娘の葬儀を終え、四十九日の準備をしていた夜のことでした。夜の十時過ぎ、ぼんやりと窓の外を眺めていると、玄関のドアを低くノックする音がしました。チャイムの代わりに、コン、コンと。こんな時間に誰だろうと思い、「どちら様ですか」と尋ねても返事はありません。しばらくすると、また同じ音がしました。
近所の子供のいたずらかもしれないと思い、用心しながらドアを開けた瞬間、私は心臓が止まるかと思いました。
ドアの外に、死んだはずの娘、しおりが立っていたのです。
「お母さん」
その声は、墓から掘り起こされたように低く、重く、濡れた石のような響きでした。
「私、しおりだよ」
私はその場にへなへなと座り込んでしまいました。その子は間違いなくしおりでした。しかし、その姿は私の知っている娘ではありませんでした。雨に濡れた髪は無造作に短く切られ、痩せた顔には骨が突き出ていました。みすぼらしい服はあちこち破れ、まるで棺桶から這い出してきた人のようでした。
信じられませんでした。私が自ら葬儀を行い、火葬まで見届けた娘が、私を訪ねてきたのです。
あの日、電話を受けた日のことを思い返すと、最初からおかしなことばかりでした。空は朝からどんよりと曇り、黒い雲が低く垂れ込めて、真っ昼間なのに薄暗かったのです。雨は降っていませんでしたが、今にも降り出しそうな天気で、なぜか心がざわつき、不安な気持ちになりました。
洗濯物を取り込む時も、しきりにしおりのことが思い出されました。結婚してから連絡は途絶えがちになりましたが、こんなに長く音沙汰がないのは初めてのことでした。電話をかけてみようかとも思いましたが、忙しいかもしれない、夫のトオルさんと過ごしているかもしれないと思うと、ためらってしまいました。
午後になると、ついに雨が降り始めました。最初はぽつぽつと降っていましたが、次第に粒が大きくなり、やがて激しい雨足に変わりました。傘も役に立たないほどの大雨が、ガラス窓を叩きつけていました。
その時、電話のベルが鳴りました。知らない番号でしたが、なぜか出なければならないような不吉な予感がして、急いで電話に出ました。
「もしもし。鈴木しおりさんのお母様でいらっしゃいますか」
見知らぬ男の声でした。落ち着いてはいるものの、どこか重い響きのある、公務員のような堅苦しい話し方でした。
「はい。そうですが、どちら様でしょうか」
「警視庁新宿西警察署の佐藤健二警部です」
警察署という言葉を聞いた瞬間、心臓がどきりとしました。しおりに何かあったのでしょうか。まさか事故にでもあったのでは。
「うちのしおりが何か」
警部は低く慎重な声で言いました。
「先週土曜日の未明、郊外の廃ビルで大きな火災が発生しました。消防が消火作業を終えた後、女性の遺体が一体発見されまして」
警部は少し言葉を止め、再び説明を続けました。
「遺体の損傷が激しく、身元の確認に時間がかかりましたが、現場で発見された所持品と科学警察研究所のDNA鑑定により、本日、鈴木しおりさんと最終的に確認されました」
説明される状況を理解するのは困難でした。一週間、しおりから連絡がなかった。その一週間、彼女はすでにこの世の人ではなかったのです。
「な、何ですって。遺体だなんて」
私は手が震え、足の力が抜けて壁に寄りかかりました。
「現場でお嬢様の財布、携帯電話、身分証明書が一緒に発見されました」
続く警察官の説明に、私の頭の中は真っ白になりました。電話を切った後もしばらくその場に立ち尽くし、窓の外では相変わらず雨が激しく降り注いでいました。まるで空も泣いているかのように、雨音だけが大きく聞こえました。
病院に着いた時、足ががくがくと震えました。霊安室の前でしばらく立ち止まり、深呼吸をしました。中に入れば、本当に現実になってしまう気がしたからです。
「鈴木しおりさんのお母様ですね」
背の高い中年の男性が近づいてきました。電話で話した佐藤警部でした。顔は硬い表情をしていましたが、その目には同情の色が浮かんでいました。
「うちのしおりは、本当にうちのしおりなのでしょうか」
「お母さん、ひとまずお座りください」
警部が横にあった椅子を指さしました。座った途端、足の力が完全に抜けました。
「司法解剖が終わり、現在こちらの霊安室に安置されています。身元確認はすでに完了しております」
警部がしおりの財布と携帯電話の写真を見せてくれました。黒く焦げて形を判別するのは難しかったですが、間違いなくしおりがいつも持ち歩いていたものでした。特に財布は、私がしおりの誕生日にプレゼントしたものでした。
その時、四十代くらいに見える眼鏡をかけた医者が近づいてきました。白衣を着ていましたが、表情は非常に深刻でした。
「お母様、私はここの法医学科の課長、田中実と申します。遺体の状態が非常に悪いため、顔の確認は進められません。ひどく焼けているため、精神的なショックが大きい可能性があるという理由です」
私が直接確認すると言いましたが、すでに身分証明書と所持品で身元は確認されており、DNA鑑定の結果も出ていると言って止められました。九十九・九パーセント一致するという結果だったそうです。
「いや、だめ」
私の口からうめき声のような声が漏れました。これまで必死にこらえていた感情が爆発し、涙が溢れ出しました。病院の廊下の真ん中で、私は座り込んで泣き崩れました。
その時、廊下の突き当たりからトオルが歩いてきました。足を少し引きずりながら。黒いスーツをきちんと着こなしていましたが、表情が意外なほど落ち着いていて驚きました。妻をなくした男にしては、あまりにも淡々として見えました。
「本当に申し訳ありません。僕が、僕がしおりを守ってやれなくて」
