十年前、義父が脳梗塞で倒れた。それからずっと、私は仕事を辞め、一人で彼の介護を担ってきた。その日もいつものように義父をベッドに寝かせた後、夫の響きが帰宅してきた。ただいまの声を聞き、夕食を温めようとしたその時、視界が急に激しく揺れ、吐き気を感じた。立っていられず、リビングの床に倒れ込む。吐き気を必死にこらえて響きに手を伸ばすが、響きはそれを一瞥して告げた。
「毛病はいいから、生け物とは離婚で」
痛みも悔しさも悲しみも、全てが遠いていく。代わりに胸の奥深くで何かが音を立てて切れた。マジでありがとう。響きの顔から見るみる血の気が引いていく。脅しのつもりで放った言葉が、まさか感謝で帰ってくるとは思ってもいなかったのだろう。十年間ずっと我慢してきた。黙って耐えてきた。でも、あの一言が最後の一滴だったのだ。コップから溢れた水は、もう元には戻せない。
私の名前は平塚長月。元介護福祉士で、今年で五十六歳になる。朝五時、目覚まし時計が鳴る前に目が覚める。もう十年近く、この時間に体が反応するようになっていて、アラームは保険のようなものだ。布団から出ると、腰に鈍い痛みが走った。昨日、無理な姿勢を取ったせいだろう。もう何年も前から、消毒液の匂いが肌に染みついている。洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見つめた。五十六歳。目の下のくまが濃くなり、頬の辺りがこけてきたように感じる。
台所に立ち、まず義父の朝食の準備に取りかかった。脳梗塞の後遺症で右半身に麻痺が残る義父には、飲み込みやすい柔らかさに調理した食事が必要だ。白がゆを炊き、ほうれん草のおひたしを細かく刻み、卵焼きはふわふわに仕上げる。かつて施設で働いていた頃に身につけた調理技術が、長い年月を経ても、今も私の手を自然に動かしていた。六時になると義父の部屋に向かう。平塚強し、八十二歳。かつては大工の親方として現場を仕切り、職人たちから恐れられた男である。けれども、脳梗塞に倒れてからは、着替え一つにも人の手が必要になった。
「お父さん、おはようございます。今日もいい天気ですよ」
義父の部屋の障子を開けると朝日が差し込んで、畳が金色に染まっている。彼はすでに目を覚ましていて、左手で布団の端を握りしめていた。右半身が動かないため、寝返りを打つのも一苦労なのだ。
「おう」
短い返事。口下手な義父にとっては、この一言が「おはよう」であり「ありがとう」であることを、長い年月が私に教えてくれた。ベッドの柵を下ろし、まず体勢を整える。右腕を優しく支えながら上体を起こし、足をベッドの端に下ろす。パジャマのボタンを外し、洗面器用の温かいタオルで体を拭いていく。肌の状態を確認しながら、床ずれができていないかチェックするのも日課だ。介護福祉士としての観察眼は、こういう場面でこそ力を発揮する。
着替えを済ませ、車椅子に移乗させる。体重六十キロの義父を支えるのは、五十六歳の女の体にはかなりの負担だが、移乗の正しい技術を知っているからこそ、腰への負担を最小限に抑えられる。とはいえ、最近は右膝にも痛みが出始めていて、体の悲鳴を無視し続けるのにも限界を感じ始めていた。食卓についた義父の前に朝食を並べる。白がゆ、おひたし、卵焼き、味噌汁。一つ一つ、義父が左手で食べやすいように配置を工夫した。スプーンを持つ左手を震わせながらも、必死に口元に運ぼうとする姿を見守りながら、時折そっと手を添える。
「うまい」
ぽつりと漏れた一言に、疲れが少しだけ柔らぐ気がした。この人のためにもう十年も年月が流れたのだ。十年前、義父が脳梗塞で倒れた時、私はまだ介護施設で働いていた。当時は義母も健在で、二人で義父の世話をする予定だったけれど、八年前に義母が心筋梗塞で突然旅立ってからは、全てが私一人の肩にのしかかってきたのだ。夫の響きは「自分は仕事があるのだから」と言い放ち、義父のことは任せたきり、それきり介護に関わろうとしない。施設を辞め、在宅介護に専念する決断をしたのは私自身だ。介護保険の訪問介護サービスも利用しているが、週に三回、一回あたり一時間半では到底足りない。朝の起床介助から夜の就寝介助まで、一日のほとんどを義父のケアに費やしている。
朝食の片付けを終え、義父をリビングに移動させてテレビをつける。午前中のうちにリハビリの時間を設けているのも、介護の専門知識に基づいた判断だ。左半身の筋力を維持するために、簡単な運動を毎日続けることが重要なのである。義父の左手を取り、指の運動を一緒に行う。一回、二回、三回。義父の表情は真剣そのもので、不自由な体でも懸命にリハビリに取り組んでいた。
食事介助、入浴介助、午後の散歩の付き添い、おやつ、夕方の入浴介助、夕食の準備と介助、就寝準備。一日の流れはハンコで押したように同じだが、義父の体調は日によって異なるから、気が抜ける瞬間などほとんどない。特に入浴介助は体力の消耗が激しかった。浴室は湿気と熱気でむせ返るようになり、義父の体を支えながら洗髪し、体を洗い、湯舟に入れる。六十キロの体重を両腕で支え、滑りやすいタイルの上で踏ん張る膝がきしむ。入浴後は義父の肌を丁寧に拭き、保湿クリームを塗り、着替えを手伝う。この一連の作業だけで四十分以上かかるのだが、響きはその間ずっとリビングでテレビを見ている。浴室から漏れる介助の音すら、耳に入っていないのだろう。
月に一度の通院日はさらに大変だった。車椅子を車に積み込み、義父を助手席に移乗させ、病院の駐車場から外来受付まで車椅子を押していく。待合室で一時間、二時間と順番を待ち、診察を受けて薬局で薬を受け取る。往復の運転を含めれば半日仕事である。その間の家事は全て後回しになり、帰宅後は倍の忙しさが待っていた。
夜の八時を過ぎると、ようやく自分の時間が生まれる。しかし、それは本当の意味での自由時間ではない。義父の排泄介助は夜中にも発生するため、深い眠りにつくことができないのだ。夜間用のオムツを使用しているが、義父は自尊心の高い人で、オムツが濡れると毎回ナースコールを鳴らしてくれる。その度に起き上がり、着替えを手伝い、新しいシーツに取り替える。週に三回は夜中に起こされるため、慢性的な睡眠不足が体を蝕んでいた。そんな日々が続いているのだから、体中がきしむように疲れ果てていて、食事を作る気力すら残っていないことも多い。冷蔵庫の残りで適当に済ませ、風呂に浸かる。湯舟の中でふと自分の手を見た。荒れた指先、浮き出た血管。介護用の手袋をしていても、消毒液やお湯で肌はすっかり荒れてしまっている。
午後九時を回った頃、玄関の鍵が開く音がした。響きが帰ってきたのだ。
「おお、飯は」
リビングのソファーに座り込み、ネクタイを緩めながらテレビのリモコンに手を伸ばす。靴も脱ぎっぱなしで、スーツの上着はその辺に放り投げてある。
「冷蔵庫にお弁当があります。温めますか?」
「弁当か。たまには手の込んだもん作れよ。一日中家にいるんだから、それぐらいできるだろう」
彼の言葉が小さな棘のように胸に刺さった。朝五時から夜八時まで、ほぼ休みなく義父の介護をしている日常を、この人は「家にいる」の一言で片付けてしまう。けれど、反論する気力すら残っていない。黙って弁当をレンジに入れ、温め終わるのを待つ間に洗い物を済ませた。
「そういえば、道代が来月あたり顔出すって言ってたぞ。親父の様子見にな」
義妹の道代は月に一度ほど電話をよこすが、実際に来るのは三ヶ月に一度がせいぜいだ。来たところで義父の顔を三十分ほど見て、お茶を飲んで帰るだけだ。この前の電話でも道代は言っていた。「お姉さんがいてくれるから安心ね。私も子供の受験もあるし、お父さんのことまで手が回らないの」と。それはまるで、自分には責任がないかのような口ぶりだった。
カレンダーに目をやると、来週は義父の定期検診の日だった。予約の確認をしなければ。車椅子のタイヤの空気圧もチェックしておく必要がある。リハビリの先生との打ち合わせもある。やることはいつだって尽きない。ベッドに横になると、腰から背中にかけてじわりと痛みが広がった。目を閉じると、明日もまた同じ朝が来ることが分かっている。五時に起きて、義父を起こして、着替えさせて、食事を作って。それを繰り返す日々が、あとどれだけ続くのだろう。義父の部屋からかすかな物音が聞こえた。耳を澄ませて様子を伺い、大丈夫だと判断してから、ようやく目を閉じる。介護が始まってから、熟睡できた夜は片手で数えられるほどしかない。
異変が起きたのは、義父の入浴介助をしている最中のことだ。浴室の湯気の中で義父の背中を洗っていた時、突然視界がぐらりと傾いた。足元から力が抜けていくような感覚に襲われ、思わず浴室の壁に手をついた。心臓がドクドクと不規則に脈打ち、耳の奥でキーンという高い音が鳴り響く。
「長月?」
義父が振り向こうとして、バランスを崩した。その瞬間、体の奥から湧き上がる使命感だけが私を動かした。まず義父の体を支え、シャワーチェアに座らせ、浴室の手すりをしっかり握らせる。そこまでやってから、自分の足がもう限界だと悟った。浴室のタイルの冷たさを背中に感じながら、壁に手をついてずるずると座り込んだ。視界が暗くなったり明るくなったりを繰り返し、自分の呼吸がやけに遠く聞こえる。
「おい、大丈夫か?おい」
義父の声が遠くから響く。左手で必死に手すりを掴みながら私の方を見ようとしている義父の姿が、ぼやけた視界の端に映った。どれくらいの時間が経ったのか、気がつくと救急車のサイレンが聞こえていた。隣家の主婦が異変に気づき、窓から声をかけてくれたらしい。浴室で座り込んだまま動けなくなっている私と、シャワーチェアの上で「嫁が倒れた」と叫び続ける義父を発見して、すぐに一一九番に通報してくれたのだ。
