夕方、ポストを開けたら市役所からの茶封筒が入っていて、その場で指先が冷たくなった。開けると「世帯に未納の市税等がないこと」の一行。翌日窓口で若い職員が画面を見たまま「三十二万円ほどになっております。期限は二月末日です」と言った。夫が十年前に死んで残した税金だった。月十五万円で暮らす六十九歳の私には、二か月分の収入より多い額だった。それでも払わなければ春にはこの団地を出て行くことになる。住む場…

夕方、ポストを開けたら市役所からの茶封筒が入っていて、その場で指先が冷たくなった。開けると「世帯に未納の市税等がないこと」の一行。翌日窓口で若い職員が画面を見たまま「三十二万円ほどになっております。期限は二月末日です」と言った。夫が十年前に死んで残した税金だった。月十五万円で暮らす六十九歳の私には、二か月分の収入より多い額だった。それでも払わなければ春にはこの団地を出て行くことになる。住む場...

千葉県の海沿いにある古い団地の一室で、クロス静という女性が暮らしていた。六十九歳。夫が死んで十年が過ぎていた。静は背が低く、骨ばった手首が袖口から覗いていた。擦り切れたベージュ色のカーディガンは、両肘のあたりが薄くなって布目が透けて見えるほどだった。それでも彼女はそれを捨てなかった。捨てる理由がなかった。着られるうちは着る。それが彼女の生き方だった。

白と黒の混じった髪は毎朝同じように同じ辺りでピンで止められていた。乱れた日はなかった。鏡の前で三十秒もかければ整えられる。それだけの量しかなかったからだ。話しかけられると、静はいつも少し間を置いてから「あの」と言った。その「あの」は癖になっていた。返事をする前に、一瞬相手が何を求めているのかを図るための「あの」だった。そして敬語は常に最上級だった。近所の顔見知りにも、スーパーのレジの若い子にも、郵便局の窓口の男性にも、丁寧語ではなく敬語を使った。角を立てたくなかった。角を立てることで生まれる面倒が、彼女には恐ろしかった。

目線はほとんどいつも斜め下に落ちていた。まっすぐ人の目を見ることが、彼女にはなんとなく苦手だった。いつからそうなったのかは自分でも分からなかった。気づいた時にはそうなっていた。

二〇二六年の十一月。静の住む団地は、昭和四十年代に建てられたままの姿だった。外壁の灰色のコンクリートには、縦筋の染みが何本も走っていた。雨が降るたびに少しずつ濃くなり、何十年もかけて今の色になったものだ。共用廊下の手すりは錆が浮き、角を曲がったところに捨てられたままの植木鉢が、土だけになって転がっていた。エレベーターはなかった。静の部屋は四階だった。住んでいるのはほとんどが老人だった。若い家族はとっくに出ていっていた。団地の中庭にある遊具は、錆びて使い物にならなくなっても撤去されないまま、ただそこに立っていた。

静は毎朝六時に起き、六時半に家を出た。仕事は市内の病院での清掃員。週五日、一日七時間。不要の範囲内に収まるよう意識して、ギリギリのところで働いていた。給料は月に九万円ほど。夫が残した年金は月六万二千円。合わせると十五万円を少し超える程度。そこから家賃と光熱費と食費と医療費と団地の自治会費を払えば、残るものはほとんどなかった。

夜は七時半を少し過ぎた頃に近くのスーパーへ行くのが習慣だった。目的は一つ。閉店近くになると店員が値引きシールを貼って回る弁当を買うためだった。五割引きになった弁当は、三百五十円か四百円になっていた。静はいつも同じ場所で待った。弁当が並べ直されると素早く一つ取って籠に入れ、すぐにレジへ向かった。知り合いに見られることを恐れていた。同じ団地の住人に、賞味期限間近の弁当を買う姿を見られたくなかった。見られたからと言って何かが変わるわけではない。でも何かが変わってしまうような気がしていた。そういう小さな恐れが、静の一日にはいくつも散らばっていた。

十一月の中旬のある夕方、仕事から帰ってポストを開けると茶封筒が入っていた。差出人は市役所だった。封筒の表面に書かれた文字を見ただけで、静の指先が少し冷たくなった。部屋に上がり、台所の蛍光灯をつけてから封を開けた。二枚の紙が入っていた。一枚目はお知らせの文書だった。この団地は建設から五十年以上が経過し、老朽化が著しいため、来年二〇二七年の春に向けて建物の解体が決定したという内容だった。住民には新しい市営住宅への移転が案内され、申し込みは抽選となる。ただし、資格の条件として世帯に未納の市税等がないことが求められていた。二枚目は申し込みの説明と問い合わせ先が書かれた案内だった。

静は二枚の紙を台所のテーブルに置いた。上着もまだ脱いでいなかった。「世帯に未納の市税等がないこと」。その一文を読んだ時、静は小さく息を飲んだ。

翌朝、仕事を終えた午後、静は市役所へ向かった。窓口には杉山という名札をつけた三十代半ばくらいの男性職員がいた。静が訪問の目的を告げると、杉山はキーボードを打ち始めた。長い沈黙があった。やがて杉山はわずかに眉を動かし、静の方へ視線を戻した。

「クロス様の世帯名義で住民税の未納分がございます。被保険者であるクロス博幸様が生前個人事業をされていた時期の分です。延滞金を含みますと、現在三十二万円ほどになっております」

三十二万円。静は一瞬その数字を頭の中で繰り返した。自分の二か月分の収入より多い額だった。

「それは、夫が亡くなってからもずっと残っていたということですか」と静は小さな声で聞いた。

「はい。住民税の未納分は世帯の記録に残ります。延滞金が毎年加算されておりましたので、現在の金額になっております。市営住宅の申し込みにはこの未納分を完納していただく必要がございます。期限は来年の二月末日です。期限を過ぎますと、今回の抽選への参加資格がなくなります」

静は手の中のハンドバッグを少しだけきつく握った。「分かりました。ありがとうございます」と彼女は言った。お礼を言う場面ではなかった。でも静はそう言って立ち上がり、窓口から離れた。

夫の博幸が個人事業をやっていたのは、今から十五年以上前の話だった。小さな水道工事の下請けを受け負っていたが、何度か仕事が途切れ、納税が後回しになっていた時期があった。博幸は後で一括で払うと言っていた。静はそれを信じていた。信じるしかなかった。そして博幸は十年前に脳出血で倒れ、そのまま戻らなかった。葬式が終わり、年金の手続きを済ませたら、税金のことは頭になかった。延滞金がついていることも知らなかった。

帰り道、スーパーで豆腐と卵を買った。今日は弁当ではなかった。弁当を選ぶ気持ちになれなかった。その夜、静は食事をほとんど取らなかった。茶碗半分のご飯に卵をかけて食べ、残りは冷蔵庫へ入れた。台所のテーブルの上に市役所からの二枚の紙が置かれたままだった。静は紙を手に取り、三十二万円という数字をもう一度だけ見てから引き出しの中にしまった。

その翌週の木曜の夜に、団地の自治会の集まりがあった。参加者は十数人で、ほとんどが六十代から七十代の住人だった。奥田という女性が進行役だった。七十代の前半で腰が少し曲がっていたが、声だけは大きかった。この団地の自治会長を長年務めていて、地域のことなら何でも把握していた。奥田は議題を読み上げた。清掃当番の日程、ゴミの分別の徹底、共用廊下の大掃除の日、それから年度末に向けた自治会費の回収について。

「今年は年末のお祭りの積立金が足りませんので、皆さんから三千円ずつお願いしています。先月配った封筒に入れて、来週までには副会長のところへ持ってきてください」

集まりが終わった後、各自が奥田のところへ封筒を届けた。静もその列に並んだ。財布の中には五千円札が一枚と千円札が一枚あった。来週の食費の残りだった。三千円を取り出す時、指先がわずかに迷った。それでも取り出した。封筒に入れて奥田に渡すと、奥田は「ご苦労様です」と言いながら別の話をしていた。静のことは見ていなかった。

廊下で静は財布の中を確認した。残りは二千円と百円硬貨が数枚。来週の水曜日までそれで食べなければならない。でも払わなかった場合のことを考えると、払うよりも怖かった。自治会の集まりに来ないこと、会費を払わないこと、清掃当番を休むこと。そういうことが積み重なると、団地の中での立場が変わっていく。無視されるようになる。あるいは影で何かを言われるようになる。それが静には耐えられなかった。

部屋へ戻り鍵を閉めた。台所の椅子に座り、電気をつけたまましばらく動かなかった。三十二万円。二月末日。来年の春。この建物の半分が取り壊される。その前に自分は新しい市営住宅へ移らなければならない。移るためには未納の税金を払わなければならない。今の収入では、三か月でどう考えても届かない。親戚はいるが頼れる関係ではなかった。夫の親族とは博幸が死んでから連絡が途えていた。自分の兄は五年前に死んでいた。妹は神奈川にいるが、妹自身も年金生活で余裕のある暮らしではないことを知っていた。

翌日の午前中、静は仕事へ行った。病院の清掃は、静は外来の廊下と検査室の前の待ち合いスペースを受け持っていた。モップをかけ、窓枠の塵を拭き、椅子の足元のゴミを集める。それを繰り返す静かな仕事だった。同僚に田辺という女性がいた。よく話す人だったが、悪意のある人間ではなかった。ただ誰かの事情に敏感で、細かいことをよく見ていた。休憩室でお茶を飲みながら田辺が言った。

