仕事帰りにいつもの居酒屋へ立ち寄ると、店内がいつもと違う空気に包まれていた。店員が青い顔で駆け寄ってきて、声を潜める。
「正美さん、店長が奥でヤクザに絡まれてるんです。助けてもらえませんか」
私はすぐに店の奥へ向かった。薄暗い席で、見覚えのない男が店長に詰め寄っている。店長は憔悴しきった表情で、男の言葉をただ聞いているだけだった。
「おい、関係ない奴は引っ込んでろ。店長と話してんだ」
男は私を一瞥するなり、苛立った口調でそう言った。私は一歩も引かずに男と店長の間へ割って入った。
「あなたがやってることは犯罪ですよ。これ以上取り立てるなら警察呼びますから」
「はあ? 今時警察なんか呼んだら、ただじゃ済まさねえぞ」
店長が震える声で説明してくれた。最近この組の男が出入りするようになり、最初は客の迷惑になるからと泣く泣く金を渡したらしい。それにつけ込んで、何度もみかじめ料を要求してくるようになったという。
「こんなことして、組は大丈夫なんですか? わざわざみかじめ料を取りに来るなんて、よっぽど切羽詰まってるんじゃないですか」
私の言葉に男は明らかに苛立ちを募らせた。声が大きくなり、店内に響き渡る。
「うるせえな。店長が自分から金出すっつってるんだ。俺たちに守られてるんだよ、この店は」
「今時みかじめ料なんて古臭いことして。犯罪ですよ、それは」
私の正論に男がさらに食ってかかろうとした、その時だった。男が私の顔をまじまじと見つめ、その表情が一瞬で固まった。
「……おい、あんた。まさか佐々木組の組長だった、正美さんじゃねえか?」
私は相手の顔に覚えがなかったが、どうやら向こうは私を知っているらしい。かつての名がまだ残っていることに、少し居心地の悪さを感じた。
「そうだよ。俺は長谷川組の組長だ。昔は佐々木組の一号だったが、今じゃこの辺りで長谷川組をまとめてる」
長谷川組。かつて佐々木組とは隣の縄張りで付き合いのあった組だ。しかし組長がみかじめ料の取り立てに出向くなんて、昔の長谷川組なら考えられなかった。
「長谷川組も落ちぶれたんだな。組長がみかじめ料取ってるなんて聞いたことないぞ。そんなことしないとやっていけないってことか」
「うるせえ。人の組に口出すんじゃねえよ」
相手は見下すような目で私を睨んだ。
「あんたが組をやめてから、佐々木組は変わったんだよ。俺たち長谷川組にやられて、かなり弱体化したんだぜ」
その言葉に私は動揺を隠せなかった。組を辞める時、すべては信頼していた部下たちに託してきた。やめた後のことは心配していなかったのに、こいつは何を言っているんだ。
「何言ってんだ。佐々木組は残ってるんだろ」
「残ってるだけさ。実際は俺たちの下で、ご用聞きみたいなもんになってるんだよ。あんたが可愛がってた部下たちは、今じゃ俺たちの下で働いてるんだぞ」
頭を殴られたような衝撃が走った。私が抜けた後、佐々木組は長谷川組に攻められて、かつての勢いを失っていたというのだ。
「あんたは組の世界から足を洗ったんだ。黙ってろよ」
確かに、今の私は一民間人だ。組のことに口を出す権限はない。しかし、この店と店長を守るのは私の意志だ。かつての立場がどうであれ、目の前の不当な行いを許すわけにはいかない。
「組みのことはもう関係ないけど、この店を守るのは変わらない。昔はいい関係だった組を潰したり、みかじめ料を取ったり。てめえは人の心を忘れちまったのか」
私が詰め寄ると、男はますます激昂した。
「あんたらは俺らとの抗争で負けたんだ。この店も俺らが守ってやってんだ。ただそれだけだ」
「お前らの組も、だいぶ弱ってんじゃねえのか。警察にやられたんだろ。組長がこんなことしてる時点で、もう終わってるんだよ」
その言葉に男は言葉を詰まらせた。どうやら図星らしい。警察の一斉捜査でいくつかの組が潰されたことは、私も知っていた。佐々木組もそれで弱ったところを長谷川組にやられたのだとすれば、流れは理解できる。
「長谷川組は問題ねえ。今日はたまたま近くにいた俺が金を取りに来ただけだ」
「嘘つけ。警察が入ったタイミングで、かつて盟友だった組も裏切ったんだろ。挙げ句に自分の部下にも見限られて、今は仲間もいないんじゃねえか」
男は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「片のくせに知ったような口を聞いてんじゃねえぞ。組長だったか知らねえが、今消してやっても構わねえんだぞ」
「お前の組員はお前を見限ったんだよ。他人のことも考えずに自己中心的に動いてる、バカの組長だってことだ。誰もついてきやしないさ」
私の追い打ちの言葉がとどめを刺した。男は我を忘れて殴りかかってきた。私は初めは防戦に回ったが、格闘経験のある私には相手の動きは読めていた。しばらく打ち合ううちに、相手の息が徐々に上がり始めた。
「店が壊れてしまいますので、やめてもらえませんか」
店長の声でようやく決着がついた。私の一撃が顔面にクリーンヒットし、男は床に倒れ込んだ。
「あんたが女だから、少し手加減してやったんだ」
「その状態でまだ続ける気か? こっちは表の世界で毎日トレーニングしてるんだよ。筋肉はてめえみたいに裏切ったりしねえんだ」
男はふらつきながらも悔しそうに睨みつけた。
「俺はヤクザの世界でやってきたんだ。あんたみたいな民間人に負けるわけが――」
「もういいだろ。部下に見限られて、バカの相手にやられて。それ以上強がるのはやめとけ」
男は完全に戦意を喪失し、表情を歪ませながら体を起こした。
「これ以上この店に来るようなら、また潰しに来るからな。もう金は取るな。店長に誓って、さっさと出て行け」
「……こんな店からもう金は取らねえよ。ただし、あんたのことは許さねえぞ。今度どこかで見つけたら覚悟しとけ」
私が拳を振り上げると、男は慌てて立ち上がり、足早に店を出て行った。最後には半泣きの声が聞こえたから、もう二度と来ることはないだろう。
「正美さん、本当にありがとうございます。まさか組長をやってたなんて……」
「それは昔の話ですよ。今はただのトレーナーですから。また何かあったら、いつでも言ってください」
店の中から拍手が起こった。私は照れくさそうに頭をかきながら、いつもの席で一杯だけ飲んで帰ることにした。それからというもの、あの居酒屋にヤクザが出入りすることはなくなった。
その翌月のこと。ニュースで長谷川組が警察に解散届を提出したことが報じられた。やはりあの組は完全に弱体化していて、あの時に男の後ろにいた者など誰もいなかったらしい。
数日後、電話が鳴った。出てみると、あのときの元ヤクザだった。
「……先日はすみませんでした。何でもいいんです。どこか働き口を紹介してもらえませんか」
「散々人に迷惑かけておいて、よく電話してこれたな。自分のことは自分でどうにかしろよ」
それからも何度か電話がかかってきたが、私は一切出ることはなかった。
今でも私は、あの居酒屋に通っている。今日もジムの仕事を終え、いつものように暖簾をくぐると、店長が笑顔で迎えてくれる。かつてヤクザの組長だった過去は、もはや遠い昔の話だ。今の私は一人のトレーナーとして、目の前の人々と誠実に向き合っている。それこそが、私が選んだ新しい生き方だった。