病院のベッドの上で目を覚ました時、白い天井がぼんやりと見えた。腕には点滴の針が刺されていて、指先には酸素飽和度を測るクリップが挟まっている。消毒液の匂いが鼻をつき、廊下から看護師の足音が聞こえる。ここは自宅ではない。義父の世話をしなくていい場所。その事実に気づいた瞬間、不謹慎にも「楽だ」と感じてしまった自分に驚いた。
白髪の男性医師がカルテを手に淡々と説明を始めた。起立性調節障害による自律神経失調症。慢性的な鉄欠乏性貧血。腰椎椎間板ヘルニアの悪化。体が限界に達していたのだと、数値が如実に物語っている。最低でも一週間は入院して安静にするよう告げられ、このまま無理を続ければ次は立ち上がれなくなる可能性もあると、医師は厳しい表情で念を押した。
しかし、一週間も入院したら義父の世話は誰がするのか。食事の準備も、入浴介助も、トイレの介助も、服薬管理も。介護保険の訪問サービスだけでは、とても賄いきれない。震える手で携帯電話を取り出し、響きに電話をかけた。コール音が五回、六回目でようやく繋がる。
「なんだ、今忙しいんだけど」
背後からは居酒屋のような騒がしい声が聞こえる。接待の最中らしい。
「あの、私、病院に運ばれたの。過労で倒れてしまって」
「ああ、病院?まあ、大したことないだろうねえ。大丈夫なのか、親父は」
心配してくれたのかと一瞬だけ思ったが、問いかけの矛先は私ではなく義父に向いていた。倒れた妻よりも、介護の担い手が欠けることの方が気がかりなのだ。
「お父さんは隣の奥さんが見てくれています。でも、一週間は入院が必要だと」
「一週間も?困るな。まあ、いいや。明日行くよ。今は接待中だからさ」
電話が切れた後、しばらく携帯を握ったまま天井を見つめていた。点滴の滴が一滴ずつ落ちていく音だけが、静かな病室に響いている。隣家の奥さんが気を利かせてくれて、義父には夕食と就寝の介助をしてくれたという連絡が入った。血のつながりもない隣人が義父の世話を買って出てくれたのに、血を分けた響きは接待の席から動こうともしない。その事実が、何よりも如実にこの家庭の歪みを物語っている。
点滴の針が繋がれた腕を見つめながら、十年間の日々を反芻した。最初の二年は義母と分担していたから、まだ息をつく時間があった。義母がいなくなってからの八年間は、文字通り休む暇のない毎日だった。年末年始もお盆も、自分の誕生日も、全てが介護の日常に塗りつぶされている。最後に友人と食事に行ったのはいつだったか、もう思い出せなかった。たった一人で義父の介護を背負い続けてきた結果が、この病室のベッドの上なのだ。
入院二日目の午後、響きがようやく病室に現れた。手ぶらで、見舞いの果物も持っていない。パイプ椅子に腰かけると、開口一番こう言った。
「退院できるんだろうな。親父の飯、昨日からコンビニ弁当なんだぞ。隣の奥さんにも迷惑かけてるし、早く帰ってこいよ」
病状を聞くでもなく、体調を気遣うでもない。この人にとって私は、介護要員でしかないのだと改めて突きつけられた気がした。
「先生からは最低一週間と言われています。体がかなり限界だったみたいで」
「一週間?って、その間親父はどうすんだよ。ショートステイが使えないのか?」
介護保険のサービスについて、響きがまともに話題にしたのはこれが初めてだ。これまでずっと、ケアプランの作成も、ケアマネージャーとの打ち合わせも、全て私に丸投げしていたくせに、困った時だけ知ったような顔をする。
「急なショートステイは空きがないことが多いんです。ケアマネージャーに相談してみますが、確約はできません」
「じゃあ、頼むわ。俺は仕事で忙しいんだ。お前と違って、生け物じゃないからな。あ、退院したらすぐ家に戻れよ」
滞在時間はわずか十五分。響きは病室を出ていき、廊下に革靴の足音が遠ざかっていく。ケアマネージャーに連絡を取り、なんとか義父のショートステイ先を確保することができた。やはり急なこともあって、三泊四日が限界だった。その間に退院できなければ、また別の手段を考えなければならない。入院しているのに、頭の中は介護のスケジュール管理でいっぱいだった。
入院三日目の夕方、道代に電話をかけた。せめて何日かでもいいから、義父の様子を見に行って欲しいという切実な頼みである。
「え、急に言われても困るわ。うちも子供の塾の送り迎えがあるし、パートも休めないし。そもそも、お父さんの介護はお姉さんの仕事でしょ。長男の嫁なんだから」
「長男の嫁」。その言葉は何度聞いても、鋭い刃のように心をえぐる。道代自身も平塚家の娘であり、義父の実の子供だにも関わらず、介護の責任を全て嫁に押し付けてはばからない神経が、私には理解できなかった。
「それにさ、お姉さんって元々介護の仕事してたんだから、慣れてるでしょ。プロなんだからさ」
プロだと言うなら、給料を払ってほしい。プロなのに無料でいいという理屈は、どこの世界にも通用しない。けれど、今は言い返す体力もなく、諦めて電話を切った。病室の窓から外を眺めた。秋の空は高く澄んでいて、病院の裏手にある並木道がほんのりと色づいている。あの木々は毎年、誰に気づかれなくても黙って葉を染め、黙って落としていくのだろう。自分もずっとそうだったのかもしれない。誰にも気づかれないまま、静かに擦り切れてきたのだ。
夜、天井を見つめながら考えた。このまま退院して、あの生活に戻るのか。五年後の自分は、十年後の自分は、まだ立っていられるのだろうか。四日目、思いがけない来客があった。高校時代からの親友、西川誠子である。救急車で運ばれたことを噂で聞き、心配になって会いに来てくれたらしい。誠子は花束とゼリーの詰め合わせを抱えて、ベッドサイドの椅子にどかりと座った。
「顔色、ひどいわね。もうちょっと早く倒れてくれたら、もっと早く来れたのに」
皮肉なのか心配しているのか分からない物言いだが、これが誠子の優しさだ。自身もかつて離婚を経験し、女手一つで息子を育て上げた彼女には、甘い慰めよりも率直な言葉が似合っていた。私はこれまでの出来事をかいつまんで誠子に話した。義父の介護、夫の無関心、義妹の態度。話が進むにつれ、誠子の顔がどんどん暗くなる。
「あんた、もう十年よ。ずっと一人で義父さんの面倒を見て、旦那は知らん顔、義妹は口だけ。それで倒れて入院して、旦那の第一声が『いつ退院できるんだ』でしょう。返す言葉もないわね」
返す言葉がなかった。誠子の言葉は、自分でも薄々気づいていたのに目を背けてきた現実を、容赦なく突きつけてくる。
「自分の体を壊してまで尽くす義理が、本当にあるの?そもそも、あんたが倒れたら誰が困ると思う?お父さんよ。あんたが元気でいることが、一番の介護なの」
誠子の言葉が胸の奥深くに沈んでいく。
「でも、お父さんは悪くないの。あの人は感謝してくれてる。口には出さないけど、分かるのよ」
「それは分かってる。でもね、感謝してくれる人のために身を滅ぼしたら、意味がないのよ」
見舞いの帰り際、誠子はベッドの横に小さなメモを置いていった。「困ったら連絡して。力になれることがあるから」。走り書きされた文字の下に、電話番号が書かれている。
退院の日が来た。一週間の入院で体はいくらか回復したけれど、医師からは根本的な生活の見直しを強く勧められている。このまま同じ生活を続ければ、次はもっと深刻な事態を招くと繰り返し念を押された。入院中、一つだけ救いがあった。義父の介護日誌をつける習慣が、ここでも役に立ったのだ。病室のベッドの上で、自分自身の体の変化を記録する日誌をつけ始めた。食事の量、睡眠時間、体温、血圧。介護者としてではなく患者として記録をつけることで、自分の体がどれほど蝕まれていたのかを客観的に知ることができた。退院後にこの記録を見返した時、長い年月の代償の大きさに改めて震えたものだ。
病院の玄関で迎えの車を待った。響きに退院時間を伝えてあったが、返信はなかった。三十分待っても現れないため、自分でタクシーを呼んだ。退院の荷物を抱えて一人でタクシーに乗り込む後ろ姿を、たまたま通りかかった看護師が心配そうに見送っていた。家に帰ると、玄関には響きの脱ぎ散らかした靴が三足も転がっていた。ショートステイから戻った義父は寝室のベッドにいたが、部屋の中は薄暗く、カーテンも開けられていない。
「お父さん、ただいま帰りました」
義父の顔を見た瞬間、介護福祉士としての目が異変を察知した。頬がこけ、唇が乾燥し、目に力がない。施設での食事が口に合わなかったのか、明らかに痩せている。左手が私の腕を掴み、節だらけの指先に力がこもった。
「帰ってきたか」
声の震えから、義父がどれほど不安だったかが伝わってくる。毎日顔を合わせていた人間が突然いなくなる恐怖は、要介護の高齢者にとって想像を絶するものだろう。義父の口腔ケアを済ませ、水分補給をさせ、着替えを手伝う。体が悲鳴を上げていたが、目の前にいる彼を放っておくことなどできなかった。
響きが帰宅したのは夜の十時過ぎである。リビングに入ってくるなり、まるで私が長期旅行から帰ってきたかのような態度で言い放った。
「ああ、退院したのか。もう大丈夫だろう。ショートステイの分、結構金がかかったぞ。今後は倒れないでくれよ。迷惑だからな」
長い年月、自分の人生を犠牲にして義父の介護を続けてきた妻に向かって、「倒れたことが迷惑だ」というのか。怒りよりも、深い虚しさが胸の底に広がっていった。
翌日から、退院直後の体に鞭打つようにして介護を再開した。朝五時の起床介助、義父の着替え、朝食の準備と介助。体が重く、指先の感覚が鈍い。腰の痛みは入院前よりも和らいだものの、めまいの発作がいつ来るか分からない不安を抱えながらの毎日だ。退院して三日後の夕方、それは起きた。夕食の支度をしていた時、ガスコンロの火をつけた直後に強烈なめまいに襲われたのだ。目の前が真っ暗になり、手に持っていた味噌汁の鍋を取り落とした。膝から力が抜け、台所の床にしゃがみ込む。味噌汁が床に広がっていく様を、焦点の合わない目でぼんやりと見つめた。鍋の蓋がカランと音を立てて転がっていく。体が動かない。立ち上がれない。義父の部屋からナースコールの音が聞こえている。異変を感じ取ったのだろう。義父が鳴らしているのだ。答えなければ。そう思っても、体が言うことを聞かなかった。