「しずさん、最近なんか元気ないですよね。体の具合でも悪いんですか?」

「いえ、大丈夫です。ちょっと疲れているだけで」

静は田辺の顔を一瞬だけ見て、すぐに手元の湯飲みへ視線を落とした。疲れているわけではなかった。夜中に何度か目が覚めて、その度に税金のことを考えていた。眠れない夜が続いていた。

仕事が終わった午後四時、静は病院の駐輪場で自転車の鍵を外しながら、しばらくそこに立ち止まっていた。今月の給料日まであと十日。手元に残っているのは二千円と小銭だけだった。冷蔵庫にあるのは卵が三個と乾燥わかめの残りと出汁の素だった。なんとかなる。自転車に乗り、風の中を団地へ向かった。

その夜、静は台所のテーブルに紙を一枚広げ、計算した。現在の月収十五万円から家賃三万五千円。電気代と水道代が合わせて八千円。食費が月二万五千円程度。国民健康保険が七千円。それから雑費。残るのは毎月六万円程度だった。三か月で十八万円。三十二万円には届かない。五か月あっても足りない。しかし期限は二月末日。今は十一月の下旬。残り三か月とほんの少し。計算するたびに同じ答えに行き着いた。普通に働いていては間に合わない。

静はしばらくペンを置いたまま天井の蛍光灯を見上げた。蛍光灯が小さくチカチカしていた。どこかで電気の繋がりが弱くなっているのだと思ったが、管理組合に言うべきかどうか迷っていた。言えば交換してもらえるかもしれないが、交換を頼むことで何か余計なことを聞かれるかもしれないという気がして、ずっと放置していた。

静は一つの考えを頭の片隅に浮かべた。今の仕事に加えてもう一つ何か働けないか。すぐに否定した。そんな年齢でもないし、体力が持つかどうかも分からない。でも否定した直後にまた同じ考えが浮かんだ。三十二万円は自分でどうにかするしかない。誰かに頼むことはできない。頼む相手がいないのだとすれば、働くしかない。

その夜は遅くまで眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ちながら、数字と時間のことを考え続けた。そして明け方になって、一つだけはっきりしていることに気がついた。選択肢がないということは、選ぶ必要がないということだ。考えるまでもなく、働くしかない。ただそれだけだった。その気づきがあると、少しだけ楽になった気がした。楽になったというよりは、諦めに似た静けさが来たという方が正しかった。

翌朝、静は六時に目を覚ました。いつもと同じ時刻だった。顔を洗い、髪を簪で止めた。台所で白いご飯と味噌汁を作って食べた。味噌汁の具はわかめだけだったが、出汁が効いていたので十分だった。食べてから静はしばらくテーブルの前に座っていた。昨夜の計算をもう一度だけ頭の中でやり直した。三か月で三十二万円。月に約十一万円弱を余分に貯めなければならない。不可能に近い数字だったが、完全に不可能かどうかは分からなかった。もし夜の仕事を何か見つけられれば、月に七、八万円になるかもしれない。食費をもう少し削れば、合わせて目標に届く可能性がある。

静は立ち上がり、食器を洗って仕事用のバッグを持った。外へ出ると、十一月の朝の空気が肌に刺さるように冷たかった。その冷たさの中で、静は静かに決めた。何があっても来年の春には新しい住まいへ移る。そのためなら何でもする。

十一月の終わりから十二月にかけて、静の生活は外から見れば何も変わっていなかった。毎朝六時に起き、六時半に家を出て病院で清掃をして午後四時に帰る。スーパーで値引き弁当を待って部屋に戻って食べて、早めに布団に入る。変わっていたのは、帰宅してから布団に入るまでの時間に静がするようになったことだった。台所のテーブルに座り、折り畳んだ紙に数字を書く。今月いくら残るか、来月はいくら必要か、食費をどこまで削れるか。それを何度も繰り返した。答えはいつも同じだったが、書くことをやめられなかった。

十二月の最初の週、静は一つの決断をした。夜間の仕事を探すことにした。昼間の病院清掃に加えて、夜に何かできないか。日中の仕事を変えることは考えなかった。今の職場には六年いた。雇用保険もついていた。健康保険も使えた。それを手放すことは静にとって怖かった。ならば夜しかない。

求人誌は買わなかった。買えば金がかかる。スーパーの入り口に置いてある無料の地域情報誌をもらってきて、求人を確認した。コンビニエンスストアのアルバイト募集がいくつか出ていた。深夜から早朝にかけての時間帯は時給が高かった。千二百円から千三百円の間だった。静は気になった二件に電話をかけた。一件目は店長と思われる若い男性が出た。

「何歳ですか」

「六十九歳です」

「ちょっと年齢的に夜間はきついですよね」

柔らかい断り方だったが、断りだった。二件目も「実情として今は難しい状況です」と結ばれた。三件目は翌日にかけた。国道沿いのコンビニで、主にトラック運転手や深夜に動く人間が立ち寄る店だった。求人票には年齢不問と書かれていた。電話に出たのは女性だった。声が乾いていて、手際はよく質問した。

「夜中の十一時から朝五時まで入れますか? 週に何日入れますか? 交通手段はありますか?」

静は「はい。毎日入れます。自転車があります」と答えた。「一度来てみてください」と言われた。

翌日の夕方、静はそのコンビニへ自転車で向かった。国道沿いで、団地から自転車で十五分ほどの距離だった。店内の奥のカウンターに五十代くらいの女性がいた。山本と名乗った。山本は静をバックヤードへ案内し、椅子に座るよう促した。

「年齢はいくつですか?」

「六十九になります」

山本は少しの間、静の顔を見た。咎めるような視線ではなかった。確認するような目だった。「体の方は大丈夫ですか? 深夜は立ちっぱなしが多いので」

「病院で清掃をしておりまして、立って動く仕事には慣れています」

山本はまた少し間を置いてから、「分かりました。試用期間として最初の二週間で様子を見させてください」と言った。静は頭を下げた。「よろしくお願いいたします」

コンビニの仕事が始まったのは十二月の中旬だった。勤務は夜の十一時から翌朝五時まで、六時間の立ち仕事だった。最初の夜、静は午後十時四十 分に家を出た。団地の廊下には誰もいなかった。それでも静はレインコートを着ていた。雨は降っていない。でも夜中に歩いている姿を誰かに見られたくなかった。近所の人間が眠れずに廊下に出てきた時、こんな時間に出かける自分を目撃されれば、翌日には噂になる。それが怖かった。レインコートの下にはコンビニのエプロンと制服の上着を着ていた。

深夜の国道沿いのコンビニには、思ったより客が来た。トラックの運転手が三十分に一人か二人、缶コーヒーやタバコを買っていった。深夜の工場帰りらしい若い男性が弁当を温めてもらって、そのまま駐車場で食べていた。静はレジの前に立ち、「いらっしゃいませ」と言い、「ありがとうございました」と言い続けた。客の多くは静を見なかった。スマートフォンを持ったまま近づいて、商品を台に置いて、支払いをして出ていく。それだけだった。静もそれで良かった。見られなければ、何も考えずに済んだ。

午前二時を過ぎると客は減った。静は棚の補充を始めた。バックヤードから商品を出し、棚の奥から順に並べ直す。細かい作業だった。休憩は午前一時と三時の二回、それぞれ十五分ずつあった。バックヤードの椅子に座り、持参した水筒のお茶を飲んだ。椅子に座った瞬間だけ、体が少し重さを感じた。でも十五分で立ち上がった。

朝の五時に次のスタッフが来て、引き継ぎをして店を出た。外はまだ暗かった。十二月の早朝五時、空の端がわずかに青味を帯び始めていた。自転車に乗り、来た道を戻った。団地に着き、四階まで階段を上がった。部屋のドアを開けると、中は静かで暗かった。コートを脱ぎ、制服を脱いで洗面台で顔と手を洗った。鏡の中の自分の顔は、目の下が少し窪んで見えた。病院の仕事は午後から始まるので、それまで眠れる。静は布団を敷いて横になった。

眠れなかった。体は疲れていた。でも頭の中で何かがまだ動いていた。レジの音、客のカードが端末に触れる音、棚の商品の重さ、バックヤードの冷蔵庫の音。そういうものが続いていた。一時間後にうつらうつらし始めた。起き上がったのは十一時だった。洗顔して米を炊いて、昨日の残りの味噌汁を温めた。食べながら、体がどこにあるのか分からなくなるような感覚があった。

午後一時に家を出て病院へ向かった。病院の廊下をモップで拭きながら、静は一定のペースを保つよう意識していた。動きが遅くなってもいけないし、急ぎすぎて雑になってもいけない。普段通りにしていれば、誰も何も気づかない。田辺が声をかけてきた。

「今日も来てくれましたね。先週は顔色良くなかったから心配してたんですよ」

「大丈夫です。ありがとうございます」

田辺はもう少し話しかけようとしたが、静がモップを動かし続けていたので、話を切り上げた。こういう時は話を切り上げてしまう自分を、悪いと思っていた。田辺は悪い人間ではない。むしろ気にかけてくれている。でも今の状況を少しでも話せば、顔に出てしまう気がした。顔に出れば続きを聞かれる。続きを話せば同調される。同調されることの方が、一人で抱えていることよりも、なんとなく辛かった。

