娘を連れて小学校の授業参観に行くなど、あの日に限っては何の予感もなかった。振り返ると、そこには妹が立っていた。息子らしき男の子の手を引きながら、相変わらずの嫌味な笑みを浮かべて。
「え、もしかして姉さん?同じ小学校だったの?生徒が多いから入学式で気づかなかったわ。それにしても何よ、その格好。事務服ってことは、今日もあの病院で医療事務をしてたの?シングルは大変ね。休む暇もなくて」
私はかつて夫を妹に奪われた女だ。七年間、必死に生きてきた。その間、この妹が何をしていたのか、今こうして目の前に現れるまで考えないようにしていた。
「私は長崎誠女の響きと、事女の鈴鹿を育てるシングルマザーだ。夫とは七年前に離婚した」
そう、夫を略奪されたのである。しかも、その相手は私の身近な人間だった。
あの頃を思い出す。私は大学を卒業すると、地域の中規模病院に医療事務として就職した。毎日パソコンとにらめっこする仕事で、目は疲れ、肩と首はこわばった。夢の中で数字に襲われて目を覚ますこともあった。特に七という数字は角が尖っていて、非常に危険だった。
天気のいい日は、休憩時間になると中庭のベンチに座ってお弁当を食べるのが私の息抜きだった。あの日もいつものようにご飯を食べていると、一人の医師がやってきた。最初は気にしなかったのだが、すぐにすっと泣いているような声が聞こえてきたので、思わず声をかけてしまった。
「あの、どうかしました?具合でも悪いんですか?」
「え?あ、すいません。ここあんまり人が来ないから、泣いてもいいかなって」
「え、どうかしたんですか?」
「いや、お恥ずかしいんですが、自分が担当していた患者さんが退院することになりまして。さっき『先生、ありがとう』って言われたら、ぐっときちゃって」
「ああ、なるほど」
「でも、さすがに他の医師や看護師がいるところでは泣けなくて。ここなら誰もいないかと思ったんですが。あ、タイミング悪くてすいません。もう戻るので」
「あ、いえ、そういうつもりで言ったんじゃないんです。すみません、気を使わせて。でも、お医者さんでもそうやってちゃんと感動することもあるんですね」
「え?」
「あ、私ここで医療事務をしてて。ほら、お医者さんっていつも患者さんのことを淡々と見るでしょ。だから、一人の患者さんが退院するからってそんなに感動するとは思っていなかったものですから」
「はあ、自分まだ研修医が終わったばかりで、まだ慣れてないっていうか。しかも今日は、自分が最初から最後まで担当した患者さんだったので、ぐっときちゃって」
「先生に見てもらって、患者さんも嬉しかったんですね」
このやり取りがきっかけで、その後も同じ場所で何度か会って話すようになった。彼は内海の福山東先生。私たちはいつしか病院の外でもご飯を食べるようになり、交際をスタートした。そして三十歳の時に結婚した。
私はすぐに妊娠し、娘の響きが生まれた。夫の仕事は忙しく、子育てはほとんどワンオペだったが、それでも優しい夫と子供に囲まれて幸せだった。ただ、ある人物の登場により、私たちの夫婦生活が変わってきてしまうのだった。
私は三十三歳の時に二人目を妊娠し、三ヶ月に入っていた。とは言っても上の子は三歳でよく動き回るので、自宅にいても忙しかった。その頃だ。私には七つ下の妹がいる。妹のナナも、夫と同じ病院で看護師として働き始めていた。
「ただいま。響き、パパが帰ってきたぞ」
「パパ!」
「姉さん、お邪魔します」
「え、ナナも一緒だったの?」
「うん。夜勤明けでご飯を作る気力もないって言ったら、パパがうちでご飯食べていけばって」
「それなら先に電話してよ。こっちには用があるんだから」
「悪い悪い。病院の外で会ってから話しながら帰ってきたから、連絡しそびれた」
とりあえず手を洗って、リビングで休んでて。今ちょうど揚げ物してたから。
「え、何作ってんの?」
「コロッケよ。響きが好きだから」
「わーい、コロッケ!」
「よし、響き。危ないからパパと一緒に向こうに行こうな。ナナちゃんも」
「はーい」
妹はこんな感じでいきなりうちに来ることが多かった。最初は何とも思わなかった。疲れているだろうし、別にご飯ぐらいなら用意できる。そう思っていたのだが、だんだん妹の来る日の我が家の空気が変わっていった。
