今日が何の日か、分かってるわよね?
ああ、結婚記念日か。
違うわ。今日は離婚記念日よ。
夫がそう言うと、浮気相手の女が声をあげて笑った。
離婚記念日おめでとうございます。プレゼント、早く提出してくださいね。
結婚記念日を祝おうと、私は豪華な料理を用意して家で待っていた。なのに夫は浮気相手を連れてきて、プレゼントだと称して離婚届を突きつけてきたのだ。夫も浮気相手も、まるで悪びれる様子がない。
おばさんなんかより、若くて可愛い子の方がいいんだよ。さっさと離婚届、出しておけよ。
おばさんは、早く出ていってくださいね。
私は無言で離婚届を手に取り、その場を後にした。そして、夫への制裁のために、ある人物に電話をかける。会社を経営している夫には、このお仕置きが一番応えることだろう。
案の定、離婚届を手に役所へ向かった私を、夫は全力疾走で追いかけてきて、すがりついてきたのだった。
あはは、ざまあみろ。
私の名前はあけみ。婚活パーティーで知り合った三歳年上の夫である健二は、父親が亡くなったのを機に引き継いだ小さな土建会社を営んでいる。健二の会社は、昔から業績不振が続いていたが、最近では大きな仕事が舞い込むようになり、順調に売上を伸ばしていた。
今夜は帰りが遅くなるから。
また? ここ最近ずっとじゃない?
俺にも仕事の付き合いとか、色々あるんだよ。
最近、夫の健二の帰宅が遅くなることが多い。私がそれを問い詰めると、健二はめんどくさそうにため息をついた。前はもっと謙虚な人だったはずだ。会社の経営がうまくいっているせいなのか、健二は自分が社長だということを周囲にひけらかすようになっていた。見栄を張りたいのかブランド品を身につけ、その言動も人を見下すような傲慢なものが多くなっていく。
仕事が終わるとすぐに家に帰らず、夜な夜な飲み歩くことも増えた。健二の金遣いは荒く、キャバクラやスナックなどで湯水のように金を使う。それでちやほやされることが嬉しいのか、健二の夜遊びはどんどんエスカレートしていった。
十分な生活費をもらっていたので、夫の金遣いの荒さを止めようにも、「俺の稼いだ金を好きに使って何が悪い」と言われると、それ以上責めることもできない。ブランド品に身を包み、高級車に乗るようになった健二は、いかにも成金という風体だ。
お前も、もうちょっと見た目に気を使ったらどうだ? 社長の嫁がそんな地味だと、俺が恥をかくだろ。
そんな言い方しなくてもいいじゃない。私は自分の身の丈にあったものを着ているだけよ。
はあ、なんだかお前もおばさん化してきたな。つまらない女になった。
私を見下すような物言いをしながら、健二はため息をつく。健二はこうやって日常的に、私をつまらない地味な女だと馬鹿にした。
健二には仕事をやめてもいいと言われたが、元々働いていないと不安な私は、結婚前から勤めている会社をやめなかった。健二はそれも気に入らないようで、何かに付け私のことを貧乏臭い女だと言うのだった。
前は、こんな人じゃなかったのに。
健二と知り合ったばかりの頃を思い出す。こんな風に人を馬鹿にしたり、見下したりするような人じゃなかった。運良く会社の経営が軌道に乗ったことで、調子に乗りすぎているのだろう。会社の売上はずっと右肩上がりらしい。社員も増え、健二の会社は絶好調に見えた。
前みたいな夫婦に、いつか戻れるかしら。
仕事を頑張るのはいいが、以前の夫に戻ってほしい。私はいつもそう思うのだった。
休日、家で家事をこなしていると、会社に出勤していた健二から私のスマホに連絡があった。
リビングの机の上に書類を忘れたから、会社に持ってきてくれ。なるべく早くな。
リビングのテーブルを見ると、確かにA4サイズの封筒がぽつんと置かれている。仕事で必要なものだ。急いで持ってきてくれと言われ、私は封筒を手に健二の会社へと向かった。
健二の会社に赴くことはそう多くない。顔見知りの社員がいることはいるが、基本的に私の顔を知っている人間は少ないだろう。
こんにちは。健二の会社に到着し、対応してくれた女性に挨拶をする。
え? どちら様ですか?
随分愛想のない子だなと、内心面食らった。その女性は他の社員より随分若い。そして化粧も濃く、事務というより夜のお仕事をしているような女性に見えた。訪ねてきた客への対応にしては、全く愛想のかけらもない。態度の悪さに驚きながらも、私は自分が健二の妻であることを告げた。
あなたが社長の奥様ですか?
