「家族の分しか予約していませんので、お母さんの分はないんです」
その言葉を聞いた瞬間、まるで冷たい水を浴びせられたような衝撃が走りました。田中みち子、六十五歳。この日は可愛い孫のリナが三歳の誕生日を迎える特別な日だったのです。息子の拓也とその嫁の舞子が暮らす家に到着すると、リビングには豪華な高級寿司が並んでいます。
「リナちゃん、おばあちゃん来たわよ」
そう声をかけると、舞子が振り返ります。
「ああ、お母さん。家族分しか予約してないのですみません。お母さんの分はないんです」
テーブルを見ると、義両親、息子夫婦、そして孫の五人分の席だけが用意されているのです。私の席はありません。隅のキッチンカウンターには、昨日の残りものと思しき煮物と白米が置かれていました。
舞子が続けます。
「お母さんは外の人ですから、簡単なものでいいですよね」
外の人。その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けたような感覚がありました。でも、私は明るい顔で答えたんです。
「あら、そうなんですね。それなら気を使わなくていいですね」
舞子が少し戸惑ったような表情を見せたのを、私は見逃しませんでした。
「それじゃあ、私はこれで失礼しますね。皆さん、ゆっくり楽しんでください」
まるで羽が降りたかのように軽やかに言いました。その時の私の目には、何か決意したような、そして不思議な喜びの光が宿っていたように思います。
思い返せば、私はこの息子夫婦のためにどれだけのことをしてきたのでしょう。拓也の大学費用、全て私が負担しました。結婚資金、マイホームを購入する際の頭金を援助してきたのです。それだけではありません。毎月十五万円の生活費、リナが生まれてからは教育費や保育費として月十万円を三年間。決して安くない金額を、私は息子家族のために使ってきたのです。
あの頃、舞子はこう言ってくれました。
「こんな素敵な生活ができて、本当に感謝してます」
でも、いつからでしょうか。舞子の態度が変わり始めたのは。
「お母さんってセンス古いですよね」
皆に買ってあげた服を見て、そう言われたことがあります。
「私の母と比べると、やっぱり格が違うというか」
誕生日プレゼントを持っていっても、目の前で箱も開けずに言われるんです。
「これ、私の趣味じゃないです」
そして今日、拓也が言いました。
「母さん、舞子の両親は現役の会社役員なんだよ。比べちゃうとね。だからもう少し空気読んでくれないかな」
息子の冷たい視線が、私の心に深く突き刺さりました。
息子の家のリビングを改めて見渡すと、その光景がより鮮明に目に入ってきます。壁には色とりどりの風船が飾られ、ハッピーバースデーの文字が華やかに飾りつけられていました。リナの大好きなキャラクターの絵皿や、可愛らしいナプキンまで用意されています。こんなに丁寧に準備されたパーティーなのに、私の席だけがないのです。
テーブルの中央には、特等席に座る舞子のご両親。お二人の前には高級寿司が三人前も並んでいます。拓也と舞子、そしてリナの前にも同じ豪華なお寿司が二人前。一方、私がいるキッチンカウンターには、昨日の残り物の煮物だけ。リナが小さな声で言いました。
「おばあちゃんもこっちに来て、一緒に食べようよ。おばあちゃんだってお寿司食べたいよね」
その純粋な優しさが胸に温かく響きます。三歳の孫の方が、よっぽど人の心を理解しているんですね。でも、舞子がすぐに静止するのです。
「リナ、余計なこと言わないの?」
そして私の方を見て、冷たく続けました。
「だってお母さんはよその人。家族じゃないですもん」
家族じゃない。またその言葉です。何度聞いても心に鋭い毒のように刺さります。舞子のお父様がお寿司を口に運びながら、こちらをちらりと見て言います。
「うちの娘の選んだ相手の親だしな。しょうがない」
お母様も笑いながら続けました。
「昔の人って、やっぱり価値観が違うのよね。時代遅れっていうか。引退した方がいいわよね」
