郵便受けから一枚の封筒を取り出した瞬間、私はその場に立ち尽くした。UR都市再生機構からの通知書、そこに印字された数字は「総保証金180億円」。75年間、神田の路地裏で慎ましく暮らしてきた私の小さな木造家が、都市再開発の区域に含まれたのだ。しかし、喜びよりも先に隣人・鈴木さんの言葉が頭をよぎった。「最近はね、財産があると子供たちの方が怖いんだよ。金のために親を殺す世の中だからね。」その夜、私は…

郵便受けから一枚の封筒を取り出した瞬間、私はその場に立ち尽くした。UR都市再生機構からの通知書、そこに印字された数字は「総保証金180億円」。75年間、神田の路地裏で慎ましく暮らしてきた私の小さな木造家が、都市再開発の区域に含まれたのだ。しかし、喜びよりも先に隣人・鈴木さんの言葉が頭をよぎった。「最近はね、財産があると子供たちの方が怖いんだよ。金のために親を殺す世の中だからね。」その夜、私は...

郵便受けから取り出した封筒には、UR都市再生機構と記されていました。何の気なしに開けた私の手は、次の瞬間、震え始めていました。都市再開発事業保証金算定通知書、土地保証金152億円、建物保証金28億円、総保証金180億円。その数字を見た瞬間、現実感がありませんでした。180億円、つまり1800の何がいくつだという話ではなく、単純に桁が違う。私は75歳です。生涯を過ごしてきた神田近くの小さな木造家が、大規模な都市再開発事業の区域に含まれたことで受け取ることになった天文学的な金額でした。

しかし、喜びよりも先に恐怖が襲ってきました。数日前に隣の家の鈴木さんが言っていた言葉が頭をよぎったのです。「最近はね、財産があると子供たちの方が怖いんだよ。金のために親を殺す世の中だからね。」もしや、うちの子たちも。その瞬間、3人の息子の顔が浮かびました。大企業の役員である長男の周一、定食屋を営む次男の健二、そして就職中の三男の康太。最近のニュースで見る話はあまりにも衝撃的でした。数十億円の相続を巡って家族が敵になり、子供が親を老人ホームに置き去りにするような話です。180億円という保証金を前にして、変わらずにいられる子供が果たして何人いるでしょうか。一晩眠れませんでした。先に行った夫と共に、誇りを持って路地裏で3人の子供を育て上げた私の人生が、こんな形で終わるはずがない。

翌朝、私は決心しました。この莫大なお金を分け与える前に、必ず確認しなければならないことがある。果たして私の息子たちが、お金のためではなく本当に心から母親を思ってくれているのか。夫が生前よく言っていました。人は金の前に立つと本性が出るものだ、と。夜明け前から箪笥をかき回し、一番古びた着物を取り出しました。何年か前の正月に着たもので、袖の先が少しほつれ、色も褪せています。普段なら決して着て出かけることのない服でした。鏡の前に立った自分の姿は、実にみすぼらしく見えました。まるで助けを切実に必要としている貧しい老婆のようでした。しかし、これこそが今必要な姿だったのです。

最初のターゲットは、大企業で役員として働く長男のところでした。港区の高級マンションに住むあの子は、いつも忙しいと言って、お盆や正月にもほんの少し顔を見せるだけでした。地下鉄に乗りながらも心は複雑でした。本当にこんな芝居をしなければならないのかと思う一方で、もしかしたら息子が温かく迎えてくれるかもしれないという最後の希望も抱いていました。しかし、何よりも怖かったのは、息子の本当の姿を見てしまうことでした。180億円という保証金を前に、私の子供たちはどんな顔を見せるのでしょうか。今日1日が終われば、息子たちの本当の顔が分かるのです。果たして長男は、貧しくなった母親にどんな反応を示すのでしょうか。

麻布十番駅で降り、そびえ立つマンション群を見上げると首が痛くなりました。30階建ての高級マンション、長男の周一が住む場所です。コンシェルジュに訪問を告げると、彼は私を上から下までじろじろと見ました。みすぼらしい身なりのせいか、表情が優れません。まるで「なぜこんなところに来たのか」とでも言いたげな視線でした。嫁に事前に連絡せずに来たのはまずかったかと心配になりました。エレベーターで25階まで上がる間、心臓がドキドキしました。本当に久しぶりに息子の家を訪れるのです。最後にここに来たのがいつだったかも、もう思い出せません。ピンポーン。インターホンを鳴らしましたが、しばらく何の音もありません。留守かと思い、もう一度押すと、ようやくドアが開きました。

