午後八時を過ぎた頃、リビングでお茶を飲みながらテレビを見ていた。のんびりとした時間の中に、突然玄関のチャイムの音が響いた。出てみると、そこには息子の高志と、その妻の真理子が立っていた。こんな時間にどうしたの、と聞く私に、二人は何も答えず、無言のまま家に上がり込んできた。その顔からは、いつもの温かさが消えていた。
リビングのソファに座るなり、高志が口を開いた。母さん、大事な話があります。その声は冷たく、まるで他人に話しかけるような口調だった。実は、俺たち、母さんとは距離を置きたいんです。はっきり言います。もう家族じゃありません。他人です。
私は言葉を失った。何を言われているのか、一瞬理解ができなかった。すると真理子が、追い打ちをかけるように言った。お母さん、いえ、幸子さん。他人は、うちの敷地をまたがないでください。
全身の血の気が引いていくのを感じた。三十八年間、必死に育ててきた息子から、まさかこんな言葉を聞くことになるとは。私は呆然としたまま、これまでの日々を思い返していた。
夫が交通事故で亡くなった時、高志はまだ四歳だった。生命保険もわずかで、私は必死に働いた。昼は銀行のパート、夜はスーパーのレジ、週末は清掃の仕事。三つの仕事を掛け持ちして、月収十八万円で、なんとか生活を支えてきた。母ちゃんが一番だよ。幼い高志がそう言ってくれるたびに、どんな疲れも吹き飛んだ。大学に行く時も、奨学金で苦労させたくない一心で、自分の老後のための貯金を切り崩して、学費を出した。五年ほど前、息子夫婦がマイホームを建てた時も、頭金が足りないと言われて、退職金から八百万円を差し出した。さらに、私が所有していた土地まで無償で提供した。それは、亡き夫が家族のためにと残してくれた、大切な財産だった。
それだけではない。孫が生まれてからは、毎月十万円の教育費。さらに、生活費として月五万円も渡し続けてきた。私は質素な生活を送りながら、息子家族の幸せのためだけに、支援を続けてきた。孫の健太君が、おばあちゃん、大好き、と笑ってくれる。その笑顔が、私の生きがいだった。
なのに、今、目の前にいる息子夫婦は、まるで私を邪魔者扱いしている。一体、何があったというのだろう。悲しみと怒りが、私の心の中に込み上げてきた。何も言えずにいると、高志が話を続けた。
母さん、誤解しないでください。今まで育ててくれたことには感謝しています。でも、それは親として当然のことでしょう。
当然のこと。その言葉が、私の心に深く突き刺さった。育てるのは当然。感謝されることを望んでいたわけではない。でも、そう言われてしまうと、これまでの苦労が何だったのか、分からなくなった。私は反論しようとした。しかし、口を開く前に、真理子が遮った。
お母さん、いえ、幸子さん、正直に言わせてもらいます。私の両親は、まだ五十代で、現役でバリバリ働いています。話も合うし、現代的で、洗練された考え方をしています。でも、幸子さんは、その…時代遅れというか、古い考え方というか。
私はその言葉に愕然とした。何を言われたのか、理解が追い付かなかった。さらに、真理子は続けた。
それに、お願いです。もう、孫の教育方針に口を出さないでください。英語教育がどうとか、習い事が多すぎるとか、今の時代、それが当たり前なんです。幸子さんの時代とは、もう違うんですよ。
私は思わず、反論していた。でも、教育費は私が出しているのよ。月十万円も。
すると、高志が、冷たく言い放った。
だから、何なんですか?お金を出しているから、口を出す権利があるとでもお思いですか?それは違うでしょう。援助するなら、黙って援助してください。それが、本当の愛情じゃないんですか?
本当の愛情。黙って援助する。私は、ただ、孫のためを思って言っただけなのに。お金だけ出して、口は出すな。そんな都合のいい話があるだろうか。そう思ったが、何も言い返せなかった。
それから、週末の訪問も控えてください。正直、迷惑なんです。私たちにも、生活がありますから。真理子が、畳みかけるように言った。
迷惑?私は、孫に会いに行っているだけなのに。
毎週毎週、勝手に来られても困るんです。それに、健太だって、友達と遊ぶ時間が大切なんです。おばあちゃんとばかり過ごしていたら、友達に変に思われますから。
変に思われる。私の存在が、孫にとって、恥ずかしいものだというのだろうか。孫と会うのが、孫のためになっていないというのか。私は、心が張り裂けそうだった。
すると、高志が立ち上がった。そして、用件は、これだけじゃないんだ、と言った。いやな予感がした。
それから、土地の件なんですが。
やはり、そうきたか。私は、嫌な予感がしていた。
あの土地、まだ母さんの名義になっていますよね。そろそろ、俺の名義に変更してもらえませんか?