声が詰まるのか、それ以上言葉を続けられませんでした。
葬儀場での三日間は悪夢のようでした。棺の中にはしおりの写真だけが置かれ、その前で弔問客を迎えなければなりませんでした。トオルはずっと私の隣で弔問客に対応し、火葬の日も、火葬へ向かう道でも、相変わらず落ち着いて私を慰め、全てのことを一人で処理してくれました。
火葬が終わり、遺骨を受け取った時、その重さがこれほど重いとは思いませんでした。私の娘がこの小さな壺の中に入っているなんて、実感が湧きませんでした。
家に帰り、リビングの一角に小さな祭壇を設け、その上に骨壺と遺影を置きました。線香を炊き、菊を備えましたが、どう見てもその中にしおりがいるとは信じられませんでした。
「トオルさん、しおりはどうしてあんな場所にいたのかしら」
私が尋ねると、トオルはしばらく沈黙しました。そしてため息をついて答えました。
「わかりません、お母さん。あの日、仕事で疲れて夜早く寝てしまったのですが、朝起きたらしおりがいなくて。どこへ行ったのか」
その説明はどこかぎこちなく、不自然でした。妻が夜中に家を出たのを全く知らないなんて、あり得るのだろうかと思いました。しかしその時は、悲しみと混乱でそれ以上聞くことができませんでした。
もっと辛かったのは、しおりの妹のミカに姉の死を伝えなければならないことでした。早くに父親をなくし、姉妹の絆はとても深かったのです。ミカは夫と共にオーストラリアのシドニーに移住して二年、そこで第一子を産んでまだ二週間しか経っておらず、日本に来られる状況ではありませんでした。
国際電話で知らせると、ミカはわんと泣きながらすぐに飛行機のチケットを取ると言いました。
「お母さん、今すぐ行くよ。お姉ちゃんを、お姉ちゃんをそのまま見送ることなんてできないよ」
「だめよ、ミカ。赤ちゃんが小さすぎるのに、どうして置いて来られるの」
「でも、お姉ちゃんだよ」
ミカの鳴き声が受話器の向こうから聞こえました。しかし、新生児を置いて長距離のフライトはできず、赤ちゃんを連れてくるにはあまりにも危険でした。
結局、私一人で全てをしなければなりませんでした。唯一そばにいてくれるのはトオルだけでしたが、その彼でさえ、なぜか心に響きませんでした。
「お母さん、お疲れでしょうから早くお休みください。僕も明日から出勤しなければならないので」
トオルはそう言うと、そそくさと出て行ってしまいました。妻の骨壺の前にもっととどまっていたくないかのようでした。
その夜、骨壺を眺めながら疑問が湧き続けました。しおりは本当にあの中にいるのだろうか。なぜあんな場所で、あんな目にあったのか。そして、トオルはなぜあんなに平然としているのか。
私は床に膝をつき、手で遺骨の壺を抱き寄せ、しおりの名前を何度も呼びました。
「しおり、母さんがごめんね。あんな風に逝かせてしまって。死んで行くその瞬間、どれほど怖くて苦しかっただろうか」
その夜から、私は毎晩夢を見るようになりました。深い闇の中を白い服を着た影が彷徨う夢。その影には顔がなかったのです。不思議なことに、私はそれがしおりではないと直感的に分かっていました。
そうして四十九日が過ぎていきました。四十九日を済ませれば、しおりもこの世への未練を断ち切り、安らかに行けるだろうと思っていました。
四十九日を翌日に控えた夜でした。窓の外では、あの日と同じように小雨が降っていました。弔いの準備で遅くまで起きていました。しおりが好きだった食べ物を一つ一つ準備しながら、子供の頃の思い出が蘇ってきました。
ふと、トオルと初めてあった日のことを思い出しました。去年の春でした。しおりがトオルと出会って三ヶ月経った頃、突然結婚したいと言って家に連れてきた日のことです。
「お母さん、紹介したい人がいるの」
しおりがいつもより浮かれた声で言ったのを覚えています。トオルは背も高くてハンサムな方でした。丁寧にお辞儀もして、しおりにも優しくしてくれているようでした。ただ少し内向的な性格のようで、口数が少なく、笑う時もどこか恥ずかしそうな感じでした。
「三ヶ月で結婚を考えるなんて」
私が驚いて尋ねると、しおりが答えました。
「お母さん、トオルさんは本当にいい人なの。私にすごくよくしてくれるのよ」
トオルは隣で少し気まずそうにしていました。
「しおりさんを本当に愛しています。幸せにする自信があります」
その言葉は本心に聞こえました。しおりがあんなに幸せそうにしているので、私は結婚を許しました。
結婚後、最初の数ヶ月はしおりからよく連絡がありました。ところが次第に連絡が途絶えがちになり、声もどこか元気がありませんでした。
「しおり、大丈夫。声が少し変だけど」
「大丈夫だよ、お母さん。ちょっと疲れてるだけ」
そう答えるのが常でした。最近の二週間は全く連絡がありませんでした。電話をかけても出ず、メッセージを送っても返事がありませんでした。
しばらくぼんやりとしおりの家を見つめていたその時、玄関のドアをノックする音がしました。先ほどトオルが少し立ち寄って挨拶して帰ったばかりなのに、何か言い残したことがあって戻ってきたのかと思いました。それ以外に、こんな遅い時間に来る人はいません。
誰かしらと思いながらドアを開けると、死んだはずの娘、しおりが立っていました。私は幽霊でも見たかのように驚いて、うめき声をあげました。そしてすぐに、しおりに促されて家の中に入れ、ドアを閉めました。
リビングに入って向かい合って座りましたが、まだ信じられませんでした。電灯の光の下でしおりをよく見ると、さらに驚きました。髪の毛はばっさりと切られて男の子の頭のように短くなっており、綺麗だった顔はげっそりと痩せていました。あちこち破れたみすぼらしい服を着て、爪は汚れていました。
