静まり返っていたリビングに、乾いた音が響いた。私の目の前のテーブルに、まるでゴミでも捨てるかのように投げつけられたのは、くしゃくしゃになった一枚の千円札だった。「これをやりなさい。ご先祖様のために立派な裁墳を用意なさい」その一言で、親戚一同が集まる部屋の空気が凍りついた。隣で夫の和也が顔を青ざめさせ、私と義母の顔を交互に見ているだけ。義母のみ咲は口元に意地の悪い笑みを貼り付け、面白そうにこちらを眺めている。他の親戚たちも息を呑んで私の一挙一動を見守っていた。だが、この時誰も知らなかった。数分後、私がこの千円札を拾い上げた瞬間から、この家の絶対的権力者である義母が人生で一番の後悔をすることになるとは。
今日は亡くなった義父の七回忌。本来であれば故人を忍び、家族の絆を確かめ合う穏やかな一日になるはずだった。しかし、この家を支配する義母の富子にとっては、嫁である私を親戚たちの前で貶め、自分の権威を見せつけるための絶好の機会でしかなかった。法要が滞りなく終わり、親戚たちがリビングでくつろぎ始めた頃、義母は待ってましたとばかりにわざとらしく大きなため息をついた。「それにしても由美さん、あなたもこの家に来て十年にもなるというのに、本当に気が利かない人ねえ」始まった、いつもの嫁いびりだ。私はただ黙って義母の次の言葉を待つ。反論すれば火に油を注ぐだけ。この十年間で私はそれを嫌というほど学んでいた。「普通、法要が終わったら言われなくても最中の準備をするものでしょう。うちの子、ご先祖様はあなたの実家とは格が違うのよ。それをいつになったら理解できるのかしら」ねちっこい口調で私の実家まで貶す。夫の和也が「母さん、そのくらいに」と弱々しく口を挟もうとするが、義母はそれを鋭い視線で黙らせた。そしてハンドバッグから財布を取り出すと、冒頭の言葉と共に一枚の千円札を私に向かって投げつけたのだ。「いいこと、その千円でうちの格にふさわしい立派な裁墳を用意するのよ。まさかとは思うけど、あなたのお里みたいにスーパーで買ってきたお供えを並べるだけなんて、恥ずかしい真似はしないでちょうだいねえ」それを聞いて義母のみ咲が下品な笑い声を漏らす。親戚たちも同調するように、あるいは面倒なことに関わりたくないという複雑な表情で私を見ている。誰も助け舟を出そうとはしない。この家では義母は絶対的な女王様なのだ。
私はゆっくりと立ち上がった。全ての視線が私の一点に集中する。テーブルの上に無造作に置かれたくしゃくしゃの千円札。それはまるで私の十年間の結婚生活そのものを象徴しているかのようだった。私は静かにそれを拾い上げると、丁寧に皺を伸ばし、両手でうやうやしく持った。そして、勝ち誇った表情を浮かべる義母の目をまっすぐに見つめ返した。怒りも悲しみも、もはや私の心にはなかった。ただ深く静かな決意だけが、燃え盛る炎のように渦巻いていた。「かしこまりました。お義母様」凛とした声が静まり返ったリビングに響く。「必ずやご先祖様も、そしてここにいる皆様も腰を抜かすほど立派な裁墳を、この千円でご用意させていただきます」その予想外の返答に、今度は義母が困惑したような顔をした。いつもなら泣き出すか俯いて黙り込む私があまりにも堂々としていることに、得体の知れない不気味さを感じたのだろう。私は深々と一礼すると、その千円札を固く握りしめ、リビングを後にした。背後から義母のヒステリックな声と親戚たちのひそひそ話が聞こえる。扉を閉め、一人廊下に立った時、私の口元には確かな笑みが浮かんでいた。見ていてください、お義父様。あなたが投げつけたこの千円札が、あなたの築き上げてきた全てを終わらせる始まりの一枚になるのですから。私の胸の中で反撃の鐘が静かに、しかし力強く鳴り響いた。
台所へと続く冷たい廊下を、私は一歩一歩踏みしめるように歩いた。固く握りしめた千円札は、手のひらの汗で少し湿っている。私は台所に着くと、一度大きく深呼吸をした。そしてポケットからスマートフォンを取り出すと、登録された一件の番号をタップした。義父が亡くなる少し前にこっそりと教えてくれた番号だ。数回のコールの後、少ししゃがれた、しかし芯のある男性の声が聞こえた。「はい、水希です」「もしもし、水希様、鈴木由美です。ご無沙汰しております」電話の向こうで相手が息を呑んだのが分かった。「由様、お待ちしておりました。小一様から、いつか必ずあなた様から連絡がある時が来ると、そう伺っておりました」私はリビングでの出来事を簡潔に伝えた。そして硬い決意を声に乗せてはっきりと告げた。「水希様、義父から託されたあの約束を、本日果たしていただきたく存じます。千円で最高の舞台をご用意いただけますでしょうか?」電話の向こうで水希と名乗る人物が、まるで待ってましたとばかりに力強く、そして楽しそうにこう言った。「お任せください。由様、千円結構でございます。最高の舞台をご用意させていただきますとも。あの女狐の度肝を抜く、とっておきの舞台を」その頼もしい返事に、私の心は完全に定まった。電話を切った私は、窓の外に広がる義父が愛した庭を見つめる。これから始まる嵐を前に、空は不気味なほど静まり返っていた。
私は少しだけリビングの扉を開け、中の様子を伺った。案の定、私の悪口で盛り上がっている声が漏れ聞こえてくる。中心にいるのはもちろん義母の富子だ。「本当にあんな嫁をもらってしまって、和也もかわいそうに。千円で裁墳を用意しろと言われて、今頃台所で泣いているんじゃないかしら」高い声がねちっとリビングの空気を支配している。「本当よね。お義母さん、由美さんっていつも貧乏くさい格好しているし、うちの格式に全然合っていないわよ」義母のみ咲が海外しくお茶を入れながら追い打ちをかけるように同調する。親戚たちも誰も義母たちを止めようとはしない。そして夫の和也はといえば、ただ俯いて湯のみをいじっているだけ。私と目が合うと罰が悪そうに視線をそらした。その情けない姿に、もはや苛立ちすら湧いてこない。期待することを辞めてしまえば、心は湖のように静かになるのだ。
私はすっと扉を開け、部屋の中へと入っていった。私の突然の登場にリビングの喧騒がぴたりと止まる。全員の視線が私に突き刺さった。「あら、由美さん。てっきり台所で泣きべそでも書いているかと思ったわ。どう、千円で立派な裁墳を用意する目算はついたのかしら」義母が嘲笑の笑みを浮かべて問いかける。私は動じることなく、まっすぐに義母の目を見据え返した。「はい、お義母様。ただいま手配をいたしました。間もなく素晴らしいものが届くかと存じますので、皆様どうぞこのままお待ちくださいませ」私の落ち着き払った態度が義母の癇に障ったのだろう。彼女の眉が釣り上がり、声のトーンが一段と高くなる。「素晴らしいもの? 何を言ってるの? その強がり、いつまで続くのかしらね。まさかとは思うけど、そこのスーパーで売れ残りの花でも買ってくるつもりじゃないでしょうね。そんなものでご先祖様を祭ったら、お墓が泣くわ」私の静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声に、義母がひるんだのが分かった。いつもと違う。私の態度が明らかにいつもと違うのだ。「ですから、見ていればお分かりになりますと申し上げているのです。お義母様の想像をはるかに超えるものが届きますから」ふん、と義母は吐き捨てるように言うと、わざとらしく大きな音を立てて湯のみを置いた。しかしその顔には先ほどまでの余裕はなく、焦りと苛立ちの色が隠せないでいる。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられるような重苦しい時間が流れていた。その時だった。ピンポンと玄関のチャイムが鋭い音を響かせた。それはまるで、これから始まる舞台の開幕を告げるベルのように、リビングにいる全員の耳に届いた。そしてチャイムは一度では終わらなかった。ピンポン、ピンポンと間隔を置いて何度も何度も鳴り響く。「何なのよ。一体誰かしら」義母の声がわずかに震えている。「私が出てまいります」私は静かに立ち上がると、ざわめき始めた親戚たちを背に玄関へと向かった。玄関のドアを開けた瞬間、私の目の前に広がっていたのは異様な光景だった。黒塗りの高級車が我が家の前に静かに停車している。それだけではない。車から降りてきたのは、いずれも上質な黒の作務衣に身を包んだ、見るからに只者ではない雰囲気をまとった男たちだった。その数、ざっと六人ほど。彼らは私を見ると、深々と一糸乱れぬ動きで頭を下げた。その中心に立っていたのは、電話で話した水希さんだろう。銀色の髪を後ろで一つに束ね、年の頃は六十代後半か。