ある日、妹がこんなことを言い出した。
「姉さん、いいな。優しい旦那さんと可愛い子供がそう」
「あなたにもそのうちできるわよ」
「どうかな?こんなに子供を可愛がってくれる旦那さんって、なかなかいないと思うけど」
「まあ、うちの夫の場合、仕事で会えないこともあるから、顔を合わせた時にその反応が出るんでしょ。逆に任されるこっちは大変よ。あの人、可愛がるばかりで全然叱らないんだから」
「おいおい、それって俺が父親としてダメみたいじゃないか」
「そうじゃないけど、子供を怒るのは私の役目ってこと。逆にあなたは甘やかしてばかりなんだもん」
「仕方ないだろう。可愛いんだから」
そんな私たちの会話を聞いていたナナが、ぽつりと口にした。
「私もこんな旦那さんと可愛い子供が欲しいな」
「え?うん。何でもない」
それより、と話をそらすように妹は夫に仕事の話を持ちかけた。
「先生、三〇四号室の中井さんなんですけど、今日は大変だったんですよ。家に帰りたい帰りたいって、ずっと私に言ってきて」
「ああ、中井さんね。あの人、病院嫌いだからな。この前も勝手に抜け出そうとしてて。看護師のナナちゃんには負担かけちゃうけど、退院までよろしく頼むよ」
「先生にそう言われたら仕方ないですね」
妹は家でも仕事の話をするようになっていた。仕事の話には私は入っていけない。だから放っておいたのだが、次第に家でも二人だけで話し込むようになっていた。
そしてある日、夫がいつも通り帰ってきた時に、事件が起きた。
「パパ、お帰り」
「響き、ただいま」
抱きかかえられた娘が、不意にこんなことを言った。
「パパ、匂いがいつもと違う」
「え?」
「甘い匂いがする。お花」
「え、そんな匂いするか?」
「どれどれ」
私も匂いをかごうとすると、夫に止められた。
「ちょ、ちょっと待てよ。人の匂い嗅ぐなって。多分、患者さんの何かがついたんだろう」
「つくって、早々つかないでしょ。今までだってそんなことなかったんだし」
「あ、あれかな。帰ってくる時に人とぶつかったから。とりあえずシャワー浴びてくる」
夫はそう言ってバスルームに向かった。私はそんなに鋭い人間ではないのだが、それにしても怪しい。怪しすぎる。私は夫がシャワーを浴びている隙に、さっきまで着ていたシャツを手に取って匂いを嗅いだ。確かに、何か甘い匂いがする。でも、知らない匂いじゃない。何だっけ?そう思いながらリビングに戻ると、娘がこんなことを言い出した。
「お花の匂いって、ナナちゃんもするよね」
そうだ。確か妹も、シャンプーなのか洗剤なのか、こんな感じの匂いをさせている。え、同じ?でも二人とも同じ病院に勤めてるし、匂いが移ったりとか?いや、でもそんなんで匂いなんかつかないか。あれこれ考えているうちに、夫がシャワーから戻ってきた。すると、無邪気な娘がこう言い放った。
「パパ、ナナちゃんと同じ匂いなんだね」
その途端、夫は分かりやすく青ざめた。
「ま、何言ってんだ?響き、何か間違っているぞ」
「ええ、響き、お花いいんだよ。この前お友達のひまりちゃんがシャンプー変えた時も当てたもん」
「いや、違うぞ。ほら、今はどうだ?匂うか?」
「今は匂わないけど、さっきはナナちゃんと同じ匂いだったもん。ナナちゃん、この前教えてくれたもん。いい匂いのシャンプー使ってるって。パパも使ったの?」
子供は無邪気だ。しかしその答えは、時として大人には残酷な答えになることもある。
「そ、そんなことあるわけないだろ。とりあえず腹減ったな。ご飯にしようかな」
夫のこの慌てよう。さっきまでちょっとした疑惑だったのに、自白したも当然だ。でも証拠があるわけじゃないし、子供の前でする話じゃない。私は平常を装って、いつも通りご飯の準備をした。
それから数日、夫が帰ってこない日が続いた。夜勤という連絡は来ていたが、本当なのかどうか。夫の夜勤が続いていたある日、私は妊婦検診もあったので、日中娘を実家に預けて病院に行った。病院とは、私のかつての職場。すなわち夫と妹の職場だ。検診のついでに夫に着替えを届けようと、袋を持って内科に向かっていた。すると、内科の手前で二人の看護師がこんなことを話しているのが聞こえた。