どれほどの時間が経ったのか、台所の床に横たわったまま天井を見上げていた。蛍光灯の白い光が目に痛い。医師の言葉が脳裏をよぎる。「このまま無理を続ければ、次は立ち上がれなくなるかもしれない」。あの警告が、冷たい床の上で重く響く。その「次」が、もう来てしまったのだろう。こんな状態であとどれだけ介護を続けられるだろう。自分が本当に動けなくなったら、義父はどうなるのか。響きは助けてくれない。道代も来ない。行き詰まった現実が、冷たい床の上で容赦なく突きつけられる。
しばらくしてどうにか立ち上がり、こぼれた味噌汁を拭いた。雑巾を絞る手に力が入らない。義父の部屋に向かい「遅くなってごめんなさい」と声をかけると、彼は黙って私の顔を見つめた。何も言わないが、心配の色が滲んでいるのが分かる。この人はいつも、自分の不自由さよりも私のことを気にかけてくれている。義父の夕食を簡単に済ませ、就寝の介助を終えてから、自分の布団に倒れ込んだ。全身が痛いけれど、体の痛みよりも心の痛みの方がずっと深かった。このままでは、共倒れになる。
夜、誠子に電話をかけた。震える声で今日あったことを伝えると、誠子は少し黙ってから静かに口を開いた。
「長月、あんた、離婚って考えたことある?」
離婚を考えたことがないといえば、嘘になる。夜中に一人で義父のオムツを変えながら涙をこらえていた夜。響きの「怠け者」という言葉を背中に受けながら洗い物をしていた夕方。道代の「長男の嫁なんだから」という声を電話越しに聞きながら拳を握りしめていた時。何度も頭をよぎった二文字だ。だが、義父を見捨てることになるのではという恐れが、いつもその思考を押し戻していた。
「離婚の相談に乗ってくれる弁護士さんが、知り合いにいるの。介護で苦しんでいる奥さんの案件を専門にしている人。一度だけでも、話を聞いてみない?」
答えはすぐに出せなかった。しかし、台所の床で動けなくなった自分の姿が瞼の裏に焼きついて離れない。このまま同じ日々を続けていたら、本当に壊れてしまうかもしれない。
「話だけなら」
気づけば、かすれた声でそう答えていた。自分の口から出た言葉なのに、遠い場所から聞こえてくるような不思議な感覚だった。誠子が紹介してくれたのは、豆田瀬という若い弁護士だ。若いと言っても四十五歳、キャリアは十分である。駅前の雑居ビルの三階にある事務所は小さいが、壁一面に法律関係の書籍がぎっしりと並び、清潔で落ち着いた空間だった。
「平塚さん、お話は西川さんから伺っています。お一人でお父様の在宅介護をずっと続けてこられたんですね」
穏やかだが芯のある声。依頼人の目をまっすぐに見て話す姿勢に、誠実さがにじみ出ている。
「はい。でも、離婚したいのかどうか、自分でもまだ分からなくて。ただ、このままでは体が持たないのは確かです」
「まず、ご自身の状況を正しく知ることから始めましょう。平塚さんは元介護福祉士でいらっしゃいますよね。ご自身の仕事の価値をご存知ですか?」
施設で働いていた頃は当然ながら給与をもらっていたけれど、義父の在宅介護には一切の対価も発生していない。
「在宅介護の経済的価値は、実は非常に高いんです。身体介護の訪問介護報酬を基準にすると、一日八時間の介護は約二万四千円に相当します。年間で約六百万円、十年間で約六千万円です」
その数字に声を失った。毎日当たり前のように続けてきた介護が、金額にすればそれほどの価値を持つのか。自分の労働がこれほど過小評価されていた事実に呆然とする。響きの年収よりも高い金額を、無償で提供し続けていたことになる。営業部長として会社に評価されている彼の稼ぎよりも、「怠け者」と罵られていた妻の仕事の方が経済的価値が高い。その事実は、長い間心の底に沈殿していた悔しさを一気に浮かび上がらせた。
「離婚するかどうかは、もちろん平塚さんご自身が決めることです。ですが、もし離婚を選択される場合、介護貢献は財産分与に大きく反映されます。焦る必要はありません」
瀬田の言葉が、長い間凝り固まっていた思考を少しずつほぐしていく。介護は嫁の義務ではなく労働であり、そこには正当な対価が存在するのだと、初めて明確に認識した瞬間だった。
「まずはお手元にある介護記録や家計の記録を整理してみてください。介護日誌、通院記録、ケアプランの控え、領収書類。これらがいずれ強力な証拠になります」
瀬田は最後にこう付け加えた。「平塚さん、覚えていて欲しいことがあります。介護の問題で離婚を考える方は、皆さん最初に罪悪感を口にされます」
やはりそうだろう。私もそれが理由で、離婚には正直迷いがある。彼女はその迷いを見透かしたように、優しく語りかけてきた。
「でも、ご自身を守ることは、お父様を見捨てることではありません。むしろ、平塚さんが元気でいてこそ、お父様の暮らしをより良いものにできるんです」
その言葉が胸の奥の核にそっと触れた。自分を守ることが、義父を守ることにもなる。そんな発想は、ここに来るまで持ったことがなかった。長い介護生活の中で、自分のために何かを考える回路がすっかり錆びついていたのだと、ようやく気がついた。事務所を出ると、秋の風が頬を撫でた。久しぶりに自分の人生を取り戻せるかもしれない。そんな淡い予感が、胸の片隅でひっそりと火を灯していた。
弁護士との面談から数日後の夜のことだった。義父の体位変換を終え廊下を歩いていた時、腰に電気が走るような激痛が広がった。息を飲む間もなく膝が折れ、廊下の壁にぶつかりながらその場にうずくまる。冷たいフローリングの上で痛みに耐えながら呼吸を整えようとしたが、立ち上がることができなかった。背中を壁に預け、足を投げ出したまま目を閉じる。腰から足の先まで、しびれるような痛みが波のように押し寄せてくる。腰椎椎間板ヘルニアが限界を超えたのだ。そこへ玄関のドアが開く音がした。革靴が床を叩く音、ネクタイを引っ張る気配。響きが帰ってきたのだ。
「ただいま。おい、廊下で何やってんだ」
倒れている私を見下ろしながら、響きは呆れたような声を出した。酒の匂いがかすかに漂ってくる。眉をひそめながら腕を組み、まるで床に座り込んだ子供を叱るような目つきだった。
「腰が、動けなくて」
「ああ?またこの前も入院したばっかりだろう。いい加減にしろよ」
響きはため息をつき、靴を脱ぎ散らかしてリビングに向かった。ソファーに座り込み、テレビのリモコンを手に取る。その背中に向かって、私はもう一度声を絞り出した。
「本当に動けないんです。助けて」
「そんなことは知らん。二、三歩もないだろう。さっさと動け」
響きはそれ以上何も言わず、手を差し伸べようともしない。床からようやく起き上がれたのは、響きがすでに寝室に入った後だった。私は腰をさすりながら、ゆっくりと義父の様子を見に行った。いつもなら、そろそろナースコールが鳴ってもおかしくない頃だ。静かにドアを開けると、今日はぐっすりと眠っていて、漏尿などの心配はなさそうだった。私は起こさないように慎重に体位変換をし、寝室に戻った。しかし、横になっても一向に眠りにつけなかった。響きの言葉が頭の中を巡り、胸がバラバラになったような感覚を覚える。長年連れ添った妻に対する言動。自分の親なのに介護に対して無関心を貫く姿勢。どれも到底許せるものではない。本心ではもう離婚をしたい。でも、義父のことはどうするのだろう。離婚をした後、響きが急に介護を始めるとは到底思えない。離婚を選ぶということは、すなわち義父を見捨てるのと同じことだ。堂々巡りをする思考の中、瀬田の言葉が浮かんだ。「ご自身を守ることは、お父様を見捨てることではありません」。自分を犠牲にして、義父の健康を守ることばかりに専念してきたが、私のことは誰が守ってくれるのだろう。これ以上、私を響きのために擦り減らしてもいいのか?答えはノーだ。そうと決まれば、私の選ぶべき道も見えてくる。ただし、響きに対する情も少なからず残っている。もし彼が変わるのであれば、離婚を取りやめても構わない。その方が義父のためにもなるだろう。響きが変わるなんてありもしないが、私はそのことを心に留めつつ、離婚準備を進めることにした。
翌朝から、私の生活は一変した。介護の日々に費やしていた全ての時間と気力が、新たな目的に向かって動き始めたのだ。朝五時に目を覚ました時、いつもと同じ天井が見えた。だが胸の中を流れる空気が、昨日までとはまるで違う。義父の朝食を作りながら、自分の手の動きがやけに軽いことに気がついた。体の痛みは相変わらずだが、心に灯った小さな火が疲労感も少しだけ遠ざけている。義父にいつも通り食事を運び、着替えを手伝い、リハビリの時間を設ける。彼の前では何も変わったそぶりを見せなかった。まだ話すべき時ではないと思ったのだ。
