ロビーに響いたその一言で、すべてが変わった。「お前、村木か」——振り返ると、高校時代に俺を「牛と暮らす貧乏人」と笑い続けた同級生の北島が立っていた。父が一代で築いたブランド牛を卸す取引先のホテルで、まさかの再会。スーツ姿の彼はこう吐き捨てた。「ロビーが妙に牛臭いと思ったら、原因はお前だったのか」。周囲に聞こえる声で、昔と変わらぬ嘲笑を浴びせてくる。俺は畜産農家の代表として、年間一千万円の契約…

ロビーに響いたその一言で、すべてが変わった。「お前、村木か」——振り返ると、高校時代に俺を「牛と暮らす貧乏人」と笑い続けた同級生の北島が立っていた。父が一代で築いたブランド牛を卸す取引先のホテルで、まさかの再会。スーツ姿の彼はこう吐き捨てた。「ロビーが妙に牛臭いと思ったら、原因はお前だったのか」。周囲に聞こえる声で、昔と変わらぬ嘲笑を浴びせてくる。俺は畜産農家の代表として、年間一千万円の契約...

ロビーに漂う甘ったるい空気の向こうから、聞き覚えのある声が俺の名前を呼んだ。

「お前、村木か」

振り返ると、そこには高校時代の同級生・北島が立っていた。高級ホテルの社長を父に持つ、地元でも指折りの名家の息子だ。スーツ姿の彼は、このホテルの従業員として働いているのだろう。卒業以来ほとんど会うこともなかった相手との、思いがけない再会だった。

俺がとっさにため息を飲み込むのも構わず、北島はニヤリと笑みを浮かべると、ロビーに響くような声で言い放った。

「なるほどな。さっきからロビーが妙に牛臭いと思ってたら、原因はお前だったのか。それも一応スーツなんか着込んでるけど、その貧乏な感じは全くごまかせてないぞ」

周囲の品の良い雰囲気などお構いなしに、彼は昔と変わらず続ける。「田舎者がこんな場違いなところに何の用だよ。見学に来ただけなら長居せずに帰ってくれないか。何せお前がいると牛臭くて鼻が曲がりそうなんだ」

そう言って鼻をつまみ、片手で空気を払う仕草をする。俺の家は畜産農家だ。父が一代で築いたブランド牛を育て、契約先のレストランなどに卸している。このホテルも、うちの牛が世間に認知される前から付き合いのある大切な取引先の一つだった。年間一千万円を超える規模の契約を結んでいる。今日はそのイベントの打ち合わせのために訪れていたのだが、まさかこんなところでこいつに会うとは思わなかった。

高校時代、北島は何かと俺を「牛と暮らしている貧乏人」だの「家畜の匂いが移るから近寄るな」だのとクラスの前でからかっていた。成績で俺に勝てなかったことが気に入らなかったのだろう。家柄を鼻にかけて傲慢に振る舞う彼が、俺のような奴を目の敵にしていたのは分かっていたが、大人になった今も変わっていないとは。

俺は腹が立ったが、まずは無難に返した。

「そういう君は元気そうだね」

「ああ、おかげ様でね。今年の春からこのホテルの客室担当の主任になったんだ。俺の年齢にしちゃ大抜擢のポジションなんだが、周りが俺を必要としてるってことなのかな」

得意げに胸を張る北島。その割には俺に絡んでいる暇もあるようだが、とは思ったものの、言葉を飲み込む。早くこの時間が終わってほしい。それだけだった。

だが、俺が言い返さないのをいいことに、北島はさらに調子に乗る。

「お前もよくあんな仕事やれるよな。朝から晩まで牛の世話とかさ。俺、綺麗好きだから耐えられないよ」

「確かに牛たちは世話する人間を見極めるからね。舐めていい相手だと分かると容赦なく蹴ってくるから、気をつけた方がいいよ」

つい口にしたその一言に、北島の顔から笑みが消え、血の気が引いていく。彼はギロリと俺を睨んだ。

「なんだと? 家畜育てるしか脳のない貧乏人が、俺に立ち向かう気か」

「そんな俺に育てられた牛を、このホテルのレストランは使ってくれてるんだよ。君も従業員なら、場と言葉をわきまえることも必要じゃないか」

「うるさい! 俺に指図するな!」

彼は大声で怒鳴ると、吐き捨てるように言った。

「ああ、もう我慢ならない。お前にはうんざりだ。お前のところとの契約も今日で切ってやるから覚悟しろ」

「えっ」

思わず間の抜けた声が出た。この状況で契約を切ると言い出すとは、正直予想外だった。だが、俺の反応を自分に都合よく解釈したらしい北島は、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

