お年玉を渡した瞬間、息子夫婦が顔を見合わせて笑い出した。「あ、お年玉少な。その分しっかり働け。ま、今回の旅行ももらったし勘弁してやるよ」孫たちも一緒に笑っている。私は台所で味噌汁を作る七〇歳の鎌田まき子。夫の正尾と慎ましく暮らし、週に三度は孫の世話をし、息子の頼みで幾度となく金を渡してきた。だがその日、いつも黙っていた正尾がテーブルを叩いた。乾いた音が冬の部屋に響き、笑い声が止まる。そして二…

お年玉を渡した瞬間、息子夫婦が顔を見合わせて笑い出した。「あ、お年玉少な。その分しっかり働け。ま、今回の旅行ももらったし勘弁してやるよ」孫たちも一緒に笑っている。私は台所で味噌汁を作る七〇歳の鎌田まき子。夫の正尾と慎ましく暮らし、週に三度は孫の世話をし、息子の頼みで幾度となく金を渡してきた。だがその日、いつも黙っていた正尾がテーブルを叩いた。乾いた音が冬の部屋に響き、笑い声が止まる。そして二...

「あ、お年玉少な。その分しっかり働け。ま、今回は旅行もらったし勘弁してやるよ。今時の子供はこんな金じゃ何もできないんだから」

二人でゲラゲラと笑い合った。孫たちも釣られて笑っている。きっと何も分かっていないのだろう。ダン。テーブルを叩く音が乾燥した冬の部屋に鋭く響いた。笑い声が途切れる。その時トントンと階段を降りてくる音がした。リビングのドアが開き、一人の人物が入ってきた。

「なんでお前がここにいるんだよ」

リビングに静寂が落ちる。床に追い詰められた優一が額に油汗を浮かべていた。私たちは息子夫婦にずっと利用されていた。そのことに今更になって気づかされたのだ。

「私はもうあなたを信じない。私たちだけではなく子供たちも傷つけた。絶対に許さない」

私の名前は鎌田まき子。スーパーの鮮魚コーナーで働く七十歳だ。朝五時半になると体は自然と目を覚ます。長年の習慣というのは恐ろしいもので、目覚まし時計が鳴るより早く意識だけが静かに浮かび上がってくる。カーテンの隙間から差し込む光がまだ薄く、布団の中は温かい。それでも体を起こし台所へ向かう。夫の正尾の好きな味噌汁を作るのがこの家の朝の始まりだからだ。出汁を取る鍋の音、豆腐を切る包丁の音、湯気がふわりと立ち上り、台所に醤油と味噌の柔らかな香りが満ちていく。ささやかな朝だ。派手さも華やかさもない。それでもこの時間が好きだった。

正尾は定年退職まで仕事一筋で生きた人だ。それなりの規模の会社で長く務め、管理職として最後の十年を過ごした。退職後は地元の老人会の手伝いや裏庭の小さな畑を耕しながらのんびりと暮らしている。バリバリと働いていた頃の面影はすっかり薄れて、今はただ穏やかな老人だ。それでもあの人が積み上げてきたものは目には見えない形で今もこの家を支えている。

私たちの間には子供が二人いる。長男の優一は今年二十九歳。長女の床は二十七歳になった。どちらも世間からすれば遅くにできた子供である。私が優一を産んだのは四十一歳の時、床を産んだのは四十三歳だった。今では四十代の出産は珍しくないが、当時は周囲の目が気になったものである。保育園の送り迎えで他の親御さんたちと並ぶたびに、自分だけがひどく間違っている気がして俯きたくなることもあった。それでも二人の子供はどちらも宝だと思っていたし、今でもそう思っている。

優一は子供の頃から私たちによく懐いていた。休日には正尾の後をついて回り庭を手伝う。夕飯の時間には必ず茶ぶ台の前に座って私の料理をよく食べた。「お母さんの卵焼きが世界で一番好き」と言い続けた息子の顔は今も鮮明に思い出せる。一方の床は中学を過ぎた頃から変わっていった。私とまともに口を聞かなくなり、正尾とも衝突が増える。今にして思えばあの頃の私たちはどこかで床を後回しにしていたのかもしれない。優一の学校行事には足を運んだのに、床の発表会は仕事を理由に欠席したことがあった。床が泣きながら部屋に閉じこもった夜、ドアの前で声をかけようとして結局できなかった。あの夜のことを私はたまに思い出す。

高校を卒業すると同時に床は家を出た。「自立します」と一言だけ書き置きを残して、それから数年は連絡がほとんどなかった。生きているのか、どこにいるのか、ちゃんと食べているのか。もしかしたら床が帰ってきているのではと思い、夜中に一人で床の部屋のドアを開けてはまた閉めたことも何度もあった。

しかし四年ほど前から床から少しずつ連絡が来るようになった。ぽつりぽつりとメッセージが届くようになり、それ以来誕生日には必ず花が届く。電話の声は昔より落ち着いていて、言葉数は少ないけれどどこか柔らかくなった気がした。今までどうしていたのか聞けば、きっと床は答えてくれるとは思う。ただまだどこか遠慮があって、私は深く踏み込めずにいた。正尾は床のことをどう思っているのだろうか。彼はそういうことを口にしない人だから分からない。ただ床から贈り物が届いた日はいつもより少しだけご飯をよく食べる気がした。

一方で優一が結婚したのは二十二歳の時。彼女は大学の旅行サークルで知り合ったという。互いに旅行好きという共通点で意気投合し、卒業後間もなく入籍した。優一は学生時代からまとまった休みの度に荷物をまとめて出かける子だった。大学四年間で訪れた都道府県の数を帰省の度に嬉しそうに数えて聞かせてくれる。その頃の優一はまだあの頃の屈託のない顔をしていた。今は三人の子供がいる。七歳の長男廉、五歳の次男港、二歳の長女ゆい。三人とも元気で笑い声が大きい。孫たちがこの家に来るたびにリビングの空間が急に狭くなる。それでも孫の顔を見るのは嬉しかった。孫というのは子供とはまた違う愛しさがあって、抱き上げるたびに胸の辺りがじんわりと暖かくなる。

ただ優一の仕事は出張が多いらしく、あまり子供たちと関われていないのが気になる。みほも仕事をしており、子供たちは保育園や学童で過ごす時間が長いのだという。優一が仕事熱心で働き者なのは嬉しいことだと私は思っている。しかしまだ小さい子供たちのことを考えると胸が痛んだ。私たちが優一に構いすぎて反抗期の床をないがしろにしてしまった過去があるからかもしれない。

気がつけば味噌汁が煮えてきていた。鍋の縁からゆっくりと湯が上がり、台所の窓ガラスが白く曇る。火を止めよう。正尾の茶碗。私の茶碗。二人分の朝ご飯を並べながら、私はこの日常が今も一番好きだと思っていた。

優一に初めて子供が生まれたのは彼が二十二歳の時である。知らせを受けた時、私はスーパーの仕事を早退して病院へ駆けつけた。廊下でしばらく待っているとガラス越しに小さな顔が見えた。しわくちゃな顔をしてきつく目を閉じている。生まれたばかりの命というのはこんなにも小さいものかと改めて思った。正尾はガラスの前で腕を組んだまま動かない。その横顔がいつもより少しだけ柔らかく見えた。普段は多くを語らない正尾が、ガラスの向こうの孫に向かって小さく頷いたのを私は見逃さなかった。

優一が定期的に顔を見せるようになったのは初孫の廉が生まれた頃からだ。最初は三ヶ月に一度ほどのペースで週末に家族でやってきた。廉を抱いた優一が玄関に立つ姿を見るたびに、ああこの子も父親になったのだと胸の奥が温かくなる。正尾も珍しく口数が増えて廉の手を握っては目を細めた。孫が来る日には私は朝から台所に立った。優一の好きなコロッケ、廉が喜ぶ出し巻き卵、みほがリクエストしてくる酢豚。テーブルを囲んで食事をする時間がこの家に思いがけない賑やかさをもたらしてくれる。笑い声と子供の走り回る足音とご飯のいい香り。二人きりの静かな日常とはまるで違う種類の時間がそこにはあった。

やがて来る頻度が増えていった。三ヶ月に一度がいつの間にか一ヶ月に一度になる。二人目の港が生まれた頃には二週間に一度になっていた。子供が増えるたびに賑やかさが増して、それはそれで嬉しかった。しかし変化に気づいたのはゆいが生まれた頃だろうか。訪問の頻度がさらに上がったのだ。今ではみほが子供たちを連れて週に三度はやってくる。来るのはほとんどみほと子供たちだけで、優一は仕事があるからと姿を見せない。

インターホンが鳴るたびに玄関を開けると、ベビーカーを押したみほとその後ろを走る廉と港が立っている。

「お母さん、今日もよろしくお願いします」

そう言ってゆいを抱いたまま玄関を上がり込み、ソファーに腰を落ち着ける。お茶を出すと飲みながらしばらくスマートフォンを眺め、「買い物があるので」と言って出かけていくみほ。夕方になっても戻らないことが続いた。子供たちに夕飯を食べさせ、お風呂に入れ、寝かしつけた頃にようやくみほが帰ってくる。「ありがとうございます」の一言で全てが完結する流れが、いつの間にか定番になっていた。断れないわけではないが違和感は拭えない。

けれど孫は可愛い。廉が「ばあちゃんのご飯が好き」と言うと込み上げてくるものがある。港が「じいじ、庭で虫取りしよう」と正尾の手を引く様子を見ると止める気持ちにはなれない。正尾もまた口には出さないが孫の相手を嫌がる素振りは見せなかった。そのうちみほは朝からやってくるようになった。土日はもちろんのこと、翌日はみほの仕事が休みの平日だ。玄関先で子供たちを受け入れるとみほは出かけていく。