私はまず、離婚準備として膨大な介護記録を押し入れの奥から引っ張り出した。毎日欠かさずつけていた介護日誌は、ダンボール箱三つ分に膨れ上がっている。通院の領収書、薬の処方記録、ケアプランの控え、介護保険の利用明細。介護の専門家として記録の重要性を知っていたからこそ、一枚とも捨てずに保管してあった。ダイニングテーブルの上に資料を広げ、項目ごとに整理していく。介護福祉士としての知識が、ここで力を発揮した。訪問介護の報酬単価を基準に、自分が行ってきた介護の内容を項目ごとに分類し、経済的価値を算出する。身体介護としては起床、就寝介助、着替え、入浴介助、排泄介助、体位変換、移乗介助。生活援助には食事の準備、片付け、掃除、洗濯、買い物が含まれる。医療的ケアは服薬管理、通院、付き添い、医師との連携。リハビリ支援としても日常的な機能訓練、歩行訓練の補助を挙げた。一つ一つの項目に費やした時間を積算し、訪問介護の報酬単価を掛け合わせる。電卓を叩く指が、自分でも驚くほど正確に数字を弾き出していった。瀬田の言葉通り、年間約六百万円。長い年月の総額は六千万円近い金額になる。この数字を、響きは知らない。一日中家にいる生け物と罵った妻の労働が年収六百万円に相当するという事実を、彼はまるで理解していないのだ。その数字を見つめながら、不意に涙が溢れてきた。悲しいのではない。この数字が私の十年間を目に見える形にしてくれたことへの、不思議な安堵だった。誰からも認められず、当たり前のように消費されてきた日々に、確かな価値があったのだと数字が証明してくれている。
介護報酬の報告のため、算出根拠を一覧表にまとめた。介護福祉士としての訓練を受けた者が行う身体介護は、素人が行うそれとは報酬単価が異なる。自分の専門性が、皮肉にも離婚の武器になるとは思いもしなかった。家計簿も丹念に見直した。響きの給与明細、ボーナスの支給額、住宅ローンの残高。離婚期間中に分与される共有財産の範囲を把握するために、過去十年分の銀行口座の取引履歴も取り寄せる手続きを進める。さらに退職金の扱い、生命保険の解約返戻金、響き名義で積み立てている投資信託まで洗い出した。資料の整理を進めながら、瀬田とも定期的に連絡を取り合う。瀬田からの助言は具体的で的確だった。
「介護日誌は最も強力な証拠になります。毎日の介護内容と時間が記録されていれば、ご主人が介護に一切関わっていなかったことの裏付けにもなります」
瀬田は続けて、財産分与における介護貢献の法的な位置づけを説明してくれた。民法の規定では、婚姻中に夫婦で築いた財産は原則として二分の一ずつ分けることになるが、特別な貢献があった場合はその割合が変わりうるのだという。「十年間の在宅介護は、十分に特別な貢献に該当します。ご主人側が介護の負担を一切負っていないという事実があれば、財産分与の割合を六対四、場合によっては七対三に持っていくことも可能です」
離婚の準備を進める中で、避けて通れない問題があった。義父のことだ。ある日の午後、義父の昼食の介助を終えた後、私は義父の車椅子の隣に座った。窓の外では、庭の柿の木が実をつけ始めている。義父が好きな柿の季節が、もうすぐやってくる。
「お父さん、お話があります」
義父の左手が膝の上で小さく震えていた。何かを察しているような、怯えているような目で私を見つめている。
「響きさんと、離婚するかもしれません」
長い沈黙が落ちた。庭から小鳥のさえずりが聞こえてくる。義父は何も言わず、ただじっと庭の柿の木を見つめていた。やがて、節だらけの唇がゆっくりと動いた。
「すまなかった」
その声はかすれていたけれど、確かな重みを持っている。
「お前にだけ、苦労をかけた。息子の不甲斐なさは、親の責任だ」
義父の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。口下手で感情を表に出すことが苦手な人が、初めて見せた涙だ。
「お父さんのせいじゃありません。お父さんの介護は、私が好きでやってきたことです」
それは本心だった。義父を憎んだことは一度もない。料理を「うまい」と言ってくれること。リハビリを懸命にこなす姿。庭の花を左手で不器用に摘んで、渡してくれたこと。長い介護生活の中で、義父との間には言葉にできない絆が生まれていた。
「あのバカ息子は、お前がいなくなって初めて分かるだろう」
そう言うと、義父はベッドサイドの引き出しを左手で指さした。
「この中だ」
言われるままに引き出しを開けると、茶色い封筒が一つ入っていた。表には「豆田法律事務所」と印字されている。驚いて義父の顔を見ると、義父は静かに頷いた。
「半年前から、弁護士に相談していた。わしにできることは限られておるが、せめてもの礼だ」
封筒の中身は、遺言書の作成に関する相談記録だった。詳しい内容は記されていなかったが、義父が私のために何かを残そうとしている意思だけは、明確に伝わってくる。私が依頼した弁護士と、義父の弁護士が偶然にも同じ事務所だったことに、運命的なものを感じずにはいられなかった。義父との会話を終えた後、私は寝室に戻り、布団をかぶってしばらく涙を流した。義父が弁護士に相談していたことは、完全に想定外だ。体が不自由で言葉もろくに出ない人が、どうやって弁護士と連絡を取ったのだろう。おそらく、ケアマネージャーかデイサービスのスタッフに協力を仰いだのだ。あの口下手な人が、嫁のために遺言を書きたいと他人に頼む姿を想像しただけで、胸が締めつけられた。
その日の夕食は、義父の好物の肉じゃがを柔らかめに煮た。義父はいつもより少し多く食べ、最後に小さく「うまい」と呟いた。いつもと同じ一言だ。それでも今は、その一言の裏にどれほどの思いが隠されているのかを知っている。義父をベッドに寝かせた後、響きが帰宅してきた。ただいまの声を聞き、夕食を温めようとしたその時、視界が急に激しく揺れ、吐き気を感じた。立っていられず、リビングの床に倒れ込む。幸いうまく倒れたようで、頭に痛みはない。しかし、痛くなるのはここからだった。
「何してる?」
響きは冷たい声で私に声をかけると、ソファーに座りリモコンを手に取った。
「具合が急に悪くなったの。前に入院した時と同じかもしれないわ」
そう言うと、響きは長いため息をついた後、めんどくさそうな顔をした。
「俺に対する当てつけみたいに、辛そうな演技をするなんて、本当に面倒な女だな」
「当てつけなんかじゃありません。本当に具合が悪いの。お願いだから、手を貸してくれない?」
吐き気を必死にこらえて響きに手を伸ばすが、響きはそれを一瞥して告げた。
「毛病はいいから、生け物とは離婚だ」
その言葉が空気を凍りつかせた。一瞬、時間が止まったように感じた。痛みも悔しさも悲しみも、全てが遠いていく。代わりに胸の奥深くで、何かが音を立てて切れた。糸が切れたのか、鎖が外れたのか、それは分からない。ただ、長い間張り詰めていた何かが、ぷつりと途切れた感覚だけが残っている。不思議なことに、声は少し元気を取り戻していた。
「マジでありがとう」
響きがゆっくりと振り返った。テレビのリモコンを持ったまま、信じられないものを見るような目で私を凝視している。
「はあ?」
「離婚してくれるんでしょ?本当に?ありがとう。ずっと待ってたの、その言葉」
響きの顔から、見るみる血の気が引いていく。脅しのつもりで放った言葉が、まさか感謝で帰ってくるとは思ってもいなかったのだろう。
「え?いや、ちょっと待て。別に本気で言ったわけじゃ」
「私は本気よ。明日から、離婚の準備を進めます」
リビングの壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。めまいがまだ少し続いている気がするが、心の中にはこれまでの日々で初めて感じる晴れやかな風が吹いている。十年間ずっと我慢してきた。黙って耐えてきた。でも、あの一言が最後の一滴だったのだ。コップから溢れた水は、もう元には戻せない。響きは呆然としたまま立ち尽くしている。皮肉にも、響き自身が妻を解放する鍵を差し出したのだから。
次の日の朝、響きはどこなくよそよそしく、私の顔を伺っているようだった。それに気づかぬふりをすると、しびれを切らしたように口笛を吹いて出勤していった。私は義父の朝の世話と洗い物を済ませてから、真っ先に誠子に電話をかけた。昨夜のやり取りを報告すると、誠子は一瞬絶句した後、はけたように笑い声をあげる。
「『マジでありがとう』って言ったの?あんた、最高よ。あの天邪鬼な旦那の顔が見たかったわ」
誠子の声に、私もつられて顔が緩む。こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。誠子はひとしきり笑った後、真剣な声でアドバイスしてくれた。
「ここからが肝心よ。感情に任せて動いたら、向こうの思う壺だからね。瀬田先生と連絡を取りながら、着実に準備を進めなさい」
彼女の声には、かつて自分が離婚を経験した者ならではの重みがあった。感情と法律は別物だと、彼女は常々言っていたものだ。一方、響きはまだ事態の深刻さを理解していなかった。響きが帰宅した後、私が資料を整理している姿を見ても「何やってんだ」と一瞥するだけで、寝室に引っ込んでしまう。離婚を本気で切り出した夜のことも、冗談程度にしか受け止めていないようだった。
「お前が出て行くって言っても、行くとこないだろう。実家だって遠いし、金もないのにどうすんだよ」
ある夜、リビングでビールを飲みながらテレビに目を向けたまま、響きは鼻で笑った。彼の中では、私は自分なしでは生きていけない存在なのだろう。長い間に閉じ込めて介護だけをさせてきた結果、私には何の力もないと思い込んでいる。けれども、響きは知らない。瀬田との面談を重ねていることも、介護の経済的価値を算出していることも。ましてや、義父が自ら弁護士に相談していたことなんて、想像もしないだろう。自分の足元で静かに地盤が崩れ始めていることに、彼は少しも気づいていなかった。誠子もまた、裏で着々と動いてくれていた。不動産会社で事務をしている誠子は、長月の予算に合った賃貸物件をリストアップし、内見の段取りまで整えてくれたのだ。駅から徒歩十分、家賃五万八千円。日当たりもいいし、スーパーも近い。
「あんたが新しい生活を始めるのに、ちょうどいい物件よ。保証人のことも心配しなくていいわ。うちの会社から大家さんに話を通してあるから」
