昼時の社員食堂は、ひとつの戦場のようなものだった。席を取り合い、メニューを選び、時間との勝負に明け暮れる。今日が本社勤務の初日だった俺は、十年ぶりのこの慌ただしさにむしろ懐かしさを覚えていた。
昼食にと選んだのは、十年前にもよく食べていたかけうどんだった。メニューはずいぶん豊富になったというのに、結局俺は無難なところに落ち着いてしまう。自分でも笑ってしまうほどだ。席を見つけるのにも苦労したが、どうにか座ってうどんをすすり始めた。
すると突然、見知らぬ男が近づいてきて、耳障りな声を張り上げた。
「おい、おっさん、何ぼっとしてんだよ。そこは俺の席だ。邪魔だろうが。」
あまりにも失礼な口のきき方に、俺は一瞬言葉を失った。ここは社員食堂であり、社員の誰もが使える場所だ。この男には、そこが俺の専用の席だとでも言うのだろうか。五十二歳になる俺でも、さすがにこんな横柄な態度をとられたことはなかった。今日から本社で働き始めたばかりの俺にとって、これが初日から味わう洗礼だとは、まったくもってついていない。
俺はまず穏便に済ませようと、一度謝罪の言葉を述べた。そして、ここは社員食堂ですよ、あなた専用の特等席なんてあるはずないでしょう、とやんわりと反論した。すると男は、いっそう態度を大きくして俺に食ってかかった。
「おいおっさん、お前、この俺に向かって何言ってんだ?もしかして俺のこと知らないとか言わねえよな?」
俺は正直に首を横に振った。この男の顔には、どうしても見覚えがなかったからだ。すると男は顔を歪めながら、信じられないものを見るような目で俺を見下ろしてきた。
「マジかよ。ありえねえ。あのなあ、俺は営業部の課長、畑田だ。よく覚えとけよな。つうか、俺のこと知らないなんて、お前、本社の人間じゃねえだろ。」
俺は自分がロサンゼルス支社から戻ってきたばかりの社員であることを説明した。すると畑田と名乗った男は、明らかに俺を馬鹿にしたような笑みを浮かべて言い放った。
「おいおい、気をつけろよな。なんてったって俺は三十代で課長になったエリートなんだから。」
全く、なんと傲慢な男だろうか。自分のキャリアを誇ることしか能のない人間ほど、見苦しいものはない。俺はこれまで長く生きてきて、そういう人間を何度も見てきた。傍らには畑田の部下らしき男が立っていたが、その男もただニヤニヤと俺を見つめているだけで、上司を止めようとする気配は一切なかった。
「とにかくそこは俺の席だ。おっさんは廊下で飯食え。」
俺はその言葉に、ついに怒りが込み上げてくるのを感じた。とても初対面の、それも年上の人間に対する言葉とは思えない。この男は一体、どういう神経をしているのだろう。畑田とその部下は、俺を大声で嘲るように笑った。周りの人間もその騒ぎに気づき、こちらに注目し始めている。せっかく本社に戻ってこられたというのに、初日からこんな理不尽な人間に絡まれるとは。十年前には、こんなとんでもない社員などいなかった。今やこんな男が営業課長を務めているとは、信じられない思いだった。
こんなことで、山川マーケットは大丈夫なのだろうか。俺は深いため息をついた。しかし、黙ってこの席を譲るわけにはいかない。もしここで引き下がってしまえば、この男を付け上がらせるだけだと分かっていた。そうなれば、次は別の誰かが、俺と同じような被害者になるかもしれない。それは絶対に許せなかった。
俺は畑田に正面から向き合い、つとめて冷静な声で言った。
「そんな自分勝手なことを言って通用すると思ったら大間違いですよ。あなたは少し、自分自身を省みた方がいいんじゃないですか。」
畑田は俺の言葉に顔をしかめた。そして、今度は低く唸るような声で言い放った。
「あのなあ、おっさん。お前に偉そうなこと言われる筋合いはねえんだよ。いい加減に退け、この野郎。」
「いい加減にするべきなのは、あなたの方でしょう。とにかく、この席を譲るわけにはいきません。座りたいなら、他の席が空くのを待てばいいだけじゃありませんか。」
俺が一歩も引かないことを悟ると、畑田はみるみるうちに苛立ちを募らせた。そして、突然怒鳴り散らしたかと思うと、次の瞬間には信じられない行動に出た。なんと、俺の胸ぐらを思いっきり掴んできたのである。今にも殴りかからんばかりの勢いだ。周囲は何事かと、すっかり静まり返ってしまった。