私の年齢まで持ち出して、侮辱の言葉を重ねてきます。さらに、こんなことまで言うんです。
「お寿司の味、わかります? 普段こんなもの食べたことないでしょう」
私は黙って目の前の冷めた煮物を食べ続けました。何も言い返さず、静かに箸を動かします。心の中では様々な感情が渦巻いていました。悲しみ、怒り、そして何より裏切られたという深い失望感。でも、ここで感情的になっては彼らの思うつぼです。それに、私にはもう決めていたことがありました。
「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」
私は立ち上がり、明るい声で言いました。静かに荷物をまとめ始めると、舞子が驚いたような顔をします。
「あら、もうお帰りですか?」
「ええ、お気遣いなく。むしろ気楽で良かったわ」
私は笑顔で答えました。その笑顔は、不自然なほど明るかったかもしれません。
「外の人だから気を使わなくていい。それでいいの。おかげで私も楽できたから」
舞子が一瞬、間の抜けたような表情を見せます。何か予想外の反応に困惑しているようでした。リナのところに行き、優しく頭を撫でます。小さな手が私の指をぎゅっと握りました。
「リナちゃん、おばあちゃんは帰るわね。楽しいお誕生日を過ごしてね。三歳、おめでとう」
「おばあちゃん、また来てね」
リナの純粋な言葉に、思わず涙が出そうになりました。でも、ぐっとこらえます。玄関で靴を履きながら振り返って、満面の笑みで言いました。
「本当に素敵なパーティーだったわ。ありがとう。これからもよろしくお願いしますね」
その笑顔は穏やかで、まるで心から喜んでいるかのようでした。でも、どこか不気味なほどの明るさがあったのです。舞子と拓也が顔を見合わせているのが見えました。
タクシーに乗り込むと、窓の外に流れる景色を眺めながら、私の表情はゆっくりと変わっていきました。車内で静かに深呼吸をします。六十五歳。確かに若くはありません。でも、まだまだ人生はこれからです。
自宅に戻ると、まっすぐ書斎へ向かいました。金庫を開けると、そこには大切にしまっていた書類がありました。土地の権利書、株式証券、銀行の通帳。それぞれの書類が静かに私を見つめています。亡くなった夫が私のために残してくれた財産です。夫の写真を手に取り、静かに微笑みかけました。写真の中の夫は、いつもの優しい笑顔でこちらを見ています。
「あなたが残してくれた財産、大切に使わせていただきますね。私を家族じゃないと言った人たちに、本当の意味を教えてあげますから」
翌日の朝、友人の雪子さんから電話がかかってきました。雪子さんは学生時代からの親友です。同じ地域に住み、息子の拓也と雪子さんの娘さんも年齢が近く、小さい頃から家族ぐるみで付き合ってきました。だから、拓也のお嫁さんの舞子のことも、雪子さんはよく知っているのです。
「みちこさん、ちょっと聞いてもいいかしら?」
「どうしたの? 雪子さん、何かあった?」
「昨日、舞子さんのSNS見てしまったんだけど、みちこさん見た?」
雪子さんの声が心配そうに、そして少し怒りを含んで響きます。私はスマートフォンを手に取り、舞子のSNSアカウントを開きました。そこには昨日の誕生日パーティーの写真が何枚も投稿されているのです。高級寿司と舞子のご両親との楽しげな様子。拓也も舞子もリナも、みんな笑顔で映っています。幸せそうな家族の光景がそこに広がっていました。そして、書き込みにはこう書かれています。
「リナの三歳の誕生日。本当の家族だけで素敵な時間を過ごせました。やっぱり気を使わない人たちとのが一番。外の人がいないと快適。ハッピーバースデー、リナ」
外の人。またその言葉です。しかも、今度はSNSで公開して、不特定多数の人に向けて発信しているのです。コメント欄にはたくさんの反応が並んでいました。
「素敵なご家族ですね」「なんて豪華」「幸せそう」「いいな、こういう家族の時間」「本当の家族だけの時間、大切ですよね」「リナちゃんおめでとう」「愛されて育ってるのが伝わります」
