかいヤクザだかなんだか知らないけど、私に頭を下げさせて恥をかかせるなんて、絶対に許さないんだから」
どうやら太子さんは慧さんを逆恨みし、1人になるタイミングを狙っていたようだ。大変だ。誰か助けを呼ばなければ。私が慌てながらスマホを探している間も、慧さんは冷静に太子さんを見つめている。
「誰かが後をつけているのは気づいていましたが、太子さんだったのですね。ひょっとして、私1人だったらどうにでもなると思いました?」
「そうよ。言っておくけど、私これでも学生時代は結構やんちゃしてたの。喧嘩だって強いのよ。さあ、覚悟なさい」
勢いよく向かっていく太子さんを、慧さんは糸も簡単に交わす。そして慧さんは太子さんの体を思いきり殴りつけた。
「う、嘘。やだ。慧さん強い」
たった1発食らっただけで、太子さんはその場に膝をつき苦しそうな声を出す。
「私、これでも組を1つ任されている身なんです。護身術の心得は一通りありますから、ヤクザをあまり見くびらないでください。さあ、これ以上痛い目に会いたくなければ、さっさと消えてください。今なら特別に見逃してあげますから」
「ひっ、ひいっ、化け物」
太子さんは悲鳴をあげながら一目散に逃げていく。私はその様子を見て安心し、病院へ向かうのだった。
幸い、早く冷やしたこともあり、火傷は思ったより傷にならなかったようだ。子供の寝かし付けをしてくれた夫も、最近はいい感じで寝てくれる。これで全てが終わると思っていたのだが、それは甘かったようだ。
翌日。夫と子供を送り出し、午前中の家事を終え一段落した頃、私は鞄に入った小切手を見つけた。慧さんからは受け取ってと言われたが、やはりこんな金額は受け取れない。きちんと返さなければ。そう思っていた私の耳に、激しくドアを叩く音が聞こえた。
「ちょっと、朱里さんいるのよね。昨日夫が支払った3000万円。あれ返しなさいよ。たったあれっぽっちの怪我で3000万円とか冗談じゃないわよ」
わざわざ外を見なくても、声で太子さんだと分かる。太子さんの様子がおかしいと思った私は、インターホンのカメラ越しにドアの向こうを確認すると、血走った目をした太子さんがゴルフクラブを握りしめて立っている姿が見えた。
「いるのよね。朱里さん、聞こえてるんでしょ?さっさと慰謝料の3000万円を出しなさい。出さないと、このゴルフクラブで頭を殴って気を失ったあなたを山に埋めてやるわよ」
そう言いながらドアをゴルフクラブで殴り始める太子さんの様子は、もはや正気を失っている。私は怖くなり、とにかく家から逃げないとと思って裏口からこっそり外に出た。
「ああ、逃げるつもり?絶対に逃さないわよ」
だが不幸にも、裏口を抜ける前に太子さんに見つかってしまう。私は恐怖に怯えながら必死になって走り出した。どこかへ逃げなければいけないが、私や夫の家族の家に逃げ込めば家族を巻き込んでしまう。他のママ友の家も同様だ。少しでも遠くに逃げて、太子さんが諦めるまで身を潜めていよう。そう思い必死に走った私は裏路地へと逃げ込み、周囲に太子さんの姿がないのを確認してから物陰に身を潜めた。
「なんとかしないと。あなた、助けて」
電話だと話し声で気づかれてしまうと思った私は、メッセージで夫にSOSを伝える。だが夫は会議中なのか返事がない。
「そ、そうだ。慧さんなら助けてくれるかもしれないわ」
私はふと思い立ち、慧さんへメッセージを入れた。他のママ友と違い、慧さんならこんな時でも有効なアドバイスをくれるのではないかと思ったからだ。
「ごめんなさい。今、太子さんに追われているの。ゴルフクラブを持って、慰謝料を返せって。無理なお願いでごめんなさい。でも頼れる人が他にいないの。助けて」
すると返事がすぐに来た。
「分かりました。今、どこにいるか教えてくれますか?」
私は地図アプリで居場所を伝える。慧さんからは「安心してください。近くにいるので5分以内に到着します。落ち着いて警察にも連絡をしてくださいね。相手が武器を持っているなら、警察を呼んでもいいと思いますから」というメッセージが届いた。私は慌てて警察へ電話をした。
「朱里さん、どこにいるの?声が聞こえるわ。この辺りに隠れているのね。早く出てきなさい。車にはあなたを埋めるためのスコップも積んであるわよ」
