昼時のカフェテリアで、俺は徳長大輔から「潰れかけの商店街の寂れたパン屋が、よく出入りできるな」と鼻で笑われた。父が創業した巻パン工房を二代目として守り、妻の由美子と二人で毎日を必死に生きてきた。それが、社長に就任したばかりの徳長にとっては、時代遅れのゴミ同然だったらしい。「今日で取引も終わりにしてやるよ」——その一言が、俺の胸に深く突き刺さった。それから数ヶ月、信じられないことに、あの徳長か…

昼時のカフェテリアで、俺は徳長大輔から「潰れかけの商店街の寂れたパン屋が、よく出入りできるな」と鼻で笑われた。父が創業した巻パン工房を二代目として守り、妻の由美子と二人で毎日を必死に生きてきた。それが、社長に就任したばかりの徳長にとっては、時代遅れのゴミ同然だったらしい。「今日で取引も終わりにしてやるよ」——その一言が、俺の胸に深く突き刺さった。それから数ヶ月、信じられないことに、あの徳長か...

あの日、俺は中島商事の新社長・徳長大輔から一方的に契約解除を突きつけられた。地元の商店街で「巻きパン工房」というパン屋を営む俺は、前社長・中島正司の頃から昼食の出張販売を任されていた。それが、流行り者好きの新社長にとって、うちの店は時代遅れのゴミ同然らしい。悔しさと怒りで胸が張り裂けそうだったが、逆らうこともできず、俺は受け入れざるを得なかった。それから数ヶ月後、信じられないことに、あの徳長から謝罪の電話がかかってきたのだ。

「すまない。あの時はどうかしてたんだ。社長になった重圧でストレスが溜まって、つい八つ当たりしてしまった」

電話越しの声は、あの時とはまるで別人のように弱々しかった。俺はその言葉を聞いて、この機会に、徳長が知らない「パン屋の真実」を教えてやることにした。

俺の名前は真雄二。都心から電車で二十分ほど離れた駅の商店街で、父が創業した巻きパン工房を二代目として営んでいる。妻の由美子と結婚して八年になる。父の代から続くこの店を、一緒に支えてくれる妻には本当に感謝している。客は女性が多いのだが、由美子は女性目線の新商品を開発するのに力を注いでくれていて、彼女の存在なしには今の店の繁盛はありえなかっただろう。

「ゆうちゃん、中島正司さんのパン、焼き上がったよ」

厨房の奥から妻の声が聞こえてくる。パンの香ばしい匂いが店内に広がっていた。中島正司は、中島商事の前社長で、父の友人でもあるお得意様だ。俺は毎日昼時に彼の会社へ出張販売に行っている。その間、店番は妻と、パン職人を目指す大学生のアルバイトに任せていた。

「ありがとう。助かるよ」

パン生地をこねながら、焼き上がったパンを販売用の箱に詰めてくれている妻に礼を言った。毎日時間との勝負の中で、お互い作業の手を止めずに会話をするのは、すっかり慣れた光景だった。

「ねえ、そういえば、中島正司さんのところの徳長さんって人から、依頼の電話があったわよ」

「ああ、知ってる。その徳長さんが、中島商事の新しい社長に就任したんだ。どうやらその就任パーティーで、参加者に出来たてのパンを振る舞ってほしいって依頼があってね」

「へえ、珍しいわね。今までそんなことなかったのに」

「そうだな。俺もそう思うけど、依頼をもらったからには一生懸命やるさ。お得意様だからね。依頼してくれるお客さんに感謝しなきゃな。頑張ろう、由美子ちゃん」

張り切る妻だったが、俺はこの依頼に一抹の不安を感じていた。妻には言っていないが、中島商事の新社長である徳長大輔は、なかなか手ごわい人物なのだ。

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その日、俺たちは中島商事の本社ビルにあるカフェテリアにいた。いつものように一角を借りて、パンの販売を始める。妻が考案した新作の小さなパンも並んだ。

「いらっしゃいませ。今日もお疲れ様です」

「お疲れ様です。わあ、今日もパン美味しそうだな。どれにしようかな」

「ゆっくり選んでくださいね」

従業員の中には俺たちのパンのファンも多いらしく、お昼が終わる頃にはほとんど売り切れてしまう。カフェテリアに人がまばらになったのを見計らって、片付けを始めた。すると、突然後ろから聞き覚えのある声が降ってきた。

「おい、またクソまずいパンを売りに来てやがったのか」

振り返るまでもない。この物言いをするのは、徳長大輔しかいない。前社長の中島正司が体調を崩して退任し、代わって社長に就任したのが徳長だ。だが元々、中島商事との付き合いは父と中島正司の友情から始まったもの。徳長が社長に就任してからというもの、この男はことあるごとに俺の店を目の敵にしている。

「お疲れ様です」

曖昧な笑顔を浮かべてやり過ごすのが習慣になっていた。上場企業の社長という肩書きにでも慢心しているのか、口を開けば嫌味ばかり。だが、こういう相手に何を言っても無駄だと学んでいる。

