夜勤明けの午前八時、玄関を開けた瞬間、私の荷物がゴミ袋のように積まれていた。リビングから息子の嫁が「お母さんみたいな貧乏臭い人は、老人ホームに入るのがいいと思いますよ」と笑った。月十五万払うから出て行け、と。私は四十年看護師として働き、この家のローンを一人で払い続けてきた。「この家の品格が下がるのよ」という言葉に、私は拳を握りしめ、静かに「分かったわ。出ていく。でも、覚悟しておいてね」と答え…

夜勤明けの午前八時、玄関を開けた瞬間、私の荷物がゴミ袋のように積まれていた。リビングから息子の嫁が「お母さんみたいな貧乏臭い人は、老人ホームに入るのがいいと思いますよ」と笑った。月十五万払うから出て行け、と。私は四十年看護師として働き、この家のローンを一人で払い続けてきた。「この家の品格が下がるのよ」という言葉に、私は拳を握りしめ、静かに「分かったわ。出ていく。でも、覚悟しておいてね」と答え...

私は夜勤明けの疲れた体を引きずって玄関のドアを開けた。午前八時、ようやく終わった長い勤務の後の帰宅だ。しかし、そこに広がっていたのは私の知らない光景だった。玄関の脇に、私の荷物がゴミ袋のように乱暴に積まれている。着替えも、本も、思い出の品々も、すべてが無造作に詰め込まれていた。

「あら、お帰りなさい」

リビングから聞こえてきたのは、私の息子の嫁であるとも子さんの、わざとらしいほど高い声だった。彼女はソファにふんぞり返ったまま、スマホも見ずに私を見上げてニッコリと笑った。その顔には一切の悪意も後ろめたさもない。

「お母さんみたいな、そういう貧乏臭い人は、老人ホームに入るのがいいと思いますよ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「月に15万円払いますからね。それで老人ホームに入ってください。家賃だと思ってくださいよ。ここはこれから私たち家族が住むんです。お母さんはもう出て行ってください」

貧乏人、と彼女は小さく続けた。その言葉が、夜勤明けで朦朧としていた私の意識を一気に覚醒させた。四十年以上、看護師として必死に働き、この大きな家のローンを一人で払い続けてきた私の誇りを、彼女は涼しい顔で踏みにじったのだ。

「この家の品格が下がるのよ、さっさと出て行って」

勝ち誇った顔で笑う家族を見つめながら、私は拳を握りしめた。震える拳を。そして、静かな怒りの中で、ある決意を固めていた。

「分かったわ。出ていく」

私はそう言った。声は思っていたより落ち着いていた。

「でも、覚悟しておいてね」

その言葉の意味を、彼らはまだ理解していなかった。

二十年前、この家を建てた時から、すべては間違っていたのかもしれない。見栄っ張りな夫は、自分の身の丈に合わない大きな豪邸を欲しがった。もちろん、夫の収入だけでは銀行の審査は通らなかった。夫は言ったのだ。

「おい、お前の看護師の資格を使えよ。信用があるだろうが」

当時すでにキャリアを積んでいた私は、連帯債務者としてサインをした。月々十五万円の返済を背負うことになった。それから二十年間、私は雨の日も嵐の日も、弱った患者を支え、命を守り続けてきた。看護師として四十年、師長まで務め、今もなお現場で戦っている。それが私の誇りだった。

だが、高額なローンを払うために、自分の服は安物で済ませ、化粧も最低限にしかできなかった。そんな私を、息子はいつも冷めた目で見ていた。

「母さん、いつもダサいね。もっとマシな格好できないの? 」

三十歳を過ぎて仕事もせず、定年を迎えた夫は、朝から私に使えなかった。

「飯はまだか? 今日はコースを回って疲れてるんだ」

私をATMのようにしか見ていない。私を働かせて、彼らは悠々と暮らしている。私はただの、がめつい金ヅルでしかなかった。地獄のような日々が始まったのは、息子夫婦が家賃を浮かせるためだと、図々しく私の家に転がり込んできてからだった。

最初は信じていた。同居して、親子の絆を深めたいと提案されたと思った。私がバカだったのだ。

ある日、夜勤を終えてフラフラになりながら帰宅すると、私の部屋から家具がすべて廊下に放り出されていた。何が起きたのか分からずに立ち尽くす私に、とも子さんが悪びれる様子もなく言った。

「あ、お母さん、お帰りなさい。この部屋、日当たりがいいから、私たちの寝室に決めたのよ。荷物もついでに移動させておいたわ」

「移動? 私の許可もなく勝手に?

