診察室には、古い壁掛け時計の秒針の音だけが響いていた。俺はカルテを閉じ、高橋医師をまっすぐ見る。
「時間記憶障害の可能性があります」
高橋医師の眉がわずかに動く。
「時間認識障害ですか?」
「あの子は事故を思い出しているのではない。あの時間に、とまり続けているんです」
高橋医師は腕を組む。
「ですが、三年も経っています」
二人とも黙った。診療所の窓を雪が叩いていた。
俺の名前は八吹新一、四十九歳。三年までは医師会だった。今はただの旅人だ。北海道を巡る当てもない旅の途中、俺はその無人駅に降り立った。時刻は午後三時過ぎだが、空はすでに鉛色で、風は容赦なく雪を巻き上げている。駅舎は古びた木造で、待合室には小さな石油ストーブが一つ。ホームには人影がない。いや、一人だけいた。白い息を吐きながら線路の方へ歩いていく小さな背中。
俺は思わず声を張った。
「おい、危ないぞ」
少年は振り返らない。遮断機のない小さな踏切へ、雪を踏みしめながら降りていく。吹雪で視界は悪い。足を滑らせれば、そのまま線路へ転落しかねない。
俺は寄って少年の腕を掴んだ。
「何してるんだ?」
少年は、邪魔されたことが不思議だという顔で俺を見た。
「弟が来るんだ。あの時間の列車で」
その目は真剣だった。嘘ではない。酔っているわけでもない。俺は腕時計を見る。この時間帯の路線を通る列車はない。
「今日は運休だぞ」
「違うよ。三時二十七分、あの音が鳴るんだ」
三時二十七分。具体的すぎる時刻だ。俺は時刻表を思い出す。確かに昔、この路線にはその時間に普通列車が走っていた。だが今は本数が半分以下に減っている。
少年は線路の向こうをじっと見つめている。
「弟、寒がりなんだ。だから迎えに行かないと」
その言葉に胸の奥がわずかに痛む。やがて派出所の巡査が駆けつけた。
「またか?」
「また」という言い方だった。
「この子、毎年この日へここへ来るんです」
「毎年?」
「三年前の今日、弟さんが事故で亡くなりました。踏切で」
吹雪が一段と強くなる。
「保護するのはこれで三度目です。施設への一時保護も検討中でして」
少年はその会話を聞いていないかのように、ただ線路を見つめている。
「ほら、もうすぐだよ。三時二十七分」
俺は少年の横顔を観察する。視線は一点に固定され、瞬きが少ない。だが言葉は理路整然としている。妄想にしては整いすぎている。これは単なる反応じゃない。時間が、この子の中で止まっている。
俺の胸の奥で、医者としての感覚が静かに目を覚ました。
雪は容赦なく降り続いていた。駅前の小さな派出所は、古びたストーブの匂いがしていた。俺は濡れたコートを脱ぎ、椅子に腰を下ろす。向かいには、先ほどの巡査と、俯いた女性。少年の母親だという。
「三年前の今日です。踏切事故でした」
机の上に置かれた古いファイル。写真は伏せられている。
「弟さんが先に遮断機をくぐってしまって、兄が追いかけたんです。間に合わなかったんです」
吹雪の音が窓を叩く。
「兄も怪我をしました。軽い頭部打撲です。意識はありました。大事には至らなかったと」
俺は小さく頷く。だが「軽い」という言葉は時に曖昧だ。
母親がかすれた声で口を開いた。
「あの日から、あの子の時間は止まってしまいました」
指先が震えている。
「毎日、事故の時間になると、急に落ち着かなくなるんです。授業中でも飛び出してしまう。学校からも何度か連絡がありました。パニック発作のような状態で」
声が途切れる。
「今は、ほとんど通えていません」
長い沈黙。
「毎年この日になると、駅へ行くんです。弟を迎えに。私、もうどうしていいかわからなくて」
俺は静かに尋ねた。
「事故当日の記録は残っていますか?」
二人が顔を上げる。俺は母親の言葉を反芻していた。時間が止まってしまった。それは比喩なのか? それとも、ただの心の問題では説明しきれない違和感がある。
俺の中で眠っていた感覚が、静かに目を覚ましていた。これは本当にPTSDだけなのか?
