生和ホールディングス本社の大会議室。役員や社員が数十人、ずらりと並んでいた。経営企画部長の黒田剛が、資料を抱えた契約社員の川島美緒を指差した。奴隷のように凍りついた空気の中、黒田の怒声が美緒ひとりに浴びせられた。
「おい、そこの契約社員。口を挟むな。契約社員の分際で経営判断に口を出すな。名前なんか覚える必要があるか?契約社員だろ?代わりはいくらでもいる。58人の心配をするな。まず自分の仕事をしろ」
黒田の怒声が止んだ瞬間、大会議室の空気が凍りついた。創業会長がその場にいた。この会社の社員は3000人以上。誰もが川島美緒がその場で泣き崩れるのを待っていた。しかし彼女は怒鳴り返すことも、泣き叫ぶこともなかった。ただ静かに一礼しただけだった。
「泣いても無駄だぞ。契約社員が口を出すことじゃない」
黒田は涙一つこぼさないその態度に一瞬だけ目を細めた。周囲も思わず言葉を失った。その時、創業会長の長井が、一人の契約社員だけを迷わず名前で呼んだ。
「みおさん、大丈夫?」
部長は思わず顔を上げた。さっきまで怒鳴っていた女性を会長が呼んだ。今は我慢の時。いつかこの空気が一変する。あの会長の裏側に、誰も知らなかった理由がある。美緒自身もその理由を知らなかった。そして部長がその理由を知ったのは、この後すぐのことだが、黒田はまだ知らない。会長が今日をどれほど覚悟して迎えていたかを。
これは、名前を覚えられなかった部長が、静かに裁かれる因果応報の物語である。
時を遡る。川島美緒、34歳。この会社に契約社員として勤めて3年が経っていた。午前7時半、美緒のアパートは駅から徒歩18分の場所にあった。炊飯器の湯気が小さな台所に上がっていた。美緒は昨夜の味噌汁を温め直し、テレビの音量を絞ったまま朝のニュースを流していた。特別なことは何もない朝だった。
美緒が契約社員という働き方を選んだのは、母の介護を経た3年前のことだった。正社員だった前の会社は急な休みが取りづらかった。母を見取った後、美緒はこの会社で契約社員として働く道を選んだ。融通の利く働き方は便利だった分、毎年の契約更新という不安も連れてきた。
午前9時、始業のチャイムが鳴ると同時にフロアの空気が変わった。エレベーターホールの方から何人もの足音が近づいてきた。会長がいらっしゃる。フロア中の背筋が一斉に伸びた。
長井、82歳。この会社を一代で築いた創業会長だ。数年前に社長の座を長男に譲り、経営の第一線からは退いていた。本ビルに姿を見せるのは年に数えるほどしかない。長井はゆっくりとフロアを歩き、すれ違う社員たちに軽く頷くだけだった。だが美緒のデスクの前で足を止めた。
「みおさん、おはよう」
フロア全体が一瞬静まり返った。キーボードを叩く音さえ止まった。美緒は椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「おはようございます」
長井はそれだけ言うと、また歩き出した。名前を呼ばれたのはこの日だけではない。
「なんで会長は川島さんの名前知ってるの?」
「分かりません」
美緒は本当に分からなかった。周りも同じ疑問を抱いていた。入社以来、美緒は特に目立つ働きをしたわけではなかった。
「川島さん、会長の隠し子だったりして」
休憩室の冗談をよそに、美緒は黙って弁当を食べていた。
その日の午後、エレベーターホールで取引先の男性が壁に手をついていた。美緒は自然に足を止め、相手が誰かも確認しなかった。ただ具合が悪そうな人がいたら、放っておけない。それだけの衝動だった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し立ちくらみがしただけなので」
美緒は水を渡して見守った。男性は落ち着きを取り戻し、名前を聞かれた。
「お嬢さん、お名前は?」
「川島です」
