息子夫婦が新しい仕事を始めると言ってきたのは、今から数年前のことだ。息子の國は38歳。嫁の千鶴は、人当たりの柔らかい優しい女性だった。二人の挑戦を応援したい気持ちから、私は都内の高級マンションを購入することにした。ところが、今度は「家事ができないから」という理由で同居を懇願されたのだ。仕方なく始めた同居生活は、しかし、私の心を少しずつ疲れさせていった。
息子たちが始めた事業は、何年経っても軌道に乗らない。収入は不安定なままで、生活費の全てを私が負担する日々が続いた。私は亡き夫のコネを使って、息子に就職先を紹介してもらうことにした。それなのに、息子は私の好意に腹を立てたのだ。
「家賃を払わないなら、今すぐに出ていけ」
そう怒鳴られたとき、私は悟った。このマンションは、私が購入したものだ。お金を払っているのも、ローンを組んでいるのも、全て私だ。それなのに、息子はさも自分の所有物であるかのように振る舞っている。私は生まれて初めて、実の息子に対して怒りと失望を抱いた。
「わかった。それじゃあ、ここから出ていくわ」
私は迷わず出ていくことを決断した。元々、長く同居するつもりはなかった。私の荷物は旅行カバン一つに収まるほどしかなかった。マンションを出た直後、私は不動産屋に向かい、息子たちが住むマンションの売却手続きを進めることにしたのだ。
私は吉本はるか、65歳になる。数年前に夫を亡くし、今はパートをしながら一人で暮らしている。夫は資産家だったため、私に多額の遺産を残してくれていた。だが、節約家だった夫との生活が染みついている私は、今もつましく慎ましい生活を心がけている。
「一円のお金も無駄にしてはいけない」
夫が口癖のように言っていた言葉だ。正直、鬱陶しく思うこともあった。しかし、その堅実さが家族の生活を支え、亡くなった後も私が困らないようにしてくれたのだ。そう考えると、夫への感謝ばかりが浮かんでくる。
私と夫の間には、一人息子の國がいる。子供の頃の國は、手のかかる子だった。良く言えば自由な子で、悪く言えば飽きっぽい子だった。何をやっても長続きしない。その割に好奇心だけは旺盛で、色んなことに興味を持っては手を出していた。
夫は「子供の可能性を広げるために、やってみることはいいことだ」と、國の挑戦を容認していた。しかし、その度に振り回される私は、手を焼いていた。それでも、思春期特有の反抗期もなく、中学高校と進学した國は、「勉強が嫌い」という理由で大学には行かず、地元の企業に就職した。
就職してしばらくは、特に問題なく社会人生活を楽しんでいたようだ。だが、また悪い性格が出てきたのか、入社からわずか1年で辞めてしまった。その後、就職した企業もすぐに辞めてしまった。夫は「國に、生活するということの大変さを教えなければならない」と考えたのだ。
そして、夫は國に一人暮らしを勧めた。家賃や光熱費など、生活に必要なお金がどれくらいかかるのか。食べていくことがどれほど大変なのかを理解させようとしたのだろう。ところが國は、一人で自由に生活できると喜んで、あっさりと一人暮らしを始めてしまった。
仕事は、知り合いの会社で雇ってもらえることになった。その後は、何とか続けていたようだ。28歳の時に千鶴と結婚してからは、少し落ち着いたようにも思う。時々連絡はあるものの、家に帰ってくることは少なくなった。それでも國が自分の家族を守るために必死に頑張っているのだと思うようにしていた。
千鶴は、國の破天荒な行動も笑って許してくれる。國にとっては、最高のパートナーなのかもしれない。そう思っていた。
ある日、國が夫婦で私の元を訪ねてきた。千鶴の腕に赤ちゃんが抱かれているのを見たとき、私は嫌な予感がした。そして、その予感は外れなかった。
「実は、千鶴と一緒に最先端のWebを使ったマーケティングコンサルティング業をしようと思ってるんだ」
「Web? どんな仕事なの?」