しかし、その背筋は驚くほどまっすぐに伸び、鋭い眼光はまるで私の心の奥まで見通しているかのようだった。「由様でいらっしゃいますね。水希でございます。小一様との約束、果たしに参りました」彼の低くよく通る声が静かな住宅街に響き渡る。彼らの手には、木箱や白い布で丁寧に包まれた何かが大切そうに抱えられていた。そのどれもが、千円という金額とは到底釣り合わない年代物の風格を漂わせている。「お待ちしておりました。水希様、皆様、遠いところをありがとうございます」私が彼らを家の中へと案内しようとした、その時だった。背後からヒステリックな声が飛んできた。「由美、あなた一体何をしているの?」振り返ると、そこには鬼の形相をした義母が立っていた。私の背後に控える屈強な男たちと、彼らが運んだ品々を見て、彼女の顔は驚きと混乱で歪んでいる。「どちら様ですの? この方たちは、こんなヤクザみたいな人たちを、うちの神聖な法要の日に呼び込むなんて、あなた気でも狂ったの?」義母は水希さんたちを指差し、まるで汚物でも見るかのような目で睨みつけた。そのあまりにも無礼な言葉に、水希さんの後ろに控えていた若い男たちの眉がぴくりと動いた。空気が一瞬で張り詰める。しかし水希さんは表情一つ変えずに静かに義母を見据えていた。「お義母様、言葉を慎しんでください。この方々は決してそのような方々ではございません。今日、裁墳を用意してくださる方々です」私が冷静に諭そうとしても、興奮した義母の耳には届かない。「何よ、こんな得体の知れない人たちが! ふざけないで! 千円で用意するって言ったじゃない。まさかこんな柄の悪い人たちを、たった千円で雇ったとでも言うの? うちの格式をどれだけ汚せば気が済むのよ!」もはや侮辱という言葉では生温いほどの暴言。義母の言葉は完全に理性を失っていた。私は何も言わなかった。ただ静かに彼女の言葉が止まるのを待った。私の沈黙が、彼女の狂気をさらに加速させる。「何とか言いなさいよ、この役立たずの嫁が! ああ、そうか、分かったわ。あなたはこの私に恥をかかせるために、わざとこんなチンピラみたいな人たちを呼んだのね。なんて醜い女なの!」「お黙りなさい」凛とした、しかし氷のように冷たい声が玄関に響き渡った。その声の主は私ではない。これまで静かに義母の罵倒を聞いていた水希さんだった。彼の声には有無を言わせぬ凄みがあった。あれほど立てていた義母が、まるで蛇に睨まれた蛙のように動きを止める。水希さんはゆっくりと一歩義母に近づいた。「奥様、あなた様がこの家の当主でいらっしゃるか」その問いに、義母は辛うじて「そうよ」と答えるのがやっとだった。「ならば、なおのこと慎しむべき言葉というものがあるでしょう。我々が何者であるか、そして我々が本日持ち込んだものがいかほどの価値を持つものであるか、あなた様にはまだお分かりにならないようだ」水希さんはゆっくりと義母の顔を見回し、そして私に視線を移した。「由様、よろしいでしょうか? この者たちに、本物とは何かを我々が自ら教示して差し上げても」その言葉は私への許可を求める形を取りながらも、その実、義母に対する明確な宣戦布告だった。私は静かに、しかしはっきりと答えた。「ええ、水希様、お願いいたします。この家の者たちに、そしてご先祖様に、本物の心とは何かをお見せしてください」私のその言葉を合図に、水希さんは後ろの男たちに目配せをした。男たちはうやうやしく手にしていた木箱や包みを抱え直し、リビングへと向かって歩き始めた。義母は為す術もなく、その光景を呆然と見送ることしかできない。彼女の顔からは血の気が失せ、自分がとんでもない過ちを犯したのではないかという予感が、その表情にありありと浮かんでいた。
水希さんたちがリビングへと入っていくと、そこには異様なほどの静寂が広がっていた。親戚たちは突然現れた作務衣姿の男たちと、彼らが大切そうに運ぶ年代物の品々にただただ圧倒されている。義母は我に返ったように慌てて男たちを追い、リビングの入り口で立ち尽くした。その顔は先ほどの怒りの形相から一転し、不安と混乱で青白くなっている。水希さんたちはその言葉を意に返する様子もなく、黙々と作業を進めていく。まず部屋の中央に置かれていたテーブルが手際よく片付けられた。そして、床の間を背にするように白木の台が静かに設置される。その動きには一切の無駄がなく、まるで何百年も続く儀式を取り行っているかのような荘厳さがあった。私はその様子を壁際に立って静かに見守っていた。義母はそんな私を睨みつけると駆けよってきた。「由美、あなた、いい加減にしなさい。説明なさいよ。この人たちは誰なの? そしてこれは一体何の真似なの?」小さな声で、しかし切羽詰まったように私に詰め寄る。周りの親戚たちに自分の動揺を知られたくないという見えがあった。「お義母様、ですから静かにご覧になっていれば分かりますと申し上げました」私は感情を一切殺し、淡々と答える。私のその態度が再び彼女の怒りの導火線に火をつけた。「この私を誰だと思っているの? この家の主婦は私よ。嫁の分際で私に指図するなんて、百年早いのよ」彼女はそう叫ぶと、今度は親戚たちに向かって私を糾弾し始めた。「皆さん、聞いてください。この嫁は、亡くなった主人の七回忌をめちゃくちゃにするつもりなんです。こんな得体の知れない連中を呼び込んで、一体何を企んでいるのか」親戚たちは戸惑った表情で私と義母を交互に見る。誘導されるように、何人かの親戚が恐る恐る私に問いかけた。「由美さん、これは一体。富子さんの言う通り、少しやりすぎなんじゃないか」追い詰められていく。物理的ではない、精神的にじわじわと。義母が作り上げた常識という名の檻の中で、私は異端者として晒し者にされている。夫の和也はそんな状況でもなお、母を止めることも私の味方になることもできず、ただオロオロと立ち尽くすばかりだ。
「そうよ、みんなもっと言ってやって。この常識知らずの嫁に」と、義母の言葉に義母のみ咲が勝ち誇ったような笑みを浮かべて私に近づいてきた。「ねえ、由美さん、もう諦めたら? お母様に逆らっても何一ついいことなんてないのよ。さっさとこの人たちを追い返して、お母様に土下座して謝りなさいよ。すれば少しは許してもらえるんじゃない」その言葉はまるで呪詛のように私の心にまとわりつく。土下座。この十年間、何度理不尽な理由でそれを強要されてきたことか。私の脳裏にこれまでの屈辱的な日々が走馬灯のように蘇る。しかし、私の心はもう折れてはいなかった。義父が残してくれた、たった一つの希望。そして水希さんという心強い味方。私はもう一人ではないのだ。私がぐっと唇を噛みしめ、侮辱に耐えていた、その時だった。静粛に、凛とした声が再び部屋に響いた。水希さんだった。いつの間にか白木の台の上には美しい白布が敷かれている。彼は全ての準備が整ったかのように、ゆっくりと振り返ると、騒ぎ立てる義母たちを冷たい視線で一瞥した。「これより、故・鈴木正一様の七回忌の法要を、子細に則って取り行わせていただく。我々の邪魔をする者は、たとえ何人と雖も容赦はせぬ」その言葉には、先ほどとは比べ物にならないほどの絶対的な圧があった。まるで見えざる力によって口を封じられたかのように、義母もみ咲も、そして他の親戚たちも、微動だにできずにいる。リビングは水を打ったような静けさに包まれた。一体これから、この場所で何が始まろうとしているのか。誰もが息を呑んで、水希さんの一挙一動を見つめていた。
リビングを支配する張り詰めた静寂。その中で水希さんはゆっくりと、白布で覆われた木箱の一つを開けた。中から現れたのは、年代を感じさせる黒塗りの小さな位牌だった。しかし、それはただ古いだけではない。素人目にも分かるほどの気品と風格を漂わせている。「まず、こちらが鈴木家初代当主に当たられる、鈴木左衛門尉のご位牌でございます」水希さんの抑揚のある声が響く。その言葉に、義母が「わぁ」と間の抜けた声を出した。「鈴木左衛門尉? 誰ですの? それ、うちのご先祖様にそんな名前の方はいらっしゃいませんけど」義母は軽蔑の顔で、床の間に飾られている立派な仏壇に目をやった。そこには、夫の正一を始めとするここ数代の位牌が並べられているだけだ。水希さんはそんな義母の言葉を無視するように、次々と木箱を開けていく。中から現れるのは、いずれも同じように古く、そして荘厳な雰囲気を纏った位牌ばかりだった。「こちらが二代目、信綱様。そして三代目、影虎様」次々と読み上げられていく、聞いたこともない先祖たちの名前。それはまるで大河ドラマの登場人物のようだった。親戚たちもざわざわと騒ぎ始める。「おい、聞いたことあるか? うちのご先祖様に、あんな武士みたいな名前の人がいたなんて」「いや、初耳だ。うちの家は確か、明治時代に商売で財を成したと聞いていたが」