「みほと育児で大変だから少し休ませてあげたいんだ。協力してよ」

優一にそう言われれば何も言えない。育児の大変さは私もよく知っている。仕事を抱えながら三人の子供を育てているのは容易ではない。「私が仕事休みの日は保育園にも学童にも預けられないから」とみほは言うが、それならばせっかくの子供との時間を大切にしてはとも思う。しかしまだ若い母親には自分の時間も必要なのだろうと割り切る。子供たちは悪い子ではない。廉は気が利いて食事の後は自分から食器を運ぼうとする。港はやんちゃだが、ゆいが転びそうになるとすぐに手を差し伸べた。まだ二歳のゆいは私の顔を見るといつも両手を伸ばしてくる。その小さな手のひらの感触が抱き上げた瞬間に思い出されて、疲れた気持ちを柔らかくした。

ただ週に三度という頻度は七十歳の体には応えた。子供たちが帰った夜、椅子に腰を落とすとそのまま動けなくなることがある。翌朝のパートの前、腰の重さで目が覚める。それでも鮮魚コーナーに立ち、笑顔で接客した。文句を言う相手もなく、ただ日々をこなしていた。みほに勇気を出して「週に三度は少し多くて」と言ったことがあるが一度だけである。だがみほからの返事は期待したものではなかった。

「正社員の仕事ってお母さんが考えている以上にハードなんです。普段はパートで気楽に過ごしてるんだから、週に三回くらい子供の面倒を見れますよね」

鋭い言葉を笑顔のまま柔らかい声で言われた。それ以上何も言えなかった。私は老体に鞭打って遊び盛りの子供の世話を継続する。小さな金の無心が始まったのはその頃からだ。最初は帰り際の出来事だった。優一が「ちょっといいか」と声をかけてきたのはある日曜日の夕方のこと。孫たちが靴を履き終えみほが荷物をまとめている間に、優一だけが台所に来た。

「給料日前でちょっとピンチで、三万どうにかならないか」

声を潜めて罰が悪そうに笑っていた。若い夫婦は何かとお金がかかる。子供が三人いれば月末に苦しくなることもあるだろう。そう思って財布を開いた。次の月もまた同じことがあった。今度は港の保育料の引き落としが重なってという。金額は五万に増えていた。渡すたびに「助かった」と笑う優一の顔が、困ったことがあると台所に駆け込んできた幼い頃の息子と重なる。困っている子供を助けたいという気持ちは何歳になっても変わるものではない。私はそう思い込もうとしていた。ただその時の私は、渡してしまうたびに何か薄いものが胸の奥で剥がれていく感覚があった。それが何なのかはうまく言葉にできない。名前のつかない感覚を抱えたまま、翌週にはまた孫たちの顔を見てその感覚ごと引き出しの奥にしまった。

断れないのにはもう一つ理由があった。孫たちの顔だ。お金の話をするのは大人の間のことで、子供たちに罪はない。廉が「おばあちゃん大好き」と笑顔で言ってくるたびに、どうしても強く出られなかった。

夏になると孫たちが長く泊まるようになる。七月の終わりに優一から電話があった。「夏休みの間、二週間ほど子供たちを預かってもらえるかな。仕事が立て込んでいてみほも手が回らないから」二週間ならと思って頷いた。しかし二週間が三週間になり、気づけば八月の末まで孫三人が家にいた。食費、おやつ代、プールへの交通費、花火セット、夏祭りの小遣い、廉の自由研究の材料代。細かな出費を合わせると、その夏だけで十数万を超えていたと思う。優一から「かかったお金は払うよ」という言葉は最後まで来なかった。

それでもあの夏には忘れられない場面がある。正尾が畑で取れたスイカを縁側で孫たちに食べさせた日のことだ。三人が種を飛ばして笑い転げる。廉と港が種の飛んだ距離を競い始めて、ゆいがそれを見て手を叩いて喜ぶ。正尾は縁側に腰かけてその様子をずっと黙って見ていた。夕暮れの光が庭に伸びて、畑の緑が橙に染まる。その時の景色は綺麗だった。疲れていても腰が痛くても、この光景があるから続けられると思った。今ならそれが少し危うい考え方だったとわかる。

孫たちの迎えが来たのは夏の終わりの夕方。優一は日焼けして上機嫌だった。「助かったよ。また頼むな」と言って子供たちを車に乗せる。礼の言葉はそれだけで、差し入れも何もない。車が見えなくなってから正尾が縁側に腰を下ろす。私も隣に座る。二人ともしばらく何も言わなかった。夜の虫の声だけが庭に広がっていた。

みほが一人でやってくるようになったのは秋口からだ。「近くまで寄ったので顔を見に来ました」子供たちは連れずにみほだけの訪問は初めてである。みほはリビングに入るなりソファーに座り、いつものようにスマホを眺めた。今子供たちはどうしているのか尋ねると笑顔で答える。「廉は学校で、下の子たちは保育園です」前に聞いた時はみほの仕事が休みの日は保育園に預けられないとのことだった。私は首をかしげながらもみほにお茶を出す。今でも週に三回この家に来ているのに、みほが単独で来ることに違和感を拭えない。しかしその日は他愛もない話をしただけで昼過ぎにみほは帰って行った。

二度目の訪問では帰り際にみほが切り出した。「実は塾が思ったよりかかってしまってちょっと困ってるんです」廉が通い始めた学習塾の月謝が想定より高かったらしい。月謝の下調べをせずに塾に通わせることがあるだろうかと疑問を抱く。「お母さんなら分かってくれると思って」そう言いながら視線を落としたみほの顔は困り果てているように見えた。二万円を包んで渡すと深々と頭を下げた。しかしこれを切っ掛けにみほの要求は毎回行われるようになる。パターンはいつも同じだった。前置きは必ず子供たちのこと。少し困ったような表情で切り出し、言いにくそうに金額を言い、受け取った後は笑顔になる。私はその度に引き出しから封筒を出した。振り返ってみれば、みほが「ありがとうございます」と言ったことは一度もなかった。「助かりました」ということはある。深々と頭を下げることもあったけれど、「ありがとう」という言葉だけは不思議なほど出てこなかった。そのことに気づいたのは随分後になってからだ。

ある日みほは遠慮がちに笑いながら言った。「今度子供部屋を少し広くしようと思って。みんな大きくなってきたしちょっと手狭で。リフォーム代の頭金、十二万どうにかなりますか」断る言葉が喉まで出かかった。しかし子供部屋が手狭と聞かされると、その言葉は行場を失ってしまう。台所の引き出しから封筒を取り出して十二万円を数えた。「助かります。子供たちも喜びます」封筒を渡した後、みほはいつものように頭を下げて帰っていった。玄関が閉まった音を聞きながら、私はしばらくその場に立ち尽くす。おかしいとは思っていた。十二万円を渡したことへの後悔ではなく、この流れに対する言葉にならない違和感。それでも次に孫たちが来た時のことを思うと、考えを止めてしまう自分がいた。

みほが帰った後、正尾にそのことを話した。彼はお茶を一口飲んでそれきり黙ってしまった。何か言いたいことがあるのかもしれないけれど、正尾は昔からそういう人で、口に出したことのない感情をたくさん抱えて生きていると私は知っている。その沈黙が何かを訴えているような気がした。

長女の床から電話が来たのはちょうどその頃だった。久しぶりに聞く声は相変わらず落ち着いている。短い近況を話した後、床はこう聞いてきた。「お父さんの貯金、ちゃんと管理できてる?通帳とか変なところに置いてないよね」唐突な問いかけだった。お金の心配をするような娘だっただろうかと一瞬戸惑う。何か心配なことでもあるのかと聞き返すと、「ちゃんと二人で管理してね」とだけ言って続けて優一のことを尋ねられた。「お兄ちゃんは最近どう?お姉さんはよく来てる?」息子夫婦のことを尋ねてくることに少し引っ掛かりを覚える。私が「よく来てるよ」と答えると床は「そう」と短く返すだけだった。電話を切った後、台所に戻って夕飯の支度をする。床の声が耳に残っていた。昔の床ならお金の話など絶対にしなかった。大人になったということだろうか。それとも何か別のことを思っているのだろうか。

床が家を出てから十年ほど経つ。その間に何があったのか、今どんな仕事をしているのか、私はほとんど知らない。聞けば答えてくれるとは思う。それでも踏み込めないのは、あの高校生の夜のことがまだ引っかかっているからかもしれない。床が泣いていたのに声をかけられなかった夜。私にはまだあの扉を開ける資格があるのだろうか。食事の支度をしながらそんなことを考えていた。目がぼやける。きっと切り始めた玉ねぎのせいだとその時は思っていた。

冬が近づいてきた頃、優一から電話があった。いい物件を見つけたので今より少し遠い町に引っ越すことになったという。ここから車で四時間ほどの距離だと言った。「子供たちも大きくなってきただろう。もう少し大きな家がいいと思って」それを聞いてすぐに思ったのは先日みほに渡した子供部屋のリフォーム代金だ。あれからまだ数ヶ月しか経ってない。本当にリフォームされたのだろうかという疑念すら湧いた。次に頭をよぎったのは週に三度の訪問がなくなるかもしれないということ。ここから車で四時間と言えばかなりの距離がある。だが、そんな思いを口に出すのは躊躇われて、「そう、大変ね」とだけ返した。しばらく話した後、優一が切り出す。「それで引っ越し費用がちょっと足りなくて、百万くらいどうにかならないかな」百万?これまでの積み重ねとは桁が違う。さすがに躊躇した。ただ優一は続けてこう言った。「子供たちのためなんだ。協力してよ、母さん」孫たちの顔が浮かんだ。廉の「おばあちゃん大好き」という声。ゆいの小さな手のひら。引っ越してしまえばそれが遠くなる。そう思うと百万という数字が違って見えてくる。正尾に相談すると彼はしばらく黙っていた。それから「お前が決めろ」という。結局私は振り込んだ。

