披露宴の最中、美和が突然立ち上がり、叫んだ。「財布がないんです。盗まれたんです。」次の瞬間、彼女の平手が私の頬を打った。百人の視線が凍りつく中、息子の浩司さえ信じられない顔で私を見ていた。私は六十五歳、都内の古い一軒家で一人暮らし。夫を亡くして八年、彼が遺した家と資産を管理してきた。現役時代は銀行の審査部で三十年、数字の裏の嘘を見抜く仕事だった。美和が初めて家に来た日、彼女の視線は壁から天井…

披露宴の最中、美和が突然立ち上がり、叫んだ。「財布がないんです。盗まれたんです。」次の瞬間、彼女の平手が私の頬を打った。百人の視線が凍りつく中、息子の浩司さえ信じられない顔で私を見ていた。私は六十五歳、都内の古い一軒家で一人暮らし。夫を亡くして八年、彼が遺した家と資産を管理してきた。現役時代は銀行の審査部で三十年、数字の裏の嘘を見抜く仕事だった。美和が初めて家に来た日、彼女の視線は壁から天井...

式の最中、美和が突然立ち上がり、声を張り上げた。「財布がないんです。私の財布、盗まれたんです。」会場の空気が一瞬で凍りついた。次の瞬間、彼女は私のテーブルまでまっすぐ歩いてきて、鋭い平手打ちを私の頬に叩き込んだ。会場の視線が一斉に私へ集まる。息子の浩司でさえ、信じられないという顔で私を見ていた。

私は頬に手を当てたまま、静かに会場を見渡した。怒りはどこにもなかった。ここまでは想定通りだった。この日のために、私は三か月間準備を続けてきたのだ。

私の名前は田中かず子。六十五歳の一人暮らしだ。都内に建つ築四十年の一軒家で、夫を亡くしてから八年間、一人で暮らしてきた。夫の竜二が遺してくれたこの家と、彼が大切に運用してきた不動産や資産を、私はすべて引き継いで管理している。その総額については、息子の浩司にも話したことがない。伝える必要を感じなかったし、伝えるつもりもなかった。

現役時代は地方銀行の審査部に三十年間勤めた。融資を判断する部署で、数字の裏に潜む嘘を見抜く仕事だった。その観察眼は退職してからも衰えていない。

浩司は今年三十二歳になる。IT系の会社に務め、仕事には真面目に取り組んでいる。ただ恋愛となると様子が変わる。好きになった相手を正しいと信じてしまうところがある。それは昔からの彼の癖だった。

浩司の婚約者である美和と初めて会ったのは、昨年の春のことだ。駅近くの小さなイタリアンレストランで三人で食事をした。彼女は淡いベージュのワンピース姿で、髪を丁寧に整えて現れた。テーブルにつくなり、彼女は頭を下げた。「お母さんからいつもお話を聞いています。お会いできて嬉しいです。」物腰は柔らかく、言葉の選び方も丁寧だった。初対面の印象は確かに悪くなかった。

ただ、食事が進む中で私は小さな違和感に気づいた。美和の質問が、ある方向に漂っているのだ。

「かず子さんは、今お仕事はされていないんですか?」

「退職してから、家の管理を少し。」

「家の管理って、アパートとかですか?」

「ええ、まあ、そういうものね。」あえて詳しくは答えなかった。美和は「そうなんですね」と微笑んだが、その目は次の言葉を待っているようだった。浩司はそれに気づかず、話を続ける。私は特段大きな反応はしなかった。表面上は何も変わらない。

美和が初めて家に来たのは、それから三か月ほど経った頃だった。玄関先で丁寧に頭を下げ、手土産に百貨店の貸し折りを差し出した。立ち振る舞いに隙がない。リビングに案内すると、美和は室内をゆっくりと見回した。目線が壁を伝い、天井へ、窓の外へと移る。値踏みするような色が混じっていると気づいたのは、お茶を出してからだ。

「素朴なお家ですね。昔のお家って独特の雰囲気がありますよね。」

「築四十年になるけれど、住み心地はいいわ。」

「レトロというか。浩司も子供の頃から慣れているから、過ごしやすいんでしょうね。」

レトロというのを褒め言葉として受け取るには無理があった。ただ、それを指摘する気にはなれなかった。「庭も広いですね。手入れ、大変じゃないですか?」

「手が届く範囲は自分でしているの。」

「え、全部ご自分で? すごいですね。」彼女の物言いの奥に、「それしかできないのか」という視線を感じる。もちろん、そう断じる根拠はなかった。

その日の帰り際、美和は玄関でもう一度室内を振り返った。「次はもっとゆっくりお邪魔したいです。」私は「また来てちょうだい」と答えて、二人を見送り、鍵を閉めた。リビングへ戻ると、テーブルの上の小物入れに目が止まった。蓋の向きが逆になっている。中には切手が数枚と古いコインが入っていたが、大した価値はない。引き出しに移して、気のせいと思うことにした。