「母さんには理解できないだろうが、今は何でもWebの時代なんだ。インターネットでどんな情報でも発信できる。でも、その発信の仕方が分からない人が大勢いるんだ。その方法を教えてあげるのが、コンサル業なんだよ」
國は、インターネットに馴染みがない私にも分かるようにと、丁寧に説明してくれた。なるほど、全く理解できないわけではない。しかし、また國が新しいことを始めようとしている。私は心配になった。
「その事業は、うまくいくの?」
「今、需要が高まっているんだ。授業を始めれば、すぐに軌道に乗る」
國は自信満々だった。
「そうなのね。だけど、あなたにそんな才能があったなんて知らなかったわ」
「これでも必死に勉強したんだ。インターネットの世界には難解な専門用語も多くて苦労したけど、それがやっと身になる時が来たんだよ。私たちなら、きっとうまくやっていける」
子供の頃の國は、勉強が特に嫌いで、学校の宿題すらまともにやったことはなかった。成績はいつも中の下。たまに勉強に集中していると思っても、実際にはノートに落書きをしていただけということもあった。そんな國が、本気で勉強をして授業を始められるほど努力したことが、私は嬉しかった。
「千鶴さんと結婚して、あなた変わったのね」
「そうかもしれないな。千鶴は俺の才能を引き出してくれたんだ」
夫婦仲良く手を取り合っている姿を見ると、亡き夫も誇らしげに見ていることだろう。私は心から二人を応援しようと思った。
「それでな、授業を始めるのに、母さんにも少し協力して欲しいんだ」
國は少し言いにくそうに、私に資金の提供を求めてきたのだ。
「事業が成功したら必ず返す。だから、しばらくの間貸しておいて欲しいんだ」
國と千鶴は、私に頭を下げてきた。しかし、その要求に答えるわけにはいかない。亡き夫は「例え親族といえども、金の貸し借りだけはしてはいけない」と、きつく言っていたのだ。
「悪いけど、事業資金は出せないわ。お父さんの遺言でもあるから、破るわけにはいかないの」
「親父は、もう何年も前に亡くなってるじゃないか」
「ええ、だけどお父さんの言いつけを破るわけにはいかないの。たとえ亡くなっていても、それがこの家のルールなのだ」
國が懇願してきたからと言って、ルールを破るわけにはいかない。私がそう告げると、國は少し考え込んだ後、別の提案をしてきた。
「分かったよ。その代わりと言っちゃなんだが、事務所として使えるマンションを購入してくれないか」
國は、一枚のパンフレットを差し出した。都内にある高級マンションで、セキュリティや設備がしっかりしたものらしい。
「ここなら、安心して授業ができる。頼むよ。俺の授業を応援してくれ」
國と千鶴に懇願され、私はマンションを購入することにした。
「購入するのはいいけど、ローンはどうするの? ちゃんと払っていけるの?」
「それなんだが、しばらくは母さんの方で払って欲しいんだ。もちろん、授業が軌道に乗ったら全額ちゃんと返すから」
なんとも虫のいい話に呆れながらも、私は息子夫婦の挑戦を応援しようと、その申し出を受け入れることにしたのだ。マンションを一括で購入すれば、ローンの心配もない。國たちの事業が軌道に乗った後に、マンションを買い取ってもらえばお金は戻ってくる。私はそう考えたのだ。
…そして、今。私は三畳一間のシェアハウスにいる。息子夫婦に追い出された後、私はこの小さな部屋に移り住んだ。パートで働きながら、静かに暮らしている。
シェアハウスには、他にも住人がいる。若い学生や、訳ありの大人たち。最初は落ち着かなかったが、皆それぞれの事情を抱えて生きている。私はここで、自分の人生をやり直そうと思っていた。
ある日、シェアハウスの共有スペースで掃除をしていると、見覚えのある男の子が立っていた。いや、正確にはすでに大人の男性だ。スーツを着て、きっちりと髪を整えている。彼は私を見ると、少し驚いた顔をした。
