陣痛が来た。予定日を過ぎた朝、一人でタクシーを呼んで病院へ向かった。夫に電話しても出ない。メールを送っても「また連絡して」の一言だけ。あの日、私は命がけで出産した。なのに夫が病院に来たのは夜。酒の匂いをさせて、「ビール一杯しか飲んでないから」と平然と言った。「出てけ」と私は叫んだ。そして息子が生まれた瞬間、夫は赤ん坊を見て「誰の子?」と看護師に突き返した。あまりの侮辱に私は言葉を失った。退院…

陣痛が来た。予定日を過ぎた朝、一人でタクシーを呼んで病院へ向かった。夫に電話しても出ない。メールを送っても「また連絡して」の一言だけ。あの日、私は命がけで出産した。なのに夫が病院に来たのは夜。酒の匂いをさせて、「ビール一杯しか飲んでないから」と平然と言った。「出てけ」と私は叫んだ。そして息子が生まれた瞬間、夫は赤ん坊を見て「誰の子?」と看護師に突き返した。あまりの侮辱に私は言葉を失った。退院...

陣痛が来た。私は初めての出産で不安で仕方なかったけれど、実家が遠くて里帰り出産はできなかった。それでも義実家は歩いて十分ほどの距離にあり、義両親との関係も悪くない。何かあれば頼ろうと思っていた。

予定日は昨日だった。もういつ生まれてもおかしくない状況で、夫が出勤してしばらくすると陣痛らしきものが始まった。すぐに夫に連絡すると、返ってきたのはそっけない返事だった。

「今職場に着いたところ。どうせすぐ生まれるわけじゃないだろう。また状況が変わったら連絡して」

私は不安でたまらないのに、夫はまるで気にかけていない。今思えば、この頃から夫の様子はすでにおかしかった。

私の名前はエリ。妊娠が分かってから仕事を辞め、今は専業主婦の三十二歳。夫のヒロシは二歳年上で、大学の先輩だった。三年前のサークルの集まりで再会し、お互いに適齢期だったこともあってすぐに結婚した。私はギリギリ二十代で結婚できたことに満足していた。

夫は仕事が忙しく、妊娠中も帰りが遅かったり休日出勤をしたりして、私の不安は募っていくばかりだった。それでも義母が時々様子を見に来てくれて、体がきつい時も随分助けてもらった。孫の誕生を今から楽しみにしてくれている。そのためにも元気な子を産みたいと思っていた。病院への送迎をしてくれることもある義父も含めて、私はいい義両親に恵まれた。

そして予定日だった昨日、私は不安になって夫に声をかけた。

「予定日なのに、まだ出てこないのかな」

慌ただしく支度をしている夫は不機嫌そうに答えた。

「連絡が来てないんだから、まだなんだろう。考えたって仕方ないよ。そのうち出てくるんだから」

そう言うと、そのまま仕事に出てしまった。別に夫に何かをしてほしいわけじゃない。ただ、この不安な気持ちに寄り添ってほしかっただけなのに。

妊娠中もそのことで何度か喧嘩をした。夫はいつも決まって言うのだ。

「考えたってしょうがない。なんとかなる。悩んで何か意味があるのか」

そうかもしれない。でも出産は命がけだ。つわりがひどい時も、お腹が張って痛い時も、夫はそっけない態度だった。

妊娠が分かった時はあんなに喜んでくれたのに。どうしてしまったのだろう。夫は「俺がパパになるのか」と言って、一緒にベビー用品を揃えに行った時も嬉しそうだった。それが次第に態度が変わっていき、安定期を迎える頃にはすっかり冷たくなっていた。仕事がちょうど忙しい時期だったから仕方ないのかもしれない。それでも、もう少しだけ話を聞いてほしかった。気にかけてほしかった。そんな不満を抱えながら、今日まで来てしまった。

予定日を過ぎた今日も、夫は普通の顔をして出勤していく。不満はあったけれど、今はお腹の子の方が大事。私もなんとか普通の顔をして夫を見送った。そして一時間が経った頃、陣痛らしきものが来たのだ。

病院に電話すると、まだ陣痛の間隔が長いから様子を見るように言われた。入院用の荷物を用意して横になりながら、その時を待った。お昼を過ぎてようやく陣痛の間隔も短くなり、タクシーを呼んで病院に向かった。夫に電話をしたけれど出なかったのでメールを送り、そのまま入院した。義両親も仕事で頼れなかった。

そこからは、ひたすら苦しかった記憶しかない。とにかく痛くて、頼れる人もいなくて、不安で。何度も気が遠くなりそうになるのを必死に耐えていた。

夫が病院に到着したのは夜のことだった。それなのに、なぜか少しお酒の匂いがする。

「まさか飲んでたの? よりによって今日。陣痛が来たって伝えたのに」

「急な飲み会でさ。でもビール一杯しか飲んでないから」

私の言いたいことに気づいたらしい夫は、一杯しか飲んでない自分は偉いと言わんばかりの顔をして報告してきた。それに私はぶち切れた。

「はあ? 一杯でも飲酒は飲酒。お酒臭いんだよ。そんなんで病室に入ってくんな。出てけ」

お腹の痛みとお酒の匂いで、自分が何を言っているのかも分かっていなかった。その時、様子を見に来てくれた看護師さんに夫は追い出され、私は再び一人になった。

眠れない夜を過ごし、気がつけば朝になっていた。分娩室に移動してしばらくすると、ようやく酔いが覚めたらしい夫が中に入ってきた。今さら何の用だ。そう言いたかったけれど、口を開く余裕なんてない。そしてなんとか息子が無事に生まれてきた。