そう。義母が常々自慢していた鈴木家の格式とは、明治時代に事業を起こし成功し、財を成したという、比較的新しい歴史に基づいたものだった。それ以前の歴史については、義母自身も「さあ、ただの農民だったんじゃないの」と大して興味を持っていない様子だった。しかし、水希さんが今並べている位牌は、明らかにそれよりもはるかに古い時代のものだ。その事実に最初に気づいたのは、夫の和也だった。彼は歴史が好きで、古いものにも多少の知識がある。「母さん、あれは……あの位牌の様式は、少なくとも江戸時代。いや、もっと古いかもしれない。それにあの家紋は……」和也は位牌の隅に刻まれた小さな紋章を指差し、息を呑んだ。それは、教科書で見たことがあるような武家の家紋だったのだ。「家紋? 和也、あなた何を言っているの。うちの家紋はあの仏壇に飾ってある、丸に違い鷹羽でしょ」義母は首をかしげる。「いいえ、奥様。それはあなた様のご実家の家紋でしょう」水希さんが静かに、しかしきっぱりと指摘した。「あなた様がこの鈴木家に輿入れされた際、本来の鈴木家の歴史と伝統を疎んじ、全てをご自分の家のやり方に塗り替えてしまわれた。小一様はそのことをどれほど嘆いておられたことか」その言葉は義母の胸に深く突き刺さったようだった。彼女の顔が怒りで赤くなったかと思うと、次の瞬間には恐怖で青ざめる。
これが私の、そして亡き義父の秘密だった。この鈴木家は世間的には明治時代に成功した商家の資産として知られている。しかし、その本当のルーツは、鎌倉時代からこの地を治めてきた名家の末裔なのだ。時代の流れの中で没落し、一時は農民として暮らしていた時期もあった。しかし、義父の祖父にあたる人物が機会に恵まれ、明治時代に再び財をなし、かつての土地を取り戻した。義父の正一は、その家の歴史と伝統を深く愛し、誇りに思っていた。しかし、商家の娘として育ち、金こそが全てと信じる義母の富子にとって、そんな古臭い歴史は何の価値もないものだった。彼女は輿入れしてくるなり、この家に古くから伝わる調度品や書物を「古臭い」「みすぼらしい」と次々に処分し、代わりに高価で派手な西洋家具などを買い揃えた。仏壇も先祖代々のものから、金箔が施されたけばけばしいものに買い換え、本来の家紋が刻まれた位牌や仏具を奥の間にしまい込んでしまったのだ。義父はそんな妻の振る舞いに心を痛めながらも、家庭の平和を思い、強く咎めることができなかった。そして彼は、自分の死期を悟った時、私に全てを託したのだ。「由美さん、私はもう長くない。だが、このままでは鈴木の本当の歴史が、富子の手によって完全に消し去られてしまう。ご先祖様に申し訳が立たない」病で弱々しく私の手を握りながら、義父は涙を流した。「この家の奥の間に、本当の位牌と古文書が隠してある。そして、私の旧知に水希という男がいる。彼は古文書を読み解き、正しい儀式を取り行うことができる、日本でも数少ない人物だ。いつかお前が本当にこの家を立て直そうと決意した時、彼に連絡してくれ。彼は必ずお前の力になってくれるはずだ」そして義父は私に、水希さんの連絡先と奥の間の鍵をこっそりと手渡してくれた。それが今から五年以上も前のこと。私はこの日のために、ずっと屈辱に耐え続けてきたのだ。義母の罵声も、義母のみ咲の嘲笑も、夫の不甲斐なさも、全てはこの瞬間のために。鈴木の本当の歴史と、義父が守りたかった心を取り戻すために。
「あなた、一体何者なの」義母が震える声で水希さんに問いかける。水希さんはゆっくりと振り返り、深々と頭を下げた。「私は、水子霊法、第二十七代、本水希蒼源と申します。先代、小一様とは長年のご厚誼を賜わっておりました。完月流式霊法の家元です」聞いたこともない流派の名前。しかし、その場の誰よりもその言葉の重みを理解したのは、大学で民俗学を少しかじっていた義母のみ咲の夫だった。「水龍だって? まさか、あの皇室の儀式にも関わっていると言われる伝説の家元?」彼の驚愕の声がリビングに響き渡る。その瞬間、部屋の空気はただの静寂から異変へと変わった。義母は、自分がとんでもない相手にとんでもない暴言を吐いてしまったという事実に、ようやく気づき始めたのだった。しかし、そんな状況でも、義母の小さなプライドは現実を受け入れることを拒否する。彼女は親戚たちに向かって金切り声をあげた。「騙されないで! 皆さん、目を覚ましなさい! そんな崇高な人物が、こんな底辺育ちの嫁に呼ばれてくるわけないじゃない。どうせ由美が、私が渡した千円で雇った三流の役者に決まってるわ。見なさいよ、この薄汚い木の板を並べて、何がご先祖様の位牌よ。うちの格式高い法要が、こんなガラクタで汚されるなんて!」それは、あまりにも恐れを知らない最大の侮辱だった。何百年もの間、鈴木家を守り続けてきたご先祖様の魂が宿る位牌を、彼女は「薄汚い」「ガラクタ」と言い放ったのだ。水希さんの背後に控えていた弟子たちの目つきが、すっと鋭く冷たいものに変わった。しかし、私は一言も発しなかった。ただ静かに、冷ややかな視線で、必死に喚き散らす義母の哀れな姿を見つめていた。
「ほら、見なさいよ。由美の奴、何も言い返せないじゃないの。この嘘つき女が! 私に恥をかかせるために、こんなくだらないお芝居を打つなんて、本当に醜くて腐った根性ね」私の完全な沈黙。それは、義母の狂気をさらに増幅させるための、最も効果的な罠だった。彼女は今、自らの手で自分の首を絞めるロープを全力で引き絞っているのだ。誰も彼女を止めようとはしない。「こんなゴミ、私が今すぐ捨ててやるわ」義母が完全に理性を失い、白木の台に並べられた尊い位牌に向かって手を伸ばそうとした、その時だった。「そこまでになさいませ」水希さんの静かだが、雷鳴のように響く一言で、義母はまるで透明な壁にぶつかったかのように動きを止めた。「奥様、あなたの無礼と傲慢さは、もはや我慢の限界です。しかし、これ以上、小一様が命がけで守ろうとした鈴木家の魂を汚すことは、この水希蒼源が許しません」「何よ、偉そうに! ここは私の家よ。警察を読んで、あんたたち全員、不法侵入で叩き出してくれるわ!」顔を真っ赤にして凄む義母。事態はもはや、親戚筋の争いという枠を超え、取り返しのつかない大問題へと拡大していた。「警察でも何でも、お好きなようにお呼びになればよろしい」水希さんは全く動じることなく、薄く微笑んだ。「ですが、その前に。どうやら本日、お招きした最後の客人がご到着されたようです」その言葉とほぼ同時に、玄関の方から「ごめんください」という低く、しかし驚くほどよく通る重厚な声が聞こえてきた。義母の動きが止まる。親戚たちも一斉に廊下の方へと視線を向けた。ゆっくりとした足音がリビングへと近づいてくる。そして、開け放たれた扉の向こうから姿を現したその意外な人物を見た瞬間、義母の目玉が飛び出さんばかりに見開かれた。「だ、大覚王将様!」義母の口から、信じられないものを見たというような掠れた声が漏れた。そこに立っていたのは、この県で最も格式が高く、歴史的建造物にも指定されている名刹、竜雲寺の住職であり、大覚王将、その人だったのだ。紫色の最高位の衣に身を包んだその姿は、まさに威風堂々とした貫禄を放っていた。実は、義母は今日の七回忌のために、三百万円という大金を積んで、この大覚王将に読経を依頼していた。しかし、竜雲寺は「金銭で僧を買うようなものの法要は、お断りしております」と鼻であしらうように一蹴されていたのだ。その、絶対に呼べないはずの高僧が、なぜ今、我が家に立っているのか。「あ、ああ。大覚王将様! わざわざ主人の七回忌にお越しくださったのですね。私の誠意がついに通じたのですね!」義母は状況も分からず、満面の笑みを浮かべて大覚王将の元へ駆け寄ろうとした。これで自分の顔が立つ。この高僧の登場で、自分の格式の高さが証明される。そう信じて疑わなかったのだろう。だが、次の瞬間、大覚王将は擦り寄る義母をまるで路傍の石ころのように完全に無視して通り過ぎた。そして、部屋の中央に立つ水希さんと、その横で静かに佇む私の前に進み出ると、信じられない行動に出たのだ。「水希殿。そして、由様。本日はこの老骨をお招きいただき、誠に光栄の至りに存じます。小一様とのお約束、いよいよ果たされる時が来ましたな」そう言うと、県内で最も尊いとされるその高僧が、あろうことか私に向かって、深々と地面に頭がつくほど丁寧な礼をしたのである。「な……」義母の口から間抜けな音が漏れた。親戚たちはあまりの衝撃に言葉を失い、幽霊のように固まっている。一体何が起きているのか。なぜ、あの高僧が、一つ間違えば底辺育ちの嫁である私に、これほどの敬意を払うのか。義母の頭の中は完全にパニックを起こし、その顔面からは急速に血の気が引いていった。