二度目の訪問は翌月だった。美和は浩司と一緒に上がり込み、「今日は夕食を食べていく」と当たり前のように言う。夕食の席で、美和の視線が私の服装に止まった。

「かず子さんっていつもそういうお洋服なんですか?」

「動きやすいものが好きなの。」

「浩司の会社の方に会う機会もあるでしょうし、揃えた方がいいですよ。」浩司の会社の人間に会う予定など、私にはなかった。「センスのいいお店を知っているので、今度ご一緒しましょうか。」

「お気遣いなく。」それだけ返すと、美和はすぐに話題を変えた。私が台所へ片付けに行けば、「手伝います」と言ってついてくる。美和は皿を片付けながら台所を見渡していた。「古いお家は収納が少ないですよね。工夫が大変じゃないですか?」

食後、美和がトイレを借りると席を外した。戻ってきた時、何かを確かめてきたような顔をしていた。その後、玄関脇の棚に置いてあった封筒がなくなっていることに気づいたのは翌朝だった。中には未使用の商品券が数枚入っていたはずだ。家中を探したが見つからない。

夜、浩司に電話をかけた。「美和さんが来た後から、物がなくなることがあって。」

「それって、美和を疑ってるってこと?」

「そうじゃないけれど、気になって。」

浩司がため息をつく。「年を取ると、しまった場所を忘れることがあるって聞くよ。まだそこまで心配する年でもないけど。」

「お母さん、美和のことが気に入らないだけじゃないの?」さらに呆れた様子で言われた。「結婚前からそういうこと言われると、正直困るんだよね。美和はちゃんと気を使ってくれてるんだよ。」

電話を切り、受話器を置く。浩司は最後まで私の話を聞かなかった。怒りよりも、息子が一切信じてくれなかったことへの寂しさが募った。

美和の三度目の訪問は、浩司が婚約の報告を兼ねてやってきた日だった。彼女は隣に座り、丁寧に頭を下げた後で口を開いた。「こちらのお家は、どうされるおつもりですか?」

「美和、いきなりその話はないだろう。」

「ごめんなさい。でも、大事なことだから確認しておきたくて。」さらに美和は笑顔を浮かべて続ける。「古い家って維持費もかかりますよね。浩司の負担にならないか心配で。」

「浩司に負担をかけるつもりはないから。」

「でも、将来のこと、一人だと、いつどうなるかわかりませんし。」美和の心配には、いつも次の行動への足がかりが含まれていた。浩司が台所へ飲み物を取りに行った数分間も、彼女は私にまっすぐ目を向けて言った。「結婚したら、近くに住もうと思ってるんです。老後のことを考えると、すぐ近くにいた方が安心でしょ。」美和の視線がリビングの棚へ動いた。

この頃から、家の中の違和感が積み重なり始めた。引き出しの中の並びが変わっていたり、棚の小物が微妙にずれていたり。毎回ではなかったが、美和が帰った後に気づくことが続いた。

翌日、親友のせつ子に電話をかけた。せつ子とは銀行時代から三十年の付き合いで、退職後も月に一度は顔を合わせる仲だ。「美和のことを一通りの話した後、せつ子は言った。「かず子さんの勘が外れたこと、今まであった?」

「銀行員としては、一度もなかったと思っているわ。」

「だったら、動いた方がいいんじゃないの?」せつ子の言葉は短かったが、必要なことはすべて含まれていた。

翌日、ホームセンターへ出かけた。防犯カメラのコーナーで、高感度の小型カメラを四台取り、買い物かごに入れた。念のためだ。ただ、念のためでは済まなくなるかもしれないという予感も感じていた。玄関、リビング、廊下、書斎。業者に依頼して四箇所に設置し、スマートフォンで確認できる環境を整えた。

婚約が正式に決まってから、美和の行動は変わった。訪問の頻度が上がり、家の中に入り込む時間が長くなったのだ。婚約発表から二週間が経った頃、美和から電話がかかってきた。「実はリフォームを考えていて、知り合いの業者さんがいます。」

「リフォームするつもりはないのだけれど。」

「でも、築四十年だと水回りとか傷んでいませんか? 浩司も心配してるんです。見積もりだけでも、どうかと。」

「少し考えさせてちょうだい。」電話を切った後、浩司からすぐにメッセージが届いた。「美和が心配してくれてるんだから、話だけでも聞いてあげてよ。」断り続けることが浩司との間に溝を生むと感じ、見積もりだけならと承諾した。それが間違いだったのだ。

