「見ちゃいましたか?」「うん、ごめん」——深夜のアパート、俺の部屋に飛び込んできた猫を追いかけてきた隣人は、上だけパーカーを羽織っただけの格好で、俺の足元に落ちた書類には追試の文字がびっしり。俺は反射的に謝った。彼女は泣きそうな顔で「私、頭が悪いから」と呟いた。その一言が、毎日怒られてばかりの底辺社員だった俺の胸に妙に刺さった。「よかったら俺が勉強を教えようか」。そう言った瞬間、まさかこの選…

「見ちゃいましたか?」「うん、ごめん」——深夜のアパート、俺の部屋に飛び込んできた猫を追いかけてきた隣人は、上だけパーカーを羽織っただけの格好で、俺の足元に落ちた書類には追試の文字がびっしり。俺は反射的に謝った。彼女は泣きそうな顔で「私、頭が悪いから」と呟いた。その一言が、毎日怒られてばかりの底辺社員だった俺の胸に妙に刺さった。「よかったら俺が勉強を教えようか」。そう言った瞬間、まさかこの選...

「見ちゃいましたか?」

「うん、ごめん」

俺は素直に謝った。とあるアクシデントで見えてしまったもの。それが俺の脳裏を駆け巡る。彼女は泣きそうな顔をしていて、すごく申し訳ない。しかし残念ながら、俺の脳裏に焼き付いた記憶は消えない。それほどまでに見えてしまった彼女のそれ――は、強烈だった。

「勉強会のお礼です。夕飯を作らせてください」

俺は平田正。大学を出てすぐ就職した、まあどこにでもいる新人だ。まだまだ仕事で覚えることは多い。しかも上司は体育会系だから、毎日ミスを繰り返しては怒られている。

「おい、平田。また入力ミスしてるぞ。一体何回目だ?」

「す、すみません」

俺は同期の中で一番成績が悪い。昔から要領が悪く、やることがいくつもあるとパニックを起こし、ミスも増えてしまう。会社では怒られてばかり。どうしてこうなったんだろう。俺は思わずため息をついてしまう。

大学なら講義の内容をしっかり記憶すればいい。だから大学の成績は良かったし、社会に出てもうまくやれるだろうと考えていた。だがそれは大きな間違いだった。現実は失敗続きの底辺社員。そんな自分が嫌で仕方ない。

そんな気持ちを抱えたある日のことだ。俺はその日、夕食としてコンビニ弁当を買って帰宅した。自炊をする元気なんてどこにもなかった。毎日帰るのは深夜。小さなアパートだから、この時間ではすれ違う人さえいない。

いつも通り俺は自分の部屋の扉を開けて中に入ろうとする。すると、俺の足元に猫がやってきた。毛並みが綺麗で、人慣れもしている。俺がいるアパートはペットOKだから、もしかすると誰かの飼い猫かもしれない。しかし、どこから来たんだ?

そんな風に思っていると、猫は玄関から勝手に部屋に入ってしまった。

「こら、勝手に」

すると猫の鳴き声に気づいたのか、お隣さんが帰ってきた勢いで扉を勢いよく開けた。俺はそちらを見る。そこにいたのは大学生くらいの女性だが、慌てて出てきたのか素足だし、肌の露出も多い。困惑する俺。

一方、猫が俺の部屋に入ったのを目撃した女性は、

「すみません。うちの猫が――」

だがこの瞬間、彼女は自分が下着姿であることに気づいた。

「し、失礼しました。その子、うちの猫なんです。すぐ引き取りますから」

女性は真っ赤になりながら、上からパーカーを着ただけの格好で戻ってくる。家の中で猫が怪我をしたらまずい。だが夜中に女性を部屋に入れるのも、と思う。

「俺が捕まえてきます。少し待っててください」

だから俺は猫を捕まえようとしたが、無理だった。全く捕まらない。猫はこんなにも素早いのか。仕方ないから女性を呼んで捕まえてもらうことにしたが、女性相手だと全く抵抗しない。こうして猫はすんなり捕まった。

「ご迷惑をおかけしました。後日、ちゃんとお礼をさせてくださいね」

女性はそう言って、その日は部屋に戻った。

翌日、女性はお菓子を持って訪ねてきた。猫が何か壊してないかを確認するため、俺は彼女を部屋に入れてお茶をすることになる。昨日家に入れたから、正直あまり抵抗はなかった。