その時だった。一人の男性が慌てた様子で俺たちのところに駆け寄ってきた。
「やめろ。やめないか。」
それは山川マーケットの社長、山川さんだった。山川さんは俺から畑田を引き離してくれた。突然現れた社長の姿に、畑田は目を白黒させている。
「久しぶりに社員食堂に来てみれば、これは一体どういうことだ?おい、畑田。お前、誰に向かってそんな失礼なことを言っているのか、分かっているのか。」
畑田は山川さんの言葉を全く理解できていないようだった。
「誰にって…このロス支社上がりのおっさんのことですか。」
山川さんは呆れた口調でため息をついた。
「やっぱり分かっていないみたいだな。いいか。彼はロサンゼルス支社で素晴らしい業績を上げて、今日から本社の専務に就任した福原君だよ。」
畑田は「専務…このおっさんが?」と、ぽかんと口を開けて固まってしまった。そう、俺はロサンゼルス支社での仕事ぶりを認められ、この度、本社の専務に昇進したのである。五十二歳にして、ようやく掴んだ地位だった。だが、俺はそれを鼻にかけるような人間ではなかったし、これからもそうなるつもりはない。
山川さんは顔をしかめながら、畑田に厳しい視線を向けた。
「ところで、さっきまでの、お前の態度は全て見ていた。営業課長ともあろう人間が、あんなにも横柄に振る舞うなんて、ご同然だ。」
その言葉を聞いた畑田は、みるみるうちに青ざめ、俯いてしまった。まるでしぼんだ風船のようだった。先ほどまでの傲慢極まりない態度はどこへやら、今では何も言えずに小さくなっている。自分のキャリアに固執する人間ほど、立場が上の人物に窘められると、何も言えなくなってしまうものである。本当に、呆れたものだ。
「分かったら、早く福原君に謝れ。」
山川さんに促され、畑田はその場に土下座した。
「大変申し訳ございませんでした!」
頭が床にめり込んでしまいそうなほどの勢いだった。しかし、この変わり身の速さはいかがなものだろうか。俺は、土下座する畑田に問いかけた。
「あなたは、自分より立場が下の人間に対しても、いつも同じような態度を取っているんですか?」
畑田はすぐに顔を上げて言い訳を始めた。
「いいえ、滅相もございません。今日は…その…ちょっと虫の居所が悪くて…」
間違いなく嘘だ。俺はそう直感した。そして、どうやらその勘は当たっていたようだ。山川さんが冷たい口調で、畑田に告げた。
「畑田。お前が部下に対してひどい態度を取っているという報告は、前々から上がっている。今回の件も含めて、私は確信した。お前は、どうやら課長の座には向いていないみたいだな。」
畑田は慌てて山川さんにすがりついた。
「待ってください!それは何かの間違いです!きっと誰かの陰謀です!」
俺はその言葉に、思わずぷっと吹き出してしまった。一体、誰の陰謀だというのだろうか。何ともみっともない姿だ。同じ会社の社員として、情けないことこの上ない。山川さんは畑田の言葉に取り合わず、処分を伝えるから覚悟しておけ、と冷たく告げた。畑田はすっかり取り乱してしまい、部下に「おい、どうにかしろ!お前、俺の部下だろうが!」と怒鳴り散らした。全く、見当違いもいいところである。確かに、その部下も一緒になって俺を嘲ってはいたが、すべては畑田自身が招いたことだ。その責任を、無理やり部下に押し付けようとするなんて。
こういう人間にだけは、絶対になりたくない。俺は反面教師として、目の前で繰り広げられている見苦しい光景を、心に焼き付けることにした。
山川さんも、畑田の見苦しい姿を見て、眉間の皺を深くしている。こんな部下を持ってしまい、社長としてもよい迷惑だっただろう。俺は山川さんに、なぜ畑田のような人間が営業課長という役職に就いているのか、尋ねてみた。すると山川さんは、実は畑田という男は自分の知り合いの息子なんだ、と明かしてくれた。なるほど。それを聞いて、俺はようやく合点がいった。畑田は、いわゆるコネ入社で出世してきたわけだ。本人は自分の能力の高さでキャリアを積み重ねていると勘違いしているらしいが、なんとも残念な男である。