え、でも、あれは家を建てるために提供した土地でしょう?もう、五年も住んでいるんだから、実質的には俺たちの土地じゃないですか。いつまでも母さんの名義のままだと、将来的に面倒なことになりますから。
面倒なこと?私が死んだ時の、相続のことを言っているのだろうか。まだ、生きている私の前で、そんな話をするなんて。私は、絶句した。
それに、さっきも言ったように、他人の土地に家を建てているのは、法的にも問題があるんです。早急に、名義変更をお願いします。真理子が、事務的にそう言った。
他人。また、その言葉。私は、震える声で尋ねた。
本当に…本当に、私のことを他人だと思っているの?
はい。高志が、はっきり言った。母さん、いえ、幸子さん。これからは、お互いに干渉しない関係でいましょう。それが、一番いいんです。
でも、今までだって…。
だから、それは、母さんが勝手にしたことでしょう?俺たちが頼んだわけじゃない。高志が、遮るように言った。
私は、耳を疑った。確かに、高志から助けて欲しいと頼まれたから、お金を渡した。土地を渡した。頼まれたから、助けたのだ。しかし、高志は、それを『勝手にしたことだ』と言う。
待って。お金のことはいいわ。確かに、高志から頼まれたわ。でも、それにしたって、五年も前の話よ。今、それを…。
今になって、恩を着せるおつもりですか?高志が、冷たく言った。
私は、違う。恩を着せるつもりなんて、ない。ただ、事実を言っただけ。
でも、実際、お金を出すだけ出しておいて、今更、恩を着せられても困ります。恩を着せるなんて、ひどい人だ。遠回しに、真理子がそう言った。
むしろ、今まで私たちが、面倒を見てあげていたんです。週末に来れば、食事も出していたし、泊まることもありました。その分の食費や光熱費を考えたこと、ありますか?年間にすれば、相当な金額になりますよ。本当なら、請求したいくらいです。
私は、言葉を失った。孫に会いに行くことが、面倒を見てもらっていたことになる?確かに、食事を出してもらったり、泊めてもらったりしたことはあるかもしれない。でも、それは、孫のかわいい姿を見るために、私が喜んで行っていたことだ。それを、面倒を見てもらっていたと、恩を着せられるとは思わなかった。
高志が、頷いた。そうだな。母さんの訪問は、正直、負担だったんだ。真理子も、仕事で疲れているのに、休日に、母さんの相手をしなきゃいけないんだ。それが、どれだけ大変か、分かりますか?今まで、我慢してきたんです。
その言葉に、私の目から涙が溢れ出た。愛情だと思っていた訪問が、負担だった。だまって、我慢していたのは、私を気遣ってのことだったのか。いや、違う。もし、本当にそう思っていたのなら、なぜ、今まで言わなかったのか。
じゃあ、なぜ、今まで何も言わなかったの?
…母さんが、かわいそうだったからです。一人暮らしで、寂しいだろうと思ったから。でも、もう、限界なんです。
限界。その言葉が、私の心を打ち砕いた。育ててもらった恩を、持ち出された。訪問すらも、負担だと言われた。もう、私には、何も残されていない。
これからは、連絡も最小限にしてください。緊急時以外は、電話もメールも、しないでください。真理子が、淡々と言った。
…孫に、会うことも?
会いたければ、事前に許可を取ってください。そして、勝手に会いに来るのは、禁止です。
許可?自分の孫に会うのに、許可が必要だというのか。私は、深く息を吸った。喉の奥で何かが詰まったような、苦しい感覚。それでも、何とか、声を絞り出した。
…わかった。
高志が、ホッとしたように、息を吐いた。良かった。分かってくれて、助かります。
…でも、理由を教えてくれる?どうして、急に、そんなことを言い出すの?何か、私が、あなたたちに、してはいけないことをしたのかしら?
忙しくて、連絡を取る時間がなかったとか、そういうこと?私が、何か、高志たちの気に障るようなことをしたなら、謝るわ。
謝罪?何に対しての謝罪ですか?真理子が、眉をひそめて言った。謝ることなんて、何もありませんよ。ただ、私たちは、もう、これ以上、お荷物を背負いたくないだけです。
お荷物。また、そう言う。私は、自分が、息子夫婦にとって、お荷物になってしまったのかもしれない、という現実を突きつけられた。
それに、高志が続けた。これからは、私たちの生活もあるんで、今まで通り、というわけにはいかないんです。
…お金のこと?