翌日、美和は三人の人物を連れてやってきた。リフォーム業者のスタッフと紹介されたが、全員が美和と話す様子から、顔なじみだと分かった。その中に、一之瀬彩という女性がいる。「こんにちは。よろしくお願いします。」彩は台所、廊下、洗面所と家の中を丁寧に確認して回る。美和はその間ずっと私の隣に立ち、話しかけ続けた。

「この廊下、段差があって危ないですよね。」

「慣れているから、問題ないわ。」

「老後のことを考えると、バリアフリーが絶対いいですよ。」

業者の一人が書斎の入り口で足を止めた。「こちらも確認させてもらってもいいですか?」

「書斎は必要ないわ。」はっきりと断る。書斎には竜二が残した書類と大切な品が保管してある。他人を入れるつもりはなかった。

「廊下の痛みを確認するだけですので。」

「こちらで確認するのは、遠慮していただける。」

業者は肩をすくめて引き下がった。美和はその様子を見ながら何も言わない。ただ、口元に少し不満の色が浮かんだ。一方、彩は台所の棚の前に立ち、業者と短いやり取りを交わしながら室内を眺めていた。目の動き方が、水回りの劣化を点検する人間のものとは違うと感じた。

全員を見送って鍵を閉めた後、廊下の棚を確認した。引き出しの中の封筒の向きが変わっている。現金は入っていなかったが、通帳のコピーを挟んでいた紙が抜き取られた痕跡がある。鼓動が一瞬早くなった。感情を抑えながら家の中を通りで見て回った。

リビングの飾り棚の上に置いてあった懐中時計がなかった。亡くなった竜二が三十年以上、手元に置き続けた品だ。旅行には必ず持っていき、大事な決断をする時にはいつもポケットに収めていた。私にとって竜二そのものとも言える品物だ。業者が来る前まで、確かにそこにあった。

夜、浩司に電話をかける。「今日いらした方が帰った後、竜二の形見の時計がなくなって。」

「え? どういうこと?」

「来る前まであったのよ。」それを聞いて、浩司の声が変わった。「業者の人が取ったって言いたいの?」

「確認して欲しくて連絡したの。」

「美和が紹介してくれた人たちだよ。そんなことするわけないだろう。」浩司はまた電話の向こうでため息をつく。「また美和のことが気に入らないだけじゃないの。」

「形見の時計がなくなったと伝えているだけよ。」

「探し方が足りないんだよ。年を取ると、そういうことがあるって言ったじゃないか。」何も言えなかった。浩司は私よりも、美和を信用しているようだった。

翌日、美和からも電話があった。「浩司から聞きました。時計のこと、大丈夫でしたか?」

「まだ見つかっていないわ。」

「気持ちは分かりますが、皆さん、ちゃんとした方たちです。置き場所を変えていたとか、ないですか?」

「そういったことはないわ。」

「かず子さんって、時々私たちに厳しくされることがあるので。これから家族になるのですから、信頼し合いたいんです。」

「おっしゃる通りね。」美和の物言いが引っかかったが、それだけ返して電話を切る。受話器を手に持ったまま、しばらく動けなかった。「信頼」という言葉を武器にする人間がいることを、銀行員時代にも何度か見てきた。

形見の時計は結局戻らなかった。竜二が三十年かけて刻んだ傷の入った文字盤をもう見ることはできないと悟った時、胸の底に重いものが落ちた。さすがに、これ以上は我慢するつもりはない。

二日後、スマートフォンに着信があった。美和の周辺の調査を依頼していた探偵の牛尾からだ。「少々お時間よろしいでしょうか? 先日ご依頼の件で。」「分かりました。今よろしいですか?」「はい、第一次をお伝えできる段階になりました。」書斎へ移動し、ドアを閉めた。電話の内容を聞きながら、手元のノートに数行を書き留めた。通話を終えて、ノートの文字をもう一度確認する。予感は当たっていた。

翌週、招待状が届いた。目を通すと、美和の出席者の中に彩の名前がある。リフォームのスタッフとして家に上がった女性を、普通結婚式に呼ぶだろうか。浩司に確認すると、こちらもすでに承知済みだという。「美和が、仲のいい友人だって言ってたよ。問題あった?」

「特別に呼びたい理由があるのかと思って。」

「友人だから呼ぶんだろう。お母さんもせつ子さんを呼ぶじゃないか。」「そうね。」それ以上は言わなかった。ただ、当日の会場に彩がいるという事実は、頭の中にしっかりと刻まれた。