一つ一つのコメントが、まるで私の存在を否定しているように感じられます。私は何も言わず、静かに画面を見つめていました。
「ひどすぎるわよ。外の人がいないと快適ってどういうつもりなの?」
雪子さんの怒りが電話越しにはっきりと伝わってきます。
「ええ、私も今見たわ。昨日言ってたんでしょう。リナちゃんの誕生日に。でも、私の席はなかったの。キッチンカウンターで残り物の煮物を食べていたわ」
「なんですって。こんな投稿までして、信じられない」
雪子さんの声が震えています。私のことを本当に心配してくれているんですね。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」
私は不思議なほど冷静でした。怒りというより、むしろ確信に近い感情が胸に広がっていきます。
「本当に大丈夫なの? こんなひどいこと書かれて、平気なわけないでしょう」
「平気じゃないけれど、もう驚きもしない。むしろ、これではっきりしたの。私がやるべきことが、はっきり見えてきたってことよ」
私の声には静かな決意が込められていました。
電話を切ると、その日の夕方、今度は拓也からLINEが届きました。
「母さん、来月なんだけど、三十万円助けてくれない? 急に出費が重なっちゃって。あと、リナの習いごと増やしたいって。月十五万円を二十万円にして欲しいんだけど、大丈夫?」
「舞子の両親は毎月五十万円も助けてくれてるんだって。母さんも頑張ってよ。親なんだからさ」
私はスマートフォンの画面を見つめながら、静かに笑みを浮かべました。昨日、私を外の人と呼び、家族ではないと宣言しておきながら、お金の要求だけは平気でしてくる。指を動かし、こう返信しました。
「家族じゃないって言われた人に援助を頼むんですか?」
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつきます。
「何言ってんだよ。そんなこと気にしてたの? 母親なんだしさ、いいじゃん。舞子の両親は年収二千万以上あるんだって。それで毎月五十万援助してくれてるんだよ。それなのに母さんは月十五万だけって、少なくない? 母親なんだから当然だろ?」
家族じゃないと言いながら、母親としての義務は当然のように要求する。私は返信せずにスマートフォンを置きました。もう何を言っても無駄だと分かったからです。
それから数日が過ぎた、ある静かな午後。今度は舞子から直接電話がかかってきたんです。
「お母さん、お時間よろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「この前は来ていただいてありがとうございました。実は、お伝えしたいことがあって。今後のことなんですけど…今後、リナの誕生日やイベントにお母さんを呼ばないことにしました。リナには本当の家族だけで接して欲しいんです。変な価値観を植えつけられても困りますし」
変な価値観。
「そうですか」
「はい。ですから、今後は連絡も控えていただけると助かります」
そして、舞子はこう続けたんです。
「でも、援助は今まで通り、むしろ月に十万円に増額していただけるって聞いていますけど。それが唯一のお母さんの存在価値でしょうから」
私の存在価値は、お金を出すことだけ。
「わかりました」
そう答えて、私は静かに電話を切りました。部屋の中に深い静寂が広がります。私の心にはもう迷いはありませんでした。悲しみも怒りも、全てが静かに沈んでいき、代わりに冷静な決意だけが残っています。
書斎の机に向かい、引き出しから万年筆を取り出しました。そして、五年前に夫の遺産相続でお世話になった弁護士、立花先生に送る手紙を書き始めたのです。
「拝啓 立花先生。秋も深まり、日に日に肌寒くなってまいりましたが、先生におかれましてはお元気でお過ごしのことと存じます。さて、突然のお手紙で恐縮ですが、実はご相談したいことがございまして、筆を取らせていただきました」