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じゃあ、私はどこで寝ればいいの? 」

「お母さんは一階の納戸を使ってくださいよ。どうせ夜勤でいない日も多いし、昼寝するなら暗い方がいいでしょう? リビングのソファだってあるし」

納戸。そこは窓もなく、カビ臭い湿気がこもる三畳ほどの物置だった。何か言おうとした私の前に、息子が割って入った。

「母さん、とも子がせっかく考えてくれたんだぞ。夫婦のプライバシーを守るためには、部屋の配置換えは必要なんだよ。文句は言うなよ」

それ以来、私は自分の家の中で居場所を失った。彼らは私の存在などお構いなしに、深夜までリビングでテレビを大音量で流した。友人を招いては宴会を開き、私が夜勤明けで睡眠を取ろうとしても、足音と笑い声で休まる暇もなかった。それでも、月々二十五万円のローン返済だけは、常に私の口座から引き落とされていた。

生活の侵害はそれだけではなかった。ある朝、出勤しようとバッグの中の財布を開けると、昨日下ろしたばかりの生活費、三万円が消えていたのだ。記憶をたどっても、使った覚えはない。まさか、と思い、リビングでスマホをいじっているとも子さんに声をかけた。

「とも子さん、私の財布からお金を抜いたりしてないわよね? 」

「あー、それ?

ちょっとエステの支払いが足りなくて借りたんですよ。いいじゃないですか、家族なんだから。それにお母さん、いつも家にいないじゃないですか。留守番代みたいなもんでしょ? 」

「借りたって一言もなかったわよ。それに、留守番代ってどういうこと? 」

「細かいこと言わないでくださいよ。これだから年寄りは嫌なのね。お母さん、看護師でしょ? 給料いいんでしょ?

たかが三万円くらいで目くじら立てないでくださいよ」

「三万が、たかがだと? 私がどれだけ大変な思いをして稼いでいると思ってるの? 」

「はいはい、出た出た。苦労自慢。耳にタコができるわ」

彼女には罪悪感のかけらもなかった。帰宅した息子に訴えても、返ってくるのは冷たい言葉だけだった。

「母さん、とも子を泥棒扱いするのか? 最低だな。金くらいくれてやれよ。どうせ使い道なんてないんだろうし。死んだら意味がないんだ。生きてるうちに使って何が悪いんだ」

息子は完全にとも子さんの言いなりで、私の気持ちなどこれっぽっちも考えてはいなかった。孤立無援の私にとって、最後の味方は夫のはずだった。だが、その夫が最大の敵だった。

退職してからというもの、夫は毎日ゴルフ三昧で、家のことは一切しなかった。それどころか、私が家計の苦しさを相談しようとすると、面倒臭そうに手を振った。

「俺は現役時代に十分働いたんだ。これからは悠々自適な隠居生活を送る権利がある。家のローンなんて、俺に聞くなよ」

「でも、あんた、貯金もほとんど残ってないじゃない。息子の小遣いやゴルフ代、それにとも子さんの買い物。私の給料だけじゃ、もう限界なのよ」

「甘えるな。お前はまだ働けるだろうが。看護師は天職じゃないか。素晴らしい仕事だぞ。俺や息子たちが楽しく暮らせるように働くのが、お前の幸せなんだろ?

「私の幸せ? 」

「そうだよ。お前はこの家のATMだ。壊れるまで金を出せばいいんだよ」

ATM。夫の口から出たその言葉に、私は言葉を失った。三十五年以上連れ添った妻に対する言葉が、これか。家族のために身を削って働いてきた私の人生は、彼らにとってはただの自動現金支払い機でしかなかったのだ。

絶望に打ちひしがれる私に、息子が得意げに付け加えた。

「なんだよ、母さん。とっくに分かってたことだろ? 銀行のことは親父が上手くやるんだよ。母さんは黙って、今まで通り毎月十五万払ってればいいんだ」

「ふざけないで」

ようやく出た声は、私自身が思っていたよりも鋭かった。

「私が住みもしない家のローンを、どうして払わなきゃいけないの? それに事業資金って言ったけど、どうせまた遊ぶ金でしょ?