「上場している白い会社の俺のところに、潰れかけの商店街の寂れたパン屋がよく出入りできるな。間違いだと思わないのか? ああ、そうか。お前は恥ずかしいという感覚がないんだな」

心の中では「はいはい、そうですね」と流しつつ、黙々とパンの箱を片付ける。すると、徳長はさらに畳みかけてきた。

「売れないパン屋のくせに出しゃばるな。中島正司の前社長とは仲が良かったかもしれんが、これからは私の判断がお前の店の売上を左右することになるんだからな」

正直、うちの店の収益はこの会社だけじゃない。しかし、取引を失えば確かに痛いのは事実だ。何も言い返せず、早足で片付けを済ませ、会釈だけしてその場を去ろうとした。

「ふん、よくまあこんな金でやってられるな。単純労働しかできない哀れな店だ」

聞こえないふりをして、カフェテリアを出る。それが一番の処世術だ。

「また明日もよろしくお願いします」

徳長が何か言いかける前に、ぺこりと頭を下げてその場を離れた。心の中では、よくまあこれだけ失礼なことを次から次へと言えるものだと感心するくらいだった。

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不安だったのは、徳長が社長に就任した直後から始まっていた。就任パーティーの席で、わざわざ俺の店を呼んだかと思えば、得意げな顔でこう言ったのだ。

「じゃあ、新しくて大きなお洒落なパン屋にすればいいだろう? 」

何が狙いなのか計り知れない。ひたすら文句を言われ続ける日々に、精神がすり減っていく思いだった。だが、それでも依頼はもらっている。妻も協力してくれるし、当日は精一杯のパンを焼き上げよう。

そして、怒涛の日々が過ぎていった。日中は店の仕事をこなし、夜は就任パーティーで振る舞うためのパンを準備する。何十種類もの惣菜パン、菓子パン、そして新作の小さなパンも考案した。

当日、天気は快晴だった。中島商事の本社ビルに到着し、会場のカフェテリアに向かう。だが、入り口に足を踏み入れた瞬間、俺は立ちすくんだ。

「……は? 」

そこには、見覚えのある光景が広がっていた。いや、見覚えがあるどころか、全然違う光景だった。カフェテリアの中央には、豪華なゼラチン料理がずらりと並べられたオードブル台が設置され、その横にはバータイム用のカウンターまで設置されている。俺たちのパンを並べるはずだったスペースには、色とりどりのサラダバーが広がっていたのだ。

「ゆう……ゆうちゃん、これってどういうこと? 」

妻の声が震えている。俺も言葉を失った。

俺たちのパンは、会場の入り口近くにある小さなテーブルに申し訳程度に置かれているだけ。それも、用意してきた量が多すぎて、箱からはみ出さんばかりだった。打ち合わせでは、中央の特等席でパンを振る舞うことになっていたのに。

「あれ……どういうこと?

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ちゃんと打ち合わせで決めたはずだよね? 」

妻が不安そうに俺を見上げる。俺は奥歯を噛みしめた。

「……あの男だよ。多分、徳長が何か仕組んだんだ」

周りを見渡すと、会場には中島商事の社員や関連企業の重役らしき人々が続々と集まってきている。服は高級そうなスーツで身を包み、手にはシャンパン。とんでもないいやらしい光景だ。

「パン、置く場所がない……どうする? 店内で焼いたパン、ここまで運んできたのに」

由美子の声が震えている。俺も頭をフル回転させた。このまま引き下がるわけにはいかない。だが、強行突破で進めてもトラブルになるのは目に見えている。どうにか丸く収める方法はないのか。

「……ちょっと待ってろ。俺から話をつける」

俺は意を決して、社長がいるだろう会場の奥へと足を進めた。だが、その途中でふと足を止めた。

あの男、徳長も立ち振る舞いを見ていると、どうにも俺の店を貶めることに躍起になっているようにしか見えない。わざわざ就任パーティーで、数十年前から続く俺の店を呼んで、こんな仕打ちをしてきたのだ。いや、これはわざとだ。

「おや、まあ。何だか居心地が悪そうだね、まゆちゃん」

聞き覚えのある声に振り返ると、案の定、徳長がにやにやと気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。

「徳長……これはどういうことですか。打ち合わせでは、中央のスペースでパンを振る舞うことになっていたはずです」

「ん? 何の話かな?

