たった今、社長室で「中卒のお前に三千万の退職金は渡さない。規定を見直した。お前の退職金は三六円だ」と言われた。頭が真っ白になった。中卒で父を亡くし、母と兄弟を養うために必死で働いて二十数年。営業成績で社長を追い抜いたこともある。それなのに、学歴だけでここまで人を踏みにじるのか。悔しさで胸が張り裂けそうだった。でも、その瞬間、俺の中で何かが静かに燃え上がった。実は、俺にはまだ誰も知らない切り札…

たった今、社長室で「中卒のお前に三千万の退職金は渡さない。規定を見直した。お前の退職金は三六円だ」と言われた。頭が真っ白になった。中卒で父を亡くし、母と兄弟を養うために必死で働いて二十数年。営業成績で社長を追い抜いたこともある。それなのに、学歴だけでここまで人を踏みにじるのか。悔しさで胸が張り裂けそうだった。でも、その瞬間、俺の中で何かが静かに燃え上がった。実は、俺にはまだ誰も知らない切り札...

中卒のくせに退職金三千万。規定を見直した。三六円な。金属年。

俺の名前は村田。五十一歳。幼い頃に父を亡くし、母と幼い兄弟を養うため、高校への進学を諦めて働きに出た。中卒で正社員の仕事はなかなか見つからず、近所の定食屋でアルバイトをしていた。

中学を卒業してから半年ほど経ったある日。定食屋へ向かう途中、目の前で男性がひったくりに遭った。咄嗟に「待て」と叫び、元陸上部の短距離選手だった俺は、自転車に乗った犯人の背中を追いかけ、あっという間に捕まえた。奪われた財布を男性に返すと、男性は何度も頭を下げた。

「助かったよ。ありがとう」

「いえ。よかったら、俺の働いている定食屋に食べに来てください」

そう言って店の名前を伝えてその場を離れると、翌日、その男性が店にやってきた。三沢と名乗る男性は、近所で会社を経営していると言い、こう切り出した。

「君みたいな若くて体力のある人に来てほしい。うちの会社で働かないか?」

正社員になりたかった俺は、迷わず三沢さんの誘いに乗った。働きながら勉強し、仕事に必要な知識を身につけていった。最初は現場作業員だったが、三十歳で営業部に異動となり、指導係になったのは、当時係長だった斎藤さんだった。

斎藤さんは大卒で営業部に配属された。噂によると、俺と同じ貧乏な家の出身らしい。奨学金を借りて苦労して大学を卒業したそうだ。同じような身の上だから気が合うかと思ったら、斎藤さんは学歴に強いこだわりを持っていて、中卒という理由だけで俺を馬鹿にしてきた。

「俺とお前は違うんだよ。俺は苦労して大学を出た。中卒のお前と俺とじゃ、積み上げてきたものが違う」

指導初日、そう言われたのを覚えている。今思えば、あの人は俺を見下すことでしか自分の苦労に意味を与えられなかったのだろう。その後も、教えを請えば聞くほど学歴をネタに馬鹿にされ、満足な指導もしてもらえなかった。

しかし、俺はこの程度でへこたれる男じゃない。斎藤さんが仕事を教えてくれないなら、他の人に聞けばいい。こっそり斎藤さんの仕事を盗み見て覚えることもした。コツコツと努力を重ね、営業に必要な知識を独学で勉強し、持ち前の体力と気力で仕事をこなしていった。すると、日に日に営業成績は伸び、ついには斎藤さんの成績を抜いてしまった。

「中卒のくせに生意気なんだよ」

営業成績が発表された後、斎藤さんに人気のない場所へ呼び出され、胸ぐらを掴まれて罵倒された。まさか、見下していた俺に成績を抜かされるとは思わず、プライドを粉々に壊されたらしい。ほどなくして斎藤さんは異動願いを出し、人事部へ移った。表向きは経験を積むためということだったが、俺に営業成績で負け続けるのが嫌だったのだろう。

人事部の部長は斎藤さんと同じ大学の出身で、うまく取り入り、どんどん出世していった。そして、今から半年前に新社長に就任した。初代社長の三沢さんは数年前に亡くなっている。その後を継いだ二代目が体調を崩して辞任し、後任として人事部長だった斎藤さんが社長の座に収まったのだ。

