あの日、バーベキューの会場で、役員の妻が私の胸に熱々の豚汁をぶちかけてきた。「中卒のバカは、豚汁を飲むよりかけられた方がお似合いだわ」夫も一緒になって笑っていた。私は中卒だ。だから何だというのか。必死に働いてきた。実家の工場を守るために。この会社のために。でも彼らは知らない。この数分後、壇上で社長が発表することを。私が新社長になるということを。 続きはコメント欄で。

あの日、バーベキューの会場で、役員の妻が私の胸に熱々の豚汁をぶちかけてきた。「中卒のバカは、豚汁を飲むよりかけられた方がお似合いだわ」夫も一緒になって笑っていた。私は中卒だ。だから何だというのか。必死に働いてきた。実家の工場を守るために。この会社のために。でも彼らは知らない。この数分後、壇上で社長が発表することを。私が新社長になるということを。 続きはコメント欄で。

車内の懇親会、恒例のバーベキュー。笑い声が飛び交うはずのその場で、役員の妻である佐木さんはいつも通り好き勝手に振る舞い、社員たちを困らせていた。余計な口出しで場を混乱させるのは今に始まったことではない。だがこの日は、機嫌でもよかったのか、いつもに増してひどかった。我慢の限界を超えた私は、ついに彼女に注意をした。すると彼女は、中卒の分際で私に指示するなんて言語道断だわ、と私を睨みつけて叫んだ。さらに彼女は、熱々の豚汁をわざと私にぶちかけてきた。バカは豚汁を飲むよりかけられた方がお似合いね。そう言ってせら笑う。

彼女の旦那も注意するどころか、一緒になって私を見下してくる。だが彼女たちは知らない。この後すぐに自分たちが立場を失うことになるとは。

私の名前は宮下新一。とある自動車部品メーカーに勤務している。中肉中背、薄い顔という日本人の典型のような外見で、自分の感情より周りの意見を優先するからか、車内でも目立たない存在だと自負している。だがそんな私でも、勤続年数だけは長く、後輩や同僚には何かと相談を持ちかけられることも多い。

「宮下さん、聞いてくださいよ。また俺の出した企画、ボツにされちゃって」

今日も会社の食堂で昼食を食べていると、たまたま通りかかった別の部署の後輩が、私の顔を見るなりこうして泣きついてきた。私はボツになったという彼の企画書に目を通し、思いついたことを二、三アドバイスする。

「企画自体は面白そうなんだけど、君は少し勢いだけで乗り切ろうとするところがあるからね。次回からはもっと具体的な数字や新しい視点なんかも盛り込んではどうだろう」

すると私の意見を聞いた後輩は、ぱっと顔を明るくして、さすが宮下さんと言いながらこちらを拝む真似までしてきた。

「ありがとうございます。早速練り直してみます。てか宮下さんって、本当技術に対する知識半端ないっすよね。それに優しいし、面倒見もいいし、めっちゃ頼りになるってみんな言ってます」

「こら、そんな褒められても何も出ないよ。それに、こういった業界の技術力は今や日進月歩だからね。私もついていくのに必死だよ」

大げさな持ち上げに苦笑しつつ後輩と別れると、私はまた静かに昼食を食べ、午後の仕事に備える。

私の実家は小さな町工場を営んでいた。だが私が中学生の時、父が大病を患った。母を早くに亡くし、男手一つで父に育てられた私は、少しでも父の助けになればと、中学卒業後すぐに工場で働き出した。父の工場は技術こそ定評があったものの、取引先との縁がなく、経営は苦しかった。だが私や工場で働く若い人間が中心となって積極的に営業をかけたところ、とある自動車部品メーカーがその技術に目をつけてくれ、結果的に工場はその会社の一部門として吸収され、倒産を逃れたのである。やがて私は仕事の飲み込みの速さと正確さ、そして父や工員に叩き込まれた技術に対する知識をその会社の社長に気に入られ、「今の会社で働かないか」と勧誘された。その頃には手術に成功した父もだいぶ回復していて、それを機に私は実家の工場を離れ、本社勤務となり現在へ至っている。

また私が本社に移った頃は会社もさほど大きな規模ではなかったものの、数年後、大手自動車メーカーの下請けとなった時期から急成長を果たした。そして今では特許技術も数多く保有する、その分野では知らない者はいないと言われるほどの会社となった。だが規模が大きくなれば、それだけ車内での圧力も増えてくるというものだ。