美緒は特に気にも留めず、フロアに戻った。
一方、経営企画部のフロアでは別の空気が流れていた。
「はい、承知いたしました。かしこまりました」
黒田剛の声が電話口で何度も繰り返されていた。相手は取締役の一人らしい。腰の低い口調が廊下にまで聞こえていた。受話器を置いた瞬間、愛想が消え、大きなため息を一つついた。
「おい、資料まだか?」
若手社員の斎藤に向けられた声は、先ほどまでとは別人のように低く、トゲトゲしかった。
「申し訳ありません。あと10分で」
「10分も待てるか。役員会は30分後だぞ」
斎藤は顔をこわばらせてパソコンに向かった。黒田は腕にはめた高級な腕時計に目をやり、大きなため息をついた。机の上には有名ブランドの名刺入れが無造作に置かれ、棚にはゴルフのトロフィーが並んでいた。
黒田剛、51歳、経営企画部長。今朝、執行役員への昇格がかかっていた。社内の誰もが黒田のその野心を知っていた。過去3回、役員候補で名前が上がりながら、他の候補に譲っていた。今度こそは。それがこの一年の口癖だった。数字さえ出せば道は開けると信じていた。
11月に入り、総務に内部通知が回ってきた。タイトルは「バックオフィス業務効率化プロジェクト」。中身は分からなかった。
「また新しいシステムでも入れるのかしらね」
美緒は通知を書類フォルダーに挟み、次の作業に取りかかった。実際に進んでいたのは、総務、経理、人事の事務を外部のAIサービス会社へ一括委託する契約だった。黒田が責任者で、成功すれば年内の執行役員昇格はほぼ確実だと囁かれていた。
社内向けの説明会で、黒田は満場で笑顔を振る舞っていた。
「皆さんの業務負担を軽減し、より創造的な仕事に集中していただくためのものです」
拍手が起きた。社員たちは詳しい中身を知らないまま、前向きな言葉だけを受け取っていた。
「契約社員の方々の業務はどうなるのでしょうか?」
「もちろん、丁寧に対応します。心配はいりません」
それ以上の質問は出なかった。丁寧に対応する中身を、誰も確かめなかった。
「そこの契約社員、この資料、ホチキスの向きが逆だ」
片付けを手伝っていた美緒に、黒田はそう言い捨てた。
「部長、川島さんですよ」
「名前なんか覚える必要があるか?契約社員だろう」
その場が一瞬静まり返った。美緒は頭を下げ、次の資料の準備に戻った。会議では、美緒は部屋の隅で記録を取る係だった。発言する権利は最初からなかった。
「質問は結構です。議事録だけ取っていてください」
黒田は美緒の方を見もせずにそう言った。黒田は社長室に呼ばれる時だけ声のトーンが二段階上がった。
「もちろんです。社長、すぐに対応いたします」
ドアが閉まった瞬間、顔から愛想が消え、ため息を一つついた。黒田は美緒の前では遠慮だった。彼女を空気のような存在としか思っていなかった。
資料を運ぶ美緒の横で、黒田は電話相手に話していた。
「このプロジェクトが通れば、来年は役員だ。今の契約社員、58人だったか。全員、退社名目で契約終了にする。人件費が減れば数字は一気に良くなる」
美緒は資料を抱えたまま通り過ぎ、聞こえなかったふりをした。だがその言葉ははっきりと記憶に残り、忘れないうちに、メモ帳に日付と共に書き移した。特に誰かに見せるつもりはなかった。ただ記録しておきたかった。
夜、総務には美緒と森下だけが残っていた。
「最近、黒田部長、やけに機嫌がいいわよね。何かあるのかしら?」
「さあね。でも、ああいう人が機嫌がいい時ほど、ろくなことがない気がする」
経理部の契約社員、石田香もこの頃から資料を何度も突き返されていた。
「今日も3回やり直しさせられました。正直疲れました」
石田には小学生の子供が3人いた。美緒は黙って聞いていた。雇用の更新を控えた松本は66歳で、家のローンのために働き続けていた。
「毎年この時期は、更新されるかどうか、正直気が休まらないんだよな」