結婚式は十一月の第二土曜日に設定された。会場は都内のホテルで、列席者は百人を超える規模だった。私は礼服を丁寧に仕立て直し、竜二との結婚式でつけた真珠のネックレスを選んだ。鏡の前で身支度を整えながら、竜二がいたら何と言っただろうと思った。きっと「似合っている」と言ってから、つまらない冗談を一つ続ける。そういう人だった。

式場へ向かう車中、せつ子が隣で言った。「準備は全部できてる?」

「ええ、タブレットも持ったわ。」

「それだけあれば十分よ。」

「牛尾さんを信じましょう。」

私はバッグの重さを手のひらで確かめた。中にはタブレット端末が入っていた。自宅の防犯カメラ四台の録画データを保存したものだ。式が終わるまで使わずに済めば、それに越したことはないと思っていた。だが、そうならないだろうという確信もあった。

式場に着くと、エントランス付近に牛尾の姿を見つける。黒いスーツを着て、他の参列者に紛れて立っていた。目が合うと、わずかに頷いた。私も小さく頷き返して、そのまま通り過ぎる。式は滞りなく進んだ。白いドレスをまとった美和は、紛れもなく美しい。浩司の顔には、これまで見たことのないほど純粋な喜びが浮かんでいた。そんな彼の姿を見ながら、私は静かに誓った。浩司のためにも、今日必ず終わらせる。

披露宴が始まると、会場は華やかな空気に包まれた。私は浩司の会社関係者や親戚と順に挨拶をする。皆が口々に「素敵な結婚式ですね」「浩司さんもいいお顔で」と言った。私は微笑みながら「ありがとうございます」と返し続けた。内心がどれほど穏やかでなくても、場を乱す必要はないからだ。

賑やかな空気の中で、私は会場の全体像を静かに頭に置いていた。各テーブルの配置、カメラの位置、出口への動線。この会場に来る前から記憶に刻んでいた情報だ。式場を到着した直後、私は支配人に一つ依頼をしていた。会場内の防犯カメラの設置位置を教えて欲しいという内容だ。支配人は少し戸惑ったが、私が浩司の母であること、今日の式に関して確認しておきたい事情があることを冷静に説明すると、快く案内してくれた。カメラは四箇所。私の席と周辺は、そのうち二台の画角にしっかりと収まっていた。バッグの置き場所も、意図的に選んだ位置だった。

披露宴が三十分ほど続いたところで、美和が突然立ち上がる。それまでの笑顔が消え、眉を寄せて周囲を見回した。「あの、財布がないんですが。」最初は小さな声だったが、周囲のテーブルが静まると、声が広がった。「バッグに入れたはずなのに、どこにもなくて。落としたんじゃないか。」

「スタッフに聞いてみよう。」

「でも、確かにここに入れたんです。絶対に。」

その瞬間、彩が席を立つ。「あの、私、さっき気になることを見てて。」

「あ、何か知ってるの?」

彩は一拍置いてから、会場全体に向かって言った。「浩司さんのお母さんが、美和のバッグのところに立っていました。財布の辺りを触っていたように見えたんですけど。」

参列者がざわめき、視線が一斉に私へ集まる。異常を察して、せつ子が隣にやってきた。浩司の顔から血の気が引いた。「お母さん、本当のことを話してよ。」

「私は席を立っていないわ。」

「でも、彩さんが見たって言ってるじゃないか。」

私は浩司の目を見て、もう一度冷静に言う。「私はずっとこの席にいたわよ。」親族席がざわざわとし始めた。

美和がゆっくりとこちらへ歩いてくる。目には涙が浮かび、唇が小刻みに震えていた。私の前で立ち止まり、バッグに手を伸ばした。私は反射的に手でそれを払った。次の瞬間、彼女の平手が私の頬を打った。会場が凍りついた。頬に熱が走った。しかし、足は一歩も動かない。

「今すぐ私の財布を返して。」声が響き渡り、美和の目から涙がこぼれた。数人の女性が「かわいそう」と呟くのが聞こえる。浩司は立ち上がりかけたまま、動きを止めていた。百人の視線が、私という「置いた女」に向く。私は頬に手を当てず、美和をまっすぐ見た。怒りはなかった。必要なものがすべて揃っているという安心感だけだ。

美和が知らないことがある。この会場の防犯カメラの位置だ。私の席もバッグの置き場所も、カメラの画角の中にある。彩がいつ席を離れ、どこへ向かい、何をしたか、記録されているのだ。

私は立ち上がり、支配人へ向かって歩いた。ヒールが石床を叩く音が、静まり返った会場によく響く。支配人は五十代の男性で、状況を把握しきれない表情をしている。私は支配人の前に立ち、できるだけ穏やかな声で話しかけた。「支配人、お願いがあります。この会場内の防犯カメラの映像を確認していただけますか? 私が席を一度も離れていないことが映っているはずです。合わせて、他の方の動きもご確認いただけますか?」