「あ? 何言ってんだよ、母さん。とも子の兄貴がやってる飲食店の事業資金だよ。俺たちは家族だろ? 助け合うべきだろ」

「助け合う? あなたたちが何か助けたことがあるの?

私はこの家のために、ローンを払うために、あなたたちのために、ずっと身を削って働いてきた。なのに、その恩を忘れて、私を追い出そうとしてるの? 」

「恩? はっ、働くのが当たり前でしょ。男ならともかく、看護師なんて女の仕事だし。それに、もう年なんだから、さっさと老人ホームで大人しくしてればいいんだよ」

息子の言葉に、私は何かがプツンと切れる音を聞いた。何年も溜め込んできたものが、一気に溢れ出しそうになる。

「あんたたち、よく聞きなさい」

私は二人の前に立ちふさがった。

「この家のローンは、私が一人で払ってきた。最初の頭金から、毎月の返済まで、すべて私の稼いだ金だ。それなのに、その私を追い出そうとは、どういう了見なの? 」

「だから、老人ホームに入ればいいって言ってるんだよ。月十五万、ちゃんと払うから、大人しく出て行けよ」

「月十五万で老人ホーム?

それで足りると思ってるの? 普通の老人ホームじゃ、月二十万は軽くかかるわよ。それに、本当に払うつもりがあるの? 」

「おい、母さん。警察沙汰にしたくないんだろ? 分かってるなら、素直に従っ てくれよ」

「警察?

あんた、何を言い出すの? 」

「この家の名義が誰にあるか、分かってるんだろ? 母さん、裁判所から出て行けって言われたんだぜ。もう手遅れだ」

「名義が何だって? 確かに名義は夫だけど、それは私が…」

「お前の給料は、俺の給料として銀行に申請してたんだよ。ローンを組むときに、今みたいに看護師の資格を盾に俺が連帯保証人になってやったんだ。お前はただの名義人だ。この家の主は俺だ」

私は言葉を失った。連帯債務者としてローンを組んだのは、私の看護師の資格を活用するためだった。名義は夫だが、ローンは私が払ってきた。それは事実だ。しかし、法的には、家の所有者は夫なのだ。

「そういうことだ。だから、大人しく荷物をまとめて出て行け。言うことを聞かないなら、こちらにも考えがあるぞ」

「旦那さん、私がちゃんと説得しましたから、別にもういいでしょう?

とも子さんが、夫の肩に手を置きながら言った。その目は、勝ち誇っていた。

「そうだぞ。言って聞かせたから、もう文句は出ないはずだ。それじゃあな、母さん。達者でな」

私は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。目の前が真っ暗になる。長年連れ添った夫が、そして、愛した息子が、私を無理やり不法侵入者扱いにして追い出そうとしている。私の人生は、一体何だったのか。

「待って」

私は呼び止めた。二人が振り返る。

「この家のローンは、まだ残ってるんだ。私が払わなければ、あんたたち、この家を失うことになるのよ。どうするつもり? 」

「あ? 俺たちが払うから、問題ないだろうが。それより、銀行の通帳と印鑑を出せよ。俺が管理してやるから」

「私はあなたに払うとは一言も言ってない。この家の権利は、私にあるのよ」

「お前、引っ越し先が決まってないなら、一晩くらい保冷車の上でも考えてろ」

夫の言葉に、私は体中の血の気が引くのを感じた。保冷車。私はかつて、悪質な介護施設から著名人を運ぶ仕事に関わったことがある。まさか、自分が同じ目に遭うとは思っていなかった。

「あなた、そんなことを言うの? 私、あなたのために、どれだけ…」

「言い訳はいいんだよ!

もう出て行け! 」

夫が珍しく怒鳴った瞬間、玄関の方で物音がした。全員がそちらを向くと、そこには見知らぬ若い男性が一人立っていた。スーツ姿で、手に封筒を持っている。

「すみません、田村さんのお宅ですか? 」

「あ? 誰だ、てめえは?