ええ、それが何か?
見た目には大学生に見えるその子は、私が妻だと名乗るとその表情を歪めた。
いえ、何でもありません。それで、ご要件は何でしょう?
最初から愛想は悪かったが、私が健二の妻だと分かると、彼女は急に能面のような無表情になった。言い方も随分冷たい。そのあんまりな態度に違和感を覚えながらも、健二が仕事の書類を家に忘れていたから、それを届けに来たことを伝えた。
ああ、はい。はい、分かりました。私からお渡ししておきますので。それで、他にご要件は?
いえ、ないです。
彼女の態度は気になったが、書類さえ渡せばここにはもう用はない。私は居心地の悪さを感じながら、そそくさとその場を後にした。
ねえ、今日書類を届けに行った時に、随分若い子がいたんだけど、最近入った人?
え? えっと、そうそう。最近入ったジムのアルバイトの子だよ。
帰宅した健二に、彼女のことをなんとなく聞いてみる。そのことに深い意味はなかったが、私の言葉に健二は明らかに戸惑っているように見えた。
ふん、なんだかあんまり態度のいい子じゃなかったわよ。私のことはいいけど、仕事なんだからもうちょっと愛想を良くした方がいいんじゃない?
ああ、いや、普段は愛想のいい子なんだよ。体調でも悪かったのかもしれないな。まあ、あんまり気にしないでやってくれ。
なら、いいけど。
なんだか腑に落ちなかったが、私と彼女が会う機会はほとんどないだろうと気持ちを切り替えて、忘れることにした。
しかし、彼女とはその後すぐ、意外な形で再会することになってしまう。
それからしばらく経ち、私と健二の五年目の結婚記念日になった。記念日は毎年、自宅でいつもより豪華な手料理を作りお祝いしている。今年も健二の好物を中心に、喜んでもらおうと腕を振るった。
こんなものかしら。張り切って、いつもより作りすぎちゃったかも。
健二は「仕事」という名の遊びで、ほとんど家に帰ってこない。それでも、たまに帰ってきた時、美味しいものを作って待っていたら、きっと前みたいな関係に戻れるかもしれない。私はそう信じていた。テーブルに並んだ料理を見ながら、今日は何て言ってくれるかしら、と一人で心を弾ませる。
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。
おかえりなさい、健二。丁度料理ができたところよ。
そう言って、私は玄関へと向かった。しかし、そこに立っていたのは健二だけではなかった。見覚えのある顔があった。あの日、健二の会社で対応してくれた、あの若い女の子だ。
ああ、どういうこと?
私が声をかける前に、健二が先に口を開いた。
悪いな、あけみ。今日はお前に伝えたいことがあって来たんだ。
その顔は、これからとんでもないことを言い出すという表情だった。続けて、俺は愛菜と結婚する。だから、お前とはここで終わりだ。
そう言って、健二は私に封筒を差し出した。中身は、言うまでもなく離婚届だった。
おばさん、早く印鑑持ってきてよ。私たち、契約してるからさ。
愛菜と呼ばれた女の子は、勝ち誇ったように笑った。健二の腕に自分の腕を絡めて、私に見せつけるように。
今夜は、健二を祝うはずだったのよ。私たちの結婚記念日を、あんたたちに台無しにされたわね。
はあ? 何言ってるんだよ。いいから、さっさと離婚届を書けよ。
おばさんには、若くて綺麗な健二がもったいないんだよ。早く諦めて、出て行ってよ。
二人は何を言っているんだろう。愛する人が、別の女を連れて、家に来るなんて。しかし、それ以上に私を苛つかせたのは、堂々と家を乗っ取ろうとする二人の態度だった。
私は無言のまま、テーブルの上に離婚届を見つめた。そして、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
ああ、これでやっと終わりだな。
健二は安堵のため息をついた。しかし、私は離婚届を手に取ると、そのまま二人に背を向けた。
あれ? どこ行くんだよ、あけみ。印鑑は?