昼を過ぎ、皆がそれぞれ業務をこなしているフロアに、取引先から戻ってきたらしい同僚が、息を切らして駆け込んできた。何事かと振り返る周囲に、彼が叫ぶ。

「おい、今から新井の奥さんが来るぞ。下で擦れ違ったから間違いない」

その一言に、みんなはうんざりした様子を隠すこともなくため息をついた。

「またあのまずいお菓子食わされるのか」
「つうかあの人、フロアの効率化とか言ってるけど、提案がことごとくズレてんだよな」
「そもそもあの人、夫が役員ってだけで、この会社の社員でもないのにな」

口々に愚痴を吐く同僚たちに、私も内心同意する。数年前にこの会社の常務に収まった新井は、定年退職した元役人だ。俗に言う天下りである。会社としては彼の持つコネとパイプを期待して役員の席を用意したのだが、本人もそれを十分に察してこちらから足元を見ているのか、日々仕事もせずにただ偉そうにふんぞり返っている種類の人間であった。そして彼が常務に就任してからの一番の迷惑といえば、彼の妻である佐木さんが、ことあるごとに社員へ差し入れと称して手作りの菓子を携え、会社に押しかけてくることだった。しかも彼女は自分自身のセンスや提案力に絶大なる自信を持っているらしく、ことあるごとに「ああしろ、こうしろ」と、よく知りもしないのに車内のシステムに口出ししては、自分の思い通りに運ぼうとする。

その日も同僚が来た数分後、フロアに彼女の甲高い声が響き渡った。

「皆さん、今日も皆さんが大好きな私の手作りお菓子を差し入れに参りましたわ。今日はね、私が最近はまっているカヌレを焼いてまいりましたの」

瞬間、社員たちの心情を反映してフロアの空気が一気に淀んだのだが、それには全く構わず、早速佐木さんは取り巻きの数名と共にフロアを練り歩き、強制的に手作り菓子を社員へ押し付けて回った。

「それにしても、ここ暑くございません?空気も良くないわ。もういくら面倒でも、空気の入れ替えくらいはなさいませんの?」

出来の悪い生徒を前にした教師のような顔で彼女はそう言うと、取り巻きたちが心得た様子で問答無用にフロアの窓を開け放ち始める。すると、あっという間に吹き込んできた風に煽られ、吹き飛ばされそうになる書類を守るため、社員たちが騒ぎ始めた。だが、その混乱の中、佐木さんだけは得意げな顔をして胸を張る。

「働いたら喉が乾いたわ」

そう言って近くの社員に飲み物を出すよう要求する始末。その暴挙に、私が思わず彼女の方を見やれば、タイミングが悪いことに佐木さんの方もこちらを見たところだったらしく、ばっちりと目が合ってしまった。

「あら、中卒の宮下さん。何か私におっしゃりたいことでもおありなの?」

「いえ、そういうわけでは」

佐木さんの問いに私が静かに首を振れば、彼女はふんと鼻を鳴らして口の端を吊り上げる。

「そうよね。私達に、中卒のあなたが文句をつけることなんてあるわけないものね」

嫌みたっぷりにそう言うと、佐木さんはそれきり私には興味をなくしたようにしてそっと歩を向けた。一流大学を出て官僚となった新井は、平たい顔でとにかくプライドが高いのだが、それは妻である佐木さんも同様だった。そして何かの拍子に新井夫妻は私が中卒だと知ったらしく、以降、思い出したようにして私を馬鹿にしてくるのだった。夫の立場を笠に着て、社員でもないのに我が者顔をする妻。そしてそんな妻を止めず仕事もしない、形だけの役員の夫。会社運営においての不健全要素となっているこの負債を、どうにかできないものだろうかと試行錯誤しながら私は日々を過ごしていた。

それからしばらくして、春の恒例行事である車内懇親会が近づいてきた。新年度前に、社員やその家族も参加して会社の敷地内で大規模なバーベキュー大会を行うのだ。またその懇親会では、毎年新年度の目標や体制がみんなの前で発表される手筈となっている。私は懇親会の責任者として、当日もバーベキューの準備に追われていた。するとそこへ、呼ばれもしないのに再び佐木が顔を出し、早速「ああだ、こうだ」と余計な口を出してくる。

「こんな安物のお肉しか用意できなかったの?もう言ってくだされば、特上のものをお持ちできたのに。それにあなた、手が遅いわよ。私に貸しなさい。ほら、もう溢れちゃったじゃないの」