本当にしおりなのか、何度も何度も確認しました。子供の頃に転んでできた膝の傷、首の後ろの三つのほくろ。全てが同じでした。
「お母さん、本当に会いたかった」
しおりが私の胸に抱きつきながら泣き崩れました。しかし、あまりに痩せているので、抱きしめている実感があまりありませんでした。以前のふっくらとしたしおりではなく、骨と皮だけが残っているようでした。私は手を伸ばし、娘の頬を撫でました。冷たかったです。しかし確かに生きていました。
「どうして。どうしてこんなことに。どうやって生きていたの。しおり、一体何があったの」
しばらく泣いてから、最初に浮かんだ考えはこれでした。
「では、私が火葬したのは誰なの。骨壺の中にいるのは誰なの」
しおりは「別の人よ」と答えました。
「警察がDNA鑑定までしたというのに、どうしてそんなことがありえるの」
「DNA鑑定の結果が、お母さん、それは捏造されたものよ」
しおりは順を追って説明してくれると言いましたが、まず約束して欲しいと言いました。自分が生きていることを誰にも言わないで欲しい。特に、トオルには絶対に言わないで欲しいと。
「どうして、夫になぜ言ってはいけないの」
しおりは体を震わせ、口を開きました。
「お母さん。トオルは、本当に恐ろしい人なの。あの人が私を殺そうとしたのよ」
その夜は、夜明けまで話が続きました。しおりが聞かせてくれた話は、想像を絶するほど恐ろしいものでした。
しおりの話は、去年の冬、バス停から始まりました。冷たい風が吹く夕方、しおりが両手をポケットの中で擦り合わせていた時、一人の男が近づき、優しい声で話しかけました。
「手がとても冷たそうですね」
その男がトオルでした。何度かの偶然の出会いが重なり、三ヶ月後、彼はプロポーズしました。しおりはその優しさを愛と信じました。私も彼を信じました。霊に正しく、誠実そうに見え、家族のように接してくれたからです。
しかし、その全てが計画だったと、しおりは後になって知ることになります。
結婚後、数ヶ月は普通の夫婦のように見えました。しかし、ある日突然、トオルはしおりに会社をやめるように言いました。「これ以上苦労せず、家事だけをしながら楽に休んで欲しい」と。
最初はしおりも自分のためを思って言ってくれているのだと思いました。しかし、次第に何かが少しずつおかしくなっていきました。外出や連絡を制限され、電話一本かけるのにも彼の顔色を伺わなければなりませんでした。
「お母さんと話す時は、僕が隣にいるよ。最近、よく連絡を取り合っている人はいないよね」
トオルの声は相変わらず優しかったですが、その中に監視の気配が漂っていました。スーパーに行くのも許可が必要になり、時間を正確に測られ、遅れるとレシートまで確認されました。
そんなある日の夜でした。トオルが「これまで自分がしおりを苦しめすぎた」と言って、久しぶりにしおりのために手料理の夕食を用意すると言いました。食卓にはスープと煮物、しおりの好きなから揚げ、そしてコップ一杯の水が置かれていました。
しおりがその水を飲んだ瞬間、視界が揺らぎました。床に倒れ込む瞬間、ぼやける視界の先に、トオルの冷たく微笑む顔が見えました。
目を覚ましたのは、窓のない地下室でした。湿気が壁を伝い、天井からは水がぽたぽたと垂れ落ちていました。ドアの外から足音が聞こえるたびに、息が苦しくなりました。
トオルが現れて言った言葉は、さらに衝撃的でした。
「君が死んでくれないと、僕がまともに生きられないんだ」
その言葉は冷たく、完結でした。しおりは息が止まるようでした。
「トオルさん、どうしてこんなことをするの。どうして私をこんな場所に閉じ込めるの」
彼女の声は震えていましたが、トオルはまばたき一つしませんでした。
「五年で分かるさ」
短く、きっぱりとした一言だけでした。無表情の中に漂う狂気が、しおりを一瞬で凍りつかせました。
「脱出するなんて夢にも思うな。通報でもしてみろ。お前の家族全員、俺が手を下さなくても消すことができる」
しおりは息が詰まり、言葉を失いました。彼は一歩近づき、嘲笑うように言いました。
「一緒に働いている仲間が、今もみんな監視している。俺がどこで何をしているか、誰と連絡を取っているか。全部報告が来るんだ」
しばらくして、しおりはドアの隙間から漏れてくるトオルの声を聞きました。彼は誰かと電話中でした。
「計画通り進めろ。時間はこっちで決める。証拠は綺麗に消せ。二度と戻ってこれないようにしろ」
そしてその夜、ドアを開けてトオルが入ってきました。彼の手には、小さな茶色の瓶と注射器が握られていました。
「これで静かに暮らせる」
彼の口角がすっと上がりました。しかし、その笑みはゾっとするほど不気味でした。しおりは直感的に分かりました。この男は、今、本当に自分を消そうとしているのだと。
その瞬間、しおりは生きなければならないと決心しました。彼の隙を突いて、錆びた鉄パイプでトオルの足を突き刺し、ドアを蹴破って階段を駆け上がり、割れた窓から身を投げて逃げました。
外は真っ暗でした。逃げるうちに、山道に出ました。トオルは足を引きずりながら、必死に追いかけてきました。しおりは急いで避けようとして悲鳴を上げ、片方の靴が崖の下へ転がり落ちました。幸いにもしおりは落ちず、大きな岩の影に隠れました。トオルはしおりがそのまま落ちて死んだと思ったのか、しばらく崖の下を見下ろした後、引き返していきました。
しおりは夜明け方、息が上がってくるまで走りました。後ろを振り返る勇気もなく、足に引っかかる木の枝や石をそのまま踏みつけながら。手には何も持っていませんでした。携帯電話も、お金も、身分証明書も。全身泥と引っかき傷だらけでした。