「…母さん?」
「え?」
私は顔を上げた。そこに立っていたのは、確かに息子の國だった。
「國…どうして、ここに?」
「どうしてって、それはこっちのセリフだよ。母さんこそ、どうしてこんなところにいるんだ?」
國は困惑した表情を浮かべている。確かに、彼が驚くのも無理はない。私は追い出された後、行き場を失い、このシェアハウスに落ち着いたのだ。
「あなたたちに追い出された後、行く場所がなかったのよ。それで、ここで暮らしているの」
そう言うと、國は何かを言いたそうに口を開けたり閉じたりした。しかし、言葉は出てこないようだった。しばらくの沈黙の後、國はため息をついた。
「…ごめん。母さん。あの時は、言い過ぎた」
「…え?」
「あのマンションは、母さんが買ってくれたものだ。なのに、俺はあんなことを言ってしまった。本当に、すまなかった」
國は深々と頭を下げた。息子の素直な謝罪の言葉に、私は目頭が熱くなった。しかし、私も引き下がるわけにはいかない。
「…今さら謝っても、遅いんじゃないの。私はもう、あなたたちと暮らすつもりはないわ」
「分かってる。でも、せめて弁償はさせて欲しい。マンションを売却したって、聞いた。あれは、俺たちが払うべきだ」
「無理よ。あなたたちに払えるわけがないでしょ。あのマンションは高級物件なんだから」
「…母さん。実はな、俺たちの事業は、最近少しずつだが軌道に乗り始めてるんだ。だから、きっと返せると思う」
私は驚いた。國の事業が、軌道に乗っている? あの、いつも途中で投げ出してばかりだった國が?
「本当なの?」
「ああ。千鶴が頑張ってくれてるおかげだ。それに、俺も必死に勉強した。今度こそ、ちゃんとやるよ」
國の目は、かつて見たことがないほど真剣だった。私は、彼が本気で自分を変えようとしていることを感じた。
「…そう。なら、頑張りなさい。お父さんも、きっと喜んでるわ」
「母さん…」
「ただし、約束して。もう二度と、誰かに依存しようとしないこと。自分の力で、生きていくのよ」
「分かった。必ず、やってみせる」
國は力強く頷いた。そして、私に背を向けて、シェアハウスの出口へと歩いていった。私は、その背中を見送りながら、深く息を吐いた。
結局、私はマンションを売却して手にしたお金で、このシェアハウスの一室を借りている。國には言わなかったが、売却益はそこそこあった。しかし、私はそれを使って贅沢をするつもりはない。夫の教え通り、つましく暮らしていくつもりだ。
それから数ヶ月後、私は思わぬ再会を果たす。シェアハウスの住人に、清掃会社の社長がいると聞いて、挨拶をしたのだ。その夜、共有スペースに集まった時だった。
「は、はるかさん?」
そこに立っていたのは、なんと私が以前、息子夫婦に紹介してもらった不動産会社の営業マンだった。…いや、違う。彼は、今では清掃会社の社長だと言う。私は彼に、こう尋ねた。
「新太郎さん、どうしてここに?」
「実は、このシェアハウスの清掃メンテナンスを任されているんだ。はるかさんこそ、どうして?」
私は事情を話した。息子夫婦に追い出されたこと、このシェアハウスで新たに生活を始めたこと。新太郎は、何やら考え込むような表情を浮かべた。
「はるかさん。もし良ければ、うちの会社で働いてみませんか? 掃除の知識がある人を探していたんです」
「私が? 私はパートしかやったことがないけど、大丈夫かしら?」
「大丈夫です。はるかさんは、このシェアハウスをいつも綺麗にしていますからね。清掃の仕事は、そういう誠実さが大事なんです」
こうして、私は新太郎の会社で働くことになった。最初は慣れないことばかりだったが、夫との生活で身につけた几帳面さが、思った以上に役立った。掃除をすればするほど、上司や同僚に感謝される。自分の仕事が誰かの役に立っているという実感が、嬉しかった。
