陣痛がきた。私は初めての出産で不安だったけれど、実家が遠くて里帰り出産はできなかった。でも義実家は歩いて十分ほどの距離で、義両親との関係も良好だったから、何かあったら頼ろうと思っていた。
予定日は昨日だった。もういつ生まれてもおかしくないという状況で夫が出勤してしばらくすると、陣痛らしきものがきた。
「今職場に着いたとこ。どうせすぐ生まれるわけじゃないだろう。また状況変わったら連絡して」
私は不安で仕方ないのに、夫はどうもそっけない。今思えば、この頃からすでに夫の様子はおかしかったのだ。
私の名前はエリ。妊娠が分かってから仕事をやめ、今は専業主婦の三十二歳。夫のヒロシは二歳年上の大学の先輩だ。三年前のサークルの集まりで再会し、お互い適齢期だったこともあってすぐに結婚した。私はギリギリ二十代で結婚できたことに満足していた。
夫の仕事は忙しく、妊娠中も帰りが遅かったり休日出勤をしたりして、私の不安は募っていく。でもお母さんが時々様子を見に来てくれて、つわりがきつい時も随分助けてもらった。孫の誕生を楽しみにしてくれているから、お母さんのためにも元気な子を生みたいと思っていた。
病院にはお父さんが送迎してくれることもあった。私はいい義両親に恵まれたと思う。
そして予定日だった昨日、今までと全く変わらない様子に不安になった。
「予定日なのに、まだ出てこないのかな」
出産前の夫に声をかけると、慌ただしく支度をしている夫は不機嫌になる。
「連絡もないんだから、まだなんだろう。考えたって仕方ないよ。そのうち出てくるんだから」
そっけなくそう言うと、そのまま仕事に出てしまった。別に夫に何かしてほしいわけじゃない。ただ、この不安な気持ちに寄り添ってほしいだけだ。
妊娠中もそのことで何度か喧嘩をした。夫はいつも「考えたってしょうがない」「なんとかなる」「悩んで何か意味がある? 」と言うだけだった。そうなのかもしれないけど、出産は命がけだ。つわりがひどい時も、お腹が張って痛い時も、夫はそっけなかった。
妊娠が分かった時はあんなに喜んでくれたのに、どうしたんだろう。「俺がパパになるのか」そう言って一緒にベビー用品を揃えに行った時も、夫は嬉しそうだった。それが次第に態度が変わっていき、安定期を迎える頃には随分冷たい態度になっていった。仕事がちょうど忙しい時期だったから仕方ないのかもしれない。だけど、もう少し話を聞いてほしい。気にかけてほしい。そんな不満を抱えながら、今日まで来てしまった。
予定日を過ぎた今日も、夫は普通の顔をして出勤していく。不満はあったものの、今はお腹の子の方が大事。私もなんとか普通の顔をして夫を見送った。
そして一時間が経った頃、陣痛らしきものがきたのだ。病院に電話してみたけど、まだ陣痛の間隔が長いから様子を見るようにと言われる。入院用の荷物を用意して横になりながら、その時を待った。
お昼過ぎ、いよいよ陣痛の間隔も短くなり、タクシーを呼んで病院に行く。夫に電話をしたけど出なかったからメールを送り、そのまま入院した。義両親も仕事で頼れなかった。
そこからはひたすら苦しかった記憶しかない。とにかく痛くて、頼れる人もいなくて、不安で、痛みで気が遠くなりそうなのを何度も耐えていた。
夫が病院に到着したのは夜。しかも、なんだか少しお酒臭い。
「まさか飲んでたの? よりによって今日。陣痛がきたって伝えたのに」
「急な飲み会でさ。でもビール一杯しか飲んでないから」
私の言いたいことに気づいたらしい夫は、一杯しか飲んでいない自分は偉いと言わんばかりに得意げに報告してきた。それに私はぶち切れる。
「はあ? 一杯でも飲酒は飲酒。お酒臭いんだよ。そんなんで病室に入ってくるな。出てけ」
お腹の痛みとお酒の臭さで、もはや自分が何を言っているかは分からなかった。その時、様子を見に来てくれた看護師さんに夫は追い出され、私は再び一人になる。
それから眠れない夜を過ごして、気がつけば朝だった。
「そろそろ生まれそうですよ」
分娩室に移動してしばらくすると、ようやく酔いを覚ましたらしい夫が中に入ってくる。今さら何の用だ。そう言いたかったけど、口を開く余裕なんてなかった。
そしてなんとか息子が無事に生まれてきた。私は痛みで気が遠くなりながらも、元気に泣く息子を見て涙が溢れた。看護師さんが息子を夫に渡すと、夫は怖がりながらも抱っこした。それを見ながら、この人もパパになるんだなとぼんやり思っていたら、夫がとんでもないことを言う。
「全然似てないな。誰の子?

