「おい、新人。コーヒー買ってこい」
男性が私に向かって言い放った。あまりにも突然のことに、私は驚いて固まってしまった。勝手に私を新人と決めつけて、こちらの話に聞く耳を持とうとしない。
「俺の父さんは部長だからな。俺の言うことは聞いておいた方が身のためだぞ、新人さん」
子供のような言い草に、私は思わず吹き出して笑ってしまった。自分の父親が部長だからといって、なぜ息子の私まで偉くなるのか、さっぱり分からなかった。
私が笑ったことに怒り始めた彼に対して、私は面倒臭くなり、部長を呼んでもらうことにした。自分の浅はかな言動を、彼が後悔することになるとは——この時の彼は知る由もなかった。
私の名前は深川綾。三十二歳の会社員だ。私は本社に勤務していたのだが、ここ数年は経験を積むために全国にある支社を渡り歩いてきた。支社での仕事は、本社にずっといるだけでは分からなかったことが多く、とても勉強になった。一つの場所に長くいることができず、点々とあちこちを渡り歩いていたおかげで、この歳になってもまだ独身だ。だが、まだまだ私は未熟で、学ばなければならないことがたくさんある。今は自分を磨き、結婚を考える時期なのだと、自分を奮い立たせながらここまで全力で仕事に取り組んできた。
そして今日、各支社で学んだことをまとめて、私は久しぶりに本社へと戻ってきていた。久しぶりに見る本社がある建物は、相変わらず大きくて圧倒される。支社は小ぢんまりとした建物が多かったからな。
私が懐かしい気持ちで入口をくぐると、先輩らしき社員が足早に外へと出ていこうとしているところだった。その後ろを、新人らしき若者が慌てた様子で追いかけていくところに遭遇した。少し脇に寄って彼らを通した後、振り返りながら私は微笑ましくなった。私も新人の頃は、ああして先輩について行くので必死だったことを思い出したからだ。フレッシュでやる気に溢れた人材を育成するのも、先輩社員の仕事だ。私も新人の頃は、厳しくも優しい先輩方にたくさんお世話になってきた。こういった経験も、私の中でとても重要なものになっている。
心の中で新人社員にエールを送りながら、私は改めて会社の入口をくぐった。きっと私のことを覚えている人はいないんだろうな。そう思いながら、私は人事部へと向かった。今日から本社勤務に戻るため、色々と手続きを済ませなければならないのだ。
人事部のドアをくぐると、ほとんどの人間がパソコンの前に座り、何か作業をしていた。私は作業の手を止めさせてしまうことを少し申し訳なく思いながら、近くにいた社員に声をかけた。その社員は嫌な顔一つしないで私の用事を聞き、書類などを確認してくると言って、笑顔でその場を後にした。こういう対応をしてもらえると、素直に嬉しい。人事部はいい教育をしているんだな。
私は近くに椅子もなかったので、とりあえず隅の方に寄って、立ったまま先ほどの社員が戻ってくるのを待つことにした。そこに、社員らしき若い男性が外から戻ってきて、入口付近に立つ私の方へと目を向けてきた。私が軽く会釈をすると、その男性は私を品定めするかのような視線で、私のことを上から下まで眺め始めた。初対面なのに挨拶もしないなんて、ちょっと失礼じゃないだろうか。私は少し気分が悪くなったが、ここで急に注意して揉めても仕方がない。黙って様子を見ることにした。
私に男性は、意地悪そうな笑みを浮かべながら唐突に話しかけてきた。
「おい、新人。コーヒー買ってこい」
え? 今の言葉は、私に言ったのだろうか。私の方を見て言っているのだから、そうなのだろうが、私は急にわけのわからないことを言われて固まってしまった。この人は、急に何を言っているのだろう。
私が黙ったまま固まっていると、男性はため息をつきながらまた話し始めた。
「はあ、聞こえなかったのか? 新人は耳も聞こえないのかよ」
「いえ、聞こえましたけど、私に言っているのですか?」
「ああ。ここ以外に、この場に新人はいないだろうが」
「新人ではないんですけど」
私が困惑気味に答えると、その男性は笑みを浮かべた。
「どっからどう見ても、その見た目は新人だろ。緊張してるのがバレバレだからな」
「それは、数年ぶりに本社に戻ってきたからです。誰だって、少しくらい緊張するのは当たり前だと思うんですけど」
「ここにいるってことは、入社の手続きでもしに来たんだろう?」