それでも俺は、拾ってくれた三沢さんへの恩を返すため、斎藤さんが新社長になった後も働き続けた。

しかし、破滅は新社長就任直後に起こる。俺は現在、営業部の課長で、先代社長の時代に部長昇進の話が出ていた。ところが、斎藤さんが社長になった直後、その話は反故にされた。

「中卒の無能に部長が務まるわけがないだろう」

人事異動の撤回後、廊下で偶然すれ違った斎藤さんは、歪んだ笑みを浮かべてそう言ってきた。社長という最も強い権力を手に入れた斎藤さんは、じわじわと俺を追い詰め始めた。

ある日、営業部の部長から突然、顧客を若手に引き継ぐように言われた。

「若手育成のためだ。社長から時々指示があったんだよ」

さらに他の顧客も奪われ、俺の営業成績は激減した。俺の実績を奪うための斎藤さんの策略だろう。部長は申し訳なさそうにしていたが、社長命令とあれば逆らうことはできない。

悪いことは続くもので、若手が俺から引き継いだ顧客との間でトラブルを起こしてしまった。フォローのために出張が増え、新規顧客の開拓もできず、営業成績は低空飛行を続けた。

斎藤さんは、これだけでは足りなかったらしい。ある日突然、人事評価制度が変更された。最終学歴を正式な評価項目として組み込み、大卒以上に一点加算する仕組みだ。これにより、中卒の俺はどれだけ成果を出しても評価や昇給が頭打ちになってしまった。我が社は大卒社員が大半のため、反対意見は握りつぶされた。

「どうすりゃいいんだ……」

残業中、誰もいない営業部で一人、小さくため息をつく。若手のミスのフォローで、自分の仕事が時間内に片付かないのだ。ちなみに残業申請は無視されており、残業代は一円も出ない。これも斎藤さんの嫌がらせの一環だ。三沢さんへの恩返しのために働き続けているけれど、このような仕打ちが続くようでは、いずれ限界がやってくる。

そう思い始めた矢先のことだ。

斎藤さんが新社長に就任してから半年後。出勤直後、斎藤さんから俺宛てにメールが届いた。

「五分以内に社長室に来い」

俺はため息をつき、急ぎ足で社長室へ向かった。

「失礼します」

扉を開けて斎藤さんの前に立つと、斎藤さんは視線を合わせないまま口を開いた。

「お前、退職願を出したんだってな」

「ええ」

斎藤さんの嫌がらせに、俺の心はとうに折れていた。会社を去る決意をし、退職願を提出したのは二日前のことだ。しかし、なぜか斎藤さんは不服そうな様子だ。

「勝手に逃げるとは生意気なんだよ。俺が首にするまで、サンドバッグにしてやるつもりだったのに」

吐き捨てるように言うと、斎藤さんは一枚の書類を突きつけた。

「これはお前の退職金に関する書類だ。先ほど経理から受け取った。なんだこれは? 中卒のくせに退職金三千万だと?」

確かに、書類には退職金として三千万円を支給すると書かれている。

「無能のお前にこんな金額は渡せない。というわけで、先ほど規定を見直した。お前の退職金は三六円だ。金属年」

「なんですって」

思わず困惑の声をあげると、斎藤さんは口元を歪めた。俺の反応がお気に召した様子だ。

「大卒以下の社員で、定年まで働かなかった根性なしの役立たずは、金属年数に一円をかけた金額にすると決めたんだよ」

「そのような規定は今までなかったはずですが」

「今決めたんだよ。俺が新社長だからな」

斎藤さんは勝ち誇ったように笑った。中卒の俺がどれだけ働こうが、三千万円もの退職金をもらえる立場ではないと主張したいのだろう。この男は、人の人生を自分の思い通りに動かせることを楽しんでいる。そう思うと、胸の内で何かが冷たく燃え上がるのを感じた。

「わかりました。では、その規定で結構です」

俺がそう答えると、斎藤さんは一瞬、拍子抜けしたような顔をした。もっと泣き言を言うと思っていたのだろう。俺は静かに会釈をし、社長室を後にした。後ろで何か言っているようだったが、聞かなかったことにした。