雪はまだ止む気配を見せなかった。
町で唯一の診療所は、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。白い壁は所々塗装が剥げ、入口のガラス戸が風に揺れている。俺は診察室に通された。向いに座るのは高橋医師。五十代半ば、温厚そうな男だ。
「事情は巡査から聞きました」
机の上には少年の診療記録が広げられている。
「診断はPTSDです。事故後の強いトラウマ反応の、典型的な症状ですよ」
俺は頷く。確かに当てはまる。事故時刻になると不安定になる。現場へ向かおうとする。パニック発作。教科書的には説明はつく。だが何かが違う。
「先生、あの子は事故をどう語りますか? どう、過去として話しますか? それとも」
高橋医師は少し考える。
「現在系ですね。『今、弟が来る』『今、踏切が鳴る』と」
俺は息を止める。やはりそうだ。トラウマの場合、フラッシュバックは起きる。だが日常会話の中で時間の軸が混線することは多くない。
「彼は事故を思い出しているのではない。事故の時間に、とまり続けているんです。時間軸が混ざっているんです。あの子の中で」
高橋医師は眉を潜める。
「先生は精神科の領域ですか?」
「私は元医師会です」
診察室の空気がわずかに変わる。
「事故当日の記録を見せていただけますか?」
高橋医師はカルテを差し出す。三年前のページをめくる。弟即死、兄頭部外傷。そして一行、前頭部CT未実施。
俺の指が止まる。「軽度」と書かれている。だが前頭葉は、感情や判断だけではない。時間の整理にも深く関わる。微細な損傷でも、後遺症が残ることがある。
「検査は、されなかったんですね」
「意識もはっきりしていましたし、神経症状もなかった。経過観察で問題なしと。当時としては妥当な判断だろう」
だが、事故、頭部打撲、時間の固定。俺の中で点と点が静かに結ばれていく。これはトラウマだけでは説明しきれない。もしかすると、あの子の脳は本当にあの日から前に進めなくなっているのかもしれない。
俺はカルテを閉じる。胸の奥で、久しく感じていなかった感覚が戻ってくる。これは診断の問題だ。そして、もし俺の仮説が正しければ、あの子はまだ救える。
翌日、診療所の小さな談話室で、俺は高橋医師と向き合っていた。
「来院の時間認識障害の可能性があります。軽度でも前頭葉が傷つけば、時間の整理ができなくなることがあります。過去と現在の区別が曖昧になる」
「ですが、三年も経っています。外傷が原因なら、もっと早く症状がはっきり出るはずでは?」
「トラウマと重なれば、表に出にくいこともある。PTSDと併発すれば、なおさらです」
しばらく沈黙が落ちる。診療所の窓を雪が叩いている。
「先生のおっしゃることは理解できます。しかし、ここは小さな町です。精密な神経心理検査も、機能的MRIもありません」
現実的な言葉だった。
「仮説に過ぎません」
「ええ。ですが仮説だからこそ、確かめる価値があります。もし違っていたら、それでも診断の幅は広がる」
俺は医療事故の現場を思い出していた。おそらく大丈夫だろう。その判断が取り返しのつかない結果を招いた。曖昧なまま進めることは、もうできない。
「札幌の病院で検査を手配できます。私の元同僚がいます」
高橋医師はゆっくりと顔を上げる。
「そこまでしていただけるのですか?」
「医者として気になる症例を、放置するわけにはいきません」
沈黙の末、高橋医師は小さく頷いた。
「わかりました。一時保護は保留にします。ただし、検査結果次第です」
医者同士の静かな合意。外は相変わらず吹雪いている。だが俺の中では、確かな方向が定まりつつあった。あの子の時間を、もう一度動かすために。