同じ11月、契約書類の最終チェックが総務課に回ってきた。単純な体裁の確認のはずだった。美緒は残業してページを読み進めた。蛍光灯の光だけが静まり返ったフロアを照らしていた。読み進めるうちに、手が止まった。
「契約社員の有期雇用全員について、本契約締結後、当該年度末をもって契約を更新しない」
何度も読み返した。読み間違いではなかった。去年の文言と比べると、この一文だけが新しく書き加えられていた。契約社員名簿を開くと、名前が58人分。石田、松本、そして自分の名前もあった。名前の一つ一つに、それぞれの生活があった。時計は午後10時を回っていた。美緒は問題のページを一枚コピーして、鞄にしまった。
翌朝、森下に見せると、森下の顔色も変わった。
「これ、私たちのことよね」
「はい。全員が対象です」
二人はこの情報が、58人の雇用を一斉に打ち切るものだと理解した。誰にも知らされないまま、決まろうとしていた。
「誰かが確認しないと。でも、誰が言うんですか?」
石田も話を聞きつけて、輪に加わっていた。
「私、正直、今の契約を切られたら詰みます。強く言えないんです」
森下も黙り込んだ。18年勤めていても、契約社員という立場は変わらない。
「私が言います」
特別な決意があったわけではない。ただ見過ごせないと思っただけだった。
「みおさん、大丈夫?一人で抱えなくても。議事録係なので、会議には出られます。言うだけなら言えます」
その夜、美緒は台所のテーブルで、指摘したい点を紙に書き出した。専門用語は使わず、事実だけを短くまとめた。
翌朝、美緒はいつもより30分早く出社し、まず人事部に相談に行った。
「契約更新の件は経営企画部の管轄でして、正式な通達が来るまでは何とも」
「58人の雇用に関わることです」
「お気持ちは分かりますが」
担当者は最後まで目を合わせなかった。美緒は黙って人事部を後にした。正規のルートはすでに閉ざされていた。美緒は資料を抱え、次の会議の部屋へ向かった。議事録係としてではなく、一人の社員として発言するのは初めてのことだった。
「確認したいことがあります。契約書の別紙に、契約社員全員の契約終了について書かれているのですが」
会議室の空気が一瞬止まった。黒田の眉がぴくりと動いた。
「それがどうした?必要な手続きは踏んでいる」
「内容について、社内での説明がまだされていないようで」
「58人の方々の来年の生活が」
「58人の心配より、まず自分の仕事をしろ」
隣の斎藤は小さく頷きかけたが、黒田の視線に気づくと、目を伏せた。
「せめて対象になる方々への説明の場だけでも」
「契約社員の分際で経営判断に口を挟むな。これは経営判断だ。契約社員が口を出すことじゃない」
周囲は一斉に視線を落とし、美緒は深く頭を下げて会議室を出た。
その日の午後、森下が黒田に直接意見を言いに行った。
「部長、契約社員全員の雇用に関わることです。せめて内容の説明くらいは」
「森下さんも契約社員だったな。立場分かってる?」
「立場は分かってます。だからこそ言ってるんです」
森下の声がわずかに大きくなり、フロアの数人が顔を上げた。
「契約社員が何人いようが、代わりはいくらでもいる」
森下はそれ以上何も言えず、デスクに戻ると手が止まった。フロア全体に重い空気が流れていた。
11月の末、取締役会の直前、経営企画部のフロアで最後の打ち合わせが行われていた。役員の何人かが同席する場に、美緒は資料の差し替えのために呼ばれていた。
「そこの契約社員、資料の順番、間違ってるじゃないか」
黒田の声がフロア全体に響いた。
「部長、川島さんです」
「名前を覚える必要があるか?契約社員なんだから」
役員たちの前だった。誰も庇わなかった。森下は拳を握ったまま動けなかった。近くにいた斎藤も目を伏せた。通りかかった別部署の社員も、足早に通り過ぎていった。役員たちの前で、美緒は「そこの契約社員」でしかなかった。美緒は声も涙も出さず、資料の角を指先で折り曲げた。