彼はしばらく私の様子を見てから、冷静に頷いた。「少しお時間をいただきます。確認担当のスタッフを呼びます。」支配人が無線で連絡を取り始めた瞬間、美和が立ち上がった。「ちょっと待ってください。何を確認するんですか? 財布を取ったのは、そちらでしょう。」美和の声には鋭さがあったが、私は振り返らなかった。せつ子が私の隣で腕を組み、前を向いている。横顔が「このまま行きなさい」と告げているようだった。

浩司が席を立ち、こちらへ歩いてきた。顔が青白くなっている。「お母さん、カメラって何?」

「映像を見れば、全てわかるわ。」

「今すぐ美和に謝ればいいだけじゃないか。」

「返せるものを持っていないと言ってるの。」それだけ言い、私は支配人の戻りを待つ。浩司は何か言いかけて、口を閉じた。ただ、その目が初めて揺れている。美和への確信が、最早、盲信ではなくなった瞬間だった。

しばらくして、スタッフが一人加わり、支配人と会場の隅にあるモニタールームへ向かう。映像の確認が始まった。披露宴は一旦中断となり、司会者の男性が「しばらくお待ちください」とアナウンスした。会場に重い空気が落ちる。参列者が小声で話し合い、視線があちこちへ動いた。

私は自分の席に戻らず、会場の壁際に立ったまま待つ。せつ子が外隣に来た。「大丈夫?」

「頬、まだ赤いわよ。」

「問題ないわ。時間を確認してもらえる?」

「十四時二十分よ。もう少しかしらね。」

「牛尾さんは外にいる。連絡済みよ。」

「分かったわ。ありがとう。」それだけで十分だった。せつ子との三十年は、言葉の数よりも密度で図るものだと思っている。

私は壁際から会場を見渡した。彩がスマートフォンを取り出し、画面を操作しているのが目に入る。誰かに連絡を取ろうとしているようだ。しかし、映像の確認はすでに始まっている。彩がどこへ連絡しようと、時計の針は戻らない。

待っている間、竜二の弟の良雄が私の元へ歩いてきた。六十三歳で、竜二によく似た目の男性だ。「かず子さん、本当のことを教えてくれないか。浩司のことが心配で。」

「映像が出れば分かるわ。もう少し待っていてちょうだい。」

「かず子さんを疑ってるわけじゃない。ただ、浩司が心配で。」

「分かっているわ。ありがとう。」良雄は頷いて席へ戻った。信じてもらう必要があるのは今ではなく、映像が出た後だと思ったから、あえてそうした。

さらに二十分が経過した頃、支配人が私の元へ戻ってきた。表情が変わっている。先ほどまでの戸惑いは消え、彼の目に確信の色があった。「田中様、確認が取れました。内容を教えていただけますか? 会場のスクリーンに映像を移してもよろしいでしょうか?」

「お願いします。」支配人が軽く頷き、スタッフに合図を送る。会場前方の大型スクリーンに映像が映し出された。画質は鮮明で、会場の全体が映り、各テーブルの様子がはっきりと確認できた。右下に日時表示が出ている。スタッフが映像を特定の時間帯まで送り、止めた。スクリーンの前で、会場が完全に静まり返った。

映像の中で、一人の女性が席を立ち、ゆっくりと歩いていた。赤いドレス、彩だ。彩は美和のバッグが置かれた椅子の脇を通りながら、手を一瞬だけ下げた。そして何事もなかったように歩き続け、私のバッグの横を通った瞬間、もう一度手が動く。その動きは一秒にも満たない短さだったが、カメラは全てを捉えていた。財布が、私のバッグの中へ滑り込んでいく。その画面がスクリーンに鮮明に映し出された。

誰も声を出さない。しばらくして、会場のあちこちから息を飲む音が漏れた。隣のテーブルの女性が手で口を抑えた。浩司の会社の同僚たちが顔を見合わせる。良雄が「なんだ、これは」と低い声を発する。浩司が立ち上がり、スクリーンを見たまま固まっている。体が小刻みに揺れているのが、離れた場所からでも分かった。

美和は立ち上がらない。しかし、視線がスクリーンと彩の間を往復している。逃げ道を探しているようだ。

「こんな映像、信用できないでしょう。」美和の一言が会場に落ちる。誰も受け取らなかった。支配人が口を開く。「この記録は本日の式のために弊社が管理しております。映像の改ざんは技術的にございません。タイムスタンプ付きで記録されております。」美和の目が泳ぐ。誰もが美和の次の発言を待っていたが、彼女は何も言えなくなっていた。

