雪を見るたび、あの日を思い出す。チラチラと舞い始めた白い粒に、俺は思わず口を開いていた。
「俺も、雪を見てももこを思い出してたよ」
「本当?でも結局、振られたけどね」
「意地悪だなあ」
からかうように笑うももこをよそに、俺は一人、緊張で喉が乾くのを感じていた。言うべきか、言うまいか。再会して、同じ仕事をするようになって、ずっと心の中で温めていた言葉。それを今、伝える時なのだ。
「それでさ、ももこ。俺、伝えたいことがあるんだ」
「どうしたの、急に?」
「あの頃の気持ちとは、もう違うんだってこと」
「どういうこと?」
「大人になって、再会して、一緒に仕事をするようになった。改めてももこを、ちゃんと一人の女性として見るようになった。そしたら、いつからか、好きになっていたんだ。ももこのことを」
ももこは驚いたように目を丸くした。その瞳が、わずかに潤んだように見えたのは、きっと気のせいではない。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私、16年も、あなたのことを待ってたんだよ」
その言葉に、俺の時計が、確かに、あの日に戻ったのだ。
俺の名前は山下太陽。三十歳を過ぎて、今はやっと仕事にも波が乗ってきたところだ。そんな俺の、妻との出会いは、なんと十六年前に遡る。八歳年下の高田もも子との出会い。それは、俺が高校受験を控えた、十五歳の冬のことだった。
その日、俺の住む町は、何年かぶりの大雪に見舞われていた。受験生である俺は塾に通っていて、その日も帰り道だった。いつもは自転車で飛ばして帰るのだが、朝から降り積もった雪のせいで、自転車を漕ぐことは到底できなかった。母は心配して迎えに行くと言ってくれたが、受験シーズン真っ盛り。なるべく親に頼りたくなくて、俺は歩き慣れた道を、重い足を引きずるようにして歩いて帰った。
まだ午後六時前だというのに、日はとっくに落ちて、あたりはすっかり暗くなっていた。
「うわ、靴に雪が入ってきた……」
十数センチは積もった雪の中を、いわゆるスニーカーで歩くのは、なかなか辛かった。何度か立ち止まって、母に電話して迎えに来てもらおうかと思ったが、「いや、まだ大丈夫」と自分に言い聞かせ、また歩き出す。そんなことを繰り返していると、家まであと少しという交差点に差し掛かった。
その時、街灯の下に、黒っぽい何かの塊を見つけた。
「……こんなところに、ゴミを捨てる人もいないだろうに」
足を早めて、恐る恐る近づいてみる。すると、それはゴミではなく、うずくまる小さな子供だった。
しかも、その子供は、体を震わせながら、泣いているようだ。
ヒック、ヒックと肩を上下させ、顔は膝に埋もれている。
「こんな雪の中に……」
このまま素通りすることなんて、俺にはできなかった。そっと声をかける。
「あの……どうしたの?大丈夫?」
その子が顔を上げる。赤く腫らした目に、涙で濡れた頬。小学校の低学年くらいの、女の子だった。
泣き疲れてしまったのか、何を言っているのかはよくわからないが、小さな声で何かをつぶやいている。両手で膝を抱え、寒さで震えているようだった。
「怪我してるの?ちょっと見せてみて」
俺はなるべく優しい声で言い、そっと彼女の膝を見せてもらった。やはり、雪で転んだのだろう。膝からは、少し血が滲んでいた。俺は持っていたハンカチを、その傷にそっと巻いた。
「とりあえず、これで血は止まるよ。……ねえ、お父さんかお母さんは?」
周りを見渡しても、保護者らしき人の姿は見つからない。女の子が、小さな声で答えた。
「……いない。家に帰る道が、分からなくなっちゃったの」
「そうだったのか」
どうやら、俺は迷子の子を助けてしまったらしい。それも、こんな吹雪の中である。
「お兄ちゃんと一緒に、お巡りさんのところへ行こうか」
俺がそう言うと、女の子は不安そうな顔で首を振った。
「え……でも、知らない人について行っちゃダメって、ママが……」
「……はは、確かにな。最近の子供は、しっかりしてるんだな。けど、安心しろ。俺は怪しいやつじゃないんだ」
そう言って、俺はコートのポケットから学生証を取り出した。
「ほら、見て。この近くの中学の制服だろ?俺の名前は、山下太陽だ。ちゃんとした中学生だよ。怪しいものじゃないし、お前を連れ去ったりしない」
そう説明したところで、この子に伝わるだろうか。俺もまだ十五歳。見た目は、ただの若造にしか見えないだろう。しかし、女の子は運良く、俺の制服を見て、少しだけ安心してくれたようだった。