「聞こえたか?斎藤。契約社員は名前より数字だ」
「はい」
黒田は満足そうに資料を受け取り、役員たちへ再び笑顔を向けた。
「来週の取締役会では、この削減数字で押します」
美緒は廊下に出た。誰一人、声をかけてくる者はいなかった。休憩室の前で、石田が小さく頭を下げたまま通り過ぎた。
「ごめんなさい。何も言えなくて」
フロアの時計が午後を指し、窓の外の空はもう暗くなり始めていた。
その晩、美緒はコピーした別紙を机に広げ、58人の顔を思い浮かべた。取締役会で全部決まってしまう。悔しさより先に、何もできない自分の無力さが胸に残った。
同じ頃、自宅で庭の手入れをしていた長井に、秘書の佐々木から電話が入った。庭には亡くなった妻が好きだった椿が、今年も花をつけていた。
「会長、経営企画部で契約社員の方々への対応について、良くない噂が。説明もなく雇用を切る情報が契約書に入っているという話です」
「詳しく聞かせてくれ。書類は手元にあるのか?」
「入手できる見込みです。今夜、お持ちします」
鋏を置いたまま、長井はしばらく庭を見つめていた。契約社員という立場の弱さは、この会社を起こした頃からずっと気にかけてきた。川島さん、あの夜、名前を呼んでくれた人は、今も無事に働いているか。取締役会の日に本社へ行く。誰にも知らせなくていい。
佐々木は本社でペン書きの記録を確保し、川島さんの手書きメモも内部確認に揃えた。
数日後、取締役会の前夜、黒田は大手町の会員制バーで同期と酒を上げていた。
「取れ高さえ通れば、俺の名前が役員名簿に乗る。長かったよ」
「例の契約社員の件、大丈夫なのか?」
「3億8000万の削減だ。契約社員なんて、代わりはいくらでもいる。口を挟んだ女もな、名前すら知らんよ」
黒田は上機嫌でボトルの栓を開けさせ、すでに役員室の椅子を想像していた。
その夜、美緒は遅くアパートに帰り、電気をつけずに玄関に座り込んだ。それでも言わなきゃいけなかった。それから味噌汁を温め直し、窓の外の冷たい雨を見つめていた。
そして12月最初の月曜日、取締役会は予定通り午後2時に始まった。28階の役員会議室には、社長、役員7名、そして黒田剛が並んでいた。隅には議事録係として呼ばれた美緒も、資料を抱えて立っていた。
プロジェクトの説明は順調に進んでいた。スクリーンには削減される人件費のグラフが映し出されていた。黒田の声には自信が満ちていた。
「本契約により、年間人件費を3億8000万円削減できる見込みです。業務効率はAIサービスの導入により、従来比135%に向上します」
「移行期間中の業務は担保できるのか?」
「もちろんです。移行スケジュールは慎重に組んでおります」
黒田は淀みなく答えた。役員の何人かが頷き、社長も満足な表情を浮かべていた。
「対象になる社員の説明はもう済んでいるのか?」
「順次進めております」
黒田は即座にそう答えた。誰もその言葉の真偽を確かめなかった。
「対象となる契約社員58名の業務は、来期第1四半期までに完全移行が可能です。うち契約社員分だけで、年間1億2000万円の圧縮になります」
「素晴らしい数字だ。黒田君、よくやってくれた」
黒田は軽く会釈し、もう勝利を確信したような顔をしていた。これで決まりだ。執行役員は俺のものだ。拍手が起きかけた、その時だった。廊下から複数の足音が近づいてきた。
「あれ、会長じゃないか」
扉がノックもなしに開き、長井が秘書の佐々木を伴って入ってきた。灰色のスーツに質素な革靴。創業者らしい派手さはどこにもなかった。長井が本社の取締役会に顔を出すのは3年ぶりのことだった。佐々木の他には、長井が今日ここに来ることを知る者はいなかった。
「座ったままでいい。続けなさい」
