「お前のような役立たずの新人は、うちの病棟にはいらない」…

「お前のような役立たずの新人は、うちの病棟にはいらない」...

お前のような役立たずの新人は、うちの病棟にはいらない。

遠藤浩司の声が、朝のフロアに容赦なく響いた。入社してまだ三日目のことだ。理由はただ一つ。いや、それはミスですらなかった。桜水希が検査記録の矛盾に気づいたことを、遠藤は知っていたのだ。

不当な解雇だと誰も気づいていない。見送りに立つ遠藤の顔には、隠しきれない嘲笑が浮かんでいる。

エレベーターの扉が開いた瞬間、水希の足が止まった。そこに立っていたのは理事長だった。この日の全員が凍りつくことになる。

入社の朝、桜水希は緊張しながら白い制服に袖を通した。配属先は一般病棟だった。声をかけてくれたのは、新人研修で同じ班だった高橋さだだった。

「分からないことがあれば、何でも聞いてね」

と笑いかけてくれる。その柔らかな声に、水希の緊張は少しだけほぐれた。一方、事務の遠藤浩司は、すれ違うだけで空気を凍らせる男だった。成果を数字でしか語らず、部下のミスには容赦がないと噂されている。救急を取った同僚が始末書を書かされたという話も耳にした。初日には、新人が些細なことで怒鳴られる場面すら目にした。それでも水希は、患者の顔と名前を覚えようと病棟を歩き回る。

二日目、担当患者の田中文が胸の違和感を訴えた。

「大丈夫よ。あなたがいてくれるから安心」

その言葉が水希の支えになった。カルテを確認しても、経過観察のための検査記録はどこにも見当たらない。不審に思った水希は、部署で働く高橋にそれとなく相談した。高橋が確認すると、実施記録のない検査項目に費用だけが計上されていたのだ。同じパターンが数ヶ月にわたって何度も繰り返されている。これはもう、単なる記載ミスでは片付けられない規模だ。

気になった水希は、高橋から聞いた数字をこっそりメモに書き留めた。誰かに見られたらと思うと、指先が微かに震える。

「大丈夫? 顔色が悪いよ」

高橋の声に、水希は曖昧に頷くしかなかった。

そして三日目の朝、水希は高橋に相談しようと事務所を訪れ、メモを片手にその数字を見返していた。背後から遠藤の視線が、じっとその手元に注がれている。

「それ、何のメモだ?」

遠藤の声に、水希の肩がびくりと跳ねた。咄嗟に隠そうとしたが、遠藤の手がメモを奪い取る。ページをめくる遠藤の顔から、見る見る血の気が引いていった。だがそれは一瞬のことですぐに、怒りへと塗り替えられる。

「新人が余計なことをするんじゃない」

低い声が室内に響いた。周りの職員が一斉に手を止めて二人を見つめた。高橋も心配そうな顔でこちらを伺っている。

「余計なことではありません。患者さんの記録が見当たらなかったので……」

水希は精一杯の声で説明しようとしたが、最後まで言わせてもらえない。

「言い訳はいい。お前は元々戦力外だったんだ」

遠藤は水希のメモを机に叩きつけ、鼻で笑った。

「どうせ大した額でもないくせに」

そう吐き捨てる。

「入社三日でこの態度。うちの病棟にはいらない人材だ」

その一言に、フロア全体の空気が固まった。高橋は拳を握りしめたが、何も言えなかった。

「事務、それは……」

高橋が思わず割って入ろうとする。だが遠藤は取り合わず、人事に内線をかけ始めた。

「本日付けで契約を打ち切る。荷物をまとめて出て行ってもらう」

水希は反論の言葉を探したが、喉の奥で言葉が凍りついた。頭の中では、正しいことを言っているはずなのに、声にならなかった。理不尽だと分かっていても、新人の立場では抗う術がない。それでも涙だけは見せまいと、水希は唇を強く結んだ。

荷物をまとめる背中に、遠藤はさらに追い打ちをかけた。

「次の職場では、もう少し空気を読むことだな」

黙って荷物をまとめる水希の背に、周囲の視線が突き刺さる。遠藤の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。全てはこれで終わったはずだった。