「え、母さん、急にどうしたんですか?」長男の周一が驚いた顔で私を迎えました。しかし、歓迎しているというよりは、明らかに戸惑っている様子です。まるで良からぬ厄介者が訪ねてきたかのような表情でした。「周一、急に来てごめんね。ちょっと急ぎの用があってね。」私は息子の顔をじっくりと見ました。以前より少し太り、高価なブランドの服を着ています。手首には、キラリと光る腕時計までしていました。ああ、うちの息子はこんなに立派になったんだなと思いました。「あ、はあ。まあ、どうぞ、上がってください。」リビングに通されると息を飲みました。信じられないほど広い空間に、高価な家具がずらりと並んでいます。50インチは超えていそうな大型テレビではニュースが流れていました。しかし、周一は私をまともに見向きもしようとしません。ソファに座ったままタブレットを見ています。株価のチャートなのか、びっしりと書き込まれていました。母親が来たというのに、視線をそらそうともしません。「周一、いや、何ですか?でも、ちょっと急いでるんです。今日の取引が終わる前に売らないといけない株があって。」その瞬間、胸が締め付けられるようでした。母親が来たのに、株の方が大事だというのでしょうか。以前はせめてお茶の1杯くらいは入れてくれたものですが。しかし、我慢しました。今日は試すために来たのですから。

「実はね、母さん、体の調子が悪くて、大きな病院に行ったら手術が必要だと言われたんだ。それで、何だかんだで5000万円ほどかかるんだけど、少し助けてもらえないだろうか。」その言葉に、周一はようやく顔を上げました。しかし、心配そうな表情というよりは、面倒臭そうな色が目に浮かんでいます。私の言葉が終わるや、周一は深いため息をつきました。そしてタブレットを置きながら言いました。「母さん、うちも子供の教育費やら住宅ローンやらで家計は火の車なんです。最近は景気も悪いですしね。」そう言うと、財布から1万円札を1枚取り出し、私の手に握らせました。「これでタクシーでも使って病院に行ってください。これ以上は僕にはどうすることもできません。」その瞬間、私の手は氷のように冷たくなりました。1万円、たったの1万円です。果たして次男はどうでしょうか。

長男の家を出て駅へと歩く私の足取りは重いままでした。手に握らされた1万円札が、まるで石ころのように感じられます。5000万円が必要だと言ったのに、1万円。私が育てた息子が、こんな人間だったとは。しかし、まだ諦めるわけにはいきません。次が残っています。電車を乗り継ぎ、区の中条へと向かいました。定食屋を営む次男の健二が住む場所です。長男とは違い、庶民的な人々が暮らす町でした。向かう途中、考えました。健二は違うはずだ。商売をしているから、人の事情もよくわかるだろうし、兄さんよりは心が温かいはずだ。そんな希望を胸に、定食屋の前に到着しました。「健二食堂」という看板がかかっています。店の中からは油の弾ける音が聞こえてきました。昼下がりで、客はあまりいないようです。

「母さん、どうしてこんなところまで?」健二が油のついた前かけをしたまま出てきました。長男よりは歓迎してくれているようでしたが、それも束の間でした。「中に入ってもいいかい?」「あ、うん、どうぞ。」店は狭く、テーブルが5つほどあるだけでした。壁紙も古びて見えましたが、丁寧に掃除されています。私は適当な席に座りました。健二も向かいに座りました。「急に悪いね。ちょっと話があって来たんだ。」「何だよ、改まって。もしかして、金の無心とか?」健二は笑いながら言いました。私が何も言わずにうつむくと、彼は笑うのをやめました。「おい、母さん、まさか本当に?」「実はね、健二。母さん、体が悪くてな。手術が必要らしいんだ。それで5000万円ほどかかるそうで、少しずつでもいいから、協力してもらえないかと思って。」私は震える声でそう言いました。健二はしばらく黙って私の顔を見つめていましたが、やがて重い口を開きました。「母さん、悪いけど、俺も精一杯なんだよ。この店だって、本当は儲かってるわけじゃないし。家賃もあるし、従業員も雇ってるし。」「でも、健二、お前は昔から気持ちの優しい子だっただろう。母さんのことも大事にしてくれると思ってたんだが、母さんはそんなに長くないかもしれないんだ。」私がそう言うと、健二は深く息を吐きました。「わかったよ、母さん。本当は無理なんだけどな。」そう言って、彼は奥の部屋へと入っていきました。しばらくして戻ってくると、小さな封筒を私に差し出しました。「これで、ほんの気持ちだけど。でも、これで限界だからな。」私は封筒の中を覗き込みました。札束が数枚入っていました。おそらく、10万か20万といったところです。「ありがとう、健二。本当にありがとう。」「もう帰ってくれよ、母さん。俺もこれから仕込みがあるから。」健二はそう言うと、立ち上がって調理場へと戻っていきました。彼の背中は、少しだけ小さくなったように見えました。