最初の一週間が過ぎた。静は計算した。コンビニの仕事を週五回、六時間ずつ入れると、月に約七万五千円になる見込みだった。病院の給料と合わせれば月二十二万円を超える。家賃と生活費を引いても、毎月十万円以上を残せる可能性があった。三か月で三十万円。あと二万円をどこかで補えば、三十二万円に届く。静はその数字を紙に書いて、引き出しにしまった。希望という言葉を使いたくなかった。使ってしまうと、崩れた時が怖かった。ただ数字の上では可能だということだけを確認した。

十二月の後半になると、夜の仕事が体に浸透してきた。浸透というのは慣れたという意味ではない。夜中に働くことが体の一部になってきたという感覚だった。眠りが浅くなり、音に敏感になり、昼間の光が少しだけ眩しく感じるようになった。でもそれが普通になった。朝の五時に帰ってきて六時間ほど眠り、昼の仕事をして、夜にまたコンビニへ行く。その繰り返しが日常になった。

食費をさらに削った。夕食は白米とインスタント味噌汁、あるいは卵一個だけの日もあった。コンビニの仕事中は、客が残して帰った弁当を捨てる作業もあり、その度に少しだけ忌々しかったが、手を出すことはしなかった。それをすれば仕事を失う。

十二月の末、コンビニの初めての給与が振り込まれた。七万二千円だった。思ったより少し少なかったが、許容範囲だった。病院の給料と合わせて、台所の食器棚の奥にある黄色い封筒の中へ入れた。封筒の中の紙幣を数えた。合計で十五万円ほどになっていた。三十二万円まで、まだ半分に届いていなかった。でも一か月でこれだけ貯めた。もう二か月続ければ届く。

年が開けた。二〇二七年一月。正月の三日間、病院は休みだった。コンビニは正月も関係なく営業していた。静は元日も仕事に入った。元日の深夜は、普段より少しだけ客が少なかった。静はレジに立ち、「あけましておめでとうございます」と言った。何人かの客は同じ言葉を返してくれた。それだけのやり取りだった。

朝の五時に帰り道、団地へ向かう自転車の上から海の方向が見えた。千葉の海沿いの団地に住んで長いが、元日の夜明けに海を見たことはなかった。空の端が群青色から薄色へと変わっていた。静は少しだけ自転車を止めた。海が見えた。波の音まではここからは聞こえないが、水平線の上の空の色だけは分かった。一分も見ていなかったと思う。また漕ぎ始めた。

一月の中旬の日曜日の朝、静が夜の仕事から帰ってきてまだ眠っていた。九時過ぎに玄関のチャイムが鳴った。一度鳴って止まった。静は布団の中で目を覚ましたが、起き上がらなかった。誰かの間違いかもしれないと思った。もう一度鳴った。今度はやや長く押してから止まった。起き上がり、上着を羽織って玄関へ出た。ドアを開けると、外に立っていたのは息子の秀雪だった。四十二歳になる。

静はしばらく言葉が出なかった。秀雪が突然来たのは三年ぶりだった。秀雪は以前より少し太って見えた。でも頬はこけていた。来ているダウンジャケットの中が潰れて、肩のあたりがぺちゃんこになっていた。髪は寝癖がついたままだった。靴は黒いスニーカーで、つま先のゴムが剥がれかけていた。

「突然すみません」と秀雪は言った。母親に対してそういう言い方をした。他人行儀ではなかったが、親しみがあるわけでもなかった。ただ一定の距離を保つための言い方だった。

「どうぞ」と静は言い、横にずれてドアを広げた。秀雪は靴を脱ぎ、上がってこたつの前に座った。目は合わせなかった。静はお茶を入れた。秀雪は両手でカップを持ち、しばらく黙っていた。

「東京から来たの」

「はい」と秀雪は短く答えた。

「仕事はどうしているの」

「配達です。前と同じです」

秀雪が配達の仕事をしていることは知っていた。アプリを使った個人の配達業者で、注文が入るたびに自転車かバイクで届けに行く仕事だった。雇用関係はなく、働いた分だけ収入になる。安定はしないが、面接もなく履歴書もいらない。それが秀雪に合っていた。

やがて秀雪がカップをテーブルに置き、静の方を見た。目が合ったのは久しぶりだった。

「車検があって」と秀雪は言った。「バイクの車検が来月で、今月中に予約を入れないといけないんですが、金が足りなくて」

静は返事をしなかった。「八万円あればなんとかなります。仕事に使うバイクなので、なければ仕事ができなくなる」

静の手が膝の上で少しだけ動いた。「今、手元にそんなに余裕は」と静は言いかけた。秀雪はすぐに口を開いた。「必ず返します。来月、配達で稼いでから。来月必ず返す」

静はその言葉を前にも聞いたことがある気がした。正確にはいつ聞いたか思い出せないが、そういう言葉を聞いたことが確かにあった。「仕事をなくしたら困るよね」と静は言った。「そうなんです」と秀雪は言った。

それは秀雪が自分の状況を恥じているということではなく、恥じることはすでに終わっていて、今はただ解決が必要な問題として向き合っているということだった。四十二歳の息子が、そういう場所まで来ていた。

静は台所へ立った。食器棚の前に立ち、棚を開けた。奥に缶が見えた。取り出す時、少しだけ間があった。間を開け、黄色い封筒を出した。中の紙幣を数えた。十五万円と少し。ここから八万円を渡せば、残りは七万円になる。来月の目標額から大きく外れる。二月の期限まで、二か月を切っていた。

静の手が止まった。しかし、台所から秀雪の方へ振り向いた時、秀雪はこたつの縁に手を置いたまま窓の外を見ていた。その横顔に何かがあった。怒りでも期待でもなく、ただ疲弊した人間の顔だった。この子はここに来るのが結構辛かったはずだ。こんなことを言いに母親のところへ来るのが辛くないわけがない。

静は封筒から紙幣を抜き出し、八万円を数えた。台所から出て、秀雪の前のテーブルに置いた。秀雪はその紙幣を見た。すぐに手を出さなかった。一瞬だけ何か言いたいことがあるような顔をした。でも何も言わなかった。「ありがとうございます」と、少し間を置いてから言った。静は「うん」と言った。

秀雪は紙幣を財布に入れ、また少しの間座っていた。お茶を飲み干した。「泊まっていく?」と静は聞いた。「いいや。帰ります」と秀雪は言った。靴を履いて玄関を出た。「また」と秀雪は言った。振り向かなかった。静はドアを閉めた。

台所へ戻り、缶の中の封筒を確認した。七万円と少しの紙幣が残っていた。椅子に座り、しばらくそのまま動かなかった。脇に置いた計算の紙を手に取り、数字を書き直した。今の残高七万円。来月のコンビニ給料約七万五千円。病院の給料から生活費を引いた残り約五万円。合計十九万五千円。二月末までの期限まで残り六週間ほど。三十二万円には十二万五千円足りない。

数字を見つめながら、静は小さく息を吐いた。諦めるという言葉が頭に浮かんだが、すぐに押しのけた。まだ六週間ある。コンビニのシフトを一日増やせないか。山本に聞いてみる価値はある。あるいは食費を今よりさらに絞れるか。米さえあれば生きていける。塩と醤油があれば何でも食べられる。

静は紙に数字を書き直した。コンビニの日数を週五 日から六日に増やした場合の試算。仮に六日入れれば、月に八万五千円ほどになる。生活費を削れば、後は時間の問題だった。できないことではない。そう思いながら、静は紙を畳んで引き出しにしまった。その夜、秀雪が来てから初めて静は食事を抜いた。食べる気にならなかった。お茶を一杯飲んで布団に入った。

眠れなかった時間がしばらく続いた。天井を見ながら、静はこの部屋のことを思った。四十年近く住んだ部屋だった。息子が小さかった頃、ここで三人で暮らしていた。博幸が酒を飲んで帰ってきて、台所で静と話しながらつまみを食べた夜もここだった。子供が熱を出して夜中に隣の病院まで走った朝も、ここから出発した。そういうものが全部この部屋にあった。でも春にはここを出なければならない。そしてそのために自分は夜中に国道沿いのコンビニに立っている。おかしい話だと思った。でもおかしいと感じる余裕は、今の自分にはなかった。ただ数字だけがあった。

一月の後半に入ると、千葉の海沿いの寒さは種類が変わった。十二月の寒さは乾いていた。でも一月の後半になると、海から来る風が骨の中まで入り込んでくるような冷たさになった。窓の内側に結露がつき、朝になるとそれが凍って窓枠が濡れていた。静は毎朝それを雑巾で拭いた。拭かなければカビが生える。カビが生えれば退去する時に修繕費を請求される。そういうことが分かっていた。

仕事は続いていた。昼は病院。夜はコンビニ。週七日、合計十四時間前後の労働が静の一日だった。眠りは四時間か五時間になっていた。眠れないわけではなかった。時間がなかった。コンビニから帰るのが五時半。病院へ出るのが一時半。間に七時間あったが、着替えて食事をして横になると、実際に眠れる時間は短かった。