「ねえ、福山先生知らない?」
「え?夫のこと?」
私は夫のことを話しているのが気になって、つい耳をそばだててしまった。
「え、さっき里中さんと一緒にどこかに行ったわよ」
里中とは妹のことだ。
「また?最近あの二人、いつの間にかどっかに行っちゃうわよね」
「もうできてるでしょ」
「え、でも確か福山先生って奥さんいるじゃない?うちで医療事務してた人」
「いるけど、確か今三ヶ月でしょ。男ってこういう時浮気しがちよね」
「確かに。じゃあやっぱりあの二人も?」
「ああ、病院内でやめて欲しいよね。業務時間内にイチャイチャされたら、こっちが迷惑だっていうのに」
「そういえば、奥さんも里中さんの姉だったのよね。もしかして」
「うわあ、本当にそうならやだ」
看護師二人はそんなことを話しながら去っていった。夫と妹は、院内で噂になるぐらいの関係ってこと?そう思いながら歩いていると、夫と妹が一緒に歩いてきたところにばったり出くわした。夫はあからさまに動揺した。
「え?あ、お前、なんで?」
「なんでって、検診のついでに着替えを持ってきたの。それより、あなたに聞きたいことがあるんだけど、今時間いい?」
「え?ああ、ちょっと今は急いでて」
その反応の悪さに違和感を覚えた私は、声をかけた。
「口に口紅ついてるわよ」
「え?嘘。ちゃんとチェックしたのに」
夫はうっかりそれを口にした。
「なんで口紅があなたの口についているのかしらね。誰のがついたのかしらね」
私がそう言いながら妹を見ると、妹は強気ににっこりと笑ってきた。
「やっぱりバレちゃったか。姉さん、おっちょこちょいだから、いつかバレちゃうかなとは思ってたんだけど」
「あなた、姉の夫とこんなことになっていいと思ってんの?」
「だって好きになっちゃったもんは仕方ないでしょ。東さんもそうよね。私の方が姉さんよりいいのよね」
「はあ?あなた、そんなこと言ったの?」
「あ、えっと、姉さん、そんなの当たり前でしょ?だって私の方が若いし、しかも東さんをサポートできる看護師なのよ。仕事でもプライベートでもサポートは万全。東郷さんいつも言ってくれるの。『ナナが良かったよ、助かったよ』って。それって姉さんより私の方が東郷さんの役に立っているってことでしょ」
「はあ、それにもう言ってもいいわね。私、お腹に東郷さんの子供がいるの。え、だから東郷さんに離婚してって話をしてたのよ。東郷さんも、私の方がいいでしょ。だって、ただの医療事務だった姉さんより、看護師の方が役に立つしね。だから姉さん、東さんと離婚して」
「あなた、あなたはそうしたいの?」
私は夫を見た。
「えっと、その、生まれてくる子は大事にしたいとは思ってるんだよ」
「言っておくけど、あなたの子はここにもいるのよ。あと一ヶ月で生まれてくるのに。だってあなたのことが大好きなのに」
私は自分の大きくなったお腹を触りながら伝えた。
「えっと……」
決めきれない夫を見て、妹がわざとらしく寄りかかってきた。
「東さん、私ちょっとクラクラしてきちゃった。まだ妊娠初期だから体調が落ち着かないの。今私、別れを告げられたら、きっとお腹の子に影響するわ」
「ま、ごめん。今はナナちゃんを一人にはできない」
そう言われた瞬間、頭の上から冷や水をかけられたように、一気に血の気が引いていくのが感じられた。小さい子がいる身の私より、妹を取るってこと。それなら答えは一つね。
「もういい。私、実家に帰る。え?離婚することになったら、子供の親権は私だから」
私はそう言い捨てて、その場を離れるのがやっとだった。私は荷物をまとめて、実家に娘と共に身を寄せた。両親が激怒してくれたのは幸いだ。妹とは絶縁するとのことだ。それから私は慰謝料と養育費をもらって離婚した。子供は無事に生まれた。さすがに元の職場で産む気にはならなかったので、退院したのだけど。
さて、こうしてはいられない。私も働きに出なくては。働くなら、手っ取り早いのはやはり経験のある医療事務だ。でも元の職場には戻れない。略奪カップルが働いている病院なんて。悩んでいたら、元夫と妹が病院を辞めたと、かつての同僚が教えてくれた。あいつらがいなくなったとしても、元の病院では落ち着かないかなとも思ったが、背に腹は変えられない。私は腹をくくって復職したのだった。
