「古臭い工場だなあ」
そう言ってうちの工場に踏み込んできたのは、取引先の部長、蒲田だった。何も分かっていないこいつは、いつも嫌みばかりを並べる。
「建物は古いですが、設備は最新ですよ」
俺は何度も繰り返してきた言葉をまた返す。だが蒲田は鼻で笑うだけだ。
俺の名前は北原。三十五歳で、小さな工場を営んでいる。この工場は親父から受け継いだものだ。もともとは自動車部品の表面加工を請け負う町工場だったが、俺の代でコーティング技術を発展させ、新しい分野に挑戦している。今、一番力を入れているのは医療機器業界だ。俺が開発し、特許を得た特殊コーティング技術が、医療機器の開発に役立っている。
業界トップクラスの企業の役員である相川さんは、五十代で、「俺はこの業界で一番画期的な医療機器を作るぞ」と意気込んでいる。まだプロジェクトが本格的に動き出していないのは、もう少し改良が必要だと俺が判断したからだ。その改良も進み、そろそろ大きなプロジェクトが走り出すところだった。
それとは別に、すでにうちの特許技術を使っているのは、業界の中堅メーカー。その部長が蒲田という、同じく五十代の男だ。うちの技術を尊重してくれる相川さんとは違い、とにかくうちを下請けだと見下してくる。最初は蒲田が担当ではなかったので気持ちよく取引ができていたが、三か月ほど前から蒲田が部長に昇進したと言って、うちの担当になった。
蒲田は役員の息子だそうで、腰巾着の社員をよく連れてくる。地位があるのは父親なのに、自分の権力だと勘違いしている典型的なパターンだ。
そんな蒲田は、うちの工場に来るたびに「古臭い工場だな」と言う。確かに建物は古いが、中は最新設備を整えている。そうでなければ特許開発なんて到底できない。それに、この建物を馬鹿にされることは、ここで腕を磨いてきた親父や職人たちを馬鹿にされるのと同じだ。蒲田には何度も設備の話をしているが、「さすがに古臭すぎるだろう」と外観だけで笑い飛ばされる。
言っても仕方がないので、最近では蒲田の嫌みもほとんど無視できるようになっていた。
今日もいつものように嫌みを言う蒲田の言葉を適当に流し、「今日はどういったご要件で? アポもないということは、緊急ですか?」と、こちらも嫌みを交えて返す。だが蒲田はその嫌みに気づかず、「抜き打ち検査ってとこだな。こんなボロ工場、いつ何が起きてもおかしくないからな」と笑った。
「はあ……そうですか」
俺は力なく答えた。さっさと追い払って仕事に戻ろうと思った時、蒲田が俺に何かを放ってよこした。
「これ、来週の懇親会の案内。君には無縁の高級料理が出るから、楽しみにしてろよ」
そう言ってニヤニヤする。以前そんな話を聞いたことがあったが、一向に案内が来ないので、なくなったか、俺は呼ばれないものだと思っていた。よく見ると、予定のある日付だ。ただ、少し開始時間がずれているから、両方顔を出せそうだ。
「わかりました。出席させていただきます」
そう言うと、蒲田は「そういえば特許使用料の件、考えてくれたか」と言ってきた。以前から特許使用料を下げろと言っているのだ。
「ですから、それは無理だと」
俺が断ると、蒲田はそれを遮り、「ああ、まあいいや。とりあえず懇親会で待ってるよ」と言って去っていった。めんどくさい人だ。俺はため息をついて作業に戻った。
翌週、懇親会の日がやってくる。俺は着慣れないスーツに身を包み、指定されたホテルの会場に向かった。蒲田の会社が主催する企業懇親会で、俺みたいにスーツに着られているような人間はほとんどいない。知り合いもいないので壁際で大人しくウーロン茶を飲んでいると、聞き覚えのある下品な笑い声が近づいてきた。
「おや、本当に来たのか? 北原君。似合わない高級スーツを着て、借りてきた猫のようじゃないか」
社員を二人引き連れた蒲田が、ニヤニヤとした笑みを浮かべて俺を見下してくる。すでにかなり酒が入っているのか、顔が赤い。失礼なのはいつものことだが、輪をかけて失礼な態度だ。
俺はひたすら社交辞令で切り抜ける。
「お招きいただきありがとうございます。蒲田部長」