「……ふふ。わかった。……じゃあ、お願いしようかな」
「おう。任せて」
「私はもも子っていう名前なの。高田もも子」
「もも子か。可愛い名前だな。よろしくな、もも子」
俺がそう言って笑いかけ、手を差し出すと、もも子は小さな手を差し出してきて、握り返してくれた。その手は、氷のように冷たかった。
「……足、痛いんだろ。よし、分かった。歩くのは厳しいだろうし、交番までだけど、おぶって行ってやるよ。おんぶ~、だ」
「え?本当に?」
もも子の顔が、パッと輝く。その表情が、あまりに無邪気で、こちらまで優しい気持ちになった。
「おう。お兄ちゃんは運動神経がいいんだぜ。もも子くらい、軽く持ち上げて走ったりもできるからな」
「本当に?すごい!」
「いや、嘘。走るのは流石に無理かも」
正直に言うと、もも子がまた笑った。その笑顔が嬉しくて、俺はしゃがみ込んで、もも子に背中を預けるように言った。
「さ、おいで。しっかり掴まってろよ」
もも子を背負うと、彼女の体は想像していたよりも、ずっと小さくて、そして暖かかった。背中に伝わる体温が、なぜだか愛おしい。
「お兄ちゃん、すごいね。雪の中なのに、全然歩けるんだね」
「これくらい大したことないさ。……それに、お前が軽いからな」
俺は雪の積もる道を、一歩一歩、ゆっくりと歩き始めた。交番までの道のりを、もも子は嬉しそうに、たわいもない話をしながら、俺に話しかけてくる。
「ねえ、お兄ちゃん。そのカバン、何が入ってるの?」
「ん?これはピアノの楽譜だよ。今日はピアノのレッスンだったんだ」
「へえ!もも子、ピアノが弾けるのか。すごいなあ。俺なんて、音符なんて読めたもんじゃないぜ」
「本当は、好きじゃないんだけどね。でも、お母さんが続けなさいって言うから」
「ふーん。でも、いつか弾けるようになったら、楽しいかもよ?」
「……そうかな?」
もも子が少し元気になったようで、俺は安心した。彼女が迷子であることに気付き、声をかけた時、あの瞬間、無事に交番まで連れて行くことができて、本当に良かったと思えた。
「じゃあ、あれだ。今度、何か一曲弾いてくれよ。楽しみにしてるからさ」
「うん!もしピアノを弾けるようになったら、お兄ちゃんに聞かせてあげるね」
「お、約束だぞ」
そんな話をしているうちに、交番の前に着いた。
「ほら、着いたぞ。大丈夫か?」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
交番の中へ入ると、中年の優しそうなお巡りさんが、俺たちの姿を見て、目を丸くした。
「おや、どうしたんだい?随分と雪で濡れているけど」
「すみません。この子、迷子みたいで。あそこの交差点で転んで、泣いていたんです。保護してもらえますか?」
「おう、そうだったのか。ありがとう。君が助けてくれたのか?ご苦労だったな」
「いえ、別に。それで、この子、怪我をしてるんです。膝を擦りむいたみたいで。……すみません、手当てして欲しいです」
「おお、すぐに消毒しよう」
お巡りさんは、もも子を優しく椅子に座らせると、素早く救急セットを持ってきて、手当てをしてくれた。温かいお茶までいただいて、もも子はすっかり安心したようだった。お巡りさんが、もも子のバッグの中から、住所と電話番号が書かれた紙を見つけて、連絡をしてくれた。
「お嬢ちゃん、良かったな。もうすぐお母さんが迎えに来てくれるそうだよ」
「本当?」
「ああ。まったく、心配したぞ。……まあ、とにかく、今回は本当にこのお兄ちゃんに感謝しなさいよ」
「はーい。ありがとう、お兄ちゃん」
「よかったな、もも子。じゃあ、俺はこれで……」
俺が帰ろうとすると、背中に、服の裾を掴む小さな感触があった。振り返ると、もも子が、下から見上げていた。
「お兄ちゃん、待って。……今日は、本当にありがとう」
もも子は、ペコリと、とても丁寧にお辞儀をした。その姿が、あまりに可愛らしくて、俺は思わず、笑みがこぼれた。手を伸ばして、もも子の頭を、そっと撫でてやった。髪の毛は雪で濡れていたけど、それでも温かかった。
「どういたしまして。もう、雪の中を迷子になるなよ。ちゃんとお母さんの言うこと、聞くんだぞ。……じゃあな」
俺は、軽く手を挙げて、ハイタッチをした。パチッと、暖房の効いた空気の中に、軽快な音が響く。もも子は、満面の笑みを浮かべて、走って行った。