引っ越しが終わるとみほの訪問はぱったりと止んだ。静かになった家の中で私は複雑な気持ちを抱えていた。孫たちの笑い声がなくなったことへの寂しさは確かにある。港が庭を走り回る足音も、ゆいが私に抱きついてくる重さも急に遠いものになってしまった。それでも翌朝に目が覚めると腰が軽い。パートから帰った夜、夕飯を二人分だけ作って食べる。寂しいとも思うけれど、あの慌ただしさから解放された気持ちの方が少しだけ大きかった。そのことに気づいた時、自分でも少し驚いた。

そんなある時、正尾の誕生日に床から小包みが届いた。宅配便の箱は丁寧に梱包されていて、外側に壊れ物のシールが貼ってある。開けてみると薄紙に包まれた陶器の置き物が出てきた。丸みのある落ち着いた色合いの鳥の置き物だ。一見しただけで、きちんと選んで買ったものだということが分かる。箱の底に封筒が入っていた。中には二枚の手紙だ。表には「お父さんへ」と書いてある。正尾は食卓でその手紙をゆっくりと読んだ。読み終えると、もう一度最初から読み返した。私は台所から様子を伺っていたが、彼の表情はいつもと変わらない。ただ目の動きだけが普段より少しだけ丁寧だった。「近況報告だ」何が書いてあったのかと聞くと正尾はそれだけ答えて封筒を折りたたんだ。それ以上語らない人だということは長年連れ添ってよくわかっている。詮索はしなかった。正尾はその置き物をリビングの棚の上に飾った。テレビの横でも窓際でもなく、部屋の中央から見てちょうど室内全体を見渡せる位置。なぜその場所を選んだのかは分からなかった。床からの贈り物だから大切にしてくれているのだろうとその時は思っていた。

床が贈り物をしてくれたことは素直に嬉しい。反抗期の頃の床は誕生日すら気にかけてくれない子だった。それがこうしてわざわざ選んで送ってくれた。手紙の文面は教えてくれなかったが、床なりの気持ちが込められているのだろう。そう思うと棚の上の置き物がなんだか温かいものに見えた。床は今どこで何をしているのだろう。彼女から送られてくるのはメッセージと花と今回のような贈り物だけ。詳しい近況はいつも教えてくれない。本来ならこちらから聞くべきなのだろう。棚の上の鳥の置き物を見るたびにそんなことを思った。

引っ越しをした翌月、優一家族が帰省してきた。思えば優一自身がこの家に来るのは本当に久しぶりだった。手土産まで持っての訪問。地元では有名な和菓子の箱で正尾の好きな羊羹が入っている。孫たちは玄関に入るなり走り出した。廉は真っ先に正尾のいる庭へ向かい、港は台所を覗いて「今日のご飯何?」と聞いてくる。ゆいは私の足元に抱きついたままなかなか離れなかった。久しぶりに訪れた三十分の賑やかさが一瞬でこの家の空気を変える。その瞬間だけは積み重なった疲れがどこかへ行く気がした。孫たちが庭に出て遊び始めると、優一はリビングのソファーに腰を落ち着ける。お茶を飲みながらしばらく他愛もない話をした。仕事の話、子供たちの話、近所の話。久しぶりに息子とゆっくり話せる時間だと思った。そのうち優一が少し声のトーンを落とした。「そういえば母さん、床から最近変な電話来てない?」床の名前が出てきたことにほんの少し身構える。「前に電話はあったけれど」そう答えると優一は眉を寄せた。「やっぱりそんな時期だと思ったんだよ」片手で頭を抱えて唸るようなポーズをする優一。「やっぱり」とはどういうことだろうか。優一は周りにみほや正尾がいないことを確認すると、声を潜めていった。「あいつ、父さんの金を狙ってるんだよ。絶対に。父さんも誕生日を迎えてもう七十五だろ。そろそろ今後の金のことを考える時期だから。床のやつ、借金でもして金に困ってるんじゃないかな」床から連絡が来始めたのは四年ほど前からだ。その頃といえば正尾も七十代に入り、今後のことを考え始めた頃でもあった。タイミングといえばタイミングである。「なんだか心配だな。俺たちが通帳を預かっておこうか。そっちの方が安心だろう」優一の言葉がしばらく頭の中で反響する。床が父のお金を狙っている。そんなことがあるだろうか。床がお金の管理のことを聞いてきたのも、優一のことをくどくど尋ねてきたのも確かだ。ただ通帳を預けるというのはさすがにと思う。お金の管理は正尾のことだ。私が勝手に決められることではない。「お父さんのお金だし、私には決められないから」そう答えると優一は少し不満な顔をした。視線が棚の上の置き物に向く。「また床、何か送ってきたの?あいつ何考えてるかわからないんだよな。父さんに似てるっていうか」優一は正尾が苦手だった。子供の頃からそうで、正尾が部屋に入ってくると優一は自然と声が小さくなる。多くを語らない父親の目がなんとなく怖いのだと昔本人が言っていた。その時も正尾が庭から戻ってくると、優一はそれを見計らうようにして帰り支度を始めた。

優一たちが帰った後、私はしばらくリビングに座っていた。床が正尾のお金を狙っている。その言葉が頭の中で繰り返された。信じたくはない。しかし床の電話のことを思い出すと、胸の中に小さな棘が刺さるような感覚がある。床は昔から欲しいものをはっきり言わない子だった。感情を表に出すことが少なくて、何を考えているのか分からないことも多かった。優一の言う通り正尾似なのだろう。そういう子だからこそ、反抗期の時もうまく向き合えなかったのかもしれない。床が何かを企んでいると言われると否定しきれない自分がいることが悔しかった。娘を疑いたくない気持ちと疑ってしまう気持ちが胸の中でぶつかり合っている。正尾は何も言わなかった。棚の上の置き物だけがそこにあった。

床から封筒が届いたのは十一月の終わり頃。表書きには私と正尾の名前が並んで書いてある。開封すると旅行券と一枚の便箋が入っていた。便箋にはこう書いてあった。「お父さんとお母さんの結婚三十周年に、二人で行ってきてください。色々と迷惑をかけたから、これくらいはさせてください」封筒を持ったまましばらく動けなかった。結婚三十周年。そういえば今年がちょうどその年だ。自分では気にしていなかったのに、床が覚えていてくれた。旅行券を見ると年に予約できる温泉宿のものだった。ホテルの写真も入っていて、大きな窓から海が見える部屋が写っている。日の朝、その窓から正尾と二人で初日を見る。そんな絵が自然と頭に浮かんだ。胸の奥にじわりと温かいものが広がる。床は遠慮がちで口数が少なくて、感情をあまり表に出さない子だった。その床がこんな形で気持ちを届けてくれた。便箋を何度も読み返した。「色々と迷惑をかけたから」という一文が目に止まる。あの子は今もあの頃のことを抱えているのだろうか。台所の窓から冬の空が見えた。雲が厚く灰色がかっている。こういう空の日は床が家にいた頃のことを思い出す。床は雨の日に縁側で一人ぼんやりと空を眺めている子だった。あの頃、隣に座ってやればよかったと今でも思う。嬉しさと申し訳なさと、それから今まで会いに行けなかった後ろめたさが一緒になって込み上げてきた。正尾に封筒を渡すと、彼は旅行券と便箋を順番に読んだ。「行こう」その言葉で私の心は決まった。

その夜、嬉しさのあまり優一に電話をかける。床が旅行券を送ってくれたこと。年に正尾と二人で行くつもりだということを話した。電話の向こうでしばらく間があった。「母さん、騙されてるんじゃないの?床がそんな大金を出すわけないよ。あいつ絶対に何か企んでる」優一の声のトーンは低かった。心配しているというより、何かを確かめるような響きがあった。電話を切った後、しばらく受話器を持ったまま立っていた。優一の言葉と床の手紙の文面が交互に頭の中を往来する。床が何かを企んでいる。本当にそうだろうか?床からの手紙はお世辞のような言葉が一切ない。飾り気のない短い文章だった。「迷惑をかけたから」という言葉は何度読み返してもまっすぐに届いてくる。あれが嘘の文章だとはどうしても思えなかった。床を信じたいという気持ちは確かにある。ただ優一の言葉も床の不自然な電話も頭の隅に残っていて、完全には消えてくれない。だが結局旅行の準備を進めることにした。正尾が「行こう」と言ったのだからそれでいい。

家の前に見知らぬ車が止まっているのに気づいたのはパートから帰った時だった。その日は鮮魚コーナーに入荷した食材の仕込みが多く、いつもより一時間遅い帰宅になった。夕方の五時にはもう空が暗くなる。自転車を漕ぎながら夕飯に何を作ろうかと考えていた。自宅の前まで来ると見慣れない車が止まっている。軽自動車のコンパクトカーで、エンジンはかかったまま。駐車場ではなく門の真正面に止まっていた。近所の来客かとも思ったが、玄関には明かりがない。近づこうとした時、車が動いた。急発進というほどではないが明らかに素早く、そのまま路地の向こうへ消えていく。運転席に人が乗っているのが見え、それが女性だということもかすかにわかった。しかしそれ以上のことは暗さもあって判別できなかった。家に入ると静まり返っていた。正尾は老人会の集まりで出かけており、まだ帰っていない。脱いだコートをハンガーにかけながらも、先ほどの車のことが頭を離れなかった。夕飯の支度をしながら正尾の帰りを待った。戻ってきた彼に車のことを話すと、しばらく考えるような素振りをした。「被害がないなら様子を見よう。次はないけどな」それ以上は何も言わなかった。