浩司がゆっくりと彩の方を向いた。「彩さん、これはどういうことですか?」

彩は唇を震わせ、俯いた。「私は、ただ美和に頼まれて。」

彩が発言した瞬間、美和が立ち上がる。「彩、何を言ってるの?」

「映像に全部映ってるじゃない。私だけが全部被るのはおかしいでしょう。」彩の声が裏返った。それまで保ってきた上品な口調が崩れている。会場の空気がまた変わった。彩が崩れたことで、美和の計算は完全に狂った。

浩司が私の方を向いた。目に涙が浮かんでいた。「お母さん、俺は、ずっと美和を信じて。」

「後で話しましょう。今は続きを見てちょうだい。」浩司は口を閉じ、スクリーンの方を向く。

美和が私を見た。「財布がどこへ行ったかは分かったとしても、それだけじゃないですか。彩が勝手にやったことで、私には関係ありません。」さらに美和は作り笑顔を浮かべて言った。「彩の行動一つで決めるのはおかしいと思いますが。」

私は美和をまっすぐ見て、冷静に口を開いた。「では、次もご覧ください。」バッグからタブレット端末を取り出し、支配人に手渡す。支配人が画面を確認し、スタッフと短くやり取りする。次の映像が切り替わる準備が始まった。美和の肩が僅かに揺れた。

スクリーンに新しい映像が映し出される。会場のものではなく、別の場所の映像だった。画角が狭く、室内を映している。私の自宅の玄関から続く廊下の映像だ。映像の右下の日付は、三か月前のものだった。玄関ドアが開き、女性が入ってきた。白いカーディガンを羽織り、小さなバッグを肩にかけている。彩だった。リフォーム業者のスタッフとして初めて家に来た日の映像。彩はキョロキョロと室内を確認しながら歩き、廊下の奥へ進む。その後、別のカメラに切り替わった。今度は寝室の隅から廊下を映すカメラだった。彩が引き出しのある棚の前に立ち、素早く引き出しを開ける。三秒も経たないうちに手が動き、引き出しが閉じられた。彩が廊下を戻っていく姿が映り、映像が止まった。

会場が完全に凍りつく。続いて、二本目の映像が映し出される。日付が違う。さらに三週間後のものだった。今度は紺色のワンピース姿の美和が、廊下へ歩き、書斎の前で立ち止まった。辺りを見回してから扉を開け、書斎に入り、机の引き出しを確認する。左手で引き出しを開けたまま、右手がその中を探った。数秒後、美和の右手に何かが握られていた。小さく、金属のような光を反射する。竜二の懐中時計だった。美和はそれをバッグの中に入れ、扉を閉めて廊下へ戻った。動作に迷いがない。慣れていた。

三本目の映像が続く。またさらに二週間後だった。美和が再び書斎に入り、今度は小さな封筒を取り出す。中身を確認する仕草をしてから、封筒ごとバッグに入れた。後日、封筒の中に入っていたのが現金だったことを、私は牛尾の報告で確認していた。金額は十一万円。

映像が終わり、スクリーンが暗くなった。三本合計で約二分だった。その二分で、美和と彩が婚約期間中に私の自宅で何をしていたか、この会場の全員に伝わっただろう。会場は沈黙していた。美和が立ち上がっていたが、もう反応がない。

「美和さん、これは自宅に設置した防犯カメラの映像よ。婚約期間中に撮影されたものです。」

「全部、記録されていたのか。」

「ええ。」浩司が椅子から崩れ落ちるように座り込む。今日の式で一番輝いているはずだった人間が、今は一番小さくなっている。

「そんな映像、本物かどうか分からないでしょう。自分の家で勝手に撮影して、それが証拠になるんですか?」

「なるわ。」私はバッグから封筒を取り出した。中に入っているのは、牛尾が用意した書類だった。「こちらをご覧ください。」支配人に封筒を渡す。支配人が中身を確認し、隣のスタッフに見せた。スタッフがスクリーンの操作に移る。書類がスクリーンに映し出される。それは調査報告書だった。「牛尾探偵調査事務所」と記載された正式な書類。上部に依頼日と報告日。そして、対象者の名前は「霧島美和」とあった。

会場がざわめいた。報告書の内容が映し出される。二年前、美和が別の男性と婚約していたこと。相手は関西在住の資産家の次男。婚約期間中に相手の自宅で複数の貴重品が紛失。被害総額は調査時点で百五十万円以上と推定される。婚約は半年後に破談となり、相手の家族が警察に届け出ようとしたが、美和は所在を告げないまま連絡を絶った。被害者の氏名と連絡先が書類の末尾に添付されている。署名もある。実在する人物の署名だ。