「だ、大覚王将様! 何かの間違いですわ! どうして、その女なんかに頭を下げるのですか?」静まり返ったリビングで、義母の金切り声だけが虚しく響き渡った。「このいやつは、貧乏な田舎町の出身の、貧乏人の娘です! ろくな教育も受けていない、うちの格式に泥を塗るだけの役立たずの嫁なんですよ! お上様のような高貴なお方が、そんな醜い女に頭を下げるなんて、絶対に何かの間違いです!」義母の口から飛び出す、聞くに堪えない侮辱の数々。しかし、私は一切の表情を変えず、ただ静かに彼女の醜態を見つめていた。大覚王将は、顔を真っ赤にして喚き散らす義母を、まるで哀れな生き物を見るような、深く静かな目で見据えた。「愚かな。貧しいのは、お前のその浅ましい心の方だ、富子殿」高僧の低く、しかし腹の底に響くような一喝。それは、これまで誰にも逆らわれたことのなかった義母にとって、雷に打たれたような衝撃だったのだろう。「いえ、お上様。私、私はただ、鈴木の格式を……」大覚王将は静かに首を振り、白木の台に並べられた古い位牌に深く一礼した。「小一殿が長年、心を痛めておられた意味が、今、よく分かった。お前は金銭で身を張ることだけを格式と勘違いし、この鈴木家に何百年と受け継がれてきた真の歴史を、その手で泥に塗れてきたのだ。あの世で、小一殿がどれほど血の涙を流しておられるか」義母は言葉を失った。そして、大覚王将はゆっくりと私の方に向き直ると、信じられない言葉を口にした。「富子殿。お前は、この由美がどこの何者であるか、本当に何も知らぬのだな」「わ、私なんて、どうせ名前もないような……」大覚王将が、ビリビリと空気を震わせる低い声で言い放った。「由美のご実家は、この地方の総社であり、鎌倉時代より八百年もの間、我が竜雲寺の筆頭檀家として多大なるご支援を賜わってきた、真の名門、山音寺家の末娘であられるぞ」その言葉が落ちた瞬間、リビングの時が止まったかのように完全な静寂が訪れた。山音寺。それは、この地方に住むものであれば、歴史の授業で一度は耳にする名前だ。文化財の保護や伝統行事の継承において、今なお絶大な影響力を持つ一族。決して表立って派手に金銭をひけらかすことはないが、その精神的な権威と格式は、富子の持つ財産など足元にも及ばない。「山音寺……嘘よ。だって、由美はそんなこと、一言も……」義母はパクパクと口を動かし、信じられないものを見る目で私を見た。私は静かに義母の目を見据え返した。「お義母様。私が実家の名を伏せていたのは、お義母様が『家柄』という言葉に異常なほどの執着をお持ちだと、最初の挨拶の日に気づいたからです。ただ、波風を立てず、和也さんと静かに家庭を築きたかった。ですが、お義母様は私の実家を貶めるだけでなく、義父が命がけで守ろうとした鈴木の歴史すらも、ご自分の見えのために踏みにじった。もう許すわけにはいきません」私の静かな、しかし氷のように冷ややかな声が、部屋の隅々にまで届く。「五年前、義父は亡くなる間際に、私にこの家の本当の位牌と古文書を託されました。そして、もしも誰かがこの家の魂を完全に壊そうとした時は、頼むと。私は今日、その約束を果たすために、水希様と大覚様にお越しいただいたのです」義母は、腰が砕けたように畳の上にへたり込んだ。彼女の築き上げてきた薄っぺらな優越感が、音を立てて崩れ去っていく。
大覚王将は、昭和にへたり込む義母を一瞥し、そして水希さんに静かに頷きかけた。「さて、水希殿。小一殿の魂を慰めるための、真の法要を始めようではないか。由美が、その身を切るような思いでご用意された、あの千円の品と共に」親戚たちの間に、再び動揺が走った。そう。千円。義母が私を辱めるために投げつけた、あの一枚のくしゃくしゃの千円札。誰もがあれは単なる嫌がらせであり、私が自腹を切って水希さんたちを呼んだのだと思っていた。しかし、違うのだ。水希さんが懐からそっと、小さな漆塗りの盆を取り出した。そこにうやうやしく乗せられていたのは、他でもない、義母が私に投げつけた、あの千円札だったのだ。「奥様。あなたが由美様に投げつけたこの千円札こそが、本日の法要における、最大の肝となります」水希さんの目が鋭く光る。一体、この千円札で何をするというのか。絶望に目を見開く義母と、息を呑む親戚たちを前に、私はゆっくりとその千円札に手を伸ばした。漆黒の美しいお盆の上に、ぽつんと置かれた一枚のくしゃくしゃな千円札。先ほどまで義母が私を嘲弄し、ゴミのように投げつけたその紙幣が、今はまるで神聖な儀式のように掲げられている。「ば、馬鹿にしないでよ! 高が千円札一枚で、何ができるっていうの!?」裏返った声が虚しく響く。しかし、誰も義母の味方はしない。この地方で絶対的な権威を持つ大覚王将と、皇室にも繋がるという名家の家元。彼らを前にして、誰一人として義母に同調する愚か者はいなかった。義母は、今度は息子の和也にすがりついた。「和也、あんたからも言ってやりなさい! この女が頭のおかしいペテン師だって! うちの財産を乗っ取るために、こんな坊主や役者を雇って!」「母さん、もうやめてくれ」和也は母親の手を振り払い、顔を真っ赤にして叫んだ。「相手は山音寺と大覚王将様だぞ! これ以上逆らったら、うちの会社だって、この町で生きていけなくなる!」夫の悲痛な叫びに、義母は信じられないものを見るように目を見開いた。これまで自分の言いなりだった息子に拒絶され、彼女の中に残っていた最後の理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れたのが分かった。義母は狂ったように立ち上がり、私に向かって指を突きつけた。「あんたみたいな陰湿な女、最初から気に入らなかったのよ! 山音寺だかなんだか知らないけど、どうせ今は落ちぶれた一文無しの家なんでしょう! だから、うちの財産目当てで和也に近づいたのよ! この泥棒猫! 醜くて貧乏くさくて、吐き気がするわ!」なりふり構わぬ醜悪な侮辱の連呼に、リビングの空気がさらに凍りつく。大覚王将も水希さんも、そのあまりの品のなさに眉を潜めた。しかし、私は一言も発さなかった。ただ静かに、冷ややかな瞳で喚き散らす義母を見下ろしているだけだ。私が沈黙すればするほど、義母の焦りは加速していく。「ゆ、あんた、何か言いなさいよ! 黙ってないで、言い返しなさいよ!」その時、水希さんが静かに一歩前に出た。「奥様。由美様が沈黙されているのは、あなた様の言葉が、反論する価値すらないほどに、浅ましく的外れだからです」水希さんは、お盆の上の千円札をそっと差し示した。「あなたはこの千円を、高が千円と笑い、貧乏人の証だと侮辱した。しかし、いにしえの作法において、金額の高低は問題ではありません。そこに込められた魂の重さこそが、儀式の正否を決めるのです」「た、魂の重さ? 何よ、意味が分からないわ!」義母がヒステリックに叫ぶと、今度は大覚王将が重々しい声で口を開いた。「富子殿。お前は先ほど、我々に三百万円の布施を提示して、法要を依頼してきたが、それは己の見えを張り、嫁を貶めるための汚れた三百万円。仏の目から見れば、そのような金は、神仏への価値しかない」大覚王将の言葉に、義母は息を呑んだ。「だが、由美が握りしめたこの千円には、小一殿への深い敬愛と、何百年も続く鈴木家の魂を救おうとする、血のにじむような覚悟が込められておる。ゆえに、この千円は、お前の三百万円など足元にも及ばぬほど、黄金の輝きを放っているのだ」「そ、そんな……気合の入った千円札じゃないの! そんなもの、私が今すぐ破り捨ててやるわ!」パニックに陥った義母は、発狂したように水希さんの手にあるお盆へと飛びかかろうとした。しかし、背後に控えていた水希さんの弟子たちが、瞬時に義母の前に立ち塞がり、見えない壁のようにその動きを封じ込めた。
