会議室のドアが開いた瞬間、彼女は笑っていた。「社長令嬢である私が横領なんてするわけないでしょう?慰謝料を請求しますからね」その言葉に、俺は言葉を失った。経理部長として何年も働いてきた俺――三藤健一、43歳。ラブフィットネスに入社してから、数字には誰よりも自信があった。なのに、今年入社したばかりの新入社員・三輪美和子が担当する取引に、不自然な点が次々と見つかったのだ。日付、金額、取引先。どれも…

会議室のドアが開いた瞬間、彼女は笑っていた。「社長令嬢である私が横領なんてするわけないでしょう?慰謝料を請求しますからね」その言葉に、俺は言葉を失った。経理部長として何年も働いてきた俺――三藤健一、43歳。ラブフィットネスに入社してから、数字には誰よりも自信があった。なのに、今年入社したばかりの新入社員・三輪美和子が担当する取引に、不自然な点が次々と見つかったのだ。日付、金額、取引先。どれも...

俺は経理部の部長として、書類に目を通した瞬間、嫌な予感に襲われた。ラブフィットネスに入社して数年、この会社の数字なら誰よりも把握しているつもりだ。しかし、今年から経理部に配属された新入社員、三輪美和子が担当し始めた取引に、どう考えてもおかしい点がいくつも見つかったのだ。日付を辿っていくと、彼女が資金管理を任されるようになってから、不透明な取引が繰り返されていることが分かる。金額もバラバラなら、取引先もこれまで付き合いのないところばかりだ。これは間違いなく会社の金を横領している。

いや、まだ決めつけるのは早い。俺は自分の憶測で動く前に、まず直接話を聞くべきだと思った。そう自分に言い聞かせながら、俺は美和子を会議室へと呼び出した。数分後、彼女は何の罪悪感もなさそうな顔で、ドアをノックせずに部屋へ入ってきた。

「何でしょうか、部長。私、これから大事な業務があるんですが」

「ちょっと確認したいことがあるんだ。ここ最近、お前が担当している取引についてなんだが」

そう言って、俺は手元の書類の束を机の上に置いた。すると彼女は、いかにも面倒くさそうなため息をついた。俺はその反応を無視して、核心を突くことにした。

「この取引なんだが、取引先の名前も金額も記録と食い違っている。それに、この日付を見てみろ。お前が担当してから、不自然なほどに取引が繰り返されているんだが、心当たりはないか?」

俺がそう問いかけると、美和子は一瞬だけピクッと眉を動かした。だが、次の瞬間にはいつもの高慢ちきな態度に戻っていた。

「もしかして、私が会社のお金を盗んだとでも言いたいんですか?」

「言葉を選ばずに正直に言えば、そう取られても仕方がない状況だと思っている」

「とんでもない!社長令嬢である私が横領なんてするわけないでしょう?そんな言いがかりをつけられるなんて、私、本当に傷つきました。慰謝料を請求しますからね。そのつもりでいてください」

俺は思わずあっけに取られてしまった。こいつは自分が何を言っているのか、ちゃんと理解しているのだろうか。いや、理解した上で、強気な態度で押し切ろうとしているのかもしれない。彼女はさらに話を続けた。

「それに、私、以前から三藤部長には頭ごなしに怒鳴られて、精神的にやられてたんですよね。ちょうどいい機会だし、この際きっちり責任取ってくださいよ」

そのセリフを聞いて、俺は確信した。こいつは事実をねじ曲げて、自分を被害者に仕立て上げるタイプの人間だと。だが、ここで感情的になっては負けだ。俺は深呼吸をして、気持ちを落ち着けることにした。

俺の名前は三藤健一。今年で43歳になる、どこにでもいる普通のサラリーマンだ。生まれつき運動神経のいい人間で、子供の頃から体を動かすことが大好きだった。野球にテニス、サッカー、剣道。ありとあらゆるスポーツを楽しんできた。高校時代は名門校のサッカー部に所属し、そこでの過酷な練習の日々は今でも思うだけで脂汗が出るほどだ。だが同時に、部活に明け暮れていた青春時代の経験は、今でも俺にとって大切な宝物になっている。

運動は体を鍛えるだけでなく、精神力にもいい影響を与える。子供の頃はそんなことに気づかなかったが、成長するにつれて、体を動かすことの重要性をひしひしと実感するようになった。

そんな学生時代を送ってきたわけだが、大学を卒業してからの俺の生活は一変した。新卒で入ったのは大手銀行だった。社会人としての一歩を踏み出した俺は、その忙しさに目を回しそうになりながら、毎日仕事を覚えるのに必死だった。そして、忙しさにかまけて、俺はまったく運動をしなくなってしまったのである。

それどころか、仕事に追われる日々のストレスを発散するために、俺は次第に食べ過ぎてしまうようになった。その結果、何気なく体重計に乗った時、俺は愕然とした。学生時代と比べて、10キロも太ってしまっていたのだ。