翌日、派出所の奥にある小さな応接スペースで、俺は母親と向き合っていた。ストーブの火は弱く、部屋の空気は重い。美和は両手を膝の上で強く握りしめている。
「お話ししたいことがあります」
彼女は不安そうに顔を上げた。
「あの子の状態は、心の弱さだけでは説明できないかもしれません」
「え、どういうことですか?」
「事故の時、頭を打っています。前頭部です。軽い打撲と記録されていますが、精密検査はされていない。脳が時間を整理できなくなっている可能性があります」
その言葉をゆっくりと置く。
「これは性格や気持ちの問題ではない。脳の機能の問題かもしれないんです」
美和の目に涙が溜まる。
「私……私はこの子を施設に預けるしかないと思っていました」
彼女は唇を噛む。
「このままではまた線路に降りてしまう。私では守れない」
それは母親の弱さではない。限界だった。
「施設が悪いわけではありません。安全を守る選択です」
俺は一度言葉を区切る。
「ですが、もし脳の問題なら、治療の可能性があります。もう一度だけ、医学的に確かめましょう」
「本当に原因が分かるんですか?」
「分かるかもしれない。少なくとも、分からないまま施設へ送ることはなくなります」
長い沈黙。外では風が強く唸っている。美和はゆっくりと顔を上げた。
「もし、そうだったら……その時は、私も一緒に考えます」
美和の頬を涙が伝う。
「お願いします」
小さな声だったが、そこには決意があった。
数日後、俺たちは雪道を抜け、札幌の総合病院の白い廊下に立っていた。規則正しく響く足音。少年は検査室へ入っていった。母親は待合室で祈るように両手を組んでいる。
俺はモニターの前に立ち、元同僚と並ぶ。画像が映し出される。
「前頭葉の一部に、ごくわずかな信号変化」
元同僚が静かに言う。
「軽いが、外傷変化の可能性はある」
俺は息を吐く。神経心理検査の結果も並ぶ。時間順序の再生課題で、明らかな混乱。
PTSDは確かにあるだろう。だがそれだけでは説明しきれない。時間認識の障害がベースにある。そういうことか。
元同僚は頷く。
「診断名を一つに絞るなら、外傷後高次脳機能障害の可能性。前頭葉機能低下が示唆される」
決定的だった。少年は壊れているわけではない。脳が整理できていないだけだ。
数日後、診療所で報告を行った。高橋医師は検査結果を黙って読み込む。診察室に長い沈黙が落ちる。
「私の診断は、早計だったかもしれません」
その声に悔しさはあっても、逃げはなかった。俺は首を振る。
「先生の判断は、この町の条件の中では妥当でした。MRIがなければ見えないものもある。医療は常に、限られた情報で決断しなければならない」
「施設への一時保護は保留にします。正式に」
その言葉を聞いた瞬間、母親が小さく息を漏らした。
「ありがとうございます」
涙が頬を伝う。あとは、あの子自身の時間を動かしていく番だ。
一週間後、俺は少年と診療所の小さな部屋で向き合っていた。窓の外にはまだ溶けきらない雪が残っている。机の上には白紙の紙と鉛筆。
「今日は、あの日のことを一緒に整理しよう」
少年は小さく頷く。
「焦らなくていい。思い出せるところからでいい」
少年は目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「踏切が、鳴ってた」
「そうか」
「僕が、先に行こうとした」
呼吸が浅くなる。
「そしたら、弟が……僕の腕を引っ張った」
指先が震える。
「それで、僕が手を離した」
その言葉は、何度も自分に言い聞かせてきた告白だった。
「僕がちゃんと掴んでいれば……」