「いやいや、礼には及ばないよ。君のような零細の社長には一生縁のない一流ホテルの料理だからね。今のうちにしっかり味わっておくといい。ほら、キャビアもあるぞ」
キャビアなんて食べたこともないだろうと馬鹿にしてくる蒲田の態度に、俺は内心でため息をつきながら適当に愛想を打った。すると蒲田はニヤニヤした表情のまま声を一段と大きくする。周囲の人たちも何事かと視線をこちらに集める。
こちらに注目が集まったところで、蒲田がさらに大きな声で話し出した。
「ところで北原君。先週話した特許使用料の値下げの件だが、今日ここでいい返事を聞かせてもらえるんだろうな」
この場で交渉ごとか。高級料理を提供しているんだから値下げくらいしろとでも言いたいのだろう。だがそれとこれとは話が別だ。
「何度も申し上げている通り、これ以上の値下げは不可能です。我が社の特許技術は、徹底した品質管理と最新設備を維持するために適正な価格を設定しています。特に人の命に関わる医療機器ですから、安易なコストカットは」
「なあ、もういい。相変わらず硬い男だな」
蒲田は話を遮り、ため息をついた。その直後、蒲田はニヤリと笑い、周囲を見回した。
「皆さん、聞いてください。この北原社長は、大企業の我が社を相手に、たかがプラスチックの管の内側に塗るだけの液体の特許で高額を請求しているんですよ。身の程知らないとはこのことですね」
高額だなんて設定した覚えはない。こんなことを言われる筋合いはないのだが、ここに集まっている他の企業も同じレベルなのか。会場にクスクスと品性のない笑いが広がる。取り巻きの一人が「立場を分かっていない下請けは困りますね」と調子を合わせた。
俺はせめて名誉を守ろうと説明を始める。
「蒲田部長、それは誤解です。このコーティング技術があるからこそ、御社のカテーテルは血栓を作らずに」
だがもちろん蒲田は聞く耳を持たない。
「うるさいよ、君は」
そう言って、周囲の人たちと笑い、俺を馬鹿にした。
「これ以上、君のところのような古臭いボロ工場に高い金を払う義理はなくてね。ああ、ほら、そちらにいらっしゃる社長のところで、同じようなコーティング剤をなんと十分の一の価格で提供してくれることになった」
そう言い、近くにいた六十代くらいの、社長と呼ばれる人と笑う。その時、もう一人の取り巻きが慌てた様子で蒲田に耳打ちをした。
「部長、契約の件、さすがに本社の法務部に確認を」
「うるさい。私が決めることだ」
蒲田は部下の言葉を一喝して黙らせた。なるほど、これは会社の判断ですらなく、この男の独断か。
俺は冷静に口を開いた。
「それは契約解除ということですか?」
蒲田は大きく頷き、「察しがいいじゃないか。底辺企業との契約は今日で終了だ。この場で特許使用料を下げればまだ生き残れたもの。君が生き残る道はもうないんだよ。帰れ」と言いながら高笑いをする。
「あちらの社長は融通が効く人でね。使用変更の申請なんて、現場が適当に書類を出し上げれば済む話だってさ。ビジネスはコストが全てなんだよ」
医療機器の使用変更には申請や安全性の検証が必要になる。この男は適当に書類を作れば済むと思っているのか? いや、まさか。さすがにそれはないだろう。俺は一瞬でいろいろなことを考えた。だがよく考えたら、そんな心配を俺がする義理はない。
「わかりました。二度と契約できませんよ。いいんですね」
俺は蒲田に向かって言い放った。蒲田は馬鹿にしたように、「はっ、負け惜しみか。二度と契約なんてしないよ。今この瞬間をもって契約は終了。ほら、間違いない。君はとっとと帰りたまえ」と笑った。
周囲も蒲田の味方で、「帰れ」コールが響き始める。俺は無言でこの会場に背を向けた。俺がドアを出ると、会場では馬鹿にしたような笑いが広がった。だが不思議と腹は立たなかった。技術は嘘をつかない。それが分からない人間とこれ以上話すことは何もない。
俺は気持ちを切り替え、鞄の中から一通の封筒を出し、時計を見る。まだ始まったばかりだ。俺はそう言い、一つ上の会場に移動した。先ほどの会場よりも大きな、おそらくこのホテルで一番広い会場に着くと、受付の人がいた。