体には問題がなかった。静は不思議に思っていた。六十九歳で毎日十四時間働いて、四時間しか眠れていない。それでも体は動いた。倒れなかった。手が震えることも、視界が揺れることもなかった。ただ肌が少し乾いた。手の甲に皸が入りそうになって、ハンドクリームを少しつけた。それだけだった。目の下のくまは濃くなっていた。

黄色い封筒の中のお金が少しずつ増えていた。秀雪に八万円を渡した後、静は一月中に十一万円を積むことができた。今の残高は十八万円になっていた。来月の給料が入れれば二十五万円前後になる見込みだった。残り七万円。二月の末まであと五週間。コンビニの給料が七万五千円。病院の給料から生活費を引けば四万円ほど残る。合計十一万五千円の見込み。七万円は十分に届く計算だった。数字の上では問題なかった。ただ数字の外に、予期せぬことが起きる可能性を静は意識するようになっていた。秀雪がまた来るかもしれない。そういう考えが頭のどこかに張り付いていた。

一月の二十五日、日曜日の朝だった。静はコンビニから帰ってきて、まだ眠っていた。朝の七時過ぎだった。玄関のチャイムが鳴った。またかと思った。体が反射的に緊張した。起き上がり、上着を羽織って玄関へ出た。ドアを開けると、廊下には誰もいなかった。押し間違いだったのかもしれない。静はドアを閉めながら、胸の中で何かがほぐれるのを感じた。次の瞬間、その反応が自分のものだということが分かって、少し恥ずかしいような情けないような気持ちになった。息子が来ることを恐れている。それが正確な言葉だと気づいた時、静は台所へ戻り椅子に座った。恐れているのはお金を求められることだった。恐れているのは断れないことだった。

二月の最初の週に入った月の頭、コンビニの山本から声をかけられた。

「クロスさん、ちょっとよろしいですか。来月のシフトなんですけど、二月の中旬に一週間、店のリニューアル工事で深夜帯が通常より一時間短くなります。四時上がりになるので、その分の給与が少し減るんですが」

「ああ、はい。分かりました」

一時間分、週五日として一か月でおよそ五千円ほどの減額になる計算だった。大きな額ではないが、七万円の残りに対して五千円は小さくなかった。その夜、静は台所で数字を書き直した。それでも届く範囲だった。ただ余裕がなくなった。何も余分なことが起きない場合に限って届くという計算になった。その条件が、静には重く感じられた。

二月に入って最初の日曜日、団地の共用部分の清掃当番があった。この団地では月に一度、住民が交代で建物の共用廊下や集会所の周りを清掃する決まりがあった。静の当番は今月の第一日曜日だった。夜のコンビニが終わって帰ってきたのが五時半。眠ったのは六時を少し過ぎた頃だった。清掃の集合時間は朝の九時。三時間も眠れなかった。目を覚ましたのは九時を二十分ほど過ぎていた。

慌てて起き上がり、外へ出ようとして、台所の椅子に少し腰をかけた。体が動くのを確認してから立ち上がった。廊下へ出ると、清掃はすでに終わっていた。住人たちが道具を片付けているところだった。奥田が箒を持ったままこちらを向いた。

「あら、クロスさん。お疲れですか? 来られなかったんですね」

「申し訳ございません。少し遅くなってしまって」と静は言い、頭を下げた。

「私たちも忙しい中、時間を作って参加しているんですよ。クロスさんは最近何かとお忙しいようですね。充実した生活をされているようで、羨ましいくらいです」

それが嫌味だということは分かった。分かった上で、静には返す言葉がなかった。本当のことを言えなかった。夜中に働いているとは言えなかった。言えば、なぜそんなことをしているのかを聞かれる。聞かれれば、答えなければならない。答えれば、夫の残した税金の話になる。

「本当に申し訳ありませんでした」と静は再び頭を下げた。その時、奥田の隣に立っていた別の女性が、奥田の耳元に何かを言った。奥田が少しだけ表情を変えた。

「クロスさん、一つ確認させてください。先月の自治会費の集金、まだ頂いていないんですが」

静は少し息が止まった。先月の自治会費は払ったはずだった。確か十二月の末に払った。

「先月末にお渡ししたと思いますが」と静は言った。

「私のところには届いていないんですよ。副会長のところに届いているかもしれないから、確認しますね。でももし届いていなかった場合は、改めてお願いします」

奥田はそれだけ言って、道具の片付けに戻った。他の住人たちは特に何も言わなかった。でも誰も静に声をかけなかった。静は廊下に一人残り、冬の朝の光の中に立っていた。自治会費は払った。確かに払った。でもその領収書はもらっていなかった。現金を封筒に入れて渡した。領収書を求めるべきだったかもしれない。でもそういうことを要求するのが苦手だった。要求することで角が立つと思っていた。そして今、角が立っているのは自分の方だった。

部屋に戻り、布団を片付けながら静は奥田の声を頭の中で繰り返した。「充実した生活をされているようで」。その言葉が静の中で変な形に残った。本当に何も考えずに言ったのか、判断できなかった。でも言葉は残った。

その夜、二月に入って最初の火曜日の夜の十一時少し前に、静は玄関でコートを着て鍵を持った。ドアを開けると、廊下に人の気配があった。暗がりの中に秀雪が立っていた。壁に背中を預けるようにして立っていた。コートも着ていなかった。静はドアを押さえたまま動かなかった。秀雪は俯いていたが、気配で気づいたのか顔を上げた。顔色が悪かった。先月よりも頬がこけていた。唇が少し乾いていた。

「入りなさい」と静は言った。秀雪は無言で靴を脱ぎ、上がった。台所のこたつに座ると、秀雪はしばらく黙っていた。静はお茶を入れながら時計を見た。十一時になろうとしていた。コンビニへ行かなければならない時間だった。

「今日は仕事があって」と静は言った。

「仕事って、夜に?」と秀雪は言った。

「ちょっと事情があって、今は夜も出ている」と静は言った。それ以上は言わなかった。

秀雪は返事をしなかった。カップに注いだお茶を両手で持ち、静の顔を少しだけ見てからまた視線を落とした。

「どうしたの」と静は聞いた。

秀雪は少し間を置いた。「アプリのアカウントが停止になった」

「どうして」

「クレームが二件入って。一件は届け先を間違えた。もう一件は遅刻。二件続くと停止になる規約で」

「停止というのは、また動かせるの」

「審査があって通れば復帰できる。でも審査に二週間から三週間かかる。その間、収入がない」

静は椅子に座り、両手を膝の上に置いた。

「家賃は来月分が払えない。今月分も先月の車検で使ってしまったから、ちょっと待ってもらっている。管理会社から、今月中に払わなければ退去になると言われた」

声が少しだけ平坦だった。感情を抑えているというより、感情がすでに摩耗してしまって、抑える必要もなくなったような声だった。

「いくら」と静は聞いた。

「二か月分で六万八千円」

静は頭の中で黄色い封筒の中を確認した。今の残高は十八万円から少し増えて、おそらく二十万円に届いていなかった。そこから六万八千円を出せば、十三万円を切る。来月の給料が入っても、三十二万円に届くかどうかの瀬戸際に立つことになる。

「仕事がなくなれば」と静は言った。

「住む場所がなくなれば、仕事も探せなくなるね」と秀雪は言った。それだけだった。

静は立ち上がろうとした。その時、秀雪が言った。「あの、棚の上の中身。この前も気になってたんだけど」

静の動きが止まった。秀雪の視線が、台所の食器棚の奥の方へ向いていた。缶は棚の奥で、前に並んだ食器に隠れている。普通は見えない。でも秀雪の目には、掛かっていたのかもしれない。前回来た時、静が棚を開けて何かを取り出した。その動作が記憶に残っていたのかもしれない。

「なんでもない」と静は言った。声が少し硬くなったことに、自分でも気づいた。秀雪は何も言わなかった。でも視線は一瞬、静の顔と棚の間を行き来した。

「今夜は泊まっていきなさい」と静は言った。「朝ご飯を作っておくから、食べてから帰りなさい。お金のことは明日考える」

秀雪は少し間を置いてから「はい」と言った。

静はコートを着て鍵を持った。「遅くなるから、先に眠っておきなさい。押入れに布団が入っているから」

「どこ行くの」と秀雪は聞いた。

「仕事」と静は答えた。それだけ言ってドアを開けた。

廊下に出ながら、静の中で何かが揺れていた。秀雪の視線が棚の方へ動いた時のことが、頭の中に残った。あれは偶然に棚の方を見ただけかもしれない。ただの視線の動きだったかもしれない。でももしそうでなかった場合。鍵を閉めながら、静は自分の考えを途中で切った。考えても答えが出ることではなかった。出かけなければならなかった。レジの前に立たなければならなかった。朝に帰ってきてから考えればよかった。

コンビニでの六時間はいつもと同じように過ぎた。静はレジに立ち、バーコードを読み取り、「ありがとうございました」と返した。棚の補充をしながら、頭の中で別のことを考えていた。秀雪がここまで困窮しているとは思っていなかった。いや、思っていなかったのではなく、確認していなかった。確認する機会を、自分から遠ざけていたのかもしれなかった。四十二歳になるが家賃を払えず、仕事のアカウントが止まり、夜中に千葉の母親の団地まで来ている。その事実の輪郭を、棚に商品を並べながら静はなぞった。どこから間違えたのか、という考えは意味がないと思った。どこで何がどうなったとしても、今ここに来ている。今ここにある問題をどうするかだけだった。