山の下の村に降りてきましたが、早朝で人影はまばらでした。しばらく歩き続けた末、しおりは廃墟のような古い廃屋を見つけました。扉は半分ほど壊れ、中は埃だらけでしたが、今すぐ身を隠せる場所はここしかありませんでした。
数日間、彼女は村から村へと渡り歩きました。廃れたバスで、橋の下や廃墟に見える倉庫の中で眠り、道端のコンビニのゴミ箱から捨てられたパンやおにぎりを取り出して空腹をしのぎました。
そうして数日を耐えていたある日、コンビニの前に置かれたテレビからニュース速報が流れました。画面には炎が燃え盛る住宅が映し出され、アナウンサーの声が響きました。
「未明に発生した火災で、家の中にいた二十代の女性一名が死亡したものと見られています。現場にあった所持品は鈴木様のものと確認されており、現在DNA鑑定が進められています」
画面の中で、燃え落ちた家の跡地に人々が集まっていました。白い布がかけられた担架が運ばれていく場面。そして、アナウンサーの声。
「夫の高橋トオルさんは大きなショックを受け、警察の捜査に協力しています」
その名前は、結婚してからずっと信じてきた夫でした。画面の中の悲しみに満ちたトオルのインタビューを見ながら、しおりの目には涙が浮かびました。しかし、それは裏切りと怒りが混じった熱い涙でした。
「私が死んだことになっているのね。そして、あなたは世界で一番悲しい夫のふりをしているのね」
しおりはさらに深く潜みました。町の一角にある見捨てられた古い工場の建物。窓ガラスは割れ、埃とクモの巣で一杯でしたが、雨をしのぎ、体を横たえるスペースはありました。夜になると、母の家の近くへこっそり行きました。路地の角の電柱の影に隠れ、窓の明かりだけを見つめました。中から母のシルエットが見えると、胸が詰まって涙が出ました。しかし、その家の周りには見慣れない車がよく止まっており、黒いジャンパー姿の男たちが近くをうろついていたのです。
四十九日が近づいていました。しおりは、その間ずっと影のように生きなければなりませんでした。そして、ただ一つの思いだけを繰り返していました。最後まで生き延びなければ。そして、真実を明らかにしなければ。
四十九日を翌日に控えた夜、窓の外では小雨がしとしとと降っていました。しおりの家の前の路地の突き当たりに、黒いセダンが一台、ゆっくりと止まりました。運転席のドアが開き、トオルが俯きながら降りてきました。手には白い菊の花束が握られていました。
「お母さん、しばらくぶりです。しおりが本当に恋しいです」
低く響く声には深い悲しみがにじみ、目元は今にも涙がこぼれそうにきらめいていました。しかし、その表情はまるで鏡に描かれたかのように、どこか不自然な気配が漂っていました。リビングに座っていたしおりの母は、驚いた表情で彼を迎えました。
「明日が四十九日なので、ご挨拶だけでもと思いまして」
トオルは短い言葉をいくつか交わした後、急いで背を向けました。遠くの暗闇の中から、しおりが息を殺して見守っていました。うなだれて悲しむふりをするトオルが、あまりにもぞっとしました。車のエンジンがかかり、ヘッドライトが路地を照らしながらゆっくりと遠ざかるまで、彼女の視線はトオルを離しませんでした。
車が完全に消えると、しおりは拳を固く握りました。そして、まっすぐ家に向かい、ドアをノックしたのです。
そうして死んだはずのしおりは戻ってきました。そして、これからはこれまで受けた苦しみを全て返してやる番でした。いや、何倍にもして罪を償わせてやると決心しました。
四十九日が終わるとすぐに、私たちは作戦通りに動き始めました。トオルの本当の顔を暴く準備でした。
「お母さん、あの人は止まらないわ。これから私の言うことをよく聞いて。私たちが一緒にやらなければならないことがあるの」
翌朝、しおりを家の中に匿い、私は病院へ向かいました。葬儀が取り行われた、まさにその病院でした。心の中ではすでに答えは分かっていましたが、確かな証拠が必要でした。
受付窓口へ行き、落ち着いて言いました。
「先月、娘がこちらで死亡診断を受け、葬儀を取り行ったのですが。関連書類と記録を少し確認したいのです」
受付の職員は一瞬ためらった後、コンピューターを確認しました。数分後、書類を取り出して見せてくれました。死因は「全身熱傷による多臓器不全」と書かれていました。身元確認には「簡易DNA鑑定結果一致」という一文があるだけでした。顔の確認が不可能だった理由には、たった三文字。「損傷著しい」と。
しかし、医療関係者の署名欄を見た瞬間、私は驚きました。あの時、火葬を強く進めた田中実課長の名前がありましたが、その横に小さな文字で書かれたメモが目に留まりました。「遺族の意見を尊重し、迅速に処理」。
「この事件の当時、他の医療関係者の意見や追加の検討はなかったのでしょうか」
「そのような記録は見当たりませんね。当時の状況が明確だったため、特段の検討なしに進められたようです。ああ、そういえば田中課長が、その時ご主人と個人的な知り合いだとおっしゃって、特別に気を配ると言っていました。それでより早く処理されたのかもしれません」
その瞬間、全身に鳥肌が立ちました。トオルと田中課長が知り合いだったなんて。それなら、全てが計画されたことだったのかもしれない。
病院を出た後、警察署を訪れました。当時事件を担当していた佐藤警部に会うことができました。
「現場で発見された所持品で身元が確認されました。財布は焦げて形が変わりましたが、中の身分証明書は確認できました。携帯電話は外観が溶けていましたが、内部のSIMカードで所有者の確認が可能でした。そして、遺体の指にあった結婚指輪も、ご主人が確認してくださいました」