声が崩れる。だが検査結果は示している。彼の脳は、事故の瞬間を「現在」として何度も再生していた。
「かず君」
少年は顔を上げる。
「それは時間の錯覚だ。君の脳が、あの日の映像を繰り返し再生している。何度も何度も。君が手を離した場面だけを、強く焼きつけたまま」
少年の瞳が揺れる。
「でもな、弟は君を止めようとしたんだ。守ろうとしたんだ」
「でも、僕は……」
「君は助かった。それは君が悪いからじゃない」
その瞬間、少年の肩が大きく震えた。涙がこぼれ落ちる。
「ずっと……僕のせいだって思ってた」
三年間凍りついたままだった感情が、堰を切ったように溢れ出す。俺は何も言わず、ただそこにいた。
「君は悪くない。それは慰めではない。医学的事実と、現実の状況を踏まえた結論だ」
少年は顔を覆い、声を上げて泣いた。初めて事故のその先へ進もうとする、涙だった。
数日後、俺は少年とあの無人駅に立っていた。吹雪は去り、空は薄く晴れている。雪はまだ残っているが、風は穏やかだ。三時二十七分。あの日と同じ時刻だが、今日は列車を待つためではない。
少年はコートのポケットから一通の手紙を取り出した。何度も書き直した後がある。俺は何も言わず隣に立つ。少年は小さく息を吸い込んだ。
「お兄ちゃん」
声は震えているが、逃げてはいない。
「守れなくて、ごめん」
一度言葉が詰まる。
「でも、ありがとう」
今度は声が静かに溶けていく。
「僕を守ってくれて」
涙は流れている。だが前のように崩れ落ちはしない。読み終えた手紙を、少年は胸に抱えた。
「どうする?」
少年は線路を見つめる。以前なら迷わず降りていただろう。だが今日は違う。
「もう、降りない」
その言葉には、はっきりとした意思があった。
「弟は、ここにはいない」
静かな宣言だった。俺は小さく頷く。
「うん。そうだ」
遠くで別の路線の列車の音がかすかに響く。少年は手紙を折りたたみ、ポケットにしまった。
「弟は帰ってこない。でも、僕は前に進む」
その横顔は、あの日の少年とは違って見えた。時間は止まってはいない。ただ、動き出すきっかけを待っていただけだ。三時二十七分を過ぎても、何も起こらない。それが今日の証明だった。
俺たちは線路に背を向け、駅舎へと歩き出す。雪を踏みしめる音が、はっきりと響いた。時間は、前へ流れ始めていた。
それから数ヶ月が過ぎた。春の気配がようやく町に届き始めている。俺は診療所の前で立ち止まり、校庭の方を見つめていた。グラウンドでは子供たちが走っている。その中に見覚えのある背中があった。かず君だ。以前のように俯くこともなく、友達と並んで笑っている。事故の時刻になっても教室を飛び出すことはなくなった。駅へ向かうこともない。
母親の美和が俺に気づいて、頭を下げる。その表情には、疲れきった影はない。
「先生、本当にありがとうございました」
俺は首を振る。
「頑張ったのは、彼です」
その時、かず君がかけ寄ってきた。少し背が伸びたように見える。
「先生」
息を整え、まっすぐ俺を見る。
「弟は帰ってこない。でも、僕は生きていいんだよね」
その問いは確認ではなく、決意だった。俺は迷わず頷く。
「もちろん」
かず君は嬉しそうに笑った。あの日、無人駅で見せていた硬い表情はもうない。
過去は消えない。俺の中にも消えない傷がある。だが人生を取り戻すことはできる。
帰り道、俺はあの無人駅の前を通った。雪はすっかり溶け、線路は静かに伸びている。三時二十七分は、ただの時刻に戻っていた。俺は足を止めない。胸の奥に、久しぶりにまっすぐな感覚がある。医者として、もう一度誰かの時間を前へ進めることができた。それだけで十分だった。
春の風が、柔らかく頬を撫でていった。