このままではいけない。そう自覚した俺は、一念発起してランニングを始めることにした。だが、忙しい仕事の合間に走る時間を確保するのは難しく、思うように続かなかった。このまま不健康な生活を送り続けて太り続けるのはどうしても嫌だった。そこで、俺はある決心をした。

それが転職である。

大手銀行の安定を捨ててでも、俺は絶対に腹の出た冴えないおっさんにはなりたくなかった。思い立ったが吉日。俺はすぐに転職先を探し始め、たどり着いたのが、今も働いている『ラブフィットネス』という会社だった。ここはその名の通り、フィットネス用品やトレーニング器具の製造販売を行っている会社だ。一般向けからプロの選手向けまで幅広く取り扱っており、俺も実は学生時代、この会社の製品を愛用していた。

ラブフィットネスを転職先に選んだのには、もう一つ大きな理由がある。ここの本社には、何と24時間利用可能な社員専用のスポーツジムがあるのだ。これなら昼休みや仕事終わりの隙間時間を利用して、無理なく汗を流すことができる。そんなありがたい施設のおかげで、俺は転職してから数ヶ月で見事に体重を減らすことに成功した。体重計に乗った瞬間、ラブフィットネスに転職して本当に良かったと心から思ったものだ。

それから数年が経ち、俺の体は以前にも増して引き締まっている。最近はこの体をより逞しくするために、少しキツめのウェイトトレーニングをしているところだ。こんなにトレーニングのことばかり話していると、何を言いふらしているかと思われてしまいそうだが、もちろん俺は仕事だってちゃんとやっている。むしろ、昨年からは経理部の部長に昇進した。経理部の社員たちは穏やかな性格の人間が多く、仕事も速い。部長として、本当に助かっている。

だが、そんな穏やかな雰囲気の部署の中で、一人だけ気がかりな存在がいた。今年入社したばかりの新入社員、三輪美和子である。彼女はラブフィットネスの社長である三輪聡の娘、つまり社長令嬢だ。

美和子がうちの部署に来た時、俺たちは歓迎会を開いた。そこでこいつは、いきなりこんなことを言い放ったのである。

「私は、親会社であるこの会社の社長令嬢ですから。皆さんとは住んでいる世界が違う人間です。ですから、ここにいるような下らない先輩たちと、同列に扱われるのは勘弁してもらえませんか」

この一言で、場の空気が一気に凍りついたのを、今でもよく覚えている。そして、時間が経つにつれて、こいつのプライドはエベレストよりも高いと確信するようになった。

例えば、美和子は仕事で分からないことがあっても、絶対に先輩や上司に質問しない。どうやら、彼女にとって他人に何かを尋ねることは、自分の敗北を認めることを意味するらしい。正直に言って、周りからすると迷惑極まりないこだわりだ。そんなわけで、彼女は自分流の適当なやり方で仕事を片付けようとする。

その結果、美和子の失敗を、周りの人間が陰で処理するという状況に何度も陥った。さすがにこのままでは、本人のためにもならない。そう思った俺は、何度か彼女に直接、注意をしたことがある。

「美和子さん、この書類の処理の仕方だが、もう少し周りの意見も聞いてみたらどうだ?」

「私は自分で正しいと思った方法で仕事をしていますから。それにこういう仕事は、成果を上げてナンボですからね」

「周りが迷惑しているから言ってるんだ。一人で全部背負い込む必要はない。分からないことがあれば、訊いてくれていいんだぞ」

「結構です。私、人に聞かなくてもやれるんで」

こいつは、自分が何か問題を起こしているという自覚がまったくない。もしかしたら、こいつは人間ではなく、地球外生命体なんじゃないか。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎるほどだった。できることなら、こんな奴とはなるべく関わりたくない。だが、経理部の部長である以上、そういうわけにもいかない。

美和子とどう接するべきか。いくら考えても、その答えは見つからないまま、彼女がうちの部署に来てから一年が経とうとしていた。

そして、今に至る。

まさか、一年目の娘がこれほどの大罪を犯しているとは思わなかった。俺は美和子に取引内容を問い詰めたが、彼女は逆ギレするばかりで、会話が成立しない。これ以上話を続けても埒が明かない。俺は一旦、その場を離れることにした。

「分かった。話にならないな。今日のところは引き下がるが、必ず真相を究明するからな」

「ご自由にどうぞ。どうせ何を調べても、私の潔白は証明されますから」

美和子はそう言い残して、勝ち誇ったように会議室から出ていった。俺は大きく息を吐き、机の上に置かれた書類の束を見つめた。こいつの思い通りになるものか。俺はこの目で、必ず証拠を掴んでみせる。

その日の夜、俺は会社に残り、美和子の担当していた取引の記録を徹底的に洗い直すことにした。取引先の名前、金額、日付。一つ一つを丹念に突き合わせていく。すると、ある共通点が見えてきた。