その言葉を聞いた瞬間、ぞっとしました。トオルが自ら指輪を確認したということでした。指輪まで入れ替えたのでしょうか。
「遺体の指紋は採取しましたか」
「損傷がひどすぎて」
捜査官は書類を一枚めくりました。指紋採取の欄には、「不成功」という赤いスタンプが押されていました。DNA鑑定以外に身元を確認する方法が、全くなかったということでした。
翌朝、次の目的地である保険会社へ向かいました。ここで、最も衝撃的な事実を発見することになりました。
保険会社の職員が見せてくれた書類によると、しおり名義の生命保険は結婚二ヶ月後に加入され、受取人はトオルになっていました。保険金額は、一億円という巨額でした。さらに驚くべきは処理の速さでした。死亡診断書が提出されてから、わずか三日で巨額の保険金がトオルの口座に振り込まれた記録がありました。
「通常は最低でも一週間から一ヶ月はかかることなのに、こんなに早く処理されるのが一般的なのですか」
「いえ、通常はもっと時間がかかります。しかし、このケースは全ての書類が完璧で、死因も明確だったため、迅速に処理されたようです」
手を震わせながら書類を閉じました。もはや確実でした。トオルは最初から金のためにしおりに近づいたのだと。結婚二ヶ月で巨額の保険に加入させ、自分を唯一の受取人にしたのも、全て計画の一部だったのです。
家に帰ると、しおりが台所で静かにお茶を入れていました。私はしおりを見つめながら言いました。
「しおり、これを知っておかないと。トオルはしおりの死亡保険金を受け取ったのよ」
「最後までやりましょう。あの人がどうにかして罰を受けるようにしなければ」
しおりはしばらく私の目を見つめた後、頷きました。その表情には、恐怖と決意が同時に宿っていました。
数日後、しおりと共に遠くからトオルの家を見守りました。家の前に、新しい車が止まっていました。高級外車のBMWの最新モデルのようで、価格は一千万円は優に超えるだろうと思われました。葬儀の時にはそんな車はなかったのに、保険金で買ったことは明らかでした。そして、トオルが家から出てくるのを見ました。高価なスーツに、ブランドの腕時計までしていました。妻をなくして悲しんでいる人の姿ではありませんでした。むしろ、余裕さえ見えました。
さらに数日見守った結果は、さらに衝撃的でした。トオルは友人たちと高級レストランで頻繁に会合を設け、新しい事業の話も活発にしていました。一度、トオルが友人と電話している声を遠くから聞きました。
「これで自由の身だ。これまで本当に息が詰まりそうだったからな。今回は投資資金もできたし、でかいことを一つやってみるか」
自由の身だなんて、本当に厚かましい。むしろ解放感のようなものを感じているようでした。その全てが保険金で可能になったことでした。しおりの顔が青ざめました。
「やっぱり最初からそれが目的だったんだわ」
単なる疑いだけでは何もできません。確かな証拠が必要でした。しおりと私は狭いキッチンのテーブルに向かい合って座っていました。
「私があの家を監視するわ。あなたは、あの車がどこへ行って、誰に会うのか調べるの」
「お母さん、でも絶対にバレちゃだめよ。私を探している人たち、最近目がすごく鋭くなってるから」
その時でした。玄関のチャイムが鳴りました。二人の表情が一瞬で固まり、しおりは反射的に隠れる場所を探しました。私は手で寝室のクローゼットの中を示し、しおりは息を殺してその中に身を滑り込ませました。クローゼットのドアがかちゃりと閉まる瞬間、玄関のドアが開きました。
「お母さん、トオルです」
彼は気まずそうに笑いながら家の中に入ってきました。その手には、小さな果物の入った袋が握られていました。
「これから少し忙しくなりそうでして、あまり頻繁にお伺いできなくなりそうなので、先にご挨拶にと思って」
「そう、仕事が忙しいなら仕方ないわね。体に気をつけてね」
私は必死に平静を装いました。しかし、トオルはリビングを見回し、まるで何かを探しているかのようでした。食卓の上の書類は、幸いにも新聞で覆っておいた状態でした。
やがて、トオルは軽く頭を下げて言いました。
「では、私はこれで失礼します。お元気で」
ドアが閉まり、彼の足音が遠ざかると、私は窓の隙間から彼の後ろ姿を見守りました。トオルは路地の角でしばらく立ち止まり、再びこちらの方をちらりと振り返る様子が目に入りました。背中に冷や汗が流れました。トオルは、しおりが家に来ているのではないかと探りに来たようでした。
しばらくして寝室のドアが開き、しおりが不安そうな顔で出てきました。
「お母さん、もしかしてバレたかな」
「まだ大丈夫だと思うけど、もっと気をつけないと。しばらくあなたを別の場所に移しましょう」
夜道を走る古い車は、深い山裾をしばらく進みました。灯りのない道は、ヘッドライトだけを頼りにぼんやりと道が浮かび上がり、虫の音とタイヤが砂利を転がす音だけが静寂を破っていました。ハンドルを握る私の手は、汗で濡れて微かに震えていました。
辿り着いたのは、村でも指折りの人里離れた場所に建つ古い家でした。しおりの祖母が生前に建てて暮らしていた家で、十年以上空き家になっていましたが、私が時々手入れをして最低限の形を保っていました。
「しおり、状況が落ち着くまでここで過ごしなさい。誰もここを知らないから」
その時、どこかで、さくさくと足音がしました。瞬間、私としおりは互いの目を見合わせ、息をのみました。音はだんだん近づいてきて、縁側の影が長く伸びて部屋の奥まで差し込んできました。私は息を殺し、障子の隙間から外を伺いました。風に揺れた木の枝かもしれませんが、その影は確かに人の足の形と動きに似ていました。