今、役所に行って、この離婚届を出してくるわ。
そう言って、私は家を出た。後ろから、慌てた健二の声が聞こえた。しかし、私は振り返らなかった。
その足で、私はとある場所へと電話をかけた。相手が出ると、私は静かに言った。
もしもし、あけみです。例の件、お願いします。
健二の会社は、私がツテを頼って紹介した大口の取引先で、なんとかやっていた。しかし、私はその取引先の社長に密かに連絡を取り、健二の素行の悪さを伝えていたのだ。女に手を出し、家庭を顧みず、会社の金を私的に使い込んでいることを。そして、取引先の社長は、私の話を信じてくれた。もう、健二の会社とは取引できない、と。
私はゆっくりと、しかし確実に、あの日から準備をしていたのだ。この日のために。
案の定、健二の会社には、私の思惑通り、取引先から次々と契約破棄の連絡が入った。そして、経営は一瞬にして傾き始めた。社員への給料も払えなくなり、会社は倒産寸前にまで追い込まれた。加えて、私への仮病を装い、会社を休んで女と遊びまわっていたことが取引先に知れ渡り、信用は地に落ちた。しまいには、健二の日頃の言動にうんざりしていた社員たちが、一斉に退職してしまったようだ。
お前のせいで、取引先を失って、挙げ句の果てに社員もみんなやめてしまったんだぞ。どう責任を取るつもりだ?
役所から戻った私に、健二は血走った目でそう言い放った。離婚届を出し終えた私は、無表情のまま彼を見つめる。
責任? それはこっちの台詞よ。あなたは、私に離婚を突きつけて、若い女と遊んでいた。私はそれに耐えていたの。言っておくけど、取引先の社長には、全部話してあるから。
は、はあ? 何言ってるんだよ。まさか、お前がやったのか?
私は何も言わなかった。しかし、その沈黙が答えだと分かったのだろう。健二はみるみる顔色を失っていった。
そんな、酷いじゃないか。俺を見捨てるのかよ。
見棄てたのは、あなたの方でしょ。もう手遅れよ。
健二は、私にすがりつこうとした。しかし、私はそれを振り払った。
そうよね。…お前には、本当に悪いことをしたと思ってる。でも、会社が、会社がもう駄目なんだ。頼む、何とかしてくれ。離婚を取り消してくれ。
社長の座も、金も、女も、全部失くした健二は、これ以上ないほど無様だった。彼が私のことを、取引先の信用を失わせる会社として追い詰めていた過去を、今考えれば私は何もしていない。ただ、彼がしてきたことの報いを、彼自身が受けただけのことだ。
その日、私はすべてのものに別れを告げた。夫であり、私がかつて愛した人。その彼が招いた結末だった。
私は高級マンションを引き払い、何処か遠くへ引っ越すことにした。健二のことは、もう二度と知らない。あの女とどうなろうが、私には関係ない。
私は、生まれ育った街を離れ、新しく生活を始めた。そこで何をするでもなく、ただ静かに暮らしている。健二からは、例の取引先の社長から貰ったお金で、何とか生きていくだろう。
ああ、そうだ。夫の会社を助けようなんて思わなくて正解だった。結果的に、私はあいつに、彼がしてきたことの重大さを思い知らせてやったのだ。
健二が経営していた土建会社は、その後どうなっただろう。私には、もうどうでもいいことだ。
雨の降る日だった。私は、新しいマンションの窓から、何の気なしにテレビを眺めていた。すると、画面に見覚えのある男が映し出された。
あの…私、テレビで見たけど。健二の会社、倒産したんだってね。
あの日、離婚が成立した後、取引先の連中が血相を変えて私を訪ねてきた。みんな、私のことを心配してくれているのだと思っていた。妻としての立場を忘れて、会社の金を抜き取り、女を作って遊んでいる夫を、私は許すことはできなかったのだ。
私が関係を絶ってからも、健二はしつこく付きまとった。会社を終わらせたのはお前だろう、なんとかしろ、と。しかし、私にできることは何もなかった。
ねえ、健二。あなた、自分が何をしたのか分かってるの?
私の問いかけに、その場にいた取引先の人も、ただ黙って成り行きを見守っている。
分かってる。俺が悪かった。もっと、あけみの言うことを聞くべきだったんだ。
健二は、そこで初めて自分の非を認めた。しかし、もう遅い。私の中の何かが壊れてしまった音が聞こえた。
もう、手遅れよ。全部、終わったの。
私はそう言って、ドアを閉めた。インターホン越しに聞こえてくる、健二の泣き叫ぶ声。しかし、私は二度とドアを開けなかった。
私は深く息を吐き、ベランダに出た。空は、どこまでも青く澄み渡っていた。あの日、健二と出会った日と同じくらい、綺麗な空だ。
あの人が何かを言うのを、私は壁に貼った1枚の写真を見つめながら聞いていた。
もう、あの人に関わることはない。私の人生は私のもの。やっと、あの人の呪縛から解き放たれたのだ。
私に残っているのは、この自由と静けさだけ。何もないけど、何かが満ち足りている。
それが、私の選んだ答えだった。