荷物をまとめた水希を、遠藤がエレベーターホールまで見張るようについてきた。悔しさと戸惑いが胸の中で渦を巻いている。水希は扉の前に立った。到着を告げるチャイムが鳴り、扉がゆっくりと開いていく。中に人影があるのを見て、水希は反射的に会釈しようとした。だが、その顔を見た瞬間、体が固まる。

「あれ? お父さん、なぜここに?」

思わずその声が漏れた。職場用の言葉遣いなど、頭からすっかり抜け落ちていた。しまったと思った時にはもう遅い。慌てて周りを見回すが、遠藤も高橋も、はっきりとその声を聞いていた。

そこにいたのは、病院グループ理事長の神崎竜一だった。たまたま所用があり、本院に立ち寄っていただけだった。水希がこの病院で働いていることを知るのは、竜一だけだ。まさかこの瞬間、この場所で娘と待ち合わせるとは思っていなかった。

「水希?」

竜一の声にも、隠しきれない動揺が滲んでいる。その一言で、エレベーターホールの空気が凍りついた。遠藤の顔から、見る見る血の気が引いていく。頭の中では、自分の判断の重大さが渦を巻いていた。

「今、娘と……?」

高橋が呆然と呟いた。

「理事長の娘?」

周囲からも小さなざわめきが広がっていく。職員たちも、誰一人として言葉を発せない。竜一の視線が、水希の腕に抱えられたダンボール箱に落ちた。その中身は私物とロッカーの荷物に他ならなかった。

「その箱は何だ?」

低く、しかし静かな声が響く。水希は答えに詰まり、遠藤の方をちらりと見た。遠藤はまるで凍りついたように、その場から動けずにいた。竜一の視線がゆっくりと遠藤へと移っていく。その視線には、言葉を失わせる迫力が宿っていた。その先に何が待っているのか、誰もまだ知らない。

「説明してもらおうか」

竜一の声は静かだが、言葉を失わせる響きがあった。遠藤は喉を鳴らし、なんとか笑顔を取り繕おうとした。

「いえ、その、ただの人事的な判断でして……」

「戦力外だからと聞こえたが」

竜一は容赦なく切り返した。遠藤の額に、じっとりと汗が滲む。

「新人の教育の一環として、少し厳しくしただけです」

苦しい言い訳が続く。

「入社三日の人間の、何を教育したと言うんだ」

その口調が一段と鋭くなる。その場にいた誰もが息を飲んで、成り行きを見守っていた。水希は父の背中に隠れるようにして立ち尽くしていた。本当はこんな形で正体を知られたくない。理事長の娘という肩書きで、何かを覆したいわけではなかった。ただ、目の前の理不尽さを誰かに正しく知ってほしいという思いだけはある。

「お父さん、もういいから」

小さな声で、水希は竜一の袖を引いた。だが竜一は、娘の声にも視線を遠藤から外さない。

「彼女が何を見たのか、正直に言ってみろ」

遠藤の脳裏に、レセプトの数字がよぎった。

「別に、何も……」

しかしその声は、明らかに震えていた。高橋はその様子を見て、確信めいたものを覚える。何かが引っかかる。その予感が、わりと胸に広がった。遠藤が慌てて隠そうとしていたのは、単なる指導問題ではないはずだ。竜一もまた、遠藤の態度に何かを感じ取っていた。

「今日のところは、これで失礼する」

竜一は静かにそう告げた。だがその目には、まだ言いたげな色が滲んでいる。遠藤は深く頭を下げながら、内心で冷や汗をかいていた。この場はなんとか凌いだつもりだった。だが、本当の嵐はまだこれからだ。

翌日、病院内には奇妙な緊張が漂っていた。水希の正体は、あっという間に院内地中に広まっていた。すれ違うたびに、好奇と困惑の入り混じった視線が突き刺さる。

「まさか理事長の娘だったなんて」

そんなささやきが、あちこちで聞こえた。手のひらを返したように、愛想よく話しかけてくる同僚もいる。一方、遠藤からは思いがけず電話がかかってきた。

「先日は言葉が過ぎました。どうか戻ってきてください」

その声には、明らかに媚びるような響きが滲んでいた。水希は違和感を覚えながらも、その場では返事を保留にした。本当に反省しているようには、到底思えない。父の竜一は、あの日以来一度も口を出してこなかった。