「ありがとう、誠子」
お礼を告げると、誠子は私の肩をポンと叩いた。
「あんたの味方は、ちゃんといるのよ」
写真で見たそのアパートは、決して広くはないが清潔で明るい印象だった。ベランダからは小さな公園が見えるらしい。こんな部屋で自分だけの時間を過ごす日が来るのだろうか。想像するだけで、胸の中に温かいものが広がる。三十年間、自分だけの空間を持ったことがなかった。結婚して響きの実家に入り、義父母と同居し、子供すら持てないまま年を重ねてきたのだ。
離婚の準備と並行して、復職のことも考え始めていた。長いブランクがあるとはいえ、介護福祉士の資格は持っている。瀬田の計算によれば、財産分与と慰謝料である程度の資金は確保できるが、いずれは働かなければならないだろう。もう一度社会で自分の力を試してみたいという気持ちが、日に日に強くなっていた。毎晩、響きが寝静まった後の時間が、私にとって最も重要な作戦会議の時間になった。台所のテーブルにノートパソコンを広げ、瀬田から教わった法律用語を調べ、必要な書類のリストを一つずつ潰していく。婚姻費用分担請求書、財産目録、不動産登記の取得申請。法律の世界は介護の世界とはまるで違う言語で動いているけれど、一つ一つ理解していくことで、自分の立場がどれほど強いのかが見えてきた。
ケアマネージャーにも、義父の介護施設への入所についてどのような選択肢があるのかを確認する。特別養護老人ホームは待機者が多く、すぐには入れない。介護老人保健施設やグループホームなど、複数の選択肢を比較検討する必要がある。施設勤務時代の知識が、ここでも役に立った。施設の選び方、入所基準、費用の目安、見学のポイント。かつて施設で働いていた頃の経験が、自分自身の人生を立て直すための道具になるとは、当時は想像もしていなかった。
離婚の準備が少しずつ形になっていく日々の中で、介護は依然として続いている。朝五時の起床介助、義父の世話、三度の食事、入浴介助。体は限界に近いが、最後の責任として、義父のケアだけは手を抜かなかった。彼が安心して施設に移れるよう、引き継ぎの準備も並行して進めていく。義父の主治医にも事情を伝え、施設入所に必要な診断書・情報提供書の作成を依頼した。ケアマネージャーと連携して、義父の心身状態に最も適した施設をいくつか選び出す。実際に足を運ぶことは体力的にできないため、パンフレットや口コミを丹念に調べ上げていく。かつての職場の同僚にも連絡を取り、地元で評判のいい施設の情報を集めた。元同僚の一人が務めているグループホームが候補に上がった時、運命のようなものを感じた。信頼できる人間がいる施設なら、義父も安心できるだろう。
ある夜、全ての書類を揃え終えて台所のテーブルに広げた時、不思議な達成感が胸に広がった。介護記録の束、財産目録、不動産登記簿、給与明細のコピー、介護貢献度の算出表。これだけの量の資料を、一人で準備したのだ。全ては義父と、自分自身の未来のために。誰にも頼れなかった長い年月で培った行動力が、今こそ本当の力を発揮し始めていた。準備は整った。あとは引き金を引くだけだ。
ある朝、響きが出勤する前に、ダイニングテーブルに離婚届を置いた。記入欄が二つ。響きの署名と押印だけが、空白のまま残っている。
「なんだ、これ?」
コーヒーカップを手にしたまま、響きは離婚届を見下ろした。朝食のトーストをかじりかけたままの姿は、うんざりするだけだが、今日は不思議と冷静に観察できた。
「離婚届です。署名と押印をお願いします」
「ああ?お前、まだそんなこと言ってるのか。冗談はよせよ」
鼻で笑いながら離婚届を押しやろうとする響きの前に、瀬田が送った内容証明郵便の写しを並べた。
「冗談ではありません。あなたが署名しないなら、家庭裁判所に離婚調停を申し立てます。弁護士も手配しています」
響きの顔色がさっと変わった。コーヒーカップをテーブルに置く手が、わずかに震えている。
「ちょ、ちょっと待て。弁護士?おい、何を考えてるんだ?」
「十年間、一人でお父さんの介護をしてきました。あなたは一度も手伝わなかった。私が過労で倒れても『毛病だ』と笑い、『生け物だ』と罵った。もう十分です」
「あれは、売り言葉に買い言葉っていうか。本気じゃなかっただろう。大げさなんだよ」
彼は弁解を並べ立てたが、その声は明らかに動揺を含んでいた。テーブルの上の離婚届と内容証明郵便を交互に見つめ、額に汗を浮かべている。響きがうろたえる姿を見るのは、結婚してから初めてのことだ。法律という手の届かない力を前にして、急に足場を失っている。
「調停で済むなら、それが一番早いです。でも、話し合いにならないのであれば、裁判に進みます」
「勝手にしろ。どうせ脅しだろう」
怒鳴りながらリビングを出ていき、乱暴にドアを閉めた。革靴を履く音が廊下に響き、玄関のドアがバタンと閉まる。静寂が戻ったダイニングで、私はテーブルの上の離婚届をそっと引き寄せた。冷めかけたコーヒーの湯気が、かすかに揺れている。テーブルには、響きが飲みかけのカップとかじりかけのトースト、そして離婚届がそのまま残されていた。三十年間の結婚生活が、このテーブルの上に凝縮されているような気がした。けれど、感傷に浸っている暇はない。響きが署名を拒否することは、予想の範囲内だった。瀬田には、すでに調停が不成立に終わった場合の次のステップを確認してある。計画通りに進めるだけだ。
その日の昼、響きから電話が何度もかかってきた。最初は怒鳴り、次はなじり、最後は泣き落とし。「俺が悪かった。やり直そう。お前がいなきゃ困るんだ」。その言葉の裏にあるのは、妻への愛情ではなく、介護の手を失うことへの焦りだ。私がいなくなれば、義父の面倒は誰が見るのか。それだけが響きの関心だったのだ。全ての着信を記録し、翌朝、瀬田にメールで報告した。もう迷いはない。
翌日、瀬田の事務所で正式に離婚調停の申立書を作成した。婚姻費用の分担、財産分与、慰謝料。瀬田は冷静に、けれども力強く申立書の内容を組み立てていく。
「申立書を家庭裁判所に提出すれば、一ヶ月以内に第一回の調定期日が設定されます。ご主人にも裁判所から通知が届きますので、もう逃げることはできません」
義父のショートステイ先を手配し、短期間の入所手続きを進めた。ケアマネージャーと連携して、義父の日常ケアに必要な情報を全て文書にまとめ、施設のスタッフに引き継ぐ準備を整えていく。長年の介護記録があるからこそ、引き継ぎは正確かつ詳細に行うことができた。義父の手を最後に握った時、左手が私の指を力いっぱい握り返してきた。
「元気でな」
口下手な義父の精一杯の言葉。その三文字に込められた感情の深さに、喉の奥が熱くなった。
「お父さんも、体に気をつけてください。施設の人がちゃんと見てくれますから」
荷物をまとめている時、リビングの棚の奥から一枚の写真が出てきた。結婚式の集合写真だ。まだ若かった私と響き、そしてその隣で不器用な笑顔を浮かべる義父母。三十年前のあの日、この家族の中で幸せになれると信じていた自分が、遠い場所にいる他人のように見えた。写真を手に取り、しばらく見つめた後、静かに引き出しに戻す。持っていく荷物には入れなかった。
誠子が見つけたアパートに荷物を運んだのは、柿の葉が色づき始めた頃のことだ。ワンルームの部屋に、ダンボール箱がいくつか積み上がっている。家具は最低限だけれど、窓から差し込む午後の日差しが部屋全体を柔らかく照らしていた。引っ越しを手伝ってくれた誠子が、ダンボールを運び終えて息をつく。
「広くはないけど、あんた一人なら十分よ。何より、自分のためだけに使える空間があるって、すごいことなのよ」
離婚経験のある誠子の言葉には、実感がこもっていた。この六畳一間が、私の新しい人生の出発点になるのだ。
家庭裁判所からの調停の通知が届いた翌日、響きから電話が鳴った。着信画面に表示された名前を見て、一呼吸置いてから応答する。
「おい、お前、本気で調停なんか申し立てやがって。ふざけるなよ。大体な、お前が親父の介護を放棄して逃げたこと、みんな知ってるんだぞ。嫁の義務も果たせないような女が、慰謝料だの財産分与だの、ふざけんな」
怒りを隠そうともしない大声が受話器から溢れ出す。職場のデスクからかけているのか、背後にオフィスの物音が聞こえた。嫁の義務。何度聞いたか分からないその言葉が、もう痛みを伴わないことに、自分でも驚いた。瀬田の言葉がその刃を鈍らせていたのだ。「介護は義務ではなく労働であり、正当な対価が存在するのだ」と。
「響きさん、感情的になっても話は進みません。言いたいことがあるなら、調停の場で伺います」
そこで電話は乱暴に切られた。予想通りの反応ではあったが、これからが本当の戦いになることを、覚悟しなければならない。翌日もその翌日も、響きからの電話は続いた。時間帯を問わず、早朝でも深夜でも構わず鳴り響く着信音に、最初は心臓が跳ねたが、次第に慣れていった。通話は全て録音し、内容をメモに書き起こして瀬田に転送する。冷静さを保つことが、今の自分にできる最大の戦い方だった。響きは電話の中で様々な脅し文句を並べた。「会社の顧問弁護士に相談した。お前が不利になるように持っていく。慰謝料なんか一円も払わない」。瀬田はその度に、冷静な分析を返してくれた。「会社の顧問弁護士が個人の離婚問題に関わることは通常あり得ないし、介護の実績がこれだけ明確な以上、法的に不利になるのは響きの方だと」。
道代からも電話が来たのは、その日の夕方のことだ。
「ちょっとお姉さん、兄から聞いたわよ。離婚調停ですって。それにお父さんをショートステイに放り込んで出て行ったって、どういうつもり?」
一度も介護を手伝わなかった人間が、よくもそんな言葉を吐けるものだ。しかし、ここで感情的になれば、相手の思う壺だ。瀬田から教わった通り、冷静に対応する。