俺が封筒を差し出すと、受付の女性はにっこりと微笑んだ。そして両手で封筒を受け取り、深々と頭を下げた。
「北原社長、お待ちしていました。中に相川様がいらっしゃいますので」
そう言って中へ通された。招待を放り投げてよこした男とは何もかもが違う。使われ方というのは、こうも変わるものか。そう、ここは相川さんを含む業界トップ三が集まる懇親会。なんと蒲田の懇親会と同じ日付、同じホテルで行われていたのだ。なので蒲田の懇親会はどの道途中で抜ける予定だった。
中に入ると、先ほどの品性のない騒がしさとは打って変わって、落ち着いた格式高い空間が広がっていた。俺の姿を見つけるなり、相川さんがすぐに歩み寄ってきて、俺の手をがっしりと握った。
「ああ、北原君、待っていたよ。君の改良版サンプルのデータをトップ三の役員たちに見せたら、全員がトップ三共同での独占契約を結びたいと大盛り上がりだ。さあ、こっちへ来てくれ」
相川さんに連れられて奥へ進むと、役員たちが俺を囲んだ。その中の一人が感動した様子で口を開く。
「北原社長、あのデータには驚きました。あなたのコーティングは管の内側に分子レベルで均一な膜を作り、血栓そのものを防いでしまう。血栓ができる危険を限りなく減らせますね」
カテーテルや人工透析機のように血液に直接触れる機器は、内壁のわずかな凹凸に血液の成分が付着して血栓ができる。血栓が血流に乗れば、脳梗塞や心筋梗塞にもつながりかねない。だが俺のコーティング技術なら、そのリスクを減らせるのだ。
相川さんも深く頷き、言葉を継いだ。
「しかも高圧蒸気殺菌や長期使用でも剥がれず、性能が落ちない。これは何万人もの患者さんの命を守る技術だよ」
ここには俺の技術を本当に評価してくれる人たちが集まっていたのだ。ふと皮肉なものだと思う。独占契約を結ぶならいずれ障害になったはずのあの会社との契約を、蒲田は自分の手で、公衆の面前で切ってくれたのだから。
翌朝、俺はいつものように出社し、工場の最新設備をメンテナンスしていた。夕方には相川さんたち業界トップ三の技術チームがうちの工場へ来ることになっている。次世代医療機器の共同開発に向けた本格的なスタートの日だ。
そんな中、工場の入口からガシャーンと激しい音が響いた。誰かがドアを乱暴に開け放ち、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。俺が顔を上げると、来たのは蒲田だった。
「来た来た来た。社長!」
慌てふためく蒲田が走ってきた。昨日の余裕そうな態度とは打って変わり、高級なはずのスーツはシワだらけでネクタイは曲がり、額からは異常なほどの脂汗が吹き出している。いつも引き連れていた取り巻きたちの姿はどこにもない。
「またアポなし訪問ですか? 契約は解除しましたし、あなたにかまっている余裕はないのですが」
俺は昨日の三倍は冷たく声をかけた。すると蒲田は俺の前に来るなり土下座を始めた。
「頼む、頼むから! 昨日の契約解除の話はなかったことにしてくれ。私の完全な冗談だ。悪ふざけが過ぎたんだ」
「昨日、自分が言われた言葉をそっくりそのまま返してやった。『契約解除ですか? いいんですね?』『二度と契約できませんよ』……そう言ったのはあなたですよ。そんな重要な契約を悪ふざけで済ます人が、どこにいるんですか。もちろんお断りします。いくら詰まれても、二度と契約しない。昨日言った通りです。御社には十分の一の価格でコーティング剤を提供してくれるメーカーがいるんでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、蒲田の顔が引きつった。蒲田は思いっきり首を横に振る。
「違うんだ。騙されたんだ。今朝、役員室で事務と父親に『北原のところを切ってコストを削減した』と報告したら、直後に開発部長と法務部長が顔色を変えて怒鳴り込んできたんだよ」
蒲田はガタガタと全身を震わせながら、自らの失敗が招いた事態を絶叫する。