「決めるのは、お前自身だ」

その一言だけを残して去っていった。その距離の取り方に、水希はかえって背中を押される気がする。高橋に相談すると、彼女は難しい顔で腕を組んだ。

「戻るなら、ちゃんと理由を確かめてからにして」

高橋のその忠告には、確かな実感がこもっていた。実は高橋自身も、こっそり調べを進めていたのだ。過去数ヶ月分のレセプトを、休憩時間を削って照合していた。そこには、水希が気づいた矛盾と同じパターンがいくつも眠っている。担当を外れた田中文から、「あなたは何も悪くない」と書かれた手紙が届いていた。

「一人で抱え込まないで。私も一緒に確かめる」

高橋は静かに言った。その言葉に、水希の胸の奥が少しだけ温かくなる。遠藤は院内に向けて「円満な人事だった」と説明して回る。多くの職員はそれをそのまま信じているようだった。表向きには、全てが丸く収まったように見えた。だがそれはあくまで表向きに過ぎない。水希と高橋は、その裏で密かに手を組み始めていた。本当の勝負は、まだこれからだった。

深夜の事務所には、水希と高橋の二人だけが残っていた。周囲にはもう誰もおらず、非常灯だけが廊下を照らしている。誰かに見つかれば、それこそ厄介なことになる。それでも二人は確かめずにはいられなかった。パソコンの画面には、削除されたはずの検査記録が並んでいた。バックアップサーバーには、消し忘れたデータが残っている。高橋がシステム管理者に頼み込み、閲覧許可を得ていたのだ。

「見て、これ」

高橋の指が、ある取引先の名前を示す。アクロスコンサルティング。外部発注先として頻繁に登場していた。実在するかどうかも怪しい、聞き覚えのない会社名だった。実施された形跡のない検査に、まとまった費用が計上されている。金額を一件ずつ積み上げていくと、目が眩むほどの数字になった。これが一年や二年の話ではないと気づき、背筋が凍った。これまでの不正な発注額を積み上げると、実に三億二千万円にも達していた。

声にならない声が、二人の口から漏れる。さらに調べを進めると、検査省略の記録も浮かび上がってきた。その中に、田中文の名前があった。胸の異常が、まさにこの時期に見逃されていたのだ。水希の手が震えを抑えられないほど強く握りしめられる。

「これは、ただの横領じゃない」

高橋の声が硬くなった。

「人の命に関わる問題だよ」

水希もまた拳を握りしめた。

「どうする? このまま黙っているわけにはいかない」

高橋が続ける。

「でも、証拠として認めてもらうには、もっと裏付けがいる」

水希も冷静に返した。二人で頷き合い、必要なデータを慎重に保存していく。その時、廊下に足音が響く。二人は反射的に画面を閉じて、息を潜めた。足音はゆっくりとこちらに近づいてくる。扉の前で、その音がピタリと止まった。

証拠は掴んだ。だが、今誰かがすぐそこにいる。

扉がゆっくりと開き、廊下の明りが差し込んだ。そこに立っていたのは遠藤ではなく、竜一だった。

「こんな時間に、何をしている?」

低い声が問いかける。水希と高橋は思わず顔を見合わせた。ごまかしようがないと悟り、水希は画面を竜一に向けた。竜一の目が、みるみる画面の数字に釘付けになる。まさか自分の病院で、こんな数字を目にするとは思わなかった。架空発注、検査省略。そして三億二千万円という総額。医師としての顔が、竜一の中で俄かに芽生えた。

「この検査省略で、患者に何かあったのか?」

その声は震えていた。

「田中文さんです。合併症の兆候を、危うく見逃すところでした」

水希は静かに答える。竜一の拳が机の上できつく握られた。医療を金儲けの道具にするものを、竜一は誰よりも許せない。それから竜一は水希へと視線を移した。正体を隠して現場に居続けた娘の覚悟を、今更ながら思い知る。