三時の休憩でバックヤードに入り、お茶を一口飲んだ時、静はある考えに行き着いた。六万八千円を渡すことはできる。渡した後の残高で、二月末に三十二万円に届くかどうか、正確には計算しなければ分からない。ただ、ギリギリの戦いになることは分かった。もし届かなければ、住む場所を失う。もし渡さなければ、息子が住む場所を失う。どちらの側がより困窮しているのか。静は自分にとっての「住む場所を失う」というのが何を意味するのかを考えた。団地を出た後、行くところがない。民間賃貸を借りる保証金もない。年は六十九だ。住所のない状態で仕事を続けることは難しい。仕事を失えば収入がなくなる。秀雪はまだ四十二歳だった。困難の中にいるが、体は動く。時間がある。別の方法を探すことができるはずだった。

朝の五時に店を出て、自転車に乗った。帰り道、空の色が変わり始めていた。自転車を漕ぎながら、静は決めた。朝ご飯を作る。食べさせる。それから話す。秀雪に渡すかどうかは、朝に話してから決める。今夜だけは結論を出さない。

団地の階段を登り、四階のドアを静かに開けた。中は暗かった。こたつの電気だけがついていた。押入れを開けると、布団が引き出されていた。秀雪が布団を出して畳の上に敷いて、眠っていた。毛布を一枚かけられた状態で、横向きに丸くなっていた。コートは脱いであった。靴下を履いたままだった。

静はしばらくその様子を見た。四十二歳になった息子が毛布にくるまって眠っている。その光景は何かを思い出させた。何十年も前に、発熱して畳に寝かせた夜のことが、輪郭のぼやけた記憶として浮かびかけた。静はそれを打ち消した。台所へ入り、米を研いで炊飯器にセットした。押入れの奥から乾燥わかめを出し、出汁を鍋で温め始めた。卵を一個割って、出し巻きにした。

秀雪が起きたのは、ご飯が炊き上がった頃だった。のろのろと布団から出てきて、顔を洗い、こたつの前に座った。静は黙って茶碗にご飯をよそい、味噌汁と卵焼きを並べた。「食べなさい」と言った。秀雪は箸を取り、食べ始めた。最初の一口を飲み込んだ時、少しだけ目を細めた。何かを言いかけて、何も言わなかった。

しばらくの間、食事の音だけがあった。茶碗が空になった頃、静は口を開いた。

「一つ聞いてもいい」

秀雪は箸を止めて顔を上げた。

「審査が通って、また仕事ができるようになれば、生活は戻るの」

秀雪は少し考えた。「すぐには戻らない。でも続けていけば、一か月に十五万くらいは稼げると思う」

「家賃の滞納を払って、生活を立て直すのにどのくらいかかる」

「半年か、もう少し」

静は手元の茶碗を見た。「分かった」

秀雪が何か言いたそうにした。でも静が話を続けたので、止まった。

「六万八千円は出せる。その代わり、返済は無理だと思っているから、返さなくていい。でもこれで最後にする。次は出せない。それだけ伝えておく」

秀雪は静の顔を見た。何かを探すような目だった。怒りなのか、責めているのか、あるいは別の何かなのかを確認しようとしているような目だった。静の顔には何もなかった。怒っていなかった。悲しんでもいなかった。ただ言うべきことを言っていた。

「はい」と秀雪は言った。

静は立ち上がり、食器棚の前に立った。棚を開けて奥の缶を取り出した。缶の蓋を開け、黄色い封筒を出した。秀雪はその場から動かなかった。見ていた。静は紙幣を数え、六万八千円を取り出した。残りを封筒に入れ直して缶の中に戻した。缶を棚の奥にしまった。振り返って、秀雪の前に六万八千円を置いた。

秀雪は今度はすぐに手を出さなかった。少し長い間があって、「ありがとう」と言った。お母さん、と付けた。久しぶりに聞いた言葉だった。静はそれに何も言わなかった。「帰り道気をつけて」とだけ言った。

秀雪は財布に紙幣をしまい、コートを着た。玄関で靴を履いて扉を開けた。少しだけ振り向いた。振り向いたが、何も言わなかった。そのまま廊下へ出て、角を曲がって見えなくなった。

静はドアを閉め、鍵をかけた。台所へ戻り、食器を洗った。食器を洗いながら、残りのお金を計算した。今の残高は、おそらく十三万円を少し超えた程度だった。来月の給料が入れば、二十一万から二十二万円になる。期限まで三週間を切っていた。三十二万円にあと十万円から十一万円。足りない。

静は洗った食器を拭きながら、その数字と向き合った。十万円は、一か月のコンビニの給料に相当した。三週間では、どう頑張っても届かない。お金が消えた。また消えた。静は布巾を丸めて流し台の端に置いた。窓の外では朝が来ていた。冬の朝の光が、曇った空から薄く差し込んでいた。

静は椅子に座り、両手をテーブルの上に置いたまま、しばらく動かなかった。怒りはなかった。悲しみもなかった。それらの感情はもう少し前に使い切ってしまったのかもしれなかった。今あるのは、数字が足りないという事実と、それでも二月末日が来るという確実さだけだった。一つだけ分かっていることは、もう誰かがこの家に入る前に、あの缶を別の場所に移さなければならないということだった。それだけは今日のうちにやっておかなければならなかった。

二月の半ばを過ぎた頃から、静の生活に微妙な変化が生じていた。仕事の流れは変わっていなかった。ただ眠りに落ちる前の時間が、少しずつ短くなっていた。以前は布団に横になってから、数字のことや期限のことを頭の中で繰り返した。それが眠りを妨げていた。でも今は、横になった瞬間に意識が落ちるようになっていた。考える余力がなくなったのか、それとも考えることを体が諦めたのか、自分でも分からなかった。眠れる時間は相変わらず四時間か五時間だった。でも眠りの深さが変わった。夢を見ることが増えた。

黄色い封筒は、食器棚の奥の缶から移動させていた。秀雪が帰った翌朝、静は封筒を缶から出して、押入れの中の古い毛布の間に隠した。押入れの奥に段毛布を二枚重ねた中に、封筒を折り畳んで挟んだ。外からは見えなかった。開けたとしても、毛布をめくらなければ分からない場所だった。隠す場所を変える時、静は自分が何をしているのかを意識しないようにしていた。意識すれば、それが何を意味するのかを考えなければならなかった。息子から自分の金を隠している。そういう言葉を頭の中で形にしたくなかった。形にしなければ、ただの行動だった。

二月の十五日、月曜日。山本に言われていた通り、この週からリニューアル工事に伴って深夜帯のシフトが一時間短縮された。上がりが午前四時になった。一時間早く仕事が終わることを、静は最初は少し楽に感じた。帰り道の自転車の上で、いつもより空が暗かった。団地に戻り、四階の自分の部屋へ向かった。階段を登りながら、静の足が止まった。廊下の月当たり、自分の部屋の前に人の形があった。夜の暗がりで、最初は分からなかった。壁に沿って何かが置いてあると思った。次の瞬間、それが人だとは分かった。秀雪だった。ドアの前に車座になって、背中を壁に預けていた。眠っているようだった。

コートは着ていたが、二月の夜明け前の廊下の寒さの中で、どのくらいの時間そこにいたのか分からなかった。静が近づくと、足音に気づいたのか、秀雪がゆっくりと顔を上げた。目が半分しか開いていなかった。酒の匂いがした。安い酒の、甘ったるい匂いだった。

「入りなさい」と静は言った。秀雪は何も言わなかった。立ち上がろうとして、一度壁に手をついた。立ち上がれた。靴を何とか脱いで、部屋に上がった。こたつの前に座ったが、体勢が安定していなかった。手をこたつの縁についたまま、俯いていた。

静はお茶ではなく水を出した。コップに水道水を入れて、秀雪の前に置いた。秀雪はコップを手に取り、一口飲んだ。半分ほど飲んでコップをテーブルに置いた。

「いつからここにいたの」と静は聞いた。

「一時か、二時か」と秀雪は言った。声が乾いていた。「チャイムを押したら迷惑かと思って」

「なんで連絡しないの」

「電話、切れてた」

電話が切れているというのは、料金が払えていなくて止められた、ということだった。

静は向かいの椅子に座り、秀雪の顔を見た。酒の匂いは強かったが、正体を失っているわけではなかった。ただ消耗しきっている人間の顔だった。疲弊した顔の上に、酒が薄い膜を張っているような、そういう顔だった。

「今日はそのまま眠りなさい」と静は言った。「話は朝にする」

「あの」と秀雪は言った。

「朝にする」と静は繰り返した。秀雪は口を閉じた。

押入れから布団を出して畳に敷いた。秀雪はコートも脱がずに横になった。一分も経たないうちに、呼吸が深くなった。静は台所に戻り、椅子に座った。時計は四時半を過ぎていた。病院の仕事まで九時間ほどある。眠れれば六時間は取れる。でも眠れなかった。秀雪がいる部屋で、静は椅子に座ったまましばらく動かなかった。酒の匂いが、薄く部屋に漂っていた。