そうじゃなくて、そういう、精神的な面での負担が、大きいんです。高志が、言いにくそうに言葉を濁したが、真理子が、代わりにはっきりと言った。
今まで通り、毎月の援助も、もう、結構です。
私は、さらに衝撃を受けた。援助を打ち切るのか?それとも、単に、私からの干渉を絶ちたいだけなのか。
でも、健太の教育費は?ちゃんと、出せているの?私は、心配になって尋ねた。
それは、私たちで、なんとかします。もう、幸子さんの世話にはなりません。真理子が、きっぱりと言い切った。
その強固な態度に、私は、もう、何も言い返せなかった。息子夫婦は、完全に、私を切り捨てるつもりでいる。理解するのに、時間はかからなかった。
わかりました。最後に、一つだけ、いいかしら?
どうぞ。
…孫の、健太君を、一人で連れて行っても、いいかしら?たまには、おばあちゃんと、二人きりで、どこかに、お出かけしたいの。短い時間でいいから。
私は、ダメだとは言われなかった。しかし、返ってきた答えは、今までの会話の中で、いちばん冷たいものだった。
それは、ちょっと…。また、変に思われますから。近所の目もありますし、それに、頻繁に会うと、健太小学校でも、友達ができないって、可哀想なので。もう、やめておきます。
私は、何も言えなかった。近所の目。世間体。それが、そんなに大事なことだろうか。孫の健太君が、どういう気持ちになるか、考えたことはあるのだろうか。いや、真理子は、私と会うこと自体を、もう、望んでいないのだ。孫のためという、きれいな言葉で、そう言っているだけだ。
高志が、時計を確認した。そろそろ、帰ります。母さん、いえ、幸子さん、体には、気をつけてください。
そして、二人は、今度は何も言わず、玄関へと向かおうとした。私は、その背中に、声をかけた。
高志!
二人は、振り返った。何か、心に響く言葉を、かけたいと思った。
十年後…いや、五年後でいいわ。その時、自分が言ったことが、どれだけ酷いことだったか、分かったら、後悔するわよ。
高志は、一瞬、何か言いたそうに口を開きかけたが、真理子が、その袖を引っ張った。高志は、何も言わず、もう一度、頭を下げると、二人は、玄関の外に出て行った。
パタン。静かに、ドアが閉まった。
私は、その場に、へたり込んでしまった。目からは、涙が止まらなかった。後悔?いいえ、あの二人は、今は、何も感じていないだろう。私の言葉は、全く響いていないように見えた。
あの日から、私は、息子夫婦から、見放されてしまった。今まで、誰よりも、彼らを愛し、支えてきたつもりだった。孫の健太君を、誰よりも喜ばせてきたつもりだった。
それなのに、彼らにとって、私は、ただの『他人』になっていた。
私は、息子夫婦に、何をしてしまったのだろう。いや、何が、彼らを、そうさせてしまったのだろう。私は、ただ、愛したかっただけなのに。
一人残された部屋で、私は、ただ静かに、涙を流し続けた。テレビからは、お笑い芸人の笑い声が聞こえてくる。先ほどまでの、のどかな時間が、嘘のようだった。
あの夜のことがあってから、ちょうど一週間が過ぎた。私は、昼間、誰もいない家の中で、ぼんやりと、縁側に座っていた。
すると、突然、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に、誰だろう。私は、ゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かった。ドアを開けると、そこには、見たことのない、スーツを着た男性が立っていた。
もし、幸子さんのお宅でしょうか?私は、総合建設会社の者ですが。
…何か、御用でしょうか?
あの、実はですね、今、新しく建てるマンションの工事の挨拶回りをしているんです。すぐ近くなので、もし良かったらと、ご挨拶をと思いまして。お菓子を頂いたんですが、どなたからですか?いえ、お宅のご主人様からです。ここ、先日、ご自宅の目の前の土地ですね。
何を言っているんだろう。私の家の前には、土地なんてない。ただ、あるのは、道路と、その先の畑くらいだ。
担当の方は、そう言って、地図を広げた。ここです、と指を指した場所には、確かに、私の家と、その南側に、更地の土地があった。
でも、これは、あの…。もしかして、ここ、もしかして、あの、私が息子夫婦に渡した土地では…。
地図に書かれている、その土地の住所は、確かに、かつて私が所有し、高志に名義を渡した土地だった。だが、私は、まだ、名義変更の手続きをしていない。あの夜、高志たちが、今週中にお願いしますと言ったが、私は、了承していない。それなのに、どうして、不動産会社の人が、ここを知っているのだろう。
もしかして、高志が、勝手に、何かしたのだろうか。まさか、私の知らないうちに、土地の名義を書き換えていたとか?