その夜、不安になった私は優一に連絡をした。正尾は反対したが、私は情報が欲しかったのだ。優一に車の特徴を伝える。軽自動車のコンパクトカーを女性が運転していたこと。「ああ、それ、床の車だよ。何か用があったんじゃないの?予鈴くらい押せばいいのにね」あっさりした返事だった。本当に床が家の前まで来ていたのだろうか。予鈴も押さずに急いで走り去ったのであれば不自然だ。何をしに来たのだろう。優一の言葉がまた蘇った。床が正尾のお金を狙っている。もしそれが本当なら、床はこの家の様子を確かめに来たのだろうか。私たちが留守かどうかを確認しに来たのだろうか。そんな考えが浮かんだ瞬間、頭を振って払拭する。娘に対してそんなことを考えてしまう自分が軽蔑に嫌になる。床がお金の心配をしていたこと。優一のことを必要に聞いてきたこと。旅行券を送ってきたこと。そして今日の車。それらが頭の中でゆっくりと繋がっていくような感覚があったけれど、どこかが合わない。その違和感の正体が私にはまだ掴めなかった。

優一に関する不安が拭えずにいるものの、みほが子供たちを連れて週三回家にやってくることはなくなり、腰の痛みが和らいでパートの朝が少し楽になった。孫たちに会えない寂しさはある。それでもあの慌ただしさが戻ってくることを思えば、今の静けさがありがたいと思う。そんな束の間の平穏が崩れたのは十二月に入ってからだ。金曜の夜、インターホンの音で立ち上がった。こんな時間に誰だろうと思いながらモニターを見ると、玄関の前に人影が複数ある。大人ではない。ドアを開けた瞬間、胸が冷えた。廉と港とゆいが三人だけで立っていた。コートを着ているが、ゆいの頬は赤く唇がかすかに震えている。

「え、みほさんは?お母さんは?」
「ママは仕事なの?車で行っちゃった」

廉が眉を下げて答えた。この時間から仕事。こんな気温の夜に子供を置き去りにしたというのか。考えることより先に体が動いた。三人を急いで家の中に入れる。ゆいを抱き上げると、薄いコートの下から伝わってくる体の冷たさに息が詰まった。みほに電話をかけた。呼び出し音だけが続いて繋がらない。メッセージを送って、正尾と二人で子供たちを温めた。港が「お腹空いた」と言ったので夜ご飯を人数分に作り直す。みほから返事が来たのは夜中の十二時を過ぎた頃だった。「夜勤の仕事が入りました。日曜の夜に迎えに行きます」それだけだった。謝罪の言葉も子供たちへの言葉も何もない。どうやら家の前まで車で来て子供たちを下ろすと、そのまま仕事に行ったらしい。

同じことがもう一度あった。二度目の金曜も三人が玄関前に立っていた。その夜のゆいは泣きながら震えていた。寒さと暗い夜に置き去りにされた不安と、その両方から来る震えだろう。この子たちに何の罪もないのにと思いながら抱きしめた。すぐに優一に電話をした。「どういうつもり?事前に言ってくれるならまだしも、こんな夜に」話している途中、電話の向こうで舌打ちに近い音がした。「あのさ、仕事なんだからしょうがないだろう。もう少し役に立てよ」言葉の最後に「ぶつっ」という音がして電話が切れる。スマホを持ったまましばらく動けなかった。この子はこんな言葉を使う人間だっただろうか。それともずっとこういう人間で、私が見えていなかっただけなのか。その問いの答えは出なかった。

優一の態度が変わったのはちょうどその頃からだ。ある日一人でこの家に来た。開口一番に出てきたのはこんな言葉だった。「二人とももうこんな大きな家に住む必要ないだろう。家賃五万のアパートで十分じゃない?」正尾から受け継いだ家だ。正尾がこの縁側で育ち、私たちが三十年を重ねてきた場所である。優一も床もこの家で育てた。「ちょっと待って。この家は思い出のある大切な家だから」「は?俺にはこんな家に思い出なんてないけど。さっさと引っ越せばいい。この家の処分は俺に任せてくれ」聞き間違いかと思った。この縁側でスイカを食べた夏も、この台所で誕生日ケーキを作った夜も、全部この家の中にある。その家に思い出がないと優一は笑いながら言った。黙って立ち尽くしていると、優一はソファーに深く腰かけて話を続ける。「あのさ、思い出もいいんだけど、あんたたちがいなくなった後に残される俺たちのことを考えたりしてる?もう先が長くないんだから、考えてもらわなきゃ困るんだけど」冷たいものが背筋を走った。息子の口から出た言葉を頭が整理するのを拒んでいた。台所にいる正尾の物音が途中から止まっていた。なおも黙っていると優一は続けた。「それと、子供たちのために新しい車買うんだ。五百万くらいどうにかならない?」五百万?家の処分。先が長くない。全部が一つの時間の中に詰め込まれていて、頭がついていかない。「無理よ。すぐに五百万だなんて」「うわ、使えないな。とりあえず考えとけよ」立ち上がりながらそう言って帰っていった。玄関が閉まった後も私はその場から動けない。正尾が台所から出てきて黙って隣に立ち、小さな声で呟いた。「嫌なことは旅行に行った時に浄化させてこよう」私はその通りだと思い頷いた。

旅行の出発まであと三日に迫った。床から送られた旅行のプランは年末年始を挟んだ四日間のもの。私たちは旅行前に家の大掃除を全て終わらせ、当日を待つことにした。正尾と一緒に旅行先のパンフレットを眺めていると私のスマホが鳴った。画面に「優一」と出た瞬間、指が一瞬止まる。嫌な予感がしたからだ。出ると優一の声は妙に明るい。「元気?あのさ、正月はそっちに帰省しようと思うんだけど」せっかくの申し出に悪いと思いながらも事情を伝える。「あのね、お正月はお父さんと旅行に行くのよ。床がプレゼントしてくれた旅行なのだから。ごめんね」できるだけ丁寧に伝えたつもりだ。しかし優一にはこちらの気持ちは届かなかった。「そんな旅行の日をずらせばいいじゃないか」簡単に言う優一に言葉を失う。優一も旅行好きであればこの事情を分かってくれると思ったのだが。「無理よ。ずらせない。宿の予約は正月に入っていて今更どうにもならない」「あのさ、息子が家族連れて帰省するんだよ。親なんだから子供の都合くらい合わせてよ」数年ぶりの帰省とあれば多少無理をしてでも歓迎したと思う。だが優一の家族は少し前まで週三回家に来ていたのだ。しかもつい最近は子供を家の前に置き去りにしている。「ごめんね。今回は無理よ。また年明けにでも来てちょうだい」そう言うと舌打ちと共にスマホが切れる。正尾に伝えると彼は「まあ、いつものことだ」とだけ言った。その夜はなかなか寝つけなかった。嫌な予感が胸の底にじっとりと居座っているのを感じていた。

旅行前日の夜、インターホンが鳴ったのは二十二時を過ぎた頃。ドアを開けると優一とみほが立っていた。その後ろに眠そうに目をこする孫たちが三人いた。「子供たちが二人に会いたいって言うから連れてきちゃった」悪びれた様子はまるでない。廉が「おばあちゃん」と言って抱きついてきた。その体は冷え切っている。この距離をこんな時間に子供たちを連れてくる理由が分からない。孫たちの顔を見ていると、どうしても追い返すことはできなかった。正尾が黙って客間の布団を引っ張り出し始める。旅行は諦めるしかないかもしれないと思いながら台所へ向かった。子供たちに温かいものを飲ませながら、翌朝床に連絡してキャンセルを伝えようと決める。正尾の背中からも複雑な感情が伝わってきた。

夜明け前に目が覚める。本来であれば旅行のために早起きをしていたはずだ。残念な気持ちが胸を締めつける。リビングに降りると優一とみほの姿がない。客間を覗くと孫たちだけが毛布をかけて眠っている。コンビニにでも行ったのかと思い、携帯で優一に電話をかけた。コールが数回鳴り優一に繋がった。電話の向こうから騒がしい雑音が聞こえる。「今空港。あんたたちの代わりに旅行行ってくる。だから孫はよろしく」背後に空港のアナウンスが聞こえた。その後優一とみほの笑い声と共に電話は切れる。貴重品を入れたバッグから旅行券が抜かれている。荷物に入れていたメモを盗られたのだと分かった。宿の名前もチェックインの日付も全部書いてあったのだ。年の朝、ホテルの窓から正尾と二人で初日を見るのを楽しみにしていた。床が選んでくれた宿で、結婚三十年の朝を迎えるはずだった。正尾がキッチンに来て、背中に手を置く。「床に連絡しておく」それだけ呟いて自分の部屋へ戻っていった。泣くのは後にしよう。孫たちが起きてくる前に朝ご飯を作らなければならない。子供たちに罪はないけれど、優一を信じることはできないかもしれなかった。卵を取り出した手が少し震えていた。