結局、次男からも大した額を引き出すことはできませんでした。しかし、長男のときとは違い、少しばかりの温もりを感じました。これが彼の精一杯なのかもしれません。私は定食屋を後にして、最後の目的地である三男の康太のアパートへと向かいました。康太は就職活動中の身で、今はコンビニでアルバイトをしながら暮らしています。最寄り駅から歩くこと15分、古びたアパートの一室です。インターホンを押すと、しばらくしてから「はーい」という元気な声が聞こえ、ガチャリとドアが開きました。「あれ?母さん、どうしたの。珍しいじゃん。」康太は私の姿を見ると、にっと笑いました。しかし、私の着ている古びた着物を見て、表情が変わりました。「どうしたんだよ、その格好。何かあったのか。顔色も悪いし、入って入って。」彼は私を部屋の中に招き入れました。部屋の中は狭く、本やら服やらが散乱しています。でも、穏やかで温かな空気が流れていました。彼は私を座らせると、コップに水を入れて私に差し出しました。「ほら、母さん。まず水でも飲めって。」私はその水を一口飲みました。そして、同じように話しました。体調が悪くて、手術が必要だ。5000万円かかる。だが、今回は手伝ってもらえるかとは言い出せませんでした。「母さん、わかったよ。」話を聞き終えた康太は、そう言うと立ち上がり、今度は小さな貯金箱を取り出しました。彼はその貯金箱を開けると、中身を机の上にぶちまけました。札束ではありません。小銭が大半の1万円にも満たないようなお金です。「ごめん、母さん。今はこれが精一杯なんだ。でも、これで少しでも足しにしてくれ。」そう言って、彼は私にその小銭の山を押し出しました。「いいえ、康太。そんなことはしないよ。これは母さんが悪かったの。ごめんね。」私は震える手で、小銭の中から100円玉を1枚だけ取り出しました。「この100円玉で、何か美味しいものでも食べるわ。気持ちだけもらっておくね。」そう言うと、康太の目に涙がたまりました。「母さん、本当にごめん。俺、もっとしっかりするから。いつか絶対、楽をさせてやるから。」私は彼の頭をそっと撫でました。「ありがとう、康太。母さんが、いつも楽しみにしてるからね。」その瞬間、私の心は決まりました。この子たちに間違いはなかった。長男の冷たさに胸を痛め、次男の精一杯の気持ちに心を動かされ、三男の無償の優しさに救われました。私は家に帰ると、改めてテーブルに封筒を置きました。そして、ある場所へ電話をかけました。「もしもし、前回の件ですけど、たしかに甥が受け取ることで問題ありません。」その電話が何を意味するのか、息子たちはまだ知りません。

数週間後、私は再び3人の息子たちに連絡を取り、実家に集まるように言いました。全員がそろっても、長男の周一は時計を気にしてそわそわしていました。「母さん、用件って何?俺、この後大事な会議があるんだけど。」私はゆっくりと立ち上がり、引き出しからあの封筒を取り出しました。「聞きなさい、みんな。母さんはずっと考えていたの。あの時言った手術のことは、実は嘘よ。」3人の顔が一斉に驚きに変わりました。「母さん、どういうことだよ。」健二が眉をひそめながら言います。私は続けました。「本当は確かめたかったの。もしものときのためではなく、普段から母さんをどう思ってくれているのか。あのとき、みんなを試すようなことをして、本当にごめん。」そして、私は封筒から書類を取り出しました。「神田の家が、再開発で180億円になるわ。このお金は、3人で分けてほしい。」沈黙が部屋を支配しました。先ほどまでそわそわしていた周一が、みるみる蒼白になっていきます。「1、80億…」健二も言葉を失ったようにボーゼンとしています。「あのときの1万円も、100円玉も、母さんには何よりもうれしかったわ。あぁいう風に、精一杯の気持ちをくれたことは、あの試練よりも重いものを私に与えてくれた。」私は嬉しそうに話しました。「でも、母さん…」と、周一が何か言いかけたのを手で制しました。「だから、このお金は、あなたたちがちゃんと育てた私の自慢の息子たちへの、最高の贈り物よ。」私はそう言って、ほほえみました。しかし、息子たちの顔は、自分のもののようにこわばっていました。長男も、次男も、三男も、机の上の封筒を見つめたまま、誰一人として幸福そうな顔をしていませんでした。