「話してください! 触らないで! その千円札を捨てなさい!」無理に暴れる義母を見つめながら、私はついに静かに口を開いた。「お義母様。無駄です。その千円札は、もう私の手から離れ、正当な役割を果たしました」「は?」義母が動きを止め、しばし呆けた目で私を睨む。「ええ、お義母様は私に、この千円で裁墳を用意しろと命じられましたね。ですから、私はこの千円を、大覚王将様への初穂料、初穂料としてお納めいたしました。義父様が残された、あるものの封印を解くための、正式な代金として」その瞬間、大覚王将が懐から、厳重な布で包まれ、太い水引きで封印された古い箱を取り出した。その箱の蓋には、義母が隠し続けてきた、鈴木家の本当の家紋がくっきりと刻まれている。「な、何なの、それは!?」義母の声が掠れていた。「小一殿が亡くなる直前に、我々に託された、真の遺言状だ」大覚王将の言葉が、リビングに爆弾のように投下された。「小一殿はこうおっしゃった。『もし将来、富子が完全に正気を失い、この家の魂を売り渡そうとした時。そして、由美が自らの意志で、千円の初穂料を収めた時のみ、この封印を解いてくれ』とな」「遺言状を、千円の初穂料……嘘よ! 主人がそんなものを残すはずがないわ!」義母は信じられないというように首を横に振る。しかし、その額からは滝のような汗が流れ落ちていた。「では、皆様の御前でお見せいたしましょう。五年もの間、隠し続けてきた真の遺産を」大覚王将が静かに水引きに手をかけた。封印が解かれようとするその瞬間、リビングの空気は極限まで張り詰め、誰もがこれから飛び出すであろう真実を待った。義母の偽りの王国が、音を立てて崩壊する決定的な瞬間が、すぐそこまで迫っていた。静まり返ったリビングに、紙が割れる乾いた音が響いた。大覚王将の手が太い水引きをゆっくりと解き、古い箱の蓋を開ける。中から取り出されたのは、厳重に封がされた一通の白い封筒だった。そこに書かれた「遺言状」という文字は、紛れもなく義父・正一の力強い筆跡である。大覚王将は封筒を開け、中から幾重にも折りたたまれた紙を取り出すと、ゆっくりと広げた。そして、よく通る重厚な声で、その文面を読み上げ始めた。「私、鈴木正一は、我が鈴木家の行く末を深く憂慮している。妻、富子の果てしない虚栄心と伝統を軽んじる傲慢な振る舞いにより、数百年守り抜いてきた我が家の魂は、今まさに消え去ろうとしている」大覚王将の声が響く度、義母の肩がびくっと跳ねる。「私は己の不甲斐なさにより、妻の暴走を止められなかったことを、深く恥じる。我が家に嫁いできた由美は違った。彼女は山音家という真の名門の出でありながら、決して怒らず、私が愛してやまなかった庭の草花や、我が家の真の歴史に、誰よりも深い敬意と愛情を注いでくれた」その一節を聞いた親戚たちが、再びざわめいた。「やっぱり由美さんは、あの山音寺のお嬢様だったのか」「富子さん、とんでもない人を長年いじめていたんだな」親戚たちのひそひそ声が、義母をさらに追い詰めていく。しかし、大覚王将の読み上げる遺言状は、まだ最も重要な核心を残していた。「よって、私は鈴木家の真の継承者を、息子の和也でも妻の富子でもなく、嫁の由美であると定める。鈴木代々の土地、この本家の屋敷、並びに奥に眠る全ての歴史的遺産、その一切の所有権と管理権を、由美に相続させるものとする」義母の口から、空気が漏れるような音がした。夫の和也も、絶句している。「嘘よ! 嘘よ! そんなの、偽物よ!」沈黙を破り、義母が発狂したように叫んだ。「私が正妻なのよ! 和也という跡取りだっているのに、どうして、この貧乏臭い女に全財産を持っていかれなきゃならないの! どうせあなたが、お上様を誑かして偽造したに決まってるわ! この泥棒猫! 狡猾な詐欺師! うちの財産を返しなさい!」飛び散る唾をものともせず、義母の口から次々と飛び出す醜悪な侮辱の言葉。しかし、私はただの一歩も引かず、完全なる沈黙を貫いた。反論すらしない。表情すら変えない。ただ、氷のように冷たく静かな眼差しで、喚き散らす義母をまっすぐに見据え続けた。「富子殿。見苦しいぞ」大覚王将が一喝する。「これは、公証役場で作成された、法的に一切の隙がない遺言書だ。由美が偽造などできるはずがない。正一は、お前がいつか必ずこの家を完全に私物化して売り飛ばすことを予見し、我が竜雲寺と水希殿を証人として、法的な手続きを完了させておられたのだ」「ふ、ふざけないで! 私には妻としての権利があるわ! 遺留分というものがあるのよ! 弁護士を呼んで、こんな出鱈目な遺言、絶対に無効にしてやるんだから!」義母は最後の悪あがきとばかりに、自分の持つ法律の知識を振りかざした。しかし、その必死の抵抗を、水希さんが冷淡極まりない声で切り捨てた。「奥様。あなたは根本的な勘違いをされている。あなたが普段、湯水のように使い、自慢している財産とは、鈴木家が明治以降に起こした会社や、その金融資産のことでしょう?」「そ、そうよ。だから何よ?」「小一様は、その新しい財産については、遺言状の対象から外しておられます。つまり、会社のお金や株などは、法定相続人であるあなた様や和也様が、ご自由にされれば良いのです」「え?」義母はポカンと口を開けた。「じ、じゃあ、私の財産は無事なのね? 何だ、脅かさないでよ。この古臭い家や土地なんて、どうせ大した価値もないんでしょう。そんなもの、この女にくれてやるわよ」義母の顔に、再び見苦しい安堵の色が浮かんだ。家と土地を奪われても、自分にはまだ莫大な預貯金や会社の資産がある。そう信じ込んだのだ。しかし、私は初めて、口元にわずかな笑みを浮かべた。哀れな義母。彼女はまだ、自分が立っている足元の地面が、とうの昔に崩れ去っていることに気づいていないのだ。「お義母様、本当にそれでよろしいのですね」私の静かな問いかけに、義母は鼻で笑った。「ええ、いいわよ。そんなボロ屋敷、あんたにくれてやるわ。私は会社の社長夫人として、一生優雅に暮らすんだから」「なるほど。では、お上様。例のもう一つの書類を、皆様にお見せいただけますでしょうか」私がそう促すと、大覚王将は深く頷き、木箱の底から、さらに厳重に保管されていたもう一枚の書類を取り出した。「富子殿。お前は、小一殿がなぜ会社の資産をお前に残したか、その本当の理由を知らぬようだな」「ほ、本当の理由?」義母の顔から、再びすっと血の気が引いた。「この書類はな、小一殿が亡くなる直前に、こっそりと我々に託した、お前への最大の罰とも言える、真実の記録だ」大覚王将がその書類を広げた瞬間、リビングの空気は、これまでとは比べ物にならないほどの、圧倒的な絶望の気配に包まれた。
「会社の資産? 何よ、それ。主人が残した会社の株や事業は、法定相続人である私と和也のものなのでしょう。それに一体、何の問題があるって言うのよ!」大覚王将が広げた二枚目の書類を前に、義母は目を血走らせ、裏返った声で叫んだ。大覚王将は、哀れみすら浮かべた瞳で義母を一瞥すると、重々しい声でその書類を読み上げ始めた。「我が鈴木家の事業は、もはや実態を伴わぬ空洞である。妻、富子の底なしの浪費と、見栄を張るための無謀な交際費により、我が社は莫大な負債を抱え、とうの昔に火の車であった」「あ……」義母の口から、間の抜けた音が漏れた。「私が生きている間は、なんとか私個人の信用と、身を粉にして働くことで支えてきた。だが、私の死後、和也の経営能力では、会社は数年で確実に破綻する。残されるのは、数億円にも上る莫大な借金のみである」と、正一は遺言に、血のにじむような思いを込めて、はっきりと記しておられた。リビングに、不気味なほどの静寂が落ちた。親戚たちは、皆、呼吸をするのも忘れたかのように固まっている。「う、嘘よ!」義母は後ずさりし、首を激しく横に振った。「嘘よ! 騙されないわ! うちの会社は県内でもトップクラスの優良企業よ! 私が毎月、どれだけデパートで買い物をして、どれだけ高級フレンチで食事をしていると思っているの! お金なんて、いくらでも湧いてくるじゃないの!」パニックに陥った義母は、矛先を再び私へと向けた。「分かったわ。あんたね。あんたがお上様を誑かして、こんな出鱈目な借金の話をでっち上げたんでしょ! 私から全てを奪うために! この他人の財産にたかろうとする、醜い下衆な貧乏人の魂で、私を騙せると思ったら大間違いよ!」親戚の面前で放たれる、狂気に満ちた侮辱の言葉。しかし、私は一言も言い返さなかった。ただ静かに、微動だにせず喚き散らす義母を、氷のような瞳で見据えているだけだ。「和也! あんたからも言ってやりなさい! うちの会社が借金まみれだなんて! この女の嘘っぱちだって、社長のあんたが一番よく分かってるでしょ!」義母はすがるように、隣でうずくまる和也の肩を激しく揺さぶった。だが、顔を上げた和也の表情を見た瞬間、義母の顔から完全に血の気が引いた。和也は、大粒の汗を流し、ガチガチと歯を鳴らしながら、まるで幽霊でも見るような目で虚空を見つめていたのだ。「母さん……本当だよ」和也の悲痛な叫びが、義母の最後の希望を粉々に打ち砕いた。「親父が死んでから、会社の経営はずっと赤字だったんだ。母さんが毎月使っていた何百万ものお金は、利益じゃない。会社の運転資金として、あちこちの銀行から無理やり借り入れただけの借金だよ!」これまで信じて疑わなかった、大金持ちの社長夫人という自分の身分。それが実は、借金という蟻地獄の上に成り立っていた幻だったと、ついに突きつけられたのだ。「借金……数億円の借金……じゃあ、私の優雅な生活は? 私の格式は?」義母は膝から崩れ落ち、畳の上に突っ伏した。