「す、すみません」

「このお洋服、いくらすると思ってらっしゃるの?万が一汚れたらどうしてくれるのよ。もうそれより、あなた私にホットカフェラテを買ってきてちょうだい。ほら、急いで。今すぐよ。今すぐ」

突然割り込んできた常務夫人の言動に、準備を手伝ってくれていた新人はすでに泣きそうになっている。ただでさえ忙しいところにさらに仕事を増やすばかりか、社員を困らせ、顎で使おうとする彼女へ。とうとう私は、溜まりかねて口を開いた。

「新井夫人、すみませんが、準備は私たちがしますので、あちらでお待ちください。あまり口を出されると現場が混乱しますし、何より会社の人間でもない方が社員を顎で使うのは、いかがなものかと」

だが、日頃から中卒だなんだと馬鹿にしている相手からそんな注意を受けた彼女は、たちまち不機嫌になってしまったようだ。佐木さんはかっとなって顔を赤らめ、怒鳴る。

「高が中卒の分際が私に差し出すなんて言語道断だわ。あなたの段取りが悪いから、私が代わりに手伝ってあげているのに。そんなことも分からないなんて。本当、低学歴はこれだから」

「申し訳ありませんが、ここの責任者は私ですので、任せていただきたい」

私の言葉に、佐木さんは「覚えてなさいよ」と捨て台詞を吐き、怒りを滲ませながらその場を去っていった。

「宮下さん……いいんですか?」

「いいんだよ。誰かが言わないといけないんだから。ほら、それより準備が間に合わなくなるよ」

心配顔で私を見つめてくる新人に、私は普段通りの笑顔を見せて頷いた。佐木さんを完全に怒らせてしまったので、後々面倒なことにはなるだろうが、今は目の前の仕事だと気持ちを切り替えて、私はその後も黙々とバーベキューの準備に務めた。そしてなんとか予定通りに準備が終わり、食材や飲み物が行き渡るころには、あちこちで賑やかな笑い声が聞こえ始める。社員やその家族たちの楽しそうな様子に、私も安心してバーベキューを楽しんでいた。だが、そんな和やかな一時もつかの間、数メートル先に座っていた佐木とその取り巻きがニヤニヤと笑いながら私の方へ近づいてくるのが見えた。その手には、鍋からよそわれたばかりの豚汁が入ったプラスチック容器。そして彼女たちが私の横を通り過ぎる瞬間、佐木さんは、こともあろうに湯気を立てる熱々のそれを、私の胸の辺りにぶちかけてきたのだった。

「あ、やだ。ごめんなさい。手が滑っちゃって」

あまりの暑さに飛び上がった私に、佐木さんはそんなことを言いながらも、くすくすと忍び笑いをもらす。見れば、彼女の夫である新井も、そんな私の姿を指さして愉快そうに笑っていた。やがて佐木さんは火傷の心配をするふりをしながらこちらに身を寄せると、私にだけ聞こえる声でこんなことを言ってきた。

「あんた、中卒のくせに生意気にも差し出しなんかするからよ。どっちが偉いかなんて分かりきってるのに、本当腹立たしいったら。中卒のバカは、豚汁を飲むよりかけられた方がお似合いだわ」

そうして勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、佐木さんは「早くお着替えなさいよ」などと、まるで他人事のようにそう告げて、満足したかのように去っていく。

「大丈夫ですか?私、ここ片付けておくんで、宮下さんは早く着替えてきてください」

あまりにも子供じみたその嫌がらせに直後は呆然としていた周囲も、まだ湯気の立っている汁をぽたぽたと垂れ流す私を見て、慌ててタオルやナプキンなどを差し出してくれた。幸いバーベキューということで、汚れてもいい服を着ていた私は、念のため着替えも持ってきている。

「宮下さんにちょっと注意されたからって、こんなことするなんて。信じられない」

と息巻くのは、先ほどもバーベキューの準備を一緒にしていた新人だ。だが私はその怒りをなだめるように苦笑すると、軽く手を挙げる。

「ごめん。じゃあちょっと着替えてくるから、後をお願いするね」

そう周囲に声をかけ、私はしばし中座したのだった。

日も傾き始め、バーベキューも終盤となり、社長が締めの挨拶のために壇上へと上がる。着替えから戻った私も、以降は特に嫌がらせされることもなく、食材などを片付ける手を止めて、その場に腰を下ろした。