ある日のことだ。仕事を終えて、シェアハウスに帰ると、共有スペースに見覚えのある姿があった。新太郎が、書類を見ながら何やら話している。隣には、スーツを着た若い男が立っている。…國だった。
「母さん!」
國は私の姿を見つけると、勢いよく立ち上がった。
「どうしたの、國? また何かあったの?」
「違うんだ。今日は、ただ挨拶に来たんだ。それで、新太郎さんに、ちゃんとお礼を言いたくて」
「お礼?」
「ああ。新太郎さんに、母さんを雇ってもらったって聞いたんだ。本当にありがとうございます」
國は新太郎に向かって、ぺこりと頭を下げた。新太郎はにこやかに笑って、首を振った。
「いやいや、こっちこそ助かってるよ。はるかさんは、本当に仕事ができるからね」
「母さんが、働くなんて珍しいな。昔は、家の中で何もする気がないように見えたのに」
國の言葉に、私は少し腹が立った。
「私は昔から、家事はしっかりやってきたつもりよ。あなたが遊んでばかりいたから、家のことが分かってないだけじゃないの?」
「ははっ、そうだな。すまない」
國は誤魔化すように笑った。その姿は、昔の子供の頃と変わらない。しかし、目つきは確かにしっかりとしてきている。私は、そのことに安心した。
「そうだ、母さん。これ、受け取って欲しいんだ」
國は、封筒を取り出した。
「何? これ」
「あのマンションの売却益の一部だよ。俺たちの事業も、ようやく軌道に乗ってきたんだ。だから、少しずつだけど返していくよ」
「そんな、いいのよ。私は、あなたたちのために買ったんだから」
「ダメだよ。親の金で生きていくのが、どれだけ大変か、今の俺にはよく分かる。本当は、全部返すべきなんだが、まだ無理でさ。ごめん」
私は、國の真剣な目を見て、受け取ることにした。金額は、大した額ではないかもしれない。しかし、息子が自分の力で返そうとしている姿勢が、嬉しかった。
「分かった。でも、無理はしちゃだめよ」
「ああ。ありがとう、母さん」
國は、いつもよりも大人びて見えた。私は、亡き夫に「國はちゃんと成長しているわよ」と、心の中で報告した。
それからも、私は清掃の仕事を続けた。新太郎の会社での仕事は、私にとってやりがいのあるものになった。掃除をすると、必ず誰かが喜んでくれる。その顔を見るたびに、私は生きている実感を味わった。
シェアハウスの住人たちとも、少しずつ交流が生まれた。若い学生から、訳ありの大人まで、様々な人がいる。皆、それぞれの人生を懸命に生きている。私は、自分の悩みがちっぽけに思えた。
やがて、私はシェアハウスでの生活にも慣れ、清掃会社でも頼られる存在になった。新太郎は、私を正社員にしてくれると言った。
「はるかさん。もし良ければ、うちの会社の社員になりませんか? 給料は、今よりも上げられるし、福利厚生もちゃんとしています」
「私で、大丈夫かしら?」
「もちろんですよ。はるかさんは、誰よりも掃除が丁寧だ。仕事を覚えるのも早いし、ぜひお願いしたいんです」
私は、その申し出を受けることにした。嬉しかった。夫を亡くしてから、私はずっと、自分の居場所がないような気がしていた。しかし、今の私には、仕事があり、仲間がいる。息子との関係も、少しずつではあるが修復されてきている。
ある日、私はふと思った。亡き夫も、一人で生きていくことの大変さを知っていたからこそ、私に「節約しなさい」と言っていたのだろう。そして、どんなことがあっても、自分の力で生きていけるように、というメッセージだったのかもしれない。
私は、もう昔の私ではない。誰かに依存するのではなく、自分の足で立ち、自分の力で生きていく。それが、亡き夫からの教えを守ることなのだ。
明日も、私は清掃の仕事に向かう。汚れた場所を掃除し、綺麗にする。そのシンプルな作業が、私の人生を少しずつ変えていってくれているのだ。國が事業で成功するのを見守りながら、私も私の道を歩いていく。
そう決めた時、私の心は、夫を亡くしてから初めて、静かに落ち着いていた。