」
そう言って看護師さんに息子を突き返した。
私はわけが分からなくなり、夫を睨みつけた。
「出てけ」
痛みで喋りたくもない私は簡潔に夫に伝えると、夫はそのまま無言で病室を出ていく。どういうつもり? そんなことある? 夫がどうにかなってしまったのかと心配する余裕は一切なく、私はただただ怒りが湧いてくる。
息子は新生児室へ。私は病室に連れて行かれたが、休めと言われても怒りでそれどころではない。それでも疲れ果てていた私は、気がつけば眠ってしまっていた。
息子のお世話で毎日忙しく、五日ほどの入院生活はあっという間に過ぎる。夫は息子の顔を見に来たり、私の元に寄ったりしていたけど、母子別室だったのもあって、私と顔を合わせたのはほんの数分だ。
退院はお母さんが付き添ってくれたけど、夫は仕事に行ったらしい。お母さんは夫から何も聞いていないのか、息子のことを「可愛い可愛い」と言ってあやしてくれている。仕事を早く上がったというお父さんも家に来て、お母さんと一緒に息子を見ていてくれたから、私は少し休むことができた。義両親には本当に感謝だ。
夕方、お母さんが夕飯の用意をしてくれていると、夫が帰ってくる。
「お帰り」
そう声をかけたけど、夫はそっけない。そしてリビングに入ってくるなり、鞄の中から封筒を取り出した。息子を抱っこするわけでもなく、ニヤニヤしながら私を呼びつける。
「エリ、話がある」
その態度に私は苛立ちを覚えたけど、その後とんでもないことになった。夫は封筒から書類を取り出し、私に突きつける。
「鑑定した。俺の子じゃないから離婚だ。お前の不倫が証明されるぜ」
私は思わずおかしな声を出してしまった。料理を作っているお母さんの手も止まり、息子を抱っこしているお父さんも固まって夫を見る。三人がポカンとしているにも関わらず、夫は勝ち誇ったような顔をしている。
「生まれた時に俺に全然似てないと思ったんだよね。だからこっそりDNA鑑定したわ」
私はため息をつきながら、次の言葉を促した。
「だから、これ見ろよ」
そう言って出してきた書類には、難しい言葉と数字が羅列している。だけど、私は目に入った一文を読み上げた。
「生物学上の父とすることから排除されません」
夫はフンと鼻を鳴らす。
「排除ってことは、俺が父親じゃないんだろう」
「え? 独自解釈能力ゼロ?
排除されないんだから、父親ってことでしょう」
私は冷静に切り返す。すると夫は慌て出した。
「え、嘘だろ? 」
私は出産の時のことを思い出して、また怒りが湧いてきた。
「あの時あんなこと言ったのは、私の浮気を疑っていたっていうの? 」
夫が生まれたばかりの息子を見た時、「誰の子? 」なんて言ったことを、私ははっきり覚えている。それを義両親がいる前で言ってやった。すると義両親は激怒した。
「ヒロシ、あなた何てことを。大変な思いをしていたエリさんに、どういうつもりだ?
」
夫は義両親に怒られると、言い訳を始める。
「だってエリの職場は男多いし、よく飲み会にも行ってただろう。帰りが遅い日だってあったし、そりゃ不安になるだろう」
私をチラチラ見ながら言う夫に、私はイライラし始める。
「あのね、飲み会の日は全部報告してたし、帰りが遅くなる日は迎えに来てもらったりしたでしょ。それなのに疑ってたの? 」
それでも夫は自分が正しいと言わんばかりに笑った。
「いや、ほら、インターネットとかでさ、よく浮気相手の子を育てさせられた話とか見るじゃん。それを同僚と話してたら、DNA鑑定した方がいいって言われてさ」
ああ、そうですか。この人には何を言っても無駄かもしれない。
「インターネットと他人の話を鵜呑みにしたの? 私のことより、名前も顔も知らない赤の他人のことを信用してたってこと? 」
私は怒りが収まらなかった。
「あれだけつわりに苦しんでも、出産が大変でも、ヒロシの子を元気に生みたかったから頑張ったんじゃん。なのにあんたはそんなこと考えてたの?
」
お母さんは泣き崩れ、お父さんは怒っている。私が怒って夫の手から書類を叩き落とすと、夫が慌ててそれを集めようとして鞄を落とし、思いもよらないものが出てきた。
そこで私は目を疑った。
「何これ? 」
夫の鞄の中には、離婚届が入っていた。
「離婚するつもり? 」
するとさっきまでの勢いはどこへやら、夫はしどろもどろになった。
「違うんだ。これは……」
その態度に、私は許せる心は少しもなくなっていく。
「ご丁寧に離婚届まで用意して、離婚する気がないなんて言わないよね」
私はその離婚届をひったくって、ボールペンを握りしめた。夫は止めに来たけど、その瞬間、夫のスマホが鳴った。メールの着信音だ。ボールペンを握った私の手が止まる。
私は何か嫌な予感がした。夫の態度、夫の言動。おかしくなり始めたのはいつの頃だっけ? 春を過ぎて夏が来た頃には、もうおかしかった。なんだろう、この胸騒ぎは。
私は衝動的に夫のスマホを奪った。慌てて取り返そうとする夫を制して、私はその画面を開く。そこには信じられないものが表示されていた。私はそれを読み上げる。
「『そろそろ離婚届書いた?