先月は渡した六万八千円は、どこに消えたのか。家賃の滞納に使ったと言っていた。使ったのだとすれば、また二週間も経たないうちに別の問題が来ている。酒を飲むだけの金は、どこかにあった。それが何を意味するのかを静は考えた。考えたが、責めるという方向には行かなかった。四十二歳の男が、夜中に母親のアパートの廊下で壁にもたれて眠っている。責める必要はなかった。責めたところで、何も変わらなかった。ただ、この状況は続いていくのだという確信が、静の中で静かに形を作っていた。

朝になっても、静はほとんど眠れていなかった。浅い眠りを繰り返しただけで、気がつくと窓の外が明るくなっていた。米を炊き、味噌汁を作った。秀雪が起きてきたのは九時を少し過ぎた頃だった。顔を洗ってこたつの前に座った。昨夜より顔の色は少し良かったが、目が腫れぼったかった。静は食事を並べた。二人で食べた。

食べながら、秀雪がぽつりと言った。「アプリの審査、落ちた」

静は箸を止めた。「一度目のクレームが、かなり評価に響いたらしくて。再審査もできるけど、また二週間かかる」

「届けを間違えたというのは、どういう状況だったの」

秀雪は少し間を置いた。「その日、昼から走り続けていて。夜の七件目か八件目だった。建物の番号を見間違えた。気づいたのは、別の部屋に届けた後で」

「再審査は通りそうなの」

「分からない」と秀雪は言った。それ以上のことを言わなかった。

静は茶碗の残りを食べた。「電話代は払えるの」

「今月分は厳しい」

「仕事の連絡が取れなければ、審査が通っても仕事ができないでしょう」

「そう」

静はお茶を注いで、自分の分も注いだ。「今、手元にいくらある?」

「二千円くらい」と秀雪は言った。

二千円。静はその数字を静かに受け取った。静はしばらく黙った。こたつの電気の温かさが、足の先から上がってきた。

「電話代だけ、今日払いに行ける」と静は言った。「いくら必要なの」

秀雪は少し考えてから、「滞納分が一万八千円くらい。今月分が七千円くらいで、合わせて二万五千円ほど」と言った。

静は立ち上がった。押入れの前に立ち、扉を開けた。毛布を引き出した。中に挟んだ封筒を取り出した。紙幣を数えた。残っていたのは十三万二千円だった。そこから二万五千円を取り出すと、十万七千円になる。期限まで二週間を切っていた。十万七千円。来月の給料は、二月末日の後にならなければ入らない。コンビニの給料日は月末だった。病院の給料日は二十五日だった。二十五日に入る病院の給料から生活費を引けば、手元に来るのは三万円から四万円。合わせて十四万円前後。三十二万円まで、十八万円足りない。

静は封筒の前で止まった。この計算はもう何度もしていた。先月、秀雪に六万八千円を渡した後も、同じ計算をした。その時点では、あと十万円あれば届く計算だった。今は十八万円足りない。差が開いた。もう届かない、という結論が静の中で形になりかけた。それを静は押し込んだ。今は電話代だけ渡す。それだけ決めた。

二万五千円を取り出して封筒を閉じ、毛布の間に戻した。押入れを閉めた。台所に戻り、紙幣を秀雪の前に置いた。「電話代だけ。日中に払いに行きなさい。残りは置いて行きなさい」

秀雪は紙幣を見た。一瞬、何か言いたそうにした。また何も言わなかった。「ありがとうございます」と言い、財布に入れた。

「今日は帰れる」と静は聞いた。

「電車代は」と静は言い、財布から千円札を二枚出した。テーブルに置いた。秀雪はそれを受け取り、小さく頭を下げた。コートを着て靴を履いた。ドアを開けながら、振り向いた。何かを言いかけて、やめた。扉が閉まった。

静は台所に戻り、食器を洗った。食器を洗いながら、今の状況を整理しようとした。残高十万五千円。病院の給料が二十五日に入る。そこから生活費を引いて手元に残るのが三万円か四万円。合計十三万円から十四万円。三十二万円には十八万円足りない。届かない。

今度はその言葉を押し込まなかった。届かない。二月末日には三十二万円を用意できない。市営住宅の申し込みは通らない。この団地から出ること、自力では達成できない。

食器を洗い終えて布巾で拭き、棚に戻した。流し台の前に立ったまま、窓の外を見た。曇り空だった。二月の千葉の空は、色がなかった。白でも灰色でもなく、ただ光だけがある空だった。静は深く息を吐いた。一時間後に病院へ行かなければならなかった。モップを持ち、廊下を拭き、ゴミを集める。それをしなければならなかった。今日の仕事が終わって、夜にコンビニへ行く。レジの前に立ち、バーコードを読む。それも続けなければならなかった。届かないとしても、やめる理由にはならなかった。生活費は稼ぎ続けなければならない。食べなければならない。この部屋にいる間の家賃は払わなければならない。ただ、三十二万円という期限という目標が消えた。消えた後に何が残るのかを、静はまだ考えられなかった。

二月の二十二日、月曜日。期限まで六日になった朝、静は市役所へ向かうことにした。もう一度窓口へ行く。何か方法があるかもしれない。分割払いにできないか、あるいは期限を少しだけ伸ばしてもらえないか。可能性は低いと思っていた。でも行かないよりは、行った方が良かった。

市役所の四番窓口には、前回と同じ杉山がいた。静が近づいてくる姿を見て、記憶にあったのか、少しだけ表情が変わった。

「先日はお越しいただきまして」と杉山は言い、話を続けなかった。

静は座り、持ってきた封筒を出した。中には十万三千円が入っていた。病院の給料日が二十五日で、それまでの生活費を引いて残る全額だった。

「これだけしか用意できませんでした」と静は言った。「三十二万円には届きませんでした。分割で払うことはできますでしょうか? あるいは期限を少しだけ伸ばしていただくことは」

杉山はその封筒を見た。受け取ることはしなかった。「少々お待ちください」と言い、隣の席にいる年上の男性職員と小声で何かを話した。年上の職員は画面を操作しながら、首を小さく振った。杉山が静の方に戻ってきた。

「大変申し訳ございませんが」と杉山は言った。声が低かった。「今回の抽選への参加は完納が条件となっております。分割でのご対応は規定上できかねます。期限の延長につきましても、システム上一律に設定されておりまして、個別のご対応は難しい状況です」

静は杉山の顔を見た。杉山は静から少し視線をそらした。杉山が自分ではなく規定に従って動いているということは分かった。規定が杉山の盾になっていた。その盾を攻めることはできなかった。

「システムでということは、例外はないということですか」と静は言った。

「はい。大変恐縮ですが。今回の抽選についてはご参加いただくことが難しい状況です。ただ次の抽選は来年度以降にも予定されておりまして、その際に改めてご応募いただくことは可能です」

来年度以降。静はその言葉を聞いた。「今の団地が取り壊された後は、どこへ行けばいいのでしょうか」

「民間の賃貸住宅への、あるいは福祉の方面でご相談いただくことも、選択肢の一つになります。福祉の窓口は三階にございます」

静は封筒を鞄の中に戻した。「ありがとうございました」と言い、立ち上がった。礼を言う場面ではなかった。でも言った。いつものように窓口から離れてフロアを歩きながら、静は自分の足音を聞いていた。出口に向かう途中で、足が止まった。案内板に「福祉の窓口」とあった。立ち止まったまま、静は少しの間そこにいた。今すぐ行く必要はなかった。でも行かなければならない日が来るということは、もう分かっていた。その日は二月末日より後になる。静は出口を通り、外に出た。

その夜、コンビニの仕事に向かう前に、静は押入れの封筒を確認した。十万三千円。それと病院の給料日である二十五日に入る給料が九万円弱。合わせて十九万円前後。三十二万円には届かない。もう届かないことは、今日の市役所で確定した。確定というのは、可能性が閉じたということだった。

二月二十五日の朝、病院の給料が振り込まれた。確認すると八万七千円だった。押入れの封筒の十万三千円と合わせて、十九万円になった。三十二万円まで、十三万円足りなかった。静は通帳を持って市役所へ向かった。

四番窓口はこの日も杉山だった。静が近づいてくると、杉山は今度は少し早めに視線を向けた。

「今日で期限ですね」と杉山は言った。

「はい」と静は言った。「十九万円しか用意できませんでした」

杉山は画面を操作した。長い沈黙があった。「先ほど確認いたしましたが、やはり今回の抽選につきましては完納を持って参加資格が発生する形になっております。大変申し訳ございません」

「分かりました」と静は言った。「ただ、本日付けで未納額のうち九万円を納めていただければ、残りの未納額は十三万円になります。それを納めることは可能ですが、次の抽選を今の段階で申し込むことはできますか?」

「次の抽選の詳細については、まだ正式な告知がございません。ただ早くて来年度後半になるかと思われます」

来年度後半。半年以上先の話だった。静は少しの間、静の顔を見た。

「三階の福祉の窓口に行ったことは、まだありません。行った方がいいですか」

杉山は少しの間、静の顔を見た。この日初めて、杉山が静の顔をまともに見たという感じがした。

「状況によっては、ご相談になることをお勧めします。お住まいのことや生活のことを含めて、担当者が対応をいたします」

「今日行けますか」

「本日は三時まで受け付けております」

静は今すぐ十九万円の振り込みをせずに立っていた。「ありがとうございました」と言った。封筒もなく、通帳だけを持って、エレベーターで三階へ上がった。

福祉の窓口は一階より静かだった。待合いの椅子に数人が座っていた。老人が多かった。全員がそれぞれ、静かに何かを待っていた。静も番号札を取り、椅子に座った。呼ばれるまで十分ほどかかった。対応したのは四十代くらいの女性職員だった。神山と名乗った。柔らかい話し方をする人だった。