事情を知っている病院関係者は、私を哀れむような目で見てきたが、だからと言って仕事をやめるわけにはいかなかった。今の私には子供たちしかいない。その子たちを育てていくためには、私がしっかりと働かなくてはならない。
それから七年が経った。この日は小学校の授業参観日。長女は小学四年生、次女は一年生になっていた。次女は初めての授業参観ということもあり、絶対に来て欲しいと前日から言っていた。だからなんとか仕事を抜け出してやってきたのだ。そこであいつと再開するなんて、予想外だった。
「え、もしかして姉さん?」
「え?」
聞き覚えのある声が聞こえたので振り返ると、次女と同じ年ぐらいの男の子を連れた妹が立っていた。
「ナナ」
「そうよ。同じ小学校だったの?生徒数が多いから入学式で気づかなかったわ。それにしても何よ、その格好。事務服ってことは、今日もあの病院で医療事務してたの?シングルは大変ね。休む暇もなくて」
「はあ」
「私なんて、今や医者の妻だから仕事もやめちゃった。やっぱり医者の妻っていいわよね。この服だって、可愛い息子の初めての授業参観のために新調したんだから」
「ああ、そう」
「あ、そっちは服なんて早々買えないか。もしかしてだから事務服で来たの?私、言ったらそんなことにも気づかずに自慢しちゃってごめんね。子供も二人いるんだから、自分のことなんかにお金をかけられないわよね」
妹はにやりと嫌な笑みを浮かべながら、高笑いし出した。何なのこいつ?久々に会って、少しは反省しているかと思えば、ただのマウントごっこか。でも妹はやっぱりおバカさんだ。高笑いもここまでだ。ここで会ったが百年目。さて、どこから切り出そう。そう思っていると、手を引いていた素直な長女が、こんなことを言い出した。
「もしかして、ナナちゃん?」
「あんたは響き?大きくなったのね。今まで苦労したでしょう。シングルだと、ちゃんと食べさせてもらってないんじゃないの?育ちざかりだっていうのに、かわいそうにね。どうせ遊びにだって連れて行ってもらってないんでしょ?」
「そんなことないよ。この前だって、ディズニーランドに行ってきたもんね」
「鈴か。うん。また行きたい。ディズニー」
「どうせ、なんかのイベントでチケットが当たったとかでしょ。シングルって、そういうことでもなきゃ、ディズニーとか遊園地に行けないものね」
「え、そんなことないよ。ママは動物園とか水族館にも連れてってくれるし、今度の夏休みは旅行にも行くもんね」
「はあ?旅行?な、な、なんで、高が事務のシングルが家族で旅行なんかに行けるのよ。どうせ近場の日帰り旅行でしょ」
「え、ママは事務員じゃないよ」
「はあ?いや、だって、その格好、明らかに事務っぽい格好じゃない」
「え?事務じゃなかったら、その制服は何なのよ」
妹は娘たちの言葉を聞いて、あからさまに動揺した。だから教えてあげた。
「実はね、私、これでも社長なのよ」
「はあ?」
妹は校内だというのに、大声で叫んだ。妹の叫び声に、ちらほらと保護者が私たちの周りに集まってきた。
「し、社長?え?と、どういうこと?ど、だって?あんた、数年前はただの事務だったでしょ。こんなところで嘘は良くないわ。子供が見ているわよ」
「別に信じてもらわなくたっていいけどね」
「はあ、じゃあ何の会社よ」
「病院やクリニック向けに業務効率化や人材育成を支援するコンサル会社よ」
「は、こ、コンサル?な、なんでそんな会社の社長に、ただの事務員だったのに」
「七年前はね、私もあれから色々と苦労したのよ。シングルになったから、仕事だけはしっかりしようと思って頑張ったわ。その結果、医療事務主任になって、事務長に昇格したの。するとね、色々なことが見えてきたのよ。病院は、医師や看護師がどれだけ頑張っても、成り立たない場合があるの。これは経営方法に問題があるから、医師の腕が良くてもそれをうまく生かせなかったり、効率が悪ければ病院は赤字になったり、その結果医師も雇えず、現場は常に人手不足になるの。私はそういった問題を解決し、どの病院で働く人も快適に過ごせるように手助けするのよ」