親戚たちは「おい、鈴木の会社、倒産寸前だったのか」「俺たちにも飛び火しないだろうな」と、雲の子を散らすように義母から距離を取り始めている。だが、その絶望の淵で、義母の顔に、ふと歪んだひらめきが走った。彼女は突っ伏したまま、顔だけを上げて私を睨みつけた。その唇の端が、三日月のように釣り上がっていく。「ふふ……あはははは!」突然、狂ったように笑い出した義母に、親戚たちが息を呑む。「借金があるなら、銀行がお金を貸す時に、担保を取っているはずじゃない。数億円もの借金の担保なんて、この由美にくれてやったこの土地と屋敷に決まってるわ!」義母は立ち上がり、勝ち誇ったように私を指さした。「バカな女ね。あんたは主人の遺言でこの家を相続したかもしれないけど、会社が借金を返せなくなれば、銀行がこの家を差し押さえるのよ! 結局、あんたも家を追い出されて、一文無しのホームレスに逆戻りってわけね!」自分が地獄に落ちるなら、私も道連れにしてやる。それが義母が絞り出した、最後のそして最も醜悪な手だった。確かに、一般常識で考えれば義母の言う通りだ。会社の莫大な借金の担保には、この古い本家の土地と建物が当てられているはず。会社が倒産すれば、名義が私に変わろうと、抵当権を行使されて全てを失う。夫の和也も、「そうだ……家が担保に入ってるんだ。由美、お前も終わりだ」と見苦しく同調し始めた。狂気乱舞する義母と夫。しかし、私はただ静かに、優やかに、二人を哀れなものを見るような目で見つめていた。「お義母様。本当に、ご自分の置かれている状況がまだお分かりにならないのですね」私の静かな、しかし凛とした声が、義母の笑い声をぴたりと止めた。「何よ! 負け惜しみを言うんじゃないわよ!」私はゆっくりと、間に置かれた白木の台、そこに並べられた尊い位牌へと向き直り、深く一礼した。そして、振り返り様に、この場で最大となる決定的な事実を口にした。「確かに、この家と土地には、数億円の抵当権が設定されていました。ですが、その莫大な借金を肩代わりし、全ての債権を買い取った大債権者が誰なのか、お義母様はご存知ですか?」「だ、債権者? 銀行じゃないの?」義母が、嫌な予感に顔を引き攣らせる。「銀行ではありません。大覚王将様、お願いいたします」私がそう言うと、大覚王将は懐から、最後の封筒を取り出した。その封筒の表書きを見た瞬間、義母と和也の目は限界まで見開かれた。そこに記されていた名前こそが、義母を完全なる地獄へと突き落とす、死刑宣告だった。大覚王将は、深く息を一つ吐き出すと、静かに、しかしリビングの空気をビリビリと震わせるほどの威厳を持って、その名前を読み上げた。「鈴木家の抱える総額五億円にも上る莫大な負債。その全ての債権を銀行から買い取り、この土地と屋敷の抵当権を完全に掌握した大債権者。それは、一般財団法人、山音寺歴史保全機構。そして、その代表理事を務めるのは、他でもない、ここにいる山音寺由美様である」義母の口から、間の抜けた音が漏れた。親戚たちも皆、信じられないものを見るように一斉に私へと視線を向ける。「五億円……財団法人……山音寺が……由美が……」和也は膝から崩れ落ち、そのまま畳にへたり込んだ。しかし、義母だけは違った。彼女の歪んだプライドは、この絶対的な事実を前にして、現実を受け入れることを激しく拒絶したのだ。「嘘よ! 騙されないわよ!」義母は立ち上がり、狂ったように両腕を振り回して叫んだ。「何が山音寺よ、何が財団法人よ! どうせ歴史の教科書に載ってるだけの、金もない没落貴族でしょうが! 五億円なんて大金、こんな小汚い服を着た貧乏臭い女の家が出せるわけないじゃないの! これは詐欺! 私を貶めるための、完全な詐欺だわ!」彼女の口から飛び出す、聞くに堪えない侮辱の数々。「あんたみたいな醜い女が五億円も持ってるなら、どうして今まで私の言う通りに床掃除なんかしてたのよ! どうして私が投げた千円札なんかを、ありがたく拾ったのよ! 嘘つき! 泥棒! このペテン師が!」飛び散る唾をかけながら、かつて格式を重んじ、親戚の前で上品ぶっていた義母の面影は、もはや見る影もない。そこにあるのは、自らの破滅から目を逸らすために他者を罵倒することしかできない、醜悪な老婆の姿だけだ。私は一切の反論をしなかった。ただ、微動だにせず、氷のように冷たく静寂を纏った瞳で、発狂する義母を見下ろしている。私のその絶対的な沈黙は、義母の言葉が取るに足らない戯言であるという、何よりの証明だった。「ゆ、何か言いなさいよ! 言い返してみなさいよ!」息を切らし、肩で息をする義母に対し、代わりに口を開いたのは水希さんだった。「奥様。あなたのその浅はかな想像力には、吐き気がします」水希さんの声は、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。「山音寺家が守り抜いてきたのは、単なる名前ではありません。広大な社領、数々の国宝級の美術品、そしてそれらを管理するための莫大な資産。山音寺家の財力からすれば、五億円など、極々わずかな端金に過ぎません」「端金……」義母が息を呑む。「小一様は、ご自身の会社の経営が立ち行かなくなり、この歴然たる本家の屋敷がいずれ銀行の手に渡ってしまうことを、深く憂慮しておられました。だからこそ、由美様のご実家である山音家の先代当主に、涙ながらに土下座して懇願されたのです。『どうか、我が家の魂だけは守ってやってほしい』と」大覚王将が、水希さんの言葉を引き継ぐ。「山音寺家は、小一殿のその切実な願いと、何百年も続く鈴木家の歴史の重みを汲み取り、極秘裏に全ての債権を買い取られた。そして、由美はこの家を、富子の暴挙から守るため、ご自分の身分を隠し、どんな屈辱にも耐えながら、正一の遺言が効力を発揮する今日という日を、じっと待ち続けておられたのだ」その言葉に、親戚の何人かが「由美さん、なんと立派な……」と感嘆の声を漏らし、静かに涙を拭った。私はゆっくりと一歩前に出た。義母は後ずさりしようとしたが、腰が抜けて尻餅をついた。「お義母様。会社の借金の連帯保証人に、お義母様と和也さんのお二人が指定されていましたね」私の静かな問いかけに、和也が短い悲鳴をあげた。「それが、どうかしたのよ! 会社が潰れても、私は自己破産すればいいだけよ! あんたには一銭も払うもんですか!」義母は悪態をつきながら、必死に居直る。「自己破産。ええ、それも一つの道でしょう。ですが、お義母様はご存知ないのですか? 自己破産をすれば、お義母様が隠し持っている高級品の数々、宝石、ブランドバッグ、外車、その全てが差し押さえられ、処分されるということを」義母の顔面が、今度こそ完全に硬直した。「それに、お義母様は会社の経費を私的に流用し、数千万円もの使途不明金を作っていましたね。横領罪や特別背任罪が問われれば、免責が認められない。つまり、借金が帳消しにならない可能性が極めて高いのです」私の口からすらすらと出てくる法律と財務の知識に、和也は完全に絶望し、顔を両手で覆って泣き崩れた。「終わった……俺の人生、終わった……母さんの見えのせいで、数億円の借金を背負わされた……」私は、山音寺財団の代表として、二人に告げた。「私は、お二人に貸し付けた五億円の、全額一括返済を、本日この場を持って要求いたします」私の凛とした宣言が、鈴木家のリビングに、決定的な死刑宣告として響き渡った。五億円。それは義母と和也が、一生かかっても返すことのできない絶望的な数字だ。義母が私に投げつけた千円の、何十万倍もの重みが、今、そのまま彼女たちの頭上に降りかかったのである。義母は、もはや言葉を発することもできず、ただ口をパクパクと開閉し、白目を剥きかけの顔で私を見上げている。完全に逆転した。いや、最初から、私が全てを握っていたのだ。義母の築き上げた偽りの王国は、今、完全に崩壊の時を迎えた。