新年を迎えた二日の昼過ぎに優一とみほが戻ってきた。二人とも日焼けして上機嫌だ。玄関先で「いやあ、最高だった」という声が聞こえる。みほが「お部屋から見えた初日の出が綺麗でした」と続けた。土産は何もない。孫たちへの土産すらなかった。子供たちが「パパ、ママ」と駆け寄る。優一は駆け寄ってきた子供たちを面倒くさそうにあしらう。みほに関しては子供よりスマホに夢中だ。旅行先で撮った写真のチェックをしているらしい。「あ、そういえば子供たちにお年玉渡してくれた?」みほは当然のことのようにスマホから目を離さずにそう言った。お金を渡すのは親がいる時がいいと思って渡していなかった。「はい、どうぞ」三人にお年玉を手渡すと、優一とみほがすぐに子供たちから封筒を取り上げ中を確認する。そして感謝の言葉の代わりに思いもよらない言葉を投げつけてきた。

「あ、お年玉少な。その分しっかり働け。ま、今回の旅行ももらったし勘弁してやるよ。今時の子供はこんな金じゃ何もできないんだから」

二人でゲラゲラと笑い合った。孫たちも釣られて笑っている。きっと何も分かっていないのだろう。その笑い声が部屋中に広がっていた。子供たちを家の前に置き去りにした夜のことを思い出す。五百万を要求されたことも、先が長くないと言われたことも、楽しみにしていた旅行を奪われた日のことも、全部が今この笑い声の中に溶けているような気がした。

静かに座っていた正尾がゆっくりと立ち上がる。ダン。テーブルを叩く音が乾燥した冬の部屋に鋭く響いた。笑い声が途切れる。みほの顔から表情が消えた。優一が初めて正尾の顔をまともに見た。

「母さんに向かって、その口の聞き方は何だ」

部屋の温度が一瞬下がったような気がする。優一は一瞬怯んだが、すぐに口の端を上げた。「どうしたの?急に言ってる意味わからない。お年玉が少ないから、足りない分は働いて返してくださいって言ったんだよ。それが祖父母の務めだと思わない?」正尾は怒りを超えてどこか呆れているように見える。その目が優一の顔から離れない。その時、トントンと階段を降りてくる音がした。リビングのドアが開き、一人の人物が入ってきた。

「なんでお前がここにいるんだよ」

優一はその人物を見て明らかに動揺している。まるで会いたくなかった人間に会ってしまったような、そんなリアクションだ。

「お正月に帰省しちゃだめ?」

現れたのは床だ。彼女の声は静かだった。感情をむき出しにするのではなく、全てを見通しているような落ち着きがある。優一をまっすぐに見て続けた。「私がお父さんとお母さんにプレゼントした旅行だったんだけど、行けなくなったって聞いて急いでこっちに来たのよ。何やってんのよ、兄さん」優一の目に一瞬何かが走る。「お、お前、父さんたちを旅行に行かせて、その間にこの家に侵入しようとしただろう」床は眉一つ動かさなかった。「何それ?実家に来るのが侵入なの?それって、侵入したことがある人のセリフでしょ」一瞬の間があった。優一の表情がかつてなく揺れる。みほが優一の袖を引いた。私はその場で全てを理解し始めていた。家の前に止まっていた車も、正尾が床の手紙を読んで置き物をあの場所に飾ったことも。床がこの家に駆けつけてくれた。旅行に行けなくなった理由を話すと、すぐに年末に心配をかけてはいけないと思い、年が開けてから新年の挨拶のついでに話したのだ。到着してすぐ床は泣き出した。「お父さんとお母さんに行って欲しかったのに。兄さんのバカ」私はそんな床を抱きしめた。

子供たちが寝静まった後、親子三人でテーブルを囲んで話をする。しばらく会えなかった間のこと。床が今どんな生活をしているのかも。そして床は真剣な顔をした。「お父さんとお母さんに見て欲しいものがあるの」その時、積み上がってきたものの輪郭が初めてはっきりと見えた。リビングに静寂が落ちる。床に追い詰められた優一が額に油汗を浮かべていた。孫たちが大人たちの顔を交互に見ている。床は腕を組んだまま優一から目を離さなかった。私たちは息子夫婦にずっと利用されていた。そのことに今更になって気づかされたのだ。「私はもうあなたを信じない。私たちだけではなく子供たちも傷つけた。絶対に許さない」

リビングの空気が張り詰めていた。優一は腕を組んで床を見下ろし、床はまっすぐに優一を見返している。孫たちは隅に固まって大人たちの顔を順番に見ていた。正尾は私の隣で座ったままだ。その時、睨み合う優一と床の間に間抜けな声が割り込む。「それよりあなたさ、この子たちにちゃんとお年玉用意してきた?じゃないとマナー悪いわよ」空気を読まないというより、空気そのものが見えていないような声。床と優一の間に漂っていた緊張が一瞬だけ間抜けなものになる。私は思わずみほの顔を見た。本気でそれを言っているのだと分かって、何とも言えない気持ちになった。床は何も言わずに鞄から三枚のポチ袋を取り出して、廉、港、ゆいそれぞれに手渡した。孫たちが嬉しそうに受け取るより先に、みほが素早く封筒を一つ手に取り中を確認する。「うわ、千円だって?ありえない」甲高い笑い声がリビングに広がった。みほは見下すような表情で、なんだか嬉しそうに床に目をやる。「あなた、よっぽど貧乏な暮らししてるのね。だからお金を無心しに来たんだ」床は笑いもしなければ反論もしなかった。ただ黙って子供たちの顔を見ている。その落ち着きがみほの笑い声をどこか空ろなものにした。子供たちは状況がよくわからないらしく、ポチ袋を大事そうに握りしめたまま大人たちの顔を順番に眺める。廉だけが何かを感じ取ったように黙っていた。あの子は昔から空気を読む子だった。

それまで腰に押され気味だった優一が、ここにきて身を乗り出す。「お前さ、散々迷惑かけてきたくせに、父さんの遺産もらえると思うなよ。父さんだって金は孫のために残したいって思うだろう。お前は論外なんだよ」遺産という言葉で、優一がずっとそこを見ていたのだと改めて思わされる。正尾は座ったままゆっくりと湯飲みを持ち上げる。一口飲んで静かに置く。その動作に焦りも迷いも何もない。

床と話した時のことを思い出していた。「兄さんはきっとお父さんやお母さんに強く出ると思う。みほさんと一緒に。でも流されなくていいから。反撃の時は必ず来る。それまで待つの。こっちで準備しながら少し泳がせましょう」床はそう言った。私と正尾が床の言葉を信じることにしたのには理由がある。だから今はただ優一の罵声を聞いていればいい。そう分かっていても、優一の言葉を黙って聞き流すのは容易ではなかった。唇を噛んで、足の裏で床をしっかりと踏みしめる。優一は誰も何も言わないのを見て勝ち誇ったような顔をした。「ま、俺は長男だし。早いとこ引っ越しも考えてくれよ。さ、ちびも帰るぞ。今度はみほのじいちゃんとばあちゃんにお年玉もらいに行こう」そう言いながら腰を上げ、子供たちを促した。廉が「おばあちゃん、またね」と言って手を振る。その声だけが温かかった。玄関のドアが閉まった後、車のエンジン音が遠ざかっていく。テーブルの上には先ほどみほが確認した床のポチ袋が一枚、開けられたまま置かれている。そんなことは気にせず、床がゆっくりとソファーに腰を下ろした。「昨日の続きを話しましょう」私と正尾も向かいに座る。床の顔は昨夜と同じように静かだった。感情の起伏を見せない顔だが、その奥に確かな意志があることは長年の間柄でわかる。あの頃の反抗的な目とはまるで違う。自立した一人の女性の目だった。

床が話してくれたのは今後の流れについてだ。「正月休みの終わりと同時にすぐに動き出さなければ。私は証拠をまとめるから、お父さんたちは手続きを進めて。兄さんはこれからもお金の無心をしたり、子供を預けたりすると思う」正尾は聞きながら一度だけ頷いた。その頷きに全てが込められているような気がする。彼がいつどのくらいのことを床と共有していたのか、私にはまだわからない。ただ正尾が「大丈夫だ」と思っているのはその背中から伝わってきた。「お父さんとお母さんはいつも通りにしていて、兄さんに変わった素振りは見せないで」頷いた。息子を欺くことに多少の後ろめたさはあるが、私には守らなければいけないものがある。正尾のお金、これからの生活、そして可愛い孫たち。夕方、床が帰るのを見送りながら、正尾が床の名前を呼んだ。「床、ありがとうな」「うん。また来る」床は少し目を細めて笑った。その表情が縁側でぼんやり空を眺めていたあの表情と重なる。あの時の床が今こうして戻ってきてくれた。

その夜、正尾と二人で夕飯を食べた。テレビもつけず静かな食卓。正尾が味噌汁を飲みながら「うまい」と言った。それだけで心が満たされた夜だった。

それからまた息子夫婦が週末ごとに子供たちを預けるようになる。何度言っても、その預け方に問題があった。金曜の夜九時頃になるインターホン。玄関の前には決まって子供たち三人だけが立っている。冬の寒さに震えながら。私たちは「いつも通りに」という床の言葉を守り、子供たちを家に迎え入れる。同時に優一への抗議も怠らない。「優一、事前に連絡をちょうだいって言ってるでしょ」「出張は突然決まるから事前連絡できないんだって。それくらい理解しろよ。今移動中だから電話切る。じゃ、日曜の夜までよろしく」仕事なのは仕方ないと思う。しかしみほもその出張について行くという意味が分からない。幼い子供の世話よりも、夫の出張に同行することの方が大事なのだろうか。ただ子供たちには全く罪はない。ご飯を作って、風呂に入れ、温かい布団で寝かせる。正尾も何も言わずに孫たちの相手をしていた。

子供たちは相変わらず元気だ。廉は学校の話を聞かせてくれる。港は正尾の畑を手伝いたがって、長靴を泥だらけにして帰ってくる。ゆいは言葉が増えて、今では「おばあちゃん大好き」と言えるようになっていた。その言葉を聞くたびに胸が暖かくなるのと同時に切なくもなる。この子たちを道具のように使う親に対して、怒りを通り越して何も言えなくなってしまう。