影は庭を一周するように動き、やがて門の方へ消えていきました。私は素早く外を伺いましたが、暗闇の中には誰も見えませんでした。恐怖が生み出した影だったのかもしれません。夜は、そうして長くゆっくりと過ぎていきました。
翌朝、朝日が差し込む頃、私は一人で東京へ戻るために家を出ました。
「しおり、一人でいるのが怖いなら、お母さんと一緒に戻って、警察に通報する」
私の言葉に、しおりは首を横に振りました。
「ううん、大丈夫。また誰かが被害に遭うのは嫌だもの。それに、あの火事の中で入れ替えられた遺体が誰なのかは分からないけど、その人の無念を晴らしてあげないと」
「そうね。まだだわ。もう少し証拠を掴んでからにしましょう。通報しても、あの人たちは証拠不十分で逃げ切るかもしれない。私たちの手に確かなものを握っておかないと」
東京に戻った私は、以前知人の紹介で知った私立探偵事務所へ足を運びました。探偵は五十代半ばの屈強な男性で、私を見ると椅子を指さして言いました。
「お久しぶりです。穏やかでない御様子ですが、何か」
私は冷静に、火事と遺体、そしてトオルの不審な動きについて順を追って説明しました。探偵は時折り頷きながらメモを取り、最後にこう言いました。
「その男、調べてみましょう。ただ、こういう仕事は時間もかなりかかります」
「問題は時間です。できるだけ早くお願いします」
一週間後、探偵から電話がありました。声が妙に興奮していました。
「大きいのを掴みました。今すぐ来られますか」
事務所に着くと、探偵は分厚いファイルを差し出しました。
「高橋トオルという人物は、過去にも同様の手口で巨額の保険金を手にしていた前科がありました。被害者のほとんどは、火災や事故で死亡したことになっていました。そして、まだあります。高橋トオルは元暴力団員でした。九十年代後半に強盗、暴力、詐欺の容疑で指名手配され、八年間刑務所にいました。名前を変えて、身分を偽装していたのです」
その言葉に、背筋が凍りました。トオルは単なる詐欺師ではなく、計画的で緻密な連続犯罪者だったのです。
「そして、これを見てください。この病院の記録です。田中実課長とは、先輩後輩の関係です。二人が共謀して、これまで三件の保険金詐欺を働いています。遺体のすり替えは、今回が初めてではありません」
私は探偵のファイルを震える手で受け取りました。これは単にしおりを守るためだけでなく、これ以上被害者が出ないようにするための証拠でした。そして、火事の中で無念の死を遂げた誰かのためにも、もう終わりにするべきだと誓いました。
「これだけあれば、警察は動いてくれますか」
「十分です。しかし、もっと確実な証拠があれば良い。現行犯で捕まえるか、自白を引き出すかですね」
探偵の報告書には、こう書かれていました。「毎週水曜日、夜十一時十分から深夜三時四十分まで不在。行き先は『青龍会館』、違法賭博場と推定」。ページをめくると、ぼんやりとした夜の街の写真が続いていました。トオルが黒いジャンパー姿で路地を歩く姿、みすぼらしい地下階段へ消えていく姿、そして夜明け方にタバコをふかして出てくる姿まで。
私は写真を閉じ、しおりが隠れている祖父の家へ向かい、その事実を伝えました。
「私の記憶と一致してる。結婚前も結婚後も、毎週水曜の夜は必ずいなくなったわ」
その場で、私は用意しておいた小さな紙袋を取り出しました。中には最新機種の中古スマートフォン二台と、プリペイドSIMカードが入っていました。
「一つはあなたの、一つは私の。公式には存在しない番号よ。これだけで連絡を取り合いましょう」
水曜日の夜十一時、東京の空には雲が低く垂れ込めていました。私は黒い帽子を目深にかぶり、手には小さな工具箱を持っていました。中には録音機二台と、懐中電灯、ドライバーが入っていました。遠くから、トオルのアパートの入り口を見守りました。十一時十二分、トオルが出てきました。携帯電話を耳に当てた無表情で歩き、駐車場から車を出して素早く走り去りました。
その後ろ姿が角の向こうに完全に消えるまで、私は十秒数えてから動き出しました。エレベーターではなく、階段を使いました。七階の廊下は静寂に包まれ、足音が壁にぶつかって小さく響きました。私はしおりが教えてくれた暗証番号を慎重に押しました。電子音と共に、ドアがかちりと開きました。幸い、暗証番号はそのままだったのです。
中は、冷えびえとしていました。アロマキャンドルの匂いと、かすかなタバコの匂いが混ざっていました。しおりが住んでいた家でしたが、すでにその面影は見当たりませんでした。私はキッチンのシンクの下、リビングの飾り棚の裏、寝室のスタンドの裏に、それぞれ録音機を設置しました。最後の装置の設置を終え、出ようとした瞬間、エレベーターの到着音が響きました。心臓が一瞬で凍りつきました。玄関のドアの内側に身を寄せ、耳を澄ませました。足音が規則的に近づいてきました。もしかして、トオルが戻ってきたのか。全身が硬直しました。ところが、隣の家でかちゃりとドアが開く音がしました。幸い、異常はありませんでした。
家に帰ったのは、深夜一時半でした。手のひらは汗でびっしょりで、全身が固くこわばっていました。秘密の携帯が震えました。しおりからのメッセージでした。
「無事に入れたのね」
私は短く返信しました。
「うん。あとは待つだけ」
翌日の午後、探偵事務所から電話がかかってきました。「今夜も青龍会館へ行くという情報を入手しました。昨日よりも重要な会合がありそうです。直接確認されますか」
「はい。行ってみます」