「一人で抱え込ませて、悪かったな」

竜一の声が、初めて少し掠れた。

「私も、高橋さんがいてくれたから」

水希は隣に立つ先輩を見た。高橋もまた、長年の違和感がようやく報われた気がする。

「よくやった。二人とも」

その声には、確かな怒りと感謝が滲んでいた。

「ここから先は、私が動く」

竜一は静かに、しかしはっきりと告げた。記録として残った以上、この事実はもう誰にも消せない。竜一の胸には、父としての決意が静かに燃えていた。その一言に、水希と高橋は互いに頷き合う。

翌朝、病院内に緊急理事会の招集がかかる。誰にも知らせず、静かに、しかし確実に事は動き始めていた。静かな嵐が、遠藤のすぐ足元まで迫っていた。遠藤にはまだ何も気づかれていない。

その朝、遠藤の元に届いたのは、簡素な一枚の招集通知だった。この数ヶ月、大きな失点もなく順調にやってきたつもりだった。気に入らない部下を黙らせることなど、造作もないと思っている。それでも朝からずっと、落ち着かない気分だった。

「臨時理事会、議題は追って通知する」

その簡潔さに、妙な胸騒ぎを覚える。理由も分からないまま、いつもと違う空気だけが伝わってきた。念のため、遠藤は自分のパソコンを開き、例のデータを確認した。手が震えるのを感じながら、該当のファイルを次々に削除していく。

「これで、証拠は消えた」

遠藤は独り言をつぶやきながら、安心して息を吐いた。これまでもこうしてやり過ごしてきたのだから、大丈夫だ。だがその油断こそが命取りだった。データは既に、高橋の手によって別の場所へ保存されている。

遠藤はさらに外部業者への電話に手を伸ばした。

「例の請求書の件、記録をこちらの都合に合わせて直しておいてくれ」

何年も前から、こうして口裏を合わせてきた相手だった。電話の向こうで、担当者は渋った様子で了承した。口裏合わせという新たな罪が、また一つ積み重なった。経理にも手を加えようとしたが、操作の履歴は消せない。システムには、全ての改変が静かに記録され続けていた。皮肉にも、隠そうとする努力そのものが証拠を増やしていく。遠藤はそのことに、最後まで気づかなかった。

会議室へ向かう足取りは、いつも通り堂々としている。まだなんとかなる。今回も切り抜けられるはずだ。そう自分に言い聞かせながら、遠藤は会議室の扉に手をかけた。その扉の向こうで、竜一がすでに静かに待っていた。

理事の扉を開けた瞬間、遠藤の足が一瞬止まった。複数の理事に加え、なぜか水希と高橋の姿もそこにあった。

「なぜ彼女たちがここに?」

遠藤の声に、隠しきれない動揺が滲む。竜一は答えず、ただ静かに正面の椅子を差し示した。促されて席についた遠藤の前で、大型モニターが点灯する。映し出されたのは、削除したはずのレセプトデータだった。架空発注先の名前。そして年間三億二千万円という数字。理事たちの間に、重苦しいざわめきが広がった。

「本当なのか?」

ある理事が思わず声を漏らす。室内の空気が一段と張り詰めていく。遠藤の背中に、じっとりと冷たい汗が伝った。

「これは何かの間違いです。悪意ある捏造かもしれません」

遠藤は声を張り上げた。その声には明らかな焦りが滲んでいる。必死に言葉を選んでいた。削除して口裏を合わせようとした先週の努力は、あっさりと崩れ去っていた。そして彼はすぐに、標的を水希へと変える。

「解雇されたことを恨んで、こんな話をでっち上げたんでしょう」

その言葉に、会議室の空気が一瞬揺れた。高橋の拳が机の下できつく握りしめられる。室内の視線が一斉に遠藤へと集まった。

「証拠は全て、システムに記録が残っています」

高橋は落ち着いて言い返した。その声に、迷いも震えもなかった。水希もまた、まっすぐに遠藤を見据える。だが竜一は表情を一つ変えず、静かに口を開いた。

「捏造かどうかは、この後すぐにわかる」

落ち着いた声が響く。遠藤の顔から、見るみる余裕の色が消えていった。それでも彼はまだ、言い逃れの糸口を探していた。竜一の手元には、まだ開いていない資料が控えている。本当の追い詰めは、まだこれからだ。