山川さんとしても、まさか畑田がここまでひどい人格の持ち主だとは思っていなかったようだ。
「こんなに酷い人間を、うちの会社に入れてしまうなんて。とんでもない貧乏くじを引くことになってしまったよ。」
山川さんは苦笑いしながらそう言った。畑田は罰が悪そうに俯いている。こういう時、黙りこくってしまうなんて、まるで小さな子供のようだ。もちろん、そういう可愛らしさが畑田にあるとは、微塵も思わなかったが。
俺は山川さんが、なんだか気の毒に思えた。山川マーケットは、山川さんの父親が創業した会社だ。どんなに立派な会社でも、畑田のような人間が営業課長を務めている限り、いつ評判が落ちてしまってもおかしくない。畑田を一刻も早く切り捨てることこそ、今の山川マーケットにとって最も重要なことだろう。それは、山川さんも同じ思いだったようだ。山川さんは俺の方を向き、深く頭を下げた。
「福原君、本社に戻ってきてそうそう、嫌な思いをさせてしまってすまない。山川マーケットの社長として、謝罪させてほしい。申し訳なかった。」
俺は恐縮して、すぐに山川さんを促した。
「社長、何も悪くないじゃないですか。どうか顔を上げてください。」
そう、すべての元凶は、俺に理不尽な因縁をつけてきた畑田なのだ。畑田は、頭を下げている山川さんの姿を、ぽかんと見ているばかりである。とても大人とは思えない行動だった。とんでもない愚か者だ。
俺はこれ以上、この場に留まっていても仕方がないと感じ、山川さんに挨拶をしてから、その場を去ることにした。すると、突然誰かに腕を掴まれた。振り返ると、それは畑田だった。
「どうか、今回のことは御内密に済ませてください。福原さんからも、社長に頼んでくださいよ。よろしくお願いします。」
全く、図々しいにもほどがある。たとえ冗談だとしても、全く笑えない。俺は畑田の手を冷たく振り払い、言ってやった。
「処分については、すべて社長が決めることです。私の方から、何らかの口添えをすることは不可能です。」
それを聞いた畑田は、がっくりと肩を落とし、「畜生!」と叫んで床を拳で叩いた。いくら悔しがっても仕方がない。というか、悔しがるくらいなら、少しは反省したらどうなんだ。この男の自己中心的な考え方は、世界でもトップクラスに入るのではないだろうか。俺は畑田の叫びを背に、そんなことを考えながら社員食堂を後にした。
その後、山川さんの指示により、畑田は営業課長の職を解かれることになった。処分を不服に思う畑田は、無断欠勤を繰り返すという幼稚な行動に出た。すると、畑田が会社を休んでいる間に、営業部の部下たちから、畑田による不当な嫌がらせの証拠や証言が、次々と上がってきたらしい。事態を重く見た山川さんは、畑田を呼び出した。しかし、畑田はその呼び出しに応じることはなかった。社長からの連絡を無視するなんて、ありえない行為だ。その結果、畑田は懲戒解雇処分となった。
自分自身の責任すら取れないような人間は、山川マーケットには必要ない。山川さんの判断は正しいものだった。
仕事を失った畑田は、ギャンブルに溺れ、次第に借金を重ねるようになった。返済の当てもないまま、どんどんギャンブルに金を注ぎ込んだ結果、とうとう闇金融にも手を出したらしい。近頃は、借金取りに追い回される毎日を送っているという噂だ。すべては、自身が招いたことである。自業自得という言葉を地で行く畑田が、反省しない限り、どん底から抜け出すことは決してできないだろう。
一方、俺はといえば、本社で専務として忙しく働いている。別にロサンゼルス支社が楽しかったわけではないが、やはり本社での仕事はやりがいがあって、充実感に満ち溢れた毎日だ。山川さんも、あの一件以来、俺のことを何かと気にかけてくれている。彼は社長という立場であるにも関わらず、部下への気遣いを常に忘れない。本当にいい人だ。比べるのも失礼だが、畑田とは真逆のタイプである。
もちろん、俺は家族との時間をおろそかにすることはない。この週末には、家族みんなで遊園地に行く約束をしている。楽しみにしている娘と妻の顔を見ていると、なんだかこちらまで楽しい気持ちになってくる。俺はこれからも、仕事と家庭、どちらも大事にしながら生きていきたいと思う。それが俺にとっての、一番大切な幸せの形なのだから。