一文字一文字、丁寧に言葉を紡いでいきます。手紙の中で、私はこれまでの経緯を簡潔に、しかし正確に記していきました。そして、家族じゃない、外の人と言われた事実。それにも関わらず、援助の要求だけは続いていること。私の目には、冷たくも確固たる決意の光が宿っていました。ただの反撃ではありません。自分の尊厳を取り戻すための、正当な権利の主張なのです。そして、息子夫婦に本当の意味での家族とは何かを教えてあげる時が来たのです。
手紙を投函した翌週の火曜日、私は弁護士事務所のドアを開けました。都心のオフィスビル二十階。窓からは東京の街並みが一望できます。
「田中様、お久しぶりでございます」
立花先生が深々と頭を下げて迎えてくださいました。五十代半ばの先生は、夫の遺産相続の際、大変お世話になった方です。
「立花先生、お忙しいところありがとうございます」
「とんでもございません。お手紙を拝読いたしまして、すぐにお会いしたいと思っておりました」
応接室に通されると、立花先生が資料を広げます。私の資産状況が一目で分かる書類が並んでいました。
「改めて確認させていただきますが、田中様の現在の総資産は…」
先生が丁寧に説明を始めます。私は元商社の秘書として三十八年間勤務してきました。若い頃から真面目に働き、一度も仕事を休んだことがありません。退職金は二千万円。それに加えて、会社から受け取った株式の配当金もあります。それらを堅実に運用してきた結果、現在の資産は二億五千万円になっているのです。
「田中様は本当に懸命な資産運用をされてこられました」
さらに、夫が残してくれた遺産。都心の一等地、渋谷、銀座、そして新宿に土地を所有しているのです。夫は不動産投資にたけた人でした。今ではその価値は何倍にもなっています。
「ご主人様の遺産と合わせますと、総資産は五億円を超えております」
立花先生の言葉に、私は静かに頷きました。息子は知りません。舞子も、もちろん知らないでしょう。私がこれほどの資産を持っているなんて、夢にも思っていないはずです。拓也には、父さんの遺産は少しだけだったとだけ伝えていました。本当のことを言う必要がないと思ったのです。
「それで、今回のご相談ですが」
「はい。相続排除の手続きと、これまでの援助金三千七百六十万円の返還請求をお願いしたいんです」
私の言葉に、立花先生は真剣な表情で頷きます。
「かしこまりました。準備させていただきます。法的には贈与として処理されたものもございますが、返還請求の理由として、著しい侮辱行為が認められる可能性は十分にあります」
立花先生がいくつかの判例を示しながら、詳しく説明してくださいました。
「特に、SNSでの公的な侮辱は証拠として非常に有効です」
窓の外を見ると、秋の夕日が街を照らしています。私はただのお金を出すだけの存在ではありません。地元では文化功労賞をいただいた名士として知られているのです。複数の慈善団体で理事を務め、地域医療センターには一千万円以上の寄付もしてきました。夫が亡くなってから、私は自分の人生を見つめ直しました。息子のためだけに生きるのではなく、社会のために何かできることはないか。そう考えて、様々な活動に参加してきたのです。書斎の壁には、表彰状や感謝状が何枚も飾られています。でも、これらのことを息子には一切話していません。息子には関係のないこと。私の人生ですから。そう思って黙っていました。
弁護士事務所を後にして、タクシーに乗り込みます。その頃、拓也の家では拓也と舞子がリビングのソファに座っていました。
「母さん、最近なんか冷たくない?」
拓也がスマートフォンを見ながら言います。
「別にいいんじゃない。どうせお金出すことしかできない人なんだから」
舞子が冷たく笑いました。
「私の両親は現役バリバリで社会的地位もあるけど、お母さんはただの元事務だっけ?」
「ああ」
拓也も同じように笑います。
「金づるとしては優秀だから、まだ利用価値あるよ。母さん、年金もそれなりにあるだろうし」
二人は私の本当の姿を何も知りません。私がどれだけの資産を持っているか、私が地域でどんな活動をしているか、私がどれだけの人々から尊敬されているか。何も知らないのです。