竜一が脇に置いていた一枚の資料を、静かに取り出した。それは外部業者との通話記録を書き起こしたものだった。録音自体は、高橋がシステム管理者を通じて正式に確保していたものだ。

「例の請求書の件、記録をこちらの都合に合わせて直しておいてくれ」

遠藤自身の声が、余用のない文字となって並んでいる。息を飲む音が、会議室のあちこちから漏れた。誰もが、その内容の生々しさに言葉を失っていた。

「その声は、まさしくあなたのものだそうですね」

竜一は淡々と告げる。遠藤の顔から、完全に血の気が引いていく。もう取り繕う余地は残っていないように見えた。

「録音の許可なんて、法的にどうなんだ? 不当だろう」

遠藤は食い下がった。

「業務上の通報を目的とした記録は、正当な証拠として扱われます」

高橋が冷静に答える。その言葉に、遠藤は返す言葉を失った。顔面は蒼白で、脂汗が滲んでいる。外部業者にも、すでに事実確認の連絡が入っていた。電話の相手は観念し、口裏合わせの依頼を認めていたのだ。

「もう限界だ」

誰かが小さく呟くのが聞こえた。その声に頷く理事が、次々と現れる。これでもう、言い逃れの余地はどこにも残っていない。理事たちの視線が、一斉に冷ややかなものに変わった。

「もう隠し切れん」

ある理事が、絞り出すように呟いた。今まで遠藤に同情的だった者すら、静かに目をそらす。水希はその光景を、ただ静かに見つめていた。これは復讐ではなく、必要な決着なのだと自分に言い聞かせる。

「弁護士を呼ばせてもらう」

遠藤は掠れた声で、それだけを絞り出した。だがその声は、もはや誰の同情も引かなかった。唯一残っていたのは、田中文の件についての追求だ。

竜一は最後にもう一枚の書類を取り出した。それは田中文の診療記録の写しだった。

「この患者の名前に、見覚えはあるか?」

竜一の声が、初めて震える。遠藤の顔から、完全に表情が消えた。経過観察のための心臓検査が、コスト削減を理由に見送られていた。その省略が、まさにこの患者の心不全の兆候を見逃す原因になる。発見が数週間遅れていれば、命に関わる事態もあり得た。幸い、水希は入社二日目の時点で異変に気づき、退職前にカルテ再検査の申し送りを残していた。その申し送りに気づいた同僚が、後日改めて検査を実施した。おかげで一命を取り止めることができたのだ。田中文は今も、経過は良好で穏やかに日々を過ごしている。

「一歩間違えば、命に関わっていた」

ある医師出身の理事が声を荒げた。その言葉に、会議室は水を打ったように静まり返った。遠藤はなおも「予算の都合上、仕方なかった」と弁明を試みる。だが誰一人として、その言葉に耳を貸そうとしなかった。室内には、重苦しい沈黙だけが満ちていく。

「命より数字を優先した、ということか」

別の理事が吐き捨てるように言った。遠藤はそれにも答えることができない。

「医療を何だと思っている?」

竜一の声には、抑えきれない怒りがあった。遠藤は俯いたまま、言い返せずにいる。田中文の件は、単なる横領以上の重みを持っていた。それは人の命を蔑んだ者への、動かし難い断罪の材料だった。竜一は静かに立ち上がり、遠藤を見下ろす。

「これ以上、庇う理由はどこにもない」

その声は静かだが、揺るぎなかった。遠藤の肩が、目に見えて震え始めた。追い詰められた男に、もう逃げ場は残されていない。

沈黙が、痛いほど室内を支配していた。遠藤の唇が微かに震え始めた。何かを耐え忍ぶように、彼はきつく目を閉じる。これまで築いてきた虚勢が、音を立てて崩れていく。

「……もういい」

低く絞り出すような声が漏れた。遠藤はがっくりと肩を落とした。

「全部、私がやりました」

その一言で、張り詰めていた糸が切れる。堰を切ったように、遠藤の口から真実がこぼれ始めた。架空発注も、検査省略も。その全ては自分の指示だったと認める。三年前から、少しずつ手を染めてきたのだと語った。