その声は穏やかだったが、誰も続きを話せる空気ではなかった。黒田の顔から血の気が引き、レーザーポインターが小さく震えた。スクリーンに映ったグラフの数字だけが、まだ誇らしげに輝いていた。
長井は誰にも挨拶をせず、まっすぐ美緒の方を見た。
「みおさん、大丈夫?」
その一言に黒田は息を飲んだ。黒田が3年間、一度も名前を呼ばなかった相手を、創業会長は迷いなく呼んだ。名前を呼ばれた美緒は、資料を抱えたまま動けなくなった。なぜ会長が契約社員の名前を。美緒自身も分かっていなかった。なぜ会長が自分の名前を知っているのか。心臓がいつもより早く打ち、抱えていた資料の重みだけが腕に伝わっていた。
「失礼します」
美緒は一礼して扉へ下がったが、長井は手で制した。
「川島さんは残っていてくれ。証人として必要だ」
「会長、この者は議事録の契約社員で」
「知っている。川島美緒さんだ」
その言い方には、黒田の「そこの契約社員」とは全く違う響きがあった。佐々木が黒田の前に、契約書の別紙と手書きメモのコピーを置いた。
「先ほどの契約書の別紙、確認させてもらった」
長井の声は大きくなかった。だが会議室の誰もが息を止めて聞いていた。
「契約社員全員の雇用を一斉に打ち切る情報が入っている。この説明はまだ聞いていないが」
「それは経営判断として。数字を出すのが私の仕事で」
「経営判断は、誰かの生活を黙って切り捨てていい理由にはならない」
怒鳴りもせず、事実を確認しているだけだった。それが黒田にとって最も恐ろしかった。
「父さん、まずは私が事情を確認して」
「お前が確認していれば、こんなことにはなっていない。契約社員58名全員が対象になっている」
「業務の効率化のためには、必要な決断でした。それに契約社員は有期雇用です。更新しない自由は会社にあります」
「自由を、説明なしに使うなと言っている。以前、電話でこう言っていたそうだな。人件費が減れば数字は一気に良くなる」
黒田の顔が青ざめた。
「それを聞いていたのは、お前が空気のように扱っていた、この契約社員だ。対象者への説明は順次進めていると言ったな。この川島さんへの説明は、いつ済ませた?」
黒田は答えられなかった。嘘は誰の目にも明らかだった。佐々木が手書きメモを役員一人一人に配った。
「これは録音ではなく、手書きの記録か」
「はい。川島さんが忘れないうちに書き留めたものです」
「勝手にメモを取るなんて、スパイ行為じゃないか」
「お前が空気扱いした社員の記録だ。事実から逃げるな。契約は白紙に戻す。ゼロから対象者一人一人に説明した上で、考え直す」
白紙というのは言葉通りだ。長井の答えに反論する者はいなかった。
「私は会社のためを思って。数字さえ出せれば、誰も文句は言わないと」
「その『誰も』の中に、この人は入っていなかったのか」
長井が黒田を見ながら言った。黒田は答えられなかった。
「『代わりはいくらでもいる』とも言っていたそうだな」
黒田の肩が落ちた。どこで聞いたのかも考える余裕はないようだった。黒田はすがるように、隣に座っていた斎藤を見た。
「斎藤、お前も書類の作成に関わっていただろう」
「いえ、私は部長の指示に従っただけです。情報の追加は、部長一人の判断だったと記憶しています」
黒田の顔が初めて、赤ではなく白くなった。頼みの綱だった部下からも、切り捨てられた瞬間だった。
「斎藤、お前まで俺を売るのか?」
斎藤はそれ以上、何も答えなかった。
「説明を順次進めていると偽った点も、重大な虚偽報告だ。本件は内部通報案件として受理する。監査も即日開始する。執行役員候補としての適格性は、この場で失ったと見て良い」
黒田の唇が小刻みに震えた。隣の斎藤はすでに椅子を半歩ずらしていた。
「それは酷だ。会長だって昔は数字で会社を大きくしたはずだ」