「違います。私は支社から戻ってきたので、その手続きです」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと買いに行ってこいよ。俺、スタバのコールドブリュー以外飲まないから。よろしくね」
「行きませんけど」
私が拒否した私に対して、勝手に話を進めていた男性は一瞬驚いた顔をするが、すぐにまたニヤニヤ顔に戻った。
「俺の父さんは部長だからな。言うことは聞いておいた方が身のためだよ、新人さん」
彼の父親の役職が、なぜ彼の言うことを聞く話になるのか。私はさっぱり分からず、首をひねった。
「あなたの父親の役職が、なぜこの話に出てくるのでしょうか」
「父親が部長の俺の方が、君より偉いんだから。大人しく言うことを聞けってことさ」
「偉いのはあなたの父親であって、あなたではないですよね」
私はまともなことを言っているはずなのだが、彼はやれやれと言った様子で首を振った。
「父親が偉いんだから、当然息子の俺も偉いに決まってるじゃないか」
「そんなことないと思いますけど」
まったく話が噛み合わない男性に、私は困り果てるとともに呆れてしまった。父親の役職を利用して言うことを聞かせようとする人間が、この会社にいるなんて思ってもいなかった。私が本社にいた時には、そんなことは一度もなかったから、きっと彼自身が入社してから、そんなに経っていないに違いない。
「早く買ってこいよ。休憩時間、終わっちゃうよ」
「だから、さっき行かないと申し上げましたよ」
「あんまり逆らうようだと、父さんに告げ口して、入社取り消しにしてもらうぞ」
なんとも小学生のような言い分に、私は思わず吹き出して笑ってしまった。いい年した大人が、父親に言いつけるなんて言うなんて。恥ずかしいとは思わないのだろうか。
「おい、何を笑ってるんだ」
「すみません。まさか『父親に言いつける』なんてセリフが、大人の口から出てくるとは思っていなかったもので」
私の言葉に、彼の顔がだんだんと赤くなっていく様子がまた私の笑いの壺を刺激して、私は笑いをこらえきれなくなってしまう。私と彼のやり取りを聞いていたであろう、デスクに座っている社員の方々が小刻みに震えていることに、私は気がついてしまった。やはり、私が間違ったことを言っているわけではないらしい。
「お前、新人の女のくせに、生意気言うじゃないか」
「ですから、私は新人ではありませんし、性別も関係ないと思いますけど」
「うるさい! 大人しく言うことを聞かないなら、本当に父さんに言ってやるぞ」
この期に及んでまだ父親のことを言う男性に、私は面倒臭くなり、ため息をつきながら答えた。
「どうぞ。なんなら、今すぐにこの場に呼んでくださって結構ですよ」
私の余裕な態度が腹に触ったようで、男性はますます大きな声をあげて私を威嚇し始めた。
「お前、俺の話が嘘だと思って、舐めてるんだろ。本当に呼んでいいんだな? 後悔することになるぞ」
「だから、呼んでくださって大丈夫ですよ。後悔するのは、きっと私ではないと思いますから」
私のことを睨みつけながら、男性はポケットからスマホを取り出し、どこかへと電話をかけ始めた。相手が出て、要件を伝えた男性は電話を切り、先ほどのニヤニヤ顔に戻って私に言った。
「すぐに父さんが来るからな。お前の入社取り消しは決まったようなもんだ。ご愁傷様」
男性は声をあげて笑ったが、私は男性の言葉を無視して、大人しく呼び出された相手が来るのを待った。
男性が電話をかけてから数分後。
「渡、仕事中に一体何事だ。急ぎの用だと言っていたが」
そこに現れたのは、私のよく知る人物だった。
「あ、父さん! この新人が生意気なこと言って、俺に逆らうんだ」
不審げな声を出しながら、部長の目が男性の背後に静かに佇む私へと向けられ、その表情が驚きへと変わっていく。私は満面の笑みを浮かべながら、部長に頭を下げて挨拶をした。
「近藤部長、ご無沙汰しております。お会いするのは、父の誕生祝いのパーティー以来でしょうか」
「これは、綾さん。お久しぶりです。今日からこちらに戻られたのですね」
「はい。支社での修行がようやく認められまして」
私と部長のやり取りを聞いていた男性は、困惑の表情を浮かべている。
「父さん、この新人と知り合いなの?」
「バカ者! この人は新人なんかじゃない」
「だって、こんなダサいスーツ着てダサい靴履いている奴なんて、新人しか考えられないんだけど」
「これは、本社に戻る私に父が買ってくれたものなんですけどね」
