「もしかして、仕事ができなさすぎて、こんな雑用を任されてるのか?」
「目が…だな。」
「ああ、そういうことじゃない。恥ずかしがらなくていいぞ。どこに行っても、無能は無能のままなんだっていうのが分かって、俺は満足だ。」
俺、花宮誠、26歳のサラリーマン。大学を卒業して、大石製薬という会社に入社して4年が経つ。仕事にも慣れ、いろんな人と仲良くしたり、切磋琢磨しながら働いてきた。周りとはいい関係を築けていると思っている。だが、たった1人だけ、どうしても親睦を深められない相手がいる。
それが、直属の上司である安田部長だ。
俺のことが気に食わないのか、毎日のようにしごかれている。ある時は、作った資料を見もせずに「やり直し」と突き返してきたり、またある時は、到底1人では処理しきれない量の仕事を押し付けて、定時で帰ってしまったりする。しかも、その仕事の中には、係長以上の人のサインが必要なものまで含まれていた。
自分の仕事だけでも精一杯なのに、先輩に助けてもらうこともあった。でも、それが余計に安田さんの気に食わない原因なんだろう。
さらに、俺のことだけを狙い撃ちにして、「こんな小さな仕事もできないのか」「やっぱり、あの辺の大学を卒業したやつは、容量が悪くて困る」などと言って、見下してくる。
安田さんは有名な大学を卒業したらしく、自分のことをエリートだと思っているらしい。もちろん、係長にまで出世しているのだから、仕事ができるのは分かっている。ただ、ずっと学歴マウントを取ったり、昔に大成功させた企画の話を何度も何度も聞かされるのは、どうかと思う。
俺は、他の人が誰も知らないような地元の大学を卒業した。まだまだ新人で、大きな企画を任されることもないから、安田さんにとっては自慢するにはうってつけの相手なのだろう。
でも、俺の仕事を中断してまで聞くような話ではない。それに、安田さんが成功させた企画なんて、もう何年も前の話だ。今さら持ち出さないで欲しいと思うのは、間違っていないはずだ。
俺だけでなく、他の先輩たちも同じことを考えているようだった。つまり、俺だけではなく、他の社員も安田さんのことを嫌っていることが多かった。
そんな日々が続いた、ある日のこと。俺は一身上の都合で、転職することになった。
部署内の人たちは、俺がいなくなることを悲しんでくれた。だが、安田さんだけは違った。
「お前みたいな無能がいなくなって嬉しいよ」
そう言って、捨て台詞を吐いたのだ。
最後まで苛立たせる人だなと思いながらも、おそらくもう会うこともないだろう。これもこの会社での思い出だと、その言葉を聞き流すことにした。
そして、安田さんのことは明日から一切忘れて、新しい会社で新規一転、頑張っていこうと心に決めたのだった。
新しく勤め始めた会社。そこには、俺のことをいびる人はいなかった。俺の実力をきちんと見てくれる人ばかりだった。
多少は、「中途採用のくせに、仕事を評価されるなんておかしい」などと、文句や嫌味を言ってくる人もいた。だが、それはどこの会社でも同じことだろう。
俺は気にせず、自分のすべきことをやり続けた。
それから2年後のことだ。
俺が会社のビルのトイレを掃除していると、誰かが中に入ってくる気配がした。
まだ掃除中だと伝えるために、入口の方を振り返ると――そこに、ここにいるはずのない安田さんが立っていた。
俺はあまりの驚きに、何も言えずに相手を見続けてしまった。
安田さんも、まさか俺がいるとは思わなかったのか、目と口を大きく開けて、俺を凝視していた。
しかし、すぐに「にやり」と嫌な笑みを浮かべると、こう言った。
「随分と落ちぶれたな」
彼の言っていることの意味が分からず、「えっ」としか言えないでいると、安田さんは表情を変えずにゆっくりと近づいてきた。
「急に転職したかと思ったら、こんなところで清掃員として働いていたなんてな」
「今だけです。普段は普通の会社員です」
「もしかして、仕事ができなさすぎて、こんな雑用を任されてるのか?」
「いえ、そういうことではなく……」
「恥ずかしがらなくていいぞ。どこに行っても、無能は無能のままなんだっていうのが分かって、俺は満足だ」
安田さんは、俺のことを見下すような目をしながら、上から下までじっくりと見た。
そんなに掃除をしているのが面白いのか、ずっと笑い続けている。その顔に嫌な気持ちになりながらも、なぜここに安田さんがいるのか、疑問をぶつけた。
「この会社と取引をするために来たんだ。無事に成功したが、帰る前にトイレを利用しようと思ってな」