「私は人の名前を、決して数字で作ったことはない。58人の生活を数字の影に隠したな。黒田君、私は川島さんの名前を忘れたことがない。君は3年間、一度でも彼女の名前を呼んだことがあったか」
会議室は静まり返った。誰も答えなかった。美緒は胸ポケットから、事務の名札をそっと取り出した。「川島美緒」と印刷された文字が、蛍光灯の下で静かに光った。
「名前がある。私にも、みんなにも」
「それが君の答えだな」
役員たちの姿勢が黒田から離れ、誰一人庇う者はいなかった。社長も静かに目を閉じ、窓ガラスに映る自分の顔だけが黒田を見つめ返していた。
「覚えているか?」
美緒は首をかしげた。会議室の全員が息を潜めて見守っていた。
「入社する前の年、11月の雨上がりの夜だ。この本社ビルの前の歩道で、具合を悪くして座り込んでいた老人がいた。『大丈夫ですか?お名前言えますか?』」
それはあの夜、美緒自身が口にした言葉だった。美緒の目が大きく見開かれた。
あの夜、美緒は残業帰りに歩道で座り込んでいた老人を見つけた。街灯の下、雨上がりの路面が黒く光っていた。老人は一人で、軽い発作を起こしていた。通りがかりの人は足早に通り過ぎ、誰も足を止めなかった。美緒だけが膝まずき、声をかけた。
「大丈夫ですか?お名前言えますか?」
老人はろれつが回らない意識の中で、自分の名前だけを答えた。
「長井です」
美緒も聞こえるままに名乗り返した。
「川島です」
「川島さん」
老人はその名前を確かめるように一度繰り返し、美緒はただ頷いた。救急車が来るまでの、ほんの数分間だけの出来事だった。美緒は老人の手を握り続けていた。冷たい雨の匂いと、老人のかすかな息だけを覚えていた。アスファルトの冷たさが、美緒の膝にも伝わっていた。救急車を見送ると、美緒はそれが誰であるかも確かめないまま、家へ帰った。
翌年、契約社員として面接を受けた時も、あの老人が創業会長だとは思いもしなかった。
「あの夜、名前を呼んでくれたのは、後にも先にもあなただけだった」
長井の声がわずかに震えていた。
「私はあの声を忘れたことがない」
美緒は何も言えず、ただ目の奥が熱くなるのを感じていた。
「あなたがこの会社に入ったと知った時、正直迷った。名乗り出て、特別扱いもできた。だが、あなたはそういうことを望む人ではないと思った。だから、名前だけを呼び続けた。それが私にできる精一杯の礼だった」
「会長はあの夜からずっと、社員名簿で川島という名前を探していたんです。よく私に見つけたら知らせるようにとおっしゃっていました」
長井は少し照れたように視線をそらすと、最後に黒田の方を見た。
「人の名前を軽んじる人間に、人を預ける気にはなれない」
「待ってください。執行役員候補。これまでの数字は成果です」
「候補から外す。諭旨解雇を視野に入れた処分を、社長の元で進めなさい」
「分かりました。直ちに手続きします」
「黒田部長、明日10時、聴聞の場を設ける。欠席は認めない。損害賠償の請求も検討する。業界団体への報告も行う」
「そんな、俺が」
「その口が、全てを物語っている」
美緒は名札を胸に戻し、静かに一礼した。
「川島美緒です。今日は議事録として、ここにいました」
小さく名乗っただけだった。勝ち誇る気配はどこにもなかった。
「黒田さん、社用端末と入館証は、この場でお預かりします」
黒田の手が震え、名札を外す音が会議室に小さく響いた。俺の名前が消える。会議室の窓の外では雨が降り始めていた。あの夜、美緒が歩道で膝まずいた時と同じ、冷たい雨の匂いだった。
一週間後、黒田剛の諭旨解雇が社内に通知された。理由はパワーハラスメントと虚偽報告だった。契約社員全体の雇用に関わる重大な情報を、取締役会に無断で盛り込もうとしたことも含まれていた。退職金は大幅減額。役員候補名簿からも名前は完全に消えた。同時に社内システムへのアクセスも停止され、デスクは撤去された。業界団体への報告も行われ、転職の門は次々と閉じた。