何度言っても金曜の夜に子供を置き去りにすることをやめない優一たち。私は優一だけではなくみほにも電話をした。すると彼女は電話の向こうで笑いながら言い放った。「だって事前に言ったら断るじゃないですか。だから強行突破したんです。子供に何かあったら、あなたたちのせいなので」少しも悪びれていないみほの様子に呆れることしかできない。そのまま数週間が過ぎた頃、優一から宣言が来た。「来月、出張で一週間留守にするから、子供たちよろしく。事前に言ってって言われたから連絡した。これでいいんだろ」電話口であっさりとそう言った。一週間、廉は学校があり、港とゆいは保育園だ。毎朝送り出して夕方に迎えに行く。それを七日間続けることになる。七十歳の体にそれがどれほどのことか。おそらく私たちに苦労させることも、優一の目的の一部なのだろう。

翌月になると前言通り子供たちがやってきた。廉はランドセルを背負っている。いつもより重そうで、中を確認すると教科書と副教材が全部入っていた。一週間分の着替えも一緒に詰められていて、ランドセルはパンパンに膨らんでいる。港とゆいは保育園の道具を詰めた大きな袋を持って玄関先に並んでいた。三人の荷物を受け取りながら、この光景が当たり前になっていることに怒りを覚える。「今回も私は出張についていくので」みほはそう言って一緒に車に乗り込む。ふとみほが助手席の窓を開けて、思い出したように言った。「明日、廉の学校の教材費も払わなくちゃだから、それもお願いしますね」笑顔のまま言って窓を閉める。すなわち私に払っておけと言っているのだ。私たちの感情を置き去りにして優一の車は去っていった。その直後、スマホに優一からメッセージが届いた。「ついでに今月の家賃も払っといて。忙しくて暇がないんだ」続けて「あと、子供のリュックの中にも入ってるから」と届く。港のリュックを開けると折りたたまれた封筒が入っていた。取り出して広げると大量の光熱費の請求書だった。電気代、ガス代、水道代。数ヶ月分が乱雑に押し込まれている。子供のリュックに光熱費の請求書を忍ばせて、何も言わずに置いていく。悪意しか感じられない。床の話を聞くまでは、素直に払っていたと思う。しかし今は違う。息子夫婦の本性を知ってしまったから。私の隣に正尾が来て請求書を手に取った。彼は何も言わず封筒をテーブルの上に置く。その手がかすかに硬かった。私は「分かった」とメッセージを返した。同時に「いよいよだ」と思った。床の言葉が頭の中で蘇える。「反撃の時は必ず来る。それまで待つの」あの時からずっと待っていた。今度こそ作戦決行だ。

優一が出張に出てから一週間が過ぎた。連絡はなかった。子供たちについては学校と保育園それぞれに連絡をし、事情を話して休ませると伝えた。さすがに片道四時間かかる場所へ毎日送迎するのは無理がある。相手方は初め難色を見せたが、子供たちを電話口に出して直接話すことで納得してもらえた。廉は先生から伝えられた授業内容を正尾と一緒に進め、港は庭で虫を探し、ゆいは工作をしたり私の膝の上でお昼寝をしたりする。三人の小さな日常を回しながら、私は優一からの連絡を待った。二週間が過ぎてもメッセージの返事一つ来ない。その事実が子供たちを傷つけないかどうか、布団の中でずっと考えた。

三週間目に入った日曜日、ようやく優一からメッセージが来た。「出張が長引いてまだしばらくかかりそう。引き続きよろしく」子供たちへの言葉も私たちへの謝罪も何もない。まるで荷物の預かり所に送るような文面だった。正尾にそのメッセージを見せると、彼は画面を一瞥してスマホを置いた。何も言わなかったが、その目に怒りが宿っているのは分かる。言葉にしない怒りというのは、時に声より重い。

三週間が経過する頃、息子夫婦がようやくこの家にやってきた。インターホンが鳴った時、私は台所にいた。正尾がドアを開けて二人を中に入れる。「どうぞ」という声だけが聞こえた。リビングに入ってきた優一とみほは異変に気づいたようだ。部屋の中にはソファーだけが残されていて、他は何もない。棚もテレビ台も食器棚も消えている。壁にかかっていた時計も花瓶も、正尾が選んで飾っていた置き物も。ガランとした空間に二人の足音だけが響いた。

「何これ?」

私はソファーに腰を下ろして冷静に答える。「引っ越すことにしたのよ」優一の目が大きくなった。次の瞬間、口の端が上がる。みほも顔を見合わせて、何かを確認するような視線を交わす。「ついに決心したか。で、この家、いくらで売れた?」期待に満ちた声でまず金額を聞いてきた。「場所も状態も良かったから、五千万で売れたわ」事実を告げる。優一の表情が露骨に変わった。みほも口元を緩める。五千万という数字が二人の頭の中で何かを計算させているのが、表情から伝わってきた。「うん。うん。五千万か。古い家なのに結構高く売れたな」そう言いながら優一が小さくガッツポーズしている。正尾はその二人を黙ったまま厳しい目で見ていた。その時、みほがふと気づいたように周囲を見回す。「あれ?子供たちは?」子供たちの名前が出た。正直「今更か」というのが感想だ。帰ってきてまず口にすべきは子供のことだろう。それよりも家がいくらで売れたかの方が気になっている。この二人にとって子供たちは便利な時だけ手元に置く存在なのだと、もう分かっていた。怒りより先に哀れみ。そして子供たちへの申し訳なさがあった。もっと早く気づいてやれていたらと。「今は床が預かっているわ」みほの眉がぴくりと動く。床という名前が気に入らなかったのか。それとも自分の管理にない状況が気に入らなかったのか。どちらにしても子供を心配している顔ではなかった。自分の思い通りにならないことへの苛立ちが、その眉の動きに出ている。「あの人に子供の世話ができるの?何かあったら承知しないわよ」声が荒くなる。子供を無責任に預けておいて「承知しない」というのも理不尽だ。

その時、リビングのドアが開き、ゆっくりと床が入ってきた。「承知しないのは、子供たちが大事な金づるだからですか」冷静で芯のある声だった。みほの顔が固まる。優一が「なんだと」と低い声を出す。床は二人を見渡してから、落ち着いた口調で続けた。「子供たちは今、児童相談所にいます。しばらくは会えませんよ」一瞬の沈黙があった。その間、みほの表情がめまぐるしく動く。驚き、困惑、そして次第に怒りへと変わっていった。児童相談所という言葉の意味を処理しているのだろう。やがて弾けるように声が出た。「はあ?」甲高い声がガランとした部屋に響く。子供たちへの心配ではなく、自分の計画が崩れたことへの動揺だ。「児童虐待の押し付けと、今回の三週間の放置。育児放棄に該当すると判断されました」「そんなんじゃないってば。子供を返して」その言葉を待っていたかのように、床はタブレットを取り出す。画面を操作して音声を流した。スピーカーから聞こえてきた声はみほのものだった。「子供なんて少しも可愛くないわね。早く大きくなって働いて養ってもらいたいわ」その声がスピーカーから流れた瞬間、部屋の中の空気が変わった。凍りついたというより、何かが抜け落ちたような静けさだ。音声の中のみほの声は笑いながらそう言っている。続けて優一の声が流れた。「でかくなるまで母さんに面倒を見させればいいんだよ。この間、俺たちはゆっくり楽しもうぜ」みほの顔が赤から白へと変わっていった。優一は口を引き結んで床を睨んでいる。「この家の前に子供たちを置き去りにした映像も残っています。金曜の夜、暗い中で三人が玄関前に立っていたあの夜の映像です」「ふん。だから何よ。施設にいるなら都合がいいわ。手間かからなくて」その言葉が胸に鋭く刺さった。彼女は子供たちのことを本当に何とも思っていないのかもしれない。そう気づいた時の冷たさは、怒りとも悲しみとも違う種類のものだった。「ちなみに、施設にいる間は児童手当は支給されませんよ」その瞬間、みほの顔つきが変わった。先ほどまでの怒りとはまた違う種類の動揺だった。児童虐待、育児放棄。そういった言葉には顔色を変えなかったみほが、児童手当という単語にだけはっきりと反応した。「はあ?それは困るわ。もらえるのが保護者の権利でしょ」「あくまで、ちゃんと育児をしている人への権利ですが」みほの顔が真っ赤になる。言葉を探しているようで何も出てこない様子だった。彼らにとって何が一番大切なのかが、その反応一つで分かってしまう。優一も腕を組んだまま視線を床に落としている。その視線がわずかに動いていた。動揺を隠しきれていない。その小さな仕草を私は見逃さなかった。

その時、優一が声をあげた。「おい、こんな音声、どこで撮った?プライバシーの侵害だ。犯罪だろ?」床は表情を変えずに説明する。「両親を心配してカメラや録音機を設置することが何か悪いの?お父さんには承諾済みだから。この家の家主だものね」正尾が静かに頷いた。優一が留守の間、聞かされた真実がある。それは私がずっと知らなかったことだった。正尾は床とずっと連絡を取り合っていたのだという。床が家を出てからずっと。反抗期に迷惑をかけたことを悔いていた床が、時間をかけてでも関係を修復したいと正尾に相談してきたのだという。それが床から連絡が来るようになった四年ほど前らしい。正尾はそのことを私には黙っていた。その話を聞いた時、胸の奥で何かが溶けていくような感覚があった。少しでも床を疑った自分が恥ずかしかった。そのことを床に打ち明けると、彼女は泣き出しそうな笑顔で「それは当然のこと」と言った。