「何よ?偉そうなこと言って。適当にアドバイスするだけでしょ。ただの事務のくせに」
「あなたこそ、何?ただの医者の妻でしょ」
「だから何よ?事務より、医者の妻の方が偉いのよ」
「相変わらずね。あんただって、どうせ小さい会社のコンサル崩れでしょ」
「まあ、確かに少数精鋭だけど、おかげ様で大きな病院から依頼が来ることも多いのよ」
「じゃあ、なんでそんな事務服なのよ」
「ああ、今日はね、ちょっとした講演のよ。医療事務の方たち向けの講習を。だから同じ目線から話をしようと思って、事務の人たちと同じような格好で話をしてきたわけ。報酬自体は成功したんだけど、おかげで遅れそうになって、着替える時間がなかったわ」
「はあ、じゃあ本当に社長なの?」
「ママね、この前、雑誌の取材も受けたんだって」
驚く妹に、長女はさらに追い打ちをかけた。
「し、取材?」
「ああ、医療雑誌のやつね。まだ発売してないとは思うけど、そのうち出るわよ」
「う、嘘でしょ?」
妹はまたもや叫び声をあげた。ここが学校だって自覚があるのかしら。
「あ、なんてことなの?東さんに捨てられて惨めな生活をしていると思ったら、社長になっていただなんて」
悔しそうに顔を歪める妹に、私は意外なことを教えてあげることにした。
「そうそう。今、いくつかコンサルを任されている病院があるんだけどね。その一つに、田中病院があるのよね」
「え、田中病院?それって、東さんの働いている?」
「そう。院長が経営をもっと効率よくしたいってことで相談を受けて、色々調べているんだけど、問題のある医師がいるみたいなのよね」
「そ、それって、も、もしかして」
「これ以上は信用問題に関わるから教えられないけど、あなたなら何か知ってるんじゃないの、ナナ」
「なんですって」
妹がさらにヒートアップしそうになった時だ。
「どうかされましたか?」
先生方が二人、騒ぎを聞きつけてやってきた。
「すみません、お騒がせして」
私がそう言うと、先生の一人が長女の担任で、こう声をかけてきた。
「響きさんのお母さんでしたか。何か問題でも?」
「すみません。久々に知り合いに会ったものですから、話し込んでしまって」
「そうでしたか。一応ここは校舎内ですので、あまり騒ぎを大きくしないようにお願いします」
「今、もう話は終わりましたから」
「それならいいのですが。それと、別のお話なんですが、今年の音楽発表会も、うちのクラスは響きさんに伴奏をしてもらうことになりましたので、よろしくお願いします」
「分かりました。響き、頑張ろうね」
「はい」
それを聞いていた妹が、こんなことを言ってきた。
「え、響き、ピアノが弾けるの?」
「ええ、幼い頃から習っていて、発表会にも何度か出て、優勝したこともあるのよ。ええ、音楽会の伴奏も去年からさせてもらってるの。本来なら高学年になってかららしいんだけど、先生方が是非って言ってくださるし、本人の自信にもつながるから」
「なんですって?うちの子はもうピアノを挫折したのに」
「そうなんだ。まあ、子供には向き不向き、そして個々人の差があるのよ。響きはピアニストになりたいんだものね」
「うん」
「あ、行かないと。話し込んでたらもうこんな時間ね。実は今日もこれからピアノのレッスンなの。じゃあね、ナナ」
私はそう言い残し、娘たちを連れ、胸を張って校舎を出た。ちょっと妹に自慢しすぎたかしら。子供の自慢までしてしまうとは、私としたことが。まあ、このぐらいいいでしょ。反省しない妹に比べたら、なんでもないわよね。
それから数日後、私のスマホに珍しい相手から着信が来た。
「もしもし」
「姉さん、何てことをしてくれたのよ」
連絡が来るかもしれないとは思っていたが、私はわざとすっとぼけてみた。
「何のこと?」
「姉さんのせいで、東さん、バイトの病院をやめることになったのよ」
「なんで私のせいなの?」
「だって姉さんが院長に報告したんでしょ?」
「ええ。だって仕事だもの。そもそも間違っているのはあなたの夫よ。田中病院は医師の副業を禁止しているわ。それなのに、あなたの夫は通常勤務の後に他の病院の非常勤をしているでしょ。休む暇もないほど働いて、その結果、診断ミスが多くなって、病院にいくつもクレームが入っているわ。経営コンサルとしては、こんな非効率な事態は改善すべきだもの」