私は、その場で、頭が真っ白になった。
いえ、その、こちらの方には、何かあったんですか?
あ、いえ。そうですね。高志たちに確認してみます。一旦、帰って、調べてみます。
そう言って、私は、その場をやり過ごそうとした。だが、不動産会社の人は、きょとんとした顔で言った。
あれ?でも、先日、この土地の所有者の方から、連絡をいただきまして。『今、まさに、名義変更の手続きを進めているところだ。もし、必要なら、そちらに書類を渡してほしい』って。
名義変更…。やはり、高志が、私に断りもなく、勝手に動いていたのか。私は、得体の知れない恐怖を感じた。
こちらで、書類を受け取っておきます。私は、そう言って、震える手で、書類を受け取った。
その日、営業マンが帰った後、私は、一人で、差し出された書類をじっくりと読み込んだ。そこには、確かに、土地の売買契約書と、名義変更の委任状らしきものが入っていた。そして、それは、私の署名欄と印鑑の欄だけが、空欄になっている書類だった。
つまり、高志は、私に何も言わず、勝手に、この書類を用意し、私にサインさせるつもりでいたのだ。たまたま、営業マンが来たから、私は、その事実を知った。もし、この書類を受け取ったまま、私は、何も気にせず、破棄していたかもしれない。
そして、もしかしたら、高志は、私の実印と印鑑証明書を使うつもりだったのかもしれない。私は、恐ろしくなった。
高志のやっていることは、犯罪ではないのだろうか。私は、どうすればいいのだろう。
私は、すぐにでも、高志に問い詰めたい衝動に駆られた。しかし、あの夜の高志の態度を思い出すと、恐らく、何を言っても、逆に怒鳴り返されるだけだろう。
私は、目の前の事態に、どう対処すればいいのか、全く分からなかった。
もしかしたら、と、ふと思った。
ひょっとして、あの息子夫婦は、私を、この家から追い出したいのではないのか。土地を奪って、さらに、この家まで奪おうとしているのではないか。私、もう、何もかもが、どうでもよくなってきた。
だけど、なぜか、心のどこかで、まだ、高志を信じたい自分がいる。育てたのは、私だ。あの、優しかった高志は、嘘ではなかったはずだ。
あれから、何日かが過ぎた。高志からは、何の連絡もない。私の方からも、しなかった。
静かな時間が過ぎていく。そして、息子夫婦から連絡が来たのは、それから、さらに一週間が過ぎた時だった。
電話の主は、高志ではなく、真理子だった。
もし、お母さまですか?
母さま?彼らは、私のことを、もう、幸子さんとしか呼ばないはずではなかったのか。何か、様子がおかしい。
もしかして、ありのままで、勝手に、出させていただいたんですけど、今、お時間、大丈夫ですか?
その口調は、以前のような、冷たいものではなく、どこか、不安げで、暗いものだった。
どうしたの?何か、あったの?私は、嫌な予感がした。
はい、あの、実は…。健太が、学校で、熱を出して、早退したんですが…。それで、病院に連れて行ったんですが、どうも、様子がおかしくて、検査をした方がいいと言われて…。大きな病院を紹介されたんですが、ここからだと、車で一時間くらい掛かってしまって…。その、もし、よかったら、お父さまの…、いや、高志の仕事が終わるまで、家で、見ていてもらえませんでしょうか?
私も、今日、大事な取引の予定があって、上がることができなくて…。頼れる人が、誰もいなくて…。本当は、迷惑だとは思うんですが…。
真理子が、珍しく、声を震わせて、早口で、まくし立てた。
私は、一瞬、迷った。数週間前、孫に会うことすら、面倒だと言ったのは、この女だ。私は、この家から追い出したかったんじゃないかと、疑っていた相手だ。
でも、今、電話越しに聞こえる、真理子の不安そうな声。それに、何より、健太のことが心配だった。小さい頃から、見守ってきた孫だ。風邪をこじらせて、苦しんでいるかもしれない。
…分かったわ。今から、すぐに、行くわ。
そう答えるのが、精一杯だった。
お母さま、ありがとうございます!本当に、助かります。
そして、私は、その日、あれだけはっきりと縁を切られた息子夫婦の家へ、足を運ぶことになった。