警察と話している間、太子さんの声はどんどんこちらへ近づいてきた。私は見つかる恐怖に怯えながら、なんとか警察へ連絡を終えると、慧さんがこちらへ走ってくる。
「大丈夫ですか?朱里さん」
「あ、慧さん。い、いえ、それも今日お返ししようと思っていましたから、慧さんのせいでは」
そう言いながら、私は慧さんの姿を見て少し戸惑っていた。黒いスーツ姿で、綺麗に磨かれた革靴を履いた慧さんの姿は、とても片務には見えなかったからだ。きっとこれがヤクザの組長をしている時の慧さんの姿なのだろう。
「朱里さん、そんなところにいたのね」
私たちが話をしている声に気づいたのか、太子さんはゴルフクラブを振り回してこちらへと近づいてくる。完全に怒りで我を失っている。まさに鬼のような形相だ。太子さんは慧さんに気づいた時、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに嬉しそうに笑い出した。
「何よ、慧さんまでいるじゃない。ちょうどいいわ。昨日私に散々恥をかかせてくれた仕返し、今させてもらうわね」
「気づきはしないのかしら。太子さん。あなたは今でも十分恥ずかしい人なの。子を持つ親として、1人前の大人にならなければいいのに、故意的で自分勝手な振る舞いばかりして、悪いことをしたことも謝れない。そういうことこそ世間では恥と言うんですよ。そんなことだから、あなたは他のママからも嫌われているのだと思いますよ」
「な、何言ってるの?私はこの地域で1番のママよ。周囲のママは一目置いて、何でも私にお伺いを立ててくるんだから」
「それはあなたに話を通さないと、後で邪魔をしたり影で悪口を言うからですよ。その上、気に入らない相手は夫がヤクザだと脅しているから、面倒くさがって仕方なく波風立てないよう話をしているだけですよ。あなたのことを本心から慕っているママなんて、1人もいないと思いますよ」
「こんな事を言わせておけば、澄ました顔しやがって。その綺麗な顔をめちゃくちゃにしてやるわよ」
太子さんは勢いよくゴルフクラブを振り上げる。その瞬間、慧さんの雰囲気がりんと変わった。
「太子さん、いくら片務でも、武器を持って襲ってきたのなら、手加減できませんからね」
そして慧さんは太子さんの腕を蹴り上げると、太子さんは痛みから武器を取り落とす。
「い、一体何するの?」
太子さんが怯んだのを見ると、慧さんはそのまま太子さんに足払いをして地面に倒し、体の上に乗ってしっかりと押さえつけた。
「痛い、痛いじゃない。どうするの?やめてよ」
「言いましたよね。手加減できないって。それに心配しなくても、すぐに離してあげます。ほら、見てください。警察の方、来てくれたようですよ」
慧さんの言う通り、こちらに向かって警察官が走り寄ってくる。その姿を見て、太子さんは力尽きたようにその場へ倒れるのだった。
その後、太子さんはすぐに逮捕され、1年間の懲役が確定した。だが、太子さんの行動にすっかり呆れ果てた太子さんの夫には、すぐに離婚届を突きつけられてしまったそうだ。太子さんが釈放された時、以前太子さんが住んでいた家はすでに人手に渡っていた。太子さんはしばらくかつて自分が住んでいた家の周囲をうろついていたところを、慧さんに見つけられ、どこかに連れ去られたようだ。慧さんに太子さんがどこに行ったのか聞いても、何も知らないという。だが太子さんは海外の売春宿に売り飛ばされたのだろうと、専ら噂されていた。
何にしても、もう二度とこの町に太子さんが戻ってくることはないのだろう。
私と慧さんはその後もママ友として仲良くしている。太子さんがいなくなったこともあり、周囲のママたちも以前よりお互いが気軽に話しかけ、笑顔が増えたような気がする。
「以前はありがとう、慧さん。慧さんのおかげで色々助かったわ」
「気にしないでください。1人のママとして、見過ごせなかっただけなので。それに、朱里さんが頑張ってくれたから今があるのだと思いますよ」
優しい笑顔を見せる慧さんを前に、私は心強いママ友を得たことに誇りを抱きながら、今日も平穏な生活を続けているのだった。