「パワハラで契約社員を切り捨てようとした方は、お引き取りください。当社のブラックリストにお名前が載っております」
退職の記録まで残っている案件は、どの人事も怖がる。最後に黒田を見た社員は、誰も彼の名前を覚えていなかった。「あの経営企画部にいた人」。社内で彼はそう呼ばれるようになった。かつて自分が「代わりはいくらでもいる」と言った言葉が、そのまま返ってきた形だった。
半年後、黒田は都内の小さな物流会社で、契約社員として働いていた。倉庫の入荷作業。名札には部署名と番号だけが記されていた。月収は手取り18万円。かつての年収のほんの一部だった。
「そこの契約の人、そのパレット、向こうに急いでくれ」
現場の主任がそう指示した。名前を聞かれることも、呼ばれることもなかった。かつて自分が美緒に投げつけた言葉と同じ響きだった。
「前は何の仕事してたんすか?」
「経営企画」
「へえ。何て名前でしたっけ?下の名前」
黒田は答えなかった。誰もしつこくは聞かなかった。夜、ファミリーレストランでカップ麺をすすりながら、黒田は天井を見つめた。
「川島美緒。俺は一度も呼ばなかった」
一方、生和ホールディングスでは、58人の契約社員の雇用が全員継続されることになった。年間3億8000万円の削減案は白紙に戻された。契約更新のために不安を感じていた総務の空気も、少しずつ柔らかでいった。発表の日、総務のフロアには珍しく小さな拍手が起きた。美緒はその輪の中で、少し戸惑いながら頭を下げていた。
「子供がまだ小さくて、正直来年の契約がどうなるか、ずっと不安だったんです。それでも言ってくれる人がいたから、あと3年、なんとか務め上げられそうだ。ありがとな」
「私はただ、気づいたことを言っただけです」
「みよさんのおかげだね」
「ただが一番難しいんだけどね」
斎藤も取締役会の日以来、美緒に会うたびに小さく頭を下げるようになった。何も言わなかったが、それで十分だった。新しい経営企画部長は着任初日に、契約社員一人一人へ名前を確認して回った。小さな変化だったが、フロアの空気は確実に変わっていった。契約社員への説明会も正式な制度となり、雇用の行方が知らされないまま不安に苛まれることはもう聞かれなくなった。
美緒の日常は大きくは変わらなかった。相変わらず朝7時半に味噌汁を温め、7時50分の電車に乗り、8時20分にはデスクに着いていた。ある月曜日の朝、長井が事前連絡の上、フロアに姿を見せた。
「みおさん」
長井が声をかけると、美緒は椅子から立ち上がった。
「おはようございます」
「これからも、この会社で働いてもらえるだろうか」
長井の問いに、美緒は少し考えてから頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
「無理にとは言わない。あなたが望むなら、正社員としての道も用意できる」
「今のままで大丈夫です。契約社員という働き方が、今の自分には合っているので」
「そうか。分かった」
長井はそれ以上勧めず、去り際に社員一人一人へ小さく会釈をしていった。以前にはなかったことだった。
「結局、会長とはどういう関係だったの?」
「ちょっとお手伝いしただけです。それだけ」
美緒は少し微笑んで答え、また書類に向き直った。窓の外では朝の光が、オフィス全体を静かに照らしていた。
その日の午後も、美緒は体調を崩した来客に声をかけ、水を汲みに行った。大丈夫ですか?相手が誰かも確かめずに動く、前と何も変わらない光景だった。社内の語り草に残ったのは、「名前を呼んだ人」という一点だった。総務の新人研修資料には、いつしか「相手の名前をきちんと呼ぶこと」という一文が加えられていた。
創業会長が迷わず呼んだのは、契約社員の名前だった。人を預ける資格は、名前を覚えようとする心にある。