私が聞いてるのは、依頼主の社長として、会場のスペースをどう使うかは私の裁量だということだよ。それに、せっかく一流の料理人に頼んで用意してもらったんだ。君らのパンなんて、場違いだろう? 」

徳長は手に持ったシャンパンを一口含み、鼻で笑った。

「どうせ売れ残りだろうからね、君のことは。今日で中島商事との取引も終わりにしてやるよ。まあ、これで清々するだろう? これまで出張販売だか何だか知らないが、よく使われたじゃないか」

カッと血が上るのを感じた。言い返したい。心の中に渦巻く怒りを全部ぶちまけて、こいつの顔面に一発かましてやりたい。だが、ここでそんなことをすれば、妻にも店にも迷惑がかかる。何より、父が築き上げてきた信用を傷つけることになる。

「……分かりました」

俺はキッと唇を噛みしめ、ピクリとも動かなかった。頭の中では、もう自分たちの店に来てくれている常連客の顔が浮かんでいた。あの人たちが笑ってくれるなら、それでいい。

「ゆうちゃん……」

由美子が心配そうにこちらを見ている。俺は彼女に微笑みかけた。

「大丈夫だ。ここでパンを並べるぞ」

「え? でも……」

「場所が無けりゃ、何とかなる。箱を並べればスペースは作れる。俺たちが作ってきたパンに、誇りがあるならな」

俺はそう言うと、重い段ボール箱を軽々と担ぎ上げ、カフェテリアの入り口近くの空きスペースを確保した。テーブルが無ければ、箱をそのまま台にして天板を置く。簡単な即席の販売コーナーだ。

「すみません!

会場の皆さん、中の島パンです。お昼にぴったりのパンを多数ご用意しました! 」

普段はあまり大きな声を出さない。こんな時だからこそ、このパンを必要としてくれている人に届くように、とにかく声を張り上げた。

「お、パンか。いいじゃないか、何があるんだ? 」

「ああ、あの商店街の巻きパン工房のか。懐かしいな。昔はよく食べたものだ」

そう言って足を止めてくれる人もいた。徳長は面白くない様子で、こちらに目をやっているのが分かった。だが、もう知ったことではない。俺たちは俺たちのやり方で、パンを売るだけだ。

「まあ、なんちゅう無駄なプライドだ。どうせ誰も買いやしないぜ」

徳長が捨て台詞を残して立ち去る。その背中を見ながら、俺は心の中でほくそ笑んだ。

「さあ、どんどん焼き立てをどうぞ! おすすめは新作のチーズフォカッチャです!

実際、昼に近づくにつれて、会場のボルテージも上がってきた。スーツ姿のサラリーマンたちが、小腹を空かせたようにこちらに集まってくる。

「おい、このハムパン美味そうだな」

「なあなあ、あれ。あっちの店のパン、評判らしいぞ。朝から並んでるらしい」

「そりゃあ、あの社長の嫌みに負けずに売ってるパンだぜ。色々あって大変だな、まったく」

どうやら、徳長の性格を見抜いている社員も多いらしい。人の噂に聞いていた以上に、あの男は好かれてないようだ。

そうこうしているうちに、あっという間にパンは売り切れてしまった。由美子も嬉しそうに頬を赤らめている。

「いやあ、見事だ。見事だよ、ゆうちゃん」

その場に現れたのは、まさかの人物だった。

「中島……さん? 」

そこには、車椅子に乗った中島正司さんの姿があった。体調を崩してから、すっかり姿を見かけなくなっていた。

「連絡が来てね。どうやら徳長が迷惑をかけているようだから、見に来たんだよ」

中島さんは穏やかな笑顔を浮かべると、周囲を見渡した。

「私がのこのこと顔を出すと、ややこしくなるかと思って控えていたがね。だが、どうやら彼も限界のようだ。あの男を辞めさせよう」

その言葉に、俺は驚きを隠せなかった。

「辞めさせるとか、そんな簡単に……」

「いいんだよ。私が社長を任命した手前、責任がある。ここはきっちりとあの男に退陣してもらう。それで、君はどうだ。中島商事のパン職人として、我が社の専属のパン職人として働いてくれないか。うちの社員食堂は毎日パンを食べたがっているみたいだ」

なんと、中島商事の社長が直々に、俺にオファーをしてきたのだ。俺は一瞬、耳を疑った。だが、すぐに首を横に振った。

「ありがとうございます。でも、結構です。俺はあくまで商店街のパン屋でいたいんです。ここで続けていきます」

「そうか……。君も頑固だな。まあ、君らしい答えだよ」

中島さんは懐かしそうに目を細めた。

「だが、次からは断りもなく、パンの納品だけは断るなよ。せっかくの昼飯の楽しみが減ってしまう」

そう言って、ゲラゲラと笑った。俺もつられて笑った。

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あれから数ヶ月が経った。中島商事の社長は、中島正司さんが体調も回復して、見事復帰を果たした。徳長がどうなったかは、特に噂にも上らないが、少なくとももう二度と俺たちに嫌がらせをしてくることはなかった。

「徳長さん、お元気かな」

「そうだね。でも、またあの嫌な奴に会いたいかと言われたら、それは嫌だね」

「あはは、確かに」

あの日の出来事は、ある意味俺たち夫婦の絆を強くしてくれたと思う。どんなに嫌な相手でも、真っ向から立ち向かってパンを売り続けたことは、大きな自信にもなった。

そして、俺は今日もパンを焼く。商店街の片隅で、小さな天板に色とりどりのパンを並べて。あの日、徳長に恥をかかされた時も、妻と二人で力を合わせて乗り越えてきたこの店は、これからもずっと、俺たちの大切な場所であり続けるだろう。