「五億円……全額一括返済……」リビングの畳にへたり込んだ和也の口から、魂が抜けたような呟きが漏れた。彼は焦点の合わない目で虚空を見つめ、やがて、その視線を隣で尻餅をついている母親の富子へと、ゆっくりと向けた。その目には、これまで見せたことのない、ドス黒い憎悪の炎が宿っていた。「母さん……あんたのせいだ……」血を吐くような和也の声に、義母がびくっと肩を震わせる。「あんたが毎晩のように高級レストランで飲み食いして、くだらない見栄のために何百万もする宝石を買い漁ったからだ! 親父が死んでから、俺がどれだけ銀行に頭を下げて金を借り回ったか! 全部、あんたのせいだ! あんたが俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!」これまで母親の言いなりだった和也が、親戚たちの前で初めて見せた牙。しかし、義母も負けてはいなかった。彼女の歪んだプライドは、自己の非を認めることを決して許さない。「何を私のせいにするのよ! あんたが経営無能のダメ社長だから、会社が儲からなかったんでしょうが! 私を誰だと思っているの! 私は鈴木家を支えてきた立派な主婦よ!」見苦しい責任の擦り付け合い。かつて格式高い名家を気取っていた親子の姿はそこにはなく、ただ己の保身だけを考えて遺恨し合う、哀れで滑稽な二人が、畳の上で醜く縺れ合っているだけだ。「おい、俺たちは帰るぞ。こんな借金まみれの家に関わってられるか」親戚の一人が青ざめた顔で立ち上がると、他の親戚たちも雲の子を散らすように玄関へと向かい始めた。「待って、私も帰るわ、こんな家、嫌!」義母のみ咲が、親戚たちの後ろに隠れるようにしてこっそりと逃げ出そうとした。だが、その腕を夫である拓也が、がしっと力強く掴んだ。「お前はどこへ行くつもりだ?」「た、拓也さん、痛い! 話してよ!」拓也は冷徹な目で妻を睨み下ろした。「逃げられると思うなよ。お前、自分の母親と一緒に、この由美さんを散々いじめて楽しんでいただろう。完月流の家元や大覚王将様、そして山音寺家にまで喧嘩を売ったんだ。俺は、お前たちみたいな狂った一族とは、今日限りで縁を切る。離婚だ」「え、離婚? 待って! 拓也さん、お願い、見捨てないで!」意外な人物である拓也からの突然の絶縁宣言。これまで義母の庇護のもとで図に乗って蜜を吸っていたみ咲は、夫に突き離され、その場に泣き崩れた。親戚たちも足早に去り、広々としたリビングには、完全に孤立し、借金という底なし沼に取り残された義母、和也、み咲の三人だけが残された。完全に逃げ場を失った義母は、しばらく呆けた目で部屋を見回し、そして最後のターゲットを私に定めた。彼女は、ぼろぼろと涙と鼻水を流しながら、両手をついて私の元へ這い寄ってきた。「ゆ、由美さん……いや、由様! あなた、五億円も持ってるんでしょう? 山音寺財団っていう、すごいところのトップなんでしょう?」義母は私の足元にすがりつき、顔をぐしゃぐしゃにして懇願し始めた。「だったら、その借金、チャラにしてちょうだいよ! ねえ、私たち家族じゃない! 家族がお金で困っているのに見捨てるなんて、人間の道が外れてるわ! あなた、鈴木家の嫁でしょ! 義理を果たすのが当たり前じゃないの!」命乞いをしているのか、命令しているのか、彼女の口から次々と飛び出すのは、支離滅裂な論理だった。「大体ねえ、あんたがそんな大金持ちなら、最初からそう言えばよかったのよ! そしたら私だって、あんたに優しくしてやったのに! 私をこんな目に合わせるなんて、本当に陰湿で、性格がねじ曲がった、醜い女ね!」助けを求めながらも、息を吐くように飛び出す侮辱の言葉。私は、足元で喚き散らす義母を見下ろしたまま、一言も発さなかった。表情の筋肉すら動かさない。怒りも哀れみも、一切の感情を切り捨てた、絶対的な沈黙。その冷ややかな視線が、刃のように義母の心臓を突き刺していく。その時、私はゆっくりと懐から封筒を取り出し、義母の目の前に、ぱさりと落とした。「お義母様。私とあなた方は、もはや家族ではありません」義母と和也が、床に落ちたその封筒に目を落とす。そこに書かれていた「離婚届」という文字を見た瞬間、和也が「あっ」と短い悲鳴をあげた。「こ、これ……俺が昔……」私は、初めて冷ややかな笑みを口元に浮かべた。「和也さん、覚えていますか? 三年前、私がお義母様のいじめが辛いと、あなたに泣きついた時。あなたは私を庇うどころか、署名済みのこの離婚届を私に投げつけましたね。『文句があるならこれを出して、いつでも出ていけ』と。そして、『何の取り柄もない女、俺が拾ってやったんだぞ』とも」和也の顔から、完全に血の気が引いた。彼は、自分が放った傲慢な言葉と行動が、三年という時を経て、自分自身の首を跳ねるギロチンとなって帰ってきたことを悟ったのだ。「あの時から、私はこの用紙を肌身離さず持ち歩いていました。そして、本日、法要が始まる前に、役所への提出を済ませてまいりました。この離婚届は、すでに受理されています」「う、嘘だ……嘘だろ、由美……」和也が絶望の声をあげる。「よって、私は鈴木家の人間ではありません。あなた方とは、法的に一切無関係の、完全なる他人の債権者です」私は、足元にすがりつく義母の手を、冷たく払いのけた。「他人である私に、あなた方の五億円もの借金を肩代わりする義理が、一体どこにあるというのでしょうか」義母は、口を大きく開けたまま、声にならない声を漏らした。家族という最後の命綱すら、当の昔に自らの手で切断していたという事実。それが、彼女たちを本当の地獄の底へと突き落としたのだ。「さあ、お義母様、和也さん。五億円の全額一括返済期限は、今月末です。もし支払えなければ、この家も土地も全て差し押さえ、あなた方の財産も全て差し押さえさせていただきます」私が突きつけた衝撃の逆転劇に、義母は完全に白目を剥き、その場にばたりと倒れ込んだ。しかし、私の復讐は、まだ終わらない。この日、義母が私に与えた最大の屈辱、あの千円札の制裁が、まだ残っているのだから。「ですが、お義母様。一つだけ、あなた方に慈悲をお与えしましょう」私が静かに告げると、倒れ込んでいた義母が、びくっと反応した。彼女はすがりつくように顔を上げた。白目を剥きかけていたその顔に、再び、見苦しい欲望の色がぱっと広がる。「そ、そうよね! 慈悲! 由様には慈悲の心があるのよね! だってあなたは、名門のお嬢様で、大財団のトップなんだから!」義母は、先ほどの暴言をまるでなかったかのように、ぺこぺこと愛想を振りまき始めた。「分かってるわ。五億円なんて、あなたからすれば小銭みたいなものなのでしょう? だったら借金はチャラにしてくれるのよね? この家だって、今まで通り、和也を住ませてくれるんでしょう? ねえ、私たち、血は繋がっていなくても、一緒に暮らしてきた家族みたいなものじゃない」和也もまた、母親の横で、ペコペコと頭を下げている。「そ、そうだよ、由美。俺が悪かった。離婚届けのことは謝るから、やり直そう。俺はお前を愛してるんだ。社長夫人の座だって、お前に譲るから」もはや、哀れを通り越して滑稽だった。数億円の借金から逃れられるためなら、見下していた相手の靴の裏でも舐める。それが、長年格式を尊び、気取ってきた親子が辿り着いた、あまりにも無惨な姿だった。私は、すがりつく義母と和也を、まるで路傍の石ころを見るような、一切の感情を排した冷ややかな瞳で見下ろした。「やり直す? 借金を帳消しにする? お義母様、和也さん。あなた方は、私が与えるといった『慈悲』の意味を、根本的に履き違えておられます」愛想を振りまいていた義母の顔が、きくりと引きつった。私は静かに視線を外し、水希さんへと頷きかけた。水希さんは心得たように一歩前に出ると、先ほどから大切に持っていた黒塗りの美しいお盆を、義母の目の前にすっと差し出した。そのお盆の中央に、ぽつんと置かれているもの。それは、数時間前、法要が始まる前に、義母が私に向かってゴミのように投げつけた、あのくしゃくしゃの千円札だった。「こ、これ……私が由美に渡した千円札? どうして、こんなものが?」義母は、不気味なものを見るように目を丸くした。「お義母様。あなたはこの千円札を私に投げつけ、『これでご先祖様のために立派な裁墳を用意しろ』と命じましたね」私の静かな声が、張り詰めたリビングの空気に響いていく。「数百年に渡ってこの地を守ってきた鈴木家の歴史。そして、あなたを誰よりも愛し、この家を守ろうと命を削った義父様の、尊い魂。あなたはそれらの絶対的な価値を、たったの千円だと、蔑み賤しめたのです」「そ、それは……ただの冗談じゃない! あんたをちょっと辛い目に合わせたかっただけで!」「いいえ。あなたは、ご自身の言葉で、明確にその価値を定められたのです。ですから、私は新しいこの家の当主として、そして、あなた方の債権者として、あなたのその設定を、尊重することにいたしました」私はゆっくりと、お盆の上からその千円札を拾い上げた。そして、顔面を蒼白にして震える義母の目の前に、とん、と、まるでゴミを捨てるように落とした。「これが、私からの慈悲です。あなた方が鈴木家に残した価値は、千円ですから。あなた方の会社の全て、そして、この家に置いてあるあなた方の私物の全てを、私がこの千円札と引き換えて差し上げます。これは、全財産を差し押さえられ、明日から着る服も食べるものもないあなた方への、私からのささやかな手切れ金であり、新生活への資金です。さあ、その千円で、ご自分のこれからの人生の裁墳を、立派にご用意なさい」それは、絶対的な仕返しだった。自分が私を嘲弄するために使った千円札と、「裁墳を用意しろ」という言葉が、全く同じ構図で、強烈なカウンターとなって、自分自身の脳天に突き刺さったのだ。