「以前、お母さんが家の前で見た車、みほさんの車ですよね」みほが息を飲む音が聞こえた。床が証拠写真を広げる。見覚えのある軽のコンパクトカーが映っていて、ナンバーが確認できる。次の写真には同じ車が別の場所に止まっている。スーパーの駐車場で、運転席から降りてくるみほの姿があった。「そんな写真、どこで?」「おかげ様で顔は広いんです。交番の知り合いもいてね。実家の前に不審な車が止まっていると聞いたら、調べるのが家族でしょ。人を勝手に犯人に仕立て上げようとするのは危険な行為だから」その言葉は、「床の車だ」と断言した優一への指摘でもある。優一は目をそらした。「この家に忍び込んだのも一回や二回じゃないですよね。時には兄さんと二人で来ている。何をしていたんですか?」「息子が実家に来て、家に入って何が悪い?」「それなら事前に伝えたら?一緒に住んでいないんだから、お父さんたちの判断によっては犯罪よ。それに何も盗んでないにしても、目的があったんでしょ。お父さんの資産状況を確認したかったとか」優一の体がわずかに震えた。「答えないなら、見てもらいましょう」床がテレビのリモコンを手に取り電源を入れた。繋がれたタブレットの画面がテレビに映し出された。このリビングの映像だった。昼間の誰もいない部屋。優一とみほの二人が入ってくる。みほが引き出しを開け、優一が棚を漁っている。やがて優一が通帳を取り出して広げた。優一の声が部屋に流れた。「あった。これが父さんの通帳だ。へえ。結構な金額溜め込んでるんだなあ」みほの声が続く。「これなら結構贅沢な世界一周旅行もできそうね。子供は預けちゃってさ。それにしても優一、お母さんから随分信用されてるのね。こんなにひどい息子なのに」画面の中のみほは、実家の財産を眺めながら旅行の計画を立てている。その隣で優一も笑っている。「母さんはちょろいからな。俺は子供の頃から計算してたんだよ。父さんは稼ぎがいいの知ってたし、うまく取り入れば遺産は全部手に入るってね。妹だっているじゃないか。あいつには『お前は母さんに嫌われてる』って吹き込んだんだよ。そしたら案の定、反抗期に突入してくれて。両親の信用は全部俺のものさ」画面の外で床がそっと目を伏せる。その横顔に、今まで見たことのない表情があった。長い時間をかけてようやくたどり着いた、諦めに似た表情。床の反抗期の時期に、こんな背景があったとは知らなかった。ドアの前で声をかけられなかったあの夜のことが、また頭をよぎる。「うわ、悪い息子。でもおかげで大金が手に入りそう」「ああ、早く行ってくれないかな?時間の問題だよ。孫の世話をさせたら寿命も減るって言うだろ。どんどん押し付けようぜ」床がリモコンを操作して映像を止めた。静寂が部屋を満たす。私はテレビ画面を見つめたまま動けなかった。先日、床からこの音声を聞かされた夜は涙が止まらなかった。今はもう泣かない。子供たちを遊びに連れてきてくれていた頃から、もうすでに計算されていたのだ。優一の笑顔も、「また頼むな」という言葉も。全部その計算の上にあった。自分の娘を疑い、息子を信じ続けてきた私。その長い時間の重さが今になってずっしりとのしかかってくるけれど、もう迷いはなかった。

優一が苛立った声で吐き出した。「余計なことしやがって」私にはどうしても優一に聞いておきたいことがあった。映像の中の彼の顔を思い浮かべながら口を開く。「優一、聞いてもいい?どうしてそんなに昔から私たちを恨んでたの?」優一は少し黙った後、吐き捨てるように言った。「家に友達を連れてきた時に笑われたんだよ。『あれ、お前のばあちゃん?』って。それから俺は学校でからかわれるようになった。どうして自分の親だけこんなに年寄りなんだって、ずっと思ってた」その言葉を聞いて、優一に謝らなければと思った。この子にそんな思いをさせてしまったのかと。喉まで言葉が出かかった、その時。「お母さん、待って」床の声が私を引き止める。「また兄さんに騙される」床は続けた。「兄さん、それは違うわよね。取ってつけたようなこと言って、母さんを翻弄させないで」床は真実を話してくれた。「優等生だった兄さんは、生ぬるい学校生活に退屈してたのよ。それでスリルある遊びを楽しみ始めた。そうでしょ」優一はいい子の仮面をかぶりながら、ずっと私の財布から少しずつお金を抜いていた。同じ優等生の友人たちと「親の金を誰が一番多く持ち出せるか」を競い合っていたという。床は一度その現場を目撃していた。しかし当時は反抗期の真っただ中で、私に話すことができなかったのだ。「ち、覚えてたのかよ」「その時の癖が抜けないみたいね。今でも同じことして、お父さんたちのお金を誰よりも多く奪おうとしている」正尾は優一の不可解な行動にずっと気づいていたらしい。バイトもしていない学生の頃から小遣い以上の金を持ち、社会人になってからは頻繁に旅行へ出かける彼をずっと見ていたという。しかし現場を見たわけではない。確信がないまま息子を疑うわけにいかなかったのだ。罪悪感は薄れた。謝ろうとした自分が少し滑稽に思えてしまう。

「あのなあ、家の金を持ち出しても俺は罪にはならないんだ。親族相盗例って知ってるだろ。だから罪じゃない」余裕のある声だ。みほも頷いている。「いずれにしても俺には遺産が入る。どうしたって息子だからな。それに俺がどうのより、孫が可愛いだろう。俺たちをないがしろにすると、孫が可哀想な思いするぞ」まるで脅しだ。孫の名前を最後の盾に使う。この後に及んでまだそれをやるのかと私は呆れていた。床の口元にかすかに笑みが浮かんだ。「そうね。子供たちが兄さんのジョーカーってわけね。じゃあ、こっちもその切り札についてお話ししましょうか」それが合図だった。正尾が立ち上がり、私の隣に来て腕を組む。二人でここまで来た。あとは床に任せるだけだ。しばらく誰も何も言葉を発さなかった。優一とみほの顔にはまだ勝利の色が残っている。その余裕が消える瞬間がすぐそこまで来ていた。床が静かに口を開く。「まず、遺産の話をしましょうか」優一がようやく「かかってこい」とでも言うように背もたれに深く寄りかかる。みほもそわそわと落ち着きがない。その顔に期待が滲んでいた。「ちなみに、私はすでに相続を放棄しています」優一の口元が緩んだ。「まあそうだよな。お前に遺産なんて来るわけないよな。遺産放棄は賢明な判断だ。お前にしてはよくやったと思うぞ」「私は遺産が欲しくてここにいるわけじゃない。それだけは言っておきたかった」床の目を見れば分かる。その言葉に嘘はない。お金のためではなく、私たちのためにここにいるのだと。そのことが胸に染みた。優一が畳みかけるように言い放つ。「最初からお前がもらえるわけないんだよ。散々迷惑かけて家を飛び出して。俺は孫まで作ってやったんだからな。遺産は全部俺のものだ」高笑いする優一の横で、みほが便乗するように頷いている。自分たちへの遺産が確定したと思い込んでいる顔だった。

「兄さんも、もらえないわ」
「は?何言ってんの?俺は息子、お前は遺産放棄。言ってる意味わかる?」

笑いながら言う優一は、自分が有利だと思っている。床が何を言っても長男という立場が全てを上回ると信じている顔だった。床は急ぐことも慌てることもなく、ただ次の言葉を準備していた。「お父さんとお母さんの財産は、民事信託の手続きが完了しています」優一の眉が寄った。信託という言葉を聞いたことはあるのだろう。それが自分に直接関係してくるとは思っていなかった顔だ。余裕の笑みが少しだけ引く。代わりに浮かんできたのは鋭い目だった。まずい話になるかもしれないという警戒心からだろう。「信託というのは、財産の管理と使い道をあらかじめ決めておく法的な仕組みのこと。お父さんとお母さんの財産は、受託者である私が管理しています。兄さんもみほさんも、その財産を勝手に引き出すことはできません」「なんでそれが許されんだよ」「お父さんが望んだから。この財産は廉君たち孫三人の教育と生活のためだけに使われるよう、契約で定めてある。兄さんやみほさんが受け取れる状況はどこにもないんです」言葉の意味が少しずつ優一に伝わっていくのが分かった。顔色が変わっていく。「それだけじゃない」床はこれまでで一番、言葉を強めた。ずっと冷静だった床を怒らせた優一たちの罪。「兄さんの今までの行為。両親への精神的苦痛、不法侵入、財産の調査。これらは相続排除の申し立て要件に該当する可能性があります。家庭裁判所に申し立てれば、法定相続人の資格そのものを失わせることができる」床の声は落ち着いているけれど、長い時間をかけて積み上げてきた怒りがあることを、私は感じ取っていた。私を「ちょろい」と笑い、子供を道具にして自分の反抗期まで仕組んだ兄への怒り。それを床は声を荒げることなく、法律という言葉に変換して叩きつけている。感情をむき出しにするよりずっと恐ろしい怒り方だと思った。