私の苛立ちを含んだ言葉に、部長の顔からすっと血の気が引いていく。私個人のことなら我慢もするが、父のことを悪く言われるのは、許すわけにはいかなかった。
「渡、今の発言は取り消せ。そして、綾さんに謝りなさい」
「はあ? なんでだよ」
不服そうな顔をする渡さんに、私は質問した。
「確か、父親の役職が部長だから、息子の自分も偉いのだとおっしゃいましたよね」
「お前、まだそんなことを言っているのか」
「だからなんだよ。お前より俺の方が偉いのは、変わらないんだよ」
「私の父は、この会社の社長ですから。あなたの理論だと、私も偉いと思いますよ」
はっ——渡さんの後ろで、部長が長く息をつきながら頭を抱える。
そう。実は私は、この会社の社長である深川大郎の娘なのだ。大学を卒業すると同時にこの会社に入社した。私が社長の娘だと一目置かれて見られることは、私の成長にとって良くないという父の意見に賛同し、私は自分の身分を周りの社員に話すことはしてこなかった。部長のような役職の人間には知らされていたが、他の社員はほとんど知らないだろう。支社に出向いている時も、自分の身分は隠していた。だから、渡さんのように父親の役職を利用して偉ぶろうとする人間が本当にいるんだなと、驚いてしまったのだ。
私は今まで、自分の父親が社長だと周りに明かしたいと思ったことは一度もない。明かせば、きっと皆私に気を使ってくれたことだろう。だが、それでは先輩社員の方々に厳しくも適切に指導してもらえることもなく、自分がここまで成長することはできなかっただろう。確かに自分の実力は父にはまだ遠く及ばないが、同期の中では頼りにされていると自負している。
父は年に数回、役職の人間だけを招待してパーティーを催すのだが、その席で近藤部長とは何度も顔を合わせている。私が本社にいた頃にはまだ部長ではなかったが、実力と人望を兼ね備えた人だから、いつか上に行くだろうと私は思っていた。
「社長の娘って……父さん、マジ?」
「大真面目だ」
「なんでお前は、本当に何でも考えなしで、余計なことを言ったりするんだ」
部長が渡さんを叱ったが、彼はただただ驚くだけで、特に反省はしていないようだった。
「渡さんは、私のことを新人社員と決めつけて、私の話も聞かずに買い出しに行かせようとしていたのです」
「お前、まだそんなことをしているのか。つい最近、下の者から苦情が来たと忠告したばかりじゃないか」
どうやら彼の言動は、今に始まったことではなく、他の人にも迷惑をかけているらしい。
「少しぐらいで、大げさなんだよ」
「大げさじゃないと思いますよ。言うことを聞かないと入社取り消しだなんて、脅迫ですからね。お前にそんな権限はないのに」
「何を勝手なことを言っているんだ。せっかく父さんが部長なんだから、少しくらい俺だって利用したって構わないだろ」
渡さんの言葉に、私は呆然としてしまった。反省するどころか、利用していると分かってやっているなんて、信じられない。
「綾さん、本当に申し訳ございません。こんな調子で、本当にどうしようもない息子でして」
冷汗を流しながら私に頭を下げる部長の顔は、疲れきっているように見えた。きっと、今回のようなことが今までにも何度もあったであろうことが感じ取れて、私は部長も大変なのだと同情した。
「部長は悪くないですから、謝らないでください」
「そうだよ。部長が若い女に頭を下げているなんて、見っともないじゃないか」
渡さんの言葉に、部長は顔を上げてきっと彼を睨みつけると、怒鳴りつけた。
「お前がしでかしたことだろう! それに、性別なんて関係なく、悪いことをしたら謝るのが当たり前なんだ。お前には、なんでそれが分からないんだ!」
部長はこんなに立派な人なのに、なぜ渡さんは尊敬して部長のようにならず、ただ自分が楽をすることだけしか考えられないのだろうか。
「部長も、だいぶ苦労されているんですね」
「お恥ずかしい限りです。大して年も変わらない綾さんが、こんなに立派なのに」
「いえ、私もまだまだです。だけど、このままにしておくのは会社のためにも良くないですよね。渡さんのような人がいると、頑張っている他の社員の士気が下がるだろうし、私のように言いたいことをはっきり言える人間ばかりではない。きっと、泣き寝入りしている社員がたくさんいるはずだと、私は思いました」
その時、人事部のドアが開き、私の会いたかった人が入ってきた。
「社長、お疲れ様です」
「おお、綾。確か、今日から戻っていたんだったね」