どうやら、俺が今働いている会社と、大石製薬が新しい取引を始めたらしい。そして、安田さんはその担当者として、ここを訪れていたのだ。
俺が納得していると、今度は安田さんが話を始めた。
「そもそも、なんでお前みたいなやつが、この会社で働いてるんだよ」
「どういうことですか?」
「うちの会社が、ようやく取引を成功させた大手の薬品会社だぞ。ここで働いてるなんておかしいだろ」
「そんなに驚くことではないと思いますが」
「お前はいつもそうだ。仕事ができて、周りからちやほやされて。俺だって頑張ってるのに、なんでお前ばかりが好かれるんだ」
安田さんは、急に怒り狂い、俺に罵声を浴びせた。
今まで、そんなことを思っていたなんて。考えたこともなくて、ただ驚いていると、安田さんは「にやり」と笑った。
「でも、お前は今、こんなにも落ちぶれているんだもんな。この会社でトイレの清掃員なんて、恥ずかしいやつだ」
「これには色々と訳がありまして……」
「何も言わなくていい。どうせ、仕事ができなかったり、上司にいびられたりしてるんだろ。気分がいいな」
安田さんは、俺の話を全く聞かず、独り言のようにずっと話し続ける。
「そうだ。もっと仕事を増やしてやるよ」
そう言うと、安田さんは近くに置いてあったバケツを持ち上げたかと思うと、中に入っていた汚い水を、俺に向かって「ばしゃり」とかけた。
「何をするんだ!」
驚いて声をあげるが、安田さんは「ゲラゲラ」と笑うだけだ。
「やっと契約できた、大事な取引先なのに、こんなことしてもいいのか!」
そう抗議しても、安田さんは「落ちぶれたお前には、もったいないくらいだよ」と言うだけだった。
そして、満足したのか、ずぶ濡れの俺をそのままにして、「すっきりした」と言って帰って行った。
本当に気分が良さそうな顔をしていた。あまりの仕打ちに、俺はしばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
どうして、ここまでのことが出来るのだろうか。
俺はさっきまで、安田さんの言動を気にしないでいようと思っていた。でも、ここまでされてしまったら、どんなに優しい人でも我慢できないだろう。
今まで、嫉妬していたから一緒に働いていた時は、俺のことばかりをいびっていたようだけど。もう今は、別の会社で働いている。ここまでする理由にはならない。
そもそも、これは絶対に許される行為ではないのだから、俺が取る行動は一つだけ。
俺はすぐにスマホを取り出すと、ある人に電話をかけたのだった。
そして、翌日。
俺が会社の社長室の前に来ると、扉の向こう側から怒鳴り声が聞こえてきた。
「君がやったことは、どれだけのことか分かっているのか!」
どうやら、少し来るのが遅かったようだ。
俺がノックをして中に通してもらうと、そこには顔色を悪くして謝り続けている安田さんと、怒りで顔を真っ赤にした大石社長が立っていた。
今、俺がいる場所は、俺が務める会社の社長室。そして、大石さんはこの会社の社長だ。
なぜ、俺がここにいるのかと言うと。
昨日、安田さんが俺にした行いを、大石社長に報告したのだ。安田さんのしたことについて、これから話をするつもりだからだ。
実は、大石社長は、俺が今務めている会社まで謝罪に行くとまで言ってくれた。だが、他の社員に見られるのも嫌だったので、今回は社長室で話をすることにした。
「おい、何があったんだ。こいつが、俺の会社のトイレで掃除をしていたお前に、水をかけたのか?」
「はい。間違いありません」
俺がそう答えると、安田さんは慌てて言い訳を始めた。
「おい、何を言ってるんだ! 俺は、この会社の取引相手の担当者だぞ! 俺を陥れる気か!」
どうやら、安田さんはまだ状況を理解していないようだ。
「安田さん。落ち着いてください」
「何が落ち着くだ! お前、ふざけたことを言ってると、今度はお前の会社の人間にもバラすぞ!」
「……だから、落ち着いてください。俺が、この会社のことを、どれだけ知っていると思っているんですか?」
俺がそう言うと、安田さんは「はっ」と鼻で笑った。
「はっ、知ってるも何も、トイレの掃除をしている清掃員に、俺の会社の何が分かるっていうんだ」
「……本当に、知らないんですね」
俺はため息をつくと、大石社長の方を見た。大石社長は、何も言わずに頷いてくれた。
「安田さん。あなたにお伝えしなければいけないことがあります」