「ざまあみろ。どうせお前は俺たちに使われる側の人間なんだ。それが嫌なら、ここで土下座して泣いて謝ったら許してやらないこともないぞ」

もはや彼はここがどこだか忘れているかのように、下品な高笑いをしている。俺は深くため息をついた。これ以上話しても無駄だと分かった。

「本当にいいんだな」

静かにそう問い返すと、北島は一瞬だけ面食らった顔を見せたが、すぐにまた言い放った。

「おお、上等だ。お前が卸してる牛肉の代わりなんて、探せばいくらでも見つかるさ」

その言葉で、俺の腹は決まった。

「そうか。ならば本日をもって、このホテルとの契約は打ち切らせてもらう。もううちの肉は卸さない」

その宣言をしたまさにその時だった。ロビーの向こうから、俺に向かって声がかかった。

「先生、お待たせいたしました」

聞き覚えのある声に、俺と北島は揃ってその方向を見た。そこに立っていたのは、このホテルの社長である北島の父だった。

「は、親父……」

北島の顔が引きつる。しかし、その息子の様子をよそに、北島社長は俺に親しげに挨拶を向けた。

「先生、準備が整いましたので、こちらへどうぞ」

丁寧に頭を下げる自分の父の姿に、北島はポカンと口を開けていた。

「親父、いや社長。なんでこいつのことを先生なんて。だってこいつはただの牛臭い貧乏人だぞ。それに今、こいつとの契約は打ち切ったし」

その瞬間だった。北島社長の顔色が一瞬で変わった。彼は真っ青な顔で息子に声を荒げる。

「お前、村木先生に対して何て口の聞き方をしてるんだ! それもよりによって勝手に契約を切っただと? 正気か、このバカ息子が!」

父親の剣幕に驚いたのか、北島はキョロキョロと視線を彷徨わせながら、それでも言い訳を口にする。

「だってこいつ、牛の世話しか脳のない貧乏人の癖に、俺にいろいろ言い返してくるから……」

「なんて失礼なことを言うんだ! この方は、今や日本の畜産農家の代表者として、政府からも一目置かれている方なんだぞ!」

北島社長の言葉に、俺は内心で苦笑した。確かに、今の俺は父の跡を継いだ後、ただ牛を育てて卸すだけでなく、畜産業の未来のために活動している。同じ業界の仲間と横のつながりを持ち、政府に対して地位向上を訴えたり、SNSで畜産の魅力を発信したりしている。各自治体や団体から講演会やイベントに呼ばれることも増えていた。

北島社長はそんな俺の活動に感銘を受け、今日の打ち合わせを申し込んできたのだ。参加者に俺の育てた牛肉を食べてもらいながら、生産者と消費者が語り合うというイベントの企画。親子連れや学生にも楽しんでもらえるような内容を考えていた。なかなか面白い話だと思っていたのだが、まさかこんなことになるとは。

北島社長は息子への説教を続ける。

「親の肩書きでやっと主任に上がれたようなボンクラのお前とは訳が違うんだ! 本当にお前は昔から親に迷惑ばかりかけて……。そもそも、お前にうちの契約先を勝手に断る権利があるわけないだろうが!」

社長は青筋を浮かべながら息子を叱りつけると、やがて俺に向き直り、深く頭を下げた。

「先生、先ほどは息子の暴言、それも一方的に契約を切るなどと。社長として、また父として、監督不行き届きを改めてお詫び申し上げます」

その横では、当の息子が不満そうに顔を背けている。自分の不始末を親に謝らせていることの決まり悪さよりも、なぜ自分が謝らなければならないのか分かっていない様子だった。

俺は一つ息を吐いて、静かに言った。

「残念ですが、今回のイベントは白紙にさせていただきます。また、今後うちはこちらのホテルには牛肉を卸しません。さらに、この件は業界のコミュニティでも共有させていただきます。そのつもりでいてください」

「そ、そんなことをされたら、うちのホテルは日本の畜産農家から信用を失います! お願いです、どうかお考え直しを!」

慌てて取り成そうとする北島社長に、俺は首を振った。

「申し訳ありませんが、約束は守らせていただきます」

「おい、何を黙ってるんだ! お前から謝りなさい!」

北島社長は横に立つ息子の首根っこを掴むと、無理やり頭を下げさせた。

「この通りです。息子の不出来は、忙しさにかまけて甘やかしてきた私の責任です。これからはよく言い聞かせますので……」

「どうもすみません……」

一応謝罪らしき言葉を口にする北島だったが、それが本心からのものではないことは一目で分かった。俺はその想像力のなさ、危機管理能力のなさに呆れるしかなかった。もしかしたら、これまで真剣に叱ってくれる人間が彼の周りにいなかったのかもしれない。それはそれで不幸なことではあるが、もう彼は大人だ。