「道代さん、お父さんは施設で専門のスタッフに見てもらっています。私がいつ倒れるか分からない状態で在宅介護を続ける方が、よっぽど危険です」
「でも、お父さんの面倒を見るのは長男の嫁の務めでしょ。うちの母だってそう言ってたわ。それを放り出すなんて、無責任よ」
道代が持ち出す「嫁の務め」論は、すでに法的な根拠がないことを瀬田に確認済みである。民法上、嫁に義両親の介護義務はない。
「道代さん、お父さんの介護義務は実子にあります。つまり、響きさんと道代さんです。嫁には、法的な介護義務はありません」
「何を偉そうに。法律がどうとかじゃなくて、人としての常識の問題よ」
道代は一方的にまくし立てた後、こちらの返答を聞かずに電話を切った。このやり取りも、全て録音している。瀬田の指示で、響きや道代からの通話は全て記録に残すようにしていた。数日後、道代はさらに厄介な行動に出た。親戚中に電話をかけ、長月が義父を見捨てて家を出た、介護放棄をして離婚を突きつけたと触れ回ったのだ。叔母からの電話は特に辛かった。叔母は「義父がかわいそうだ。嫁に来た時の覚悟はどうしたのか」と、涙ながらに説教を続けた。従姉妹からも「道代が泣いて電話してきたけど、本当のところどうなのか」と探るような口調で聞かれる。響きの会社の上司の奥さんからまで連絡が来た時には、道代がどこまで話を広げたのかと背筋が冷たくなった。一つ一つの電話に丁寧に事情を説明する体力は、もう残っていなかった。瀬田の助言に従い、詳しいことは調停で明らかになりますとだけ答え、それ以上の説明は控えた。感情的に反論すれば、それすらも曲解されて伝えられる可能性がある。携帯電話が鳴り止まない日が続き、精神的に激しく消耗していく。誠子だけが、この状況を正確に理解してくれていた。
「道代のやってることは、典型的な印象操作よ。あんたを孤立させて、怯えさせようとしてるの。でもね、法律の前では、親戚の評判なんて何の意味もないわ」
誠子の言葉に、何度救われたか分からない。瀬田も冷静に状況を分析してくれた。
「道代さんのこの行動は、名誉棄損に該当する可能性があります。事実と異なる情報を流布して、平塚さんの社会的評価を低下させている。これも証拠として記録しておきましょう」
不安に押しつぶされそうな時もあったけれど、二人の存在が私に勇気をくれた。一方、響きは弁護士を立ててきた。会社の上司の紹介で、大手事務所の弁護士を雇ったらしい。響きの弁護士は調停で「妻による介護放棄」を争点にしようとしているという情報が、瀬田の元に入った。
「大手事務所だからと言って、怖がる必要はありません。実態に即した証拠が揃っている側が、圧倒的に有利です。先手を打ちましょう。平塚さんの介護記録を、全面的に開示します。長年の記録は、ご主人が介護に一切関わっていなかった何よりの証拠です」
調停に向けて、瀬田は介護記録を時系列順に整理し、介護の経済的価値を示す資料と合わせて、詳細な陳述書面を作成していった。そんな中、響きの側から予想外の主張が飛び出した。
「ご主人側の弁護士から反論書面が届きました。内容は、正直苦笑するしかないものです」
響き側の主張はこうだった。「妻は家事もまともにしていなかった。介護と称して家にこもり、実際にはテレビを見たり昼寝をしたりしているだけだ。介護の経済的価値六千万円は過大評価である」。あまりにも傲岸不遜な内容だ。
「この主張に対して、最も有効な反証があります。実際に響きさんがお父様の介護をやってみた結果です」
響きが自ら介護を試した結果は、悲惨の一言につきた。義父がショートステイから自宅に戻った後、響きは「俺だってできる」と息巻いて、一人で介護を試みたのである。だが、現実は甘くなかった。朝食の準備一つ取っても、「嚥下食」の作り方が分からない。白がゆの水加減も知らず、固いままの食材を義父の前に出したという。義父が食べられずに残した皿を見て、響きは「食欲がないんだろう」と的外れな判断を下したらしい。入浴では父を支えきれず、浴室内で崩しかけたと聞いた。六十キロの体重を支えるには、正しい技術が必要だということを、響きは初めて思い知ったのだ。体位変換のタイミングも知らず、夜間の介助を怠った結果、義父の背中と腰に床ずれの前兆である赤みが出始める始末。服薬管理も杜撰で、朝食後の薬と夕食後の薬を取り違え、血圧の薬を二重に飲ませかけたこともあったという。わずか三日で、響きは音を上げ、介護サービスの利用を申し込もうとした。しかし、ケアプランの変更手続きも知らず、ケアマネージャーの連絡先すら把握していない。結局、全てが後手に回り、義父の生活は急速に悪化していったのだ。義父の食事は出来合いの惣菜とコンビニ弁当に変わり、口腔ケアは行われず、部屋の掃除もされない。リハビリも中断され、義父の左手の握力は目に見えて落ちていったそうだ。ケアマネージャーが定期訪問した際、義父の生活環境があまりにも悪化していることに驚き、響きに改善を求めたが、彼は「仕事が忙しい。嫁が逃げたから仕方ない」と開き直るばかりだったという。ケアマネージャーからの状況報告を受けた瀬田は、この事態を記録として保全するよう指示した。介護の専門家である第三者の視点から見た介護の質の低下は、客観的な証拠として極めて有効だという。響きが音を上げた後、道代に助けを求める電話をかけたことも分かっていた。道代の返答は、想像の範囲を超えるものではなかった。
「うちだって忙しいの。お姉さんに戻ってもらえば済む話じゃない」
そう言って、結局一度も義父の元を訪れなかったらしい。
「これで、ご主人側の『妻は家事もしていなかった』という主張は完全に崩れます。実際にやってみて三日で破綻する介護を、ずっと一人で担っていた事実は、誰の目にも明らかです」
ある日の夜、アパートの窓から秋の月を眺めていた時、ふと思った。響きは本気で、毎日見ていたはずの私の仕事を「家にいるだけ」だと思っていたのか。三日間でようやく現実が見えただろう。でも、その代償を払ったのは、罪のない義父である。瀬田に響きの介護失敗の経緯を報告すると、瀬田は即座に対応策を示した。ケアマネージャーからの報告書、義父の体調変化の記録、そして最終的に救急搬送に至った経緯。これら全てを時系列で整理し、「妻は家事もしていなかった」という響き側の主張を覆す証拠として体系化する方針が固まった。証拠は揃いつつある。介護記録、医師の診断書、響きと道代からの通話記録。響きが介護を試みて失敗した経緯の数々も、全てが第一回の調停日に向けて入念と準備されていった。
第一回調停の期日が近づいてきた頃、深夜に携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは、見知らぬ番号。出ると、病院の看護師だった。義父が脱水症状で救急搬送されたという。心臓が、ぎゅっと握りつぶされるような感覚に襲われた。やはり、こうなってしまったか。響きのずさんな介護が、義父の体に深刻なダメージを与えたのだ。タクシーを呼ぶ手が震えていた。夜の町を走る車の中で、義父の介護記録を脳内でたどる。水分摂取のスケジュール、食事の時間、服薬のタイミング。全て細かく記録し、引き継ぎ書にも明記したはずだ。それなのに、なぜ脱水症状が起きたのか。答えは明白だった。引き継ぎ書を読んでいないか、読んでも実行していないか。そのどちらかだ。急いで病院に向かうと、救急外来のベッドに義父が横たわっていた。点滴の針が腕に刺され、酸素マスクが顔を覆っている。頬はさらにこけ、皮膚に張りがない。介護福祉士の目から見ても、明らかに栄養状態と水分摂取が不十分だった痕跡が読み取れる。ベッドの脇に立っていた響きが、私を見つけるなり声を荒げた。
「来やがったか。お前のせいだぞ。お前が介護を放棄したから、親父がこんなことになったんだ」
隣にいた道代も、ハンカチで目元を抑えながら涙で声を詰まらせる。介護には一度も手を貸さなかった道代が、いざという時だけ被害者のように振る舞うのだ。
「お姉さん、ひどいわ。お父さんをこんな目に合わせて、自分だけ好き放題やって。許せない」
二人の非難が、静かな病院の廊下に反響した。通りかかった看護師が、困惑した表情でこちらに視線を向けている。返す言葉がなかった。もちろん、論理的には反論できる。義父の介護義務は実子にある。私が家を出た後の介護責任は、響きにあるのだ。瀬田の言葉を借りれば、むしろ響きの介護放棄こそが問題の本質である。けれど、理屈と感情は別物だった。義父のベッドサイドに近づくと、痩せた左手が微かに動いた。目を開け、私の顔を認めた義父の唇が、音にならない言葉を紡いでいる。「すまん」と言っているのが読み取れた。倒れた自分を心配するのではなく、こんな時にまで人に詫びる義父の姿が、胸を刺した。義父を守れなかった。自分がそばにいれば、こんなことにはならなかったかもしれない。その罪悪感が、津波のように押し寄せてきた。病院の廊下の長椅子に座り、膝に顔を埋めた。涙が止まらなかった。もし自分が出ていかなければ、もし離婚など考えなければ、義父がこんな目に遭わなかったのではないか。その思いが、刃物のように心をえぐり続けた。
誠子に電話をかけたのは、病院を出た後のことだ。震える声で事情を伝えると、誠子はいつもの率直さで言い切った。
「ずっと一人で背負わせておいて、いざ倒れたら『毛病』扱い。離婚したいと言ったら逆切れ。介護をやってみたら三日で破綻。それでお父さんが倒れたら、全部あんたのせい?冗談でしょ」
「でも」
「いい?あんたが壊れたら、お父さんを助けられる人間はもうどこにもいなくなるの。今あんたがすべきことは、自分を責めることじゃなくて、お父さんのためにベストな環境を整えることよ」