そして一週間後、その日は秋晴れの穏やかな朝でした。私は書斎でお茶を飲みながら読書していたのです。静かで穏やかな時間が流れていました。突然、インターホンが激しく鳴り響きました。何度も何度も。玄関のドアを開けると、そこには顔面蒼白の舞子が立っていました。いつものきちんとした佇まいはどこへやら、髪は乱れ、化粧も崩れています。手には複数の封筒。内容証明郵便と書かれた赤い文字が目に飛び込んできます。
「お、お母さん、これ、どういうことですか?」
舞子の声が震えています。
「あら、舞子さん、どうされましたか? こんな朝早くから」
私は穏やかに微笑みました。まるで何も知らないかのように。
「こ、これ、内容証明郵便が届いて…弁護士からですよ」
舞子が封筒を突き出します。封筒を持つ指先まで真っ白になっています。
「ああ、それですか? 読まれたんですね」
私は落ち着いた声で答えます。
「読みました。でも、信じられません。こんなの間違いですよね」
舞子の声は、もはや悲鳴に近いものになっています。第一の封筒には、過去五年間の全援助金返還請求が記されていました。総額三千七百六十万円。大学費用二百万円、結婚資金五百万円、住宅購入の頭金八百万円、五年間の生活費援助九百万円、リナの教育費三百六十万円。全ての詳細が一円単位まで正確に記載されています。振り込み日、金額、目的。全てが克明に記録されていました。即時返還を求める、法的効力のある文書です。弁護士の署名と事務所の印が、その重みを物語っています。
「舞子さん、あなた、私を家族じゃないとおっしゃいましたよね」
私は静かに言葉を続けました。
「でしたら、家族として受け取ったお金は全額をお返しいただかないと、筋が通りませんもの」
「そんな、そんなお金ありません。三千七百六十万円なんて、どこにあるんですか?」
舞子の悲鳴のような声が玄関先に響きます。近所に聞こえるんじゃないかと思うほど大きな声でした。
「それは私の問題ではありません」
私の声には、何の感情も込めていません。ただ事実を述べているだけでした。
「住宅ローンだって、まだ二千五百万円残ってるんですよ。車のローンもある。これ以上、どうやって返えって言うんですか?」
「外の人からのお金、気持ち悪かったでしょう。お返しくださって結構ですよ」
私は舞子が以前言った言葉を、そのまま返しました。舞子の顔がさらに青ざめていきます。
「第二の封筒も、開けられましたか?」
私が尋ねると、舞子は震える手でもう一通の封筒を見つめました。開封されていない封筒が、まだ握られています。
「二つ目…そんなのあったんですか? まだ開けてませんけど」
「そうですか。では、今ここで開けてみてはいかがですか?」
私は優しく提案しました。舞子がおぼつかない手つきで封筒を切ります。中の書類を見た瞬間、その場に崩れ落ちそうになりました。相続排除の申し立て通知。私の全財産から拓也を完全に排除する、法的手続きの開始を告げる文書です。そして、そこには私の総資産も記載されていました。五億円。
舞子の目が見開かれました。その表情には、信じられないという驚愕が浮かんでいます。口が開いたまま、言葉も出ないようでした。
「あら、舞子さんはご存知なかったのかしら。主人の遺産と私の資産。合わせると、そのくらいになりますの」
私はまるで天気の話でもするかのように、淡々と答えました。
「そんな、聞いてません。拓也さんは遺産は少しだけだって」
「ええ、息子にはそう伝えていましたもの。本当のことを言う必要ありませんでしたから」
その時、後ろから遅れて拓也が駆けつけてきました。息を切らして走ってきたようです。
「母さん、何かの間違いだろ? こんなの冗談だって言ってくれよ」
息子の必死な声。でも、私の心は少しも揺れません。
「間違い? 私は拓也の目をまっすぐ見つめました。あなたたちが私を家族じゃないと言ったのは、間違いだったかしら」
拓也が言葉に詰まります。口をぱくぱくと開閉するだけで、何も言えません。