「謝罪は受け入れません。これは息子さんの自業自得が招いたことです。もう一度、自身の言動を振り返ってみてください」

そう言い残して、俺は足早にホテルを去った。

その後、俺は宣言通りホテルとの契約を打ち切った。そして、業界のコミュニティにもそのことを共有した。すると、案の定、ホテルは大混乱に陥った。うちの牛肉だけでなく、俺の知り合いの畜産農家たちも軒並み取引をストップしたため、ホテルは日本の名だたる畜産品を仕入れられなくなってしまったのだ。あの高級ホテルはその格調の高さに合わせて全国の一級品を提供していたから、代わりの食材で場をしのぐことも簡単にはできない。客足や評判はすぐに悪化し、ホテルの業績は急落した。もしかしたら潰れてしまうかもしれないという噂まで流れ始めた。

それからしばらく経ったある日のこと。俺が牛舎で牛の世話をしていると、外で牛たちが何やら攻撃的に鳴くのが聞こえた。

「なんだ?」

顔を上げると、牛舎の入り口付近に、肩を丸めた北島がポツンと立っていた。先日と同じスーツだが、覇気がなく、顔つきも精彩がない。

「北島……」

俺が思わず手を止めて名を呼ぶと、彼は一瞬気まずそうに息を呑んだ。次の瞬間、その場に突如土下座した。

「これまでのこと、本当に申し訳ありませんでした!」

突然の大声に牛たちが不機嫌そうな唸り声を上げるが、北島は肩を震わせながらも顔を上げず、額を地面に擦りつけている。入り口付近とはいえ、そこはまだ掃除が行き届いていないはずだ。土埃や牛の糞が落ちているかもしれないのに、彼は汚れを気にする様子もなく、その姿勢を続けていた。

さすがにこのままでは話が進まない。俺はため息混じりに声をかけた。

「顔を上げなよ。話があるんだろう」

すると、北島は再び肩を震わせ、それからおずおずと顔を上げた。その目は少し赤くなっていた。

「このままでは、ホテルが潰れてしまう。分かってる? 全て俺のせいだ。それでも頼む。俺が目障りなら、すぐにホテルを辞める。だからどうか、牛肉の納品だけは再開してくれないか」

土で汚れた手で土下座の姿勢を続けながら、彼は真っ直ぐに俺を見てくる。ホテルの状況を自分の目で見て、彼なりに考えるところがあったのだろう。その真剣な眼差しに、今度こそ本気で謝罪しているのだと俺は思った。

しばしの沈黙の後、俺は言った。

「ホテルのウェブサイトに、この件の謝罪文を載せること。当たり前だが、今後絶対に畜産農家を馬鹿にしたような言動を取らないこと。それと、あのホテルで定期的に畜産関係のイベントを開くこと。この条件を守れるのなら、再契約してもいい」

北島が目を白黒させている。そんな彼に構わず、俺は続けた。

「これからの条件を守れるようだったら、また契約を考えてもいい」

その言葉を理解した瞬間、北島の目が見開かれた。

「約束する! イベントは今後、責任を持って俺が企画していく。もちろん、村木君が良ければだけど……」

そう言って自信なさげに視線を落とす北島に、俺はつかつかと歩み寄った。軍手を外し、彼の目の前に右手を差し出す。

「ほら、いつまでそこに座ってるつもりだ。牛たちがびっくりしてるじゃないか」

「え……うん、すまない」

北島はポカンと口を開け、それから泣きそうな顔で俺の手を握って立ち上がった。土埃で汚れた手だ。牛の匂いも染みついているだろう。だが、北島はその手を両手でしっかりと握り、湿った声で言った。

「ありがとう」

俺はその肩を左手で叩いた。

「これからは立場こそ違えど、同じ業界の仲間として畜産業界を盛り立てていくのに、力を貸してくれ」

俺がそう言って微笑むと、北島も泣き笑いのような顔で頷いた。

「うん。こちらこそ、よろしく」

その日、俺には頼れる仲間が一人増えたのだった。

後日、俺はコミュニティにホテルとの和解の件を報告した。新しい社長が全面的に畜産農家の活動をバックアップしてくれること、そして再契約に至ったことを伝えると、翌日にはストップしていた畜産品の取引も再開された。ホテルの客も徐々に戻ってきているらしく、北島社長からも息子を通じて感謝の言葉が届いた。

そして、あの日のイベントも改めて開催されることになった。打ち合わせのために、今度は北島自身が俺の元へ足を運んでいる。初めのうちは牛たちに腰が引けていた彼も、この頃は進んで作業を手伝うようになり、真剣に畜産業を学ぼうとしている。昨日などは初めて牛に蹴られずにブラッシングを終えたそうで、まるで子供のような笑顔で報告してくれた。

その姿を見て思った。もしかしたら彼は元々、それなりに素直な性格をしているのかもしれない。今まではそれが悪い方へ出ていただけで、本人の強い意志さえあれば、人間はこんなにも変われるものなのだと、俺はつくづく感じている。

来月に迫ったイベントを成功させるべく、俺と北島は二人で意気込んでいる。俺は本業の傍ら、今日も日本全国を飛び回りながら、畜産業の魅力を世の中に伝え続けている。

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