「はい。また本社で頑張らせていただきます」
「近藤部長も、渡君も。三人で一体、こんなところでどうしたんだい?」
社長が不思議そうに尋ねてきたので、慌てて部長が父に現状の説明をした。さすがに社長の前だからか、渡さんのさっきまでの態度は、なりを潜めていた。
「綾、近藤部長の話は本当かい?」
「はい。どうしたらいいものかと、部長と頭を悩ませていたところです」
「そうか。それは、ちょうど良かった」
父は、うんうんと頷いた。
「え? 社長、ちょうどいいとは?」
「渡君の行いは、私の耳にも届いていてね。一度ちゃんと話をしなければと思っていたところだったんだ」
「え? 社長が、俺のことを?」
父の耳にまで入るなんて、渡さんの悪行は相当なものなのだろう。
「申し訳ございません。何度話して聞かせても、まったく反省もしていないようで。なんなりと処分してください」
「ちょ、ちょっと。処分なんて、そんな大げさな」
「馬鹿者。社長自ら足を運ばせるようなことをしたんだ。当然だろう」
部長の言葉に、それまでは何を言われても動じない態度を崩さなかった渡さんの顔色が、どんどん青ざめていった。
「父親の部長が言うなら、遠慮なく処分させてもらうことにしよう。このままでは他の社員のためにも良くないし、渡君自身のためにもね」
「こんなバカ息子のことまで考えていただいて、本当に申し訳ございません」
「父さん、実の息子のことを少しは庇おうと思わないのかよ」
「お前のことは、今まで散々庇ってきた。なのに一切反省しなかった。お前の責任だ。お前もいい大人なんだ。自分のしたことの責任は、自分で取りなさい」
部長がピシャリと言い放つと、渡さんは顔面蒼白になり俯いてしまった。
「綾。今回の渡君の処分の件は、お前に任せてもいいかな?」
「え? 私が?」
父の言葉に驚く私に、父は続けた。
「お前には、明日から人事部長をやってもらおうと思っているんだ。ちょうど、今の人事部長が移動することになったからね」
「私なんかが、人事部長ですか?」
「自信がないと言うなら、他を当たるが」
「いえ、是非やらせていただきます」
今まで努力してきたのだ。この機会は、自分の実力で勝ち取ったものなのだと、父や他の社員に示してみせよう。私は自分を心の中で鼓舞し、父に頭を下げた。
「そうか。それじゃあ、人事部長として、渡君の処分はどうするのがいいと思う?」
私は必死に頭を回転させ、渡さんに自らの言動を反省してもらうにはどうしたらいいかを考えた。そして、一つの案を思いつき、父に提案してみることにした。
「彼には、支社に移動してもらうというのは、どうでしょうか?」
「ほう、支社か」
「支社には、昔ながらの厳しくも面倒見のいい先輩方がたくさんおりました。その人たちに、教育し直してもらいましょう」
「それは、いい考えですね。息子の甘えた根性を、叩き直してもらえたらいい」
「嫌だよ、そんなの!」
「それが嫌なら、やめていただいて構いませんよ。あなたを首にする理由は、たくさんありそうですからね」
私が渡さんに冷静に言い放つと、彼はそれ以上、何も言うことができなくなった。今更無職になって就職先を探すことなど、彼はしたくないだろう。支社に行けば、部長の権限を利用することもできない。これで彼が真面目に仕事を頑張ってくれれば、彼のためにも会社のためにもなるだろうと、私は思った。
「うむ。いいだろう。では、渡君には早速、支社への移動手続きをしてもらおうかな。せっかく、人事部にいるのだからね」
「はい」
渡さんは、何を言ってもどうにもならないと悟ったようで、大人しく部長に連れられ、移動の手続きをするため人事部の担当者の元へと向かっていった。
そして、その週の週末から、渡さんは本社から支社へと移動となった。
支社の知人に探りを入れてみたところ、先輩方にしごかれて、毎日半泣きになりながら仕事をしているらしい。支社では部長の意向にすがることもできず、苦労しているようだ。このまま渡さんが前向きに頑張ってくれるようになったらいいと思う。
近藤部長は、悩みの種がなくなったおかげか、以前の元気を取り戻し、精力的に仕事に励んでくれているようだ。
私はと言うと、人事部長として本社で毎日大変だが、充実した日々を送っている。まだまだ分からないことが多く、周りの社員の手を借りながらだが、前に進んでいるとと思う。尊敬する父に近づけるように、私はこれからも努力を惜しまずに、前向きに生きていこうと思っている。