あの日、俺は思ったのだ。このまま黙って潰される必要はない。三沢さんが築いた会社を守りたいという気持ちは本物だ。しかし、それ以上に、目の前の不当な扱いに黙って従う自分でいるわけにはいかないと。

実は、俺は以前から少しずつ、ある準備を進めていた。営業部に勤めながら知り合った取引先の人脈。それらは、営業マンとして働いてきた二十数年分の財産だ。そして、その中には他社の人間よりも詳しい、この業界の裏側を知る者もいる。

退職金を三六円にされたと聞いた時、俺の中で迷いは完全に消えた。この男をこのままにはしておけない。経営者として最も大切なことを理解していない人物が、三沢さんの愛した会社を壊そうとしている。それを止めるのも、三沢さんへの恩返しになるだろう。

「斎藤さん。あなたは何もわかっていない」

誰もいない廊下で、俺は静かにつぶやいた。

俺は退職願を撤回することなく、会社を去ることにした。ただし、単に去るのではない。俺がいなくなった後、この会社に何が起こるのか。それを想像すると、自然と足取りが軽くなった。

退職の手続きを済ませ、最終出社日。営業部の机を片付けていると、斎藤さんが部下を連れて近づいてきた。

「村田くん。いや、元課長。辛かったろう。でも、これでお前も楽になったな。中卒にはやはり、どこも居場所はないってことだ」

部下たちの前で、わざとらしく同情するふりをして言う。斎藤さんは、俺が周囲にどう見られるかを気にしているのだ。部下たちの前で、かつてのライバルを辱めることが、この男の快感なのだろう。

「ありがとうございます。お世話になりました」

俺が頭を下げると、斎藤さんは満足そうに笑った。その笑顔を見て、俺は確信した。この男は、自分のやっていることが何もわかっていない。

一週間後。俺の携帯に、一通のメールが届いた。差出人は、かつて営業で担当していた取引先の社長だった。

「村田さん、とんでもないことになりましたね。ニュースを見てください」

ニュースには、あの会社の名前があった。一部上場企業からの大型取引の話を、斎藤社長がひとりで勝手に進めていたことが発覚したのだ。話の内容は、あまりにも杜撰なもので契約書も交わされていなかった。実際には、その取引先との交渉をまとめていたのは、俺だった。斎藤さんは、俺が積み上げてきた関係性を台無しにしたのだ。

さらに、追い打ちをかけるような情報も入ってきた。斎藤さんが人事部長時代、部下の評価を恣意的に操作していたことが社内の内部通報で明るみに出たのだ。学歴で人物を判断し、不当に低い評価をつけていた事実。それは、俺や他の社員たちへの扱いとも符合していた。

会社は大混乱に陥った。社内の信頼は失われ、得意先からの信用も大きく損なわれた。斎藤さんは臨時取締役会で解任されることが決まり、会社を去ることになった。

後任の社長として名が挙がったのは、初代社長の三沢さんが信頼を寄せていた、専務の西野さんだった。西野さんは、顔を合わせるなり深く頭を下げた。

「村田さん、すまなかった。私がもっと早く気づくべきだった。君の努力を、この会社は裏切った。そして、何より三沢さんに申し訳ないことをした」

西野さんはそう言うと、一通の書類を差し出した。

「会社を去った君に、今すぐなんと声をかければいいのか。ただ、この書類を見てほしい」

それは、退職金の支給を決める書類だった。そこには、かつて提示された三千万円、いや、それをはるかに上回る金額が記されていた。

「私は知っている。君がどれだけの仕事を残してきたのかを。君の売り上げが、この会社を何年も支えてきたことを。それに、私は聞いている。三沢さんが君を評価していたことも。今回の騒動で、社員の何人かは、君が正しかったとわかったはずだ」

俺は、その書類をじっと見つめた。確かに、そこにはこの春の騒動で、俺の退職金が不正に減額されたことを示す記録も添えられていた。

「斎藤前社長が、君の退職金規定を改悪した記録だ。まったく、とんでもないことをしてくれたものだ。しかし、ここではそれを取り戻すだけでなく、感謝の気持ちとして受け取ってほしい」