「最初は、ほんの小さな金額のつもりだった」

それがいつしか、歯止めの聞かない額と膨らんでいく。業績を上げなければ、いずれ切られると思っていた。声が震えていた。プライドと恐怖の間で、歯止めが効かなくなっていったのだ。

「数字さえ良ければ、誰も文句を言わないと思っていました」

その言い訳は、もはや誰の心にも届かなかった。会議室の空気は、もはや誰の肩も持たなくなっていく。高橋は静かに拳を握りしめたまま、動かなかった。水希もまた、複雑な表情でその告白を見つめている。

「患者さんのことは、正直頭にありませんでした」

その告白に、室内がざわめく。遠藤は両手で顔を覆い、深くうだれる。かつての威圧的な態度は、もうどこにも見当たらない。

「……内々に、済ませてもらえないか」

最後に、すがるような声を出した。その願いに、竜一は表情を一つ変えなかった。

「患者の命を危険にさらしておいて、内々もない」

竜一の声は静かだが、鋭い。その一言に、遠藤はもう何も言えなくなった。会議室に、重い沈黙だけが残る。全てが明らかになった。今後は、処分を待つだけだった。

その日のうちに、遠藤の処分が正式に決定した。

「懲戒解雇。以上で、異論はないな」

竜一の声が静かに響く。反対する理事は、一人もいなかった。遠藤は力なく頷くことしかできなかった。さらに竜一は続けて、言葉を重ねる。

「三年間に渡る架空発注した金額は、三億二千万円に上る。これについては、刑事告発も行う」

その言葉に、遠藤の顔から完全に色が消えた。加えて診療報酬の不正請求についても、保険者への返還が決まった。その結果、病院グループは一時的に保険医療機関の指定停止という重い処分を受けることになる。口裏に応じたアクロスコンサルティングも、今後は取引停止の処分を受ける見通しとなった。業界内に噂が広まり、遠藤はもうどの病院にも務められないだろうと、誰もが察していた。退職金も、就業規則に基づき全額不支給と決まった。積み上げてきた地位も、蓄えも、一夜にして失われたのだ。家族にどう説明すればいいのか、遠藤には見当もつかなかった。

数時間後、警備員に付き添われ、遠藤は静かに病院を後にした。かつて水希にそうしたように、今度は自分が荷物をまとめて出て行く番だ。その姿を見送る職員の中に、以前の威勢を惜しむ者は誰もいなかった。

竜一は改めて、高橋に深く頭を下げた。

「あなたの調査がなければ、ここまでたどり着けなかった」

その言葉に、高橋は静かに微笑む。水希にも、竜一は改めて礼を言った。

「お前が声をあげなければ、何も変わらなかった」

その一言が、胸に染みた。病院は田中文をはじめとする患者への説明と、謝罪の場を設けることになる。数日後には、事件の一部がニュースとして報じられた。病院グループの信頼回復には、長い時間がかかるだろう。それでも、膿を出し切ったことに意味はあったはずだ。

数週間後、水希は再び神崎総合病院の白い制服に袖を通していた。今度は、正体を隠す必要はどこにもない。

「お帰りなさい」

高橋の笑顔が、いつも通り迎えてくれる。田中文もすっかり元気な顔で、水希に手を振った。病棟にはあの日と変わらない、穏やかな時間が流れている。竜一は相変わらず滅多に姿を見せない。それでも時折、こっそり様子を見にくることを、水希は知っていた。休憩室では、高橋と他愛のない話で笑い合う時間が増えた。

「無理はするなよ」

すれ違いざま、竜一が短くそう声をかけてくる。その不器用な優しさに、水希は思わず笑みがこぼれた。この病棟で、これからも患者と向き合っていく。あの日全てが凍りついたエレベーターホールを、水希は今日も静かに通りすぎる。そこにはもう、あの緊張も気まずさもない。それこそが、何よりの誇りだった。

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