”あの”交差点の、街灯の下で、泣いていた小さな女の子。まさか、その女の子が、十六年後に、俺の妻になるなんて、この時は、夢にも思わなかった。
帰り道、寒さで震えるその子を、助けずにはいられなかった。それが、俺の新しい人生の始まりだった。
あれから、時は流れた。中学生だった俺は高校に進学し、大学に進むために上京した。そして、社会人になり、ある仕事に就いた。営業の仕事だった。
階段を上がり、待ち合わせ場所で待っていた人物を目の前にして、俺は声を失った。
「お待たせ、しました……」
「いえ、私も今来たところです」
そこに立っていたのは、あの時、交差点で助けた女の子、高田もも子こと、当時の彼女だった。八歳年下の彼女が、もう大人になっている。あの日の面影は残しつつも、誰よりも輝く、一人の女性になっていた。
「ももこ……?」
「は、はい!お久しぶりです!と、言っても、いきなり呼び出してしまって、すみません」
「いや、全然。てっきり、何かの勧誘かと思ったよ。まさか、こんなに大きくなってるとはな」
「もう、お兄ちゃんまで。私も、成人したばかりなんですから。それより、お久しぶりです。その節は、本当にお世話になりました」
もも子は、深々と頭を下げた。
「おいおい、やめろよ。恥ずかしいだろ。……まあ、元気そうで何よりだ」
「はい!おかげさまで。実は、私、この会社に就職が決まったんです。今日は、そのご挨拶に伺いました」
「え?まさか……」
「はい!お兄ちゃんと同じ、関東営業部に配属になりました!これから、よろしくお願い致します!」
……そういうことらしい。俺は、運命のようなものを感じていた。十六年前、雪の中で出会ったあの日から、俺の心の奥のどこかで、ずっと抱えていた想い。もも子が子供の頃から可愛がっていたというよりは、もっと特別な感情が、この日を境に、確かなものへと変わり始めた。
それから、月日は流れて、もも子は立派な営業職になった。怖いもの知らずで、猪突猛進。仕事はできるのだが、たまにとんでもないミスをする。そんな彼女を、俺がフォローする役目だった。
「すみません、課長。これ、取引先に送る書類なんですけど、持ってきました」
「お、助かった。あがってくれ」
もも子が、俺の部屋に、申し訳なさそうに書類を置いた。今はもう、俺が彼女の上司だ。プライベートでの付き合いは、最初はなかったが、仕事を共にするうちに、自然と距離は縮まっていった。
深夜まで残業した後、始発で帰る時間になるまで、二人でしゃべり込んだこともある。雪の降る夜、近くの公園を散歩しながら、ただの何でもない話をしたこともある。どちらともなく、気が付けば、俺はもも子のことを、「子供の頃から知っている後輩」ではなく、「一人の女性」として見るようになっていた。
「それでさ、ももこは、そういうの、どう思う?」
「私もそう思います。そういうお兄ちゃんは、どうなんですか?」
「俺か?俺は『お兄ちゃん』っていう呼ばれ方、最近、正直ドキドキするんだよ」
「……どういうこと、それ」
「まあ、そういうことだって。細かいことは気にするな」
「……変なの」
そして、今日という日を迎えた。昔、助けた交差点。雪が降るかもしれないという予報でもないのに、俺の心は、あの日から雪で真っ白になっていた。
「いつからです?私が好きだって言う、その気持ちに気付いていたのは」
もも子が、俺に静かに問いかけた。時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
「さあ、いつからだ。気付いたら、もう……こんなに好きになってた。気付いたら、もう、離れられなくなってた」
「お兄ちゃん……」
「俺は、もう『お兄ちゃん』じゃない。だから、名前で呼んで欲しい。そして、……俺と、付き合ってください」
「……ちゃんと、名前で呼んでくれたら、考えてあげる。……太陽さん」
「ももこ……!」
「……うん。私も、好きです。苦しかった。先行く先も分からないのに、私は……」
「もういい。分かってる」
俺は、ももこを強く抱きしめた。あの日、雪の中で出会った、あの小さな君を、こんなにも愛おしく思う日が来るなんて。これは、運命なんだ。絶対に、俺が幸せにする。
「十六年……。随分、待たせたな」
「ううん。やっと、会えたから。ずっと、ずっと、この日のために……」
そんな、宝くじに当たったような、奇跡みたいな物語を、俺たちは、今まさに手に入れようとしている。……といったところで、この話には、まだ続きがある。