西野さんの言葉に、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。確かに、嬉しい話だ。しかし、俺の中には、すでに答えがあった。

「申し訳ございません。西野さん。ありがたいお話ですが、このお金を受け取るわけにはいきません」

「何を言っているんだ。これは、君が長年働いてきた正当な対価だ。君がもらう権利がある」

「いえ、確かにこの金額は魅力的です。しかし、俺が本当に必要としているのはお金ではないんです」

西野さんは、怪訝な顔をした。

「では、何が必要だと?」

「俺は、この会社で斎藤さんから受けた仕打ちによって、大切な何かを失いました。それは、学歴や、お金よりももっと高価なものです。これからの人生をどう生きるか。それを一度は考え直すきっかけをくれたんだと、今は思っています」

俺は、書類をそっと押し戻した。

「お気遣いありがとうございます。しかし、この申し出は、昔の俺にはとても嬉しいものだったと思います。でも、今の俺には、新しい道を歩んでいく必要がある。俺がここに残ることは、会社のためにも、自分のためにも、きっと良くない」

「しかし……」

「西野さん。俺が営業で培ってきた人脈や知識は、別に特別なものではありません。ただ、愚直に、誠実に、相手のことを考えて接してきただけです。それで、ここまで育ててもらった。その恩を、どうお返しできるか。それは、きっと会社を離れても変わらないはずです」

西野さんは、ため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。

「……わかった。君の気持ちが固まっているなら、無理強いはしない。ただ、村田さん。もしも辛くなったら、いつでも戻ってきてほしい。君のポジションは、ここに確保しておく。営業部長として、だ」

「……ありがとうございます。そう言っていただけると、報われます」

西野さんの手を握り、俺はその場を辞した。背中越しに、誰かの声が聞こえた気がした。

「やっぱり、先祖がえりはどこまでいっても……」

その言葉の続きを聞くために、俺は振り返らなかった。

数ヶ月後、俺は小さな弁当屋を開いていた。三沢さんと出会った、あの定食屋の近くに。腕によりをかけた仕事ぶりは評判を呼び、店は連日、常連客で賑わうようになった。

ある日、閉店後の店内で、一人の高齢の女性が声をかけてきた。

「村田さん、だったかね?」

「はい、そうですけど」

「わしは、三沢の妻じゃ。主人から、何度も君の話を聞いておる」

その言葉に、俺は言葉を失った。

「主人は、こうも言っておった。『村田くんは、わしの人生を変えてくれた恩人だ』とな。あの日、ひったくりに遭わなければ、今のわしらはなかったじゃろう。息子も、娘も、みんな主人に感謝しておる。そして、君にもな」

「三沢さんには、育ててもらいました。本当に感謝しています」

「いや、こちらこそ。あとは、これを……」

女性は、古びた封筒を差し出した。

「何でしょうか?」

「卒業証書じゃ。わしが、息子の代わりに取っておいたのじゃ」

「卒業証書……」

「高校の通信制の卒業証書じゃ。何でも、君が昔、夜中にこっそり勉強していたのを、主人が見つけてのう。『あれだけ働いて、よう頑張っておる。わしがなんとかせねば』と言ってな。君が三千万円の退職金を辞退したと聞いて、『やはり、わしの見込んだ男だった。この卒業証書には、三千万円以上の価値があるじゃろう』と言っておったよ」

女性が帰った後、俺は封筒から卒業証書を取り出した。そこには、何度も何度も読み返しても、涙が出そうになるほど、丁寧な文字で俺の名前が記されていた。

中卒のくせに。その言葉を、何度言われただろうか。しかし、俺は、もう何も恥じることはない。俺は、中卒じゃない。この卒業証書が、その証だ。田中さんが、三沢さんが、教えてくれた。学歴なんかよりも、大切なことを。

俺は、卒業証書を大事にしまい込み、明日の仕込みを始めることにした。この店に来てくれるお客さんの、笑顔のために。今日も、全力で働こう。三沢さんの、この町に残してくれたものを、大切に守りながら。

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