私は痛みで気が遠くなりながらも、元気に泣く息子を見て安堵した。看護師さんが息子を夫に渡すと、夫は怖がりながらも抱っこした。その姿を見ながら、この人もパパになるんだなとぼんやり思っていたら、夫がとんでもないことを言った。

「全然似てないな。誰の子?」

そう言って、看護師さんに息子を突き返した。私はわけが分からなくなり、夫を睨みつけた。

「出てけ」

痛みで喋りたくもなかった私は、簡潔に夫に伝えると、夫はそのまま無言で病室を出ていった。どういうつもり? そんなことある? 夫がどうかしてしまったのかと心配する余裕は一切なく、ただただ怒りが湧いてきた。疲れ果てていた私は、気がつけば眠ってしまっていた。

息子のお世話で毎日忙しく、五日ほどの入院生活はあっという間に過ぎた。夫は息子の顔を見に来たりもしたけれど、母子別室だったこともあって、私と顔を合わせたのはほんの数分だった。

退院の日は義母が付き添ってくれた。夫は仕事に行ったらしい。義母は夫から何も聞かされていないのか、息子を可愛い可愛いとあやしてくれている。仕事を早く上がったという義父も家に来て、義母と一緒に息子を見ていてくれたので、私は少し休むことができた。義両親には本当に感謝している。

夕方、義母が夕飯の用意をしてくれていると、夫が帰ってきた。

「お帰り」

そう声をかけたけれど、夫は無視してリビングに入ってくるなり、鞄の中から封筒を取り出した。息子を抱っこするでもなく、ニヤニヤしながら私を呼びつける。

「エリ、話がある」

その態度に苛立ちを覚えたけれど、その後、とんでもないことになった。夫は封筒から書類を取り出し、私に突きつけた。

「鑑定した。俺の子じゃないから離婚だ。お前の不倫が証明されるぜ」

私は思わずおかしな声を出してしまった。料理を作っていた義母の手も止まり、息子を抱っこしていた義父も固まって夫を見る。三人がポカンとしているのに、夫は勝ち誇ったような顔をしている。

「生まれた時に俺に全然似てないと思ったんだよね。だからこっそりDNA鑑定したわ」

私はため息をつきながら、出された書類に目を通した。難しい言葉と数字が羅列しているが、目に入った文章を読み上げる。

「『生物学上の父とすることから排除されません』……これ、どういう意味だか分かってる?」

夫は鼻を鳴らした。

「排除ってことは、俺が父親じゃないんだろう」

「独特解釈力ゼロ? 排除『されない』んだから、父親ってことでしょう」

すると夫は慌て始めた。

「え、嘘だろ?」

私は出産の時のことを思い出して、また怒りが湧いてきた。あの時、あんなことを言ったのは私の浮気を疑っていたからだっていうのか。夫が生まれたばかりの息子を見て「誰の子?」と言ったことを私ははっきり覚えている。それを義両親がいる前で言ってやった。

「あの時、生まれたばかりの息子に『誰の子』って言ったでしょ。あれがなかったらDNA鑑定なんてしようと思わなかったんじゃないの?」

すると義両親は激怒した。

「ヒロシ、あなたなんてことを。大変な思いをしていたエリさんに、どういうつもりだ?」

夫は義両親に怒られると、言い訳を始めた。

「だってエリの職場は男ばかりだし、よく飲み会に行ってただろう。帰りが遅い日だってあったし、そりゃ不安になるだろう」

私をチラチラ見ながら言う夫に、私はイライラが募る。

「あのね、飲み会の日は全部報告してたし、帰りが遅くなる日も迎えに来てもらったりしたでしょ。それなのに疑ってたの?」

それでも夫は自分が正しいと言わんばかりに言う。

「いや、ほら、インターネットとかでさ、よく浮気相手の子を育てさせられた話とか見るじゃん。それを同僚と話してたら、DNA鑑定した方がいいって言われてさ」

ああ、そうですか。この人には何を言っても無駄かもしれない。インターネットと、名前も顔も知らない赤の他人の言葉を鵜呑みにしたのか。私のことより、そっちを信用してたってことか。