「あいつら、私に掴みかかって『うちのカテーテルや人工透析機の製造販売は、北原の特許技術で直接国に登録されているんだぞ』と怒りやがった。契約が切れた以上、君の特許を使った製品はもう一本とも作れないし、出荷もできない。特許侵害になるからだ。かと言って勝手に海外の安いコーティングに変えれば、それは使用変更になって国の承認が全部取り消しになるって言うんだよ」
そりゃそうだ。俺は心の中でツッコミを入れる。蒲田は「前にも進めず後にも引けず、倉庫にある数十億円分の在庫ごと、会社が完全に止まったんだ」と叫ぶ。
「でしょうね」
俺は冷たく返した。医療機器というのは、それだけ安全性を確保しなくてはならないのだ。そんな知識もないようじゃ、本当に救いがない。しかし、蒲田の絶望はそれだけでは終わらなかった。
「それだけじゃない。さっき業界トップの相川役員から、うちの社長に直接電話があったらしい。『昨日、蒲田という無能が、我が社が総力を挙げて誘致した北原社長を軽んじて追い出したそうだな』って」
突然出てきた相川さんの名前に、俺は思わず動きを止める。確かに昨日、相川さんと会った直後、蒲田に言われたことを愚痴った。「そんなことを言われたのか」と怒っていたが、まさかこんなことになるなんて。
俺は内心、ざまあみろと思った。それと同時に、俺を本気で守ってくれようとする相川さんに感謝し、これからも相川さんについて行こうと心に決めた。
そんな俺の思いとは反対に、蒲田は「トップ三とその系列、取引先の全てから取引を完全停止すると言われ、うちの会社は今、干されてどことも取引ができない状態だ。助けてくれ」と懇願する。
俺は覚めた目で見ながら言った。
「そうですか。でしたら、権力者である役員のお父様に泣きついてはどうです?」
すると蒲田はさらに泣き叫ぶ。
「親父は『会社を潰す気か』と俺を殴り飛ばした。あんなやつ、もう親でも何でもない。今、中に来たから、社長に頭を下げてでも契約を戻してもらえ。できなければ会社の損害を全額弁償させた上で、特別背任で告訴してやるって言ってるんだ。もうどうでもいいんだ」
俺は思わず「子供かよ」と本音が出てしまった。蒲田は俺の言葉を聞き、動きを止める。聞こえちゃったか。俺は腹をくくって口を開いた。
「散々、うちのことを下請けだのボロ工場だと馬鹿にしておいて、自分の保身のためには頭を下げるんですね。はい、どうですか。あなたのことを助ける人がいると思いますか。人にしたことが自分に帰ってきているだけでしょう。あなたのお父様の判断、僕は支持しますよ」
蒲田はうなだれた。もう邪魔だから追い出すかと思ったところで、足音が聞こえてくる。
「あ、相川さん」
俺が声を出すと、蒲田がはっと起きた。相川さんは俺に笑いかける。
「すまない。予定より早く来てしまったよ。君の顔が早く見たくてね」
そして蒲田に気づき、ため息をついた。
「君、蒲田君だろう。まだ北原君に迷惑をかけているのか?」
蒲田は冷や汗をかき、視線が定まらない。
「いや、その……」
そこで俺が「相川さん、話は今終わりましたよ。うちは今後、あちらの会社との取引はしないとお話ししたところです」と言うと、相川さんが蒲田に鋭い視線を送る。俺も続けた。
「僕は相川さんと次の開発についてお話があるので、さっさと帰ってもらえますか」
そう言うと、蒲田はうなだれ、すすり泣きながら出ていった。
その後、蒲田は本当に損害賠償を請求され、解雇されたらしい。父親からも完全に見放され、無一文で家を追い出されたという。取り巻きたちは手のひらを返し、誰も蒲田の肩を持たなかったそうだ。会社は倒産寸前に追い込まれ、大規模なリストラで取り巻きたちも即座に首になったようだ。例の十分の一のコーティング業者も、後に品質偽装が発覚し、業界から姿を消したらしい。
しばらくして、工場近くの解体現場で、よれよれの作業着で頭を下げる蒲田を見かけた。俺は声をかける価値すら感じず、そのまま通り過ぎた。
それから俺は相川さんたちと手を組み、新たな開発を始めた。
「北原君、世界中の医療業界から凄まじい反響だ」
相川さんは嬉しそうに言う。俺はこの人たちと一緒に、誰かの命を救いたい。俺たちの技術が世界に羽ばたくことを目標に、これからも頑張っていこうと思う。