女性の名前はレナさん。大学生で、この猫の飼い主だ。大きなショルダーバッグを持っているから、おそらくこの後勉強しに行くのだろう。

「実は昨日、ベランダから猫が飛び出して。それで夜に泣き声が聞こえたから、思わずあんな格好で出てきちゃいました」

レナさんは恥ずかしそうに口にする。

「あの服、猫が引っかいてボロボロだったんです。だから見られて余計恥ずかしかった」

「猫がいると色々大変ですね」

「猫は爪とぎという形であちこち引っかくんです。服でも引っかくらしいけど、その都度買うとお金がかかるから、誰とも会わない時に着てるんです」

「そうだ。本当にご迷惑をおかけしました」

「気にしてませんよ。猫を大事にしてあげてください」

レナさんは再度お礼を言って立ち上がった。しかしその時だ。足元に置かれていたバッグが倒れてしまい、中の書類が溢れてしまった。

「大丈夫ですか?」

だめ、とでも言うように、慌てて書類を集めようとする俺をレナさんは静止する。しかし俺は見てしまった。書類は大学の追試を告げるもの。しかも一つや二つではない。正直、単位がかなり危ういと思えるほどの数だ。

「見ましたか?」

「はい。すみません」

俺は素直に謝る。レナさんは昨日下着姿を見られた時よりも真っ赤になってしまった。

「みんな言うんです。大学なんて普通に講義を受けていたら楽勝だって。でも無理なんです。私、頭が悪いから」

レナさんはその場に座り込んでしまう。成績は相当悪く、卒業どころか進級すら危ういという。さらに小さい頃から成績が悪いことを馬鹿にされたせいで、トラウマも抱えているようだ。

「あの、よかったら俺が勉強を教えましょうか」

「いや、そんな――」

「俺も同じ大学出身でさ、追試になってる講義も受けてたから」

「本当ですか?」

すごい偶然もあるものだ。レナさんは俺と同じ大学に通っていた。つまり俺の後輩なのだ。レナさんは俺の提案に飛びついた。これまでも友人から勉強を教えられていたが、何度も何度も同じ箇所を間違えるから、呆れられてしまったらしい。

「俺はまあ大学の成績は良かったし、科目によってコツもあるんです。そういうのを教えたらなんとかなるんじゃないかな」

いうわけで、俺とレナさんは毎週土曜に勉強会を開くようになった。あんな追試地獄を見てしまうと、さすがに見捨てられない。俺は仕事が終わってから夕飯を買って帰る。だから少し帰りが遅い。だから休日の土曜にしようと思った次第だが。

レナさんは俺の想像をはるかに超えていた。一体何をどうすればそれに行きつくのか分からない回答を連発するのである。正直週一の勉強会では到底間に合わない。そこで火曜と木曜にさらに追加の勉強会を開くことにした。それもレナさんの家でだ。

「勉強会のお礼です。夕飯を作らせてください」

まあ、そんな提案もあったわけだが、人に教えるということは己の勉強にもなる。俺は分かりにくそうな問題を先回りして、理解しやすいようレナさんに伝える努力をした。レナさんも本人なりに一生懸命頑張っていた。だから少しずつ成績を上げていく。

一方、俺も周囲を見て行動するということが身についた。些細なミスが減り、毎日怒鳴られなくなった。つまり仕事面でも辛いことが少なくなったのだ。

半年後、レナさんは、

「やりました! 私、追試がなくなりました!」

と喜んでいた。彼女はようやく追試地獄から解放されたのだ。半年の勉強で、抗議の内容を理解することができるようになった。

そんなレナさんにも、俺の助けは必要ない。寂しく感じるのは事実だが、ここは彼女の成長を素直に喜ぶのが筋だ。

「良かったですね。本当に頑張ったと思います。また分からないことがあったら、いつでも言ってください」

「はい、ありがとうございます」

勉強会はこうして終わりとなった。だが半年も続けた習慣がすぐなくなるわけでもない。この後も俺はしばしばレナさんの夕食を食べたし、俺から食事に誘うこともあった。色々と人生相談もしていたからだ。

こんな風にして時が過ぎ、レナさんは無事に進級する。今度、進級祝いを何かプレゼントしようか。そんなことを考えながら出社した時だ。俺のデスクに何かが置かれていた。書類だ。それも普通の書類ではない。人事異動。しかも社長補佐。そんなもの全く身に覚えがない。だから俺は困惑してしまった。