「ああ……ああぁっ!」義母は、畳の上に落ちた千円札を見つめながら、獣のような絶叫を上げた。彼女の、泣く子も黙るプライドは、この瞬間、細胞の隅々に至るまで、完全に粉砕された。「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!」錯乱した義母は、立ち上がって私に掴みかかろうとした。「あんたみたいな悪魔! 絶対に許さない! 私から全てを奪って、千円で追い出すなんて! この、恩知らずの、冷酷な化け物! 貧乏神! あんたなんか、地獄に落ちればいいのよ!」髪を振り乱し、涎を垂らしながら、ありったけの言葉で私を罵倒する。これ以上ないほどの、醜悪で下劣な侮辱の雨。だが、私は一歩も退かず、ただまっすぐに、完全なる沈黙で彼女を見据え続けた。何を言われても、私の心には微塵の波紋すら立たない。ただ、静かに、冷たく、絶対的な勝者として、足元で吠え狂う敗者を見下ろすのみ。その沈黙こそが、義母にとっては、いかなる暴力よりも恐ろしい、完全な敗北の証明だった。「由美! 言い返しなさいよ! 何か言いなさいよ!」義母の悲痛な叫びが虚しく響き渡る中、大覚王将が、静かに、しかし雷のような声で一喝した。「見苦しいぞ、者ども。ここは、お前たちのような汚れた人間が、これ以上足を踏み入れて良い場所ではない」水希さんに向かって、「水希殿、その者どもを、門の外へ叩き出せ」と言った。水希さんの合図と共に、背後に控えていた弟子たちが一斉に動き出した。彼らは暴れる義母と、腰を抜かして立てない和也の腕を容赦なく掴み上げると、引きずるようにして廊下へと連行していく。「話して! 私はこの家の奥様よ! 社長夫人なのよ! やめて!」「母さん……母さんのせいだ……あんたのせいで、俺の人生は……」義母の金切り声と、和也の恨み言が、玄関の向こうへと遠ざかっていく。やがて、バタンという重厚なドアの閉まる音が響き、外へ放り出された二人の声は、完全に遮断された。
リビングには、再び深い静寂が戻ってきた。嵐が去った後の、澄み切った清らかな静寂。私がこの十年間、ずっと待ち望んでいた、本当の鈴木家の空気が、そこにはあった。「終わりましたな、由様」水希さんが、深く一礼しながら静かに言った。大覚王将も、優しい眼差しを向けて頷いている。「ええ。これでようやく、義父様との約束を果たせました」私は、張り詰めていた糸が切れたように、小さく息を吐いた。全てが終わった。鈴木家の魂は守られ、義母たちは自らの浅はかさによって裁かれた。完璧な勝利。究極のカタルシスだった。水希さんに促され、私は白木の台へと視線を向けた。義母たちが放り出され、再び深い静寂に包まれたリビング。その中央に鎮座する白木の台には、何百年もの時を刻んできた鈴木家代々の尊い位牌が並んでいる。その最も奥、義父・正一さんの位牌の裏側に、今まで気づかなかった小さな細長い木箱が、ひっそりと置かれていた。私が戸惑っていると、大覚王将が優しく微笑みながら歩み寄り、その小さな木箱を両手でうやうやしく持ち上げた。「正一殿が我々に遺言を託された日、もう一つ、こう申された。『もし、由美さんが全ての試練を乗り越え、この家を救ってくれたなら、その時にだけ渡してほしい』と」大覚王将はそう言うと、木箱をそっと私の両手に乗せた。とても軽い。しかし、私の胸が締めつけられるほどに、温かい重みを持った箱だった。「開けてみてください、由美さん」私は震える手で、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。中に入っていたのは、見事な細工が施された年代物の笄だった。その形には、鈴木家の本当の家紋である、武家の門が金糸でひっそりと、しかし誇らしげに描かれている。そして、その笄の下には、一枚の紙が折りたたまれて入っていた。それを開くと、そこには義父の優しく、貴重な筆跡が並んでいた。同時に、紙の間から、はらはらと押し花にされた一輪の青い花がこぼれ落ちた。それは、五年前に私が庭の片隅で生けていた、あの名もなき草花だった。義父は、あの日私が生けた花を、ずっと大切に押し花にして残してくれていたのだ。手紙は、「由美さんへ」という、短い書き出しから始まっていた。「この手紙をあなたが読んでいるということは、あなたはあの恐ろしい逆境に耐え抜き、愚かな富子たちから、鈴木家の魂を守り抜いてくれたということだろう。本当に、本当にすまなかった。本来であれば、私が生きている間に富子を正し、あなたを守らなければならなかった。私の不甲斐なさのせいで、あなたにどれほどの辛い思いをさせてしまったか。謝り切れない」文字の所々が、水滴が落ちたように滲んでいる。義父が病床で涙を流しながらこの手紙を書いた姿が目に浮かび、私の視界も次第にぼやけ始めた。「富子は家柄や格式ばかりを口にしていたが、この鈴木家に本当の気品をもたらしてくれたのは、由美さん、あなただった。あなたが毎朝、誰に言われるでもなく、庭の草花を愛で、仏壇を丁寧に磨き、慎ましくも温かい食事を作ってくれる。その後ろ姿を見るたび、私は『ああ、我が家に本物の娘が来てくれた』と、どれほど救われた気持ちになったことか」「お義父様……」私の口から、嗚咽が漏れた。この十年間、義母からどれほど理不尽な言葉を投げつけられても、夫から冷たくされても、親戚の前で笑い者にされても、私はただの一度も涙を見せず、感情を殺して耐え抜いてきた。絶対に負けないと、心を氷のように凍らせてきたのだ。でも、義父は全てを見ていてくれた。私の本当の心を、誰よりも理解し、愛してくれていた。「同封した笄は、鈴木家が最も栄えていた時代、歴代当主の妻が受け継いできた証だ。富子は古臭いと見向きもしなかったが、私はこれを、本当に鈴木家を愛してくれる者に託したかった。由美さん、あなたはもう、鈴木家に縛られる必要はない。自由になりなさい。だが、もしあなたがこれからもこの場所を愛してくれるのなら、どうか、この笄を受け取って欲しい。あなたは、私の自慢の娘です。本当にありがとう」私は手紙を胸に抱きしめ、その場に泣き崩れた。ずっと張り詰めていた心の糸が解け、凍りついていた感情が、温かい涙となって溢れ出した。義母たちに罵倒されていた時でさえ、微動だにせず冷ややかな沈黙を貫いていた私が、声を上げて、子供のように泣きじゃくっている。その姿を、水希さんも大覚王将も、まるで実の父親のように、温かく慈愛に満ちた眼差しで見守ってくれていた。「由美さん。正一様は、あの世で今、誰よりも喜んでおられますぞ」大覚王将が、私の肩に優しく手を置いてくださった。「さあ、涙をお拭きなさい。これより、正一様と、鈴木家代々の魂を慰める、真の法要を取り行いましょう」水希さんの凛とした声に、私は深く頷き、涙を拭って立ち上がった。私は、義父が残してくれた笄を、そっと自分の髪に挿した。そして、水希さんの家元としての作法に則り、大覚王将の重厚な読経がリビングに響き渡る中、私は心からの祈りを込めて、ご先祖様と義父に手を合わせた。そこに、見栄や、人間の浅ましい家や金銭にまみれたものはない。あるのは、純粋な敬愛と歴史を敬う心だけ。この法要こそが、義父がずっと望んでいた、真の格式高い儀式だった。
それから半年後。私は一人、縁側に座って、美しく咲き誇る庭の花を眺めていた。手には、義父が好きだった素朴な茶碗に入った、温かい番茶。心地よい初夏の風が、庭の木々を優しく揺らしている。あの日の後、義母と和也は、五億円の借金を返済できるはずもなく、自己破産の手続きに入った。しかし、私の忠告通り、横領や背任の疑いがかけられたため、免責はおりず、彼らは文字通り全てを失った。今頃は、私が手切れ金として投げ与えたあの千円札を握りしめ、日雇いの過酷な労働に身をやつしながら、互いを恨み合う、地獄のような日々を送っていると聞く。み咲もまた、夫から見捨てられ、実家にも頼れず、パートを掛け持ちしながら、孤独な生活を余儀なくされているそうだ。彼らがどうなろうと、もはや私には関係のないこと。私は財団の代表として、この鈴木家の屋敷と土地を歴史的文化財として保護し、義父が愛した庭の手入れをしながら、静かで穏やかな日々を過ごしている。「お義父様。藤も今年も綺麗に咲きましたよ」私は、そっと髪に挿した笄に触れた。もう、誰も私を貶める者はいない。理不尽な言葉を投げつける者もいない。あるのは、静寂と、守るべき故郷の歴史だけ。吹き抜ける風が、まるで「ありがとう」と囁く義父の声のように聞こえた。私はゆっくりと目を閉じ、これからの新しい人生に向かって、誰にも曇らされることのない、心からの柔らかな微笑みを浮かべるのだった。