「それとも、SNSで外の人がいないと快適と書いたのは、間違いだったのかしら」
舞子が後ずさりしました。その目には恐怖の色が浮かんでいます。
「あれは、その、冗談と言いますか」
「冗談? 不特定多数の人に向けて発信した言葉が、冗談だったんですか?」
私の声が、少しだけ冷たくなりました。
「それから、第三の封筒もありますから」
私は続けます。市の文化功労賞の通知。地域医療センター理事長からの感謝状。慈善団体での私の活動記録。私の社会的地位を示す書類のコピーです。舞子の顔から、完全に血の気が引いていきました。
「え? お母さんが、こんな立場の人だったなんて」
「あら、ただの元事務だと思っていたでしょう」
私は優しく微笑みます。
「センスが古くて、時代遅れで、引退した方がいい年齢の、価値のない老人だと、舞子さんが言った言葉を、一つ一つ丁寧に繰り返しました。舞子さん、人を見た目や肩書きだけで判断するものではありませんわよ」
その瞬間、舞子のスマートフォンが鳴りました。画面には「お父さん」の文字。震える手で電話に出ると、父親の怒声が聞こえてきます。玄関先にいる私にも、はっきりと聞こえるほどの大声です。
「お前、とんでもない人を敵に回したんだぞ! 田中さんはこの地域で知らない人はいない名士だっていうじゃないか。うちの会社の取引先の会長も、田中さんを尊敬していると言っていた。お前たち、一体何をしたんだ!」
舞子ががくりと膝をつきました。玄関のタイルに膝が当たる音が響きます。
「お父さん、お願い、助けて。助けてください」
「ふざけるな! お前たちのせいで、うちの会社の評判まで落ちるところだったんだぞ! 今月からのお前たちへの援助は、全て打ち切るからな。二度と頼ってくるな。分かったか!」
電話が切れると、静寂が訪れます。拓也と舞子は、その場に座り込んでいました。二人とも、力が抜けたように、ただそこにうずくまっています。
「母さん」
拓也が震える声で言います。
「本当に申し訳ない。全部、俺が悪い。舞子を止めるべきだった」
舞子も涙を流しながら頭を下げました。
「お母さん、お願いです。許してください。何でもしますから」
二人は土下座の姿勢で謝罪を続けます。額を地面につけて、必死に頭を下げていました。でも、私の心は決まっていました。
「あら、私は外の人なんですよね。家族の問題には関われませんわ」
冷たく、でもはっきりと告げます。
「それに、お寿司は家族だけとおっしゃいましたよね。私は静かに続けました。私の財産も、家族だけのものです。外の人には関係ありません」
「それにお金なら、舞子さんのご両親に頼んだら、いかがですか? 月五十万円も援助してくださる、太っ腹な方々でしょう」
舞子が顔を上げます。その目には絶望の色が浮かんでいました。
「いや、でも、さっき電話で…援助、打ち切られて…」
「まあ、それは大変ですこと」
私は同情のかけらもない声で言いました。
「でも、それも私には関係のないことですものね」
二人の土下座する姿を見下ろしながら、私はこうつけ加えたんです。
「あなたたちが教えてくださったんですよ。私は家族じゃない。外の人だって。だから、私はその通りにさせていただくだけです」
秋の風が玄関先を吹き抜けていきました。金木犀の花びらが一枚、舞子の髪に舞います。
それから三ヶ月後、息子夫婦は三千七百六十万円の返還請求に応じることができませんでした。弁護士を立てて交渉を試みたものの、法的に逃れる道はなかったのです。過去の援助は家族として受け取ったものであり、その家族関係を自ら否定した以上、返還義務が生じる。立花先生の完璧な法的論理に、相手方の弁護士も反論できなかったそうです。結局、自己破産の手続きを取らざるを得なくなりました。
舞子のご両親も、この騒動で娘夫婦への援助を完全に停止しています。「恥知らずが」と、お父様はそう言って電話を切ったそうです。会社役員という立場も、娘の非常識な行動で傷ついてしまったのでしょう。地域の名士である私を侮辱したことが、ビジネスの世界でも悪評として広まってしまったようです。