夜十時頃、トオルのBMWが現れました。車から降りたトオルは、入口の男たちと簡単に挨拶を交わし、建物の中へ消えていきました。私は車の中で息を殺して待ちました。深夜一時を過ぎて、ようやくトオルが建物から出てきました。酒に酔っているのか、ふらつきながら車に乗り込み、帰宅しました。
トオルが家に着いてから三十分ほど経った時、家に仕掛けておいた録音機の一つが作動したという信号が、携帯に届きました。録音ファイルを聞いてみると、トオルの声がはっきりと聞こえました。酒がまだ抜けていないのか、少し呂律が回っていませんでしたが、内容は十分に聞き取れました。
「今回の件が終われば、保険金は全部俺の取り分だ。死体のすり替えなんて、もう終わったことだよ。誰が何と言おうと、証拠がなきゃどうしようもないだろう」
私は息を殺しました。その一言が、トオルのこれまでの全ての犯罪を一本の線で結びつける決定的な証拠でした。
「田中課長も口を閉ざしているし、一億円もあればかなり長く遊べる。今日青龍会館で兄貴たちが言ってたけど、次のターゲットも目星をつけてるらしい」
次のターゲット。また別の被害者を狙っていたのです。全身に鳥肌が立ちました。
「あの女を殺すのも、思ったより簡単だった。地下室で注射一本打てば終わりだからな。問題は死体の処理だったけど、それも解決したし」
これ以上聞いていることはできませんでした。トオルは本当に別の女性を殺害した後、しおりとすり替えたのです。私は急いでしおりにメッセージを送りました。
「決定的な証拠を確保した。もう警察に通報しよう」
しおりからの返事は、早かった。
「ついに、これで終わりにできるのね。お母さん、もう危ないから警察に通報して任せましょう」
翌朝早く、私はしおりを迎えに行き、一緒に警察署へ向かいました。手には探偵が提供してくれた分厚いファイルと、録音機から移した音声ファイルが入ったUSBが握られていました。
佐藤警部は、最初は信じられないという表情でした。すでに葬儀まで済ませた人間が生きているということ自体、常識では受け入れがたいことだったでしょう。
「本当に、お嬢さん本人ですか」
警部がしおりを注意深く見つめながら尋ねました。しおりは自分だけが知る個人情報を次々と話しました。子供の頃の事故でできた傷と学校の記録、そして結婚前の職場の情報まで。警部の表情は、次第に真剣なものになっていきました。特に録音ファイルを聞きながら、その目つきが完全に変わりました。
「これは、完全な自白ですね」
トオルの声がはっきりと聞こえる録音ファイルは、誰にも否定できない証拠でした。遺体のすり替え、保険金詐欺、さらには殺人まで。全ての犯罪を自ら認めていたのです。
警部は直ちに捜査チームを編成しました。その日の午後、トオルは会社で逮捕されました。最初は全ての容疑を否認しました。
「何のことです。私の妻は亡くなったはずです」
しかし、しおりが警察署に現れると、彼の顔は真っ青に変わりました。
「ど、どうして、生きている」
「あなたが私を殺そうとしたけど、失敗したのよ」
しおりの落ち着いた声に、トオルはもはや何も言えませんでした。録音ファイルが再生されると、完全に崩れ落ちました。田中実課長も同日逮捕されました。病院でDNA鑑定結果を捏造し、確認の過程で虚偽の診断書を作成した容疑でした。
捜査の過程で、さらに衝撃的な事実が明らかになりました。トオルと田中課長は、過去十年間で合計五件の保険金詐欺を働いていたのです。全て女性を標的にした犯罪でした。被害者たちは皆、身寄りがなかったり家族が少なかったりする女性たちで、意図的にそうした人々を選んで近づいていたのです。
数日後、火災現場で発見された遺体の身元も判明しました。三ヶ月前に失踪届が出されていた、三十代の女性でした。家族もなく、一人で暮らしていた方で、トオルが偶然出会い、犯行に及んだのでした。
「その方のご家族は、遠い親戚の方がいらっしゃいますが、長い間連絡を絶っていたそうです」
その言葉を聞くと、ますます胸が痛みました。誰かは、彼女が消えたことさえ知らずに過ごしていたのです。
トオルは一審で無期懲役を言い渡されました。田中実課長は共犯の罪で懲役十年。彼らが犯した罪の重さを考えれば、当然の結果でした。トオルは最後まで心からの謝罪をせず、後悔していないのかという質問には、沈黙を貫きました。
保険会社は不正に支払われた保険金の返還を要求し、トオルの全財産が差し押さえられました。彼が保険金で買ったBMWやブランド品、投資した金も、全て回収されました。その金の一部は、被害者家族への賠償金として支払われました。
真実が全て明らかになると、すっきりしたと同時に虚しい気持ちになりました。四十九日間、しおりを恋しく思って流した涙。真実を探すために経験した全ての苦労。しかし、最も重要なのは、しおりが生きているということでした。
裁判が全て終わり、六ヶ月が経ちました。マスコミの関心も次第に薄れ、今では静かな日常が戻ってきました。しおりと私は名前を変え、東京郊外の小さな村へ引っ越しました。二階建ての小さな一軒家で、前庭には小さな家庭菜園があり、裏庭には柿の木が一本立っていました。都会の喧騒とはかけ離れた、静かで平和な場所でした。
しおりは「ユウ」という新しい名前を、私は新しい名前で、新しい身分で新しい人生を始めました。しかし、名前を変えたからと言って、心の傷まで簡単に癒えるわけではありませんでした。ユウは最初の数ヶ月、ひどい悪夢にうなされました。夜になると地下室に閉じ込められていた記憶が蘇り、冷や汗をかいて目を覚ますことがよくありました。
「お母さん、またあの夢を見たの」