「なんてことすんのよ。これで東さんの稼ぎが減っちゃうじゃない。色々買いたいものや、息子に習わせたいことだってあるのに」
「それじゃあ、あなたが働けばいいんじゃないの?旦那ばかり当てにせずに」
「私は家事と育児で忙しいの。だから東さんに稼いでもらおうと、バイトだって探してあげたのに」
「つまり、あなたが旦那を言いくるめて、働きすぎに追い詰めたってわけね」
「働きすぎって。あの人は自分から働いてくれてたのよ。別に私がしろって言ったわけじゃないわ」
「へえ。それにしては、久々に見たあの人は変わり果てた姿をしていたけどね」
「え、会ったの?」
「一応コンサルとしてね。院長立ち合いのもと、話を聞いたのよ。そうしたら、私の顔を見るなり、あの人、涙を流してたわ。ガリガリに痩せて、顔色も悪いし、医者じゃなくても疲れきっているのが分かったわ。患者目線からしたら、あんなに不健康そうな医師に診断してもらうのは心配だし、他の病院スタッフもかなり心配していたみたいよ。それで直接会って、バイトの話やクレームの話をしたら、あの人、喜んでバイトをやめるって言ったわ」
「よ、喜んで?」
「ええ、もう限界だったみたい。院長が話すと、涙を流しながら謝ってきたもの。その様子を見て、精神的にも参っているのが分かったから、院長も有給を取らせたのよ。だから、あの人、今日休んでいるのね。自分の部屋に鍵をかけて、一歩も出てこないし。ど、どうしてくれんのよ。もう仕事に行きたくないって言うし。あんたが余計なことしなきゃ、こんなことにはならなかったのに」
「何言ってんの?旦那のことをちゃんと見ずに無理させてたのは、自分でしょ。それを人のせいにしないで」
「こ、これから一体、どうしたらいいのよ」
「そんなの、自分でなんとかしなさい」
私はそう一括して、電話を切った。
それから、元夫は有給が明けたものの、病院に出勤しなくなったとのこと。最後に会った時の様子を考えると、かなりメンタルがやられていたのだろう。そのため妹は何度も私に電話をかけてきた。
「姉さん、なんとかしてよ。東さんが部屋から出てこないの。働いてもらわないと、私たち生活できない」
「あのね、旦那を働かせる前に、まずは旦那を病院で見てもらいなさいよ」
「何言ってんの?あの人は医者だし、私だって看護師なんだから、自分の体の異常ぐらい分かるわ。あの人は病気なんかじゃない。あなたたちにバイトをやめるように言われて、おまけに有給なんてもらったから、腑抜けがついただけよ」
「あんた、現場を離れたからって、自分の旦那の異常さえも分からなくなったの?医者でも看護師でもない私でも分かったわよ。あの人は今、メンタルが普通じゃないはずよ」
「メンタル?」
「身体的にも疲労が溜まって見えたし、元々優しい人だったけど、急に泣き出すとか、どう考えてもおかしいでしょ。ええ、当分仕事は無理かもしれないわよ。それを含めて、あなたがちゃんとこれからのことを考えなさい。まずは旦那を病院に連れて行くこと。分かったわね」
「そ、そんな、働けないって。そうしたら私たち、どうやって生活をしたらいいのよ。姉さん、助けてよ。家族でしょ」
「無理言わないで。私の家族を奪ったのはあなたでしょ?あなたとは、その時に縁が切れているのよ」
「え、で、でも、父さんも母さんももう私のことを助けてくれないし、義実家にもあまりよく思われてないの」
「それは自分たちが招いた結果でしょう。私には関係ないわ」
「小さい子がいるのよ」
「私だって、離婚した時に三歳の子と、まだ生まれてもいない子がいたわ。それでもなんとかやってきたの。あなたも自分の家族は自分で守りなさい。これ以上、もう電話してこないで。こっちはもう、あなたの家族でも何でもないんだからね。じゃあ」
私はそう言って電話を切った。それからも電話がかかってきたが、着信拒否した。
