三万円。結婚して初めて夫から渡された封筒の中身を見て、私は一週間分の食費だと思った。でも違った。一ヶ月分だと聞かされて、しかも家賃も光熱費も全部そこから出せと言われた。ありえない。でも夫の目がそれを許さなかった。「お前、バカか。誰のおかげで飯を食っていけると思ってるんだ」その言葉に、私は反射的に謝っていた。それから毎日が地獄だった。シャツのシワひとつで怒鳴られ、安い食材で作った料理を貧乏臭い…

三万円。結婚して初めて夫から渡された封筒の中身を見て、私は一週間分の食費だと思った。でも違った。一ヶ月分だと聞かされて、しかも家賃も光熱費も全部そこから出せと言われた。ありえない。でも夫の目がそれを許さなかった。「お前、バカか。誰のおかげで飯を食っていけると思ってるんだ」その言葉に、私は反射的に謝っていた。それから毎日が地獄だった。シャツのシワひとつで怒鳴られ、安い食材で作った料理を貧乏臭い...

結婚してから初めて渡された封筒の中身は、三万円だった。一週間分の食費だとばかり思っていた私は、一ヶ月分だと聞かされて言葉を失った。いや、それどころか夫は言い放ったのだ。家にかかる金は全部、その中からやりくりしろと。家格も光熱費も食費も、全部だと言う。

このマンションの家賃は十二万。三万円で足りるわけがない。私は思わず、そんなの無理だと口にしかけた。でも夫の目つきが、それを許さなかった。お前、バカか。誰のおかげで飯を食っていけると思ってるんだ。これから専業主婦なんだから、何とかしろよ。私は恐怖で震え上がり、ごめんなさい、分かったから、と反射的に謝っていた。生真面目で温厚な父のもとで育った私にとって、怒鳴り散らす男の存在は初めてだった。拳を振り上げ、鬼のような形相で睨みつける夫の姿に、私はただ縮み上がるしかなかった。

しまいには、退職金や貯金を使って足りない分を補えと言い出す。女を外で働かせるのは格好悪いが、内職ぐらいなら認めてやるとか、自分の残り物を食わせてやるとか、夫の言葉はどんどん暴力的になっていった。私は心の中で、自分の貯金には絶対に手を出さないと固く決意した。だけど恐怖で、それを言葉にすることはできなかった。

夫の態度が大きく変わるのは、それからだった。シャツに一シワでもあれば不機嫌になり、安い材料で栄養バランスを考えた食事を作れば、貧乏臭いものばかり食わせやがって、と吐き捨てる。三万円でやりくりしろと言ったのは夫の方なのに、どこまでも私を責めた。私はこっそりと、主人の母、つまり義母に相談してみることにした。義母は穏やかで優しい人で、この家の家事をどうやって切り盛りしていたのか、何かヒントがもらえるかもしれないと思った。しかし、私はその義母とも、ある日を境に、ただならぬ溝ができてしまうことになる。

三万円問題をきっかけに、夫の私への扱いはあからさまにエスカレートした。モラハラという一言では片付けられない、毎日毎日、心を削られるような言葉が飛んでくる。ある日は、新聞に載っている社会問題の話を私に振ってきて、私の意見が気に入らないと分かると、お前みたいな頭の悪いやつが口を出すなと怒鳴る。男たるもの、世の中に詳しくないとダメらしい。でも、教養を求めておきながら、私が何か話すと、うるさいんだよと遮る。その矛盾に気づかない夫を、私はただ呆れた気持ちで見つめることしかできなかった。

私には、泣くことしか能がないのか。そう思うと情けなくなる。家にいると、息が詰まる。心を無にして、一日中、家事をして、夫の帰りを待って、またお前は一日中何をしているんだと怒鳴られる。何をしているんだと言われても、やることは山ほどある。でも、そのことで反論すればまた怒られる。私はどうすればいいんだろう。洗濯をしながら、夕飯の支度をしながら、今日も一日を無事に終えることだけを願う日々だった。

ある晩、夫が機嫌よく帰宅した。どうやら取引先との飲み会で、上機嫌らしい。私は、その合間を縫って、勇気を振り絞って切り出した。お願いがあるんだけど、と。ここで生活費を見直してほしい、三万円ではどうしても家計が回らない。せめて八万円、いや、五万円でもいいから、と。すると、夫の顔は一瞬で曇った。何を寝ぼけたことを言ってるんだ。三万円で足りないなら、お前がもっと工夫すればいいだろう。それとも何か、俺を養えとでも言う気か。男の解体がなくなるだろうが。私は反論しようとして、また言葉を飲み込んだ。頼み込んでも無理なのは、分かり切っていたからだ。