正論だと頭では分かっているけれど、義父の痩せた顔が脳裏に焼きついて離れない。電話を切った後、深夜の道端で長い息をついた。秋の風が頬に冷たい。介護の世界に入った時、先輩から教わったことがある。「介護者が一番大切にすべきは、自分自身の健康だと、繰り返し諭されたのだ」。その言葉を何度も思い出しながら、それでも自分を後回しにし続けた十年間。今になって、先輩の言葉の本当の意味が骨の髄まで染みてくる。アパートに帰る足取りは重かったが、誠子の言葉が背骨の代わりになって、なんとか体を支えていた。
アパートの狭い部屋で、一人きりの夜を過ごす。六畳一間の空間に、ダンボール箱と最低限の家具だけがある。カーテンの隙間から街灯の光が差し込み、天井に細い影を落としていた。眠れない。目を閉じると義父の顔が浮かぶ。あの日のことを思い出していた。義父が脳梗塞で倒れたと連絡を受けた日のことだ。当時まだ介護施設で働いていた私は、利用者さんのケアを同僚に引き継いで、急いで病院に駆けつけた。集中治療室のベッドに横たわる義父は、それまでの厳格な大工の親方の面影がなく、ひどく小さく見えたものだ。義母はまだ元気だった。二人で義父の介護を分担しようと決めたのは自然な流れだったけれど、義母が突然旅立ってから、全てが変わったのだ。響きは「俺は仕事があるから」の一言で介護から逃げ、道代は「嫁の務め」と距離を置いた。残されたのは、私だけ。施設を辞めて在宅介護に専念した日のことを覚えている。同僚たちが「もったいない。もう少し考えて」と引き止めてくれた。だが、目の前で不安そうな顔をしている義父を、放っておくことなどできなかった。あれから十年。季節が四十回巡り、私の体は確実に消耗していった。腰痛、肩こり、めまい、貧血。一つずつ増えていく不調を見て見ぬふりをしながら、ただ義父のために手を動かし続けた日々。かつて施設で働いていた頃は、「燃え尽き症候群」という言葉を同僚の間でよく耳にした。介護職員が精神的に疲弊し、仕事への意欲を失ってしまう状態のことだ。施設なら交代制があり、休日もある。それでも燃え尽きる人がいるのだから、休みなしの在宅介護を十年間続けた自分の心身がどうなるか、介護の専門家なら予測できたはずだった。分かっていて、それでもやめられなかった。義父の穏やかな寝顔を見るたびに「もう少しだけ頑張ろう」と思ってしまうのだ。私は義父を守りたかった。でも、自分の体はもう限界だ。離婚しなければ壊れてしまう。けれど離婚すれば、義父を苦しめることになる。答えのない問いが、堂々巡りを続けていた。
ふと、窓の外が白み始めていることに気づいた。一晩中泣いていたらしい。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、部屋の中がうっすらと明るくなっていく。洗面所で顔を洗い鏡を見た。目は赤く腫れ、頬にはまだ涙の跡が残っている。しかし、不思議なことに、鏡の中の自分の目は昨日までとは少し違って見えた。夜明け近く、ふと誠子の言葉が蘇った。「あんたが壊れたら、お父さんを助けられる人間はもうどこにもいなくなる」。そして瀬田の言葉も。「ご自身を守ることは、お父様を見捨てることではありません」。二人の声が、暗い部屋の中で静かに響き合う。泣き尽くした後に残ったのは、一つの確信だった。義父のために泣くことと、義父のために行動することは、全く別のもの。涙を流している間は何も変わらないが、立ち上がって動けば、義父にとって最善の環境を整えることができる。窓を開けると、冷たい秋の朝の空気が部屋に流れ込んできた。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。長年の重荷を一晩の涙で洗い流すことはできない。でも、前を向くことならできるはずだ。テーブルの上に、瀬田から届いた書類の束がある。調停に向けた準備資料、十年分の介護記録、医師の診断書。全てが、私の戦いの武器だ。泣いている間は何も動かないが、この書類に手を伸ばせば、明日を変えることができる。携帯電話を手に取り、瀬田に短いメッセージを送った。「明日、打ち合わせをお願いできますか?調停に向けて最終確認をしたいです」。送信ボタンを押した指は、もう震えていなかった。
翌日、瀬田から連絡が入った。最終確認の打ち合わせの前に、私に伝えたいことがあるため事務所に来て欲しいとのことだ。早速向かうと、瀬田の前に封筒が置かれている。
「平塚さん、お父様の弁護士から正式な連絡がありました。実はお父様は、半年以上前から当事務所に遺言書の作成を依頼されていたんです。遺言書の内容を、お父様の許可のもとでお伝えします」
そう言って、瀬田は封筒の中に入っている書類を広げた。
「お父様は、ご自宅の不動産持分の三分の一を、長月さんに遺贈する旨を記載されています」
義父の引き出しで見つけた封筒の件は知っていたが、その後の詳細は把握していなかった。瀬田の声には、珍しく感情が滲んでいる。あの古い一軒家は、義父の名義のままだった。土地と建物を合わせれば、相当な資産価値がある。それを嫁である私に、残そうとしていたのか。
「さらに、遺言書には付言事項として、こう書かれています」
瀬田は指で文字をなぞりながら読み上げた。「十年間、わしの面倒を見てくれた嫁の長月に心から感謝する。息子の響きと娘の道代は、長月の貢献に報いることなく、嫁に介護を押し付けた。この遺言は、長月への感謝と、子供たちへの戒めである」。涙で文字が歪む。瀬田も、心なしか声が震えているようだった。
「この遺言書は、離婚調停においても極めて重要な意味を持ちます。お父様ご自身が長月さんの介護貢献を認め、実子の非協力を批判している。これ以上の証拠はありません」
義父のことが、改めて心に染みた。体が不自由になっても、頭は明晰だったのだ。息子と娘の不甲斐なさを嘆きながらも、嫁の貢献には黙って感謝を積み重ねていた。そして、自分にできる唯一の方法で、その感謝を形にしようとしていたのだ。何より、弁護士に付言事項を書かせたということが胸に迫った。法律文書には通常、事務的な条文が並ぶだけだ。それなのに、わざわざ感謝の言葉を書き残すよう依頼したということは、義父がどれほど覚悟を持ってこの遺言書に挑んだかを示している。私は涙を拭い、深く息を吸い込んだ。義父が命をかけて残してくれたこの武器を、無駄にするわけにはいかない。調停では、義父の思いを背負って堂々と戦う。それが、彼への恩返しだ。
私は病院に向かうことに決めた。義父の顔を見なければ、先に進めない気がしたのだ。病室に入ると、義父はベッドの上で窓の外を眺めていた。点滴はまだ繋がれているが、顔色は入院時よりも良くなっている。施設の栄養士が作る食事がきちんと取れているのだろう。頬のこけ具合も、いくらか改善していた。
「お父さん」
義父の左手が、ベッドの縁をゆっくりと叩いた。「座れ」という合図だ。ベッドサイドの椅子に腰を下ろすと、義父がこちらを向いた。
「あんたは、十分やってくれた。もう、自分の人生を生きなさい」
その言葉は、命令でも許可でもなかった。長い年月を共に過ごした者同士の、深い理解から生まれた言葉だ。
「お父さん、施設を探しました。見学はできませんでしたが、評判のいいところです。元同僚が働いている施設で、信頼できます」
「うむ」
義父の目尻に、細いしわが寄った。笑っているのだ。口下手な義父が見せる、精一杯の笑顔。
「時々、会いに行きますから」
「ああ」
病室を出る時、背後から義父の声が聞こえた。
「長月」
振り返ると、義父が左手を小さく上げていた。
「ありがとな」
介護を始めてから、初めて聞いた「ありがとう」だった。「すまんな」ではなく、「ありがとう」。その五文字が、胸の一番深いところに届いて、しとかに広がっていった。
家庭裁判所の待合室は、静かで冷たい空間だった。窓の外には晩秋の枯れ木が見え、灰色の空が低く垂れ込めている。瀬田と並んで座り、手元の資料に目を通した。
「調停委員は男女一名ずつです。まず平塚さんが呼ばれますから、落ち着いてこれまでの経緯を説明してください」
調停室のドアが開き、名前が呼ばれた。深呼吸をして立ち上がり、瀬田と共に調停室に入る。響きは別の待合室にいるはずだ。調停の仕組みでは、双方が交互に調停室に入り、委員を介して話し合う。直接顔を合わせることはない。廊下を歩きながら、手のひらに汗が滲んでいることに気づいた。これまで何ヶ月もかけて準備してきた。証拠も揃えた。瀬田の支えもある。それでも、人生を左右する場に立つ重圧は、想像以上だった。調停委員は五十代くらいの男女で、穏やかだが真剣な表情をしていた。テーブルの上には、事前に提出した申立書と添付資料が広げられている。委員から離婚に至った経緯について尋ねられ、私は深く息を吸った。長い介護生活を、順を追って説明していく。義父が脳梗塞で倒れたこと。義母が亡くなり、一人で介護を担うことになったこと。夫が一切の協力を拒んだこと。介護日誌を開き、一日の流れを具体的に示した。起床介助から就寝介助まで、一日十四時間以上の介護労働を休みなく続けてきた事実を、記録が如実に物語っている。
「平塚長月さんは介護福祉士の資格を持ち、専門的な介護をお父様に提供してきました。この介護労働の経済的価値を、訪問介護報酬に基づいて算出した資料がこちらです」
瀬田が提出した資料には、介護内容ごとの時間と報酬単価が細かく記載されていた。身体介護、生活援助、医療的ケアの補助、リハビリ支援。それぞれの年間費用と、長年にわたる合計額。資料に目を通していた男性の調停委員が、驚いたように顔を上げた。年間約六百万円相当の介護労働を、これほど長い期間にわたって続けてきたことに、表情が明らかに変わる。長年の介護記録の厚みは、言葉以上の説得力を持っていた。