それから数ヶ月後の音楽発表会。今日は長女がクラスの発表で伴奏をする。長女は毎日練習して、ピアノ教室でも先生にお願いして練習させてもらっていた。その頑張りを見届けるために、仕事を休んでやってきた。とうとう長女のクラスの番だ。ああ、こちらまで緊張しているのが分かる。ピアノの発表会は何度も参加しているが、学校の発表会はまた違う緊張感がある。式やクラスのみんなの歌声に合わせて伴奏しないといけないからだ。私まで手に汗をかいてきた。いよいよ発表がスタート。一度演奏を始めると、響きは緊張した面持ちをしながらも、指揮をしっかりと見て、演奏を無事に終えた。私は力いっぱい拍手を送った。長女はさっと辺りを見回して私に気づいたようで、にこっと微笑んだ。
そして下校の時間。子供たちを迎えに行って、玄関から帰ろうとしていた時、またもやあいつと再開した。
「ねえ、姉さん」
声をかけられ振り向くと、そこには事務らしい服装をした妹の姿があった。数ヶ月前とは違い、髪も艶がなく、以前はばっちりメイクだったが、今はファンデーションだけとりあえず塗ったような感じ。
「久々ね。あなた、その格好。今、家の近くの工場で事務をしているの?せっかく看護師免許があるんだから、病院で働けばいいのに」
「だ、だって、近場の病院には行けない。最初は近くのクリニックで働こうとしたのに、噂になっていたんだもの」
「噂?」
「姉さんが私のせいで、鬼嫁に無理やり働かされて、医者なのにメンタルが壊れたって。だから、私もう近場の医療現場で働けない。変な目で見られるから、仕方なく工場の仕事をしているのよ」
「あら、そうでもいい仕事があって、良かったじゃない?」
「良くない。給料だって少ないし、制服だって地味だし。まだ看護師の方がマシだった。それにね、うちの娘も大変なんだから」
「あら、何でもかんでも自慢するあなたが、娘さんのことで泣き言なんてね」
「小学校でね、お友達の文房具とか、すぐ持ってきちゃうんだから。もう何度謝ったことやら。ピアノのうまい響きが羨ましい」
「はあ。人のものは取っちゃダメって、ちゃんと教えるしかないわね。教えられればだけど」
「へえ」
妹は涙を浮かべ始めたが、そんなの私の知ったこっちゃない。
「それじゃあ、失礼するわね。子供にはちゃんと愛情を注ぎなさい。行きましょう、響き、鈴か」
「はい」
「じゃあね、ナナちゃん、バイバイ」
そう言って私たちは校舎を後にした。
それから数年後、私の会社は順調に成長中。今では全国から依頼が来るほどになった。おかげで忙しいが、それでも家族でのイベントは大切にしている。
「ママ、早く早く」
「鈴か、ちょっと待って。そんなに急いだら転ぶわよ。時間まで余裕あるから、落ち着いて」
「だって、今日はお姉ちゃんの大事なコンクールでしょ」
「そうよ。ここで優勝したら、今度は全国のコンクールだからね。私の方が緊張してきた」
「きっと響きも緊張しているのよ。だから先に会場に行って、落ち着こうとしているんでしょ」
「え、どうしよう。部屋に応援に行ったら迷惑かな?」
「うん。多分響きも、鈴かからの応援の言葉を待っていると思うわ。だからまずは落ち着いて向かいましょうね。こっちが緊張してたら、それが響きに移っちゃうわ」
「そうだね」
こうして私と娘は、ピアノ発表会の会場に向かった。今日はコンクールの日で、長女が参加することになっているのだ。会場の控え室に到着すると、緊張した面持ちの長女が、ピアノ教室の先生と一緒にいた。
「お姉ちゃん」
「あ、ママ。鈴か」
「お姉ちゃん、頑張ってね」
「ありがとう。頑張るね」
「響き、いつも通り、楽しく弾いておいで」
「そうだね。楽しく弾くのが一番だよね」
「そうよ。せっかくこんな素敵なステージに上がれるんだから、その場を楽しまなきゃ」
「分かった。二人とも、ちゃんと聞いててね」
「うん」
こうして長女はステージに向かっていった。最初は緊張していたものの、演奏が始まると長女はリラックスした様子で、あっという間に一曲を弾き終えた。結果は見事優勝。全国への切符を手に入れた。
「おめでとう、お姉ちゃん」
「お姉ちゃんすごい!」
「二人が応援してくれたからだよ。ありがとう。でも、まだまだこれからだから、さらに頑張るね」
「うん。応援しているよ」
娘は夢に向かって頑張っている。だから私も、娘たちに自信を持って誇れるように、これからも仕事を頑張っていこう。