美和が息を飲む音が聞こえた。彩が両手で口を抑えた。二人の反応が、報告書の内容が事実であることを何より雄弁に語っている。

後ろの扉が静かに開いた。ダークスーツを着た男性が二人、会場に入ってくる。牛尾が振り返り、二人に向かって軽く頷いた。刑事だと、私には一瞬で分かる。二人は静かに歩き、美和のテーブルの近くで立ち止まった。一人が美和の前に立ち、低い声で言う。「霧島美和さんですね。窃盗の疑いで任意同行をお願いします。」

美和は立ったままだが、膝が折れかけているのが見えた。浩司が立ち上がる。「ちょっと待ってください。任意同行って、どういうことですか?」

「ご事情は後ほどご説明します。霧島さん、こちらへどうぞ。」

「分かりました。」この言葉は、今日一番力のないものだった。あれほど会場を支配していた美和の声が、刑事の前では小さく平坦になった。もう一人の刑事が彩のテーブルへ向かった。

「分かっています。自分で行きます。」彩の声は震えていたが、刑事の腕を振り払うことはしなかった。席を立ち、小さく縮まりながら歩く。

美和が連れて行かれる前に、会場をもう一度見回した。友人席の女性たちは、誰も立ち上がらなかったし、声もかけなかった。美和が会場の出口に向かう直前、私の方を向く。その目に怒りはなかった。私は美和に向かって、静かに口を開いた。「美和さん。」彼女が足を止め、振り返った。「浩司の将来のために動いたの。あなたへの恨みからではないから。」会場が水を打ったように静まる。美和の唇が震えた。私はそれ以上、何も言わなかった。美和はしばらくの間、私を見ていた。そして何も言わずに前を向く。

美和と彩が会場の外へ出ていった。二人と刑事が去った後に残ったのは、今日の式のために用意された装飾と言葉を失った人々。しばらくの沈黙の後、司会者は「本日の式は終了となります」とだけアナウンスした。

参列者が少しずつ席を離れていく。会場の後方で、浩司の会社の同僚が一人立ち上がった。私くらいの歳の男性だった。「田中さん、浩司の同期の田村と申します。今日のこと、言いづらいんですが、浩司は最近少しおかしかったんです。自分たちから見ても、何かあるとは思ってたんですが。お母さんの行動が正しかったと思います。」男性が深く頭を下げた。私は短く礼を返す。息子の周囲の人間も気づいていたけれど、言えなかっただけだったのだ。

続いて、良雄の親族席にいた女性が近づいてきた。良雄の妹だ。「かず子さん、今日のこと、全部あなたが準備してたのね。」

「ええ。」

「一人で? よく、すごいわ。」

「準備してくれた方が他にいるの。私は指示を出していただけよ。」

「でも、かず子さん、あなたが動かなければ、浩司君はどうなってたか。今回、間に合った。それだけ。」彼女はしばらく私の顔を見ていたが、何も言わずに頷いて戻った。

牛尾が私のそばに来た。「田中様、確認をお願いします。」封筒を渡される。中に一枚の書類が入っている。美和が婚姻期間中に持ち出した物品のリストと、推定被害額だった。

「竜二様の懐中時計の鑑定価格が十八万円、現金の合計が十一万円。実印の複製費用と証明書類の再取得費用の合計額が九万四千円。合計、三十八万四千円以上です。加えて、前の婚約者のご家族からの被害届が、正式に受理される見込みです。被害総額は両計合算で二百万円を超えます。」

「窃盗と詐欺の両方で立件できると、先ほど所轄から確認を取りました。」

「弁護士との連携はどうなりますか?」

「担当弁護士にはすでに今日の経過を報告しています。明後日に打ち合わせを設定しています。」

「彩さんについては?」

「共犯として立件の方向です。本人が会場で自白した内容は、参列者百人が聞いています。録音も取れています。」牛尾がポケットから小型の録音機を取り出した。「いつから? 式が始まる前から回しています。美和さんの最初の発言から彩さんの自白まで、全て記録されていますよ。会場のスクリーンに映した映像は、支配人からコピーを取得しています。元データは会場側で保全されます。」

「一点だけ確認させてください。竜二様の懐中時計ですが、美和さんのバッグの中に入っている可能性があります。今日の段階で警察が確認します。」その言葉に、私は目を見開く。「お願いします。」