「どうしたの?みんな、好きなものを買って、何不自由なく暮らすといいよ。母さんからの、最後の心づくしだから。」しかし、最初に口を開いたのは、意外にも三男の康太でした。「母さん、俺、これを受け取ることはできないよ。180億円なんて、一人で抱えきれる額じゃない。」彼は深くうつむきました。「母さんが、それを余分なものだと思っているなら、俺は嬉しくない。母さんの心はお金で買えないんだよ。」その言葉に、はっとしました。私は目を丸くします。「康太…?」「母さん、俺はこの家で、お父さんと母さんに、お金では買えないものをたくさんもらってきたと思うんだ。だから、これを受け取るわけにはいかないよ。それは、その…母さんの人生を否定することになるから。」すると、今度は健二がうなずきました。「俺もだ。母さん、俺たちが母さんを試したみたいなことを言ったけど、あの日、母さんが来てくれて、正直うれしかったんだよ。あのとき、母さんが店に来てくれて。もし、母さんが誰よりも自分を大事に思ってくれる家族だって忘れてなかったら、こんなチャンスはなかった。この家に生まれて良かったって、心から思えたんだ。」そして、周一です。周一はしばらく沈黙していましたが、やがて、力なく口を開きました。「母さん、俺は…あの日、母さんが来てくれて、心の底から「うるさいな」って思った自分がいた。でも、それは俺がおかしかった。母さん、ごめん。そして、ありがとう。180億円は…受け取れない。俺には、そんな大金を扱う器量はない。」彼の目には初めて、悔しさなのか、情けなさなのか、複雑な涙が見えました。私は3人の顔を見渡しました。育て方に間違いはなかった。お金に心を動かされず、あるいは、迷いながらも、彼らはちゃんと「母の子」であり続けたのです。

「…ありがとう、みんな。」私は3人に向かって、深々と頭を下げました。「あなたたちが私の子供で、本当に良かった。このお金は、母があなたたちのこれからに使わせてもらうわ。全員で温泉にでも行って、美味しいものを食べて、たまには母にも会いに来てくれる?」3人の息子たちは、ようやくほっとしたような笑顔を見せました。結局、180億円のほとんどは、私が信頼できる弁護士と税理士に相談し、老後資金を除いて、癌で苦しんでいる子供たちのための医療基金や、犯罪で親を失った子供たちの支援団体などに寄付しました。息子たちはみんな、それが良いと言ってくれました。神田の家は、再開発に伴い取り壊されることになりましたが、私は少しも名残惜しくありませんでした。あの家でみんなを育て、あの家で夫と最期の時を過ごし、そして、あの家で、私は何よりも大切なものを確かめることができたのですから。

75歳の春、私は独りで新しい街に引っ越しました。大きなマンションでも、高価な家具でもありません。日当たりの良い小さなアパートの一室です。しかし、そこには何よりも豊かな時間が流れています。窓辺のソファに座って、外を歩く親子連れを眺めながら、私は思います。今日も元気でやっているかしら、と。しばらくすると、スマートフォンが震えました。画面を見ると、なんと3人全員から「母さん、元気?」というLINEが届いています。周一は「週末、嫁と子供たちと実家に行くよ」と書き、健二は「新作の定食、試作したから食べに来て」と送り、康太は「今日は電話していい?」と続けました。私は思わず、ほほが緩みました。遠くの誰かに頼らなくても、私はもう十分に幸せです。だって、私の息子たちは、目に見えなくてもお金に代えられるものこそ、こんなにも身近に、いつも私に手を差し伸べてくれるから。それが、何よりも私への、最高の“お金”なのでした。

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