夫が怒鳴る。しかし、若い男は気にした素振りもなく、私を見て言った。

「もしお宅の息子さんが、ある書類についての相談を依頼された方でしょうか? 」

「息子? 俺の息子が何の…」

振り返ると、息子は青ざめて部屋の隅に立っていた。

「あなた、まさか…」

「ママ、違うんだ、これは…」

「何を入れてきたんだ、お前! 」

夫が息子に掴みかかろうとした。しかし、若い男が落ち着いた声で言った。

「いえ、私は司法書士の山田と申します。田村さんから、こちらの書類一式について法的な確認のご依頼を受けまして、今、届けに来たんです。ご本人が、自分で話されるそうです」

「書類って、何の書類だ?

「それは…」

息子は汗を拭い、こう言った。

「父さん、母さん、すみません。実は…事業資金にって、家を担保に借金を申し込んだんです。書類には、二人の印鑑を押しちゃって…」

「何だって? 」

「借金って、いくらだ? 」

「事業資金…あ、兄貴の店の…」

「てめえ! 」

夫が息子を掴む。その瞬間、何かが音を立てて頭の中に落ちていった。全てが腑に落ちたのだ。

「家を担保に…」

私は震える声で呟いた。

「うちの息子が、借金のためにこの家を…」

「ママ、違うんだ、話を聞いて…」

「もう、たくさんだ」

私は静かに言った。そして、玄関に置かれたままだった自分の荷物を一つ持ち上げた。

「ママ、どこに行くんだ?

「あなたの言う通り、私は出ていくわ」

「ちょっと待て、ローンは…」

「ローン? あの家のローンね、とっくに組み終わったわよ」

二人の顔色が変わる。

「何? どういうことだ? 」

「二十年前、家を建てた時、私はあなたの収入だけでは審査が通らないからって、私の看護師の資格で連帯債務者になった。そして、私は給料の大半をそのローン返済に回してきた。でも、ローンが全て終わったのは、五年前よ」

「は?

「何言ってるんだ、お前…」

「夫のあなたが全ての銀行取引を任せて、通帳も印鑑も私に預けたのは覚えてる? その時に、ローンを全額繰り上げ払いで清算しておいたのよ。あの家は、私の名義にしてある」

沈黙が落ちた。

「嘘だろ…」

息子が白い顔で呟く。

「本当よ。今、話した通り。この家は、あなたたちのものじゃない。まさか、それを知らずに、お金を引き出してたなんて、バカなことね」

「母さん、おい、待てよ。縁を切る気か? 」

「縁? あなたはもうとっくに、その金で繋がっていた縁しか大事にしてないでしょ」

私は振り返らずに玄関に向かおうとした。しかし、そこで足を止めた。

「あ、そうだ。聞こえたわよ、さっきの会話。『力ずくで追い出して、家を売り飛ばす』って。あなたたちがそうするなら、こっちにも考えがあるわ。ボイスレコーダーで、全部録音してあるから」

「何!?

「家は私のもの。あなたたちに権利はない。これから警察に相談に行くわ。ストーカーや、横領の件でね」

「ママ、待って、お願い、頼む、みんなで…」

「もう終わりよ」

私はドアを開けた。そして、最後に振り返って、二人を見た。

「あなたたちは、これから稼がなきゃいけないわね。でも、安心して。ちゃんとやり方は教えてあげる。」

「何の話だ? 」

「もうすぐ司法書士の先生が、中古の家を探してくれるって言ってるから、次は私がいうことを聞いてもらうわよ」

そう言って、私は家を出た。背後で必死に呼び止める声が聞こえたが、私は振り向かなかった。冷たい風が私を出迎えてくれた。

しばらく歩いたところで、私は登録していた司法書士事務所に電話を入れた。

「もしもし、田村です。約束通り、今からそちらに資料を届けます。ええ、あの家は借金返済のために売りに出します。もういいの、家族全員を路頭に迷わせるわけにはいかないから。ただ、付き合い方は、せめて今までの十年分とは変える。…ええ、養子縁組の手続きもお願いできるかしら? ええ、私、今月で看護師を辞めるから。老後は、静かに過ごすわ。」