法律を出され、急にみほが震え出した。「え、何それ、そんなこと?」「すでに弁護士と相談済みです。申し立てるかどうかは、これからの兄さんの行動次第よ」あれほど饒舌だったのに、優一は言葉を失っている。やがて絞り出すように言った。「じゃあ、家を売った五千万は。それはもらうと当然だろう」床の言った通りだ。これまでの遺産がダメなら、家を売却した金に狙いを定める。優一はどこまでも金の算段に執着している。「ああ、言い忘れてたわ。私たちの引っ越し先は特別養護老人ホームなの。入居費用と今後の生活費でほとんど消えるわ。もう手元にお金はないわよ」「はあ?何それ?老後パートじゃないの?」二人の顔がみるみる歪んでいく。五千万が消えた。遺産も消えた。これほど分かりやすく動揺する人間を、私は見たことがなかった。優一が立ち上がりかけた。「もういい。お前たちの金がなくても俺には稼ぎがある。もう関わらなくていい。贅沢できなくなるのはお前たちだ」「子供もそっちで勝手にやって。もう子育てする気分じゃないから」その言葉は私の胸を鋭く刺した。「子育てに気分」という言葉を使ったみほ。怒りと同時に孫たちのことが頭に浮かんだ。優一とみほがその場から離れようとした。その時「ちょっと待って。まだ話は終わっていないの」床の声が二人を引き止める。感情的になっているわけではないが、その目は真剣だった。幼い頃から同じ家で育ち、同じ食卓を囲み、同じ両親に育てられた優一を見る床。その目の中に憎しみは感じられない。あるとすれば、長い時間をかけてようやくたどり着いた確かな覚悟である。「兄さん、今まで通りに仕事ができると思ってる?」優一は鼻で笑った。「今の会社なんて俺で持ってるようなもんだ。無能な上司しかいないしな。俺がいなきゃ回らないんだよ」「本当にそう思ってる?」その問いかけの意味が私にはすぐに分かった。廊下から足音が聞こえてきた。揺るぎない落ち着いた足音。リビングのドアが開く。スーツを着た男性が部屋に入ってきた。優一の顔がまたたく間に変わる。

「え、橋本部長、どうしてここに?」

分かりやすく狼狽える優一を見据えて、男性は明確に答えた。「妻に呼ばれてね」優一の視線が床に飛んだ。床は静かに微笑んでいる。「私、公認会計士の仕事をしているんだけど、その縁で知り合ったの。年は離れているけど、この人が好きになってしまった。三年前に結婚したのよ」優一が声を出せずにいる間に、床は続けた。「主人に届け物をした時に、会社で兄さんを見た。その時は本当に驚いた。床がお父さんとお母さんのことを聞いていたからね。『田中君は出張が多い』とも聞いていたけど、私の部署では出張をほとんど承認していない。お父さんから『優一は出張が多い』と聞かされていたから、確認してもらったの」隣に立つ正尾の横顔を見た。彼は優一を見たまま表情を動かさない。私の財布から金を抜く優一の行動に気づいていた正尾だ。この件についても何かしら違和感を覚えていたに違いない。だから床に相談したのだろう。

「調べてみると、出張の大半が架空だった。経理担当の社員と内通して、実態のない出張費を処理させていたようだね。総額にすると、かなりの金額になるんだが」優一がゆっくりと座り直した。先ほどまでの強がりが、砂のように崩れていく。「これがどういうことか、理解できるな」優一は何も言葉が出せない。みほが優一の袖を引いたが、彼は動かない。「会社として正式に調査を行う。横領に該当する可能性がある以上、しかるべき対応を取る。懲戒処分と損害賠償請求は避けられない。内通した社員についても同様の手続きを進める」さらに橋本さんは続けた。「解雇とはならないが、今の部署に置くことはできない。移動先については会社が判断する」その意味をどう受け取ったのか。優一の呆然とした顔が答えの代わりだった。「床、そろそろ戻るよ」「わざわざ来てくれてありがとう」橋本さんは正尾と私に向かって深く頭を下げた。この場の流れとは全く切り離した丁寧な一礼。妻の両親への挨拶としてあるべき姿がそこにある。表情は穏やかで、私たちへの敬意がその目に宿っていた。「お父さん、お母さん、改めてご挨拶に伺います。今日はこのような場で失礼しました」それだけ言って、彼は連れ添って部屋を出る。足音が遠ざかり、玄関のドアが閉まる音がした。優一はその背中をずっと目で追っていた。部長が床の夫だったという事実が、まだ頭の中で処理しきれていないのだろう。口が半開きのまま動けずにいる。これほど完璧に言葉を失った優一を、私は初めて見た。

リビングに沈黙が戻る。しばらくの間、誰も動かなかった。優一は椅子に座ったまま床を見ていた。みほは唇を噛んで視線を彷後わせている。あれほど豪語で強気だった二人が、今は言葉を持っていなかった。やがて優一が思い出したように口を開いた。「そ、そうだ。子供がいれば金が入る。児童手当が入る。父さんの金も子供のために使われるんだろ。なら子供たちを取り戻せばいい」みほが顔を上げた。「そうよ。あの子たちは私たちの子供よ。返してもらう」その瞬間、私の中で何かが決定づいた。怒りでも悲しみでもない、もっと深いところにある確かな何か。「ねえ、優一、みほさん」二人が私を見る。「ずっと孫たちを預かっていて気づいたことがあるんだけど、あの子たちはママに会いたいって言わないのよ。パパと遊びたいって言わないの。あんなに小さい子たちが、一度も」部屋が静まり返った。「子供って恋しがるものでしょ。これがないってことが、どういうことか分かる?」優一とみほは黙った。その表情に答えが出ている。床がスマホを取り出してどこかに電話をかけた。少し間が合ってから、床の声が柔らかくなる。「もしもし、廉君。うん。床姉ちゃんだよ。元気?」「今ね、パパとママがいるんだけど。お話する?」電話の向こうで何か聞こえた。床の表情がかすかに揺れた。しばらく会って、床が「分かった」とだけ言って電話を切った。「廉君は『別に話したくない』だそうです。その代わり『おばあちゃんのご飯が食べたい』って」その瞬間、優一の目から涙がこぼれ落ちた。これだけのことが積み重なって、それでもまだ逆転の目を探そうとしていた男が、初めて手詰まりになった瞬間である。みほは唇を噛んで視線を床に落としている。子供が懐いていないという事実は、金銭的な損失とは別の場所に刺さったのかもしれない。それともただ計算が崩れたことへの動揺なのか。優一が崩れるように頭を抱えた。みほの目から涙がこぼれた。何のための涙なのかは分からない。子供を想っての涙なのか、失ったものへの涙なのか。どちらにしても、もう私には関係のないことだ。私は立ち上がってソファーを見る。「このソファーも処分するからさ、出ていってちょうだい」二人はしばらく動かなかった。それでもやがてゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かう。何も言わずに靴を履いてドアを開けた。振り返りはしなかった。ドアが閉まった。エンジン音が聞こえて、やがて遠ざかる。正尾が私の隣に来た。二人でしばらくその静けさの中にいた。床が私の肩にそっと手を置く。この家で過ごした長い時間が、今ここで終わる。でもそれは失うことではない。正尾と床と孫たちと、これから始まるものへの確かな出発だ。窓の外に春の光が差し込んでいた。

あの日から数週間が経過した。床から順番に聞かされた結末は、どれも確実なものだった。会社の正式調査は思ったより早く結論が出た。優一の架空出張は在職中の数年間にわたって繰り返されていたという。経理担当の社員と組んで処理していた不正な出張費は、総額で数百万円に上った。子供たちを預けながら出かけていた旅行も、会社の経費として申請されたものが大半だった。あの夏休みの間も、あの正月の旅行も、全てである。床からその話を聞いた時、怒りより先に虚しさが来た。会社からは懲戒処分と損害賠償請求が正式に通知されたらしい。内通した経理担当の社員も、同様の処分を受けたという。そして移動先が決まった。離島にある小さな支社だった。本土から船で数時間かかる場所で、観光客もほとんど訪れない島だという。近くに観光地もなく、週末に出かけられる場所もない。旅行を愛し、どこへでも自由に飛び出してきた男が、今度は逃げ場のない場所に縛られることになった。橋本から「景色のいい場所です」と本人には伝えましたと聞いた時、床が小さく笑った。その笑いの意味を、私は十分に理解している。結局彼らの手元にはほぼ何も残らなかった。遺産もゼロ、家の売却金もゼロ。あれほど執着していた全てがこぼれ落ちていった。なお、床を通じて優一とみほに伝えたことがある。私たちからの請求は一切しない。その代わり二度と私たちの前に現れないこと。床が書面を用意して、二人はそれに署名した。

一方で子供たちは児童相談所での生活が続いている。育児放棄の認定は思ったより重い影響を優一とみほに与えた。親権の停止手続きが進められ、当面の間は二人が子供たちに会うことも制限される。廉と港とゆいは、今もあの場所にいる。床が定期的に面会に行っているという。私たちも順番に見て会いに行こうと思っている。子供たちに罪はない。いつかあの子たちが穏やかな場所で笑える日が来ることを、ただ静かに祈っている。

春になって、私と正尾は施設での新しい生活を始めた。部屋は小さいが、窓から桜の木が見える。毎朝その木を眺めながらお茶を飲むのが、今の習慣になった。正尾は施設の庭で他の入居者と一緒に畑の手入れをしている。畑仕事で鍛えた手が、ここでも役に立っているらしい。床が月に一度顔を見せに来る。橋本さんも一緒に来ることがあって、その度に正尾と将棋を指している。二人が盤を挟んで向き合う様子を、私は廊下から眺める。なんでもない景色だが、いつまでも見ていられる気がした。

先日、床から小さな包みが届いた。開けると陶器の小鳥の置き物が入っていた。前のものと似た丸みのある形だ。「新しい部屋にも飾って」と短い手紙が添えてあった。窓際の棚にそっと置く。春の光の中で、小鳥は静かにそこにいた。今ここにあるもの。長い時間をかけて、ようやく手に入れた本当の幸せだと気づいた。

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