「社長がお呼びだ」

俺の肩を叩いた上司は、ついてこいと命じる。もう俺は心臓が飛び出しそうだった。何かやったのだろうか。思考を巡らせてみても、何ひとつ心当たりがない。

社長室に入ってみると、そこには社長以外の人たちもいた。俺を呼んだのはこの人たちのようだ。

「急に呼び出してすまない。こちらは取引相手の社長ご夫婦なんだが」

社長に紹介されたので、俺は頭を下げる。そこで、ふと思った。このご夫婦の苗字はレナさんと同じ。

促されるままソファーに座ると、ご夫婦は穏やかな微笑みを送ってきた。

「初めまして。私たちは会社の――いや、肩書きは置いておこうか。今日は一人の親として、君にお礼とお願いをしに来たんだ」

旦那さんの方は早速そう言う。全く話が読めないから、俺は正直困惑していた。

「君が勉強を教えていたレナは、うちの娘なんだ。君が面倒を見てくれたおかげで進級できたと聞いた。本当にありがとう」

「とんでもないです。俺は――レナさん本人の努力ですから」

続ける。驚くべきことに、レナさんは社長令嬢だったのだ。そんな話は一切聞いていないから、驚くしかない。旦那さん曰く、彼女にもプライドがあって、親に甘えず一人暮らしを始めたそうだ。

「娘から君の話を聞いてね、是非俺が言いたかった。そして大変申し訳ないのだが、どうか娘の勉強をこれからも見てやってくれないか」

そして二人は深々と頭を下げた。

「いや、やめてください。俺みたいな平社員にそんなことをされても――」

何度も俺は「やめてください」と訴えて、ようやく二人は頭をあげてくれた。

レナさんは昔から本当に成績が悪かったそうだ。今まで色々な人から勉強を教えられたが、成果が出たのはどうやら俺だけのようだ。レナさんは俺を信頼している。そして俺が社長補佐という人事を言い渡されたのは、単純にその方が仕事を調整しやすいからだ。至極当然の話だ。うちの社長は優秀だから、補佐なんて必要ない。ただこれからは社長の一言で、俺はすぐレナさんのところに行ける。もはや俺に拒否権はない。

しかし、なぜそこまで社長は動いたのだろうか。それだけ大事な取引なのか。

「こいつとは昔からの幼馴染みでね、いわゆる親友というやつだ。もちろんレナのことも小さい頃から知っている。あの子の成績の悪さには、私も同じくらい頭を抱えたものだよ」

社長は俺の疑問を察して教えてくれた。レナさんが高校生の頃は、社長が勉強を見ていたそうだ。それで高校にはなんとか合格できたが、その後、例の追試地獄に陥ってしまったのだろう。

部署が変わっても、俺には今まで通り給料が支払われる。そう考えると俺には得しかない。だが、同時に俺は権力を持った大人の怖さも噛み締めてしまったが――

こんなわけで俺は、レナさんの面倒を親と会社公認で見ることになった。彼女の学力は多少ましになったとはいえ、正直まだまだ気が抜けない。この証拠に、進級後に新しく受けた講義で早速追試を食らったそうだ。

「またよろしくお願いいたします」

「こ、こちらこそ」

レナさんは気まずそうだ。だが俺は、レナさんとの繋がりが持てて嬉しかった。こうして俺はレナさんを支え続けた。そしていつの間にか、レナさんは俺の奥さんになっている。人生何があるかわからない。まさか初対面で下着姿を見てしまった大学生が奥さんになるとは。

ただ、レナさんはあの時の追試の書類を見たことを、今でも根に持っているようだ。

「あの時の責任は取ってくださいね」

だからそんな風に可愛く勉強のお願いもしてくる。今の勉強は学力ではなく、ビジネスマナーについてだ。社長も喜んでいた。あのレナちゃんがここまで成長するなんて、と。

社長は一人で会社を立ち上げ、今もなお成長する企業にした。素晴らしい手腕の持ち主だが、その社長が頭を抱えるレベルの成績の悪さだったのだ。俺は今でもレナさんの過去の成績は知らない。だが、これは知らない方が良さそうだ。

俺は今、幸せだ。振り返ってみると、俺がレナさんと関わるようになったのは、猫が俺の部屋に入ったからだ。俺の部屋に来てくれた猫には感謝しないといけない。だが俺たちの恋のキューピッドは、今日もお日様の下で丸くなっている。

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