静は懸命に状況を話した。団地の取り壊し、夫の残した税金の未納、資格を満たせなかったこと、今後の住まいがないこと。神山はメモを取りながら、静の話を最後まで聞いた。

「現在の収入の状況を教えていただけますか。就労はされていますか?」

「はい。病院で清掃の仕事をしています。月に九万円ほどです。あと夫の遺族年金が月に六万二千円あります」

「合わせて十五万円ほどになるんですね。他に収入はありますか?」

静は一瞬止まった。コンビニの仕事のことを言うべきかどうか、その瞬間に迷った。言えば収入が増える。収入が増えれば、助けが必要ではないと判断されるかもしれない。

「夜間にコンビニで働いています。月に七万円から八万円ほどです」と静は言った。嘘をつくことに、静は耐えられなかった。

神山は数字を書き留めた。「合わせると、月に二十二万から二十三万円ほどになりますね」と言いながら、何かを計算する様子だった。「この収入ですと、生活保護の受給基準とは少し状況が異なります。ただ住まいの確保が喫緊の課題になっていますので、別の方向でご支援できることがあります。都道府県の住宅支援や、民間の支援団体をご案内することも可能ですし、今の収入状況を維持されるのであれば、一般の民間賃貸への移転に向けた支援制度もあります」

静は神山の話を聞きながら、一つ一つの言葉を取りこぼさないようにしていた。「今すぐ何かが解決するわけではないですが、次のステップとして、今月末に退去の期限が来た場合、まず相談していただける場所がいくつかあります。書いて差し上げますね」神山は紙にいくつかの窓口の名前と電話番号を書いた。静はその紙を受け取り、鞄に入れた。

「今日のご相談内容は、記録として残しておきます。また状況が変わった場合には、いつでも来てください」

「ありがとうございます」と静は言い、立ち上がった。エレベーターで一階に降り、市役所の外に出た。空は相変わらず白かった。風が少し強かった。バス停のベンチに座りながら、静は神山からもらった紙を開いた。いくつかの名前と電話番号が書かれていた。支援団体の名前。市の相談窓口の名前。静にとって、どれも聞いたことのない名前だった。紙を折り畳み、鞄の中に入れた。

帰り道、静は十九万円を振り込まなかった。何も決めなかった。決められるものが、この日は何もなかった。ただ期限が過ぎた。三十二万円には届かなかった。市営住宅の抽選資格は消えた。団地を去る期限の通知は、おそらくこれから届く。静は窓の外を見続けた。バスは団地へ向かっていた。帰る場所はまだそこにあった。後、どのくらいの間そこにあるのかは、まだ分からなかった。

三月に入った最初の週、市役所から封筒が届いた。ポストを開けたのは夕方だった。茶色い封筒が一通。差出人は市役所の住宅管理課だった。静はその封筒を持ったまま、四階まで階段を登った。部屋のドアを開け、上着を脱ぎながら封を切った。中には二枚の紙が入っていた。一枚目は建物の解体スケジュールの正式な通知だった。静の棟は四月末日までに退去を完了する必要があった。二枚目は退去に際して必要な手続きの案内だった。静はその二枚を台所のテーブルの上に置き、椅子に座った。四月末日。あと二か月もなかった。以前なら、この封筒を読んで数字の計算を始めていた。何日以内にどこへ行けばいいか。仕送りはいくら必要か。でも今夜は計算をしなかった。計算するべき数字がもうなかった。行き先がまだ決まっていなかった。

翌日の昼休み、静は病院の休憩室で田辺に声をかけた。田辺は弁当の蓋を開けるところだった。

「少しだけ聞いてもいいですか?」と静は言った。

「どうぞ」と田辺は答えた。

「田辺さんは、福祉の申請をしたことがありますか? 生活保護とか、そういうもの」

田辺は箸を持った手を止め、静の顔をじっと見た。「私はないですよ。でも知り合いに一人いますよ。申請した人」

「聞いてもいいですか。しずさん、何かあったんですか?」

静はしばらく黙った。「団地が取り壊しになって、次のところを探さないといけないんです。色々あって、うまくいかなかった」とだけ言った。

田辺は弁当を脇に置いて、少し前のめりになった。「これ、いつから分かってたんですか?」

「去年の秋に通知が来て」

田辺の目が少し広くなった。「それで、ずっと一人で抱えてたんですか?」

静は返事をしなかった。田辺は少しの間、静を見ていた。「その知り合いのこと、聞いてみましょうか。申請のこと、どこに相談したとか、どういう手順だったとか」

「お願いできますか」と静は言った。

「はい」と田辺は言った。それ以上のことを聞かなかった。

三月の中旬、静は再び市役所の三階へ向かった。今度は神山が待っていた。前回の相談が記録されていたので、静の番号が呼ばれた時、神山が担当として出てきた。

「生活保護の申請について、聞かせてください」

神山はメモ帳を開いた。「現在の就労状況に変化はありましたか?」

「夜間の仕事を、三月から週三日に減らしました」と静は言った。二月の末に、山本にそう伝えていた。体のためではなかった。体は問題なかった。ただ今後の見通しが立たない状況で、夜の仕事に全力を注いでも、積み立てる先がなくなった。そのまま続けることに、意味が見えなくなっていた。「週三日で、月に四万円ほどになります。病院と合わせると、月に十九万円くらいです」

神山は数字を書き留めた。「生活保護の基準ですが、静さんの年齢と世帯状況から計算すると、月二十二万円前後が基準額になります。現在の収入が基準を上回っていますので、生活保護の対象には、今の状況では入りにくい」

「働くのをやめれば、対象になりますか」と静は聞いた。

神山は少し考えてから答えた。「収入が基準を下回れば対象になります。ただ就労能力がある場合は、就労の努力を求められます。静さんは現在就労されていますので、就労を前提とした支援という形になります」

「では、今のまま申請しても通らないということですか」

「住宅の問題が先決です。今の収入では生活保護は難しいですが、住まいの確保についての支援制度があります。住居確保給付金というものがあって、家賃の一部を一定期間、助成してもらえる制度です。ただし民間の賃貸を借りることが前提になります」

「保証金や礼金は、支援されますか?」

「初期費用については、自己負担になります」

初期費用。静の手元にある金は、病院の給料から今月の生活費を引いた残りの数万円だった。民間賃貸の初期費用を出せる金額ではなかった。

「他に方法はありますか」と静は聞いた。神山はしばらく考えた。書類を一枚めくった。「無料低額宿泊所というものがあります。生活困窮者向けの施設で、費用が少ない形で一時的に入居できます。ただ施設によって環境が異なりまして、快適とは言えない場合もあります」

「どのような場所ですか」

「相部屋が多いです。個室もありますが、少ない。食事が提供される施設もあれば、自炊の施設もあります」

静は、神山が言う「快適とは言えない」という言葉の意味を、自分なりに解釈した。

「もう一つ、選択肢があります」と神山は言った。「生活保護を受けるにあたって、扶養義務者への照会というものがあります。お子さんがいらっしゃる場合、そちらへ扶養の可否を確認する照会文書を送ることになります。お子さんはいらっしゃいますか?」

静の手が膝の上でわずかに動いた。「一人います。息子が」

「息子さんの状況を教えていただけますか?」

「東京にいます。個人で配達の仕事をしています。ただ今は仕事が不安定で、生活自体が厳しいようです」

神山はメモを取りながら聞いていた。「扶養照会は、息子さんに書面が届き、扶養できるかどうかを回答していただく形になります。扶養できないと回答された場合、それが申請の判断材料の一つになります」

「息子に、手紙が届くということですか?」

「はい。市から正式な照会文書が送られます」

静は少しの間、何も言わなかった。「息子が拒否した場合は、どうなりますか」と静は聞いた。

「拒否の回答が来た場合、それを持って申請を進めることができます」

静は窓の外を見た。三階の窓から見える空は、白く薄かった。秀雪に手紙が届く。市役所から正式な封筒で、「あなたの母親を扶養できますか」という内容の手紙が届く。その手紙を秀雪が受け取った時、何を思うのか。答えは分からなかった。怒るかもしれない。あるいは、何も感じないかもしれない。どれであっても、封筒が届くという事実は変わらなかった。

「申請書類をいただけますか」と静は言った。神山は少し間を置いてから、書類の束を取り出した。「記入の仕方についても、ご説明します」と言い、説明を始めた。静は神山の説明を聞きながら、書類を受け取った。書類の束を鞄に入れながら、静は今日の日付を確認した。三月の十六日だった。退去の期限は四月末日だった。書類を提出した後、審査に二週間から一か月かかると神山は言っていた。急がなければならなかった。