「加えて、平塚長月さんは過労により入院を余儀なくされています。医師の診断書もご覧ください。自律神経失調症、鉄欠乏性貧血、腰椎椎間板ヘルニア。いずれも長期間の過重な介護労働が原因です」
調停委員に経緯を説明し終えると、約三十分で私は待合室に戻された。次は、響きが調停室に呼ばれる番だ。待合室の硬い椅子に座り、瀬田と今後の流れを確認した。
「響きさんが何を主張するか、予想はつきます。『妻は家事をしていなかった』『介護の価値は過大評価だ』といったところでしょう。でも、介護記録と、響きさん自身が三日で介護を投げ出した事実が、全てを覆します」
約四十分後、再び調停室に呼ばれた。委員の表情は、先ほどよりも硬くなっている。女性の調停委員が、響きからの聞き取り内容を伝えた。響きは「妻は大げさに言っている。介護はそこまで大変ではなかった」と主張しているという。
「では、介護記録の中から、ある一日を取り出してご覧いただけますか?例えば、今年の三月十五日。朝五時起床、五時半に義父の起床介助と着替え、六時に朝食準備と食事介助、七時に口腔ケアと服薬管理、八時にリハビリ」
具体的な時間帯を読み上げていく。一日の終わりまで読み上げると、十四時間以上の介護労働が記録されていることが明白になる。女性の調停委員が、静かに頷く。介護記録の量と正確さに感銘を受けたようで、一日十四時間以上の介護を何年も一人で続けることがどれほどの身体的・精神的負担であるかを、深い理解を持って確認してくれた。介護福祉士として、記録を残すことの重要性は身に染みて分かっていました。この記録があったからこそ、自分の労働の価値を、今こうして証明することができています。委員が何度も頷く姿を見て、十年間の記録が無駄ではなかったのだと改めて確信した。
男性の調停委員が、響きが介護を試みた際の状況について質問を向けた。
「ご主人は、長月さんが家を出た後、お父様の介護を試みましたが、三日で断念しています。その結果、お父様は脱水症状で救急搬送されました」
調停委員二人が、顔を見合わせた。事実の重みが、この部屋の空気を変えている。二度目の休憩を挟んだ後、瀬田が最後の切り札を出した。
「もう一つ、重要な資料があります。義父、平塚強義さんが作成した、公正証書遺言です」
封筒から取り出した遺言書の写しが、テーブルの上に置かれた。瀬田が遺言書の付言事項を読み上げる声が、静かな調停室に響く。
「この遺言書には、お父様が長月さんに自宅不動産の持分三分の一を遺贈する旨が記載されています。さらに付言事項として、長月さんへの感謝と、息子・娘への批判が明記されています」
調停委員が遺言書の写しに目を通す間、部屋は完全な静寂に包まれた。女性の調停委員が、静かに息をついた。義父自身が長月の介護貢献を認め、実子の非協力を批判しているという事実は、この場の空気を決定的に変えていた。
「介護を受けている本人が、最も正確に状況を理解しています。介護の現実を知っているのは、介護者と被介護者だけです」
調停は二回目の期日で大勢が決した。第二回の調停で、響き自身が調停委員の前でボロを出したのだ。「介護なんて、食事を出して風呂に入れるだけだ」と発言したらしい。調停委員から「では、具体的にどのような介護を行っていたか」と尋ねられると、響きは「嚥下食」の意味も「体位変換」の必要性も「チアノーゼ」の確認方法も、説明できなかったという。介護の中身を何ひとつ知らないことが、調停委員の前で白日のもとにさらされたのだ。響き側の弁護士は「介護の経済的価値は過大評価」「妻は家事もしていなかった」と最後まで主張したが、膨大な介護記録と、響き自身が三日で介護を放棄した事実の前に、その主張は悉く崩壊したそうだ。義父の遺言書が決定打となり、調停委員も長月の主張を全面的に支持する流れとなった。最終的な調停条件は、瀬田の粘り強い交渉により、以下の通りまとまった。慰謝料として二百万円。財産分与は、介護貢献度を加味して六対四で長月に有利な配分。婚姻中に積み立てた響き名義の預貯金の六割が長月に分与される。響きの退職金の見込み額についても、婚姻期間に応じた按分が認められた。瀬田が全ての条件を読み上げた時、長い旅がようやく終わるのだという実感が、静かに胸に広がった。調停調書は裁判の判決と同じ効力を持つ。もう、響きがどんなに怒鳴っても、脅しても、この結論を覆すことはできない。調停成立の書面に署名する時、ペンを持つ手が一瞬だけ止まった。この署名で、三十年間の結婚生活に正式に終止符を打つことになる。けれど、迷いはなかった。ペン先が滑るように紙の上を走り、「平塚長月」と書いた。この名前を使うのも、これが最後だ。旧姓の染谷に戻る日が、すぐそこまで来ている。
待合室を出ると、廊下の向こうに響きの姿が見えた。目が合った瞬間、響きは視線をそらし、壁に手をついてうなだれる。三十年間共に暮らした男の、その惨めな後ろ姿を見ても、もう何の感情も湧いてこなかった。隣にいた道代が何か言いかけたが、響きに遮られて黙り込む。家庭裁判所の建物を出ると、晩秋の冷たい風が頬を撫でた。瀬田が隣で、静かに微笑んでいる。
「お疲れ様でした。長い戦いでしたね」
「瀬田先生のおかげです。一人では、絶対にここまで来れませんでした」
裁判所の正面玄関では、誠子が待っていた。結果を聞くと、両手を広げて抱きしめてくれる。
「よく頑張ったわね。本当に、よく頑張った」
その言葉に、張り詰めていたものがふっと緩んだ。目頭が熱くなったが、今日の涙は悲しみの涙ではない。長い戦いの末にたどり着いた場所で流す涙は、晴れた空のように清々しかった。
「離婚調停はこれで集結ですが、遺言書による不動産の件は、将来の相続発生時に効力が生じます。お父様の思いは、法的にしっかりと守られています」
瀬田の最後の言葉に、深く頭を下げた。彼女がいなければ、私はまだあの家で、体を壊しながら介護を続けていただろう。「法律が弱いものを守るために存在する」ことを、身を持って知った数ヶ月間だった。義父の施設入所は、調停と並行して手続きを進めていた。元同僚が務めるグループホームで、質の高い温かい介護を受けられる施設である。かつての経験から施設の選び方を熟知していたからこそ、義父にとって最適な環境を見つけることができたのだ。入所の日、車椅子の義父を施設に送り届けた。秋晴れの穏やかな朝だった。施設のスタッフが温かく迎えてくれ、元同僚が笑顔で手を振っている姿に、安堵の気持ちが広がる。新しい部屋は日当たりが良く、窓からは小さな庭が見えた。義父は庭の植栽を眺めながら、小さく頷いた。
「悪くない」
元親方らしい、簡潔な感想だった。窓辺に車椅子を寄せ、庭の景色をゆっくりと見せてやると、義父の目が少しだけ柔らかくなった。自然が好きな人だ。この庭があれば、きっと穏やかに過ごしてくれるだろう。施設のスタッフに介護の引き継ぎを行い、義父に最後の別れを告げた。
その後、響きは一人暮らしの現実に直面したらしい。離婚が成立し、義父は施設に入り、妻ももういない。三十年間、家事も介護も全て妻に任せきりだった男が、突然全てを自分でこなさなければならなくなったのだ。洗濯機の使い方が分からず、料理は作れず、掃除もままならない。ワイシャツのアイロン掛け一つ取っても手順が分からず、焦がしたシャツを何枚も捨てたという。職場では「面倒見のいい営業部長」と評されていた男の生活は、妻がいなくなった途端に崩壊した。コンビニ弁当とカップ麺で済ます食生活で体重は増え、肌は荒れ、健康診断でも複数の項目に警告が出たという。洗濯物が山のように積まれたリビング。ゴミの分別すら分からず、近所から苦情が来る始末だったそうだ。三十年間、私が黙ってやっていたことの価値を、失って初めて思い知ったのだろう。けれど、もう遅い。道代はと言うと、義父の施設費用の分担を求められると「うちにも事情があるから」と露骨に逃げたらしい。「嫁の務め」と主張していた人間が、自分の懐が痛む段になると一転して沈黙する。その姿は、これまでの構図そのものだった。響きが「戻ってきてくれ」と連絡してきたのは、離婚成立から二週間後のことだ。留守番電話に入っていたメッセージは、かつての威勢はどこへやら、弱々しく情けない声だった。私は留守番電話を削除し、響きの番号を着信拒否に設定した。長い戦いは終わったのだ。もう、振り返る必要はない。
年が明けた頃、私は介護福祉士として復職した。長いブランクはあったが、在宅介護で培った技術と経験は、むしろ施設では高く評価された。同僚からは「現場の勘がすぐに戻ってくるのは、やっぱり本物の介護をしてきた人だからですね」と言われた。十年間の在宅介護が、新しい職場で花を咲かせている。あの日々は、決して無駄ではなかったのだ。月に二回、義父の施設を訪ねている。施設の栄養管理とリハビリのおかげで、義父の体調は在宅時よりもむしろ改善していた。顔色が良くなり、左手の握力も回復しつつある。私の顔を見ると、相変わらず「おう」と短く返事をするだけだが、その左手がそっと私の手を握る力は、以前よりもずっと温かかった。誠子とは、週末にお茶をするようになった。何気ない会話が、こんなにも心を潤すものだったのかと、改めて気づかされる日々である。瀬田とも、時折食事をする間柄になった。弁護士と依頼人ではなく、一人の女性同士として語り合う時間は、新鮮で心地よい。先日、義父を訪ねた帰り道、施設の庭で梅の蕾が膨らみ始めているのを見つけた。冬の間ずっと固く閉じていた蕾が、日の光を受けてわずかに色づいている。その小さな蕾は、まるで今の自分のようだと思った。五十六歳からの再出発は、決して遅くない。むしろ、長い冬を越えたからこそ、見える景色がある。春の足音が、確かに聞こえ始めていた。