「何だ。早くしろ」
「俺が、なぜこの会社のトイレを掃除しているのか。ちゃんと説明します」
安田さんは、怪訝な顔をしながらも、黙って俺の話を聞く姿勢を取った。
「ここでトイレを掃除しているのは、仕事を干されているからでも、不器用だからでもありません。ここで働くすべての人の、健康と安全を守るために、掃除をしていたんです」
「は? 何を言ってるんだ」
「この会社に入社する前、俺は大石製薬に勤めていました。そこで4年間、営業として働いていました。でも、ある日突然、あなたに仕事を押し付けられたり、成果を横取りされたり、存在自体を否定するような言葉を毎日のように浴びせられて、耐えられなくなって辞めました」
安田さんは、俺の言葉に顔色を変えた。
「お、前、まさか……」
「ええ。あなたの言う通りです。俺は、大石製薬で、あなたにいじめられていた元社員です」
「そんな、じゃあ、お前、どうしてこんな大手の会社に……」
「この会社の社長の大石さんは、俺の父です」
その言葉を聞いた瞬間、安田さんの顔から血の気が引いていくのが分かった。
「ち、父……?」
「そうです。俺は、この会社を継ぐために、現場を学ぶ目的で、あえて大石製薬のような中小企業に就職していました。父の会社で働く前に、厳しい環境を経験しておきたかったんです。ですが、まさかこれほどの仕打ちを受けるとは思ってもいませんでした」
「な、なんで……そんな……」
安田さんは、後ずさりながら首を振り続ける。
「お前みたいなのが、大石グループの……? そんなはずはない。嘘だ。嘘を言っているんだろう!」
「本当のことです。証拠を見せましょうか?」
俺がそう言うと、大石社長が静かに口を開いた。
「本人が認めているんだ。間違いない」
大石社長は、安田さんをじっと見つめた。
「安田さん。あなたは、うちの息子だけでなく、多くの部下をいびってきたと聞いています。そして、今回の件は、取引先の人間に対して、一方的に水をかけるという暴行行為です。この件について、もちろん大石製薬の社長にも報告させてもらいます」
「そ、そんな! それは勘弁してください! 俺の立場がなくなってしまう!」
「立場? あなたが、これまで部下にたくさんしてきたことでしょう。それを、今度は自分がされる側になっただけのことです」
安田さんは、その場に崩れ落ちるようにして、必死に懇願し始めた。
「お願いします! これ以上は許してください! 本当に、何でもしますから!」
「そうですね」
そう言ったのは、意外にも大石社長ではなく、黙って話を聞いていた俺の上司だった。
「こちらの希望を、全部飲んでもらいます。できなければ、本社の役員会に報告します」
「な、なんなりと!」
安田さんは、藁にもすがる思いで必死に頭を下げた。
その後の処理は、あっという間に終わった。
安田さんは、大石製薬の関連会社への出向という形で、管理職から外された。実質的な左遷だ。そして、二度と、誰かをいじめることができないような、厳しい環境での仕事を任されることになった。
さらに、今回の騒動で、大石製薬の社長にも、安田さんのこれまでの行いがすべて報告された。彼が、部下からどれだけ恨まれていたかも、すぐに明らかになった。
評判を落とし、まさに落ちぶれた安田さんを見て、俺は少しだけ胸がすく思いがした。
「忘れずによくやった」
そう言って、大石社長、つまり父が俺の肩を叩いた。
「ああ。でも、僕が耐えた4年間のことを思えば、当然の報いだよ」
その後、俺は正式に父の会社の役員として迎え入れられた。初めは、周りの社員たちも驚いていたが、俺の実力を認めてくれるまで、そう時間はかからなかった。
安田さんが、かつて俺に言った言葉がある。
「どこに行っても、無能は無能のままだ」と。
でも、実際はどうだったか。
無能だったのは、彼の方だった。
実力もないのにプライドだけが高くて、弱い者をいじめることしかできない、本当に哀れな人間。
俺は、彼のようにはならないと強く心に誓った。
あれから数年が経った今、俺は父の後を継いで、大石グループの社長として働いている。
安田さんは、出向先の会社で、役職もなく、かつての部下たちにすら軽んじられているらしい。たまに、街中で見かけることもあるが、いつも俯き加減で、酷く小さく見える。
自分が蒔いた種とはいえ、少しだけ可哀想になることもある。
でも、あの日、黙って水をかけられていたら、今の俺はなかった。
これでやっと、俺の新しい物語が始まったのだった。