高級マンションは手放され、息子夫婦は郊外の古い二DKのアパートへ引っ越しました。あの豪華な家具も高級車も、全て手放したと聞いています。拓也の会社でも、この話は広まってしまったようです。母親に対してひどい仕打ちをした男という噂が流れ、社内での評判は地に落ちました。左遷され、給料も大幅に減ったと聞いています。出世コースから完全に外れてしまったのです。
舞子も、傲慢な専業主婦生活から一転、パートで家計を支える日々を送っているそうです。スーパーのレジ打ちをしているのを、雪子さんが見かけたと教えてくれました。
一方、私はというと、地域の慈善活動にこれまで以上に専念するようになりました。新しく児童養護施設への寄付も始めたのです。子供たちの教育費や施設の環境改善に使っていただいています。毎月一度施設を訪問して、子供たちと一緒に過ごす時間も作りました。絵本を読んだり、一緒にお菓子を作ったり、折り紙を教えたり、鬼ごっこをして遊んだり。子供たちの笑顔が、私の心を温かくしてくれます。
「いつもありがとうございます」
施設の先生方や子供たちが、そう声をかけてくれるんです。その言葉の一つ一つが、私の生きる喜びになっています。地域の交流イベントにも積極的に参加しています。子供たちと一緒に体操をしたり、ゲームをしたり。先日は地域の運動会で、子供たちと一緒に走ったんです。みんなに驚かれました。
ある日の午後、友人の雪子さんや他の仲間たちと、優雅なティータイムを楽しんでいました。私の家のリビングに、五人の友人が集まってくれたのです。
「みち子さん、最近本当に輝いてるわね。羨ましいほど若々しいわ」
雪子さんが笑顔で言ってくれます。
「肌つやもいいし、目の輝きが違う。本当に元気になった」
別の友人もそう続けました。
「ええ、本当の家族に囲まれているからかしらね」
私はそう答えました。本当の家族。それは、血のつながりだけではありません。地域の皆さん、友人たち、施設の子供たち。彼らこそが、私の本当の家族なんです。
そして半年後の、ある日。玄関のチャイムが鳴りました。ドアを開けると、そこには小さなリナが立っていたんです。
「おばあちゃん、ずっと会いたかった」
リナの小さな声が、胸に響きます。三歳だった孫は、もう四歳になっていました。少し背も伸びて、顔つきもしっかりしてきています。私はリナを優しく抱きしめました。
「リナちゃん、よく来てくれたわね」
「ママには内緒。おばあちゃんに会いたくて、パパが送ってくれたの」
リナの純粋な言葉に、涙が溢れそうになります。
「リナちゃんは、何も悪くないのよ。おばあちゃん、いつでもリナちゃんの味方なんだから」
その日、私はリナのためだけの教育資金信託を設立することに決めました。五百万円。リナが将来、自分の夢を追いかける時に使えるように。大学に行きたいと思った時、留学したいと思った時、何か学びたいことができた時。ただし、両親を通さず、私が直接管理します。リナが十八歳になったら、本人に贈与する仕組みです。拓也や舞子には、一切触れさせません。リナへの愛情は、何も変わっていません。孫は孫。それはこれからも変わらないんです。
ある静かな夕方、私は亡き夫の仏壇の前に座りました。
「あなた、見ていてくださいましたね」
夫の写真に、優しく語りかけます。
「あなたが残してくれた財産、本当に価値あることに使わせていただきました。あなたなら、きっと喜んでくれますよね」
窓の外を見ると、美しい夕焼けが広がっていました。オレンジ色の空が、部屋を温かく照らしています。秋の空は、どこまでも高く、澄み切ったものです。その時、外から子供たちの声が聞こえてきました。
「田中さーん!」
窓を開けると、地域の子供たちが手を振っています。施設の子供たちも、何人か混じっていました。みんな、元気いっぱいの笑顔です。私は満面の笑顔で、手を振り返しました。
私は、まだまだ元気です。これからも、自分らしく、自分の信じる道を歩んでいきます。私は今、本当に幸せです。そう、心から思えるんです。人生は、何歳からでも輝けるんですから。