どうせあなたの子供じゃなかったでしょ。奥さんに慰謝料請求して、パーっと旅行でも行こうよ』って、何これ? 」
私の嫌な予感が当たってしまった。
「おかしいと思ったのよ。いきなり浮気の疑いをかけてきて、どこからその発想が出てきたのかと思った。それって自分が浮気してたから。そうだよね? だから私も浮気していると思ったんだよね」
夫の顔色はみるみる青ざめる。
「この子誰? もしかして新入社員の子とかじゃないの?
どうせこの春に新人の担当にでもなって、その子といい仲になったんでしょ。そう考えれば、ヒロシの態度がおかしくなったのもよく分かる。その子と浮気してたから夜も遅かったし、休日出勤とか言って、どうせデートでもしてたんでしょ」
私は思っていたことを淡々と話した。夫が何も言い返してこないのを見ると、当たらずとも遠からずと言ったところだろう。
お父さんはそれを聞いて、再び激怒した。
「お前、本当なのか? 」
視線をそらした夫の横顔に、お父さんの拳がヒットする。お父さんは私に土下座をしてきた。
「エリさん、このバカ息子が本当に申し訳ない」
夫もお父さんに一緒に土下座させられ、問い詰められる。
「お前が謝るべきだろう。本当のことを全部話せ」
夫の浮気相手は私の予想に近かった。別の支店から移動してきた年下の女で、夫が教育担当をしていて浮気に発展したらしい。しかも子供はいないが、相手も既婚者だそうだ。
私は呆れて、すぐに離婚届を書いた。それを夫に突き返す。
「早く書いて」
「エリ、ごめん。考え直してくれ」
私は情けない顔で謝る夫を、冷たい目で見ることしかできなかった。
「無理。私が一番辛い時に隣にいてくれないような人、もういらない。顔も見たくない。息子もあなたの子じゃないと思ってたんだから、二度と会わなくていいよ。まあ養育費はもらうけどね」
夫はお父さんに促されて離婚届を書いた。お父さんに立ち会ってもらい、慰謝料と養育費を話し合う。話し合っていると、息子を連れてどこかに行っていたお母さんが戻ってきた。
お母さんは無言で夫に何かを渡す。困惑した顔の夫はそれを手に取り、固まった。そこには今の息子にそっくりな赤ちゃんが映っている。
「こんなに似ていて、あんたの子じゃないわけないでしょう」
お母さんが冷たく言い放った。夫の生まれた頃の写真は、息子と瓜二つだった。それを見た夫は愕然としている。
「でも、俺に全然似てなかったし……」
それでも言い訳を始める夫に、私はついに堪忍袋の緒が切れた。
「生まれたばかりの赤ちゃんが大人のあんたにそっくりだったら怖いでしょ。そんなことも分からなかったの? その写真見たら、確実にあんたの子でしょうが」
「違うんだ。だって周りがそういうから、俺は最初から信じてたんだよ」
「嘘つけ。信じてたら、わざわざDNA鑑定なんてやらないでしょ。そうやって人のせいにして、少しは自分のしたことに責任を持ちなさいよ。あなたは自分の子供を妊娠している妻をないがしろにして、浮気してたの。これは事実なの。しかも浮気相手にその気にさせられて妻を疑い、生まれてきた息子とのDNA鑑定までしたの。この行動の中に一つでも誠意がある?
ないよね。私が苦しい時、あなたは浮気してたの。そんな人を許せるほど、私はできた人間じゃない」
息つく間もなく攻め立てると、夫はひれ伏して謝ってきたけど、私が許すことはもちろん、なかった。
私たちはそのまま離婚した。ヒロシは浮気の話が職場内に広まり、仕事がしづらくなってミスを連発。その結果、異動となった。私は実家に帰ろうかと思ったけど、生後三か月の長距離移動は良くないと、ヒロシがいなくなった義家に同居させてもらっている。息子はすくすく成長中だ。
ヒロシは義両親からもこっぴどく叱られ、貯金を慰謝料に当て、お父さんの監視の下で毎月慰謝料を払っている。もちろん浮気相手にも慰謝料を請求した。おかげでダブル不倫だった浮気相手の旦那さんにもバレて、向こうも離婚。その後は夜のお店で働いているそうだ。
ヒロシはバカな夫だったけど、一緒に息子の成長を見守ってくれる義両親に恵まれて、私はとても満足している。