「戻ってくると思います。」牛尾は静かに会場を出た。

良雄が私のところへ歩いてきた。「かず子さん、全部知っていたのか?」

「三か月前から準備していたの。」

「なぜ、俺に言わなかった?」

「去年の秋に一度だけ話したわ。でも、聞いてもらえなかった。その時に、別の方法を取ることにしたの。」良雄の表情に悲しみが浮かぶ。

「美和さんは、今後どうなるんだ?」

「窃盗と詐欺の両方で立件される見込みよ。前の婚約者の被害も合算されるから、実刑される可能性は高いと、牛尾さんは言っていたわ。」

良雄は低い声で「そうか」とだけ言った。

浩司がテーブルの前で立ち尽くしていた。「お母さん、本当にごめんなさい。」そう言って、声が詰まる。

「今日は、ここにいなさい。」彼の背中は小刻みに揺れていた。良雄が隣にしゃがみ、声をかける。「浩司、おじさんだ。田中の男が、人前でいつまでも崩れているな。」良雄の言葉は厳しいけれど、その目は浩司を責めていなかった。浩司はゆっくりと立ち上がった。目が赤くなっていたが、足はしっかりしている。

「お母さん、なんでこんなに全部揃えられたんだ? カメラも調査も書類も、警察まで。普通にできることじゃないだろう。」

「あなたのお父さんが残してくれたものがあるの。財産のこと。七つの不動産と、三億二千万円の資産よ。」浩司の表情が変わった。「お父さんが残したものを、私なりに管理してきたの。あなたに話さなかったのは、余計な心配をかけたくなかったから。美和さんが来るまでは。」

「じゃあ、美和はそれを狙って?」

「牛尾さんの調査によれば、美和さんは婚約前からこの家の資産状況をある程度調べていたらしいわ。あなたに近づいたのは、偶然ではなかったと思う。」

浩司が息を飲む。「俺が、母さんを疑って。三億円を狙われてたのに、俺は何も気づかずに。」

「あなたのせいではないわ。美和さんが選んだことだから。」

「でも、俺が連れてきた。俺が、全部信じた。」浩司が私を見る。「あなたは今日、ちゃんと自分の目で見た。それで十分よ。残りは、後日、話しましょう。」支配人が近づいてきた。「田中様、改めてご報告があります。本日の会場内カメラの全映像は、正式申請があれば証拠として提出できる状態で保管します。また、会場スタッフも複数名が今回の経過を目撃しており、必要に応じて証言に応じる準備があります。」

「ありがとうございます。大変お手数をおかけしました。」

「式前に設置位置のご確認を求められた時、少し変わったご依頼だと思いました。しかし、経緯を見て、その意味が分かりました。」支配人が深く頭を下げた。

会場を出ると、廊下で牛尾が待っていた。「田中様、ご報告です。先ほど所轄から連絡が入りました。美和さんのバッグの中から、竜二様の懐中時計が発見されました。」

「そうですか。」

「返却手続きをすぐに進めます。数日以内に手元に戻ります。」

「ありがとうございます。」思わず涙が頬を伝った。

「前の婚約者のご家族にも、本日の状況を報告しました。今後は弁護士を通じて連携します。」

「よろしくお願いします。」牛尾は静かに一礼して、廊下の奥へ向かった。

美和の判決が出たのは、式から三か月後のことだった。田中の窃盗と詐欺、前の婚約者の被害を合算した実刑は、初公判から二か月で審理を終える。有罪。執行猶予は認められなかった。美和は法廷で「全て誤解です」と言い続けたと牛尾から報告があった。しかし、六種類の証拠の前で、その主張は一日も通じない。美和の勤務先には判決前に解雇通知が届いていた。彩は執行猶予付きの有罪判決を受けた。「頼まれただけ」という言い訳は、自らの自白によって完全に知り解けられた。

美和が婚活サービスで標的にした家の中で、唯一手が届かなかったのが田中家だった。三億円の資産を持つ家に入り込みながら、それを最後まで知らずにいたのだ。計算から抜け落ちたものが、全ての敗因だった。

竜二の懐中時計は、式の三日後に手元へ戻ってくる。傷だらけの文字盤に、時間がそのまま残っていた。手のひらに収めた瞬間、八か月分の重さが静かに解けていく気がした。

あの式から半年。毎朝六時に目覚め、近所を歩く習慣は今も変わらない。ただ、道の景色が以前より少し明るく見える。足取りが軽くなったのは確かだ。浩司とは、月に一度、駅前の蕎麦屋で昼食を取るようになった。美和のことを二人で話すことはない。代わりに、竜二の話がよく出る。父親に似てきたと感じる場面が、近頃増えた。

新しい仕事が始まったのは、式の翌月のことだ。銀行員時代の経験を若い人に伝えて欲しいという話が、知人を通じて届いた。せつ子の後押しもあり、引き受けることにした。今は月に一度、地域の金融講座を担当している。数字の裏を読む方法が、特に好評だ。

帰宅して書斎に入ると、机の上に懐中時計を置く習慣ができた。傷だらけの文字盤が、夕方の光を静かに受ける。竜二が遺した時間は、今も流れている。その先に、まだ続きがある。

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