その夜、静は台所のテーブルに書類を広げた。記入する欄が多かった。氏名、生年月日、収入の内訳、資産の状況、家族の情報。家族の欄に、クロス秀と書いた。続柄は息子。住所は、最後に来た時に聞いていた東京の住所を書いた。ペンを持ったまま、静はしばらく止まった。この住所に、市役所から封筒が届く。秀雪はこういう形で、母親のことを知ることになる。来るたびに金を渡していたことも、夜中に別の仕事をしていたことも、何ひとつ伝えていなかった。何を伝えるべきだったのか、今となっては分からなかった。静はペンを動かし、秀雪の名前の横の欄を埋めた。書類を全部記入し終えるまで、二時間かかった。電気を消して布団に入った。眠れなかった。天井を見ながら、秀雪のことを考えた。秀雪は今、どこにいるのだろうか。あの日、電話代を渡して返した後、連絡はなかった。怒っているのかもしれない。あるいは、また別の問題に追われているのかもしれない。どちらであっても、市役所からの封筒は届く。静はそのことを、怖いと思っていた。怖いという言葉が正確かどうかは分からなかった。でも他に言葉がなかった。

翌朝、書類をもう一度確認して、静は市役所へ向かった。神山の窓口で書類を提出した。神山は一枚ずつ確認して、「二週間ほどで審査の結果をご連絡します。それまでの間に、住まいの方向性も考えておいていただけますか?」と言った。「はい」と静は言った。

四月に入った。退去の期限まで一か月を切った。管理組合の担当者が各戸を回り、退去の確認をした。担当は四十代の男性で、確認事項を読み上げ、静が返事をし、書類にサインをして終わった。十分もかからなかった。

静は部屋に残るものを、少しずつ整理し始めた。四十年近く暮らした部屋に、物が多かった。使わなくなった食器、古いアルバム、着なくなった衣類。博幸のものも、まだいくつか残っていた。工具の入った袋、古い手帳、革のベルトが一本。それらをどうするか、静は一つ一つ判断しなければならなかった。捨てるものと持っていくものを分ける作業を始めた。次の住まいが何になるかは、まだ分からなかった。生活保護の審査が通れば、支援付きで民間賃貸に入れる可能性があった。通らなければ、別の方法を考えなければならなかった。でも荷物を整理することは、どちらになっても必要だった。だから整理した。

博幸の工具の入った袋を、静はしばらく持ったまま台所に立っていた。中を開けると、ドライバーが何本かと、錆びたペンチと、ビニールテープの残りが入っていた。これが必要な場面が、これから来るとは思えなかった。でも捨てる気にもなれなかった。袋を開けたまま、静はしばらく動かなかった。結局、押入れの奥に戻した。持っていくものの山に入れた。

四月の中旬、市役所から封筒が届いた。生活保護の審査の結果だった。封を開けると、審査の経過と結果が書かれた書類が入っていた。結果は、条件付きの認定だった。夜間の就労を継続しながら、就労収入を申告することを条件として、住宅扶助の支援を受けることができるという内容だった。支援額は月に四万二千円。この地域の住宅扶助の基準額だった。静はその書類を読み終えて、テーブルの上に置いた。四万二千円。それがあれば、月の家賃を払える範囲の部屋が見つかるかもしれない。

もう一枚、封筒の中に書類が入っていた。扶養照会の結果だった。「クロス秀氏より回答がありました」と書かれていた。内容は、「扶養困難」との回答でしたとあった。それ以上のことは書かれていなかった。静はその紙をしばらく見ていた。秀雪が封筒を受け取って回答した。扶養できない。その事実だけが紙の上にあった。どんな字で書いたのか、どんな気持ちで返信したのか、怒って書いたのか、淡々と書いたのか、静には分からなかった。紙を折り、他の書類と一緒にしまった。

数日後、市から相談員の女性が電話をしてきた。宮本と名乗った。物件をいくつか案内できると言い、一緒に見に行く日程を決めた。四月の十八日、宮本と待ち合わせて二件の物件を見た。一件目は駅から徒歩十五分の二階建てアパートだった。一階の角部屋で、六畳一間と台所があった。窓が小さく、昼間でも少し暗かった。でも水回りは新しく変えられていた。二件目はバス路線沿いにある古い建物の二階だった。六畳と四畳半の二間あったが、廊下が狭く階段が急だった。静は両方を見て、一件目の方がいいと思った。宮本に伝えた。

「では、大家さんへの確認を進めましょう。高齢の単身の方への賃貸を難しいと感じる大家さんもいらっしゃいますので、私の方からサポートします」

静は頷いた。「大家さんが難しいと感じる」という意味が分かった。六十九歳の一人暮らしの高齢者。収入は就労と年金と生活保護の組み合わせ。そういう入居者を拒む人間がいることを、静は初めて言葉として聞いた。知っていたが、言葉として聞くと少し違った感じがした。宮本は数日後に連絡すると言って、その日は別れた。

四月の末日まで十日を切った頃、宮本から連絡が来た。一件目の物件の大家が承諾した。入居の手続きを進めることができるという連絡だった。入居日は四月の二十八日と決まった。

退去の日が来た。四月の二十六日、日曜日だった。前日から荷物の運び出しを始め、静が手配した引っ越しの業者が来て、トラックに荷物を積んだ。持っていく荷物は少なかった。衣類と布団、台所の道具と食器の一部、それと博幸の工具の袋。大型の家具は部屋に残していくことにした。業者が処分することになっていた。長年使っていたこたつも、業者に引き渡した。

最後に部屋を一度だけ回った。台所の床のビニールクロス、窓枠の木の色、押入れの中の微かな湿った匂い、廊下に面した窓のすりガラス。それらを目に入れながら、静は何かを感じようとした。感じようとしたが、何も来なかった。ただ、長い時間がここにあったという事実があった。最後に玄関のドアの鍵を閉めた。管理組合の担当者に鍵を渡した。

廊下に出ると、隣の部屋のドアが少し開いていた。中から白髪の女性がこちらを見ていた。同じ棟に長く住んでいた御田という女性だった。名前は知っていたが、それほど深い付き合いはなかった。御田は何も言わなかった。静も何も言わなかった。静が少し頭を下げると、御田も頭を下げた。それだけだった。

階段を降りる途中で、一階のドアが開いて奥田が出てきた。奥田は静の姿を見ると、手に小さな封筒を持っていた。

「クロスさん、これ」

奥田は封筒を差し出した。「餞別というほどのものでもないですが」

静は受け取った。「ありがとうございます」と言った。奥田は少し間を置いてから、「大変でしたね」と言った。声が集会所での声と少し違った。柔らかかった。静は何も言わなかった。頭を下げた。奥田が中に戻り、ドアが閉まった。

静は封筒を鞄にしまい、外に出た。引っ越しの業者のトラックが駐車場に止まっていた。宮本の車も止まっていた。中庭を横切る時、錆びた遊具が見えた。誰も使わないまま、そこに立っていた。静は足を止めなかった。

新しいアパートまで、車で二十分ほどかかった。宮本の車の後部座席に乗りながら、静は窓の外を見ていた。団地のある方向から離れていく道を、景色が流れた。団地が見えなくなった。

新しいアパートは駅から少し遠かった。住宅街の中に埋まっていて、周囲には似たような建物が並んでいた。団地ほど古くはなかったが、新しくもなかった。部屋に荷物を運び込んだ。六畳一間と台所と小さな洗面所。業者が帰り、宮本も手続きの書類を確認してから帰った。「何かあれば、連絡してください」と言い、名刺を渡した。

部屋に一人になった。荷物はダンボール箱のまま床に積み上げられていた。静はダンボールの間を通り、窓際に立った。窓の外には、住宅街の屋根が続いていた。海は見えなかった。遠くに山の稜線が薄く見えた。団地から見えていた海の方向とは、全く違う景色だった。空が少し広かった。静は窓の外をしばらく見ていた。

何かが変わった。何かが変わっていないかもしれなかった。この部屋でこれからどう暮らすのかは、まだ分からなかった。病院の仕事は続けられる。コンビニの仕事は、週三日を続けるかもしれない。生活保護の支援を受けながら、少しずつ生活を立て直す。そういうことになるのだと思っていた。でも立て直すという言葉が正確かどうかは、自分でも分からなかった。崩れたものを元の形に直すという意味で使う言葉だった。でも元の形というものがどこにあるのか、静には分からなかった。

秀雪のことを考えた。扶養照会の紙に、「扶養困難」と回答したという事実だけが書かれていた。その後、連絡はなかった。こちらからもしていなかった。いつかまた来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいいと思っていた。どちらであっても、今の自分の生活は変わらない。変えられない。

静は一つダンボールを開けて、湯飲みを取り出した。台所の棚に置いた。やかんを出して、水道で水を入れ、ガスをつけた。お湯が湧くまで、椅子に座って待った。椅子は、あの台所にあったものと同じ椅子だった。座り心地も同じだった。違うのは、周りの景色だけだった。

お湯が湧いた。湯飲みにお茶を注いだ。飲みながら、この部屋の天井を見た。あの部屋の天井より、少し低かった。静は湯飲みを両手で持ち、お茶を飲んだ。ここから始まる、と言いたかった。でもそういう気持ちにはなれなかった。ここから続く、という方が正確だった。続いていく。昨日も今日も明日も、同じように続いていく。

窓の外から住宅街の音がした。どこかで子供の声がした。車が一台通り過ぎた。静はお茶を飲み続けた。

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