「あれだけつわりに苦しんでも、出産が大変でも、ヒロシの子を元気に産みたかったから頑張ったんじゃん。なのにあんたはそんなこと考えてたの?」

義母は泣き崩れ、義父は怒りで震えている。私が夫の手から書類を叩き落とすと、夫は慌ててそれを拾おうとして鞄を落とした。すると、思いもよらないものが目に入った。

「何これ?」

夫の鞄の中には、離婚届が入っている。私がそれを見つけると、さっきまでの勢いはどこへやら、夫はしどろもどろになった。

「違うんだ。これは……」

「ご丁寧に離婚届まで用意して、『離婚する気はない』なんて言わないよね」

私はその離婚届をひったくって、ボールペンを握りしめた。夫が止めに入ろうとしたその瞬間、夫のスマホが鳴った。メールの着信音だ。ボールペンを握った私の手が止まる。

何か嫌な予感がした。夫の態度、夫の言動。おかしくなり始めたのはいつの頃だっただろう。春を過ぎて夏が来た頃には、すでにおかしかった。私は衝動的に夫のスマホを奪った。慌てて取り返そうとする夫を押しのけて、画面を開く。そこには信じられないものが表示されていた。

私はそれを読み上げた。

「『そろそろ離婚届書いた? どうせあなたの子供じゃなかったでしょ。奥さんに慰謝料請求して、パーっと旅行でも行こうよ』……って、何これ?」

私の嫌な予感は当たってしまった。おかしいと思ったんだ。いきなり浮気の疑いをかけてきて、どこからその発想が出てきたのかと思ってた。それは自分が浮気してたから。だから私も浮気してるんだと思ったんだよね。

夫の顔色はみるみる青ざめていく。

「この子、誰? もしかして新入社員の子とかじゃないの? どうせこの春に新人の担当にでもなって、その子といい仲になったんでしょう。そう考えればヒロシの態度がおかしくなったのもよく分かる。その子と浮気してたから夜も遅かったし、『休日出勤』とか言ってどうせデートでもしてたんでしょう」

私は思っていたことを淡々と話した。夫が何も言い返してこないのを見ると、当たらずといえども遠からず、といったところか。義父はそれを聞いて再び激怒し、夫を殴った。

「お前、本当なのか!」

視線をそらした夫の横顔に、義父の拳がヒットした。

義父は私に土下座してきた。

「エリさん、このバカ息子が本当に申し訳ない」

夫も義父に一緒に土下座させられ、問い詰められる。

「お前が謝るべきだろう。本当のことを全部話せ」

夫の浮気相手は私の予想に近かった。他の支店から移動してきた年下の女性で、夫が教育担当をしていて浮気に発展したらしい。しかも子供はいないが、相手も既婚者だそうだ。

私は呆れて、すぐに離婚届を書いた。それを夫に突き返す。

「早く書いて」

「エリ、ごめん。考え直してくれ」

耳を貸す気はない。私は情けない顔で謝る夫を、冷たい目で見ることしかできなかった。

「無理。私が一番辛い時に隣にいてくれないような人、もういらない。顔も見たくない。息子も『あなたの子じゃない』と思ってたんだから、二度と会わなくていいよ。まあ、養育費はもらうけどね」

夫は義父に促されて、離婚届を書いた。義父に立ち会ってもらい、慰謝料と養育費について話し合う。話していると、息子を連れてどこかに行っていた義母が戻ってきた。義母は無言で夫に何かを渡す。困惑した顔の夫がそれを受け取ると、そこには写真が映っていた。

生まれたばかりの赤ちゃん。今の息子にそっくりな。

「こんなに似ていて、あんたの子じゃないわけないでしょう」

義母が冷たく言い放った。夫の生まれた頃の写真は、息子とそっくりだった。それを見た夫は愕然としている。

「でも、俺に全然似てなかったし……」

それでも言い訳を始める夫に、私は堪忍袋の緒が切れた。

「生まれたばかりの赤ちゃんが大人のあんたにそっくりだったら怖いでしょ。そんなことも分からなかったの? その写真を見たら、確実にあんたの子でしょうが」

「違うんだ。だって周りがそういうから、俺は最初から信じてたんだよ」

「嘘つけ。信じてたら、わざわざDNA鑑定なんてやらないでしょ。そうやって人のせいにしてないで、少しは自分のしたことに責任を持ちなさいよ。あなたは自分の子供を妊娠している妻をないがしろにして、浮気してたの。これは事実なの。変わらないの。しかも浮気相手にそそのかされて妻を疑って、生まれてきた息子とのDNA鑑定までしたの。この行動の中に一つでも誠意がある? ないよね。私が苦しい時、あなたは浮気してたの。そんな人を許せるほど、私はできた人間じゃない」

息つく間もなく攻め立てると、夫は謝り倒してきたけれど、私が許すことはもちろんなかった。

私たちはそのまま離婚した。夫の浮気の噂は職場中に広まり、仕事がしづらくなってミスを連発。その結果、異動させられた。私は実家に帰ろうかと思ったけれど、生後間もない赤ちゃんとの長距離移動は良くないと、夫のいなくなった義実家に同居させてもらっている。息子はすくすく成長中だ。

元夫は義両親からもこっぴどく叱られ、貯金を慰謝料に当て、義父の監視のもとで毎月慰謝料を払っている。もちろん浮気相手にも慰謝料を請求した。おかげで、ダブル不倫だった浮気相手の旦那さんにも浮気がバレて、そちらも離婚。その後、浮気相手は夜のお店で働いているそうだ。

バカな夫だったけれど、一緒に息子の成長を見守ってくれる義両親に恵まれて、私はとても満足している。

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