夫の奇妙な虚言癖に悩まされたのは、この頃からだ。飲み会に行くと言って、実際には一人で公園のベンチに座っていたらしい。帰宅して、飲み会はどうだった? と聞くと、ああ、すごく楽しかったよ。と笑う。数日後、スーパーで見かけたという近所の主婦から、ご主人、この前公園でぼんやりしてたけど、大丈夫? と聞かれて、私は初めて夫の嘘に気づいた。家計のことを話すと、女同士の井戸端会議で人を笑いものにしやがって、と夫は激怒した。私はそんな話をした覚えはなかったが、もう何も言い返せなかった。

そして、私を本当に追い詰めたのは、夫の友人だった。ある日、SNSで夫の友人の投稿が目に留まった。そこには、あいつ、家のことを全部、妻に任せっぱなしでさ、自分は好き放題してるんだぜ。慰謝料だって貰えるんだぜ、って書いてある。私は血の気が引く思いだった。離婚したら、多額の金をふんだくられる。それが恐ろしかった。私はひたむきに、夫の暴力とも言える暴言に耐え続けてきた。なのに、夫の世界では、私は家計を回せない無能な妻で、それどころか、将来、夫を食い物にしようとしている悪女に見えているんだ。

それでも私は、夫を見捨てられなかった。夫は、何かあるたびに、母はこうだった、俺の母は、ああだったと褒めそやす。でも、その母というのがまた厄介で、たまに遊びに来ると、うちの息子は本当に優しいでしょう、と当たり前のように言う。息子が怒鳴っているのを聞いたことがあるの? と聞いたら、そんなはずないでしょう、あんたの勘違いじゃないの。と笑われた。私は夫の母親にすら、私は夫を騙そうとしている嫁として扱われているのだ。

生活費の三万円を食い潰して、何とかやりくりした月があった。その月は、たまたま職安に行く機会があって、パートの話を貰ってきた。内職でもいいから、少しでも稼げないかと相談するために。すると、夫は烈火のごとく怒り狂った。お前、あの野郎、俺が働かなくていいって言ったのに、それを破る気か。近所に知られたら、俺の見識はどうなる!

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俺の顔に泥を塗る気か! と。そして、私の髪の毛を掴むと、そのまま壁に叩きつけた。ガツン、と鈍い音がして、頭に痛みが走る。ああ、ついに手を上げた。そう思った瞬間、私は反撃していた。あなたのせいで何もかも失った。離婚してやる。慰謝料を払ってもらうからね。そう叫んでいた。

夫は、その言葉には少し怯んだようだった。しかし、すぐに鼻で笑いながら、ふん、慰謝料? お前の方から出て行くなら金はやらんぞ。それに、お前こそ結婚前にためてた金を隠し持ってるんだろう。今、出て行ったら、そっちの方が半分欲しいくらいだ。私は震え上がった。この男は、とことん私から金を搾り取る気だ。私は何も言えず、その場に立ち尽くした。夫は満足そうに笑うと、さあ、仕事が残ってるんだ。早く飯を食わせろ。私の日の丸弁当を無駄にしたくないんだろ。そう言って、テーブルの上に三万円投げ出した。何食わぬ顔で。

私はもう、限界だった。夫が会社に行っている時を見計らって、私はキャリーケースに荷物を詰め始めた。財布の中には、こっそり抜いていたお金が二十万円。それだけが命綱だ。夫に見つからないように、足音を忍ばせて玄関に向かう。鍵を開け、ドアノブに手をかける。その時、背後から声がした。あれ、お前、今からどこ行く気だよ。振り返ると、そこには、仕事を早退した夫が立っていた。その手にはスマホがある。まさか、家で監視カメラでも見ていたのか。私が言葉を失っていると、夫はスマホを弄りながら、お前、まさか俺の金に手を付ける気じゃないだろうな。法的にどうなるか分かってるのか。私は、持っていたキャリーケースを離した。涙が止まらない。違うの、言い訳できない。もう何を言っても無駄だと悟った。

ああ、私はこの人を見誤ったんだ。内職どころか、一歩外に働きに出ようものなら、すぐに追いかけられて連れ戻される。私は、まるで鳥籠の中の鳥だ。最初は悲しくて、悔しくて、どうしようもなかった。でも、段々と心が冷めていくのが分かった。もう、この人のために涙を流すのはやめよう。この数年で、私の心は擦り切れてしまった。私は、キャリーケースを元の場所に戻し、エプロンを身につけた。そして、夫に笑顔を向けた。ごめんね、何でもないの。買い物にでも行こうと思っただけ。夫は疑わしげな顔をしたが、無理に反論する気はなかった。ふん、早く飯を食わせろよ。分かったわ、もうすぐご飯ができるからね。私は台所に立つと、夫の大好きな味噌汁を温め始めた。心の中では、もうとっくに、この家から出ていく準備をしながら。