不透明な取引のほとんどが、美和子自身が新しく開設した口座に振り込まれている。事務処理を担当していた人間を装って、振込先を少しずつすり替えているようだ。多額の金額をいきなり横領すると経理部の誰かが見つけてしまうため、彼女は少額ずつ、しかし頻繁に、不正を繰り返していたのである。週に一度、必ずと言っていいほど、彼女が自分の口座に金を移している痕跡がある。俺はそれらの記録をすべてコピーして、証品として金庫に保管した。

数日後、俺は美和子を再度、会議室に呼び出した。今度は、前回のように問い詰めるつもりはなかった。ただ、目の前に証拠の書類を広げて見せた。

「美和子さん。この口座を覚えているか?」

俺がそう言って、手元の書類をテーブルに置くと、美和子の顔色が一瞬で真っ青になった。先週まであれだけ胸を張っていた態度とは、別人のように動揺している。

「こ、これは一体どういうことですか、部長?」

「この口座、お前が個人的に保有している口座だよな?そこに、会社の取引先から入金されたはずの金が、そっくりそのまま振り込まれている。しかも、これはここ数週間の記録だ」

「ち、違います!これは、その、私をハメるために誰かがやったんです!私がやったんじゃありません!」

「だったら、この振込元の取引先に聞き合わせてみてもいいんだぞ?本当に心当たりがないなら、何の問題もないだろう?」

俺がそう言うと、美和子は机に両手をついた。震えが止まらないようだ。しばらく沈黙した後、彼女は蚊の鳴くような声で言った。

「……認めます。私がやった仕事です。でも、頭ごなしに怒鳴ってくる部長や、私の業界知識がなくて話にならない、と馬鹿にしてくる上司たちに、復讐してやろうと思ったんです。私は自分の実力で評価されたかった。でも、この会社は実力主義を謳っているくせに、結局は私をただの社長の娘だとしか見てくれない」

「俺はお前の能力を否定するつもりはない。だが、横領は犯罪だ。表ざたにすれば、お前の父親である社長の立場も、会社の信用も失われることになる」

「……そんなの、言われなくても分かってます。この会社には大きな借金があるわけでもないし、一番困るのは社長です。そう、社長のことが一番可愛いんです。社長に恥をかかせるわけにはいかないんです」

美和子はそう言うと、今まで見たことのないような真剣な表情で、俺を見つめてきた。

「……お願いです。社長だけは、私を怒らないでください」

俺は腕を組み、天井を仰いだ。正義か、情か。一理ある。美和子が父親を大事に思っていることは、何となく伝わってくる。それでも、罪を償わせることが、彼女とこの会社にとって、本当は一番良いことなのかもしれない。

俺は少しの間だけ、考える時間を作った。そして、一つの提案をすることにした。

「会社からの処分は、俺の口から伝えることにする。だが、明日からお前には、給与の半分を返済費用として差し押さえる。そして、お前の仕事の質が本当に上がるまでは、俺が責任を持って指導する。良いな?」

「……分かりました」

「それから、もう二度とこんなことを繰り返すんじゃないぞ。次やったら、会社の金を盗んだ犯罪者として、きっちり警察に突き出すからな」

美和子は、涙をこぼしながら、ゆっくりと頷いた。俺はその様子を見て、胸の内で安堵のため息をつく。彼女の将来のためにも、ここで終わらせて良かったんだと、自分に言い聞かせた。

数日後、会社の昼休み。俺がジムで汗を流していると、美和子が隣に並んできた。

「部長。私、一からちゃんと経理を覚えたいです。分からないことがあったら、質問してもいいですか?」

「ああ。ただし、俺は甘くないぞ。昼休みも仕事も、自分の足でしっかり立ち、自分の頭で考えること。それが出来るようになるまで、しっかり付き合ってやるからな」

「はい。……あの、ありがとうございます。部長」

美和子は、ほんの少しだけ、はにかみながら笑った。これまで一年間、彼女の発した言葉で、少しでも相手を思いやる気持ちが伝わってくるのは、初めてだった気がする。

その後、俺は美和子を上司としても人間としても、きちんと成長させる責任を背負った。彼女は少しずつではあるが、確実に変わっていった。プライドの高さは相変わらずだが、以前よりも素直に人から学ぼうとする姿勢が見られるようになったのだ。

そして、あれから数年が経つ。俺は今日も経理部で仕事をこなしつつ、変わらずジムで汗を流している。美和子は見事に一人前の経理マンへと成長した。これも、俺の仕事の成果と言えなくもない。

第何度かのトレーニングを終えて、汗を拭いていると、スマホに一通のメッセージが届いていることに気づいた。美和子からだ。

「部長、来年から経理部に後輩が入ってきます。私がしっかり指導しますので、部長は安心して筋肉に集中していてください」

思わず、必死で笑いをこらえた。あの日、会社の金を盗んでいた社長令嬢が、今や経理部の頼れる先輩である。世の中、どうなるか分からないものだ。俺はスマホをしまい、眩しいくらいのトレーニングマシンを見つめて、大きく伸びをした。

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