「突然のことだが、皆に。私は今年度を持って退任することにした」

まず社員への感謝を述べた社長だったが、続けて退任を発表する。社長はまだまだ元気なため、このタイミングでの引退を良しとしていなかった社員たちは、驚きのあまりどよめいた。社長はそんな社員たちをなだめるように手を挙げた後、優しい笑みを浮かべる。

「驚かせてすまない。だが、目まぐるしく物事が変化するこのご時世、身の引き際を見計らって老兵は去った方がいいと決断した」

社長の説明を、社員たちが神妙な面持ちで聞く。社長は静まり返った会場をぐるりと見渡し、一つ頷いてから口を開いた。

「では、新年度からの私の後任を紹介する。宮下慎一君」

「はい」

名前を呼ばれた私は、さっと壇上へ上がり、社長の横へ立った。

「宮下君は勤続年数も長く、この会社のいいところも悪いところも全て知り尽くしている。また車内の誰よりも勉強熱心で、知識も豊富なこと。そして何より、その人柄の良さは周知であろう」

社長の言葉に、今まで付き合いのあった後輩や同僚が、同意するように大きく頷いてくれる。

「よって、後任にはこの宮下君がふさわしいと私は判断した。よろしくな、宮下君」

「はい。誠心誠意、務めます」

差し出されたその手をしっかりと握り、私は心から頷いた。

「宮下君からも、皆に挨拶を」

「では、僭越ながら一言だけ」

スピーチを求められた私は、一旦言葉を切り、集まった社員やその家族たちの姿を見回す。視界の端には、幽鬼に取られた顔でぽかんとしている新井夫婦とその取り巻きがいる。その驚きように、私は思わず笑いそうになってしまった。社長交代の件はもちろん上層部、役員にはすでに伝えてあったのだが、新井常務だけには秘密にしてくれと私はお願いしていた。そして日頃の居丈高な態度が他の役員たちからの反感を買っていた新井常務は、私の希望通り何も知らされず、この場にいるようだった。私が彼らの方を一瞥すると、新井夫妻はひっ、と引きつった声をあげて顔を青ざめさせる。だが私は何事もなかったかのように彼らに向かって笑顔を送ると、ゆっくり口を開いた。

「私が社長へ就任した暁には、車内改革を必ず実行します。学歴差別や、立場を笠に着た横柄な振る舞いなどは厳しく処分。誰もが伸び伸びと働ける職場環境を作ることが、私の目標です」

私がそう言った瞬間、新井夫妻はますます身を縮こまらせ、もはやその顔色は青を通り越して白くなっている。だが、彼らを覗いた他の社員や家族たちは、私のスピーチに盛大な拍手を送ってくれた。彼らの仕事と生活を守ること。その責任の重さを改めて実感しながら、私はその場で深々と一礼したのだった。

さて、新年度が始まった。私は社長就任スピーチ通り、職務怠慢として新井常務を課長に降格、そして地方の出張所への左遷を決定する。その処分を受けて、新井夫妻はまたたく間に離婚した。どうも佐木さんが、左遷された夫にさっさと見切りをつけたようだ。また新井常務は、左遷と降格という処分が受け入れられなかったらしく、それから三ヶ月もしないうちに自らの辞表を出し、今は行方知れずとなっているという。天下り役員だったこともあり、官庁から苦情の一つでも来るかと思ったが、そんなことは特になかった。そして佐木さんはといえば、これまでの裕福な暮らしぶりから抜けられず、借金まみれになったまま世間知らずな暮らしを続けているとのこと。彼らのその後は、まるで時代や取り巻く環境の変化に対応できなかった者の末を見ているようで、私はより一層身が引き締まる思いがした。

その他にも、前々から気になっていたシステムの効率化などを図った結果、格段に風通しの良くなった会社は業績も上がり、社員のモチベーション上昇にもつながっているようだ。

「宮下さんが社長になってくれて、本当に良かったです。これからも精一杯働かせていただきます」

食堂で昼食を食べていると、その姿を見つけてくれた後輩が駆け寄ってきて、そう言ってくれた。

「そう言ってもらえて嬉しいよ。これからもよろしく頼むけど、勢いだけでやろうとはしないように」

「へへ、肝に命じておきます」

社員が生き生きと働く姿を見守りながら、私はこれからも彼らのため、より良い環境作りを徹底していこうと心に誓ったのだった。

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