ユウが夜中に私の部屋に来て、幼い子供のように泣きつくことがよくありました。二十八歳の大人の女性でしたが、その瞬間だけは怖がる子供のようでした。私はユウをしっかりと抱きしめ、背中をさすってやりました。
「大丈夫、もう過ぎたことよ。トオルはもう刑務所にいるから、私たちを傷つけることはできないわ」
しかし、言葉だけでは不十分でした。ユウには専門的な治療が必要でした。村から車で三十分のところに、良い精神科がありました。
「PTSDは十分に治療可能な疾患です。時間はかかりますが、根気強く治療を受ければ、日常生活に全く支障がないほど回復できます」
担当医の言葉に、希望を持つことができました。ユウは週に二回病院に通い、カウンセリングと薬物治療を併用しました。私も一緒に、家族カウンセリングを受けました。実は私も、あの恐ろしい四十九日間、娘を失ったと思い込んで経験したトラウマがあったのです。
「お母様も、大変お辛かったでしょうに。娘さんのために諦めず、最後まで真実を突き止められたのですから、本当に勇敢でいらっしゃいました」
カウンセラーの言葉に、涙が出ました。これまでユウのことばかり心配して、自分の傷を顧みることができていませんでしたが、私もまた癒しが必要な状態だったのです。
治療を受けながら、ユウは次第に明るくなっていきました。最初は家の外に出ることさえ怖がっていましたが、数ヶ月後には一人でスーパーへ買い物に行けるほどになりました。
「お母さん、今日、隣のおばあさんがレタスをたくさん育てたからって分けてくれたのよ」
ユウが笑顔でレタス一袋を手に帰ってきた時、本当に嬉しかったです。私たちは一緒に小さな家庭菜園を始めました。レタス、ほうれん草、トマト、唐辛子などを植えました。土に触れ、植物を育てることが心の癒しにつながると、医者が勧めてくれたのです。
村の人々は、私たちを温かく受け入れてくれました。都会から来た母子だからと言って特別に関心を示すこともなく、ごく自然に隣人として受け入れてくれました。
一年が過ぎ、私たちは村で小さな花屋を開きました。ユウが子供の頃から花が好きだったことを思い出し、私が提案したのです。
「花屋、私にできるかな」
「もちろんよ。一緒にやってみましょう」
花屋の名前は「二度目の春」と名付けました。通りすがりの人々がどういう意味かと尋ねることもありましたが、私たちだけが知る特別な意味が込められていました。死から蘇った二度目の人生、新しい始まりという意味です。ユウはフラワーアレンジメントに才能がありました。お客さんが注文した花束を作るたびに、簡単な声が上がりました。
「わあ、こんなに綺麗な花束は初めてです。本当に芸術ですね」
「ありがとうございます。心を込めて作りました」
ユウが自信を取り戻していく姿を見て、本当に誇らしく思いました。
花屋の一角には、小さな祭壇を設けました。火事で無念の死を遂げた、あの方のための場所でした。名前も知らないその方ですが、毎日花を変え、お茶を備えました。
「お母さん、あの方も天国で、私たちが元気にしているのを見て喜んでくれるかな」
「ええ、きっとそうよ。あの方のおかげで、私たちは真実を知ることができたのだから」
その方に関する追加調査の結果、家族は全くいないわけではありませんでした。遠く離れたところにおばさんが一人いましたが、長い間連絡を絶っており、亡くなったという知らせを後になって知ったのです。そのおばさんが、私たちの花屋を訪ねてきた日がありました。
「本当にありがとうございます。うちのエミのために、こんな目に遭われたのに」
「いいえ、むしろ私たちが申し訳ありません。エミさんのおかげで、私たちは助かったのですから」
田中エミ。それがその方の名前でした。三十四歳の若さで、無実の罪で犠牲になったのです。おばさんと一緒に、エミさんのためのささやかな追悼式を行いました。ユウが自ら花を供え、祭壇を飾りました。その日以来、祭壇の前にはエミさんの写真も置きました。笑っている、明るい顔の若い女性でした。
「エミさん、ありがとう。あなたのおかげで、私たちは新しい人生を歩むことができるようになりました」
ユウは毎朝、エミさんに挨拶をしました。その姿を見て、私も心が安らぎました。
二年が過ぎた、ある春の日のことです。ユウが言いました。
「お母さん、今、本当に生きているって実感する」
家庭菜園に植えたじゃがいもの花が白く咲き、花屋の前の花壇にはバラが赤く咲いていました。平凡だけれど、かけがえのない日常でした。
「ええ、私たちは今、本当に生きているのよ」
夕暮れ時、私たちは柿の木の下のベンチに座って、お茶を飲みました。日が沈み、空が赤く染まっていました。
「お母さん、本当にありがとう。最後まで諦めずに、真実を明らかにしてくれて」
「何を言っているの。娘を持つ母親なら、誰だってそうしたわ」
「でも、もしお母さんが諦めていたら、あの人たちは傷つけ続けていたはずよ」
その言葉は正しかった。私たちが真実を突き止めなければ、罪のない女性たちを傷つけ続けていたでしょう。遠くで、村の子供たちが駆け回る声が聞こえました。平凡でささやかな日常の音でした。その音がこれほどまでに愛おしく感じられたことは、ありませんでした。
私たちの二度目の人生は、こうして平凡だけれどかけがえのない日常で満たされていきました。トラウマは完全には消えませんでしたが、今ではそれを乗り越える力がつきました。お互いがいるだけで、十分でした。
花屋のドアにかけられた小さな看板には、今もその言葉が書かれています。「二度目の春、新しい始まりを応援します」。死から蘇った奇跡のような人生、そして真実を探すために諦めなかった母の愛の力。その全てが、今のこの平和な瞬間を作り出したのでした。
